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深井智明『プロテスタンティズム』

最近読んだ本、深井智明著『プロテスタンティズム』について。

 

 最近ゼミの授業で「宗教共同体」から「国民共同体」に移行する過程を発表する機会があったので、この本の特に第1~3章あたりはもろ参考になった。個人的には社会学を学んでいるので「プロテスタンティズム」と言われれば、ウェーバーの『プロ倫』が真っ先に思い浮かぶのだが、この本ではそういった社会学的知識だけに限らず、神学、歴史学など多岐にわたる知識を横断的に用いているため分かりやすく、かつ幅広く、今までにない議論もカバーできている。

個人的に面白いなと思ったのは、ルターが95か条の提題を打ち出したことよって宗教改革が華々しく始まったというような従来の見方に異議を唱えている点。いわく、ルターが行ったのはあくまで腐敗した教会に対してその状況を批判し、「リフォーム」を求める運動に過ぎなかったということである。その点ではルター自身が行った運動は「カトリック的なもの」の枠をそこまで大きく逸脱していなかったのである。むしろルターが行ったことのより重要な点は、一元的なカトリック教会組織(バチカンにある教皇を主とする階序的な仕組み)以外にも神に対して信仰を表すことができるということを発見したことなのである。ルターはそれが「聖書」に帰ることによってなされると主張した。しかし、聖書の教義などははっきり言って、その人がどう読むかによって如何様にも変化するものであり、必然的に解釈をめぐって多くの分派が起こってしまったのである。そしてそれはのちに「カルヴァン派」や、より先鋭的でルターら初期改革者の不徹底さを指摘する「洗礼派」や「再洗礼派」などの派閥に分裂していき、ドイツを超えて世界に波及していった。そのため、著者は神学者トレルチの定義にしたがってルター以来のプロテスタンティズムを「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」に分けて考えるべきだと主張する。

トレルチは「宗教改革は中世に属する」と述べた。つまり、ルター派カルヴァン派らは「宗教は宮廷や一つの政治的領域の支配者のものであり、改革も政治主導で行われる」と主張する点では中世と変わっていなかったのである(p107)。トレルチはこれを「古プロテスタンティズム」と定義した。「領主と協力して領内の宗教を統一し、社会に秩序観や道徳を提供するシステム」である(p108)。そしてそれは原理的にはカトリックがやっていことの焼き直しのように見えたため、急進的な勢力は古プロテスタンティズムに真っ向から対立していった。それが洗礼主義(バプテスト)や再洗礼派(アナバプテスト)などの「新プロテスタンティズム」なのである。彼らにとっては古プロテスタンティズムは「自由な信仰」を抑圧する敵対者だったのである。

両者の決定的な違いは、「『教会』を『地域共同体としての政治的単位』との関わりで考えるのか、それとも『信仰者の自発的な共同体』として考えるのかに関係している」(p112)。前者(古プロ)は国家などの政治的共同体と宗教市場が一致していることを前提としている。つまり、神聖ローマ帝国内の人間はその中の教会に通い、そこに自分の宗教を選択するという自由はない。対して後者(新プロ)は個人が自由に宗教を選択する自由があり、また上から既存の宗教を押し付けるだけでなく、自由に宗派を作ることもできると主張するのである(宗教市場の民営化・自由化)。前者はドイツで保守勢力となって、現在でもなお息づいている。そして後者はピューリタンとしてメイフラワー号に乗って米国で新たなユートピアを築いていったのだ。

ドイツで保守勢力として生き残った古プロテスタンティズムは戦後、東欧の民主化、EUの成立、移民の増加などで一時、消極的な排外主義として伸張したこともあった。しかし公立学校の宗教科をめぐる改革ではキリスト教だけでなく、イスラムの授業なども選択肢として加えるという決断をする州も多く出てきた。しかも、これらの改革を支持しているのも他でもなくルター派なのである。ルター派は保守勢力として社会の多元化を嫌う一方で、不毛な争いを終わらせ、政治や宗教における様々な考え方が共存できるシステムを作ろうと努力してきたのである。

つまりルター派保守主義は一つの宗教的伝統に固執するのであるが、その伝統を逸脱するような極端な意見や立場に対しては「否」を言うことが自らの使命だと感じるようになった。だからこそ、宗教や宗派の多元性という現実の中での共存の努力という彼らの歴史的な体験を逸脱するような現在の排他主義には「否」なのである。(p161-162)

 ルター派保守主義はあたかも「宗教や宗派の多元性」を認めるということを一つの教示としているようである。だからこそ彼らにとって公立学校でのイスラムなど他宗教に対する排外は教示に反するのである。それは大戦中に非人道的なホロコーストを行った罪悪感というファクターも加わって、ドイツ国民の中で深く根付いている意識なのである。

一方、米国というニューフロンティアに移植された新プロテスタンティズムは「リベラルな信仰」として米国の社会設計に深く関わっていく。筆者曰く、ヨーロッパの町並みは一つの教会を取り囲むように構成されているのに対し、米国では町の中にいくつもの教会が乱立しており、人々はそれを自分の裁量で自由に選択して通うことができる。しかし、そのため米国では一つの教会が町で市場を独占してしまうことがある。すべては市場での自由な競争なので、その規模拡大には際限はないのである。米国では宗教ですら市場原理にしたがってヒエラルキー化(持つ者と持たざる者)するのである。

いやむしろ因果関係は逆かもしれない。ウェーバー的に言えば、ピューリタンらが新プロテスタンティズム的な考え方を移植したことによって現在の米国の「リベラルさ」が生まれたと考えるべきかもしれない。最初は「宗教」だったのである。そしてそれはウェーバーの『プロ倫』の議論に集約していく。「予定説」と「天職」という概念に基づいて人々は勤勉に資本の蓄積に励んでいった、という議論に。

本著はプロテスタンティズムの整理を行う上では教科書的な役割を担うだろう。

森達也『A』

 

A [DVD]

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オウム真理教地下鉄サリン事件を起こしてしばらくした後に取られたドキュメンタリー。戦後最も世間を震撼させた事件から「オウム真理教」という組織に対していわば強固な「バイアス」を形成してしまっている時期である。それはあれほどの事件を起こしたので仕方のないことだが、マスコミも警察も社会のあらゆる人々がそういったバイアスによって残された信者をまなざしている中でほとんど唯一といっていいほど見事なバランス感覚でオウムを捉えなおそうとしていた森監督はやはりさすがと言わざるを得ない。

まず内容から、雑感を綴っていきたい。実は1995年というのは私の生まれた年で当時のあの狂乱を全く肌身に感じたことがない。だからこそ、私はあの事件を「サリン事件後世代」として客観的に片方に肩入れすることなしに見るならば、やはり大衆(今作品の中ではマスコミや警察、善良な市民)はどこか水を得た魚のように自らを正義を執行する側として思いあがっていたのではないかと思う。もちろん、何度も言うように私はオウムに肩入れするわけではないし、サリン事件によって亡くなった多くの無関係な人々を無下にするわけではない。だが、それとこれとは区別して全く関係のない人々(今作で言えば広報担当の荒木さんや残された信者たち)に権力や暴力を執行する義理は基本的には他の大衆にはないのである。

第一、臭いものにふたをする要領で残された信者たちを町から排除することで果たして問題は解決されたことになるのだろうか。否。信者たちがなぜオウム真理教に入ったのか、その裏側を考察しなければ問題は解決どころか悪化するだけである。

当時は一体どういった時代だったのか。世紀末、就職氷河期、様々な要因が考えられるが、若者をはじめとしてみな未来に生きる希望が持てなかった時代である。宮台真司の用語を使うならば、「終わりなき日常」の中をただあてもなく走り続けていた時代。出口のない人生の中を、矛盾に満ちた世の中をなぜ必死に生きなければならないのか。そういった鬱屈した思いが世間に充満していたのだ。その中で当然こぼれ落ちる人々が出てくる。世の中の欺瞞に耐えられず、「希望」や「真理」を求めて「社会」からドロップアウトする人々が。それがオウムの信者である。オウムが絶対的な悪として突如出現し、信者を吸収していったのではない。むしろ、そうならざるを得ない社会的現状がまずあり、それに呼応するかのように信者がオウムという教団に自発的に入ったのである。そう考えると、まず問題にすべきはオウムの教義の非現実さか?それとも社会の欺瞞か?

荒木さんに対して善良な市民は「こんなことしてないで社会に出ろ」と言う。なぜ社会に出られないのか、ドロップアウトしたのかを知らずに。また、彼らは「社会に謝れ」、「社会の一員としての責任を全うしろ」と言う。じゃあ「社会」とは一体何なのか。そこには誰が含まれ、誰が含まれないのか。「社会」という範囲は非常に恣意的でどんな人間にも入る権利があるが、「反社会」と見なされれば、いとも簡単に排除の対象になりうる。善良な市民の言葉はきれいごとを並べ立てるだけで全く現状を無視しているとようにしか私には見えないのである。「自分たちもそうなりえたのではないか」という偶然性を担保することを森監督はこの作品で伝えているのだ。

 

さて、このDVDの特典として監督自身の取材後記とあとがき、さらに村上春樹による論評が付いているのだが、それが短いながらもかなり示唆に富んでいたので少し扱っていきたい。

まず驚かされたのは森監督の取材者に対する配慮である。というか逆に言えば、なんで他のマスメディアはこれをできなかったのかということに驚かされるわけだが。森監督は当時働いていたテレビ局の方針を無視してまで彼らのドキュメンタリーを制作しようとする。しかし、それは彼らを「悪」と決めつけてカメラを向けたいのではなく、客観的に自分の目で見極めて真実を撮りたいからだとわざわざ手紙を送って荒木さんに告げる。そして「森さんなら信用できる」と承諾されるのである。ここにいったいどういった信頼関係があるのかは森監督ですら分からないという。しかし、他のメディアとは違い、人を説得、納得させるだけの何か凄みというか真剣さ、優しさみたいなものがあったのではないかと思う。

 

さらに、面白いのはオウム信者の一人が警察の横暴により逮捕され、証拠映像を提出してくれないかと荒木さんに頼まれたときに、あくまで「公正中立」を守りたいという意志からそれを森監督が拒絶したというエピソード。森監督自身はこの時、不意に出てしまった「公平中立」というワードに対して後悔の念を吐露しているが、そもそも「公正中立」にドキュメンタリー(ないし映像作品全般)を作るということは本当に可能なのだろうか?

この疑問の答えに関して、森監督と村上春樹はあとがきで決定的に意見が食い違っていた。興味深かったので引用してみる。まずは村上の今作に対する評価が以下のものである。

 

巨大なスケールを持つものごとに対して、我々が観察者として、また報道者・語り手として、公正であろうとつとめるのは、多くの場合簡単なことではない。それはときとしてひどく非効率的で無力に映るし、あるいは実際に非効率的であり、無力であるかもしれない。しかし我々がその無力さに耐えて、「継続する意志」を我慢強く持ち続けていれば、そこには単なる効率性を超えた「何か」が生まれてくることになるかもしれない。おそらく我々はその可能性に希望を託し、それぞれの持ち場でこつこつと仕事を継続していくしかないのだろう。

 

つまり、村上は『A』について「公正な視線を追求すること(余計な色付けを廃止、判断を留保し、そこにある現象を素直に切り取ること)」でオウムに関して世間一般が持っている固定観念を切り崩そうとしていると述べているのである。では、それに対して森監督はどう答えているのか。

 

撮影の過程で、公正さや中立性など僕の視野には欠片もなかった。事象を必死に追い続けるだけだった。しかしその結果、作品に奇妙なバランスが付与されたことは事実だ。要するに「公正で客観的、そして中立」であるかのように見えるらしい。

そんな評価をされるたびに、僕は居心地が悪くなる。「オウムを絶対悪として描く」という公正さを強制され、これを拒絶したところから始まったこの作品が、公正であるはずがない。そもそもそんな基準に僕は価値など持っていない。

  

森監督は村上が評価した作品の「公正さ、客観性、中立さ」に全く価値を見出していないというのである。なぜなら、映像というのはそもそも作為的なものだからだ。目の前の事象をどう切り取るのか、どうエフェクトをつけるのか、明るさはどうするのかなどを決めるのは論理ではなく、作り手の感覚だからだ。映像作品を「公正、客観的、中立」なものとして捉えるというのは土台無理な話なのである。第一、中立を貫こうとするならば、まずその極端を知らなければならない。もし、中立性を測る数直線があると仮定して、「完全に中立」を0として真ん中に取るならば、まず両極端(+と-)の長さ、限界を理解しなければその座標を完成させることはできないのである。しかもこの直線が一本ならばまだ分かりやすいが、得てして直線は何本も交差することがある。その中から絶対的な0、原点を素描することなど果たして可能だろうか。現実は想像以上に多元的で複雑なものなのである。

 

A』を作るまでの僕は、テレビ・ディレクターとして、「公正中立、そして不偏不党」であることを常に心がけていた。実践していたつもりだった。でもそもそも人には、そんな能力は与えられていない。それに気づいたからこそ、ドキュメンタリーの意味と作ることの楽しさを、やっと知ることができた。

だから忠告します。映像はそもそも罠です。もちろんこの作品にも、いろんな罠が仕掛けてあります。種明かしはここまで。騙されないぞと思いながら見てください。

  

村上が言うように公平中立な視点から映像を撮ることができればそれに越したことはない。しかし実際は人間にそんなことは不可能だし、そもそも本当に公正中立で作者の意図が介在していない映像を欲するならば、それはもう人間が撮る必要はない。ロボットにでも撮影させればいい。しかしそれを「面白い」と言って見てくれる人がいればの話だが。「映像は嘘をつく」ということを知ったうえで、視聴者はその罠を見抜こうとする「深読み」のリテラシーが必要だし、さらに作り手は映像を見たままで鵜吞みにする人間たちに「映像の危うさ」を示すような作品を作り続けていかなければならないのではないだろうか。

M・ウェルベック『ある島の可能性』

最近フランスの大統領選のニュースが巷を賑わせているのを見て、去年買って以来書棚に積読していたウェルベックの『ある島の可能性』を手に取ってみた。毎度のことだが、彼の著作を読もうとするにはいささか根性というか、思い切りのようなものが必要で。

ウェルベックは言わずもがな2015年に起こったシャルリーエブド事件当日に、イスラム政党がフランスの大統領選に勝利するというスキャンダラスな小説『服従』を発表したことで話題になった作家だ。まるで予言者のような扱いを受け、ある種カルト宗教の創始者のように喧伝されていたのを覚えている。

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

 

 

当初このスキャンダラスな著作はイスラムに対する反抗、蔑視という意図があるのだと目されていたが、実際に読んでもらったら分かる通りむしろ西洋社会への失望からこの出発しているように感じるのである(この詳細については哲学者の浅田彰氏による論評が当時の世相も踏まえられているのでわかりやすい。

http://realkyoto.jp/review/soumission_michel-houellebecq/

。それもそのはずウェルベックがデビューからずっと西洋社会に根強く残るいわゆる「理性による統治」や資本主義の溢路を作品の題材にしてきたからだ。西洋はこの欺瞞に満ちた現状を打破しなければならない。その一つの方法がイスラムによる統治であり、そこにはアイロニーというよりも現状を正確に見据えたうえでの深い洞察があるように私は思うのだ。

 

さてさて、『服従』に関してはもう一度機会を設けて書評を書きたいと思うが(何しろ読んだのは二年前なので詳細を覚えていない)、今回は『ある島の可能性』について綴っていこう。

 

 これはいうなればSFだが、普通のSFとはまた違った趣向のものである。それはやはりウェルベック現代社会の世相をふんだんに引用した描写から導き出される感触といえるだろう。簡単にあらすじを説明する。コメディアン兼映画監督である主人公ダニエルはどこか達観したような乾いた生活をしている。金も名声もある。寄って来る女もいる。毎晩誰かとセックスをして、きわどいブラックジョークを散りばめた脚本を作るという日々を過ごしている。ここまではウェルベックの小説によくある風景だ。しかし、奇妙なのはこのダニエルに並行して異なる物語が挿入されているということである。ダニエルには何やら番号のようなものが割り振られている。そう、今作はダニエルという人間の現在と未来が交互に描写されているのである。つまり、ダニエル1というのが現在の彼、そして並行して描かれるダニエル24、25というのが未来の彼である。未来では遺伝子を使って、クローン人間(ネオ・ヒューマン)を生成する技術が確立しており、現在はその技術を開発する過渡期にあるという設定なのである。

訳者あとがきでも説明されているようにこの作品は「中間」を描いた作品である。「中間」とは何かというと、「旧人類」が「未来人」へと進化する過程での「ネオ・ヒューマン」という仲介物のことである。ネオ・ヒューマンはそれ自体「未来人」ではない。ウェルベックにとっての「未来人」とはもはや生命に感動・共感することもなく、インターメディエーション(AI、もしくは攻殻機動隊で言うところのゴーストみたいなものか?)によって他者との意思疎通はできるが、触れることも干渉することも対立することもない自律した存在として認識されている。人類は将来的にはそんな存在に昇華するのだと彼は主張するのである。そして、セックスと欲望にまみれ、自らのコミュニティを存続させるために人殺しすらいとわぬ存在として「旧人類」、つまり今の我々人間が描かれている。ネオ・ヒューマンはその中間、どちらにも触れうるし、どちらにも欲望する存在なのである。そのため、旧人類の「人生記」を読み、ネオ・ヒューマンたちは不可解に思いながらも彼らが欲望する「愛」に興味を抱いていく。

宗教という人々を時には残酷で野蛮な方向に導く行動指針が崩れ去り(脱魔術化)、それに代わって資本主義(金)という新たな行動指針が世界を席巻した。それは一時、共産主義という新しいイデオロギーの台頭によって存続の危機に追いやられたが、いまだに息の根を止めていない。現在、そんな資本主義が世界中に蔓延し、誰もが金さえあれば旅行(マスツーリズム、パッケージツアーの隆盛)に行ける、ベンツも手に入る、セックスも難なくできるという高度資本主義の時代に突入している。では、そんな高度資本主義を超えて次なる時代の到来を告げるものは何なのか?『服従』ではそれをイスラムによる「再魔術化」と仮定して世界を構築したが、『ある島の可能性』ではそれをテクノロジーに支えられた新たな宗教と仮定したわけだ。ウェルベックは決してどちらの世界が良いとか悪いとか言っているわけではない。彼はただ淡々と次なる時代の可能性を恐ろしいまでの豊かな想像力でもって描き出しているにすぎないである。

映画『立候補』と東浩紀『一般意思2.0』

最近見た映画と本について書こう。

見た映画は『立候補』。以前、大学の先生に勧められて見た映画なのだが、ふと思い出してもう一度見たくなったので購入した。やはり傑作。マジおすすめ。

 

映画「立候補」 [DVD]

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これはドキュメンタリー映画で選挙においてほとんど見向きもされない、いわゆる「泡沫候補」たちにスポットを当てている。主に2011年に行われた大阪府知事選が舞台である。選挙という、いわば椅子取りゲームの欺瞞を真正面から光を当てるのではなく、むしろ見捨てられてきた人々に光を当てることによって照射しようという試みである。そしてその試みは見事に成功している。

では簡単にあらすじを追っていこう。今作の主人公(というか主にスポットを当てている人物)はマック赤坂である。この人を知らない人はググれば一発で分かるのだが、まあなかなかの際物に映るだろう。経歴(京大農学部レアアースの貿易で財を成す、スマイル党総裁などなど)だけ見てもなかなか興味深い人物である。彼は各地の選挙に出ては負け、出ては負けを繰り返す泡沫候補の典型である。そして面白いのは彼の演説スタイル。よく街頭で目にする政策を必死に訴える政治家のイメージとはかけ離れ、ただひたすらにコミカルな音を発し、奇怪な舞を踊っているだけなのである(正確に言うと、政策を真面目に訴えることもあるのだろうが、劇中でもあるように「どうせ[演説を見に来た人は]これを見に来たんだろう」といいながら音楽をかけ出すのである)。これ以上の説明は省くが、これを見て理解できない人は彼の政見放送を見れば、一発で理解できると思う。このようにマック赤坂に負けず劣らずの際物たちが今作ではほかにも数多く登場する(羽柴秀吉外山恒一などなど)。そしてそういった普通の感覚からすると、「変人」という一言で片づけられてしまうような人々が今作では主人公なのだ。だからと言って彼らは決してアメコミ映画のように一発逆転を果たすわけではない。むしろ知事選でもマックは最下位で、いつものように大敗を喫す。

というのが主なあらすじだが、では今作によって監督が照射しようとした「欺瞞」とは何だろうか?
泡沫候補の一人、外山恒一は「選挙とは単なる椅子取りゲームであり、多数決で決めるのだから多数派が勝つに決まっている」という至極全うな主張をその政見放送の中でしている。これはよく考えれば当たり前のことである。より多くの票数を得た候補が当選する。そういったシステムの上で選挙は成り立っている。だが、このことを我々はしばしば忘れがちである。つまり、その勝負に負け、追いやられた存在(少数派)を忘れがちなのである。「少数派は選挙に負けた、だから諦めてください」というのが選挙というシステムの残酷さである。それ自体の良し悪しをこの場で議論したいわけではない。そうではなく、その残酷さに無自覚な人間があまりにも多いことが問題なのである。それこそが監督が今作で暴きたかった「欺瞞」であると考えられる。それは多数派の方から見ていては分かりにくい現実であり、少数派の視点から照射することで初めて意識化することができるのだ。
ではそういったシステムの中で少数派はただ毎回負けを喫することに我慢するだけでいいのか?否、それでは何も世界は変わらない。だからこそ、彼ら泡沫候補は真正面から戦うということを避け、いわば諧謔に徹することでこのシステムの馬鹿らしさを暴こうとしたのだ。マック赤坂の「ぶっ壊したいんだよ」というボヤキからも彼らが何も好き好んであんな変な役回りを買って出ているわけではなく、強い使命を抱いてアクションを起こしていることが分かるだろう(外山も政見放送からは想像できないほどしっかりとした物腰である)。少数派が追いやられている状況から、「選挙」というシステムの歪さが浮き彫りになっているのである。

これに対して、「何を当たり前のことを言ってやがる、少数派に意見なんか聞いてられるかよ」という反論があるだろう。しかし、最大の問題はこの多数派と少数派という図式はしばしばひっくり返ることである。それは最近のイギリスの国民投票で顕著に表れていた。従来の多数派はEUの普遍的な理念に共感し、残留を選んでいた。そして今回の国民投票もその体制を維持することだろうと楽観されていた。しかし実際は少数派と目されていた離脱派が残留派を上回り、多数派になった。そしてそこから生まれた国民内部のひずみが今、英国国内でどう尾を引いているかはもう説明の必要もないだろう。多数派と少数派の図式はすぐにひっくり返る。そしてそれはさらなる分断しかもたらさない。ならば、そういった問題が起きる前に少数派の意見に耳を傾けることは必要ではないだろうか?
さらにもう一つ、これは代議制民主主義の限界もあらわにしている。今作の舞台である2011年の大阪府知事選で勝利を収めた人物は維新の松井一郎氏である。そしてそのバックアップをしていたのが、橋本徹元市長である。彼らは多数派の支持を得て椅子取りゲームを制し、当選した。しかし、現状を見てみよう。森友学園の問題がまだ話題になっているが、彼らの政策に本当に満足している人間はどれぐらいいるだろう。むしろ、市民の声を無視している彼らに失望している人間のほうが多いのではないだろうか?代議制民主主義は多数派の声すら掬い上げることができなくなっているのではないか?
今の視点から見れば、今作で浮き彫りにされた問題提起の種は現在2017年をもって一斉に発芽しているようである。

 

 

上記のような問題点を変革しようとしている著作を偶然にも発見することができた。東浩紀著『一般意思2.0』である。

 

 
彼の著作は昔追っていたのだが、長いこと離れていた。しかし、最近彼の新著『ゲンロン0』が発売されたのでまた興味が湧いてきて、『一般意思2.0』にも手を伸ばすことができたのである(『ゲンロン0』についてはまた時間を置いてブログで扱いたい)。

この著作ではルソーの概念「一般意思」を彼の古典を読み直していくことで再解釈していこうという大胆な試みを行っている(これは体裁を大事にする学術論文ではむしろ忌避されるいわば「深読み」である。しかし、著者が言うように本著は一種の「エッセイ」であるためそういった読み替えが可能なのである。それは批評だからこそのアクロバティックさである)。なぜそんなことが必要なのか?東はルソーを見るときにそこに二つの人格を見るという。

「ルソーは、個人の社会的制約からの解放、孤独と自由の価値を訴えた思想家だった。しかし彼はまた同時に、個人と国家の絶対的融合、個人の全体への無条件の包含を主張した思想家でもあった。この二つの特徴は、常識的に考えるかぎりまったく両立しない。」(東 2015: 33)

ルソーは人間のことが大嫌いであり、引きこもりのオタクのような人間であった。それは彼が哲学者の顔を持ちながら、ロマンティックな文学者でもあった点に表れている。その点に今まで社会思想家は翻弄されてきた。この矛盾をどう解釈すればいいのかと。
ルソーは「一般意思」とは「一定数の人間がいて、そのあいだに社会契約が結ばれ共同体が生み出されてさえいれば、いかなるコミュニケーションがなくても、つまりは選挙も議会もなにもなくても、自然と数学的に存在してしまう」(東 2015 :63)ものだと考えた。それはあたかも自然物(モノ)であるかのように立ち現れるため、人間が重力(自然物)に抗うことがないように政府も一般意思に従わなくてはならないと主張したのだ。一般意思は言ってしまえば、「無意識」のようなものである。無意識を知覚することは難しい。しかも、無意識を頼りに政治を行うことは危険なことでもある(憎悪や一方的利害(無意識の突っ走り)によって人間がどれほどの間違いを犯してきたかは歴史を見れば明らかである)。ルソーの功績は一定の敬意を払われながらも完全に理解されることはなく、その後数々の哲学者(カント、ヘーゲルアーレントハーバーマス…)によって「理性による統治と熟議による理解」という点に収斂されていく。
しかし、今起こっているのはそういった理性や熟議の限界である。各地で多発するテロリストはまさにそういった理性による統治によって虐げられてきた人々であり、またヨーロッパで巻き起こるナショナリズムを掲げるのは熟議の舞台に乗ることすらできなかった人々である。だから東はこの袋小路を抜け出すためにもう一度ルソーに立ち返るべきだと述べているのである。そしてルソーが残した「夢」は現代では全く矛盾することなく、実現可能であると主張する。

ルソーは一般意思は市民の心に刻まれていると述べた。だからそれは知覚することができない。しかし、現代ではそれを知覚する方法がある。それがグーグルを代表とする情報技術である。東はこの情報技術によって知覚が可能になった一般意思を「一般意思2.0」と呼ぶ。情報技術の発達、例えばグーグルは巨大なデータベースをアルゴリズムによって秩序立てて整理することができる。多くの人間が入力した無数の情報(無意識)を蓄積し、そして析出することができる。東はここに目を付けたわけだ。
著作では例としてニコニコ動画を挙げている。ニコニコ動画は議論を交わしている人間が視聴者の入力したコメントを見ながら、議論を展開していく。また、視聴者も自分以外のコメントを見ながら、他にどういう考えがあるのかを知ることができるのだ(このシステムに東はラカンの「想像界」と「象徴界」のアップグレード版を想定している)。東はこれを政治の中に応用していってはどうだろうかと提案する。政治家は国会という閉じられたハコモノの中で議論するのではなく、モニターを設置し、データ処理システムを搭載することによって大衆に看守されながら、また彼らの声(無意識)を可視化しながら熟議を行う、という大胆な構想である。これは確かに絵空事、SFのように聞こえるかもしれない。しかし、理論的には何も間違ったことを言っていない。
これに対する反論として「大衆の意見を反映したらポピュリズム劇場型政治)に陥るのではないか」というものがあるだろう。しかし、東はこれにこう反論する。

「第一に、以上の提案は、普通の意味での「ポピュリズム」、つまり大衆の欲望の単なる肯定とは異なっている。なぜならば、そこで目的とされているのは、無意識の従属ではなく、むしろ無意識との対決だからである。(中略)第二に、もしかりに以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよいのではないか、というのが筆者の考えである。」(東 2015 :205)

無意識の「従属」は確かにポピュリズムに陥る。それは全体主義ファシズムを台頭させた歴史が裏付けしている。しかし、無意識を否定し、抑圧するとかえって後々リビドーとして吹き出し、取り返しのつかないことになりうる(これはフロイトの理論に基づいている)。ならば、残るべき方法はあらかじめ大衆の不合理な要求に曝され、真っ向から対峙することしかないのだ。また、現在を見れば分かるようにポピュリズムの台頭はもう目に見えて現実化している。そこで分断が生まれるぐらいなら最初から政策決定に組み入れることは多少なりとも有効であると考えられる。
また、東は何もこれまでの「熟議による政治」を否定しようとしているわけではない。むしろ、こういった「無意識の可視化」は熟議による権力者の横暴を阻止するために必要となるものであると主張する。無意識が熟議にとって代わられるのではなく、両者をうまく使いこなすことで「政治の危機」を乗り切ろうと言っているのだ。

「筆者が唱える無意識民主主義は、対照的に、市民ひとりひとりにはもはやなにも期待せず、ただ彼らの欲望をモノのように扱い、熟議または設計の抑制力として使うだけなのである。」(東 2015 :216)


長々と書いてきたが、『立候補』と『一般意思2.0』を接合してみよう。『立候補』は代議制民主主義の欠陥を問い直したドキュメンタリーだった。そこには多数決の論理で捨てられた少数派がいて、また選出された政治家が必ずしも市民の声に答えるとは限らない現状を描いていた。そんな現状に応答するかのように『一般意思2.0』は選挙以外の方法で少数派が声を上げることができる装置を提案している。そこでは、少数派の意見は直接採用されないまでも、政治家たちの横暴を止める抑止力になりうる。『立候補』の中で、マック赤坂が願い出たなけなしの政策提案を橋本や松井がまるでなかったかのように無視していた。現状では選挙に勝たなければ、まず声を発することすら許されないのである。さあ、どちらのほうが希望があるだろうか?

 


PS.
東は著書のラストに未来社会を予想し、その中で我々はどのように生きるのかを素描している。そのヒントとしてプラグマティズムの哲学者ローティの考えを参照しているのだが、中々面白かったのでちょっと書いておく。
ローティは哲学者からはあまり評判がよくないようである。なぜなら、彼は人間が信じる「これは正しい」という「イズム」はいずれも絶対的なものではなく、相対的でしかないと主張するからだ。つまり、そういったイデオロギーは個人として信仰するのは構わないが、それを公的な場に持ってきてはならないと主張しているのである。そのため、ローティは公的領域を、イデオロギーを対決させる場として捉えるのではなく、「いかなる正しさや美しさとも無関係な別種の原理のもとで運営されるような、価値中立的で脱理念的な」場として捉えるべきだと論じているのである(東 2015 :233)。
では、その公的原理を基礎づける新しい概念とは何か。ローティはそれを「想像力」だと主張する。「想像力」はルソーの「憐み」にも通じる、他の哲学者が人間を結びつけるにはあまりに不確かで動物的だと考える概念である。しかし、東はその動物的な概念こそが人間に残された連帯の可能性だと述べている。目の前に苦しんでいる人がいれば、その人に対して「あなたは我々と同じものを信じ欲しますか?」ではなく、単純に「苦しいのですね」と憐れむことによって連帯が生まれるというのである。少し感情的だろうか?しかし、理性による連帯がもはや不可能になったこの時代で説得力を持ちうる新たな連帯の原理はこれぐらいしかないように思われる。

憐みによる連帯の反論として「しかし憐みによって暴走してしまうことはあるのではないか」というものが想定できる。確かにそう見える例は多くある。例えば、最近シリアに空爆を命じたトランプはシリアの毒ガス兵器で苦しむ子供の動画を見て同情し、それを決断したという。しかし、これは「憐みによる暴走」ではなく、むしろしっかり想像力を働かせた(自らの立場を相対化させた)うえで憐れんでいないために起こる欺瞞である。ローティは絶対的なイデオロギーなどないと述べた。トランプの決断はいわば自らのイデオロギーを正当化するためにシリアの子供への憐みを利用したものでしかない。人間には複数の人生がある、自分がこうあるのは単なる偶然でしかない、という想像力を働かせ、相対化を経ていない憐みは決して連帯の原理になりえないのだ。

『アイアムアヒーロー』最終巻 ※ネタバレあり

久々のブログ更新。

年度初めでなかなかのデスマーチだったということもあるけど、その間いろいろ読んだ本、見た映画もあるのでそれについてもおいおい(ていうか時間さえあれば)書いていきたい。

 

今日は私が最近の漫画の中では、ずば抜けて最新刊を楽しみにしていた『アイアムアヒーロー』がついに完結したということもあってブログを書こうと思った。

 

 

新しいゾンビものということで世間的には人気があったらしいが、私自身、この作者の人となりにすごくシンパシーを感じてこの作品に触れていたという点もある(NHKの『漫勉』好きでした)。その点でラストの展開は一体どうなるのだろう(ゾンビものというのは得てしてラストの展開というものに制約があって難しいものである)と、読み進めていくうちに心配になっていた部分も実はあった。なぜなら、ラストの展開次第で作者が抱えていた闇だとかがこの作品に向き合う中でどう収着していったのかを知ることができると思ったからだ。この作品に向き合うことで作者と対話しているような感覚をマジで抱いていたのである。

結論から言うと、今作のラストは個人的には大変満足だった。というか、作者の主張はおそらく漫画を描き始めてからずっと一貫していたんだということを感じてむしろ感動すらした。以下、的外れかもしれないが、ラストの展開を考察してみる。

 

まず、作者の一貫した主張とは何なのか?それは「ヒーローなんていない」というニヒリズムである。これは今までの著作を見てみても分かる通りである。今作のタイトルにつられて「これは英雄のような醜い男でもヒーローになれることを描いているんだ」と短絡的に解釈してはならない。私はむしろそういった考えすらもあきらめて達観しているようにも見える。

しかし、そういったニヒリズムを描くために作者は今作にある皮肉な仕掛けをしている。それは作者がこうありたいと思うヒーロー像をあえて描き、それを主人公・英雄と対置しているのだ。それが中田コロリである。彼はステータス的(漫画家、ブサイク)には英雄と何ら変わらないのに登場した時から彼よりもヒエラルキーが上にあった。この男は最後まで英雄との比較のために重要な役割を果たしていた。

 

次に、今作で作者の中にあったもう一つのテーマは「日常の崩壊」である。それは作者自身が抱いてきた黒い感情とリンクしている。第一、英雄自身作者を模して造られたキャラクターであり、そういった意味でこの作品は作者の内面が多分ににじみ出ていたのだ。では、作者が壊したかった「日常」とはどんなものなのか?それは暗黙のルールにしたがってヒエラルキーが形成された世界である。その中では人間はステータス化され、それによってヒエラルキー化される。しかもそのステータスは個人の問題ではなく先天的なものであることが多い。そういう理不尽な原理に則った世界が作者が見ていた「日常」だったのだ。

おそらく花沢先生が今作を書き始めたきっかけとしてこの「日常の崩壊」があったと思う。とにかく日常を壊したかった。それが小さな始まりだったのだろう。そしてZQNというアイディアが生まれた。日常を壊すにはうってつけの手段がこのウイルスだったのである。そして日常を壊したが、次に生まれたのはこのカタルシスをどう収束させるのかという問いだったと思う。それは今作を「漫画」として成立させるために描かなくてはならないオチだからである。そして構想されたのが、ZQNたちが合体してできたあの謎の物体だったのである。

あの物体をいったい何なのであろうか?それを考えるためには作中でもたびたび引用された「2ちゃんねる」のような描写がヒントになる。先ほど私は作者が壊したかったものとしてヒエラルキー化した日常を挙げた。これはいわば階層によって分断された世界である。ならば、このディストピアを破壊し、新たにユートピアを築くならばどんな世界であるべきか?そう考えたときに浮かんだのが、あの2ちゃんのスレッド、いわばインターメットのチャットだったのだろう。インターネットは顔もない、ステータスもない、一人ひとりがフラットな個として成り立った社会である(と少なくとも今はとらえられている)。どんな人間でも自由に意見が言えるし、そこに優劣はない。それはある意味でユートピアといえるだろう。

だからこそZQNは突然合体を始めた。なぜなら、それが新たなユートピアを築く最良の策だったからだ。そこではみんなが一つの体、連帯している。思考の交差はあるものの争いはない。ゆえに彼ら(それら?)は連結した後にぴったりと動きを止めてしまったのである。なぜなら合体すること、それこそが目的であり、そのあとに地球を侵略しようとか、新しい生命を作ろうといったことを考えていなかったからだ。この時点で作者の「日常の崩壊」後の答えは出ていたのである。

そう考えると、最終話で不自然に挿入された「東日本大震災」と思われる数コマの描写の意味が理解できる。ここでは英雄しか存在しない東京で3.11地震が起こる。しかし、もちろん誰もいないし、もともと街も荒廃しているので何の被害もなく収束する。これは一見すると「また意味もなく震災ネタを入れやがって」と思われかねない描写だが、ここに作者なりの皮肉があると思った。実際の震災では多くの人が亡くなった。そして多くのものが破壊された。また、人間の黒い部分(風評被害原発問題など)が暴露された。しかし、作中ではすでにユートピアが築かれ、地震などでは壊れない強靭な「絆」が構築されていたため事なきを得た。ZQNの合体によって、地震を乗り越えることができたのだ。しかし、それを明確に言及することは避け、暗に描写している点に作者の皮肉と批評性を感じる。作者自身、このZQNの集合体を「ユートピア」として描いている一方、必ずしも「よいもの」として描いていないということだろう。

 

さて、論点が交錯してしまって申し訳ないが、最後に生き残った人間たちについて考察してみよう。最終的に生き残った人間たちは、英雄、そしてヘリに乗って東京を脱出したコロリ一派だった(ここで他の国にも生き残りがいるのでは?という反論も考えられるが、ここでは描写されたものだけに限定する)。なぜ彼らは生き残ることができたのだろう?その疑問に答えるためには作中で登場したセリフを考察しなければならない。作中でZQNに覚醒してしまったコロリの部下が言ったセリフ、「見られたいなら、生かそう。今生きてる人を…助けようよ」がなんとも示唆的だった。これはZQNに覚醒し、人間以上の力を手に入れた男が「強くなったところでもう誇れる相手もいない」といったセリフに対する返答である。ZQNウイルスによって人並み以上の力を手に入れ、ユートピアを築くことすらできた。しかし、それを誇示するためには自らよりも劣る存在が必要になる。そのために人間を生かそうというのである。そして彼らは生き残ることができたのである。ユートピアユートピアであることを誇示するための観客として。

それは地球上に残った「ヒーロー」というよりも、ユートピアに入り損ねた「罪人」のようですらある。そう、ここでやっと最初のテーゼに戻るのである。作者は今作で「ヒーロー」を描きたかったわけではないのである。しかし、ここで疑問が生じる。英雄が「罪人」という役目を担わされることに関して違和感はないが、英雄のアンチテーゼとして描かれたコロリはむしろ「ヒーロー」であり、コロリ一派が逃げおおせたあの島こそ本当のユートピアだといえるのではないか?この考えは一理ある。英雄は根っからのダメ人間で、それは最初から最後まで一貫していて、最後の最後まで変わらなかった。実際、最終局面で「ヒーロー」であるコロリを誤射している。この時点で彼を「ヒーロー」としてとらえることに限界がある。しかし、コロリたちは今作の中では唯一の「善人」である。すなわちコロリこそが世間一般のイメージとしてのヒーロー像なのだ。しかし、彼が生き残っていることで作者の「この世にヒーローはいない」というテーゼが崩れることになる。さてどうしたものか?

ここからは私の憶測であり、推論の域を出ていないため冗談半分で読んでほしいのだが、こう考えることでしかこの論理の抜け道がないのも確かである。すなわち、コロリ(一派)はあの地震の後、津波に飲み込まれ死んだのではないだろうか、ということである。それしか、作者のテーゼを完結し、「罪人」としての英雄だけを生存させる方法がないのだ。私自身、暴論なのは承知でこれを書いている。それを裏付ける証拠はないが(あるとすれば、彼らが島の沿岸部に住んでいるということぐらい)、英雄が「罪人」として生かされたということを示唆するセリフは作中に登場する。それは2ちゃんのスレのようなところに書かれた、「この男は生きている方が勝手に苦しむから生かしておいて…」というセリフである。これはヒロミちゃんのセリフとも、小田さんのセリフともとれるが、いずれにしろ、英雄は救われるために生かされたのではなく、やはり罪を背負うために生かされたのである。

 

さてここまで長々と書いてきて、最後も推論で終わってしまったが、結論をまとめると、作者は今作で「ヒーローなんていない」ということを描きたかった。そしてヒーローなきあとの世界のユートピアがインターネットを模したあのZQNの集合体だったのである。そしてそのユートピアから弾き出された英雄は一人であの世界を生きていかなければならないという罰を与えられた。

もちろん、何度も言うように、だからと言ってあのユートピアが善であるとは筆者は言及していない。むしろ、見たら分かるようにディストピアにも見える(自由にどこかに行く権利もない)。だからこそ、ラストの英雄の顔は苦しみながらも、清々しさ、凛々しさすら感じる。ただ作者を駆動させていたのはアンチヒロイズムであり、日常に潜む黒い感情を作品に投影することだった。英雄が作者の投影であるならば、ラストのあの表情を見て、私のこれまでのラストの展開に対する心配は払しょくされた。とにかく花沢先生自身、納得のラストだったのではないか、と。

『ボーイズオンザラン』から先生の仕事を見守ってきたが、『アイアムアヒーロー』という素晴らしい作品を生んでくれて本当にありがとうございました。先生の次回作を心よりお待ちしております。

 

備忘録 「ネーション」の定義について

ちょっと頭の中を整理するために書きます。

 

「ネーション」の定義について。ネーション nationって日本語で訳せば「国家」とかになるんだろうけどこれはちょっと違和感あって国家ともまた違う何かなんではないかと思ってた。

そんなときに「ああなるほど」って思える論理に出会った気がする。

 

ナショナリズムの生命力

ナショナリズムの生命力

 

 アントニー・D・スミス『ナショナリズムの生命力』。この冒頭で「ネーション」の定義について書かれていたので整理してみる。

彼の考えからすると「ネーション」っていうのは以下のように定義づけられる。

歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団(Smith 1991: 40)

これだけ見ると何を言っているかわからないなとなるが、 簡単に言えば「ネーション」というのは近代化の過程で生成された概念であるということである。

前近代において人々を連帯させていた枠組みというのは主に宗教的共同体であった。前近代に生きていた人たちは自分たちが「何人なのか」「どこで生まれたのか」というようなことを気にするよりは「○○教を信仰しているか」ということであらゆる人々と連帯して共同体を作っていたのである。しかし、そういった共同体の中では理念として平等をうたっているものもそうでないものも、ほとんど先天的にヒエラルキーのようなものが構成されており、実体としてはかなり不公平なものでしかなかった。そんな中、近代化の過程でいろんな方法(それがエスニシティ(民族的出自)、神話や記憶、文化(宗教的分派も含む)etc)で分派する集団が生まれていったのだ。

そしてこれらの分派の発生(ナショナリズムの勃興)を様々な論者はエスニシティ、神話と記憶、文化、経済的階級、法と義務など多くの方法で説明しようとしてきたがそれぞれの論のどれが正しいということではなく、スミスはそれらを折衷して、すべての次元において考察されるべきであると提案しているのである。

 

またスミスは「ネーション」を「国家」とは明確に区別することも述べている。

国家の場合、もっぱら公的な諸制度に関連しており、それらは他の社会的な諸制度とは区別され、それ自体自律的であり、所与の領域内部では強制と搾取の独占権を行使しているものである。他方、ネイションとは文化的・政治的な紐帯を意味し、それが歴史的文化と故国を共有するものすべてを、単一の共同体のなかで結びつける(同 : 40)。

これはつまり、「国家」とは制度・法などでその人を自国の人間であるかどうかを決定するシステムのことであるのに対し、「ネーション」とはそういった法的な制度を飛び越えて波及しうる非常に曖昧で可変的なつながりのシステムのことを意味するのだ。これはこの前ニュースで見た在日タイ人の強制送還に関するニュースを想起してもらえればわかりやすい。

www.huffingtonpost.jp

彼は「国家」の法に基づき、「日本人ではない」という烙印を押され国家の外部にはねだされるのだが(これがあってはならないことなのは自明)、日本で生まれ日本語も流暢に話す彼は文化的には完全に「日本人」であるという見方からすれば「ネーション」(これが日本という国家と版図が被るのかどうかはわからない)の中に内包されるべきであるという論理になるのである。「国家」と「ネーション」どちらの見方をするかで完全に意見が割れてしまうのでこの両者の見方は明確に区別されるべきである。

 

回顧主義的ロマンチストと現実主義的ニヒリストの葛藤 『ラ・ラ・ランド』※ネタバレあり

『ラ・ラ・ランド』見ました。簡単に雑感をつづります。

映画『ラ・ラ・ランド』公式サイト

 

 

二年前(だったけ?)『セッション』で一躍映画界の新星として登場したデミアン・チャゼル監督の最新作。今年度アカデミーでも最多ノミネートで話題になっていたのでかなり期待してました。

結論から言うと個人的に好みの作風ではなかったし、どちらかというと前作『セッション』のほうが好きだけれど今作を見て、なんだか監督がやろうとしてること、最近のアカデミーが求めている傾向みたいなものが分かった気がする。

 

今作は簡単に言うと「夢」に関する映画。これだけいうとフロイト的な精神分析論や崇高なSFのように思うかもしれないがそんな堅いものではない。要は「夢」っていう言葉には眠りについて頭の中で見るものと「将来の夢」みたいなニュアンスのものとの二つの意味が含まれている(これは日本語にも英語にも両方ある含意である。不思議。)。今作はその二つの意味を踏まえると非常に面白くなる。

今作の主人公の二人はどちらも理想を求めて、夢見ている。例えばエマ・ストーン演じるヒロインは叔母の影響で子供のころから女優になることを夢見ているし、ライアン・ゴズリング演じるセブは本物のジャズ・ピアニストになることを夢見てくすぶっている。ある意味では「理想ばかり追い求めて現実を見ていないロマンチスト」と言われて馬鹿にされそうな感じである。しかし、いろんな経緯もありつつ最終的には結果オーライで彼らはどちらも望みの方向に進むことができる。

ここだけ聞くと「昔のアメリカ映画によくあるパターンのご都合ストーリーね」って思うだろう。確かに昔の(大体40,50年代ごろの)アメリカ映画、とくにミュージカル映画というのは底抜けに明るくて、見ていて「それはないだろ(笑)」となるようなもの少なくない(『ウェストサイド・ストーリー』や『雨に唄えば』なんかを思い出してもらえるとよい)。

だからこそ監督は今作でミュージカルという手法を採用したのではないかと思う。見たことがある人ならわかるだろうが、ミュージカル映画というのは普通の会話の途中からいきなり歌いだしたり、踊りだしたりなかなか現実離れした演出を使う(それはミュージカルというのが「映画」というよりは「劇」に近いからだが)。それは一種、劇という「ハコモノ」(つまりは夢)の中のストーリーであり現実にのっとった演出などは必要ない、むしろ現実がこんなにも残酷なんだから劇中だけでも幸せなものを見たいという昔のミュージカルの雰囲気があるからなのだろう(もちろんそれに反対してシリアスなミュージカルものちに出るが)。

今作は「そんな時代の空気を取り戻せ!」と言わんばかりに黄金時代のハリウッド・ミュージカル映画の手法をオマージュしている(ちょっと時代錯誤じゃないかと思うほど)。物語の舞台がハリウッドということもあるのだろう、昔の舞台のセットや原色カラーの衣装、二人の空へ浮遊するシーンなどまるで夢を見ているように楽しい気持ちになる。しかし、それこそが本来のミュージカルの楽しみ方であり、その楽しさに回帰してみようと監督自身が意図して作っているように思うのだ。

本作の主人公であるセブはジャズピアニストであり、彼は王道の方法でジャズのすばらしさを世間に普及しようと考えている。これはおそらく監督自身の考えにリンクしている。前作の『セッション』の時に明かしていたように、監督は自身もドラム経験者でありジャズに造詣が深いそうだ。セブはかつての友人に「ジャズは死のうとしている」と語る。そして王道ジャズで勝負するという夢をあきらめた友人に反対してやはりジャズの道を突き進もうとする。これはまさに監督自身のジャズおよび映画への態度を表している。ごちゃごちゃこねくり回したり、新しいものをミックスしたり、現実的でジャーナリスティックな意味を映画(前回のアカデミー作品賞は『スポットライト』)に付与するよりも温故知新で昔に原点回帰しようとする考え方だ。

映画を見た後の感想を見ていたら、「なんだが、主人公二人だけしかスポット当たってなくて残念」みたいなものもあったけどそれは当然。これは二人だけのサクセスストーリー、いわば二人の夢であり、ほかの第三者の視点なんかはそんな夢を妨害するものでしかないのである。夢を追いかけている人は得てして周りが見えなくて夢見心地な考えをしている人が多いが今作はそんな二人の頭の中を覗き込んでいるような感覚だった。題名の『LA・LA・LAND』ってのいうのも、いわば「国、世界」、二人だけの理想郷を作ろうっていう意味も含意しているように思える。

だからこそあのラストは何だが肩透かしを食らったというか、やはり監督のニヒリズムが抑え込めていないような印象を受けた。まあこの監督自体、前作を見る限りラストにあいまいで観客に考えさせる終わり方を持っていくことが好きな作風だが、今回も「俺が何をやりたかったか分かるかい?」的な終わり方にしてる感じ。だがとりあえず私の個人的な印象としては回顧主義的なロマンチズム(ジャズや王道ミュージカルへの回帰、ハッピーエンド)と現実主義的なニヒリズム(すべて夢みたいにうまくいくとは限らない苦々しいラスト)の間で監督自身葛藤してるんじゃないかというふうに感じた。

 

とまあ、ミュージカル映画のこの「底抜けの明るさ」「ハッピーエンド」を逆手に取った作品というのはほかにもあって、中でも『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかはそれ系の中では断トツ傑作なんだがそれに比べたら今作は見劣りする感じ。個人的にはアカデミー作品賞取るまではないだろうと思っているのだが、すでに下馬評は『ラ・ラ・ランド』に軍配が上がっているようだ。さてどうなることやら。

 

Ost: La La Land

Ost: La La Land

 

あと、内容の話はさておき劇中で使われていたサウンドトラックはどれも素晴らしい。しかも前作『セッション』でも感じたが、この監督の「音楽の良さを映像で表現する」カメラワークはかなり秀逸。縦横無尽、アップ、上下、様々な角度を駆使したカメラワークで映像表現の幅を広げようとしている感じがして、さすが音楽をやってきた監督だなと感心した。