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『アイアムアヒーロー』最終巻 ※ネタバレあり

久々のブログ更新。

年度初めでなかなかのデスマーチだったということもあるけど、その間いろいろ読んだ本、見た映画もあるのでそれについてもおいおい(ていうか時間さえあれば)書いていきたい。

 

今日は私が最近の漫画の中では、ずば抜けて最新刊を楽しみにしていた『アイアムアヒーロー』がついに完結したということもあってブログを書こうと思った。

 

 

新しいゾンビものということで世間的には人気があったらしいが、私自身、この作者の人となりにすごくシンパシーを感じてこの作品に触れていたという点もある(NHKの『漫勉』好きでした)。その点でラストの展開は一体どうなるのだろう(ゾンビものというのは得てしてラストの展開というものに制約があって難しいものである)と、読み進めていくうちに心配になっていた部分も実はあった。なぜなら、ラストの展開次第で作者が抱えていた闇だとかがこの作品に向き合う中でどう収着していったのかを知ることができると思ったからだ。この作品に向き合うことで作者と対話しているような感覚をマジで抱いていたのである。

結論から言うと、今作のラストは個人的には大変満足だった。というか、作者の主張はおそらく漫画を描き始めてからずっと一貫していたんだということを感じてむしろ感動すらした。以下、的外れかもしれないが、ラストの展開を考察してみる。

 

まず、作者の一貫した主張とは何なのか?それは「ヒーローなんていない」というニヒリズムである。これは今までの著作を見てみても分かる通りである。今作のタイトルにつられて「これは英雄のような醜い男でもヒーローになれることを描いているんだ」と短絡的に解釈してはならない。私はむしろそういった考えすらもあきらめて達観しているようにも見える。

しかし、そういったニヒリズムを描くために作者は今作にある皮肉な仕掛けをしている。それは作者がこうありたいと思うヒーロー像をあえて描き、それを主人公・英雄と対置しているのだ。それが中田コロリである。彼はステータス的(漫画家、ブサイク)には英雄と何ら変わらないのに登場した時から彼よりもヒエラルキーが上にあった。この男は最後まで英雄との比較のために重要な役割を果たしていた。

 

次に、今作で作者の中にあったもう一つのテーマは「日常の崩壊」である。それは作者自身が抱いてきた黒い感情とリンクしている。第一、英雄自身作者を模して造られたキャラクターであり、そういった意味でこの作品は作者の内面が多分ににじみ出ていたのだ。では、作者が壊したかった「日常」とはどんなものなのか?それは暗黙のルールにしたがってヒエラルキーが形成された世界である。その中では人間はステータス化され、それによってヒエラルキー化される。しかもそのステータスは個人の問題ではなく先天的なものであることが多い。そういう理不尽な原理に則った世界が作者が見ていた「日常」だったのだ。

おそらく花沢先生が今作を書き始めたきっかけとしてこの「日常の崩壊」があったと思う。とにかく日常を壊したかった。それが小さな始まりだったのだろう。そしてZQNというアイディアが生まれた。日常を壊すにはうってつけの手段がこのウイルスだったのである。そして日常を壊したが、次に生まれたのはこのカタルシスをどう収束させるのかという問いだったと思う。それは今作を「漫画」として成立させるために描かなくてはならないオチだからである。そして構想されたのが、ZQNたちが合体してできたあの謎の物体だったのである。

あの物体をいったい何なのであろうか?それを考えるためには作中でもたびたび引用された「2ちゃんねる」のような描写がヒントになる。先ほど私は作者が壊したかったものとしてヒエラルキー化した日常を挙げた。これはいわば階層によって分断された世界である。ならば、このディストピアを破壊し、新たにユートピアを築くならばどんな世界であるべきか?そう考えたときに浮かんだのが、あの2ちゃんのスレッド、いわばインターメットのチャットだったのだろう。インターネットは顔もない、ステータスもない、一人ひとりがフラットな個として成り立った社会である(と少なくとも今はとらえられている)。どんな人間でも自由に意見が言えるし、そこに優劣はない。それはある意味でユートピアといえるだろう。

だからこそZQNは突然合体を始めた。なぜなら、それが新たなユートピアを築く最良の策だったからだ。そこではみんなが一つの体、連帯している。思考の交差はあるものの争いはない。ゆえに彼ら(それら?)は連結した後にぴったりと動きを止めてしまったのである。なぜなら合体すること、それこそが目的であり、そのあとに地球を侵略しようとか、新しい生命を作ろうといったことを考えていなかったからだ。この時点で作者の「日常の崩壊」後の答えは出ていたのである。

そう考えると、最終話で不自然に挿入された「東日本大震災」と思われる数コマの描写の意味が理解できる。ここでは英雄しか存在しない東京で3.11地震が起こる。しかし、もちろん誰もいないし、もともと街も荒廃しているので何の被害もなく収束する。これは一見すると「また意味もなく震災ネタを入れやがって」と思われかねない描写だが、ここに作者なりの皮肉があると思った。実際の震災では多くの人が亡くなった。そして多くのものが破壊された。また、人間の黒い部分(風評被害原発問題など)が暴露された。しかし、作中ではすでにユートピアが築かれ、地震などでは壊れない強靭な「絆」が構築されていたため事なきを得た。ZQNの合体によって、地震を乗り越えることができたのだ。しかし、それを明確に言及することは避け、暗に描写している点に作者の皮肉と批評性を感じる。作者自身、このZQNの集合体を「ユートピア」として描いている一方、必ずしも「よいもの」として描いていないということだろう。

 

さて、論点が交錯してしまって申し訳ないが、最後に生き残った人間たちについて考察してみよう。最終的に生き残った人間たちは、英雄、そしてヘリに乗って東京を脱出したコロリ一派だった(ここで他の国にも生き残りがいるのでは?という反論も考えられるが、ここでは描写されたものだけに限定する)。なぜ彼らは生き残ることができたのだろう?その疑問に答えるためには作中で登場したセリフを考察しなければならない。作中でZQNに覚醒してしまったコロリの部下が言ったセリフ、「見られたいなら、生かそう。今生きてる人を…助けようよ」がなんとも示唆的だった。これはZQNに覚醒し、人間以上の力を手に入れた男が「強くなったところでもう誇れる相手もいない」といったセリフに対する返答である。ZQNウイルスによって人並み以上の力を手に入れ、ユートピアを築くことすらできた。しかし、それを誇示するためには自らよりも劣る存在が必要になる。そのために人間を生かそうというのである。そして彼らは生き残ることができたのである。ユートピアユートピアであることを誇示するための観客として。

それは地球上に残った「ヒーロー」というよりも、ユートピアに入り損ねた「罪人」のようですらある。そう、ここでやっと最初のテーゼに戻るのである。作者は今作で「ヒーロー」を描きたかったわけではないのである。しかし、ここで疑問が生じる。英雄が「罪人」という役目を担わされることに関して違和感はないが、英雄のアンチテーゼとして描かれたコロリはむしろ「ヒーロー」であり、コロリ一派が逃げおおせたあの島こそ本当のユートピアだといえるのではないか?この考えは一理ある。英雄は根っからのダメ人間で、それは最初から最後まで一貫していて、最後の最後まで変わらなかった。実際、最終局面で「ヒーロー」であるコロリを誤射している。この時点で彼を「ヒーロー」としてとらえることに限界がある。しかし、コロリたちは今作の中では唯一の「善人」である。すなわちコロリこそが世間一般のイメージとしてのヒーロー像なのだ。しかし、彼が生き残っていることで作者の「この世にヒーローはいない」というテーゼが崩れることになる。さてどうしたものか?

ここからは私の憶測であり、推論の域を出ていないため冗談半分で読んでほしいのだが、こう考えることでしかこの論理の抜け道がないのも確かである。すなわち、コロリ(一派)はあの地震の後、津波に飲み込まれ死んだのではないだろうか、ということである。それしか、作者のテーゼを完結し、「罪人」としての英雄だけを生存させる方法がないのだ。私自身、暴論なのは承知でこれを書いている。それを裏付ける証拠はないが(あるとすれば、彼らが島の沿岸部に住んでいるということぐらい)、英雄が「罪人」として生かされたということを示唆するセリフは作中に登場する。それは2ちゃんのスレのようなところに書かれた、「この男は生きている方が勝手に苦しむから生かしておいて…」というセリフである。これはヒロミちゃんのセリフとも、小田さんのセリフともとれるが、いずれにしろ、英雄は救われるために生かされたのではなく、やはり罪を背負うために生かされたのである。

 

さてここまで長々と書いてきて、最後も推論で終わってしまったが、結論をまとめると、作者は今作で「ヒーローなんていない」ということを描きたかった。そしてヒーローなきあとの世界のユートピアがインターネットを模したあのZQNの集合体だったのである。そしてそのユートピアから弾き出された英雄は一人であの世界を生きていかなければならないという罰を与えられた。

もちろん、何度も言うように、だからと言ってあのユートピアが善であるとは筆者は言及していない。むしろ、見たら分かるようにディストピアにも見える(自由にどこかに行く権利もない)。だからこそ、ラストの英雄の顔は苦しみながらも、清々しさ、凛々しさすら感じる。ただ作者を駆動させていたのはアンチヒロイズムであり、日常に潜む黒い感情を作品に投影することだった。英雄が作者の投影であるならば、ラストのあの表情を見て、私のこれまでのラストの展開に対する心配は払しょくされた。とにかく花沢先生自身、納得のラストだったのではないか、と。

『ボーイズオンザラン』から先生の仕事を見守ってきたが、『アイアムアヒーロー』という素晴らしい作品を生んでくれて本当にありがとうございました。先生の次回作を心よりお待ちしております。