楽楽風塵

ナショナリズム 移民 台湾 映画と読書

カール・マンハイム「知識社会学」

 今回はカール・マンハイムの「知識社会学」という論稿について。参照した文献は、青木書店から出版されていた『知識社会学ーー現代社会学体系8』のp.151-204である。割と昔の版だが、比較的訳は分かりやすかったと思う。

 

知識社会学 現代社会学大系8

知識社会学 現代社会学大系8

 

 

 カール・マンハイム知識社会学については、以前どこかのブログで書いた記憶があるが、もう一度簡単に整理しておこう。

 マンハイム知識社会学のキーワードは「知識の存在非拘束性」である。これは、人々の知識(イデオロギー)がその人々の社会的な存在に即した「視座構造」に拘束されていることを指している。マルクスイデオロギー論から出発したマンハイムだが、マルクスがこの社会的存在を「階級」ひとつに限定し、またブルジョア階級のイデオロギーを「虚偽」としてプロレタリアートイデオロギーがそれを「暴露」することを目指したのに対し、マンハイムの場合は階級だけでなく、そこに世代、生活圏、宗派、職業集団、学派など様々な準拠集団を想定しており(p.166)、また特定の知識を「虚偽」or「真理」とするのではなく、あくまでそれぞれの知識がそれぞれの社会的属性に依拠して形成されることを明示しているに過ぎない。そのため、自らの知識すらも拘束されていることを決して隠蔽しない、マルクスと比べると「フェア」なものであるといえる。

 また、マンハイムイデオロギーを「部分的イデオロギー」と「全体的イデオロギー」の二つに大別している。「部分的」は当事者間でもそれが「暴露」される可能性を残したイデオロギーで、「全体的」は当事者間で意識されていないイデオロギーである。マルクスが言及した「イデオロギー」はこの整理にしたがえば前者に属するものであり、マンハイムはそこにより包括的な後者を加えて、知識社会学は後者を研究の対象とすることを明示している。つまりマンハイムは、当事者の視座構造を形作るのは前者ではなく、根本的には後者だと考えているというわけである(p.153-4)。

 さらに、マンハイムはここからいくつかの例を挙げて、いかに知識が人々の社会的存在に拘束されているかを示している(p.162-6)。

 例えば、「概念」。具体的な事例を挙げれば、「自由」という概念はブルジョア的な特権を得る「自由」と解する場合と、権利と同時に付与される義務からの「自由」と解する場合とでは全く意味が異なるものになる。つまり、これは「階級」という視座構造にしたがって「自由」の捉え方が異なることを表している。ほかにもマンハイムは、「カテゴリー」や「思考モデル」などを事例に挙げている。

 

 では、知識社会学がこれまでのマルクス的な不毛なイデオロギー論争に終始することなく、そこに新たな知見を挿入するための具体的な方法とは何だろうか。マンハイムはそれを以下のプロセスで説明している。

 ①相関化(≠相対化)

 これは、特定のイデオロギーや知識をある「世界解釈の一定の仕方に関係させ、さらにその存在の前提としての一定の社会構造に関係させて論議する」(p.173)ことを意味する。マンハイムが挙げている例を引用すれば、農村の少年が出稼ぎなどで都市に出ていき、そこで新たな思考様式を取得し、それまでの思考様式(農村時代の思考様式)を相関化する、といったようなことだと想定できる。自分のそれまでの視座構造をよりメタレベルで捉えなおし、全体的な布置連関を把握することだと言い換えてもいいだろう(ゆえに「相対化」とは厳密に区別しなければならない。「相対化」は絶対的な真理というものは存在しないとすることだが、「相関化」はあくまで一定の知識が特定の視座構造に結びついている事実を確認することを指すに過ぎない)。

 ②特殊化

 これは、特定の視座構造を相関化したうえで、特定の視座構造を特権化し、コミット(「帰属化」)することを指す。これは、一度メタレベルで相関化した視座構造の中から特定のもの選択することだと言い換えてもいい。これによって、絶対的だと思われていた特定のイデオロギーや知識が限定的なものに過ぎないということを一度自覚するプロセスを経ることができるため、不毛なイデオロギー闘争を避けることができる。

 以上から、マンハイム知識社会学は、マルクス主義が陥っていた無意味なイデオロギー闘争、セクト化、自らのイデオロギーの特権化などを解消することを志向していることが分かるだろう。知識社会学は、議論のメタレベルに徹する学問であるといえる。

 

 最後に、では知識社会学の取りうる分析のプロセスとはいかなるものだろうか。マンハイムの整理によれば、知識社会学はその性質上、歴史社会学的な手法を取らざるをえないため、その分析プロセスはウェーバーが「客観性」論文の中で整理したものと相通じる部分がある。

 ①意味的な帰属化(仮説を立てる)

 それは、個々の似かよったかたちであらわれる意見の表示や思考の記録を、そこで作用している世界観の中心や生活感情にひきもどすことによって、思考様式の統一性と視座構造を再構成し、思考体系の断片のうちにかくれたかたちでふくまれている体系的全体性をあきらかにし、あるいは閉鎖的な体系を意図しない思考様式のもとに「見地の統一性」と視座構造をとりだそうとするものである。(p.199)

 つまり、これは歴史的な文献・資料であらわれた言説や記録の意味を、その著者の視座構造や社会的属性から解釈し、それを矛盾のない「理念型」へと再構成する段階である(ただ注意しなければならないのは、解釈の際に研究者自身の視座構造が関与してしてしまうため、当事者の意図を間違って捉えてしまう可能性は必ずあるという点である)。

  ②事実的な帰属化

 事実的な帰属化というのは、意味的な帰属化によって形成された理念型を、(不可欠な)研究の仮説としてうけとり、これにもとづき、そうした意味で保守主義者とか自由主義者とかが、いうたいどの程度まで現実に考え、あるいはどれほどそのときどきに事実のうえで、この理念型がかれらの思考のうちに実現されたかを問うものである。(p.199-200)

 つまり、この段階は、①で得られた理念型を実際に個々の思想家をケーススタディとして、事実に照らして検証する(間違っていれば修正する)フェーズである。

  ③社会学的帰属化

 知識社会学が「社会学」である以上、最終的には以上で得られた結果を社会に適用して検証しなければならない。このフェーズでは、②までで抽出された結果から再構成された理念型を特定の社会集団(階級、世代、宗派など)に適用して、そこに社会的諸力が働いているかを考察していく。例えば、保守主義的思考と特定の集団や社会的階層との関連を調べ、さらに特定の国家、最終的には特定の社会構造との関連から説明できないかを検証する、といったような流れである。

 

 以上のプロセスが、マンハイムが考える知識社会学の具体的な分析プロセスだが、これを見れば、知識社会学マルクス主義の衰退とともに消滅するとか(いわゆる「知識社会学オワコン論」)、結局マルクス主義イデオロギー思想を武装した似非社会科学であるといった批判は全く当たらないことが分かるはずだ。マンハイムウェーバーを参照しつつ、知識社会学をいかに「科学」にしようかと模索しており、その試みは一定程度成功していると私は思う。

 もちろん、研究者自身の視座構造をいかに処理するのかという問題は依然付きまとっているが、これは知識社会学だけの問題ではなく、あらゆる社会科学に付きまとっている問題であるため(「社会学社会学」など科学の再帰性問題)、この問題を取り上げたからといって知識社会学がオワコンになるわけで決してないと思う。この論稿は知識社会学を学ぶ者だけでなく、例えば歴史社会学を学ぶ者にとっても有益だと思うので、もう一度参照されるべきだと思う。

ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』

 最近復刊されたユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』について。

 

 

後期資本主義における正統化の問題 (岩波文庫)

後期資本主義における正統化の問題 (岩波文庫)

 

 

  ついでに、最近復刊された中岡成文『増補ハーバーマスーーコミュニケーション的行為』を参照してみたい。

  正直、何の予備知識もなくいきなりハーバーマスの、しかも『後期資本主義~』を読み始めたわけだけど、当然何を言っているのかさっぱりわかなかった…。そこでちょうど文庫化された『増補ハーバーマス』を手にとってみた、というわけである。後者は読みやすく、ハーバーマスの思考の過程を時系列に沿って把握することができるのでけっこう便利である(ただ、文庫化にあたって付け加えられた最終章は正直蛇足かなとは思ったが)。なので、まずは後者をもとに、『後期資本主義~』を理解するためのアシストになりそうなトピックを挙げて整理しておこう。

 

 中岡によると、ハーバーマスが一貫して抱いているテーゼは、「いかに人間は最終的な合意を目指して理性的にコミュニケーションを交わすことができるか」である。ハーバーマスの先輩にあたるフランフルト学派第一世代のホルクハイマーやアドルノは、理性や啓蒙に潜む「野蛮」に対して警鐘を鳴らし、理性を否定的にとらえていたことを考えれば、これは全く対照的な思想であるといえる。

 しばしば、ハーバーマスの思想は厳格で、それを現実に適用するにはあまりにも規範的すぎるのではないかと称されることがあるが、それは否めない点であろう。したがって、ハーバーマスの(特にコミュニケーション的行為の理論の)思想は、経験的な研究に落とし込むことができる理論と考えるよりも規範理論として捉えたほうが良いだろう、と個人的には考えている。

 

 70年代以降に問題視されるようになった「後期資本主義」とは一体何だろうか。以前クラウス・オッフェの思想を整理した時にも少し言及したが、ここでもう一度整理しておくと、それは自由な市場競争を原理とするリベラルな資本主義(ハーバーマスは『後期資本主義~』でこれを「自由主義的資本主義」と呼んでいる)の末に到達した新たな資本主義の形態である。そこでは、市場の競争はもはや「神の見えざる手」によって自動的に整序されることはなくなり、さまざまな「危機」の発生が常態化している。さらに、そういった経済的な危機を回避するために国家を代表とする政治・行政システムが経済システムに過度に干渉し、管理・組織化しようとする。ゆえに、後期資本主義は「組織資本主義」とも称されることがある。

 では、以上の後期資本主義の時代にはどんな問題が生じるのだろうか。ハーバーマスは、それを『コミュニケーション的行為の理論』の中で「生活世界の植民地化」という言葉で表現しているが、単純化して述べると、それは経済システムと政治・行政システムの肥大化によって、人間がコミュニケーションにもとづいて相互に理解しあう「生活世界」(『後期資本主義~』の中では「社会文化システム」と呼ばれている)が脅かされることを意味している。経済システムは「貨幣」、政治・行政システムは「権力」をそれぞれメディアとして独自に稼働しているシステムであるが、生活世界は(ハーバーマスによると)コミュニケーションを介して個人個人が社会を構成している領域である。

 例えば、生活世界の代表的な領域として挙げられる「学校」は生徒と先生、また生徒同士の相互のコミュニケーションによって成り立つ外部(政治や市場)から独立した空間であると考えられている(これ自体に異論はあるだろうが)。しかし、後期資本主義社会においては、その領域に行政(例えば文科省とか)が深く介入してきたり、経済的な要請が関与してきたりするようになる(大学法人化によって経営が教授以外の経営者によって担われることによって大学が「株式会社化」するなど)。これは学校以外にも、家族や町内会や市民社会などにも当てはまる現象だろう。

 また、「生活世界の植民地化」によってもたらされる危機はこれだけではない。そもそも、後期資本主義社会においては国家(政治・行政システム)が経済システムを管理すること自体が不可能で(これは経済危機の常態化が顕著に表れている現代を見れば明らかである)、国家は経済や生活世界の領域をいっそう管理しようと努めるが、それに失敗し、そのつど「正統性」の所在を問われるようになってくる。つまり、行政がその国家を統治していることの明確な理由が市場、および国民から問われるようになってくるのである。

 これはどういうことか。そもそも、私的利益を追求する市場の企業に、国民の税金で賄われている公的な財源を投入すること自体が矛盾をはらんでいる。しかし、国家は右肩上がりの経済成長に裏付けされた健全な財源をもとに再分配政策(米国のニューディール政策など)を通じて矛盾が露呈しないように努めてきた(正統性の証明)。こういった時代では、国民は政治・行政システムが健全に運営されているかどうかを意識的にチェックすることはほとんどない。だが、政治・行政システムの運営が不十分であると気づけば、政治権力への支持は低下し、政治システムへの要望も拡大していく。しかし、拡大する要求に対してますます国家は対処できなくなっていく、というわけである(正統化の危機)。

 これが『後期資本主義~』の中でハーバーマスが述べている議論の骨子である。さらにハーバーマスは、後期資本主義社会に突入し、政治・行政システムおよび経済システムに危機が生じれば、生活世界においても「動機付けの危機」に見舞われるという。例えば、自らの要望が政治システムに影響を及ぼさない、また市場の混乱によって努力して勉学に励んでも立身出世できないことが分かれば、国民は自らの暮らしている社会にコミットする動機を失っていくだろう。社会化によって人々に価値や規範を与えていた生活世界が枯渇化することで、人々は自らのアイデンティティを構成することもできなくなっていく(人々は社会化を通して他者を受容することで同時に自らのアイデンティティを取得していくから)。以上の結果、すべての領域(政治・行政システム、経済システム、生活世界)が機能不全に陥っていくのが後期資本主義社会なのである。

 

 以上が、『後期資本主義~』の中で指摘されている当時(1973年)の社会が陥っていた隘路である。いささかディストピアにすぎる時代診断かもしれないが、この予想は現代でも(政治・行政のアンバランスを見るにつけ)適用できると思う。では、我々はこのようなディストピアを甘んじて受け入れるしか道はないのだろうか。ハーバーマスは違うという。そこで彼は、コミュニケーションを通じてもう一度生活世界を再構成することを目指すのである。以下、簡単に『コミュニケーション的行為の理論』の議論を整理してみよう。

 ハーバーマスによると、人々がコミュニケーションを行う際に取りうる妥当請求には、「真理性」「正当性」「誠実性」の三つがあるという。「真理性」は何事かを他者に述べる際にそれが客観的な事実に合致していること、「正当性」はそれが当該の社会の規範から見て正しいこと、「誠実性」は他者に対して述べた事柄を本人が本当に考えていること(自らの本心に反したことを述べているか否か)をそれぞれを指しており、コミュニケーションを行う際は、この三つを他者に対して問い、最終的な合意に達するまで対話が続けられるのである。

 例えば、ある学校の一場面を想像してみてほしい。先生が生徒に「水を一杯汲んでくれ」と頼んだ時に、生徒は先生に対して三通りの妥当請求をすることができる。①「真理性」の請求:もし水が教室から遠い場所にある場合、生徒は「水を汲みに行ったら授業が終わってしまう」と反論することができる。②「正当性」の請求:先生という立場を利用して、より立場の弱い生徒に「命令」している(規範に反している)と反論することができる。③「誠実性」の請求:先生が本当に水を欲しているのかのどうか(もしかしたらその生徒への意地悪で欲しくもないのにわざと汲みに行かせるのか)を問いただすことができる。

 実際は、上で挙げたような三通りの方法できれいに分類することはできないし、グラデーションになっている場合も多いだろう。だが、「理念型」として整理すれば、妥当請求は以上の三つに大別され、人々はこれを何通りも繰り返す中で、皆が納得できるような最終的な合意へと達することができるとハーバーマスは述べる。

 英米の言語行為論を吸収したハーバーマスは、それをコミュニケーション的行為に応用して独自の理論を構築した。もちろん、この理論に対しては様々な異論が提出されてはいるが(例えば、言語を解さない動物や胎児、障碍者などをどうやって対話のアリーナに組み込むのか、最終的な合意には本当に達することができるのか、結局どこかで妥協することになりそこには不平等な権力構造が影響してしまうことになるのではないかなど)、神経質なまでに人間の「合理性」を追求した彼の思想には不思議と力強さがある。中岡が著書の中で指摘するように、ウェーバーが『プロ倫』において政治や経済(近代資本主義)の合理化を人間の意識の合理化(プロテスタンティズムエートス)に結び付けて解明しようとしたのとは反対に、ハーバーマスはあくまで政治や経済(システム)とは違った形での人間の合理化、つまり生活世界における人間の理性を啓蒙することを志向しているのである。

 

 さて、これでいよいよ『コミュニケーション的行為の理論』を読む手はずは整ってしまった……。いつか、都合のいいタイミングで着手しようと思います……。

Andreas Wimmer "The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"

 今回はアンドレアス・ウィマー(Andreas Wimmer)の"The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"について。下記リンク参照(ただしダウンロードはAmerican Journal of Sociologyの規定により有料)。

https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/522803

 彼については以前ブログで少し言及したが、エスニシティについて研究を行っているスイス出身の社会学者である(最近ではエスニシティに限らず、人種・ナショナリズムについても広範囲で研究を行っているようだ)。彼の問題意識はブルーベイカーとも共通している部分が多く、この論文も従来のエスニシティ研究の議論を総括し、それを統合するようなパースペクティブを提示するという目的のもとに書かれている。

 

 まず、序論でこれまでのナショナリズムエスニシティ研究の蓄積、つまり本質主義構築主義的アプローチの対立軸などが整理されている。ここは以前にも書いたので省略。

 そしてそれらを概観してみた結果、ウィマーによるとナショナリズムエスニシティ研究は確かに構築主義的アプローチの隆盛によって飛躍的に進歩したが、しかし「なぜこれほどまでに多様な形でエスニシティが創出されているのか」、また「エスニックな境界形成がなぜそのような多様な結果をもたらすのか」がいまだに説明できていないと批判し、その疑問に答えるための準備段階として本稿で包括的な理論枠組みを提示するという。

 そして、ウィマーはこれまでのエスニシティ研究において議論されてきた問題関心を、①境界の政治的創出(The Political Salience of Boundaries)、②社会的密接と「集団性」(Social Closure and "Groupness")、③文化的差異(Cultural Differentiation)、④持続性(Stability)の四つに整理している(p.976-985)。①はエスニックな境界の線引きをめぐる闘争がいかに政治化していくのかに関する研究、②はどんなエスニックな境界が社会的なネットワークの構築や資源のアクセスに有効かを理解する研究、③は(フレドリック・バルト自身も陥っていたように)エスニシティを区分する文化的な差異性に関する研究、④はエスニシティの境界がいかに持続的なものかについての研究である。

 さらにウィマーは、フレドリック・バルトが先鞭をつけた「エスニック・バウンダリー論」が、その後の経験的研究によってどのように発展したのかも整理している(p.986-989)。それによると、エスニックな境界の措定過程は、①境界を拡大する(例えば植民地化)、②境界を縮小する(例えば「米国人」から「中国系米国人」になる)、③境界線自体ではなく境界内のヒエラルキー構造の上下関係を反転させる、④ヒエラルキー構造内の位置関係を転移させる(例えば第二次大戦前後での「ユダヤ人」に対する処遇の変化など)、⑤境界線をあいまいにする(例えばEUなどのグローバル市民の理念による脱国民国家プロジェクト)、という五つに分類できるという。

 

 そして、ここからウィマーはこれらの議論を統合する独自の理論的枠組みを提示する(念のため先に言っておくと、ウィマー自身も言及しているように、これはギデンズの構造化理論の理論的道筋と酷似している)。以下、細かく見ていこう。

 まずウィマーは、社会のアクターがエスニックな境界の措定・再措定を行う土台(構造)となる前提として、制度(Institutions)権力(Power)ネットワーク(Networks)の三つを挙げている。

 制度は、公的なもの(法律など)から非公式なもの(集団内の慣習など)までを含み、主に国家、および国家を運営する政治的エリートが国民国家建設や大衆動員のために適用し、アクターの思考様式や行動を拘束する。例えば、ポスト植民地国家などは政治的な権力者が文化・言語・領域などの確定のためにオフィシャルな定義づけを行うことが多い。ここでは、こういったものが想定されている。

 次に権力は、アクターが制度による制約を受けつつ、自らの利害関心にそってエスニックな境界線を引くために利用される。通常、社会的なヒエラルキーの上位にある者ならば政治的・経済的・象徴的な権力や資金を多く要している。

 最後にネットワークだが、これはもっぱら政治的エリート、つまり国民国家建設に深く関わる人々内でのつながりのことを表している。例えば、ポスト植民地国家においては新しいネーション・ビルディングの試みが始まるが、それがどのように行われるかはしばしば議会や政党、政治的エリート内での熟議によって決まる。つまり、ネーション・ビルディングの枠組みの構築過程は政治的エリート間の交渉如何に強く規定されるのである。

 

 以上の三つの構造的制約によって、アクターがエスニックな境界線をどう引くのかが規定されるわけだが、では、その境界内部の具体的な特徴(集団の凝集力、反対勢力による異議申し立ての頻度など)を形作るものは何なのか。ウィマーによると、それは①エスニックなコンセンサスの範囲(the reach of consensus)、②権力配分の不均等の度合い(the degree of inequality)そして③境界の持続性(stability)によって決まるという。

 ウィマーはこの三つの規定要因をx(①)、y(②)、z(③)軸に配分して座標化し、それぞれの混合度合いによってエスニック集団内での閉鎖性や多様性、政治運動などによって不満が爆発するか否かが決まるとしている(p.1004)。例えば、エスニック間で権力の配分が不均等で、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が高ければ、集団内で不満が爆発する可能性が高い。また、エスニック間で権力が均等に配分されており、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が低ければ、集団の凝集力は高い、といった具合である。

 しかし、ウィマーが言うようにこういった図式化は単なる理念型であり、統計的・経験的な調査によって補完されるべきだと述べている。

 

 では、アクターは構造的な制約によって抑圧されるだけの存在なのであろうか。ウィマーは違うという。最後に、ウィマーはこれらの構造的な制約にもかかわらず、アクターが変革すること可能性を示唆している。そして硬直的な構造が変化する要因として、①外在的な要因(exogenous shift)、②内在的な要因(endogenous shift)、③外部から派生した流れ(exogenous drift)の三つに分類している。

 ①は、帝国主義的な外部国家によって植民地化されたり、反対に帝国主義から解放されて民主化したり、ほかにはEUの設立など、国外から国内に影響が派生することによって構造転換が迫られることを意味する。②は、国内の特定のエスニック集団が団結して境界の引き直しや同化政策を推進したり、少数のアクターの動きが大きな集団へと波及したり、またこれらが成功してより劇的な変革へと結びつく(また新たな変革の後には再度戦略的な境界の引き直しが始まる)ことで構造転換が起こることを意味する。③は、例えばグローバリゼーションの波が国際的に波及し、それによって転換が迫られることを意味する。

 これらの要因によって、構造はそれまでの制度を変更する可能性を秘めているのである。

 

 最後に、繰り返しになるが、ここまでの議論を簡単にまとめておく。ウィマーは、エスニックな境界の策定過程は以下の経路をたどると説明している。①制度が特定の境界策定の動機付けを与える。②これにもとづいて個人(アクター)が自らの利益や政治的権力を主張するのに都合のよいエスニックな境界策定の選択をする。また、政治的ネットワークにしたがって厳密な境界の位置づけが模索される。③次に、異なる利害関心を持つアクター間で相互に戦略的な交渉が行われる。④そして最後に、権力の配分やコンセンサスの波及具合によって境界の特徴が決定する。

 さらに、この基本的な流れに変革が加わるとすれば、上記①の「制度」に対して外生的な変化が加わったり、②に対してグローバルな変化が波及したり、③によってアクター間で交渉、またはさまざまな行為が行われることで意図的・非意図的に制度の変革が内生的に発生したりなどが考えらえるだろう。

 詳しくは実際にウィマーの結論部にある図を参照してほしい(p.1009)。

 

 と、こんな具合にウィマーは、エスニックな境界が策定・再策定される過程を以上のような流れで説明している。ウィマーはこの図式化の特徴として、比較エスニシティ論による単純な類型化を目指さない点、厳密な社会科学による「独立」「従属」変数の関係を考慮していない点、合理的選択理論や世界システム理論などのミクロ・マクロアプローチを統合しており従来の理論よりもさらに複雑である点を指摘している。

 だからウィマー自身、ここで提示されているアプローチは理論というよりも仮説、あるいは「理念型」であり、これから経験的研究をしていく中で確かめていくパースペクティブ(見方)に過ぎないと考えたほうが良い。だが、こういったそれまでの議論を整理する理論研究は、自分の立ち位置を確かめるためにも大いに助かるのでありがたい。

知識社会学に関する覚書き

 以下の本を読んだので、覚書をば。

 

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

 

 この本自体の学問的価値も計り知れないものだが、冒頭(p1-34)で「知識社会学」に関する方法論が提示されており、かなり参考になったのでここに記しておきたい。なので、この本の本論部分(これが数百ページに及ぶのだが)はここでは扱わない。

 

 本書は、「ボランティア」に関する言説を追っていくことで、そこにどのような磁場が発生しているのか、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのかを解明することを目的としている。そこで、本書で取られる分析方法は、それらの言説を「メタレベル」で観察するというものである。その際、メタレベルの言説分析とは、具体的に以下の二つのものを意味している。

 一つ目は、「言葉」と「社会」を素朴に二元対立的なものとして捉え、「ボランティア」について語ることがどういう社会・政治的文脈で行われ、どういう帰結とつながっているのかを考察するというものである。これを本書では「動員モデル」と呼んでいる。この動員モデルでは、ボランティアは国家や資本などの意図・要請にしたがって動員されていると考えられる。

 二つ目は、ボランティア言説において繰り返し現れるパターン(意味論形式)を抽出することである。これは、(a)動員モデルがボランティア言説に国家や資本の痕跡を見出していたが、ではそれがなぜそうなるのかを説明できないという批判と、また(b)動員モデルでは「ボランティア」の言葉の増殖は説明できても、その縮小は説明できないという批判から要請される手法である。

 本書では、一つ目の問題意識を引き受けつつ、それを批判的にとらえなおすために二つ目の手法を用いるという方法論を提示しているのである。

 

 では、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのだろうか。

 ボランティアをはじめとする参加型市民社会論の言説には、しばしば「善意」や「他者のため」という前提が内包されている。本書では、このように「他者のため」と外部から(当事者がそう思っていなくとも)解釈されるような行為の表象を「贈与」と呼ぶ。つまり、「他者のため」と解釈することが一般的に有意味になるような解釈図式・社会の「意味論(ゼマンティク)」の意味で「贈与」を導入する。ボランティアや市民社会概念の中には、この「贈与」が織り込まれており、ボランティア/市民社会言説の固有のメカニズムの動因となっている、というのが本書の仮説である。

 だが、当事者(特に積極的にボランティアに参加する人々)は、ボランティアは「一方的な贈与」ではないと反論するかもしれない。例えば、ボランティアは一方的に贈与するのではなく、参加者は「幸福感」や「やりがい」を感じることができる(互酬性)、といったように。しかし、そういった反論自体がボランティアに対する「贈与性」をある種認めていることを証明してしまっている。なぜなら、「贈与」と「交換」の関係は、実は後者が前者を内包するものだからである。これが「贈与のパラドックス」と著者が名付けるものである。贈与はそれが贈与だと当事者によって認識された時点で贈与ではなくなる。つまり、贈与は被贈与者、および社会からなにがしらを奪う形で反対贈与を獲得していると見られがちなのである。

 よって、本書が問題化するのは、近現代の「ボランティア」的なものの言説領域において、この「贈与のパラドックス」を解釈するための意味論形式(ボランティア言説に固有の作動形式)はどのように変化していったのか、つまり解釈ゲームの過程を考察しようというものなのだ。

 

 では具体的な方法論はいかなるものだろう。上で、その二つの手法として「動員モデル」と「意味論形式の分析」を挙げたが、著者が言うように、この方法論を掘り下げてさらに突き詰めると、「~でない」という形でしか表すことができない。どういうことか詳しく見ていこう。

 まず「動員モデル」では、上述のように「言説(コトバ)」と「実態(モノ)」を二元論的にとらえるが(社会的なイデオロギーや権力によって言説が生じる)、本書ではその考え方を否定し、また「ボランティア」とは何なのかを明確に定義することなく、ある時点に広く見出せる意味論形式/解釈枠組みに注目する点で動員モデルとは異なる。また、理念史や思想史のように言説の内容を規範的に追っていくというような研究方法ともまた違う。あくまで言説の形式それ自体を扱うスタンスを貫いている。

 また、フーコーに端を発する「言説分析」とも違う。佐藤俊樹ら(特に『言説分析の可能性』参照)が指摘するように、言説分析は言説や言表の最小単位を確定できないため、分析単位の確定可能性と全体性の実在を素朴に信じる社会学とは相いれない。また赤川学が主張するように、残存している資料をできるだけ網羅的に収集することで、言説の全体性を仮構することができるかもしれないが、本書では文書による資料以外にもインタビュー調査や広告ビラなども言説の内に含んでいるので全体性を措定することが限りなく難しい。

 さらに、社会的構築主義とも異なるスタンスを取る。社会的構築主義は「厳格派」と「コンテクスト派」の二つが存在する。前者は「実際の状態」の想定を厳密に排し、社会問題の「言語ゲーム」を記述することを目指す。後者は「実際の状態」を記述者から独立して存在することを想定して、「状態」に関する他の資料(統計など)を参照しながら、記述の妥当性について判断も行う。だが、本書は「贈与のパラドックス」を言説を整序する基準として分析枠組みの位置に置く点で構築主義ともまた異なるのである。

 そこで最後に筆者が行き着いたのが「知識社会学」という手法である。知識社会学は「マルクス主義こそが真のイデオロギーである」という理念のもとに作られた研究領域だとしばしば冷笑の対象にすらなるが、筆者によると知識社会学の祖であるマンハイム自身はそういったマルクス主義の特権化を反証するためにこの学を創設したのだという。つまり、マンハイム知識社会学に課した問題意識は、知識が存在に拘束されるあり方を、自らをも含めて没価値的に相互比較することで(相関主義)、全体性を把握することだったのである。

 筆者によると、知識社会学の要件とは①知識(言説)/社会の二重体の実在を前提にする、②社会が知識(言説)に影響を与えるという因果関係を措定・重視する、の二つである。筆者が本書の中で受け入れるのは①であり、②については立ち位置は微妙であるという。なぜなら、②を主張する動員モデルの検証も本書では行うからである。ゆえに、①を前提にしつつ、②を相対化させながらも延命させる点で、本書は知識社会学の範囲内にあると述べている(弱い知識社会学)。

 

 さらに本書ではこの流れでルーマンの「意味論」、「知識社会学」が言及されている。ルーマンは社会の意味論(ゼマンティク)の規定に関与するものを考察すること、言い換えればいくつかの意味規定が併存する状況で、ある区別が他の区別と比べて説得力を持って立ち現れる条件を考察することを「知識社会学」と呼んだ。これを「ボランティア」の事例に当てはめると、「贈与」がこの言説領域の「コード」であり、パラドックスの解決は原理的に不可能だが、何をもってそれが解決されたと「見なす」かについての基準(プログラム)が生み出されることになる。どの基準が立ち現れるかは時代ごとで異なるため、その展開過程を追うことが本書の知識社会学の課題であるといえる。

 

 以上、本書が(弱い)知識社会学へと方法論を規定していった論理的経緯、およびそれによって行き着いたルーマンの「意味論」など、なかなか興味深い考察が冒頭の30ページほどに詰まっている。個人的には「知識社会学」の手法は(オワコンといわれているが)まだまだ議論の余地のある研究分野だと思うので、こういった理論的考察はありがたい。

 知識(言説)を社会(科)学として学問的に探究するのであれば、本書が示したように「弱い知識社会学」として分析する以外に今のところ道がないように思う。その際に重要なのが、何らかの言説領域を規定している「コード」を的確に導き出すことである。本書では「ボランティア」という言説領域におけるコードとして「贈与」を置くことでその問題をクリアした。このコードを置く過程を無視したり、あるいは的確なコードを設定できなければ、ただ言説を網羅的に収集しただけで恣意的で非科学的な結果しか生まないように思われる。

 だが、やはり難しいのは言説を収集する範囲をどこまでに限定するのか、という問題が生じてしまうことである。言説はあらゆる場面で生成され、今こうやって記述していることでまた新たな言説が生成されている、というように収集しようと思えば無限に集まってしまうほど膨大なものである。そこから「何が分析の対象として望ましい言説なのか」を決めることは果たして科学的・論理的に可能であろうか、というかねてからの疑問がやはり払拭されないのである。この問題をクリアすることが、知識社会学を経験科学として社会学へと組み込むための第一条件であると考える。

田村哲樹『国家・政治・市民社会』

 今回は少し寄り道して、田村哲樹『国家・政治・市民社会ーークラウス・オッフェの政治理論』について。(おそらく絶版になっているので、アマゾンではかなり高騰している。名著なので、違う出版社からでもいいから復刊してほしい。)

 

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

 

 

 クラウス・オッフェは、ハーバーマスの弟子筋にあたるフランクフルト学派(本人はこの呼称に対して嫌悪感を示すらしいが)。問題関心は多くのフランクフルト学派の師匠たちと共有しており、おそらく最大の研究対象は「後期資本主義における国家と市民社会との関係」というところになるだろうか。本著では、そのオッフェの思想史的展開を、70年代から90年代後期ぐらいまでを追っていくという内容になっている。

 以下では、オッフェの具体的な思想や田村氏の読解の是非を吟味するということまではせず、できるだけ議論の整理までにとどめておきたい。そのため、記述もあいまいで漠然としたものにならざるを得ないが、ご了承いただきたい。

 

 まず、問題の根底にある「後期資本主義」とは一体何なのだろうか。マルクーゼやアドルノ、ホルクハイマーなどのフランクフルト学派第1代、ハーバーマスの第2世代の間では70年代以降、この「後期資本主義」というのが重要な研究テーマになってくるが、簡単に言い表すならば、それは従来の資本主義システムが瓦解し、国家(政治ー行政システム)が経済システム、および生活世界の領域に侵入してくるようになった資本主義である。ハーバーマスは、この後期資本主義の時代に入って、ます人々の日常生活の領域が政治システム、経済システムによって「植民地化」されると警鐘を鳴らしていた。

 また、本書でオッフェの政治理論を整理するための重要なワードとして「制御」と「作為」が挙げられる。ここでは「制御」とは(社会学的に言うならば)「構造」、「作為」とは「行為」のことを表すと解して問題ないだろう。つまり、オッフェの政治理論はギデンズやブルデューが試みたように、マクロとミクロの統合を目指すものだったというわけである。

 ただし、オッフェの場合は土台(下部構造!)としてマルクス主義から出発したというのが大きな思想上のバックボーンになっている。つまり、マルクス主義的国家論では、国家を資本家階級(支配階級)の占有物と見なして、それを糾弾するという理論的立場を取ることが多かったが、オッフェもその一端を継承しており(もともとフランクフルト学派マルクス主義から出発している)、国家の機能を「経済」の領域に限定して議論することが多いのである。それはのちに見ていくように、後期に至るまでオッフェの理論の限界であり、かつオリジナリティにもなっている。

 さて、以上の議論の前提から、本書はオッフェの理論展開の特徴を「国家の制御機能の社会への移行」と「社会の作為の契機の発露」の二つであると見ている。このエントリでは、その論理的帰結がどのようにもたらされたのか、以下で(断片的ではあるが)簡単に整理していこう。

 

 オッフェによると、後期資本主義社会は「政治ー行政システム」、「経済システム」、「規範(正統化)システム」の三つのサブシステムから成る。つまり、後期資本主義社会の危機はこの三つのサブシステムの相互作用によって生じると考えられる。具体的には、「財政的手段」、「行政の合理性」、「大衆忠誠」の三つの「制御リソース」の自己閉塞化が危機の現象形態として挙げられるだろう。だが、これではまだ政治ー行政システム内部での危機が見過ごされてしまうかもしれない。そこで政治ー行政システム自体の危機の見直しが図られるのである。

 オッフェは、国家による「制御」の要請は、資本によってではなく国家それ自体からなされると考える。しかし、国家による「制御」にも限界が存在する。①国家官僚制が従わなければならない複数の合理性の非統一性、②国家の政策形成における内部構造と要請される機能との不一致がそれである。よって、国家は「制御」の役割を担うことができない。国家が社会秩序を「制御」するには、社会の成員が納得できるだけの「正統的」な理由が必要である。しかし、それが崩壊し、国家による「制御」が「作為」の産物に代わるのである。

 だが、オッフェはそもそも国家は自らを正統化することはできないという。なぜなら、国家による正統化はその機能的な結果からしか根拠づけられないからである。だが、あたかも「自然」のように変化する政治や経済(市場)の動向の帰結を予想して、皆が納得のできるような何らかのアウトプットを提示するということは不可能である(残された手段があるとすれば「手続きによる正統化」[ルーマン]しかない)。したがって、国家(政治ー行政システム)から社会の領域への正統化問題の移行の必要が生じるのである。

 そしてオッフェが注目するのが、70-80年代以降に急速に台頭した「新しい社会運動」である。これらの運動は、「政治」=「国家という制度的空間の中で行われるのもの」という固定観念を打ち破り、社会の領域にも政治的空間を形成したと称賛する(政治の社会化/社会の政治化)。

 

  次に後期オッフェの理論を理解する手がかりとして、オッフェの「制度」論を確認しておきたい。

 オッフェは、制度には二つの大前提があるという。まず一つ目は①制度の「作為性」である。制度は不変的に所与のものとして存在するのではなく、(a)恣意的に誰かにデザインされ、作り変えられることもある。(b)またそれゆえにコンフリクトの当事者によるバイアスが介在せざるを得ないのである。そして二つ目が②自然のもののような長命ぶりである。上でデザインの作為性を指摘したが、かといってデザインによる制度変更は稀で、多くの場合、全体的な枠組みを保持したまま(再生産)、細部に限定して変化するのである。

 さらにオッフェは、この大前提をもとに、制度は①経路依存性、②超安定性、③負担軽減・エネルギー節約、の三つによって同一的再生産を行うという。具体的にいえば、①は、制度の存在によって行為主体の選好・規範意識を一定の方向へと「社会化」することを意味する(また、行為主体がその役割を適切に遂行している限り、その変更の必要性は喚起されない)。②は、制度が一定の柔軟性を持つことで(不具合に対応できることで)、結果として安定性を担保することができることを意味する。③は、制度の祖内によって社会の成員は過度な責任や紛争の発生から免れることができることを意味する。

 では、制度はどういった時に変化を迫られるのであろうか。それは、既存の制度が作動する原理(構造)とルールが、「自己モニタリング」によって省みられるときである。言い換えれば、それは現在の制度が数ある選択肢のうちの一つでしかないと理解されるとき(等価性機能主義)に制度変更の契機が表れるのである。そして、この制度変更を行うのが、ほかならぬ「行為主体」なのである。

 また、制度は「二重性」を有している。つまり、一方で「社会的規範志向の行為」、他方で「目的合理的ないしは戦略的行為」の両方の間に位置し、両者を結び付ける特徴である。つまり、制度は特定の社会にとって望ましいとされる規範を人々に供給する機能と、行為主体の目的合理的・戦略的行為によって変更を迫られる機能の二つを持っているというわけである。しかし、後者の戦略的行為は個人によって勝手気ままに行われるわけではなく、「認識的・道徳的リソース」つまり当該社会において流通している認識や道徳的規範やルールにある程度沿った「社会相互的」な手順を踏むことを強いられるのである。

 だが、集団の成員がそれぞれ「目的合理的・戦略的」に行動することで、集団全体で見るとかえって「非合理的」な結果が生じてしまうことが必ず起こる(合理的選択のジレンマ・フリーライダー問題)。そうなると、「集団の構成員をその集合的利益にしたがって行為するほどに、非合理的に行為させるもの」は何なのだろうか。オッフェは、その答えを「規範的意向」(信頼・相互性・共感・公正の感覚)などを生じさせる「集合的アイデンティティ」に見出す。この「集合的アイデンティティ」が、国民国家の枠組みに設定され、「国民性」を帯びることで「福祉国家」が成立するし、逆にこれがより小さな共同体(例えば、納税者、専門家集団、文化的共同体など)に限定されることで、福祉国家の支持は「非合理的」と解釈される。これによって、個人はそれぞれにとって利益となる政策を支持するが、それ以外には消極的になるために福祉国家は衰退するのである。したがって、オッフェは市民社会におけるこの「認識・道徳的リソース」を重視するのである。

 

 さらに、後期オッフェは、新自由主義的な政策の分析を行うようになる。例えば、イギリスのサッチャリズムがもたらしたものとして、もっぱらその経済的な側面(国家の介入・仕事領域を減少することで財政を健全化したいという意図)が注目されていたが、オッフェはそれだけではなく、政治的な側面を注目するべきであると主張する。例えば、サッチャー政権の住宅事業の民間化政策は、下層・中間階級の利益政治的な分極化をもたらし、社会的な連帯の希薄化につながった。これは、集合的利益を国家に請求し、妥当なものとする媒介的な公共的機能の担い手を無能化する手段である。すなわち、サッチャーに代表される新自由主義は、市民社会や社会的なアソシエーション内部の連帯の脱組織化を図るものであるといえるのだ。

 

 さらに後期オッフェは、ルーマンの社会システム理論の潮流を受けて、システム理論的国家理論をも受容していった。本書では、ルーマンの社会システム理論を国家に適用したヴィルケの理論を参照している。ヴィルケは、ヘーゲルからウェーバーに至る国家を特権化してきた見方とは決別し、国家は社会のヒエラルキーの頂点に位置しているわけではないと主張する。むしろ、近代以降の社会は「脱中心化」した独自の「機能分化」したサブシステムから成る全体的な社会システムであると捉える。そしてこの諸システムはそれぞれの内部の論理に準拠して作動しているのである(オートポイエーシス)。

 簡略化するならば、諸システムは①高度に分化しているため、自らが有していない機能を果たす他のシステムに相互依存しつつ、②自己準拠しているため、作動上の閉鎖性・独立性も増す、という矛盾した二つの特徴・問題点を持っている。よって、この二つを両立させるために新たな「制御」が必要になるのである。

 では、この制御原理、およびその変更はいかにして可能か。このような変化が自然発生的なものではないとすれば、何らかの行為主体(担い手)が必要ではないか、という疑問が生じる。ヴィルケの場合、その答えは「脱中心的な制御」だったが、オッフェの場合は、「合理的な選択をする個々の行為主体」ということになる。ここまでは前回も説明した通りだが、後期オッフェはシステム理論を経由したことで、従来とは異なる論理的帰結を導き出す。

 それぞれが合理的にふるまうことで、全体として非合理的な結果をもたらすという問題が浮上すると上でも挙げたが、オッフェは、それは未来に対しての「責任倫理に導かれた市民の公共精神」(自分の行動選択が未来にどういう結果を及ぼすかの自覚意識)と「それを可能にする自己制約」の二つによって解決できると答える。かといって、これは問題の解決を個人に帰すものではなく、「制度」によって育てられる。つまり、制度の社会化機能によって、「制御」を主体的に行うための責任倫理が養成されるのである。そして、この「制度」的条件を供給する集団とは、具体的に市民社会の諸アソシエーション(労働組合、新しい社会運動など)である。ここまでいうと、パットナムの「社会関係資本論」との区別がつきづらいが、パットナムが市民社会の紐帯を非政治的な部分に求めたのに対し、オッフェはいまだに政治的な部分に見出していた点で両者は異なるといえるだろう。

 また、オッフェは「制御」の再定義に、国家も介入すべきであると主張する。ここは、(生活世界としての)市民社会は(政治/経済システムから)「自律的」であらねばならないと規範的に主張したハーバーマスと異なる点である。しかし、オッフェが言うように国家の介入が許されるは、それが「民主的」な国家であることが前提であることは注意が必要である。つまり、後期オッフェは、「強い国家」と「強い社会」の再構築を目指したといえる(両者は対立しているわけではなく、相互依存的)。

 

 

 以上のオッフェの国家ー社会関係の変容論に対して、あえて現在の視座から反論を投げかけるとすれば、以下のようなものが想定できる。

 第一に、オッフェの理論はあまりにも市民社会、とりわけアソシエーション関係を過大評価しているのではないかという点である。本書で追っているのは90年代までのオッフェの理論であり、また本書が出版されたのは2002年である。現在の目線から見れば、「市民社会の理性」や「理性的な個人による選択」というのは、果たして本当に可能なのだろうかという疑問が湧かざるを得ない。つまり、オッフェの議論はあまりに規範的に過ぎるのではないかということである。

 第二に、国家がより新自由主義化(国家行政の役割の減退)していくことで、かえって市民社会を「活性化」させ(正確に言えば市民社会を能動的に活性化するように仕向け)、「自己責任」の理念のもと役割を放棄することもあり得るのではないか、という点である。そして、そこには初期オッフェが問題化し、後期にそれを克服した(かのように見える)、国家の「財政危機」というより経済的な問題が大きな要因として絡んでいるのではないだろうか。

 以上の点は検討に値するだろう。

Rogers Brubaker "Beyond 'identity'"

 今回はロジャース・ブルーベイカーの論文、"Beyond 'identity'"についてである。下記リンクでダウンロード可能。

https://www.sscnet.ucla.edu/soc/faculty/brubaker/Publications/18_Beyond_Identity.pdf

 

 既刊翻訳である『グローバル化する世界と「帰属の政治」』の中で、ある程度ブルーベイカーの主要論文は取り上げられているが、この論文は少し言及されているだけで未翻訳だったのでとりあえず目を通してみた。大まかな主張は『グローバル化~』の中で言及されているとおりであるが、よりそれを具体的に把握するために以下で少し整理しておきたい。

 

 この論文は、タイトルにある通り「アイデンティティ」という用語を越えること、つまりすでに手垢がついたこの語に代わって新たな分析概念を提示することを目的としている。

 この新たな分析概念となるのは、以前ブログでも散々書いたように「カテゴリー」であったり、「自己理解」であったりするのだが(これについてはのちに詳述)、まずはなぜこの「アイデンティティ」を使用することをブルーベイカーが拒否するのかを簡単に説明しよう。

 ブルーベイカーによれば、「アイデンティティ」という言葉には「強い strong」意味と「弱い weak」意味、そしてその意味が「曖昧 ambiguity」に定義されたものとが存在する(p.1, 10-11)。強い意味でとらえられる場合、アイデンティティはパトス(情念)を湧きあがらせるような「自己」の根拠に用いられ、弱い意味あるいは曖昧な意味で使われる場合、それは(本質主義がしばしば用いるように)全くの有名無実化したものとして否定的にとらえられるか、ブラックボックス化した便利な言葉として用いられる。いずれの立場にせよ、「アイデンティティ」はすでにその言葉を使う研究者や当事者の立場によって、いいように解釈される概念になってしまっているのである。

 そもそも社会科学において「アイデンティティ」という言葉がここまで氾濫したのはなぜだろうか。ブルーベイカーは、その起源をフロイトエリクソンなどの心理学的な系譜に見出し、それが後にゴードン・オルポートの1954年に刊行された有名な著作『The Nature of Prejudice』によってエスニシティの研究にも流入し、社会学ではマートンやゴフマン、そしてピーター・バーガーによって援用されていったと述べている。

 そして1960年代に入って、主に米国における公民権運動やヒッピー文化の隆盛の中でこの言葉はさらに波及していくことになり、「アイデンティティ・ポリティクス」なる言葉も誕生した。そして今では多くの社会科学における文献の中で見出されるようになっている。

 

 では、現在社会科学の文献の中で「アイデンティティ」はどんな用法で使われているのだろうか。ブルーベイカーは、それを以下の五つに分類する。

1.社会的・政治的行為における非道具主義的(non-instrumental)な側面を強調する際に、「利害関心 interest」と対置するものとして用いる

2.特定の集団的な現象を扱う際に、集団の根本的な「同質性 sameness」を意味するものとして用いる

3.「自我」などの人間の根源的なものを表す際に、深く、基礎的な、不変のものとして用いる

4.社会・政治活動の生産を理解する際に、集団行動を可能にする集団的な自己理解(self-understanding)や連帯、集団性(groupness)の手続き的・相関的な発展を強調するものとして用いる

5.不安定で複合的・可変的・断片的な、現代における「自己」の本質を表すために用いる

(p.6-8)

  以上を見てみると分かるように、「アイデンティティ」の用法にはかなりの開きがある。ここから恣意的に用法を策定して分析に用いても、前提となる定義づけの時点で研究者の間で齟齬が生じるのは必至である。

 

 そこでブルーベイカーは「アイデンティティ」という用語を使う代わりに、いくつかの独自の概念を提示している。以下、それをいくつか紹介しよう。

 まず一つ目は、「同定化 identification」と「カテゴリー化 categorization」である。この二つの用語の特徴は、"identity"のように固定的なものとして人間の自己-他者認識を捉えるのではなく、より流動的な状況・文脈依存的なものとしてそれを捉えている点である。つまり、この用語を使うことで、自他を何らかのカテゴリーへと押しはめる「過程」が問題関心の中心となるのである。そのため、ブルーベイカーの認識では、人間は確固とした自己を持っているわけではなく、網の目のような関係性の中に位置する(relational)、あるいは何らかのカテゴリー的なメンバーシップに帰属を求める(categorical)、ある種の「管」のようなものなのだといえる。またその際、自らをアイデンティファイする方法は能動的に行われる場合もあれば、他者(小さな個人であったり、また国家などの大きな組織である場合もある)によって行われる場合もあることも注意しなければならない。

 二つ目は、「自己理解 self-understanding」と「社会的位置 social location」である。「自己理解」や「社会的位置」という言葉は「アイデンティティ」と比べて、社会的に変動する「主観性」を示唆している。つまり、人々は普遍的な「自己」を持っているわけではなく、上に挙げた「同定化」や「カテゴリー化」の過程において、現時点における「自分」を理解・経験することができるのである。ただし、「自己理解」という言葉を使うことの弊害もある(p.18-9)。例えば、この言葉を使うと、当事者の主観的な理解を重視しすぎて他者からの理解を扱うことができなくなる。次に、認知的な意識を特権化してしまうことにもなりかねない。最後に、「アイデンティティ」という言葉によって表されていた客観性を確保することができない。つまり、強い意味でのアイデンティティの概念を用いた研究は、「本当の true」アイデンティティと「単なる mere」自己理解を区別していたが、自己理解のみに焦点を当てるブルーベイカーの用法ではあまりにも主観的に過ぎるのではないかという懸念があるのだ。

 三つ目は、「共通性 commonality」、「結びつき connectedness」、「集団性 groupness」である。以上で挙げた二つの分析装置は、いわば個人が自己を分類する方法を分析するためのものであるが、この三つ目の分析装置はそのように自己を分類・理解した個人同士がいかに他者と結びつき、集団へと凝集していくのかを分析する際に用いられるものである。例えば、ネーションの結びつきは相互のネットワーク以上に、原初的で時には狂信的ともいえる感情的な愛着によってなされる。そのように集団への帰属感情を喚起するものは、特有の歴史的な出来事、公共のナラティブ、言説フレームなど様々考えられるが、それらを具体的に考察するためにこの概念装置が用いられるのである。

 

 そして論文の後半でブルーベイカーは、実際に以上で挙げた概念を三つのケーススタディ(ヌエル族の家族形態、東欧のナショナリズム、米国の「人種」をめぐるアイデンティティの議論)に適用して分析を行っている。

 さらに最後に、ブルーベイカーは留保として、分析概念としての「アイデンティティ」の使用を控えるべきだと言っているだけで、当事者からもそれを奪い去ろうとしているわけではないことを付け加えている。これは「分析のカテゴリー」と「実践のカテゴリー」を区別する彼のスタンスからすれば当然のことであるが、社会分析における「アイデンティティ」の使用に異議を唱えるのは、(例えば社会的マイノリティなどの)「特殊性 particularity」に目を背けるためではなく、むしろ特定の愛着や結びつきなどから生じる申し立てや可能性に光を当てるためであることを強調している(p.36)。最後の最後でこういった留保を必要とすることからも、いかに「アイデンティティ」という言葉がすでに人口に膾炙し、かつ政治性を帯びているかを痛感せざるをえない。

友枝敏雄「言説分析と社会学」

 もう一つ、同じ『言説分析の可能性』の中に収められた友枝敏雄「言説分析と社会学」という論稿をまとめる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  「言説分析」についての言及は先のブログに詳しく書いているのでいいとして、本論稿は言説分析と特に(知識社会学ではなく)社会学との関係について述べられていて興味深かった。友枝はこの中で言説分析がいかに、従来の社会学理論から乖離しているかを考察している。特に重要なのは、第三節の「社会学における理論構成」という個所で、そのなかで社会学理論の基本構成が分かりやすかったので書き留める(最近出た『社会学の力』という入門書の中でも少し言及されている。これは社会学の入門書の中ではかなりの良本)。

 

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

 

  まず、社会学の(広義の)理論には大きく分けて二つのものがある。一つは狭義の「理論」であり、もう一つは「メタ理論」である。前者は社会事象を説明・検証する理論である。これによって仮説を検証し、経験的命題として確定することができる(例えば「市民社会」や「恥の文化」の概念など)。後者は理論の理論であり、複数の理論を統合する形での理論である。例えば、パーソンズの一般システム理論などがこれにあたる。理論が社会事象を説明するものであるのに対し、メタ理論は必ずしも社会事象を説明するものでなくともよい点に大きな違いが存在する。

 さらに狭義の理論の中には、「純粋理論」と「規範理論」の二つが含まれている。一般に社会学研究の目的は、①社会事象の「記述」、②社会事象の因果関係もしくはメカニズムの「説明」、③現実の社会に存在する規範、制度、秩序の有効性や正当性を検討し、社会事象に対する政策的判断や価値判断を下すこと(「当為」)の三つに分けられるが、①、②の目的に重点を置くのが純粋理論で、③に置くのが規範理論である。ウェーバーがいうように、あらゆる科学者は価値判断からは自由であり得ない点でこの区別は無意味にも見えるが、多くの研究者はひとまず両者を区別して研究に取り組んでいる。

 

 さて、理論の構築には、「概念構成」と「命題構成」という二つの作業を要する。前者はある事象を説明するために必要な概念を選び出し、その概念を定義することであり、その概念が複数ある場合は概念間の関係性(上位-下位)を示すことである(例えば、ウェーバーは「行為の四類型」を使って、類型間の移行として現実の社会の動きを描いた)。反対に後者は、概念間の関係がある概念(説明項)がある概念(被説明項)を説明するという関係になっているときに、両者の関係を定式化することである(デュルケムの『自殺論』における「集団の凝集力が弱いと自殺率が伸びる」など)。

 また、概念構成と命題構成からなる理論構成の作業の根底にあるのが、「領域仮説」または「大前提」と呼ばれるものである。例えば、ウェーバーは近代資本主義の発展を論じる際に、暗黙の裡に「前近代」と「近代」を区別している。また、ハーバーマスはコミュニケーション的行為を論じる際に、前提として人々はコミュニケーションによって合意に達することを規定している。これが「領域仮説」である。

 

 以上の議論を整理すれば、社会学理論の位相は以下のようになる。

1.領域仮説もしくは大前提

2.①概念構成および②命題構成からなる純粋理論

3.規範理論

(p.244)

  従来の社会学理論はその誕生の時からして、前提として自然科学により近づこうとして、研究対象もしくは分析の単位(例えば人間の「行為」など)を確定することができ、この確定された対象を分析することで純粋理論を構築できると考えてきた。しかし、言説分析はソシュール以来の「言語論的転回」に依拠しているため、その考え方を否定し、実在があってそれに意味が与えられるのではなく、意味が与えられて初めて実在が切り分けられ、存在はじめる、と考える。

 よって友枝によれば、その誕生の由来からして言説分析は構築主義と親和性が高い。それゆえ、構築主義がそうであるように、言説分析も極限的には完全な相対主義にならざるを得なくなり、科学が守るべき客観性や普遍性といったものをどうやって担保するのかという問題がやはり首をもたげてくるのである。

 極論すれば、言説分析は「言説空間こそが社会事象そのものであるから、言説空間の外にいかなる社会的事象も成立しない」というスタンスを取る。友枝は、言説分析には「ハード(厳密)なもの」と「ソフト(ゆるやか)なもの」との二つがあると述べる。前者は「言説分析においては、社会的存在についての考察は言説を通して行うべきである」とする、よりラディカルな立場であり、これはいわば「言説一元論」ともいえる。対して後者は、「言説空間とともに社会空間も存在する」として、言説と社会階層、社会集団、社会構造などとの関係の説明を試みる立場である。

 後者は厳密に言えば、もはや知識社会学のスタンスと何ら変わらないため、言説分析が独自の領域として確立するためには、原理的に「ハードなもの」の立場を取らなければならなくなる。だが、その立場を取れば途端に言説分析は(社会を探求する学としての)社会学とは根本的に相いれないものとなってしまう。友枝の考えでは、言説分析はそもそも社会学の一研究領域にはなりえないものなのである。

 

 言説分析を厳密に考えれば友枝の主張の通りになるだろうが、例えば前回のブログに挙げたように言説分析では言説の背後に「権力」の存在を認めていた。この権力をどう定義するかにもよるが、もしそれを社会的に構築されるもの、社会の何らかのアクターによって創出したものとして描くのであれば、以上の友枝が示した理論上のアポリアも解決しそうではある。だが、そうなってくると、また知識社会学との差異化が難しくなってくる。やはり、言説分析を社会学の研究領域として確立するのは難しいのだろうか。