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社会運動論の系譜

 わけあって社会運動論の系譜を整理中。

  社会運動論の分析枠組みについて、割と最近のものまで体系立ててまとめた概説書って探してみたけど、なかなかなかったので、今回は富永京子『社会運動のサブカルチャー化』の先行研究のまとめを参照したい。

 

 これまでの社会運動論の貢献を大きく分けると、運動の①「説明」②「解釈」の二つに大別される。

 ①は人々がどのように(how)運動を組織するのか、運動へと参加するのかを、②は人々がなぜ(why)運動を組織し、参加するのかの解明を行ってきた。①には、資源動員論、動員構造論、政治的機会構造論、フレーム分析、Contentious Poilitics(たたかいの政治)などの分析枠組みが含まれ、本書では「動員論的運動論」と称されている。②には、新しい社会運動論、経験運動論などが含まれ、「行為論的運動論」と称される。

 まずは①から順に見ていこう。

 社会運動を論じた先駆的論者はスメルサーである。彼は「集合行動論」を唱え、社会運動を「社会病理」「逸脱行動」として捉えた。また、社会運動を組織的現象として捉えすぎてしまった結果、個人の行動原理を無視していることを後々批判された。

 そこで、続いて出てきたのがオルソンの「集合行為論」である。オルソンは「フリーライダー問題」などを提唱した合理的選択理論の学者として有名だが、人々は何かメリットがあるからこそ運動に参加するのだと考え、集合行動論とは異なるアプローチで社会運動に迫った。

 そして集合行為論を受け継いだのが、「資源動員論」である。主な論者はMcCarthy and Zald(1977=1989)である。彼らは資源の有無こそが運動の持続・発展を規定すると捉えた(運動の理性的側面を重視する点で、集合行動論と反する)。一方で、運動の資源調達(外部支援)を要件とするためにエリートの存在を強調し、かつ「不平・不満」を軽視している点を批判されることになる。

 ここまで集合行動や社会運動の発生メカニズムを説明する「社会運動研究」(ミクロな動員)と、より大きなレベルでの政治変動・社会変動を論じる革命研究(スコッチポルみたいな)とは隔たりがあったが、それを埋める役目を担ったのが「政治過程論」(McAdam 1982)であった。彼らは、運動の持続・参加に於いて重要なのは、資源ではなく、運動以前からのネットワークであると論じ、資源動員論を批判した。また、個々人の心理的な側面も軽視したわけではなく、運動参加者が持つ「自らの運動の成功可能性・重要性に対する認識」を変数化することで、目的合理的行為をも焦点化した。

 

 90年代以降、社会運動論にも新たな潮流が生まれる。まず出てきたのは、「動員構造論」(Clemens 1993, 1996; Bernstein 1997)である。彼らは、運動組織のアイデンティティと運動の組織構成が互いに影響を及ぼし合って成立する「動員構造」によって、運動の発生・持続を説明する。つまり、社会運動が目的達成の手段であり、アイデンティティの呈示という目的にもなっていると捉えるわけである。

 続いては「フレーム分析」(Snow and Benford 1988)である。フレーム分析は運動の発生要因を人々の認知的なものに求めている。つまり、運動を組織する人々が民衆(オーディエンス)の不満と社会運動への参加を架橋するために、運動のシンボルやスローガンを用いながら「解釈のフレーム」を構築することで、運動が発展していくという視座である。したがって、「(政治)文化」をある種の資源として、運動参加者がそれを操作的に動員していくという認識である(ゆえに「文化社会学」的)。

 最後が「政治的機会構造論」(Tarrow 1998=2006)である。彼らは、人々が政治にアクセスできる回路がどれだけあり、政治体制がどの程度の開放性を持っているのかが運動の生起・変質を決めると捉える。

 

 続いて②の理論的潮流である。

 まずは「新しい社会運動論」(Habermas 1981; Touraine 1984=1988; Offe 1985; Melucci 1985)である。彼らはソ連解体による東欧革命を目の当たりにしてこの理論を導入し、「人々はなぜ運動に参加するのか?」という問題意識のもと、社会運動参加者に共通する属性(女性、先住民、マイノリティ…)や問題関心(生活環境、公害、医療…)といった集合的アイデンティティに着目した。

 その後、社会運動研究は組織化・大規模化・広範囲化していき、企業や国家、警察、市民社会などの運動内外のステークホルダーどうしにおけるコンフリクトや利害調整を扱ったもの(Van Dyke and MaCammon eds 2010; Bob 2005)や、組織間における人員資源や金銭資源をめぐる分配や管理を扱ったもの(Haug 2013; Rodgers 2010)などが量産される。日本の事例研究だと、西城戸(2008)、青木(2013)、樋口(2014)などがある。

 最後に「経験運動論」(McDonald 2002, 2004, 2006)である。彼らは、フランソワ・デュべが提唱する「経験の社会学」やアラン・トゥレーヌの議論から着想を得ている。後期のトゥレーヌは「三つの行為論理」を唱えた。すなわち、政治のゆがみやシステムの崩壊の中で、人々は自らの行為とシステムの与える弊害や恩恵を結び付け、社会的存在としての自分自身を社会の中でアイデンティファイし(統合)、他者との関係の中で戦略的に生活のための諸資源を獲得しようとし(戦略)、時にはシステムに対抗してシステムの中での競争を拒否しようとしていく(主体化)。

 さらに、デュべはこの三つの局面のどれか一つを優越化することなく同時に分析する必要性を主張した。つまり、運動参加者の中には、自己顕示や他者との競合のため活動するような戦略の論理を持つ者もいれば、運動に参加することそのものがシステムの中に順応することだと考えている者もいるかもしれない。いずれかの局面を研究者が序列化するのではなく、この三つの論理を秩序付け、接続させる作業として「経験」に焦点を当てる必要があるというのがデュべの主張である。したがって経験運動論は、運動にコミットする理由が希薄化した後期近代において何が人々を運動へと駆り立てるのかという問いに対して、例えば集会に集まって音楽を聴きながらリズムを取る身体的なコミュニケーションや、映画や演劇を観に集まるという「経験の共有」であると回答する。そして、それらの運動参加者の「経験」を分析対象とするのが、この視座である。

 

 以上が大まかな社会運動論の整理である。この中で個人的に重要になるのがフレーム分析である。フレーム分析がどのような系譜から出たかをおさえておく必要があると思ったので社会運動論をまとめたが、それ以外には思い入れがないのでここらで社会運動論とは縁を切る。次回はフレーム分析の代表的論文をまとめたい。

その他、関連文献。

 

抗いの条件―社会運動の文化的アプローチ

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社会運動の力―集合行為の比較社会学

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