備忘録 「ネーション」の定義について
ちょっと頭の中を整理するために書きます。
「ネーション」の定義について。ネーション nationって日本語で訳せば「国家」とかになるんだろうけどこれはちょっと違和感あって国家ともまた違う何かなんではないかと思ってた。
そんなときに「ああなるほど」って思える論理に出会った気がする。
- 作者: アントニー・D.スミス,Anthony D. Smith,高柳先男
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1998/07
- メディア: 単行本
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アントニー・D・スミス『ナショナリズムの生命力』。この冒頭で「ネーション」の定義について書かれていたので整理してみる。
彼の考えからすると「ネーション」っていうのは以下のように定義づけられる。
歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団(Smith 1991: 40)
これだけ見ると何を言っているかわからないなとなるが、 簡単に言えば「ネーション」というのは近代化の過程で生成された概念であるということである。
前近代において人々を連帯させていた枠組みというのは主に宗教的共同体であった。前近代に生きていた人たちは自分たちが「何人なのか」「どこで生まれたのか」というようなことを気にするよりは「○○教を信仰しているか」ということであらゆる人々と連帯して共同体を作っていたのである。しかし、そういった共同体の中では理念として平等をうたっているものもそうでないものも、ほとんど先天的にヒエラルキーのようなものが構成されており、実体としてはかなり不公平なものでしかなかった。そんな中、近代化の過程でいろんな方法(それがエスニシティ(民族的出自)、神話や記憶、文化(宗教的分派も含む)etc)で分派する集団が生まれていったのだ。
そしてこれらの分派の発生(ナショナリズムの勃興)を様々な論者はエスニシティ、神話と記憶、文化、経済的階級、法と義務など多くの方法で説明しようとしてきたがそれぞれの論のどれが正しいということではなく、スミスはそれらを折衷して、すべての次元において考察されるべきであると提案しているのである。
またスミスは「ネーション」を「国家」とは明確に区別することも述べている。
国家の場合、もっぱら公的な諸制度に関連しており、それらは他の社会的な諸制度とは区別され、それ自体自律的であり、所与の領域内部では強制と搾取の独占権を行使しているものである。他方、ネイションとは文化的・政治的な紐帯を意味し、それが歴史的文化と故国を共有するものすべてを、単一の共同体のなかで結びつける(同 : 40)。
これはつまり、「国家」とは制度・法などでその人を自国の人間であるかどうかを決定するシステムのことであるのに対し、「ネーション」とはそういった法的な制度を飛び越えて波及しうる非常に曖昧で可変的なつながりのシステムのことを意味するのだ。これはこの前ニュースで見た在日タイ人の強制送還に関するニュースを想起してもらえればわかりやすい。
彼は「国家」の法に基づき、「日本人ではない」という烙印を押され国家の外部にはねだされるのだが(これがあってはならないことなのは自明)、日本で生まれ日本語も流暢に話す彼は文化的には完全に「日本人」であるという見方からすれば「ネーション」(これが日本という国家と版図が被るのかどうかはわからない)の中に内包されるべきであるという論理になるのである。「国家」と「ネーション」どちらの見方をするかで完全に意見が割れてしまうのでこの両者の見方は明確に区別されるべきである。
回顧主義的ロマンチストと現実主義的ニヒリストの葛藤 『ラ・ラ・ランド』※ネタバレあり
『ラ・ラ・ランド』見ました。簡単に雑感をつづります。
二年前(だったけ?)『セッション』で一躍映画界の新星として登場したデミアン・チャゼル監督の最新作。今年度アカデミーでも最多ノミネートで話題になっていたのでかなり期待してました。
結論から言うと個人的に好みの作風ではなかったし、どちらかというと前作『セッション』のほうが好きだけれど今作を見て、なんだか監督がやろうとしてること、最近のアカデミーが求めている傾向みたいなものが分かった気がする。
今作は簡単に言うと「夢」に関する映画。これだけいうとフロイト的な精神分析論や崇高なSFのように思うかもしれないがそんな堅いものではない。要は「夢」っていう言葉には眠りについて頭の中で見るものと「将来の夢」みたいなニュアンスのものとの二つの意味が含まれている(これは日本語にも英語にも両方ある含意である。不思議。)。今作はその二つの意味を踏まえると非常に面白くなる。
今作の主人公の二人はどちらも理想を求めて、夢見ている。例えばエマ・ストーン演じるヒロインは叔母の影響で子供のころから女優になることを夢見ているし、ライアン・ゴズリング演じるセブは本物のジャズ・ピアニストになることを夢見てくすぶっている。ある意味では「理想ばかり追い求めて現実を見ていないロマンチスト」と言われて馬鹿にされそうな感じである。しかし、いろんな経緯もありつつ最終的には結果オーライで彼らはどちらも望みの方向に進むことができる。
ここだけ聞くと「昔のアメリカ映画によくあるパターンのご都合ストーリーね」って思うだろう。確かに昔の(大体40,50年代ごろの)アメリカ映画、とくにミュージカル映画というのは底抜けに明るくて、見ていて「それはないだろ(笑)」となるようなもの少なくない(『ウェストサイド・ストーリー』や『雨に唄えば』なんかを思い出してもらえるとよい)。
だからこそ監督は今作でミュージカルという手法を採用したのではないかと思う。見たことがある人ならわかるだろうが、ミュージカル映画というのは普通の会話の途中からいきなり歌いだしたり、踊りだしたりなかなか現実離れした演出を使う(それはミュージカルというのが「映画」というよりは「劇」に近いからだが)。それは一種、劇という「ハコモノ」(つまりは夢)の中のストーリーであり現実にのっとった演出などは必要ない、むしろ現実がこんなにも残酷なんだから劇中だけでも幸せなものを見たいという昔のミュージカルの雰囲気があるからなのだろう(もちろんそれに反対してシリアスなミュージカルものちに出るが)。
今作は「そんな時代の空気を取り戻せ!」と言わんばかりに黄金時代のハリウッド・ミュージカル映画の手法をオマージュしている(ちょっと時代錯誤じゃないかと思うほど)。物語の舞台がハリウッドということもあるのだろう、昔の舞台のセットや原色カラーの衣装、二人の空へ浮遊するシーンなどまるで夢を見ているように楽しい気持ちになる。しかし、それこそが本来のミュージカルの楽しみ方であり、その楽しさに回帰してみようと監督自身が意図して作っているように思うのだ。
本作の主人公であるセブはジャズピアニストであり、彼は王道の方法でジャズのすばらしさを世間に普及しようと考えている。これはおそらく監督自身の考えにリンクしている。前作の『セッション』の時に明かしていたように、監督は自身もドラム経験者でありジャズに造詣が深いそうだ。セブはかつての友人に「ジャズは死のうとしている」と語る。そして王道ジャズで勝負するという夢をあきらめた友人に反対してやはりジャズの道を突き進もうとする。これはまさに監督自身のジャズおよび映画への態度を表している。ごちゃごちゃこねくり回したり、新しいものをミックスしたり、現実的でジャーナリスティックな意味を映画(前回のアカデミー作品賞は『スポットライト』)に付与するよりも温故知新で昔に原点回帰しようとする考え方だ。
映画を見た後の感想を見ていたら、「なんだが、主人公二人だけしかスポット当たってなくて残念」みたいなものもあったけどそれは当然。これは二人だけのサクセスストーリー、いわば二人の夢であり、ほかの第三者の視点なんかはそんな夢を妨害するものでしかないのである。夢を追いかけている人は得てして周りが見えなくて夢見心地な考えをしている人が多いが今作はそんな二人の頭の中を覗き込んでいるような感覚だった。題名の『LA・LA・LAND』ってのいうのも、いわば「国、世界」、二人だけの理想郷を作ろうっていう意味も含意しているように思える。
だからこそあのラストは何だが肩透かしを食らったというか、やはり監督のニヒリズムが抑え込めていないような印象を受けた。まあこの監督自体、前作を見る限りラストにあいまいで観客に考えさせる終わり方を持っていくことが好きな作風だが、今回も「俺が何をやりたかったか分かるかい?」的な終わり方にしてる感じ。だがとりあえず私の個人的な印象としては回顧主義的なロマンチズム(ジャズや王道ミュージカルへの回帰、ハッピーエンド)と現実主義的なニヒリズム(すべて夢みたいにうまくいくとは限らない苦々しいラスト)の間で監督自身葛藤してるんじゃないかというふうに感じた。
とまあ、ミュージカル映画のこの「底抜けの明るさ」「ハッピーエンド」を逆手に取った作品というのはほかにもあって、中でも『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかはそれ系の中では断トツ傑作なんだがそれに比べたら今作は見劣りする感じ。個人的にはアカデミー作品賞取るまではないだろうと思っているのだが、すでに下馬評は『ラ・ラ・ランド』に軍配が上がっているようだ。さてどうなることやら。
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あと、内容の話はさておき劇中で使われていたサウンドトラックはどれも素晴らしい。しかも前作『セッション』でも感じたが、この監督の「音楽の良さを映像で表現する」カメラワークはかなり秀逸。縦横無尽、アップ、上下、様々な角度を駆使したカメラワークで映像表現の幅を広げようとしている感じがして、さすが音楽をやってきた監督だなと感心した。
小熊英二『単一民族神話の起源』
小熊さんの著作は今まで何冊か読んだことがあったし、新聞連載などのライトな批評は拝見したことがあった。けれどちゃんとした学術論文というものはこの著作が初めて。(だって量がやばいんですもの…)
実際読み始めてまだ4分の1程度しか進んでいないが、早くも「これは大学の一年生の時に読んでおけばよかった」と後悔しているほどである。
特に歴史社会学を学ぶ生徒なんかは今著の序章だけでも読んだほうが良いと思う。そこで小熊はM・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を例に挙げ、歴史学と社会学の違いについて言及している。
歴史学は、対象の限定を重視する。それに対しウェーバーのこの本では、時代と場所が限定されていない。(小熊 1995: 9)
つまり歴史学においては人や場所などを一つ限定して分析の対象とするのに対し、『プロ倫』(社会学)においてはカルヴァン(16世紀スイス)、ベンジャミン・フランクリン(18世紀アメリカ)、問題の出発点は19世紀末ドイツ東部の労働者の意識、比較対象はインドなど分析の対象が飛び飛びで狭い範囲にこだわらないというわけである。これがもし歴史学者が書いたものだとしたら、「ベンジャミン・フランクリンにおける経済倫理の思想史的研究」なんかになるのではないかとも述べている。
さらに小熊はこう続ける。
マクロ的な視点とミクロ的な視点というものは、社会科学のどの分野でも対立的に、あるいは補完的に内包されている。前者はラフスケッチであり、後者は細密画である。反論を覚悟してあえていえば、概して社会学は巨視的、歴史学は微視的に向かう傾向があるようだ。(小熊 1995: 10)
「反論を覚悟してあえて言うならば」という枕詞の通り、これには歴史学者、社会学者双方に言いたいことがある人がいるだろうが私は彼の見方におおむね同意する。
つまりどういうことかというと、歴史学は「ある時代のある人物(あるいは現象)にスポットを当て深く掘り下げていく。上に述べたベンジャミン・フランクリンの例やほかにも「レーニンの帝国主義批判に見る社会主義観念」(いい例が思いつかない)なんかもあり得るかもしれない。それは歴史学が事実の解明を何よりも重視するからである。日本を例にとれば、戦前戦後において皇国史観を基盤とする日本礼賛などを実証研究で否定していったことが挙げられる。
対して社会学は一つの事例だけに収まらず、様々な事例を場所や時間的な境界も横断し分析していく。なぜなら社会学が目指すのはそれぞれの事例の背後にある論理や構造を解き明かすことだからである。
ただ注意しなければならないのはどちらの方法が正しいということではないということである。というよりもむしろ両者の長所を取り込み、補完的に援用していくことが不可欠であると述べられている。
私は大学で社会学を専攻しているが、卒論研究発表会などを見ると、このどちらかに傾きすぎているという論文が多いように思う(特に歴史社会学的分野において)。つまり社会学の諸理論を使ってそれに見合うだけの事象を抽出して理論武装したトンデモ論文(歴史学的検証の不足)や歴史の羅列だけに終わりそこから社会の何が見えるのかわからない論文(社会学的検証の不足)などである。
個人的には簡単な疑問・問題設定(それが正しいか間違っているかはどうでもいい)から出発し、歴史文献など一次資料などをとことん洗い出していき(量的・質的調査を含む)、最後に理論を用いてそれらの事象の検討から社会の何が分かるのか、および最初の問題設定がどうなのかを分析するというのが社会学(というか歴史社会学?)の一番のオーソドックスな手法だと思う。
ここまでの歴史学と社会学の違いに関しては本著序章の数ページに言及されているだけだが、非常に根本的なものが詰まっていると思う。できれば歴史学、社会学を学ぶ学生ができるだけ早い時期に読んだほうがいいと思う。(以上。自戒を込めて)
橋口亮輔『恋人たち』 苦さ9割、甘さ1割
かなり久しぶりにTSUTAYAでレンタル映画鑑賞。
橋口亮輔監督作品『恋人たち』(2015)。二年前の作品だけど当時から劇場公開を逃して、ずっと見たくて仕方なかった作品。
橋口監督は『ぐるりのこと。』が初鑑賞作品だったんだが、その時心をわしづかみにされずっと追いかけていた。彼の描く人間像がどうしても自分及び自分の周りのだめな人間たちを連想させ、これが映画であることを忘れさせるほど作品に没頭していた記憶がある。リアリズムを追及し、ドキュメンタリータッチの作風は少し是枝監督なんかにも似てるかもしれない。
今回の『恋人たち』もそんな橋口節は健在で、どこまでも残酷な現実を淡々と描いていく。ストーリーの9割ぐらいは胸がふさがる思いで見ているのだが、やはりこれは監督のうまいところで、1割ほどユーモアを混ぜることでそれがオアシスのように心を穏やかにしてくれる。
劇中でも言及されているように日本は来たる2020年東京オリンピックに向けて現在着々と準備を進めている。監督はおそらくそうやってみなが上を向いて未来に向かっていく時代の片隅で蟠りを抱えたままくすぶっている人間がいる現状にスポットを当てたかったのだろう。
妻を突如通り魔事件で亡くし自暴自棄になっている夫、家庭の不透明な閉塞感から抜け出したいと願う主婦、ゲイであることを告げたことにより友人とギクシャクする弁護士。彼らはそれぞれ大なり小なり悩みや憂鬱さをかかえている。それは誰しも同じことだ。ただ彼らに足りないものはその苦悩を聞いてくれる人間(恋人たち)が周りにいることに気づかないことなのかもしれない。
特に妻を殺されたアツシは犯人を殺すこと、またはせめて慰謝料を支払ってもらうことを生きがいとしている。生活は全く豊かとは言えない。死んだように生き、町中の幸せなカップルを見てその幸せさに嫉妬し、自殺しようとしても恐れから死ぬことすらできず、妻の墓前に懺悔する。
しかし、彼の周りの人間はたびたび彼のSOS信号を受け取り、助け舟を出してくれている。ただ悲しいかな、人間は追いつめられると一人になろうとしてしまうものでそれにすら気づかないのである。
橋口作品の中では一番見てて辛いものがあるが、こういう現実があることを再確認すべきだなと思う。幸せな時はそのことを忘れるし、作中の登場人物たちのような状況に陥った時にこの作品を見たらたぶん救われた気持ちになると思う。
ブログ開設の儀
ブログ開設いたしました。著しく言語運用能力が低下しているような気がしたので取り上げず頭の体操という意味も込めて。本や映画の感想や旅行に行ったときの写真なんかを上げられたらいいなと思います。よろしくお願いします。
ではでは。