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ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』※ネタバレあり

 韓国の鬼才、ポンジュノ監督の新作『パラサイト 半地下の家族』を観た。

 

映画『パラサイト 半地下の家族』オフィシャルサイトwww.parasite-mv.jp

 

 ポン・ジュノ監督作品はそんなに観たことがなく、『グエムル』と『スノーピアサー』ぐらい。どちらも韓国特有の格差社会の問題を戯画的に描いた作品だった。当時これらの作品を見たときはあまり個人的には響かなかったと記憶しているが、今作は大傑作だった。パルムドールだけでなく、各国の映画賞をかっさらっているのも肯ける出来である。アカデミー作品賞にもノミネートされたらしい。

 すでに各所の記事で指摘されている通り、昨今話題に上がる映画は、資本主義の行き詰まりや格差社会というテーマを描いた作品が多い。例えば、ケン・ローチ『家族を想うとき』、トッド・フィリップス『ジョーカー』、そして是枝裕和万引き家族』などである。そして、今作『パラサイト』もそれらの系譜に位置づけられるのだろう。絶望的なまでに開いた格差を映画的技巧で巧みに表現しながら、それでいて階級社会のリアルを描ききっている。少し早とちりではあるが、間違いなく今年のベストに食い込むであろう傑作である。

 

 少し長いが、今作のストーリーラインを確認しておこう。

 物語は、韓国の「半地下」に暮らす四人家族が身分を偽り、丘の上に暮らす富裕層の家(パク社長一家)に勤務(パラサイト)するところから始まる。半地下の家族はそれぞれの長所(兄ギウ→英語、妹ギジョン→美術、父ギテク→ドライバー、母チョンソク→家事)を生かし、もともといた住み込みの家政婦ムングァンを追い出して、巧みに富裕層家族に取り入っていく。

 そして、ある日、パク社長一家が旅行で家を空けた隙を見て居間でくつろいでいた半地下家族のもとに、追い出したはずのムングァンが戻ってくる。「地下に忘れ物をした」と告げる彼女を仕方なく家の中に入れるが、何か様子がおかしい。ムングァンの後を追い、恐る恐る地下に降りていった家族が見たものは、その家政婦の夫と、地下に広がる生活空間だった。

 ムングァンは半地下の家族の正体を知り、それをパク社長一家に伝えようとケータイで証拠の動画を撮るが、今度はそれを阻止しようとする半地下家族ともみくちゃの喧嘩になる。さらに、そこに旅行に出かけたはずのパク社長一家が、嵐のため家に帰ってくるという電話が入る。ムングァンとその夫を地下に閉じ込め、隙を見て社長宅を脱出して家族は何とか難を逃れる。

 次の日、事情を知らないパク社長一家は、庭で友人を招いてパーティを開く。パーティに招かれた半地下家族は、彼らに悟られぬように昨夜の騒動の後始末をしようと画策するが、錯乱したムングァンの夫が地下から脱走し、キッチンの包丁をとって庭にいたギジョンの胸に刃を突き刺す。優雅なパーティは一瞬で凄惨な現場と化す。

 自分の娘の無残な姿に怒った母チョンソクはそばにあったバーベキュー用の串でムングァンの夫を刺し絶命させる。だが、それだけで騒動は終わらなかった。パク社長は長年の地下生活でハエがたかるムングァンの死体を前にして露骨に不快な表情を浮かべ、鼻をつまむ。その表情を見たギテクは、我を忘れて近くにあった包丁をパク社長に突き刺す。再度、庭に悲鳴が響き渡る。そして、我に帰ったギテクは忽然と姿を消す。

 

 冒頭にも述べたが、本作のテーマは紛れもなく「格差社会」である。それは言いかえるならば、「上下のヒエラルキー構造」である。本作はそんな「上下」や「ヒエラルキー」を表すメタファーがふんだんに盛り込まれている。

 まずは、その特徴的なカメラワークである。本作は基本的に半地下家族の家と、パク一家の豪邸の二つしか舞台が用意されていない。非常に閉じられた世界観にストーリーが集約されている。この仕掛けはかなり意図的なものと考えられる。つまり、意図的に横の広がりを排除することによって、「上」と「下」、そしてその絶望的なまでの隔たりを表現しているのだろう。そして、その隔たりの長さを表すために、かなりしつこく二つの家の移動シーンに時間を割いている。さらに、象徴的なのが洪水のシーンである。パク社長宅での水かさはせいぜいくるぶしほどだが、下へ下へと降っていくに連れてその水量は増していく。「水は低きに流れる」のと同様に、社会の負担はすべて貧困家庭に流れていくのである。

 ちなみに、このような格差社会の上と下の交わりを描いた作品としては、黒澤明の『天国と地獄』(1963)がまず想起される。だが、それと比較してみても、今作は二つの家にかなりフォーカスを絞っている。こういった点に着目すると、1963年と2019年、そして日本と韓国では、現代韓国のほうが格差の幅が途方もなく広がっていると解釈できるかもしれない。

 

 だが、ここまでであれば、「格差」を描いた映画としては、まあよくある表現である。ポン・ジュノの卓越性はその先にある。

 プロットを見て一つの疑問が浮かぶ。なぜ、家政婦の夫は、パク社長ではなく、半地下の家族を憎んだのか?彼は1、2年前に韓国で流行った台湾カステラの事業に失敗し、地下暮らしに落ちた。かたや、パク社長はIT業界で成功を収め、壁を隔てて何不自由ない生活を送っている。家政婦の夫はパク社長を呪ってもおかしくないのに、むしろ「リスペクト」すらしている。

 ここに階級社会を残酷なまでにリアルに描くポン監督の恐ろしさがある。実際、本当に階級の下にいる人々は怨嗟の声を富裕層に向けることはない。なぜなら、貧困や飢えはそういった現状を正しく認識する能力・知識をも奪うからである。しかも、自分と富裕層を較べようにも、もはやその差は歴然で比べる物差しもない。

 逆に、彼らの怒りは少し上の人々に向かう。そう、「半地下」の家族である。本作で主人公一家が「半地下」に住んでいるというのは非常に象徴的である。つまり、彼らは「地下」ではない。地上に出るか出ないか、そういった絶妙な位置にあるのが半地下の家族なのである。本当の「地下」の家族(家政婦夫婦)は半地下の家族を憎むとともに富裕層を崇拝し、半地下の家族は本当の「地下」の家族に同情しつつも富裕層に嫉妬の炎を燃やす。本作は、このような階級の複雑な利害関係を「地下」というメタファーを用いて巧みに描いた作品なのである(こういった現代社会の階級闘争、および階級の団結の困難さについては、ケン・ローチ『家族を想うとき』でも描かれていた。ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり - 楽楽風塵)。

 そう考えると、本作における富裕層(パク社長一家)の位置付けも特徴的である。彼らは一貫して「いい人」として描かれている。半地下、地下の家族にひどい仕打ちをするわけでもない。彼らに非があるとするならば、それは無邪気な差別意識である。地下、半地下の人々の「臭い」に敏感に反応し、顔を歪める。そして、それを覆い隠そうともしない姿勢が最終的にギテクの逆鱗に触れる。

 

 さらに、ギテクを最後の凶行に駆り立てた要因はもう一つ存在する。それが、パク社長の家族に対する態度である。

 パク社長専属のドライバーとして採用されたギテクは、社長との会話の中で何度も「奥さんを、家族を愛しているのですね」という言葉を投げかける。たしかに家でのパク社長の様子を見ていると、それはテレビや雑誌などで流される「理想」の家族の在り方に見える。このギテクの何気ない言葉は、パク一家を見ていれば当然出てくるセリフの一つである。だが、この問いかけに対するパク社長の回答はいずれも歯切れが悪く、それはギテクが何気なく言った「愛」という言葉を軽く嘲笑するようですらあった。

 そして、ラストの破局へ向かう直前、ギテクを凶行に駆り立てる最大の引き金になったのも、このパク社長の家族に対する「冷やかさ」であった。インディアンの格好をして一緒に息子を驚かせてやろうとギテクに持ちかける社長に対して、もう一度ギテクはあのセリフを言う。だが、今度の社長の返答はそれまで以上に冷酷なものだった。「これも仕事と割り切ってくださいね」。そう告げる社長の顔は、いまから自らの息子を喜ばせようとする親のそれではない。そう告げられたギテクの怒りとも悲しみとも取れない無表情が、画面にアップで映し出される。

 思えば、ギテクはお世辞にも有能な父親とは言い難かった。むしろ、家族の中では一番足手まといである。だが、彼はどんな時でも家族を第一に想っていた。それはギテクだけではない。半地下の家族みな劣悪な環境にありながら、家族を裏切ることは絶対なかった。しかも、ギテクは作中で社長夫人への好意を露わにするシーンが何度かあった。「金持ちなのにいい人なんだ」というギテクの言葉は、その直後に妻チョンソクの「金持ちだからいい人なのよ」という返答にかき消されるが、その気持ちはもうほとんど「恋」と呼んでもよかった。パク社長のラストのセリフは、社長夫人の気持ちだけでなく、「どんな苦境にあろうとも家族が第一」というギテクの信念すらも踏みにじったのである。

 

 そうなってくると、半地下の家族はそもそも富裕層に本当になりたかったのだろうかという疑問すら湧いてくる。彼らは様々な偽装によって社長宅にパラサイトするが、結局それによって幸せになったとは言えない。そのようなカネや見た目では乗り越えられない境界線を端的に表していたのが「臭い」であるのは間違いないが、それ以上に半地下の家族の複雑な心情を捉えていたメタファーが「石」である。ギウは社長宅で家政婦との騒動があった日から、友人からもらった「山水景石」という石を後生大事に持ち運び始める。そして、「なぜかこれが身体から離れないんだ」と言う。さらに、パーティに招待されたギウは庭でバーベキューの用意をする富裕層の友人たちの立ち居振る舞いを見ながら、「みんななんであんなに普通にできるんだ」と独りごちる。

 偽装までして富裕層にパラサイトしたギウは、この時点で自らが結局それらの生活になじむことがないということを悟ったのだろう。そして、石を胸から離さなくなる。石は下へ下へ行きたいというギウの心情を表した秀逸な表現である。空間的な境界線を越えることは容易だったが、心的な境界線を越えることは予想以上に困難だったのである。

 

 ポン監督は本作に出てくる人々の誰かを「悪人」として描くことはしなかったとインタビューで話している(ポン・ジュノ監督が傑作『パラサイト 半地下の家族』で描いた、残酷なまでの「分断」 | ハフポスト)。そして、こう続ける。

彼らは見えない線を引いていて、その線を越えた外の世界にはまったく関心を持っていません。たとえ目に見えていたとしても、線の外にいる貧しい人たちのことは、まるで見えていないかのように行動するのです。幽霊のように、いないものとして扱っているんです。この作品は、その見えない一線が越えられた時に起きてしまう悲劇を描いています

 確かに、悪役はいない。誰もが憎めない要素を持ったキャラクターである。しかし、それを「無垢」という言葉で片づけることができるのは、それぞれの階級が同じ階級だけで、あるいは同じ家族だけで過ごす瞬間に限られる。ひとたび様々な階級が同じステージに上がれば、見えない境界線は可視化され、無邪気な差別意識が表出する。

 むしろ、悪役がいないからこそ、観客は見終わった後に何とも言えない敗北感とやるせなさを抱く。このわだかまりを我々は一体どこにぶつければいいのか。資本主義という構造なのか、人間の無邪気な差別意識なのか。そんなモヤモヤが今でも頭の中を浮遊している。

 

 

2019年映画ベストテン

 2019年公開の映画でベストテンを作ってみた。

 

 振り返ってみると、今年はNetflixに加入したのが大きかったなと思う。Netflix公開の良作が量産されはじめているので、劇場に足を運ぶ機会が少なくなった私としてはかなり嬉しい時代になったなと感心する。

 けど、Netflixを使うようになってから思うようになったのは、やはり劇場で映画を見ることの大切さ。例えば、スターウォーズのファンファーレを劇場の大画面と高品質な音響で聴き、冒頭から引くぐらい涙を流すという体験は、やはり劇場に行くからこそできることだなと実感する。来年は映画を見る機会がさらに減るだろうが、映画を見ることの喜びは忘れないようにしたいなと思う。

 

・10位 グリーンブック

 オスカーを受賞した本作。1960年代の人種差別が横行していた時代に、ハイソな黒人ジャズピアニストと粗野なイタリア系白人ドライバーの心の交流を描いたロードムービー。人種という壁を超えていけるという明確なメッセージを打ち出した希望に満ちたストーリーで、これがオスカーを獲るというのは時代の要請でもあるのかなと思った。

 同じく人種差別を主題とした『ブラッククランズマン』とは対を成すストーリー展開で、意見は分かれるだろうが、個人的には『ブラッククランズマン』のほうがより複雑な人種間の葛藤を描けていたと思う。

 

・9位 スパイダーマン/スパイダーバース

 マーベルシリーズの中でも最も人気の高い「スパイダーマン」を全く異なる作風で描いた作品。スパイダーマンのどこか楽観的でポップな雰囲気を残しつつ、そこにヒップホップ的な要素も盛り込んでいて、路上アートを見ているようなライトな感覚で楽しむことができる。

 マーベル一強の映画産業で、今後このようなサイドストーリーの良作が出てくるのはファンとしては楽しみで仕方ない。

 

・8位 運び屋

 クリント・イーストウッドの最新作。御年89歳にして監督と主演を務めるという映画狂ぶりは健在。

 ただし、『ダーティハリー』から『グラン・トリノ』に至るまで、保守的な米国の男性像を描いてきたイーストウッドだが、本作ではその描かれ方にも若干の変化が見られる。家族を省みることなく、自らの道を突き進む主人公がラストで辿り着く答えは、以前のイーストウッドであれば導き出されなかったものなのではないかと思う。

 余談だが、アメリカ映画の黄金期を支えてきた監督が年を経るごとに思想の変化を経験するというのは、なにもイーストウッドに限ったことではないようだ。実際、今年公開された『アイリッシュマン』の監督マーティン・スコセッシも、本作の中でロバート・デニーロを使ってそのような傾向を体現させていた。それは『グッドフェローズ』とはまた異なるラストであった。今後これらの監督たちがどのような作品を撮るのか注目である。

 

・7位 マリッジストーリー

 Netflixで公開された作品。監督はノア・バームバック。自身の経験(あるいは、本作でヒロインを務めるスカーレット・ヨハンソン)を踏まえて、ある夫婦の別離の過程を描く。主演男優はスターウォーズでカイロ・レンを演じたアダム・ドライバー

 離婚調停ものといえば『クレイマークレイマー』が有名だが、あえてそれと対比すれば、本作はより「夫婦の愛」を突き詰めた描いた映画だった。確かに、二人を愛しあっていた。しかし、愛に段階があるとして、それが一定段階を下回れば収拾がつかなくなる。二人の口論を撮った長回しのシーンに代表されるように、法と金と見栄というフィルターを通して、愛が憎しみへと変わっていく過程を繊細なタッチで描いていた。

 

・6位 アベンジャーズ/エンドゲーム

 やはりこれを入れねばならないだろう。アベンジャーズシリーズ堂々の完結である。良くも悪くもMCUの登場によって映画産業はすっかりその形容を変えてしまった。その第一フェーズの終わりを飾るのに十分すぎる出来栄えだったと思う。今年の暮れに公開された『スターウォーズ』の完結編が本作に遠く及ばない出来だったのをみるにつけ、やはり現代映画産業を語るにはまずマーベルを語らねばならないとしみじみ思った。

 『アイアンマン』(2008年)の公開から無尽蔵にキャラクターを増やしていったマーベルシリーズだが、それらの全てを過不足なく一つの作品に収めたのが今作。まるでオーケストラを見ているようである。しかも、タイムトラベル要素を組み込み、これまでの作品にオーバーラップさせるという戦略に、ファンの脳汁はもうダダ漏れである。そして、キャップの「アッセンブル…!」まで持っていくストーリー展開も完璧すぎる。ありがとう。

 

・5位 ROMA

 これもNetflixで公開された作品。監督は『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン。だが、本作は全くSF要素はなく、監督の幼少期の記憶などをもとに1970年代のメキシコの日常を淡々と描いている。

 画面はモノクロで構成されており、物語の柔らかさに一層磨きがかかっている。人々の何気ない会話、デモ隊の喧騒、動物の鳴き声、海のさざなみなどあらゆる自然の営みが映画のBGMの役割をなしている。優しく、だが力強く生きる人間たちのドラマである。

 1970年代のメキシコが舞台だが、当時の状況がどういったものだったかは作中では明示されない。だが、端々でその世相が映し出され、確かにそれが人々の生活を縛っていることが分かる。時代状況を捨象しないまま、しかし人々の生活をつぶさに描いていく姿勢は、例えば『クーリンチェ少年殺人事件』に似ている。

 

・4位 家族を想うとき

 ケン・ローチ監督の最新作。「ギグ・エコノミー」と呼ばれる職業の過酷な現実を描く、告発型の映画である。

 前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』と比べると明らかに本作は現状への危機感や切迫感が増していることが分かる。是枝監督と同様、家族のあり方を問うてきたケン・ローチが、今作では徹底して「労働のあり方」を問題提起している。さらに、「労働者階級」という枠組み自体がいまや成り立たないということも本作から窺い知ることができる。今年見るべき良作。

ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり - 楽楽風塵

 

・3位 ブラック・クランズマン

 『マルコムX』のスパイク・リー監督最新作。トランプ大統領就任、白人至上主義の台頭に対するリーなりの回答が本作である。作品の端々に彼らへの批判、そして危機感がにじみ出ている。その批判精神はやはり見習うべきものがある。

 白人至上主義団体KKKに潜入捜査する黒人警官の実話をもとにした本作。人種差別、そして白人至上主義に加担する人々の実像をリアルに、かつ皮肉を交えて描いている。ラストの怒涛の畳み掛けといい、エンタメと社会批評を絶妙に織り交ぜた傑作。

 現代の惨状を見て作られた本作だが、当時1970年代の状況と比較してみると、やはり現代レイシズムの特異性も浮き上がってくる。当時はかなり漠然とした理由で黒人に対する差別が横行していたが、現代ではより巧みにその根拠を構成して排外を正当化している。そんな現代の特徴を明らかにするためにも本作がいま作られた意義は大きいと思う。

『ブラック・クランズマン』※ネタバレあり - 楽楽風塵

 

・2位 ジョーカー

 間違いなく、今年最大のダークホースだろう。ヒーローものとしては異色の作品で、『ダークナイト』(2008年)のヒース・レジャー版ジョーカーに次ぐ、新たなダークヒーローの誕生である。

 監督のトッド・フィリップスは『ハング・オーバー』などで知られるコメディ畑出身で、だからこそ本作の悲劇と喜劇のはざまを絶妙に攻める映像が撮れたのだろう。そして、なんと言ってもジョーカー(アーサー)役のホアキン・フェニックスの怪演である。本作を単なるオマージュを散りばめただけの作品で終わらせなかったのは、ひとえに彼のおかげといっても過言ではないだろう。

 さらに、スコセッシの『キング・オブ・コメディ』同様に、本作は現実と虚構(妄想)の境界線を曖昧にした内容になっている。本作がここまでのヒットを記録したのは、本作の時代背景とアーサーの境遇が現代の社会状況にマッチしたからだろう。このポピュリズムの時代にこそ本作は受け入れられた。各地でジョーカーのメイクを真似する人が絶えないのはその証左である。

 だが、本作はそんな状況すら嘲笑うかのようなラストで終わる。本作がポピュリズムを喚起したのは間違いないが、同時にラストでポピュリズムを殺している点にも注目すべきだろう。

 

・1位 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 堂々の1位はクエンティン・タランティーノの最新作である。見終わった時はちょっと飲み込めなかったが、徐々に味わいが増すスルメ映画である。

 ハリウッド全盛期の1960年代終わりを舞台にし、シャロン・テート殺人事件を下敷きにした本作。だが、当事件が作中で詳細に描かれているわけではない。あくまでも、落ちぶれた俳優リック・ダルトン(ディカプリオ)と専属スタントマンのクリフ・ブース(ブラピ)を媒介にして、あの日のノスタルジーと「ありえたかもしれない未来」を描く。

 『ヘイトフル・エイト』で絶妙なセリフの駆け引きと糸を張り詰めたような緊張感を演出したタランティーノだが、本作でもその技術が遺憾なく発揮されている。結末を知っているからこそ観客は緊張感を維持するのだが、だからこそ露悪的なまでのラストの展開に肩透かしを食いながらも拍手喝采を送るのである。

 ほかにも、農場に行って帰るだけのブラピをなぜあれだけカッコよく撮れるのか、とか色々と語りたいことが続出する傑作である。全ての映画ファンを魅了すること間違いなしである。

 

 

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』

 2019年読んで面白かった本、第二弾。

 

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

 

 

 中国の高性能監視カメラ、新疆ウイグル自治区での強制キャンプなど、日本でもその監視国家ぶりが度々報道されている中国であるが、それらの散発的に報道される現象をより包括的に、そして「功利主義」や「市民社会論」などの観点から解明した本。めちゃくちゃ面白く、かつ明快である。以前、梶谷氏の『中国経済講義』(中公新書)の評を書いたが、その続編というか、より思想的な側面で現代中国を理解することができるのではないだろうか。

cnmthelimit.hatenablog.com

 

 以下、目次。

第1章 中国はユートピアか、ディストピア

第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか

第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」

第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか

第5章 現代中国における「公」と「私」

第6章 幸福な監視国家のゆくえ

第7章 道具的合理性が暴走するとき

 

 第1章では、昨今、よく中国をジョージ・オーウェルの『1984年』に例える報道を目にするが、むしろ現在の中国を表すのに適切なたとえは、おなじくディストピア小説として挙げられるオルダス・ハクスリーすばらしい新世界』ではないかという問題提起がなされる。「『1984年』が20世紀初頭の社会主義のイメージに強く影響された世界観であるのに対して、『すばらしい新世界』はすぐれて資本主義的な、ある意味ではその理想形である未来像を示している」(p.27)。

 第2章では、中国のイノベーションの立役者であるアリババ(および、当社が手掛けたEC市場)のメカニズムや、中国版ギグエコノミーの実態が描かれる(功罪両面を含めて)。続く第3章では、AI技術を用いた最新監視カメラがいかにして統治テクノロジーを実現しているのか(AI顔認証における「匿名性を前提としたセグメント化」と「顕名性に基づいた同定化」の違いはおもしろい)や、「社会信用スコア」などの技術が紹介され、それが行動経済学における「ナッジ」や「リバタリアンパターナリズム」に結びつくという話が展開される。そして第4章では、それらの動きがどのようにして中国の民主化を抑え込んでいるかが描かれる。

 

 本書の中でも特に面白かったのが、第5章と第6章である。以下では、この二つの章をやや詳細に見ていこう。

 以上の章までの記述で、中国では政府の統治テクノロジーによって民衆の声が巧みに抑え込まれていることが分かった。だが、そのような中国のあり方は、どうしても西側諸国には奇異に映る。なぜ、このような非民主主義的で権威主義的な体制が存続しているのか。これを「市民社会」や「市民的公共性」という概念で説明しようと試みているのが第5章である。

 そもそも、今では当たり前のものとなった「市民社会」という概念の意味は歴史的に変遷してきた。簡単に整理すると、そこには三つの意味が含まれている。一つ目は、「法律の前での平等」の下で人々が政治に参加する「公民社会」(英語のcivil society)。二つ目は、自由に経済活動を行う場としての「経済社会」(ドイツ語の、die bürgerliche Gesellschaft)。三つ目が、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(第2版)の中で論じた、1990年代以降に現れた国家とも営利企業とも異なる「第三の領域」としての市民社会NGONPOなど)である。欧米では、この三つの概念を明確に区分しているが、日本ではこれらをまとめて「市民社会」と呼ぶため、しばしば混乱が生じる。本書では、三つ目に限定して「市民社会(団体)」と呼んでいる。

 このような西洋を起源とする市民社会論は中国にも輸入され、2012年ごろから環境保護団体や農民工への支援をする草の根NGOを指して、このような市民社会の担い手とする議論が浮上する。しかし、このような議論に対しては多くの反論が提出されてきた。批判者は、中国におけるNGOは結局ハーバーマスが言う意味での「自由な討論によって支えられた」組織ではなく、中国共産党による官製労働組合である「工会」の隙間を埋めるだけの存在でしかないと主張した(「工会」については、上述の前エントリで紹介した)。

 このような批判に対して、中国の草の根NGOを研究する李妍●(火が三つ)は中国思想史研究者である溝口雄三の議論を援用しながら、中国の市民社会における「公共性」概念には、「天理」に代表される儒教思想が重要な役割を担っていると説明している。

 「中国の公観念には、『天』の観念が色濃く浸透しており、それは古来の『天理』、すなわち『万民の均等的生存』という絶対的原理に基づく。政府、国家も、世間や社会、共同も『天理』を外れてはならない」「公共性を担う存在として、国家も市民社会もその正当性は所与のものではなく、『天理に適う』ことによって担保される。天理に適う役割を示さなければ、公共性を担う資格(権威)が認められない」(p.149ー150)

 例えば、習近平政権期になってから大々的に行われるようになった「反腐敗キャンペーン」は、私的利益をむさぼっている役人や政治家を習近平政権が共産党の規律委員会を通じて厳しく取り締まり、それを通じて「公共性」を実現する意図があった。そこで実現される「公共性」は、あくまでも私的利益の外部にあり、さらにそれを否定するものである点に注意が必要である。これは私的利益を単に否定的な対象として見るのではなく、その基盤の上に公共的なものを立ち上げようとした西洋社会とは対照的である(p.157)。

 このように、中国社会においては、公的なものと私的なものがしばしば分裂しがちである。このような見方は中国史研究者によってすでに指摘されていた。例えば、寺田浩明は『中国法制史』の中で、中国の法概念は「公論としての法」として規定できるという。「公論としての法」は、西洋起源の「ルールとしての法」と対置される。後者が普遍的なルールが抽象化された形で存在しており、それが個別案件に強制的に適応されていくというロジックによって組み立てられているのに対して、前者はあくまでも個別案件において「公平な裁き」を実現していくことが重視される。ここで言う「公平な裁き」とは、案件ごとに異なる個別の事情や社会情勢を考慮して初めて実現されるもので、それらの事情を考慮せず機械的にルール=法を適用することはむしろ否定の対象になるため、そういった「公平な裁き」を実現できるのは教養を積んだ人格的にも優れた一部の人に限るとなる(p.158ー159)。

 さらに、寺田は西洋や日本と中国の「法」の位置づけの違いから、両地域の社会の仕組みの違いを指摘している。西洋や日本と違って、伝統中国の社会秩序はあくまでも経済利益によって支えられた個別的な契約関係の「束」として形成されるものであり、強固な団体的結びつきを欠いた「持ち寄り型の秩序」であるという。これは「法」が個別の事情や社会情勢を超越した「普遍的なルール」としての機能を持たない「公論としての法」と対応する。

 したがって、このような社会秩序の下では、公権力と社会の関係性も西洋社会のそれとは異なってくる。西洋社会では、社会の中にある規則性を市民たちが自覚的に取り出して明文化し、それを自らが従うべき規範として権力が再定位することによって権力の正当性が担保されるが、中国社会では、法秩序があくまでも「個別案件」として処理され、その公平性の拠り所も公平有徳な大人という属人的な形になるため、治者と被治者との一体性は成立しえない(p.160)。

 これは中国社会で民主化を語る際の困難さにもつながってくる問題である。中国においては、「民主」という言葉に、①政治的権利の平等、②経済的平等、という二つの意味が含まれている。すなわち、①は欧米近代思想に源流がある、政治的権利の平等と権力の分散を意味する民主化(「民主Ⅰ」)であり、②は中国の伝統思想に起源を持つ、経済的平等化とパターナリスティックな独裁権力によるその実現を意味する民主化(「民主Ⅱ」)である。中国では、「民主Ⅰ」を要求する立場を右派(リベラリスト)、「民主Ⅱ」を要求する立場を左派(ナショナリスト)とする(p.163の表参照)。

 このような政治的権利の平等化と経済的権利の平等化は、権力との関係において反対方向のベクトルを持つものである。つまり、中国社会においては、前者の「政治的権利の平等」を要求する立場(リベラリズム)が、後者の「経済的平等化」を要求する声にかき消されるか、あるいは政権によってあからさまな弾圧が加えられるという状況が生じてきた。なぜなら、経済的平等(再分配)を行うためには、国家権力の大幅な介入を必要とするため、経済面での平等の要求は国家権力の制限ではなく、むしろよりパターナリズムを容認・強化するほうに働くからである(p.165)。

 

 第6章では、「功利主義」という観点から中国の監視社会化を論じている。

  功利主義の主張のコアな部分は、①帰結主義、②幸福(厚生)主義、③集計主義という三つの部分に帰着する。①はある行為の(道徳的)「正しさ」はその行為選択の結果生じる自体の良し悪しのみによって決まるという考え方。②は道徳的な善悪は社会を構成するひとりひとりの個人が感じる主観的幸福(厚生)のみによって決まり、それ以外の要素は本質的ではないとする考え方。③は社会状態の良し悪しや行為選択の(道徳的)「正しさ」は、社会を構成する一人一人のの個人が感じる幸福の量によって決まるという考え方である(p.171)。功利主義的な考え方は監視社会化を正当化するのに非常に適合的である。なぜなら、社会的に「正しくない」行動パターンを持つ人に対して、あらかじめ行動の自由を奪うことはその社会全体の利益や幸福を増大すことにつながるからである。

 現在、中国に限らず、このような功利主義的思考がもう一度見直される傾向にある。その背景には、自己責任論の台頭以外にも、「道徳の科学的解明」が関わっていると著述家の吉川浩満はいう。「道徳の科学的解明」とは、今まで哲学や倫理学の領域で考えられてきた人々の道徳的な善悪の判断や正義感などを、認知心理学認知科学などの科学の分野で解明しようとする事態を指す。

 代表的なものとしては、「心の二重過程理論」がある。二重過程理論では、人間の脳内に「システム1(速いシステム)」と「システム2(遅いシステム)」という異なる認知システムがあるとされる。前者のシステムは演算能力をそれほど必要とせず、迅速な判断が可能、そして自動的・無意識的・非言語的に機能する。後者はより多くの演算能力を必要とし、意識的・言語的な集中を要する。これは人間の進化過程の中で順次備わってきた能力であり、システム1は種・遺伝子の利益を最大化するように作動する、脳の古い部分である一方で、システム2は種というよりも個体の利益・生存可能性を最大化するために備わった能力である。人間はこの二つのシステムを自由自在に使い分けることはできず、油断すればすぐに集中力を必要としないシステム1が作動してしまう。これが非合理的な誤りが生じる原因とされる(この「システム1・2」に関する話は、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。」の中でも出てきた。綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 - 楽楽風塵)。

 哲学者のジョシュア・グリーンによれば、この二つのシステムはそれぞれ、システム1=道徳感情、システム2=功利主義に対応するという。この異なるベクトルを持つ思考回路は、例えば「トロッコ問題」のようなジレンマに直面する。トロッコ問題には明確な答えが用意されていないが、人間はもしゆっくり考える時間があるならば、えてして批判的な吟味が可能な功利主義的思考が選ばれることになる(p.178)。このような思考に大きなエネルギーと時間を要するにもかかわらず、明確な答えがない事柄であれば、そもそも人間よりも功利主義的・合理的に思考できるAIにその役割を担ってもらおうとする考え方が出てきてもおかしくない。そして、実際そういった動きはすでに欧米で始まっているのである。

 このような状況に対して、当然異論が唱えられている。代表的な論者がキース・E・スタノヴィッチによる「道具的合理性」と「メタ合理性」という議論である。道具的合理性とは、あらかじめ決められた目的を達成しようとする場合に発揮される合理性ののことであり、かつてウェーバーは言ったアレである。しかし、この道具的合理性では、何らかの目的が本当に目的とするべきものであるかどうかを判断することはできない。そこで、道具的合理性よりも一歩高い地点から目的自体の妥当性を判断するメタ合理性が必要になる。チンパンジーでも「食べるために目の前のバナナをむく」という道具的合理性を持っていることから、このメタ合理性が働くか否かが人間とチンパンジーの境界線であるとスタノヴィッチは言う。

 では、我々人間はどのようにしてこのメタ合理性を社会に実装していけばいいのだろか。ハーバーマス的に言えば、それは自由で自律した個人が集まって討論する「市民的公共性」がメタ合理性を担保する領域である。これを加味して、現代社会の合理性と公共性の関係を筆者が整理したものがp.185の図である。ここでは、下から順に「ヒューリスティックベースの生活世界」と「メタ合理性ベースのシステム」、「道具的合理性ベースのシステム」の三つの領域が存在する。

 「ヒューリスティックベースの生活世界」では、直感的で素早いが間違いも多い、「人間臭い」やり方で人々の生活が営まれる。いわば、システム1が主に作動する場である。そして、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「メタ合理性ベースのシステム」(具体的には、議会や内閣、NGOなど)との間におけるインタラクションの在り方がいわゆる「市民的公共性」にあたる。さらに、「メタ合理性ベースのシステム」で得られた結論が、「道具的合理性ベースのシステム」を制御(法律の制定など)していく。ここまでは、ハーバーマスが「生活世界」「経済システム」「政治・行政システム」と整理したものにそれぞれ対応している(参考⇒ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』 - 楽楽風塵)。

 厄介なのは、現代では巨大IT企業(GAFAなど)の出現に代表されるように、「市民的公共性」とは異なる形で、市民と統治システムの間における独自の相互作用を生み出している点である。それを本書では「アルゴリズム的公共性」と呼んでいる。これが、「メタ合理性ベースのシステム」を飛び越えて、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「道具的合理性ベースのシステム」をつないでいる。市民がビッグデータを提供するかわりに、巨大IT企業は功利主義的思考にもとづいて設計されたアーキテクチュアを提供しているのである。

 昨今、問題化しているのは、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化し、「道具的合理性ベースのシステム」がより露骨に生活世界の統治を行っていることである。残念ながら、これを防ぐ方法は現在のところ、「メタ合理性ベースのシステム」(議会など)を通して、「道具的合理性ベースのシステム」を制御する制度を作るぐらいしかない。それを代表するものが、2016年に欧州で制定された「GDPR(一般データ保護規則)」である。

 翻って中国はどうだろうか。中国の現状を見ると、各国以上にこの「アルゴリズム的公共性」が肥大化していると言える。そもそも歴史的に「市民的公共性」が成熟していない地域では、その代替物として「アルゴリズム的公共性」が強化される傾向にある。そして、5章で見たように、中国ではもともと国家も市民社会も必ず「天理に適う」ことによりその正当性が担保される「天理」という概念が存在した。この儒教的な「天理」による公共性の追求は、アルゴリズムによる人間行動の支配への対抗軸になるというよりも、むしろそれと一体化する、あるいはそれに倫理的なお墨付きを与える可能性が高いと筆者は述べている(p.196)。そして、この「道具的合理性ベースのシステム」が暴走した果てにあるのが、現在のウイグルの惨状である(第7章)。

 

 この本の白眉はこの5章、6章だろう。現在の中国の状況を、中国の文脈で語り、かつ「公共性」「功利主義」などの概念を媒介することによって、問題を中国だけに終わらせることなく、あらゆる地域に共通するものとして議論を活性化を促している。今年読むべき良書。

 

 

 

ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり

 ケン・ローチの最新作"Sorry We Missed You"を見た。

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www.youtube.com

 

 結論から言うと、本当にやるせないストーリーだった。前作『私はダニエル・ブレイク』と比べて、かなり希望を削ぎ落した仕上がりになっている。それぐらい監督の現実に対する切迫感や危機感も大きくなっているということだろうか。上映時間は100分と短いが、全編にわたって悲痛が漂っている。

 ストーリーは、元建築労働者のリッキーが「ゼロ時間契約」の配達ドライバーとして雇用される場面から始まる。最近では、「ギグエコノミー」と呼ばれる、職場と正式な雇用契約を結ばずに、自らの裁量で仕事量や時間帯を選ぶことができるとされる職業である。元の職場をクビになってから様々な職を転々とし、借金も抱えるリッキーは、「自営」で「自由に働ける」という言葉につられて、宅配に必要な車両費などは自らが負担するという条件を飲んでその職を引き受ける。

 最初は、「2週間くらい14時間休まず働けば、車両費も払い終わる」と意気込んだリッキーだったが、それがいかに難しいことかを徐々に悟っていく。それは健康に、他に何も問題が起きなければ可能な未来だったかもしれない。しかし、リッキーに様々な問題が降りかかってくる。しかも、それは子供の不祥事や暴徒による傷害事件など、現実としてギリギリ起こりうる問題なのである。

 リッキーは家族のことを第一に考える善良なる市民である。しかし、「家族が第一」「家族と一緒に幸せに暮らしたい」、そう願えば願うほどに家族が崩壊していく。終盤で「何かがおかしい」とつぶやくリッキーとアビー(妻)は、しかしそれがなぜなのかは分からない。そして、ラスト、家族の制止を振り切って、リッキーは仕事場へと車を走らせる。悲痛の涙を流しながら。

 

 本当にやるせない。家族の中の誰も悪くないのである。

 中盤に、息子のセブがけんかの腹いせに父リッキーのバンの鍵を奪ったと疑われるシーンがある。バンが使えないリッキーは当然職場に行くことができず、仕事場からさらなる罰金を追加されてしまう。家出から帰ってきてなお反抗的な態度を取るセブに対して、リッキーは思わず手をあげてしまう。妻アビーの暴力的な父を心底嫌っていたリッキーは追い詰められて、その父と同じ過ちを繰り返してしまうのである。家族のヒビはどんどん大きくなっていく。

 しかし、後になって、リッキーの鍵を取ったのはセブではなく、娘のライザであることが発覚する。なんでそんなことをしたのか。問いかける父にライザは「だってキーがなければお父さんは仕事場にいかなくてすむでしょ」と涙ぐみながら答える。娘の涙に家族はやっと誰も憎む必要がないのだと気づくのである。

 言ってしまえば、みんながどこかで間違いを犯し、だからこそ誰も責められない。それぞれの過ちがボタンの掛け間違いのように、少しずつ家族全体の絆を壊していく。あえて、その根源を求めるならば、最初にリッキーが多額の借金で配達のためのバンを買ったことだろう。そこからすべてが壊れ始めたのである。

 

 ここまでの話だけだと、本作は単なる一つの家族を描いたドラマに過ぎないように聞こえる。だが、本作は「家族問題」だけでなく、やはりどこまでも「労働問題」を描いたドラマである。それはおそらくローチを敬愛する是枝裕和監督と決定的に異なる点だろう。

 そもそも、いま言ったような家族トラブルはあらゆる家庭で起こりうる問題である(だからこそ、観客の心をひくのである)。では、世の家族はこういった危機をどのように回避しているのか。それは例えば、そもそも配達用の車両を自腹なんかで払わせずに支給したり、有給休暇で職場に仕事を休ませてもらったり、不慮の事故に対しては労災認定による保険をもらったりなどである。世の中にはあらゆるリスクに対して、労働者が保護される制度がある。それがあるからこそ、不慮のリスクを人々は乗り越えることができるのである。

 だが、本作で描かれる人々にはそのような制度が存在しない。あらゆるリスクが自分、そして家族に降りかかってくる。それはリッキーに限らず、訪問介護の仕事をする妻アビーも同様である。訪問介護の移動費は自腹である。心優しいアビーはその優しさゆえに訪問先のおじいちゃんおばあちゃんを心配して、自ら仕事を引き受けてしまう。そして貧困のスパイラルにどんどん落ちていってしまう。それも全て雇用主が被雇用者を守るという大前提を手放したからである。

 そして、本作で印象的だったのが、労働者同士の連帯の兆しが一切見られない点である。それは従来の労働者像とはかけ離れた様相である。確かに、宅配ドライバーたちが倉庫で軽く会話をする、宅配のノルマを手伝ってもらうといった従業員としてのコミュニケーションは存在する。だが、それはみなが「労働者」として雇用主の横暴に反抗するような連帯を生むようなつながりでは決してない。それを裏付けるように、劇中でドライバー同士で仕事を奪い合う、あるいは仕事を押し付け合うといった場面が描かれる。そして、しまいには雇用主の横暴をきっかけにドライバー同士のけんかが勃発する。労働者みんなでその怒りを雇用主に向けるということには帰結しないのである。それほど労働者がモナド化しているということなのだろう。これがギグエコノミーと呼ばれる職業の決定的な特徴ではないだろうか。

 

 移民問題などでも積極的に発言している望月優大氏が以下の記事でこのように述べていた。

gendai.ismedia.jp

 

ギグエコノミー時代の自営業者にとって、自由はいつも条件付きだ。だからこそそれは全くもって自由に見えない。そして、最後には必ずこう言われるのだ。わかっていると思うが、お前の代わりなどいくらでもいる。逃げ出した彼ら〔=技能実習生〕を「犯罪者」かのように見なす社会、それから貧しいリッキーを怠惰な「ルーザー(敗者)」として見なす社会、それらは本質的に同じものを共有している。つまり、ゲームの結果だけを見て、ゲームそのものに組み込まれたアンフェアさを見ない。

 「自営」や「自由」という言葉につられたリッキーは本当に自由を手に入れたのだろうか。

綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』

 2年越しの懸案事項(修論)が無事着陸態勢に入ったので、ぼちぼちブログを再開します。

 この2年間、だいぶ世情に疎くなってしまったと思う。というのも、修論執筆中はほとんどそのテーマに手いっぱいで、例えば記事やニュースを追っていても、そのテーマを中心に考えてしまうからである。「あ、このニュースはあそこに使えるな」とか「この本は自分の修論にも通じるかも」とか。もちろん、そういう軸足が一つあると、その分効率よく情報を収集することができるんだけど、逆に言うと、思考のゆとりがなくなってくる。つまり、「使えるかどうか」で情報を取捨選択していってしまう。だから、最近の世の中の流れとかにどうしても疎くなってしまうのである。

 ということで、年の瀬ということもあり、これから今年読んだ本なんかを振り返りながら、世の流れにキャッチアップしていこうかなと思う。

 

 まず第一弾は、今年読んだ本の中でも格段に面白かった、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。」について。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

  • 作者:綿野 恵太
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 帯なんかにも書いているが、本書は今みんなが思っているけれど、なんだか言いづらいことを平易な概念で整理していってくれている。新たな洞察を加えるものというよりも、これからみんなが議論を深めていく際の橋頭保になる本といってもいいかもしれない。

 目次は以下の通り。

まえがきーーみんなが差別を批判できる時代 アイデンティティからシティズンシップへ

第1章 ポリティカル・コレクトネスの由来

第2章 日本のポリコレ批判

第3章 ハラスメントの論理

第4章 道徳としての差別

第5章 合理的な差別と統治合理主義

第6章 差別は意図的なものか

第7章 天皇制の道徳について

あとがき ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび

 

 まず、まえがきでは本書を貫く図式である「アイデンティティの論理」と「シティズンシップの論理」の整理がなされている。この二つは共に反差別のロジックではあるが、差別を批判する際の論拠が異なる。これを筆者は、カール・シュミットの「自由主義」と「民主主義」の対比をもとに整理している。

 シュミットによれば、「自由主義」は「討論による統治」を信念としている。そして、討論を行うためには「公開性」は確保されていなければならない。議会の中でどのような議論が行われているかを市民は知れなければならないし、市民の声を届けられる回路がなければならない。そして、そのためには、「言論の自由」「出版の自由」「集会の自由」「討論の自由」が必要になってくる。このようなロジックで整えられたのが、現代の立法権・行政権・司法権であり、現代議会主義である。

 一方、「民主主義」は「同一性」を特徴として持つ。シュミットは以下のように言う。

治者と被治者との、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体との同一性、国民と議会における国民代表との同一性、[国家とその時々に投票する国民との同一性]、国家と法律との同一性、最後に、量的なるもの(数量的な多数、または全員一致)と質的なるもの(法律の正しさ)との同一性、である。(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』p.23)

 人々が話し合いによって何らかの合意に達するためには、ある程度の同一性が不可欠である。なぜなら、全くの利害関心の異なる他者が寄り集まっても議論の妥協点を見つけることは不可能に近いからである。だから、例えば「日本人だから」といった民族の共通項を見つけることによって人々は民主主義をやっと成立させることができる。

 このような、民主主義と自由主義の対比は、そのまま「アイデンティティの論理」と「シティズンシップの論理」に当てはめることができる。

アイデンティティ・ポリティクスとは、社会的不利益を被っているアイデンティティを持つ集団が結束して社会的地位の向上を目指す政治運動だった。たとえば、黒人という人種、女性という差別、朝鮮人という民族といったさまざまなアイデンティティに基づいた政治運動が存在するが、しかし、それらはすべてアイデンティティの「同質性」をもとにしているために、シュミットの区分にしたがえば、民主主義に属するものであるといえる。

いっぽうで、シティズンシップの論理は、あるアイデンティティを持った「集団そのものの尊厳」ではなく、「平等なシティズンシップの尊厳」を守るものであった。つまり、シティズンシップの論理では、「市民」という「個人」の権利が重視されている。そして、シュミットの区分にしたがえば、個人の権利、人権もまた自由主義的な考えであった。(p.20ー21)

 シュミットが予見した、この「アイデンティティの論理」(民主主義)と「シティズンシップの論理」(自由主義)の対立は、現在世界のあらゆるところで散見される。例を挙げるならば、ポピュリズム、排外主義、反緊縮運動、Metoo運動、性表現規制論争、ポリコレ論争、等々。これらの同時多発的な運動や論争を二つの論理の対立としてつなげた点にこの本の新規性がある。

 

 第1章では、「政治的正しさ」(ポリティカル・コレクトネス、以下「PC」)発祥の地であるアメリカで、この言葉がいかなる経緯であらわれたのか、そしてどのようにその意味内容を変質させていったのかが描かれる。

 最初に、PCが公共的な言論の場において登場したのは、1960年代以降に台頭した「新しい社会運動」の中であった。新しい左派が、1960年代以前の古い左派の教条的でセクシスト的・レイシスト的な姿勢を批判するためにこの言葉が使われていた。つまり、当初、PCは左派が自らを「アイロニカル」に批判する際の語法として用いられていたのである(p.37)。

 だが、1990年代ごろに語法の変化が生じ始める。保守派が、大学におけるリベラルな教育や積極的是正措置(アファーマティブ・アクション)を批判する際の論拠として、PCが用いられ始めたのである。1991年5月には、ブッシュ(父)大統領もミシガン大学の卒業式講演で、当時大学で導入されていた人種差別や性差別に関する「スピーチコード」に対して、「〔政治的に〕正しい行動を要求する改革者たちは、そのオーウェル的なやり方でもって、多様性の名のもとに多様性をつぶしている」と述べ、物議をかもした(p.39)。

 ブッシュの発言には、当時アメリカで吹き荒れていた「文化戦争」の波が関係している。「文化戦争(cultural war)」とは、1988年にスタンフォード大学が一般教養の必修科目である「西洋文化」を「文化・思想・価値」という科目名に変更したことに起因して起こった論争である。当時は積極的是正措置によって「多文化教育」が唱えられており、いわばそのバックラッシュとして保守派が西洋文化の必要性を訴えたのである。

 新保守主義の論者として知られるアラン・ブルームアメリカ・マインドの終焉』や、歴史家アーサー・シュレージンガーJr.『アメリカの分裂』はそのような「文化戦争」のさなかにしきりに読まれた。両者の主張は、私的領域での文化の多様性は認めつつも、公的な面では文化の統一性が必要だとする「文化多元主義」に属し、共通する特徴として、①マルクス主義と「新しい社会運動」(アイデンティティ・ポリティクス)に連続性・同一性を見ること、②国家統合の理念の擁護、③ポストモダン(ポストコロニアニズム・多文化主義)批判が挙げられる(p.53)。

 これらの一連の論争を整理すれば、1990年代に「スピーチコード」のように大学がこぞって取り入れていった多文化主義教育は、各民族の同質性を確保しようとする意味で「アイデンティティの論理」に属する。そして、ブルームやシュレージンガーの批判は、アメリ憲法のもとに「一つの人民」としてあらゆる人種や民族が「同化」することを目指している点で「シティズンシップの論理」に属する。

 したがって、1990年代のアメリカでは、ブルームやシュレージンガーはシティズンシップの立場から、アイデンティティの側にある多文化主義を批判していたと言える(シティズンシップ→アイデンティティ)。そして、その際に用いられた論拠がPCであった。しかし、ここで現代日本を見てみると、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスであるネット右翼が、反差別的な言説を攻撃する際にPCという言葉を用いている。つまり、現代日本では、PCという非難がアイデンティティ→シティズンシップに向かっているのである。言い換えるならば、PCは同じ差別を批判する語法でありながら、その基盤とする論理が時代を経て変化しているのである。

 

 以上のアメリカにおけるPC批判の変遷を日本に適用してみると、どのような展開がみられるだろうか。第2章では、日本のポリコレ批判が検討される。結論から先に述べると、日本の場合、左派による戦争責任の追及も、それに対する右派の反発も、「民族」という「同質性」に基づいた「アイデンティティの論理」でなされることが多かった。

 まずその手がかりとして、内田樹『ためらいの倫理学』が取り上げられる。内田はポストモダンの思想家たちを「ポリティカリーにコレクト」な人々と批判している。内田による主張をまとめると、以下のようになる。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」に象徴されるように、アイデンティティの論理とは差別の苦しみや不利益は被差別者にしかわからないとする考え方であったが、ポストモダンの思想家はこのようなアイデンティティの論理を尊重するあまり、被差別者=他者と「コミュニケーション」を取ることを断念してしまった。そして、被差別者を「交通不能の他者」として扱うことで、(本来は被差別者のものである)差別の告発を代行する資格を得ようとしてきた。つまり、内田のアイデンティティ・ポリティクス批判の矛先は、マイノリティにではなく、一貫して自らの改悛を介して他罰的にふるまう、代行主義的な日本の知識人に向けられているのである(p.88ー89)。言い換えるならば、内田の倫理学とは、左右のアイデンティティ・ポリティクスに「ためらい」を持ち、左翼的な弱者への同一化も、右翼的な国家への同一化も、ともに拒むことなのである(p.91)。

 このような内田によるどっちつかずの論理は、内田が高く評価する加藤典洋敗戦後論』にその原型を見つけることができる。加藤は同書の中で、戦後日本はドイツのように戦争責任を十分に反省せず、GHQによって押し付けられた平和憲法を無批判に受け入れたことから、「護憲派」と「改憲派」の二つの人格に分裂したと説いた。そして、その分裂を乗り越えるためには、現行憲法を一度国民投票で選びなおし、二千万のアジアの死者への哀悼の前に悪い戦争に駆り出されて死んだ死者を、無意味なまま深く哀悼しなければならないという。これは、アメリカ合衆国憲法における「市民」に代わるものとして、日本国憲法をそのまま今度は主体的に選びなおすことで「新しいわれわれ」=「公共性」=「シティズンシップ」を打ち立てようとする主張であった。

 そして周知のとおり、『敗戦後論』に対しては、ジャック・デリダの研究家であった高橋哲哉によって批判が寄せられた。その趣旨は、加藤の主張は偏狭なナショナリズムでしかなく、むしろ戦争の被害者や犠牲者の呼びかけに対して応答することが責任なのだと主張した。だが、両者の論争は少しかみ合わない部分が存在する。というのも、加藤を偏狭なナショナリズムと批判する高橋も、植民地支配に抵抗する被支配民族のナショナリズムには「すべての植民地支配の否定につながる普遍性の通路が含まれている」と擁護しているからである(p.101)。整理すると、加藤と高橋はそれぞれのやり方で「アイデンティティの論理」を越えることを模索していながら、議論の展開が不十分なため、双方が論争相手から「アイデンティティの論理」に陥っていると批判されていたのである(p.102)。

 そういった意味で、加藤、高橋以上にナショナリズムを超え出ようと模索していたのは、上野千鶴子であった。上野は、加藤に対して「死者に「国境」を引くことで、「日本人」の国民的主体を構築しようとしている」と批判しながら、かつ高橋に対しては「わたしには被抑圧民族のナショナリズムは正しい、と言い切ってしまうことができない」、「ナショナリズムの中では個人と民族とを同一化することで「われわれ」と「彼ら」を作り出しているが、この集団的同一化は、強者・弱者のいずれのナショナリズムの場合にも、罠としてわたしたちを待ち受けている」と批判した(p.102ー103)。そして、アイデンティティの閉鎖性が抜け出て、NGOといった「市民」の活躍に期待を寄せている。

 と、このようにアメリカと比較して、日本のアイデンティティ/シティズンシップ論争は以上のように進んできた。アメリカと比較した時に、憲法論争のなかでアイデンティティの論理が介在してしまう背景には、そもそも日本国憲法における「国民」がnationを指しており、アメリ憲法におけるpeople”(人民)が明記されていない点があると筆者は言う。加藤が言うように、「国民投票」で憲法を選びなおしたとしても、そこには「人民」、例えばサンフランシスコ平和条約日本国籍を除籍された在日朝鮮人や台湾人が含まれていないのである。

 

 日本のポリコレ批判の源流をたどると、「戦後民主主義」に関わる論争が見えてきた。しかし、これらの言説は現在の「ポリコレ」の語法からはかけ離れている。第3章で検討されるのは、現代日本におけるポリコレの語法の変化である。結論から先に言うと、いま我々が「ポリコレ」と呼んでいるシティズンシップの論理は、1章で見たアメリカの大学におけるスピーチコードが公共空間に広がったものなのである。言いかえれば、それは「ハラスメント規制の論理」である。

 日本においても、NHKが特設サイトに「キズナアイ」を起用した件や、最近だと、赤十字社献血ポスターに「宇崎ちゃん」を起用したことによって、いわゆる「萌え絵」に対してセクハラ表現にあたるのではないかという批判が寄せられた。このような性表現規制に関しては、アメリカで先んじて議論されてきた。1980年代には、弁護士のキャサリン・マッキノンと法哲学者のアンドレア・ドウォーキンがポルノグラフィ規制条例の制定を求める運動を行っている。その際、マッキノンは、「市民」としての尊厳を傷つけるがゆえにポルノグラフィを規制せよと主張した点には注意が必要だろう。つまり、マッキノンは女性によるアイデンティティの論理ではなく、シティズンシップの論理によって自らの主張を正当化したのである。

 具体的に、マッキノンは、①ポルノは出演する女性に直接危害を及ぼし、性的に搾取している、②ポルノを視聴することが女性への性暴力の原因になっている、という二つのポイントからポルノグラフィを批判した(p.135)。特に大きな論点となったのが、②のポルノ視聴と性暴力の因果関係の有無である。実際、その因果関係を証明する研究は出てきていない。結局、ポルノグラフィ規制法はアメリ憲法によって保護された表現の自由を侵害するとして認められなかったが、その代わりに「セクシャル・ハラスメント」という考えが性表現を規制する論理となった。そして、職場に性的なポスターを飾ったり卑猥な会話をしたりすることで職場環境を悪化させる「敵対的環境型ハラスメント」の適用範囲が、職場や学校を越えて公共領域全体へと広がっていった。これがアメリカにおいて「ハラスメントの論理」が流布していった大まかな流れだが、日本におおいても同様の経緯だろう。

 そして、ハラスメントにはセクハラだけでなく、人種に基づいた「レイシャル・ハラスメント」も存在する。1章で見たように、アメリカでは、1990年代ごろから徐々に大学などでのヘイトスピーチを罰する規定が出てきたが、そんなアメリカですら、州を跨いだヘイトスピーチ規制法成立は実現していない。性表現同様、ヘイトスピーチと特定の人種や民族を標的とした犯罪との因果関係が解明されていないからである。では、ヘイトスピーチはどのようにして規制すればよいのか。アメリカの法学者ジェレミー・ウォルドロンは、たとえ因果関係が証明されなくても、ヘイトスピーチやポルノは「公共の秩序」「社会の尊厳ある秩序」という観点から規制すべきだという。

 ウォルドロンが重視するのは、「秩序ある社会」という「見かけ」である。「社会の見かけは、その成員に向けて、社会が安心を伝える主要なやり方のひとつ」であるとウォルドロンは言う。彼がここで言う「安心」とは、「彼らはみな等しく人間であり、人間性に備わっている尊厳をもつこと。彼らはみな正義に対する基本的な権限をもつこと。そして彼らはみな、最もひどい形の暴力、排除、尊厳の否定、従属からの保護に値すること」に対する「安心」である。(『ヘイト・スピーチという危害』p.96ー98)。つまり、ヘイトスピーチ規制法とは、「秩序ある社会」という見かけによって、「市民」としての「尊厳」が重視されるというメッセージを伝え、人々を「安心」させるものである(p.145)。このような「安心」は、統計や社会学的調査といった客観的データではなく、きわめて主観的な感情に拠っている。果たして、このような主観的な「安心」や「快/不快」といった感情によって、表現を規制する法律を作ることはできるのだろうか。ポリコレをめぐる分断はこういった部分に起因するのである。

 

 と、以上の3章までの議論が、昨今の論争をアイデンティティの論理とシティズンシップの論理で整理した部分である。続く4章では、認知心理学などの最新の知見において、人間が「認知バイアス」によって普遍的に差別(差異化)意識をもっており、それをジョナサン・ハイトの研究からリベラリストにおいても同様であること、そして現代レイシズムがこれらの知見を動員し、エビデンス主義と結びつくことによって自らのアイデンティティ・ポリティクスを正当化していることなどが述べられる。5章では、上で挙げたシティズンシップの論理における「安心」への渇望が、いま中国に急速に実装されようとしている「統治功利主義」へと容易に共振してしまう可能性を指摘している。

 では、我々はアイデンティティの論理でもなく、シティズンシップの論理でもない、どのような論理によって差別を批判すればいいのだろうか。残念ながら、本書ではその答えは明示されていない。しかし、昨今のTwitterなどで繰り広げられる不毛な議論を交通整理するには、本書の議論はかなり有効であろう。

ブルデュー・ライール読書会まとめ

 P・ブルデューディスタンクシオン』、B・ライール『複数的人間』『複数的世界』、T・ベネット他『文化・階級・卓越化』の読書会をしたので、その中での論点をまとめる。私なりに解釈したこの研究会の趣旨は、まずは①ブルデュー理論を理解すること、②ブルデュー理論の欠点を理解すること、③ブルデュー以降の文化社会学ブルデュー式の)の展開を把握すること、だったと思う。この流れで簡単に論点を列挙していこう。

 

 

 

複数的人間: 行為のさまざまな原動力 (叢書・ウニベルシタス)

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複数的世界: 社会諸科学の統一性に関する考察 (ソシオロジー選書)

複数的世界: 社会諸科学の統一性に関する考察 (ソシオロジー選書)

 

 

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

  • 作者: トニーベネット,マイクサヴィジ,エリザベスシルヴァ,アランワード,モデストガヨ=カル,Tony Bennett,Mike Savage,Elizabeth Silva,Alan Warde,Modesto Gayo‐Cal,磯直樹,香川めい,森田次朗,知念渉,相澤真一
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2017/10/26
  • メディア: 単行本
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1.ブルデュー理論の前提

・関係論的社会学

 ブルデュー理論を理解する際に、まず把握しなければならないのはそれが「関係論的社会学」という土台の上に立っているということである。関係論的社会学を簡単に説明するのは難しいが、すごく平たく言うと「社会的存在が実体として(リキッドなものとして)存在するという考え方を否定し、個人は他者との関係の中で認識・行為を行う」という前提を採用する社会学の方法論的立場と説明することができるだろう。

 ブルデューはたびたびノルベルト・エリアスの議論を参照しているが、この関係論的社会学の考え方を採用すれば、例えば上流階級・中産階級・下層階級といったヒエラルキーがあり、彼らが集団として対立しているといった(ある種マルクス主義的な)社会像を抱くことは困難になる。それよりも、「階級」とはあくまでも分析者が複雑な現実を理解するために構築した概念道具でしかなく、実際に実践を行っている人々は階級内・階級間の関係の中で自らの認識を構成し、卓越化を行うという説明が可能になる。つまり、問わなければならないのは、その「関係」と「メカニズム」ということになる。 

 

 ・ミクロ・マクロリンク

 さらに、ブルデュー理論はいわゆるミクロ・マクロリンクを試みている。ミクロ・マクロリンクというと真っ先に思い浮かぶのはアンソニー・ギデンズであるが、ブルデューはギデンズが唱えるようなそれとは若干異なる。ギデンズは社会学の文脈の中でミクロ社会学(理解社会学現象学的社会学エスノメソドロジーなどのいわゆる方法論的個人主義)とマクロ社会学(方法論的集団主義)を接合することを目指したが、ブルデューの場合はフランスの人文学的文脈がそこに侵入する。すなわち、サルトル実存主義(ミクロ)とレヴィ=ストロース構造主義(マクロ)の接合である。ブルデュー理論は両者のいわばいいとこどりを試みようとしている(その結果、きわめて曖昧は認識論的立場になっているが)。

 補足しておくと、ギデンズがいう「再帰性」(reflexivity)とブルデューがいうそれにも大きな違いがある。ギデンズの場合はそれは近代論の文脈の中で提起されたもので、人間が行為する際にもはや社会的環境や行為を絶えず反省することを余儀なくされていることを説明したもので、ブルデューの場合は研究者(特に社会学者)の研究手法に対しての言及である。つまり、研究者は自らの分析・研究が対象者にフィードバックされたり、研究者が作り上げた概念(階級とか)がかえって現実を作り上げてしまう可能性を把握しなければならないという提言である。

 

・カント『判断力批判』批判

 『ディスタンクシオン』を全くの初見で読むと、何を明らかにしようとしているのかを把握するのは難しい。この本の副題「社会的判断力批判」から分かる通り、ブルデューがここで批判の対象としているのはカントである。カントは「形式」を重視する見方こそが「美学」であると主張した(これも雑な説明で申し訳ないが)。例えば映画ポケモンを見に行ったとしよう。「内容」を重視する人は単純に「ピカチュウかわいかったねー」で終わるだろうが、「形式」を重んじる見方をする人はその作品の背景を監督の経歴やスタッフから考察し、画角がどうだとかここには○○事件のメタファーが入っているだとかをあーだこーだ言うだろう。こういったメタ的な芸術鑑賞の仕方をカントは「美学」だと述べたのである。そして、ブルデューはこの見方は社会的に作られる、つまりその人が置かれた社会的位置によって作られるのだと主張することによってカントに反論しているというわけである。それを理解するためには、『ディスタンクシオンI』のp.69やp.72の写真のエピソードなどが分かりやすいだろう。

 

・(ハビトゥス)(資本)+場=実践

 ということで上の有名な公式が出てくる。もっと分かりやすく説明するならば「場」が右辺の最初に来るだろうが、要は社会的アクター(ブルデューは「アクター」という言葉よりも「エージェント」という言葉を使うが)は種々の社会的位置(場)に配置され、その中で自らに配分された資本や身体化・客体化されたハビトゥスをもとに実践を行う。したがって、上でブルデューはミクロ・マクロリンクを試みていると述べたが、どちらかというと構造主義的立場に近い。しかし、場に配置されたアクターがハビトゥスをもとに位置を移動する可能性を必ずしも否定していない点に彼の理論の複雑さとずる賢さがある。

 この場を特定すること、そして人々の立ち位置(position)を経験的に特定することは言葉で言うよりずっと難しい。それを(成功しているかはともかく)経験的に示そうとしている点に『ディスタンクシオン』の最大の面白さがあると言ってもいい。それが上巻p.192-193のあの有名な対応分析の図である。その図では、Y軸に資本量の多寡、X軸に経済資本と文化資本の多寡をそれぞれ設定し、社会的位置空間(階級や職業のプロット)と生活様式空間(趣味のプロット)をそれぞれ配置することで描かれる空間である。既存の回帰分析的な手法ではなく、このような対応分析の手法を用いている点にも上述した関係論的社会学の考え方が通底している。つまり、回帰分析では分析者があらかじめ仮説として設定した独立変数と従属変数がどれだけ有意な関係にあるかを調べることしかできないため、いわば社会の静的な状態しか把握することができない。しかし、対応分析では階級・職業間の位置関係やそれらと趣味との関係や距離が分析者の想定していない形であらわれるため、諸変数の関係性を発見的に取り出すことができる。そして、そこから場が設定されるという仕組みである。

2.ブルデュー理論への反論

・場をいかにして措定するのか?

 ブルデュー理論は勉強すればするほどよくできた理論であることが分かる。これを否定するのはかなり難しい。なぜなら、人間の認識や戦略は彼らがおかれた社会的位置によって決まるとしており、場のゲームにあらゆるアクターが半強制的に参加していると前提されているからである。『ディスタンクシオン』の中では、支配階級がどんな趣味が正統であるかを決定し、中産階級はその正統性をひっくり返そう、あるいは支配階級の仲間入りをしようともがき、労働者階級はゲームに参加しているとも知らずに既存の正統性を追認していると想定されている。つまり、労働者階級はゲームに参入していることすら気づいていないのである。しかし、彼らは本当にゲームに参加しているといえるのか?ブルデューはイエスという。ゲームのルールすら知らず、ピッチの中でぼーっと突っ立っているだけでも彼はゲームの参加者であるといえるのである(少なくとも理論的・論理的には)。そして、「こんなゲームばかばかしい」と言っている人もある意味ではゲームの存在を認めている点でゲームに参加しているといえる。そして、自らの立場(ゲームの前提自体を否定する)を表明することで卓越化をしているのである。いわば最強の理論である。ここらへんのブルデュー理論の、特に「場」の概念の理論負荷性の強さという議論は北田暁大が以下の本の中でも指摘している。

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

 

 だがやっぱり腑に落ちないのは「場」をいかにして措定するのかということである。それは研究者が理論的に設定するだけで、経験的に(例えば統計的に)境界を措定することはできないのでないだろうか(上述の北田論文はそれを経験的に措定しようと試みた研究である)。ここらへんの理論的な穴がやはりどうしてもブルデュー理論には付きまとう。ということで、ここでもう一度「場」とはどのような特性を持っているのかをライールをもとに整理してみよう(ライール『複数的世界』p.144-147)。

①場は全体的(国家的、国際的)社会空間が構成するマクロコスモスのなかのミクロコスモスである。

②それぞれの場は、そのほかの場のゲーム規則と賭け金に還元できない、特殊なゲームの規則と賭け金を有している。

③場は「システム」ないし、場の様々な行為者(agents)によって占められる諸位置の構造化された「空間」である。

④この空間は闘争の空間である。つまり、様々な位置を占める行為者(agents)同士で競合や競争がなされる闘技場(arena)である。

⑤闘争は場に特殊な資本の領有(特殊な資本の正統的独占)および/あるいはその資本の再定義を賭け金としている。

⑥資本は場の内部で不平等に配分されている。したがって、支配者と被支配者がいる。

⑦しかしながら、相互に闘争している場の行為者たちはみな、場が存在することに対して利害を持っているがゆえに、彼らを対立させる様々な闘争を越えたところで「客観的共犯関係」を維持している。

⑧それぞれの場に対して、場に固有のハビトゥス(身体化された性向のシステム)が対応する。場に固有のハビトゥスを身体化した者だけがゲームを行い、そのゲーム(の重要性)を信じること(=イリューシオ)ができる。

⑨場は相対的な自律性を有している。場の外部の闘争の結果が、内的な力関係の結末に強く影響を及ぼすとしても、そこで展開される闘争は独自の論理を持っている。

 と、このように「場」の概念が内包する特性を列挙すれば、果たしてこれだけの特性を全て兼ね備えた事例があるのかどうか疑わしくなる。したがって、「場」の概念を使うときはこの中のどのような特性を有しているかを明示したうえで、限定的に使うくらいしか今のところ使い道がないのではないかと思う。例えば、「場」と「資本」「ハビトゥス」を全てセットで使わなくとも、「場」だけの概念を使用する場合はそうする理由を明示するみたいな(例えば、分析対象が確かに外部の空間とは異なる論理で動いているといえる場合など)。今はそれぐらいしか言えない気がする。

 

 ・ハビトゥス概念の理論的乏しさ

 ブルデューは度々「ハビトゥス」について述べているが、この概念を詳しく事例研究の中で展開したことはない。ブルデューの初期の研究である『資本主義のハビトゥス』などでは少し言及されているが、それも短いエッセイ的なものにとどまる。ブルデューはそれぞれの場の固有の社会的位置に配置された者が、そこで有効に作用するハビトゥスによって実践を行うと主張する。言いかえれば、その人がそのような実践を行っているのは「そのようなハビトゥスを持っているから」と説明するのである。しかし、これは裏を返せば、何かを言っているようで構造決定論というかハビトゥス決定論に陥りかねない。問わなければならないのは「そのハビトゥスとは何なのか」「どのようにハビトゥスが有効に活用されるのか」といったことである。後年、ブルデューハビトゥス概念よりも場や構造の分析に終始するようになり、ミクロな動態を分析する視座が薄まっていったのはやや残念である。

3.ブルデュー以降の文化社会学

・性向+文脈=実践

 ということで、以上でブルデューの欠点などをあげつらってきたが、当然これらの欠点を埋めるような研究も多数提出されてきている。代表的な人物がB・ライールである。ライールはブルデューがマクロな構造の分析に埋没していったとは反対に、よりミクロな分析を行っている。そこで彼が提起したのが、上述の公式である。これはもちろんブルデューの公式を下敷きにしている。ブルデューが「ハビトゥス」や「資本」という概念に固執したのとは裏腹に、ライールは一貫して「性向」(disposition)という言葉を使っている。これはハビトゥスとは全く別物で、言い換えるならば「身体化された過去」とでもなるだろうか。性向は個人の中に一つというわけではない。個人の身体の中に多数ストックされている(それらの身体化された性向のシステムのことを「ハビトゥス」という)。そして、個人が個々の文脈の中に埋め込まれた時に、それらの埋め込まれたストックが生起される(プルースト失われた時を求めて』の紅茶のシーンさながら)。その発露が実践というわけである。ここでライールが「場」ではなく「文脈」を使っている理由は、上述したように場の概念を使ってしまうとすべての行為者が闘争のゲームの中に参入してしまうことになるという一面的な人間理解を避けるためである。「文脈」は別に闘争のアリーナを想定しているわけではないし、その中でみなが卓越化のゲームをしているわけではない。まあブルデューよりかなり穏当な主張である。

 

・文化的オムニボア

 また、ブルデュー以降の文化社会学では人々の趣味に関するより詳細な研究がなされている。その一つが「文化的オムニボア」に関する研究である。これは簡単に言うと、ブルデューが言うように階級ごとに人々の趣味がくっきり分かれているわけではなく、特に中産階級においては趣味の幅広い摂取傾向が見られるというものである。

 まあこれは言われてみれば普通の主張である。普段生活していても多趣味で、とにかくせわしなくどんなものもとりあえずかじってみるみたいな人は多く見る。そして、こういった傾向を持つ人は肌感覚としても中産階級が多い気がする。というのも、中産階級は労働者階級のように機能性や用途を重視して趣味を選ぶわけではないし、かといって上流階級ほど選択できる趣味の幅が狭くないからである(下品なテレビばっか見たらだめよとは言われない)。さらに、『ディスタンクシオン』の時代に比べて現代ではメディアの影響でどんな人々も均等に同一文化を摂取できる土壌が整っている。現代では文化の中身だけでなく、「どれだけ多くの趣味を持っているか」が卓越化の根拠になっているというわけである。そう考えれば確かに、文化的オムニボアは現在の状況を説明するのに有効な概念である。

 

 と、こんな具合にとりあえずのまとめを行ったが、まだまだブルデュー理論は理解できていない部分も多々ある(例えば、「相同性」の話とか。どの場においても支配ー被支配の原理は変わらないとはどういうことか、ハビトゥスは場を移動しても置き換え可能なのか?)。ここを足がかりに分からないところを埋めていければいいかなと思う。

【香港現地レポート】「2000000+1」ーー「逃亡犯条例」改正反対デモとそれぞれの「香港」

 最近、香港に関するニュースを見ない日はない。言うまでもなく、香港政府が改正を急ぐ「逃亡犯条例」をめぐって、連日香港市民の抗議デモが多発しているからだ。
 すでに、日本でも香港のデモを詳細に分析した記事やレポートは数多く提出されている。なので、ここでは「逃亡犯条例」について、またそれが問題化した経緯については省略させていただく。それらの詳細を知りたい方は、ライターのふるまいよしこ氏の以下の二つの記事を読んでいただきたい。香港に根ざした目線で書かれていて非常に分かりやすい。
blogos.com


gendai.ismedia.jp

 
 ほかにも、やや視点は異なるが、同じくライターの清義明氏の記事も今回のデモの一側面を知る上では役立つだろう。

hbol.jp

 

 6月9日の103万人デモ、そして6月16日の200万人デモが「平和的」であったか「暴力的」であったかを判断できるほど私は現地に精通しているわけではない。だが、実感として現実はその両方であったのではないだろうかと考える。一方で、あくまでも警察に手を出さなかったデモ隊もいれば、他方で手に持っていた傘などで無抵抗の警察を殴打する市民もいた。現在、市民は香港政府による両日のデモの「暴動」「暴徒」認定を訂正し、逮捕された「義士」を解放するように要請しているが、一連の衝突が「暴動」であったかどうかを検証することは今後も難しいのではないかと個人的には考えている。

 以上のように、一連のデモに関するレポートはおおむね出そろったようだ。しかし、デモの様子や雰囲気を知ったからといって、香港の現状を理解することは難しい。現在、香港を知るために最も不足しているのは、香港人が何を思ってデモを起こしたのか、そしてデモの背景にある香港人アイデンティティについての情報である。日本で暮らしていて日本メディアの報道だけを見ていると、そういったリアリティがなかなか伝わってこない。香港人の「生の声」を取り上げた稀有な記事としては、中国関連のルポライター安田峰俊氏のレポートがあるが、こういった記事がデモからしばらく経った今の時期にもっと出てくるべきではないだろうか。私も安田氏にならって6月19日~21日にかけて香港現地に訪れ、そこで見たもの、そして実際に聞いた香港人の「生の声」をここに書き記してみたい。

 

bunshun.jp

bunshun.jp

 

 安田氏の記事を見てみると分かるように、デモに参加した香港人は日本の報道で見られるような「一枚岩」ではない。各々でデモに参加するインセンティブも熱意も違う。今回、実際に香港に足を運んで現地の人に話を聞いてみて、日本人にも香港人の複雑な思いと重層的なアイデンティティを理解してほしい、今回の事件を一過性のものとして終わらせたくない。そんな思いで、いま私は筆を握っている。もちろん、私の聞いた話が香港のすべてではないと思うが、読者が香港を知るための一助になれば最上の喜びである。

 

1.大規模デモ後の香港(6月19~20日

 香港人の「生の声」を見ていく前に、まず私が訪れた6月19日~21日にかけての香港の様子を写真や香港人の友人の話をもとにレポートしていこう。

 この時期には、日本でも大きく報道された6月16日の200万人デモからしばらくたっていたため、街はすでに落ち着きを取り戻していた。いや、落ち着きというより、いつものあのせわしない香港の日常に戻ったと言ったほうが正確だろうか。日本で報道されていたような市民と警察の衝突を予想していた私は、空港から市街地に着いた時やや拍子抜けしてしまったのを覚えている。

 ホテルに荷物を置いた後、香港人の友人Tから連絡があり、先日のデモの現場を案内してもらえることになった。願ってもないことである。私は急いで大規模デモの中心地、アドミラルティ(金鐘)へと向かった。

 後述するが、Tは香港人としての気概を持った熱い性格の持主である。私が話を聞きたいとSNSで連絡すると、Tは最大限のもてなしをしてくれた。歩きながらTが、「香港はもっと国際社会の助けが必要だ。特に日本には期待している」と言っていたのが印象的だった。とにかく香港のことを多く人に知ってもらいたい。そういう思いから、時間を割いて私にデモの様子を教えようと考えたのだろう。

 

 Tはまず私を立法会へと連れて行ってくれた。今回の逃亡犯条例改正反対デモの中心的舞台である。そして、その横にそびえたつのが政府総部である。普段は香港の立法と行政を司るシンボルのような場所だが、いまや香港市民にとっては暴君の根城にしか見えないのだろう。写真の下を見てみると分かるように、ビルの下には抗議の弾幕などが下げられたまま放置されていた。

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後ろに見える黒いビルが立法会。「立」の文字が刻まれている。

 そして、政府総部のすぐ隣には人民解放軍駐香港部隊ビルが建っている。もともとは英国統治時代に駐香港イギリス軍の所有するビルだったが、1997年の香港の中国返還以降は人民解放軍がそのままビルを接収した。Tによると、普段は人民解放軍が外を出歩くことはなく市民と交流することはないようだが、ビルの威圧感と「有事の際にはいつでも出てこられる」という恐怖感だけでも市民を畏怖させるには十分だろう。

 次にTは人民解放軍ビルの下が見える位置に私を連れて行ってくれた。ここは6月9日のデモの際に、デモ隊が無防備な海外レポーターに傘やゴーグルを渡す場面が撮影された場所らしい。この映像は海外でも広範囲に拡散されたが、Tの口ぶりからしてそれはいかにデモが「平和的」だったか、そしてデモ隊が「理性的」な行動を心がけていたかを示すエビデンスとなっていたようである。

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人民解放軍駐香港部隊ビル

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人民解放軍ビルの下

 

 金鐘駅がある側から政府総部があるほうへ移動する橋の上には、市民らの怒りの声が所狭しと敷き詰められていた。中にはキャリー・ラム行政長官を名指しで罵倒するような張り紙もあり、日本の地下通路などによくある落書きに近いものを感じさせる。

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 橋を下っていくと、階段の壁にはこれまた無数のポストイットサイズの紙が貼りつけられている。そして、階段を降り切った突き当りには花が添えられていた。今回のデモで抗議自殺した男性の追悼場である。後述するように、実際の現場はここではないが、政府に対する抗議も含めてここに追悼場を作ったのだろう。私がここに居合わせた時にも花を手向けたり、ポストイットで新しくメッセージを書いていく人が後を絶えなかった。

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 実際の現場は政府総部の道路向かいの工事中のビルの下である。私が行ったときは多くの人がここで花を手向け、手を合わせていた。追悼の仕方は線香をたく人もいれば、ろうそくを指していく人もいる。Tによると、中国では死者に対して黄色い花を、欧米では白い花をお供えするらしい。ここにはその両方があった。それぞれが自分のスタイルで追悼し、ここを後にしていく。「実に香港らしいだろ?」とTは誇らしそうに言っていた。

 今回のデモではじめて出してしまった死者は、確実に香港市民の怒りを増長してしまった。もちろん、これは政府や警察が手を下したものではない。だが、彼の動機が何であれ、一人の人間の死はシンボリックに人々の感情を逆なでし、動員していくには十分すぎるものだった。この事件を契機に運動はいっそう激化していったように思う。

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 Tは私を案内しながら、何度も香港政府に対する怒りを漏らしていた。日本の報道では、今回の香港のデモの背景に中国政府に対する不信感がある、中国政府が後ろで糸を引いているといった内容がセンセーショナルに流されている。もちろん、それは遠因としては考えられるだろう。だが、私が香港人に聞いた限り、今回のデモを中国政府に結びつけるようなことを言う人はいなかった。彼らはあくまでも「香港政府のやり方」に不信感を抱き、異議を唱えたのである。民主主義と自由が約束されたこの地で、香港政府が民意を無視して審議を勝手に進めていることに対して、そして香港人のための警察が市民に銃を向けたことに対して怒っているのだ、と。

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政府総部前

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「香港」と書かれいるが、左に90度回転すると「加油」(がんばれ)になるアンビグラム

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 Tは去り際に政府総部ビルの屋根を見ながら、こうつぶやいていた。「政府総部の天井は中心に穴が開いている。これは天に向かって扉を開き、神の声を聴くという意味がある。何が神だ。本当に聞かなければならない声は下にあるというのに」。その言葉はデモに参加する全香港市民の声を代弁しているかのようだった。

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政府総部の天井

 

2.警察総部包囲デモ(6月21日)

 「もし今日香港政府が逃亡犯条例の「撤回」を表明しないと、明日早朝からアドミラルティで大規模なデモが行われるみたいだよ」。20日夜、Tは香港人がよく使っているSNSサイトを見ながら私にそう教えてくれた。日本のテレビで見たようなデモが見られるかもしれない。私は次の日、早朝7時にアドミラルティに足を運んだ。

 朝7時のアドミラルティは人もまばらで、本当にここでデモが起こるのかと疑わしくなるくらい平和な日常が流れていた。無理もない。その日は金曜日で、まだ普通の人であれば朝起きて、朝食を取り、スーツに腕を通すような時間帯である。金融系企業が集積するアドミラルティ香港人に限らず、欧米人などのスーツ姿のビジネスマンが忙しそうに歩いていた。

 だが、朝9時ごろになると、徐々に駅前にも人が増え始めた。しかも、その大半が黒いシャツを身に着けている。彼らを一目見てデモ参加者であると判断がついた。今回の一連のデモでは、参加者はみな黒シャツを着ていくようにと呼びかけ合っているからだ。これは「ブラック・ブロック」と呼ばれる、主に欧米での暴力的な無政府主義運動団体の抗議手法を真似したものである。最近ではフランスの黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)運動などでもこのような過激なアナーキストが局地的に暴動を起こしたというニュースがあった。だが香港の場合、それは「暴力」の表明として身に着けているというよりも、「反政府」(=アナーキスト)の象徴として身に着けていると解釈した方がいいだろう。老若男女それぞれが自分のタンスの中にあった黒い服を引っ張り出して着てきたという雰囲気だった。

 11時ごろに政府総部前に行くと、すでに多くの黒シャツの集団が座り込んでいた。この日はカラッと乾いた快晴だった。デモ参加者は日陰を探したり、傘をさしたりして焼け付くような太陽の日差しを避けていた。そうこうしていると、徐々にメディア関係者も集まってきた。香港のメディアだけでなく、欧米のメディアも数多くいる。おそらく日本のメディアも中にはいただろう。学生たちに今回のデモに集まった理由などを聞いて回っていた。

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政府総部下。大きな踊り場があってそこにデモ隊が集合している。

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 デモ参加者が集まり始めたころ、何やら学生団体が人ごみをかき分けて演説をし始めた。2014年の雨傘運動の際にも、このような学生団体が率先してデモ隊を先導していったとされる。雨傘運動と比較して、今回のデモ(特に200万人デモ)は明確なリーダーを欠いたスタンドアーロン的な運動だと言われるが、実際にはこのような団体が指揮を取っている側面はあるのだろう。実際、6月9日のデモなどをよびかけたのは「民間人権陣線」という民主派市民団体であったという。ただ、雨傘運動の際にも、そして日本のかつての安保闘争の際にもそうであったが、懸念すべきは明確なリーダーが出始めてしまうとそれに賛同する者、反対する者の間で内ゲバが起きてしまうことである。香港全人口の3割近くの動員という前代未聞のデモが成功したのはある意味で明確なリーダーがおらず、それぞれの市民が主体的に運動に参加したからであった。そのよい流れを壊さないようにいかに舵を取っていくのかは抗議団体にとっても最大の課題だろう。

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 正午12時を回ったころ、政府総部前の道路が何やら騒がしいことに気づき、すぐにそっちに移動してみる。すると橋の上から、これまで歩道を歩いていたデモ隊が徐々に道路のほうへと侵食し始めているのが見えた。道路には走行中の車両が列を作っている。しかし、デモ隊は気にせず車の前に立ちふさがり、ほかのデモ参加者たちにも道路に出るように両手を上に広げて誘導している。そして、堰を切ったように市民は歩道から出ていき、瞬く間に道路をオキュパイしてしまった。

 当初、車やバスなどはデモ隊によって立ち往生させられていたが、浸食してきたデモ隊は徐々に自発的に車に道を開けていくようになった。16日に見られた、デモ隊が救急車に道を開くのと似た光景である。モーゼの十戒のように人が横にはけて、車がスーっと通っていく。中には、デモ隊を応援してか、クラクションをリズミカルに鳴らしながら通っていく車もあった。反対に、デモ隊はそういった車を拍手をしながら送り出していった。

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中には自発的に交通整理を始めるデモ参加者もいた

 

 アドミラルティをオキュパイしたデモ隊は堂々と道路を行進して、香港警察署前まで移動していった。警察署の裏口に立ち止まったデモ隊は一斉に抗議の声を上げ始めた。先日のデモにおける警察の暴力行為に対する謝罪の要求や、逮捕されたデモ参加者の釈放を求める掛け声が警察署前に響く。裏口の門の前には立ち往生してしまった警察車両があった。中には5~6名の警官が座っている。彼らに対して市民が罵倒を浴びせていたが、車内の警官は顔色一つ変えない。前回のデモ以来、警察から何か手を出すことは上から固く禁じられているのだろう。あくまでも冷静な表情を貫いていた。そして、門前に市民は手際よくバリケードを張っていく。門の後ろでは警官が棒立ちでその様子を見つめている。この温度差はどこか滑稽ですらある。

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警察車両の下にはコーンなどが入れこまれ、通過できないようにしてある。

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遠くを見つめる警官

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警察署前には手際よくバリケードが張られていく

 デモ隊はさらに警察署の正面玄関へと回り込む。そこにはすでに多くの抗議者が集まっており、拡声器で声を上げていた。中心には二日前に釈放された雨傘運動のリーダーであり、香港デモシストの党員であるジョシュア・ウォンの姿もある。さすがにデモの戦い方を分かっているのか、彼の威勢のよいアジテーションとともに市民の熱気はまた一段と上がる。メディア関係者も、いい瞬間をカメラに収めようと彼の周りに群がる。メディア露出が多い彼はメディアが喜びそうな言葉を選択するのが非常にうまい。自らシャッターチャンスを演出するために、言葉と言葉の中間に「間」を作り、後ろのカメラにも写るように周囲をぐるりと見渡す。ジョシュアのアジテーションに呼応するように、みるみるうちに警察署前にはデモ隊が集まっていった。

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ジョシュア・ウォン

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雨傘のもう一人のリーダー、アグネス・チョウ

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警察署前に先日の警察の「暴力行為」の証拠をペタペタと張り出す学生たち

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警察署前のデモ参加者

 ここで私のフライトの時間が迫ってきたため、一時戦線から離脱してアドミラルティに戻った。すでにそこには車の姿はなく、学生たちが座りこんで歓談をしていた。まるで高校の昼休みのような雰囲気である。ふと上を見上げると、橋の上には今回のデモ隊の要求が掲げられている。①逃亡犯条例改正の全面撤回、②逮捕者の釈放、③6月12日デモの「暴動」認定の撤回、④警察による暴力行使の検証。ネット上では、ここにさらに⑤キャリー・ラム行政長官の即時辞任、を加えた五つの要求が出回っている。しかし、この日、結局香港政府は逃亡犯条例改正の「撤回」を明言することはなかった。SNS上では、今後も香港市民による戦いは続くという声が拡散されていた。

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占拠した道路上で歓談中の風景

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アドミラルティ付近の橋に架けられた弾幕。デモ隊の四つの要求が掲げられている。

 

3.香港人アイデンティティ

 ここまで、大規模デモ後の香港と6月21日のデモの様子を観察してきた。最後に、私がこの滞在期間の前後に話を伺った香港人の声を届けたい。私が今回のインタビューで伺ったのは、主に①今回の条例改正に対してどう思うか、そして②香港に対して帰属感を持つかどうか、の二点である。そして、これらの「生の声」をもとに、条例改正に反対する層とそうでない層の違いや、複雑な香港人アイデンティティの諸相を解明していきたい。

 三名のインフォーマントの簡単なプロフィールは以下の通りである。

  • Mさん(26)。修士課程から来日し、現在は日本の大学院で博士2年生の香港人。日本の滞在期間はすでに3年半ほど。香港生まれ、香港育ち。来日するまでは大陸人と接触する機会は少なかった。現在は留学生寮で大陸人と交流する機会が多い。
  • Aさん(22)。香港の大学に在学中の香港人。香港生まれ、香港育ち。現在、IT技術や翻訳について勉強している。今は技能を身に着けて、ゆくゆくはオーストラリアなどで仕事をしたいという。大陸人と接触する機会は非常に少ない。
  • Tさん(22)。香港の大学に在学中の香港人。香港生まれ、香港育ち。すでに香港の会社に内定が決まっている。大学では哲学を専攻。前二者と比べると、香港人としてのプライドが非常に高い。大陸人と接触する機会は非常に少ない。

 

①逃亡犯条例について

 まずは今回の逃亡犯条例について伺った。Mは今回の逃亡犯条例改正には「反対」であるという。なぜかと問うと、「十分な審議の時間を確保していなかったからだ」と答えた。逆に十分な審議が尽くされ民意がOKなら条例改正には賛成であるという。Mが反対する理由は条例改正の内容というよりも、行政の手続き上の正義が尽くされていないことに対してであった。また、香港政府は「そもそも犯人を捕まえるためにこの条例改正に踏み切った」とか、香港警察に対しても「警察は早めにデモを鎮静化させるために催涙弾やゴム弾を使ったのでは」と、いくらか同情的な反応を示していたのも印象的である。

 Aは今回の逃亡犯条例改正には「反対」を表明している。だが、Mとは違ってそれは手続き上の問題というよりも、そもそも内容に不満があるからだ。2015年、香港にある洞羅湾書店の従業員が突如中国当局に拘束されるという事件が起きた。Aはこの事件を引き合いに出して、「中国と香港では法律や法治の考え方が異なる。今回の条例改正が通れば、香港の出版の自由が脅かされ、自分も書店員と同じ運命をたどるのではないかという不安がある」と語った。Aは9日のデモに参加している。そして、香港警察の「暴力行為」を強く糾弾していた。Aいわく、「警察内部のリーダーは暴力を正当化している。9日の暴力行為に関してはしっかりとエビデンスがある」。

 最後にTである。Tは16日の200万人デモにも駆けつけ、前述したようにその際のデモの様子を詳細に説明してくれるほどなので、当然条例改正には「反対」である。また、私が質問せずとも、自分から今回の条例改正の問題点などをいくつも指摘してくれた。その内容はおおむねこれまでメディアなどで指摘されていることなのでここでは省略する(法治や自由の侵害、審議時間の短さなど)。条例改正の内容もさることながら、その口ぶりからキャリー・ラムに限らず行政府全体に対する不信感が見て取れる。エスタブリッシュメントへの不信感とでもいえるだろうか。前二者と比べても、断固として今回の条例改正を阻止するという意気込みが見える。

 三者を比べて指摘できるのは、まず第一にMとA・Tの温度の差である。明らかに条例改正に対して反対を表明しているAとTに対して、Mは手続き上の正義が確保されればいいんではないかと語った。この差が何に起因するのかを特定するのは簡単ではないが、一つは実際に香港現地にいるかどうかが関わっているのではないかと考えられる。香港のメディアやSNSで現地の様子をリアルタイムで受信している人のほうがデモ参加者に共鳴する確率は高い。また、まわりに自分と共感する意見を持っている人がいるかどうかで共鳴の度合いも変わるであろう。Mは今回のデモの様子をテレビで見て、それをルームメイトの大陸出身の人に見せたところ、一言「頑張って」と言われたらしい。そのような環境が、ほかの二者と比べてMをしてデモに参画するインセンティブに失わせたのかもしれない。

 だが、この仮説には無理がありそうだ。なぜなら、報道でも出ていたように、在日香港人の中にも今回のデモを受けて日本で声を上げた人が何人もいたからだ。そういう意味では、「香港現地にいない」という条件だけではMとA・Tの温度差の違いを説明できない。そこで二つ目に考えられる要因は「大陸人との接触頻度」である。つまり、大陸人との接触頻度が多い人ほど、おおっぴろげて条例改正に反対を表明できないのではないかという仮説である。三者を比べると、ほとんど香港から出たことがないAとTと比較してMは最も大陸人との接触が多い。また、日本で起こった抗議運動は香港人コミュニティが中心となっている。つまり、Mと比べて抗議団体は大陸人と接触する頻度よりも香港人接触する頻度のほうが相対的に多いと考えられる。

 これらは仮説に留まり、実際に実証するにはもっと多くのサンプルを各層に分けて統計調査が必要だろう。だが、新たな変数として注目に値するのではないだろうか。

 

香港人アイデンティティについて

 次に、香港人アイデンティティについてである。香港大学が行っている調査では、香港市民の中で自らを「香港人」とアイデンティファイする割合は40%、「中国の香港人」とアイデンティファイする割合は26.3%ほどである(2018年)。両者を合わせた割合は近年上昇傾向にあり、「中国人」と答える割合(15.1%)と「香港の中国人」と答える割合(16.9%)と比較すると香港人アイデンティティを持つ人の割合は増加傾向にあることが分かる。ちなみに、18~29歳の若者に照準を絞れば、「香港人」と答える人の割合はすでに約60%に達している。これから見ていくのは、この世代の人々の意見である。

 まず、率直に「あなたは自分のことを何人だと思いますか」という質問をぶつけてみた。Mは「○○人」という明言は避け、ただ「香港に対する帰属感は強いほうだ」とだけ返した。「では、香港に帰属があると思う理由は何ですか」と続けたところ、返ってきた答えは「団結力」であった。つまり、香港には自分の意見を出すことができる自由があり、デモの様子からも分かるようにみなが平和的・理性的にチームワークを発揮しているところに自分が香港に帰属感を持つ所以があるというのだ。その際、Mが引き合いに出していたのは、SNSなどで上げられていた救急車にデモ隊が道を開ける映像である。これこそがデモが平和的である証拠であり、香港人が団結力を持っている証拠だというわけである。

 続けてMに、「香港人であるために必要だと思うことは何ですか」と問うてみた。すると、Mは「公民意識」と「文明意識」であると即答した。Mの口ぶりからして、そして後述するAとTのインタビューでも見るように、これこそがおそらく香港人が考える香港の最大の強みだろう。Mは、香港は「開放的」で「フレキシブル」「環境に適用する能力が高い」と強調した。そして、香港にプライドを持つ理由として①フレキシブルであること、②公民意識が高いことを挙げていた。

 Aにも同様の質問をぶつけてみた。「あなたは自分を何人だと思いますか」という質問に対して、Aはしばし沈黙した後、「難しい質問だね」といって考え込み、そしてこう述べた。「そもそも「中国人」か「香港人」かという二者択一が不公平だ。日本にも北海道や沖縄があるだろう?中国大陸にも北から南、西にはチベットウイグルもあるじゃないか」。そして、Aは「中国人」という大きな区分の中に「香港人」がある感じだと語った。つづけて「香港人」と答える人は香港のどこにアイデンティティの拠り所を求めているのだろうかと私が問うたところ、「香港の生活スタイルや文化ではないか」と答えてくれた。例えばどんな文化なのかと聞くと、「香港は商業に特化している。インターネットも発達していて外国のサイトもたくさん見られる」と語った。その口ぶりから察するに、その言葉は「香港以外の中国大陸ではそれらを見ることができない」ということを言外に示していた。

 また、「香港にプライドを持ちますか」という質問に対してAは「はい」と即答した。そして以下のように続けた。「香港は日本や中国のように長い歴史があるわけではなく、100年やそこらの歴史しかない。だが、だからこそ色々な海外の移民や文化を取り入れることで変化してきた。そこに誇りを感じる。例えば、香港料理は広東料理などを取り入れながら独自の食文化として発展した」。このような回答は前述のMとも共通する。

 Tは前二者と比べて、何のためらいもなく自らのことを「香港人」であると答えた。そして、大陸人のことが「あまり好きではない」と明言した。香港人としての意識の強さはどこに起因するのか聞いたところ、「香港での生活が長く、emotionが完全に香港にある」とか「文化や経済システムが香港と大陸では全く違うから香港に愛着を持っている」といった回答を得た。前二者と同様に、香港のどこに誇りを感じるのかという質問をぶつけたところ、「いろいろなバックグラウンドを持つ人がいるところ」と答えた。これは前二者とも重なる回答であった。

 また、Tは中国の文化が香港に入ってくることに対して非常に強い危機感を抱いていた。例えば、香港が中国に返還されて以降に生まれ育った世代はすでに大陸のテレビ番組やSNStiktokとか)を何の疑いもなく享受している。さらに、最近では香港の中高生の歴史教科書も大陸の内容が多くを占めるようになってきた。例えば、もともと英国統治にあった香港は大陸とは別の経路で経済発展を遂げたが、最近では1980年以降の大陸の「改革開放」の歴史と絡めて香港の経済発展を記述する内容になっているという。 Tはこういった傾向に警鐘を鳴らし、子供たちの”clitical thinking”がなくなってしまうのではないかと不満を述べていた。

 

 M、A、Tはそれぞれ年齢は近いが、それぞれ違う考え方を持つ香港人だった。いい具合に香港人の若者をランダムにサンプリングすることができたのではないだろうか。

 さて、以上の結果から何が分かるだろうか。まず最初に指摘しておくべきは、香港人アイデンティティの度合いの違いである。三者の回答をもとに香港人アイデンティティの度合いが強い方から並べると、T→A→Mであった。そもそもアイデンティティの度合いをどうやって測るのかという手痛い批判が来そうだが、ここでは三者の回答から私が主観的に判断した。この違いは何に起因するのだろうか。一つ考えられるのは「香港に在住しているか否か」である。Mは前述したように、来日してからすでに三年半がたっているが、AとTは香港から長期間出たことはない。それが帰属感の度合いに影響した可能性は考えられる。

 二つ目に考えられるのは「将来的に香港で暮らす予定があるか否か」である。Tはすでに日本に留学しており、卒業すれば香港に戻るのかという質問に対して「分からない」と答えた。また、Aは現在大学でIT関連の勉強をしており、ゆくゆくはオーストラリアなどの欧米圏で仕事をしたいと述べていた。彼らは話をしていて、香港の未来に対して非常に悲観的な見方をしていたのが印象的だった。Aは香港の若者たちが大陸の文化を無批判に受け入れるようになっていることを指摘して、「私は完全な中国人ではないが」彼らはどんどん香港人アイデンティティが薄れていくのではないかと危惧していた。さらに、最近、大陸の富裕層が香港の不動産を投機目的で買い占め、香港人が住む家がなくなりつつある。Aいわく、「香港の人たちは歩いていて顔が険しい。あまり未来に希望が持てない」。香港に対して悲観的な見方を持つ若者は香港への愛着が相対的に低いのではないだろうか。

 余談だが、このような移動可能性(自由に移動できるか否か)がアイデンティティに強く影響を与えるというのは香港に限らず、最近とみに語られることである。例えば、イギリスのジャーナリスト、David GoodhartはBrexitを受けて著書“The Road to Somewhere”の中で、イギリス国民は「どこにでも行ける人々」(Anywheres)と「どこにも行けない人々」(Somewheres)に二極化していると説いた。前者は比較的高学歴で、移動の自由があり、開放的な価値観を持っている。例としては、グローバル企業のビジネスマンなどが当てはまるだろう。一方、後者は教育水準が比較的低く、集団や家族のアタッチメントが強く、安定を求める。Brexitの場合、これはブルーカラーの白人労働者などが当てはまった。グローバル化が進む昨今、新たな住民の対抗軸として「移動の自由」が人々のアイデンティティ形成に影響を与えていくというのは頷ける説明である。

 香港人の海外一般を含めた移動の頻度と香港人アイデンティティの関係を示す統計は見つからなかったが、一つ参考になりそうな調査結果を見つけた。台湾の社会学者、林宗弘が行った台湾と香港の比較統計調査によると、大陸との往来頻度が高いほど自らを「香港人」であると認識する人が少なくなる傾向があるという(林宗弘、2016、「革命前夕ーー台湾與香港民眾對中國效應與政府評價的比較」)。これは大陸と香港との移動頻度が香港人アイデンティティに影響を与えている証拠となるデータである。また、往来頻度は社会階級とも連動している。大陸との往来が多い方から順に、①資本家あるいは雇用主、②新中産階級、③非技術工、④自営業者となっている。大陸に工場や事業を展開する資本家や雇用主、そして旅行などの余暇に時間やお金を割くことができる新中産階級が往来の頻度が高いことは納得の結果である。

 MやAは上述したように、将来的に香港を出ることを視野に入れて勉学に励んでいる。しかし、Tは現段階で香港を出る見通しはない。三者の収入や学歴などを明確に聞くことはできなかったが、ここから仮説的に「移動の頻度が高い人ほど(あるいは将来的な移動の見通しがある人ほど)、香港人アイデンティティが低くなる」という命題を引き出すことができるのではないだろうか。

 次にインタビューを通して分かったことは、香港人アイデンティティが「シビックナショナリズム」に強く規定されていることである。ナショナリズム研究でよく引き合いに出される比較軸として、「エスニック・ナショナリズム」と「シビックナショナリズム」がある。前者は民族の血統などを重んじるナショナリズムであり、後者は血統などの先天的な要素よりも「市民としての権利や義務」などをもとに「国民」を同定するナショナリズムである。よく比較されるのはドイツとフランスである。ドイツは国籍においても「血統主義」を採用しておりエスニック・ナショナリズムの典型であるとされる。一方、フランスは「出生地主義」を採用しており、フランスの理念「自由」「平等」「友愛」の厳守を誓えば、移民にも「国民」としての門戸を開くシビックナショナリズムであるとされる。

 香港はこの整理に従えば、完全にフランス型のシビックナショナリズムに区分される。もちろん、香港の中にもシビックナショナリズムだけでなく香港人の民族性を喧伝する政党はあるが、それは少数派に過ぎない。インタビュー中にも、「香港人であるために必要なもの」や「香港のどこにプライドを感じるか」という質問に対して、三者とも「公民意識」や「様々なバックグラウンドを持っていること」、「開放的、フレキシブル」であることを挙げていた。これはそもそも英国の植民地統治から出発し、戦後は多くの政治難民の受け入れ場所として発展してきた香港の歴史を考えれば、まあ当然の結果である。

 問題はこのような香港の価値観が大陸の価値観と相いれないことである。大陸の中国政府が掲げるのは「中華民族の偉大なる復興」である。「中華民族」とは炎帝黄帝の子孫である漢民族のことを指し、この思想はいわば日本でも流布している「単一民族神話」に近い。いうなれば非常にエスニック・ナショナリズム的な考え方である(中国は国籍においても血統主義を採用している)。もちろん、中国には漢族だけでなく55の少数民族がおり、彼らも「中華民族」に含むとしているが、実質的には全人口の90%を占める漢民族のための国家である。そして、香港にいる華僑の多くは、戦争や文革天安門事件などの際に大陸から香港に移り住んだ政治難民である。中国政府からすれば、彼らは血統としては「中華民族」であり、中国国民の一部である。だが、シビックナショナリズムを信奉する香港人は、そのような中国政府のエスニック・ナショナリズムと真っ向から対立するだろう。逃亡犯条例に関する報道で、香港人が中国大陸の政治制度や法制度に対して不満を抱いているという指摘があったが、両地域のナショナリズムの違いにも着目する必要があるだろう。

 

4.おわりに

 ここまで私が見てきた香港の様子とインタビューを通して見えてきた香港人アイデンティティの諸相を論じてきた。話を聞くたびに香港人アイデンティティは複雑で奥が深い。民族的なアイデンティティにあまり悩まされることのない日本人も香港人から学ぶべき部分は多いはずだ。

 200万人デモを最高潮に日本のメディアでは香港の報道が下火になってきた。帰国後、「最近日本ではあまり香港が報道されなくなっているよ」とSNSで香港の友人に連絡してみた。すると、「G20に向けて香港では準備が始まった。何が起こるか注目しててよ」という返事が返ってきた。彼らはまだまだ戦うつもりだ。そのエネルギーにはいつも驚かされる。そして、私ももう部外者ではない。これからも遠い日本から、彼らの頑張りを目に焼き付けていきたい。

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