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Andreas Wimmer "The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"

 今回はアンドレアス・ウィマー(Andreas Wimmer)の"The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"について。下記リンク参照(ただしダウンロードはAmerican Journal of Sociologyの規定により有料)。

https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/522803

 彼については以前ブログで少し言及したが、エスニシティについて研究を行っているスイス出身の社会学者である(最近ではエスニシティに限らず、人種・ナショナリズムについても広範囲で研究を行っているようだ)。彼の問題意識はブルーベイカーとも共通している部分が多く、この論文も従来のエスニシティ研究の議論を総括し、それを統合するようなパースペクティブを提示するという目的のもとに書かれている。

 

 まず、序論でこれまでのナショナリズムエスニシティ研究の蓄積、つまり本質主義構築主義的アプローチの対立軸などが整理されている。ここは以前にも書いたので省略。

 そしてそれらを概観してみた結果、ウィマーによるとナショナリズムエスニシティ研究は確かに構築主義的アプローチの隆盛によって飛躍的に進歩したが、しかし「なぜこれほどまでに多様な形でエスニシティが創出されているのか」、また「エスニックな境界形成がなぜそのような多様な結果をもたらすのか」がいまだに説明できていないと批判し、その疑問に答えるための準備段階として本稿で包括的な理論枠組みを提示するという。

 そして、ウィマーはこれまでのエスニシティ研究において議論されてきた問題関心を、①境界の政治的創出(The Political Salience of Boundaries)、②社会的密接と「集団性」(Social Closure and "Groupness")、③文化的差異(Cultural Differentiation)、④持続性(Stability)の四つに整理している(p.976-985)。①はエスニックな境界の線引きをめぐる闘争がいかに政治化していくのかに関する研究、②はどんなエスニックな境界が社会的なネットワークの構築や資源のアクセスに有効かを理解する研究、③は(フレドリック・バルト自身も陥っていたように)エスニシティを区分する文化的な差異性に関する研究、④はエスニシティの境界がいかに持続的なものかについての研究である。

 さらにウィマーは、フレドリック・バルトが先鞭をつけた「エスニック・バウンダリー論」が、その後の経験的研究によってどのように発展したのかも整理している(p.986-989)。それによると、エスニックな境界の措定過程は、①境界を拡大する(例えば植民地化)、②境界を縮小する(例えば「米国人」から「中国系米国人」になる)、③境界線自体ではなく境界内のヒエラルキー構造の上下関係を反転させる、④ヒエラルキー構造内の位置関係を転移させる(例えば第二次大戦前後での「ユダヤ人」に対する処遇の変化など)、⑤境界線をあいまいにする(例えばEUなどのグローバル市民の理念による脱国民国家プロジェクト)、という五つに分類できるという。

 

 そして、ここからウィマーはこれらの議論を統合する独自の理論的枠組みを提示する(念のため先に言っておくと、ウィマー自身も言及しているように、これはギデンズの構造化理論の理論的道筋と酷似している)。以下、細かく見ていこう。

 まずウィマーは、社会のアクターがエスニックな境界の措定・再措定を行う土台(構造)となる前提として、制度(Institutions)権力(Power)ネットワーク(Networks)の三つを挙げている。

 制度は、公的なもの(法律など)から非公式なもの(集団内の慣習など)までを含み、主に国家、および国家を運営する政治的エリートが国民国家建設や大衆動員のために適用し、アクターの思考様式や行動を拘束する。例えば、ポスト植民地国家などは政治的な権力者が文化・言語・領域などの確定のためにオフィシャルな定義づけを行うことが多い。ここでは、こういったものが想定されている。

 次に権力は、アクターが制度による制約を受けつつ、自らの利害関心にそってエスニックな境界線を引くために利用される。通常、社会的なヒエラルキーの上位にある者ならば政治的・経済的・象徴的な権力や資金を多く要している。

 最後にネットワークだが、これはもっぱら政治的エリート、つまり国民国家建設に深く関わる人々内でのつながりのことを表している。例えば、ポスト植民地国家においては新しいネーション・ビルディングの試みが始まるが、それがどのように行われるかはしばしば議会や政党、政治的エリート内での熟議によって決まる。つまり、ネーション・ビルディングの枠組みの構築過程は政治的エリート間の交渉如何に強く規定されるのである。

 

 以上の三つの構造的制約によって、アクターがエスニックな境界線をどう引くのかが規定されるわけだが、では、その境界内部の具体的な特徴(集団の凝集力、反対勢力による異議申し立ての頻度など)を形作るものは何なのか。ウィマーによると、それは①エスニックなコンセンサスの範囲(the reach of consensus)、②権力配分の不均等の度合い(the degree of inequality)そして③境界の持続性(stability)によって決まるという。

 ウィマーはこの三つの規定要因をx(①)、y(②)、z(③)軸に配分して座標化し、それぞれの混合度合いによってエスニック集団内での閉鎖性や多様性、政治運動などによって不満が爆発するか否かが決まるとしている(p.1004)。例えば、エスニック間で権力の配分が不均等で、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が高ければ、集団内で不満が爆発する可能性が高い。また、エスニック間で権力が均等に配分されており、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が低ければ、集団の凝集力は高い、といった具合である。

 しかし、ウィマーが言うようにこういった図式化は単なる理念型であり、統計的・経験的な調査によって補完されるべきだと述べている。

 

 では、アクターは構造的な制約によって抑圧されるだけの存在なのであろうか。ウィマーは違うという。最後に、ウィマーはこれらの構造的な制約にもかかわらず、アクターが変革すること可能性を示唆している。そして硬直的な構造が変化する要因として、①外在的な要因(exogenous shift)、②内在的な要因(endogenous shift)、③外部から派生した流れ(exogenous drift)の三つに分類している。

 ①は、帝国主義的な外部国家によって植民地化されたり、反対に帝国主義から解放されて民主化したり、ほかにはEUの設立など、国外から国内に影響が派生することによって構造転換が迫られることを意味する。②は、国内の特定のエスニック集団が団結して境界の引き直しや同化政策を推進したり、少数のアクターの動きが大きな集団へと波及したり、またこれらが成功してより劇的な変革へと結びつく(また新たな変革の後には再度戦略的な境界の引き直しが始まる)ことで構造転換が起こることを意味する。③は、例えばグローバリゼーションの波が国際的に波及し、それによって転換が迫られることを意味する。

 これらの要因によって、構造はそれまでの制度を変更する可能性を秘めているのである。

 

 最後に、繰り返しになるが、ここまでの議論を簡単にまとめておく。ウィマーは、エスニックな境界の策定過程は以下の経路をたどると説明している。①制度が特定の境界策定の動機付けを与える。②これにもとづいて個人(アクター)が自らの利益や政治的権力を主張するのに都合のよいエスニックな境界策定の選択をする。また、政治的ネットワークにしたがって厳密な境界の位置づけが模索される。③次に、異なる利害関心を持つアクター間で相互に戦略的な交渉が行われる。④そして最後に、権力の配分やコンセンサスの波及具合によって境界の特徴が決定する。

 さらに、この基本的な流れに変革が加わるとすれば、上記①の「制度」に対して外生的な変化が加わったり、②に対してグローバルな変化が波及したり、③によってアクター間で交渉、またはさまざまな行為が行われることで意図的・非意図的に制度の変革が内生的に発生したりなどが考えらえるだろう。

 詳しくは実際にウィマーの結論部にある図を参照してほしい(p.1009)。

 

 と、こんな具合にウィマーは、エスニックな境界が策定・再策定される過程を以上のような流れで説明している。ウィマーはこの図式化の特徴として、比較エスニシティ論による単純な類型化を目指さない点、厳密な社会科学による「独立」「従属」変数の関係を考慮していない点、合理的選択理論や世界システム理論などのミクロ・マクロアプローチを統合しており従来の理論よりもさらに複雑である点を指摘している。

 だからウィマー自身、ここで提示されているアプローチは理論というよりも仮説、あるいは「理念型」であり、これから経験的研究をしていく中で確かめていくパースペクティブ(見方)に過ぎないと考えたほうが良い。だが、こういったそれまでの議論を整理する理論研究は、自分の立ち位置を確かめるためにも大いに助かるのでありがたい。