楽楽風塵

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メモ:社会運動論におけるフレーム分析

 社会運動論におけるフレーム分析について。

 主に、Benford, Robert D. and David A. Snow, 2000, "Framing Processes and Social Movements: An Overview and Assessment," Annual Review of Sociology, 26: 611-39. および、樋口直人『日本型排外主義ーー在特会外国人参政権・東アジア地政学』(名古屋大学出版会)の第4章をもとにまとめたい。

 

日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―

日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―

 

 

 以前、社会運動論の系譜を紹介した際( 社会運動論の系譜 - 楽楽風塵)、少しフレーム分析にも触れたが、あまり詳細には述べられなかったのでもう一度その理論的前提をおさえておこう。フレーム分析は、社会運動における資源動員論などが民衆の不満と運動参加をアプリオリに結びつけることに反対する形で提唱された。つまり、不満は確かに運動発生の必要条件ではあるが、十分条件ではない(つまり、不満を持っているからといって必ずしもその人が運動にコミットするわけではない)というのがフレーム分析の提唱者の趣旨である。

 フレーム分析は、人々(潜在的支持層)が運動にコミットする際の「認知的過程」を分析することを志向する。そこで同分析手法が導入したのが、ゴフマンが提唱する「フレーム」の概念である。ゴフマンは人々が行為をいかに行うのかを解明するライフワークの中で、「演技」や「ドラマツルギー」などの概念を発明したが、それは敷衍すれば人々は何らかの予め要因されたフォーマットとしての「フレーム」を用いて行為を行い、そして他者の行為を解釈するということである。ここからフレーム概念は社会運動論へと輸入されることになる。

 

Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience

Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience

 

 

 では、社会運動論における「フレーム」とは何なのか。ベンフォードとスノーは以下のように定義している。

集合行為フレームは、潜在的支持者や有権者の動員、傍観者の支援の収集、敵対者の撤退を意図する方法によって、「外の世界」のあらゆる側面を単純化・濃縮化することによる解釈機能を有する。したがって、集合行為フレームは、社会運動組織(SMO)の活動やキャンペーンを鼓舞・正当化するための、行為を方向付ける一連の信頼や意味のセットである。(p.614)

 ちなみに、フレームは社会心理学における「スキーマ」(schema)と混同されることがあるが、フレームはスキーマと違って単なる個人の態度や知覚の集合ではなく、共有された意味の交渉の結果である点が異なる。また、イデオロギーもフレームと混同されうるが、両者は明確に区別されうる。イデオロギーが各個人によって信奉される主義・理念であるとすれば、フレームはそれらを下敷きにしつつ個々のアクターが構築していく「新たなビジョン」である。

 したがって、フレームには①行為を方向づける機能(core framing tasks)②双方向的・言論的過程の二つの特徴を有している。

 ①は大きく分けて三つのフレーミング方法に分けられる。一つ目が「診断的フレーミング」(diagnostic framing)である。社会運動は原理的に何らかの異議申し立てを行うものなので、前提として一般に広く認識された「問題」が存在していなければならない。そこで問題を同定し、その原因を誰か(国家や機関など幅広く)に帰属させるのがこのフレーミングの作業である(p.615-616)。その中には、被抑圧者たちがみずからの置かれている立場が不正であると言及する「不正フレーム」(injustice frame)や「境界フレーム」(boundary frame)、「敵対フレーム」(adversarial frame)などがある。

 二つ目が「予言的フレーミング」(prognostic framing)である。これは問題の解決のために何がなされるべきなのか、プランの詳細や戦略を言明するフレームである。これには問題に対する合理的な処方箋としての解決策を提示するだけでなく、敵対者の支持する策の論理や効果を論破することによって支持を得ようとする場合もある。そうすることで「対抗フレーミング」(counterframing)を提供するのである(例えば、天安門事件では政府が学生運動に対して「反革命的」「暴動」といったカウンターフレームを提示したことで鎮圧の正当化を行った)。

 三つ目が「動機付けフレーミング」(motivational framing)である。これは運動に参加するための合理的な動機付けを提供するためのフレームを提供するものである。

 このように、問題の「診断」、その解決に向けた「予言」、そのために必要な行動への「動機付け」のフレームが提供されることによって、人々は社会運動に参画していくのである。

 

 また、そういったフレームがいかにして効率よく、そして広い範囲で人々を動員できるかは、①問題の同定および帰属の場②柔軟性と固執性/包括性と排除性③解釈範囲と影響のバリエーション④共鳴度などに依存している。当然、フレーミングの範囲が広ければ多くの社会集団を招集することができるが、その分熱烈なコミットを得ることができないかもしれない。各フレームを統合する「マスターフレーム」を構築できれば、より広い層に訴えかけることができるかもしれない(マスターフレームの例としてはp.619にいくつか列挙されているので参照)。

 余談だが、樋口は上述の日本における排外主義に関する研究のなかで、潜在的支持層が在特会などの排外主義運動に加担するようになっていく背景には、「在日特権」フレームへの共鳴だけでなく、「自虐」や「反日」といった右派社会運動全般を束ねるマスターフレームによる動員もあると指摘している(樋口 2014: 114-115)。

 また、人々がフレームに共鳴する度合い(degree of resonance)は①フレームの一貫性②経験的信ぴょう性③フレーム生成者自体の信頼性によって決まる(p.619)。フレームがころころと変わるのではなく一貫しており、それが経験的な事実に合致し(例えば実際に在日特権が認知される場合)、そしてフレームを作り喧伝する人自体が受容者に対して信頼に足る人であった時に、フレームの共鳴度は最大になる。

 

 最後に具体的なフレームの生成・発展の過程について見ていこう。ベンフォードとスノーによれば、フレームが生成・発展していく過程には言論的過程と戦略的過程の二つが存在する。

 言論的過程では①「フレーム接合」(frame articulation)②「フレーム増幅・中断」(frame amplification or punctuation)の二つが存在する。①は何らかの出来事や経験の連関や調整を通じて、二つ以上のフレームが接合して新たなビジョンや解釈を作り上げていくことである。②は他の事象よりもこの事象が重要であると強調することである。

 また、言論的過程と戦略的過程は重なる部分がある。戦略的過程では①「フレーム架橋」②「フレーム増幅」③「フレーム拡張」④「フレーム転換」の四つが存在する。①は特定の争点に関してイデオロギーとして親和的だが構造的に結びついていなかった二つ以上のフレームを結びつけることを指す。これはフレーム同士の連結であると同時に、フレームと潜在的支持者の連結でもある。つまり、潜在的支持層が運動に参加しやすいようにフレームをくっつけていくのである。②も同様に、これまでフレームに無関心であった潜在的支持層がコミットしやすいように特定の争点、問題、一連の出来事に関わる解釈フレームの明確化や活性化を行うことを指す。③は正直②とどう違うのか分からないので割愛。④は既存のフレームと親和性が低い人々を取り込むために古い価値観を変え、または新しい理解や価値を生み出すことを指す。(さらに樋口はここに全くの無関心層を取り込むためのフレーミングとして「フレーム邂逅」(frame encounter)という概念も導入している。)

 

 以上が、社会運動論におけるフレーム分析の概念道具である。だが、これをナショナリズムの概念図式に取り込む場合、いくつか問題点がある。第一に、これはあくまでも社会運動の分析のために用意されたものであり、これまでの資源動員論や政治的機会構造論などを補完する形で提出されたものであるため、それ独自で機能しうるものではないかもしれない点である。つまり、フレームの過程だけを見たところで、社会運動の認知過程および動員過程は分かるだろうが、例えば社会運動がなぜ起きたのかといったことまでは理解できない。ナショナリズムに敷衍すれば、なぜナショナリズム現象が発生したのかの解明(因果の説明)には適さないのである。

 第二に、フレーム分析はフレーム生成者同士の闘争に焦点を当てたものというよりも、フレーム生成者とフレーム受容者(つまり潜在的支持層)との関連を解明しようとするものである。しかし、私はナショナリズムをある種の解釈図式と捉え、それをもとにいかに政治的アクターが自らの利害に基づきナショナル・アイデンティティをフレームするかに関心があるため、若干その関心の範囲が異なる。自らの正当性を競うためにフレーミングを行う者同士の闘争的な過程を分析するためには、上述の議論だけでなくもう少し詳細な概念道具が必要な気がする。