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ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり

 ケン・ローチの最新作"Sorry We Missed You"を見た。

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 結論から言うと、本当にやるせないストーリーだった。前作『私はダニエル・ブレイク』と比べて、かなり希望を削ぎ落した仕上がりになっている。それぐらい監督の現実に対する切迫感や危機感も大きくなっているということだろうか。上映時間は100分と短いが、全編にわたって悲痛が漂っている。

 ストーリーは、元建築労働者のリッキーが「ゼロ時間契約」の配達ドライバーとして雇用される場面から始まる。最近では、「ギグエコノミー」と呼ばれる、職場と正式な雇用契約を結ばずに、自らの裁量で仕事量や時間帯を選ぶことができるとされる職業である。元の職場をクビになってから様々な職を転々とし、借金も抱えるリッキーは、「自営」で「自由に働ける」という言葉につられて、宅配に必要な車両費などは自らが負担するという条件を飲んでその職を引き受ける。

 最初は、「2週間くらい14時間休まず働けば、車両費も払い終わる」と意気込んだリッキーだったが、それがいかに難しいことかを徐々に悟っていく。それは健康に、他に何も問題が起きなければ可能な未来だったかもしれない。しかし、リッキーに様々な問題が降りかかってくる。しかも、それは子供の不祥事や暴徒による傷害事件など、現実としてギリギリ起こりうる問題なのである。

 リッキーは家族のことを第一に考える善良なる市民である。しかし、「家族が第一」「家族と一緒に幸せに暮らしたい」、そう願えば願うほどに家族が崩壊していく。終盤で「何かがおかしい」とつぶやくリッキーとアビー(妻)は、しかしそれがなぜなのかは分からない。そして、ラスト、家族の制止を振り切って、リッキーは仕事場へと車を走らせる。悲痛の涙を流しながら。

 

 本当にやるせない。家族の中の誰も悪くないのである。

 中盤に、息子のセブがけんかの腹いせに父リッキーのバンの鍵を奪ったと疑われるシーンがある。バンが使えないリッキーは当然職場に行くことができず、仕事場からさらなる罰金を追加されてしまう。家出から帰ってきてなお反抗的な態度を取るセブに対して、リッキーは思わず手をあげてしまう。妻アビーの暴力的な父を心底嫌っていたリッキーは追い詰められて、その父と同じ過ちを繰り返してしまうのである。家族のヒビはどんどん大きくなっていく。

 しかし、後になって、リッキーの鍵を取ったのはセブではなく、娘のライザであることが発覚する。なんでそんなことをしたのか。問いかける父にライザは「だってキーがなければお父さんは仕事場にいかなくてすむでしょ」と涙ぐみながら答える。娘の涙に家族はやっと誰も憎む必要がないのだと気づくのである。

 言ってしまえば、みんながどこかで間違いを犯し、だからこそ誰も責められない。それぞれの過ちがボタンの掛け間違いのように、少しずつ家族全体の絆を壊していく。あえて、その根源を求めるならば、最初にリッキーが多額の借金で配達のためのバンを買ったことだろう。そこからすべてが壊れ始めたのである。

 

 ここまでの話だけだと、本作は単なる一つの家族を描いたドラマに過ぎないように聞こえる。だが、本作は「家族問題」だけでなく、やはりどこまでも「労働問題」を描いたドラマである。それはおそらくローチを敬愛する是枝裕和監督と決定的に異なる点だろう。

 そもそも、いま言ったような家族トラブルはあらゆる家庭で起こりうる問題である(だからこそ、観客の心をひくのである)。では、世の家族はこういった危機をどのように回避しているのか。それは例えば、そもそも配達用の車両を自腹なんかで払わせずに支給したり、有給休暇で職場に仕事を休ませてもらったり、不慮の事故に対しては労災認定による保険をもらったりなどである。世の中にはあらゆるリスクに対して、労働者が保護される制度がある。それがあるからこそ、不慮のリスクを人々は乗り越えることができるのである。

 だが、本作で描かれる人々にはそのような制度が存在しない。あらゆるリスクが自分、そして家族に降りかかってくる。それはリッキーに限らず、訪問介護の仕事をする妻アビーも同様である。訪問介護の移動費は自腹である。心優しいアビーはその優しさゆえに訪問先のおじいちゃんおばあちゃんを心配して、自ら仕事を引き受けてしまう。そして貧困のスパイラルにどんどん落ちていってしまう。それも全て雇用主が被雇用者を守るという大前提を手放したからである。

 そして、本作で印象的だったのが、労働者同士の連帯の兆しが一切見られない点である。それは従来の労働者像とはかけ離れた様相である。確かに、宅配ドライバーたちが倉庫で軽く会話をする、宅配のノルマを手伝ってもらうといった従業員としてのコミュニケーションは存在する。だが、それはみなが「労働者」として雇用主の横暴に反抗するような連帯を生むようなつながりでは決してない。それを裏付けるように、劇中でドライバー同士で仕事を奪い合う、あるいは仕事を押し付け合うといった場面が描かれる。そして、しまいには雇用主の横暴をきっかけにドライバー同士のけんかが勃発する。労働者みんなでその怒りを雇用主に向けるということには帰結しないのである。それほど労働者がモナド化しているということなのだろう。これがギグエコノミーと呼ばれる職業の決定的な特徴ではないだろうか。

 

 移民問題などでも積極的に発言している望月優大氏が以下の記事でこのように述べていた。

gendai.ismedia.jp

 

ギグエコノミー時代の自営業者にとって、自由はいつも条件付きだ。だからこそそれは全くもって自由に見えない。そして、最後には必ずこう言われるのだ。わかっていると思うが、お前の代わりなどいくらでもいる。逃げ出した彼ら〔=技能実習生〕を「犯罪者」かのように見なす社会、それから貧しいリッキーを怠惰な「ルーザー(敗者)」として見なす社会、それらは本質的に同じものを共有している。つまり、ゲームの結果だけを見て、ゲームそのものに組み込まれたアンフェアさを見ない。

 「自営」や「自由」という言葉につられたリッキーは本当に自由を手に入れたのだろうか。