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綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』

 2年越しの懸案事項(修論)が無事着陸態勢に入ったので、ぼちぼちブログを再開します。

 この2年間、だいぶ世情に疎くなってしまったと思う。というのも、修論執筆中はほとんどそのテーマに手いっぱいで、例えば記事やニュースを追っていても、そのテーマを中心に考えてしまうからである。「あ、このニュースはあそこに使えるな」とか「この本は自分の修論にも通じるかも」とか。もちろん、そういう軸足が一つあると、その分効率よく情報を収集することができるんだけど、逆に言うと、思考のゆとりがなくなってくる。つまり、「使えるかどうか」で情報を取捨選択していってしまう。だから、最近の世の中の流れとかにどうしても疎くなってしまうのである。

 ということで、年の瀬ということもあり、これから今年読んだ本なんかを振り返りながら、世の流れにキャッチアップしていこうかなと思う。

 

 まず第一弾は、今年読んだ本の中でも格段に面白かった、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。」について。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

  • 作者:綿野 恵太
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 帯なんかにも書いているが、本書は今みんなが思っているけれど、なんだか言いづらいことを平易な概念で整理していってくれている。新たな洞察を加えるものというよりも、これからみんなが議論を深めていく際の橋頭保になる本といってもいいかもしれない。

 目次は以下の通り。

まえがきーーみんなが差別を批判できる時代 アイデンティティからシティズンシップへ

第1章 ポリティカル・コレクトネスの由来

第2章 日本のポリコレ批判

第3章 ハラスメントの論理

第4章 道徳としての差別

第5章 合理的な差別と統治合理主義

第6章 差別は意図的なものか

第7章 天皇制の道徳について

あとがき ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび

 

 まず、まえがきでは本書を貫く図式である「アイデンティティの論理」と「シティズンシップの論理」の整理がなされている。この二つは共に反差別のロジックではあるが、差別を批判する際の論拠が異なる。これを筆者は、カール・シュミットの「自由主義」と「民主主義」の対比をもとに整理している。

 シュミットによれば、「自由主義」は「討論による統治」を信念としている。そして、討論を行うためには「公開性」は確保されていなければならない。議会の中でどのような議論が行われているかを市民は知れなければならないし、市民の声を届けられる回路がなければならない。そして、そのためには、「言論の自由」「出版の自由」「集会の自由」「討論の自由」が必要になってくる。このようなロジックで整えられたのが、現代の立法権・行政権・司法権であり、現代議会主義である。

 一方、「民主主義」は「同一性」を特徴として持つ。シュミットは以下のように言う。

治者と被治者との、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体との同一性、国民と議会における国民代表との同一性、[国家とその時々に投票する国民との同一性]、国家と法律との同一性、最後に、量的なるもの(数量的な多数、または全員一致)と質的なるもの(法律の正しさ)との同一性、である。(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』p.23)

 人々が話し合いによって何らかの合意に達するためには、ある程度の同一性が不可欠である。なぜなら、全くの利害関心の異なる他者が寄り集まっても議論の妥協点を見つけることは不可能に近いからである。だから、例えば「日本人だから」といった民族の共通項を見つけることによって人々は民主主義をやっと成立させることができる。

 このような、民主主義と自由主義の対比は、そのまま「アイデンティティの論理」と「シティズンシップの論理」に当てはめることができる。

アイデンティティ・ポリティクスとは、社会的不利益を被っているアイデンティティを持つ集団が結束して社会的地位の向上を目指す政治運動だった。たとえば、黒人という人種、女性という差別、朝鮮人という民族といったさまざまなアイデンティティに基づいた政治運動が存在するが、しかし、それらはすべてアイデンティティの「同質性」をもとにしているために、シュミットの区分にしたがえば、民主主義に属するものであるといえる。

いっぽうで、シティズンシップの論理は、あるアイデンティティを持った「集団そのものの尊厳」ではなく、「平等なシティズンシップの尊厳」を守るものであった。つまり、シティズンシップの論理では、「市民」という「個人」の権利が重視されている。そして、シュミットの区分にしたがえば、個人の権利、人権もまた自由主義的な考えであった。(p.20ー21)

 シュミットが予見した、この「アイデンティティの論理」(民主主義)と「シティズンシップの論理」(自由主義)の対立は、現在世界のあらゆるところで散見される。例を挙げるならば、ポピュリズム、排外主義、反緊縮運動、Metoo運動、性表現規制論争、ポリコレ論争、等々。これらの同時多発的な運動や論争を二つの論理の対立としてつなげた点にこの本の新規性がある。

 

 第1章では、「政治的正しさ」(ポリティカル・コレクトネス、以下「PC」)発祥の地であるアメリカで、この言葉がいかなる経緯であらわれたのか、そしてどのようにその意味内容を変質させていったのかが描かれる。

 最初に、PCが公共的な言論の場において登場したのは、1960年代以降に台頭した「新しい社会運動」の中であった。新しい左派が、1960年代以前の古い左派の教条的でセクシスト的・レイシスト的な姿勢を批判するためにこの言葉が使われていた。つまり、当初、PCは左派が自らを「アイロニカル」に批判する際の語法として用いられていたのである(p.37)。

 だが、1990年代ごろに語法の変化が生じ始める。保守派が、大学におけるリベラルな教育や積極的是正措置(アファーマティブ・アクション)を批判する際の論拠として、PCが用いられ始めたのである。1991年5月には、ブッシュ(父)大統領もミシガン大学の卒業式講演で、当時大学で導入されていた人種差別や性差別に関する「スピーチコード」に対して、「〔政治的に〕正しい行動を要求する改革者たちは、そのオーウェル的なやり方でもって、多様性の名のもとに多様性をつぶしている」と述べ、物議をかもした(p.39)。

 ブッシュの発言には、当時アメリカで吹き荒れていた「文化戦争」の波が関係している。「文化戦争(cultural war)」とは、1988年にスタンフォード大学が一般教養の必修科目である「西洋文化」を「文化・思想・価値」という科目名に変更したことに起因して起こった論争である。当時は積極的是正措置によって「多文化教育」が唱えられており、いわばそのバックラッシュとして保守派が西洋文化の必要性を訴えたのである。

 新保守主義の論者として知られるアラン・ブルームアメリカ・マインドの終焉』や、歴史家アーサー・シュレージンガーJr.『アメリカの分裂』はそのような「文化戦争」のさなかにしきりに読まれた。両者の主張は、私的領域での文化の多様性は認めつつも、公的な面では文化の統一性が必要だとする「文化多元主義」に属し、共通する特徴として、①マルクス主義と「新しい社会運動」(アイデンティティ・ポリティクス)に連続性・同一性を見ること、②国家統合の理念の擁護、③ポストモダン(ポストコロニアニズム・多文化主義)批判が挙げられる(p.53)。

 これらの一連の論争を整理すれば、1990年代に「スピーチコード」のように大学がこぞって取り入れていった多文化主義教育は、各民族の同質性を確保しようとする意味で「アイデンティティの論理」に属する。そして、ブルームやシュレージンガーの批判は、アメリ憲法のもとに「一つの人民」としてあらゆる人種や民族が「同化」することを目指している点で「シティズンシップの論理」に属する。

 したがって、1990年代のアメリカでは、ブルームやシュレージンガーはシティズンシップの立場から、アイデンティティの側にある多文化主義を批判していたと言える(シティズンシップ→アイデンティティ)。そして、その際に用いられた論拠がPCであった。しかし、ここで現代日本を見てみると、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスであるネット右翼が、反差別的な言説を攻撃する際にPCという言葉を用いている。つまり、現代日本では、PCという非難がアイデンティティ→シティズンシップに向かっているのである。言い換えるならば、PCは同じ差別を批判する語法でありながら、その基盤とする論理が時代を経て変化しているのである。

 

 以上のアメリカにおけるPC批判の変遷を日本に適用してみると、どのような展開がみられるだろうか。第2章では、日本のポリコレ批判が検討される。結論から先に述べると、日本の場合、左派による戦争責任の追及も、それに対する右派の反発も、「民族」という「同質性」に基づいた「アイデンティティの論理」でなされることが多かった。

 まずその手がかりとして、内田樹『ためらいの倫理学』が取り上げられる。内田はポストモダンの思想家たちを「ポリティカリーにコレクト」な人々と批判している。内田による主張をまとめると、以下のようになる。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」に象徴されるように、アイデンティティの論理とは差別の苦しみや不利益は被差別者にしかわからないとする考え方であったが、ポストモダンの思想家はこのようなアイデンティティの論理を尊重するあまり、被差別者=他者と「コミュニケーション」を取ることを断念してしまった。そして、被差別者を「交通不能の他者」として扱うことで、(本来は被差別者のものである)差別の告発を代行する資格を得ようとしてきた。つまり、内田のアイデンティティ・ポリティクス批判の矛先は、マイノリティにではなく、一貫して自らの改悛を介して他罰的にふるまう、代行主義的な日本の知識人に向けられているのである(p.88ー89)。言い換えるならば、内田の倫理学とは、左右のアイデンティティ・ポリティクスに「ためらい」を持ち、左翼的な弱者への同一化も、右翼的な国家への同一化も、ともに拒むことなのである(p.91)。

 このような内田によるどっちつかずの論理は、内田が高く評価する加藤典洋敗戦後論』にその原型を見つけることができる。加藤は同書の中で、戦後日本はドイツのように戦争責任を十分に反省せず、GHQによって押し付けられた平和憲法を無批判に受け入れたことから、「護憲派」と「改憲派」の二つの人格に分裂したと説いた。そして、その分裂を乗り越えるためには、現行憲法を一度国民投票で選びなおし、二千万のアジアの死者への哀悼の前に悪い戦争に駆り出されて死んだ死者を、無意味なまま深く哀悼しなければならないという。これは、アメリカ合衆国憲法における「市民」に代わるものとして、日本国憲法をそのまま今度は主体的に選びなおすことで「新しいわれわれ」=「公共性」=「シティズンシップ」を打ち立てようとする主張であった。

 そして周知のとおり、『敗戦後論』に対しては、ジャック・デリダの研究家であった高橋哲哉によって批判が寄せられた。その趣旨は、加藤の主張は偏狭なナショナリズムでしかなく、むしろ戦争の被害者や犠牲者の呼びかけに対して応答することが責任なのだと主張した。だが、両者の論争は少しかみ合わない部分が存在する。というのも、加藤を偏狭なナショナリズムと批判する高橋も、植民地支配に抵抗する被支配民族のナショナリズムには「すべての植民地支配の否定につながる普遍性の通路が含まれている」と擁護しているからである(p.101)。整理すると、加藤と高橋はそれぞれのやり方で「アイデンティティの論理」を越えることを模索していながら、議論の展開が不十分なため、双方が論争相手から「アイデンティティの論理」に陥っていると批判されていたのである(p.102)。

 そういった意味で、加藤、高橋以上にナショナリズムを超え出ようと模索していたのは、上野千鶴子であった。上野は、加藤に対して「死者に「国境」を引くことで、「日本人」の国民的主体を構築しようとしている」と批判しながら、かつ高橋に対しては「わたしには被抑圧民族のナショナリズムは正しい、と言い切ってしまうことができない」、「ナショナリズムの中では個人と民族とを同一化することで「われわれ」と「彼ら」を作り出しているが、この集団的同一化は、強者・弱者のいずれのナショナリズムの場合にも、罠としてわたしたちを待ち受けている」と批判した(p.102ー103)。そして、アイデンティティの閉鎖性が抜け出て、NGOといった「市民」の活躍に期待を寄せている。

 と、このようにアメリカと比較して、日本のアイデンティティ/シティズンシップ論争は以上のように進んできた。アメリカと比較した時に、憲法論争のなかでアイデンティティの論理が介在してしまう背景には、そもそも日本国憲法における「国民」がnationを指しており、アメリ憲法におけるpeople”(人民)が明記されていない点があると筆者は言う。加藤が言うように、「国民投票」で憲法を選びなおしたとしても、そこには「人民」、例えばサンフランシスコ平和条約日本国籍を除籍された在日朝鮮人や台湾人が含まれていないのである。

 

 日本のポリコレ批判の源流をたどると、「戦後民主主義」に関わる論争が見えてきた。しかし、これらの言説は現在の「ポリコレ」の語法からはかけ離れている。第3章で検討されるのは、現代日本におけるポリコレの語法の変化である。結論から先に言うと、いま我々が「ポリコレ」と呼んでいるシティズンシップの論理は、1章で見たアメリカの大学におけるスピーチコードが公共空間に広がったものなのである。言いかえれば、それは「ハラスメント規制の論理」である。

 日本においても、NHKが特設サイトに「キズナアイ」を起用した件や、最近だと、赤十字社献血ポスターに「宇崎ちゃん」を起用したことによって、いわゆる「萌え絵」に対してセクハラ表現にあたるのではないかという批判が寄せられた。このような性表現規制に関しては、アメリカで先んじて議論されてきた。1980年代には、弁護士のキャサリン・マッキノンと法哲学者のアンドレア・ドウォーキンがポルノグラフィ規制条例の制定を求める運動を行っている。その際、マッキノンは、「市民」としての尊厳を傷つけるがゆえにポルノグラフィを規制せよと主張した点には注意が必要だろう。つまり、マッキノンは女性によるアイデンティティの論理ではなく、シティズンシップの論理によって自らの主張を正当化したのである。

 具体的に、マッキノンは、①ポルノは出演する女性に直接危害を及ぼし、性的に搾取している、②ポルノを視聴することが女性への性暴力の原因になっている、という二つのポイントからポルノグラフィを批判した(p.135)。特に大きな論点となったのが、②のポルノ視聴と性暴力の因果関係の有無である。実際、その因果関係を証明する研究は出てきていない。結局、ポルノグラフィ規制法はアメリ憲法によって保護された表現の自由を侵害するとして認められなかったが、その代わりに「セクシャル・ハラスメント」という考えが性表現を規制する論理となった。そして、職場に性的なポスターを飾ったり卑猥な会話をしたりすることで職場環境を悪化させる「敵対的環境型ハラスメント」の適用範囲が、職場や学校を越えて公共領域全体へと広がっていった。これがアメリカにおいて「ハラスメントの論理」が流布していった大まかな流れだが、日本におおいても同様の経緯だろう。

 そして、ハラスメントにはセクハラだけでなく、人種に基づいた「レイシャル・ハラスメント」も存在する。1章で見たように、アメリカでは、1990年代ごろから徐々に大学などでのヘイトスピーチを罰する規定が出てきたが、そんなアメリカですら、州を跨いだヘイトスピーチ規制法成立は実現していない。性表現同様、ヘイトスピーチと特定の人種や民族を標的とした犯罪との因果関係が解明されていないからである。では、ヘイトスピーチはどのようにして規制すればよいのか。アメリカの法学者ジェレミー・ウォルドロンは、たとえ因果関係が証明されなくても、ヘイトスピーチやポルノは「公共の秩序」「社会の尊厳ある秩序」という観点から規制すべきだという。

 ウォルドロンが重視するのは、「秩序ある社会」という「見かけ」である。「社会の見かけは、その成員に向けて、社会が安心を伝える主要なやり方のひとつ」であるとウォルドロンは言う。彼がここで言う「安心」とは、「彼らはみな等しく人間であり、人間性に備わっている尊厳をもつこと。彼らはみな正義に対する基本的な権限をもつこと。そして彼らはみな、最もひどい形の暴力、排除、尊厳の否定、従属からの保護に値すること」に対する「安心」である。(『ヘイト・スピーチという危害』p.96ー98)。つまり、ヘイトスピーチ規制法とは、「秩序ある社会」という見かけによって、「市民」としての「尊厳」が重視されるというメッセージを伝え、人々を「安心」させるものである(p.145)。このような「安心」は、統計や社会学的調査といった客観的データではなく、きわめて主観的な感情に拠っている。果たして、このような主観的な「安心」や「快/不快」といった感情によって、表現を規制する法律を作ることはできるのだろうか。ポリコレをめぐる分断はこういった部分に起因するのである。

 

 と、以上の3章までの議論が、昨今の論争をアイデンティティの論理とシティズンシップの論理で整理した部分である。続く4章では、認知心理学などの最新の知見において、人間が「認知バイアス」によって普遍的に差別(差異化)意識をもっており、それをジョナサン・ハイトの研究からリベラリストにおいても同様であること、そして現代レイシズムがこれらの知見を動員し、エビデンス主義と結びつくことによって自らのアイデンティティ・ポリティクスを正当化していることなどが述べられる。5章では、上で挙げたシティズンシップの論理における「安心」への渇望が、いま中国に急速に実装されようとしている「統治功利主義」へと容易に共振してしまう可能性を指摘している。

 では、我々はアイデンティティの論理でもなく、シティズンシップの論理でもない、どのような論理によって差別を批判すればいいのだろうか。残念ながら、本書ではその答えは明示されていない。しかし、昨今のTwitterなどで繰り広げられる不毛な議論を交通整理するには、本書の議論はかなり有効であろう。