遅塚忠躬『史学概論』

 脱線して歴史学のお勉強。読み進めたところまでをまとめたい。

史学概論

史学概論

 

  

 第1章は「歴史学の目的」と題されている。歴史学に限らず、何らかの学問を学ぶときは必ず「それは何のために学ぶのですか」「それは何の役に立つのですか」という問いを突き付けられる。それは大学の研究費が切り詰められている現代においては火急の問題ではあるが、まあそれはさておき。

 歴史学がこの問いを突き付けられるときによくある回答が、「よりよく生きるため」だとか「人間の自己認識」(human self-knowledge)などである。後者は歴史学者コリングウッドの言葉だが、彼によると「人間が自己の何たるかを知るためには、人間がこれまで何を行ってきたのかを知ることが必要であ」るため、そこにこそ歴史学の「価値」があるというわけである(p.28)。

 ほかにも様々な回答が考えられうるが、遅塚はこれらの主張は歴史学の「効用」(utility)を説明しているだけであって、「目的」(purpose)ではないと述べる。つまり、なんらかの価値や意義は重要性(importance)とほぼ同義であって、ある行為の結果における客観的な重要性、すなわちその行為の効用を指している。他方で、目的というのは、ある行為の出発点において主体が自覚的に選び取って設定した目標を指している。言い換えれば、価値や意義、重要性と目的ではそれを評価する人が立っている位置(あるいは視座)が異なっているというわけである(前者は過去、後者は未来)。

 遅塚は歴史学の効用を否定するわけではないが、それと目的とを明確に区別することを強調する。なぜなら、歴史学者全員が「社会的有用性のために」とか、「人間がよりよく生きるために」などとのたまっていては、知的好奇心を刺激するような学問的産物は生まれようがないからである。

歴史学の効用ないし意義が一義的に確定されるものでないならば、単一の効用イコール単一の目的という実用的な学問の場合とは異なって、歴史学においては、その目的もまた一義的に確定されたものではありえない。したがって、われわれは、歴史学を学ぶ目的が人々の個性(好み)に応じてさまざまであることを、つまり、歴史学の目的の多様性をそのまま承認すべきであろう。(p.30-31) 

  もちろん、歴史学者個々人が「社会的有用性」を考慮することは重要である。しかし、それは個人が勝手にすることで、あくまでも「歴史学の目的は多様である」「それは個人の知的探求心や好みによる」という前提を担保すべきであると遅塚は述べるのである。これはいわばその目的を明確に規定されている社会諸科学と比較すると、かなり自由な発想であるといえる(うらやましくすらある)。

 

 とはいっても、「みんな自由に歴史を書いちゃえ」とあってはそれは学問として成り立たないので、以上の前提をもとに、遅塚は歴史学の大まかな目的を挙げる。すなわち、①尚古的(個性記述的)歴史学②反省的(静態重視的)歴史学③発展的(動態重視的)歴史学の三つに区分する。

  尚古的歴史学は「歴史的個体への知的興味を満足させるため」というのを歴史学の第一の目的に据える(p.32)。つまり、歴史が好きだから、過去の事柄が好きだからといった理由で歴史を学ぶ姿勢である。したがって、これはだれだれの、あるいはどこどこの歴史といった具合に限定的な対象を深く追求していくことを目指すため、個性記述的と称される。

 反省的歴史学は「過去に照らして現在の社会や文化を反省するため」というのを目的に掲げる(p.38)。現在の我々があるのはなぜなのかを問うために、過去をさかのぼってみようというのがこの立場である。この立場は過去を現在とは異質なものとして捉え、過去から現在を一つのつながりとして見ていないことから「静態重視的」な見方であるといえる。

 ちなみにこの反省的歴史学を代表する一派がアナール学派に代表される「社会史」である。社会史は19世紀までの歴史学が政治史や外交史のような大きな文脈にばかり目を向ける「事件史」偏重だった反発から提唱された。「歴史のなかでゆっくりと動く(長期的に持続する)中間層に着目する」(p.41)。これが社会史の出発点だったのである。さらに、社会史は例えば下部構造が上部構造を規定するといったマルクス主義的な説明を拒否し、諸要素の横のつながりにおいて歴史の全体性を捉えるという視座を取る。

社会史のおそらく最も重要な特徴は、歴史を、諸要素の共時的相互連関においてとらえようとすることである。換言すれば、社会史は、ある地域のある時代の社会全体についいて、そこで一定期間持続していた「構造」を解明しようとするのであり、フランス系の「社会史(histoire sociale)」にほぼ相当するものがドイツでは「構造史(Strukturgeschichte)」とも呼ばれているのはそのためである。(p.43)

 「構造」は言うまでもなく、レヴィ=ストロースのそれである。構造は地域や時代を横断して普遍的にみられるある特徴的なパターンである。それを抽出するのが社会史の役割だったのである。

  最後が発展的歴史学である。これは「歴史の発展の筋道を考えるため」というのを第一の目的に据える(p.47)。それはすなわち、過去の中に現在の事物の起源を見出すことを歴史学の目的にしているという意味である。その際、注意すべきなのは発展的歴史学が発展の筋道を「知る」ためではなく、「考える」ことを目的としている点である。つまり、あくまでも歴史家は現実の世界の流れを後天的に再構成し、その因果関係を考える役割しか与えられておらず、その本来の全体的な歴史すべてを知ることはできないということである。

 

 というところで力尽きてきた。続きはまたいつか。。

アートを社会学に応用するということ

 先日、研究会に参加して抱いた雑感を綴りたい。

 研究会の内容ももちろん興味深かったが、それ以上に考えをめぐらしたのが「アートを社会学(あるいは社会科学)に応用することは可能か」「人文学を社会科学に組み込むことは可能か」という問いである。結論を先取りして私見を述べれば、どちらの問いに対する答えも「場合による」である。

 

 まずは「アート」に関する問いから。ここで想定されている「アート」とは、おそらく絵画・彫刻・映像などのいわゆる美術のことを指していると思われる。問題になるのは、これを「社会学に応用する」というときにどのように応用するのかという点である。ここでは分かりやすく「方法論」として用いる場合と、「説明の道具」として用いる場合の二通りに分けてみよう。筆者は前者の場合は「部分的に」応用可能であると考えるが、後者の場合はその応用は不可能であると考える。

 「方法論」として用いる場合とは、例えばどのようなものが想定されるか。ここでは研究会でも言及された、澤田唯人「他者の生を≪なぞる≫ための、今ここの≪なぞらえ≫の世界ーーアートベースを生きられる他者理解と社会学」を例に挙げよう。(http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00150430-00000138-0009.pdf?file_id=123694)

 これは「アートベース」といわれる手法を用いて、社会学がこれまで解明できなかった調査対象者の理解を試みようという意欲的な論稿である。その中で取り上げられているものを例に挙げるならば、例えば調査対象者に「箱庭」を作ってもらうことで彼らが自らも理解・把握していない経験を調査者が把握するといった事例が挙げられている。

 その手法の良し悪しはさておき、こういった手法の提示は社会学(とりわけ理解社会学)にながらく横たわっている「理解社会学の根本問題」を乗り越えようという意図が隠されている。ウェーバーの理解社会学現象学的社会学へと発展させたアルフレート・シュッツは、当事者(調査対象者)が現実を主観的に理解する意味連関(一次的構成)を、研究者は理解しなければならない(二次的構成)と唱えた。言い換えれば、研究者は当事者の構成する意味理解をさらに意味理解しなければならないのである。ギデンズはこれを「二重の解釈学」と呼んだが、問題は研究者が当事者の意味連関を理解する際に、そこに科学的な客観性を確保しなければならない点である。つまり、当事者の意味理解をそのまま(例えばインタビューなどの手法を用いて)提出しただけではそれを理解したとは言えないし、かといって当事者の理解から遠く乖離した論文を提出すると「それは私の思ったこととは違う」と咎められかねない。理解社会学はこのような根本的なアポリアに突き当たっているというわけである。

 アートベースの話に戻ると、それらの研究はこのような「理解社会学の根本問題」を回避することを意図していると考えられる。すなわち、論文あるいは社会学であれ哲学であれ、何らかの学問的体系の言語(ジャーゴン)に回収されない形で、調査対象者の意味連関をできるだけ忠実に抽出することはできないかという狙いである。科学がそれをできないのであれば、芸術でそれを代替しようというわけである。

 筆者はこれに対して「部分的に賛成」という立場を取る。「部分的」にというのは、アートを社会学に応用することは可能だが、それはアートを手がける「人々」を理解する範囲においてであり、アートを結論として援用することに関しては否定的であるということである。これが上で「方法論」としては応用可能だが、「説明の道具」としては不可能だといった所以である。実際、ハワード・ベッカーが『アート・ワールド』やブルデューの芸術社会学などはアートをによって社会学を刷新するというよりも、芸術界における人間の営み(卓越)を分析することを目指している。「アートを社会学に応用する」といった時に筆者が想定するのはまさにこれらの研究群である。

 また、アートを方法論的に応用すれば万事オッケーというのはあまりにも楽観的に過ぎるとは思う。例えば、上で挙げた箱庭はそもそも精神分析で頻繁に使われる手法だが、これを行ったからといって従来の社会学が問えなかった当事者の意味連関を理解できるというのがあまりよく分からない。また、そういったアートの中で提示された当事者の意味連関を、結局社会学であれ何であれ学術的な体系の中に組み込んでいかなければならないわけだが(例えば論文という形で)、その際に不可避的にやはり当事者の言葉はジャーゴンに翻訳され、本来の意図をそのまま伝えることは不可能であると筆者は考える。やはり、問題はアート云々というよりも社会学に限らず、各ディシプリン内における論理的整合性や派閥的なダイナミズムを解決しないことには、この根本問題は解けないのではないかと考えている。

 

 以上が、筆者がアートを社会学に応用することを全面賛成しない所以である。次に、二つ目の問い「人文学を社会科学に組み込むことは可能か」だが、これも部分的に賛成する。というのも、近代以降、両者は明確に区分され、分業体制を築くことで学術研究が量産されてきたという歴史があるからだ。

 そもそも「人文学」の中に何を含むのかを同定するのも一つの合意があるわけではない。多くの場合、そこには哲学、文学、歴史学などが含まれると想定されるだろうが、歴史学の中には「科学」たらんとしてきた学派はあるし、地域によっては人文学の中に芸術諸分野を含むとする国もある(詳しくは、隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』p.67-71を参照。フランスは伝統的に「人文科学」(sciences humaines)や「人間科学」(sciences de l'homme)と表現し、絵画や彫刻などの芸術(arts)とは区別されてきたが、英語圏ではHumanities and artsという形で社会科学と人文学を区別してきた)。

 だが、いずれにせよそれぞれのディシプリンは専門分化しながら、より複雑な問題系に取り組むことができるようになった。そう言った歴史的な経緯を省みず、単純に人文学を社会学に組み込むというのはあまりにも無謀であると思うのである。もちろん、筆者は学際的な研究者のつながり自体を否定するわけではない。実際、学際的な研究によって「異なる視点を持つ者同士が話し合うと、居心地が悪いけれど、均質な人びと同士の対話よりも、正確な推論や、斬新なアイデアを生む確率が高まる」という研究結果があるらしい(隠岐 2018: 250)。だが、それは各ディシプリンの専門家が専門知を結集することによって得られるものであり、明らかに分業体制のなせる業である。

 

 まあでもいずれにせよ、この問いを考えながらいろいろと思索にふけることができた。私も美術鑑賞が好きな部類だが、例えばなぜ高い金を払って遠い国のよくわからない絵画を見に行くのかというと、そこに「言葉では表現しえないもの」を見るからである。学問はすべてを言葉や論理で解明しようとするきらいがある。それは学問の最終的な目標であり、最大の魅力なのだが、同時に大きな欺瞞でもある。私は学問のそういった欺瞞や誘惑を自覚するために芸術があると思っている。自らの営みがいかにちっぽけなものなのか、と。これはある意味で芸術至上主義で、アートの象牙の塔に籠るような偏狭なアイデンティティなのかもしれない。しかし、今のところ私はこれこそが芸術の本質であると思っている。

 

 

・追記(2019年5月6日)

 以上で、アートと社会学の相違みたいなものを雑然とつづったが、これはそもそもアートと学問の根本的な相違なのではないかと最近思う。

 そう思うようになったきっかけは、東浩紀『ゆるく考える』に収録された「悪と記念碑の問題」という短い評論を読んだからである。

 同評論は「ぼくはむかしから人間の悪に関心があった。それも、個人がなす悪ではなく、集団がなす悪、つまり、政治や組織の力によって媒介され増幅される悪に関心があった。」という文章から始まる。氏は少年期に森村誠一悪魔の飽食』を読み、戦時中に日本軍が行った人体実験の描写を目の当たりにし、その残酷さに打ちひしがれたという。

 興味深いのは、氏が当時を振り返って同書の中で描かれていたものを「人間から固有名を剥奪し、単なる『素材』として『処理』する、抽象化と数値化の暴力」であると表現している点である。日本軍は中国人捕虜やロシア人母子を「丸太」と呼び、実験対象を「丸太一号」「丸太二号」と番号で整理した。それはすなわち、彼らから名前を奪い、均質で空虚な研究対象(n=1)として抽象化・数値化する営みである。

 もちろん、それは道徳的に許されざる行為である。しかし厄介なのは、その営みがそもそも「人間の知の源泉」であることである。科学者(この場合の「科学者」は自然科学者も社会科学者も含む)は実験対象を抽象化・数値化することでしか研究を行うことができない。しかし、その営みの先に、七三一部隊アウシュビッツポグロムが存在するのもまた事実である。

 社会科学なのか自然科学なのかを問わず、科学あるいは学問というのは原理的にそのような性質を帯びているような気がする。そして、そのような営みに抗することができるのは、アカデミズムの外の世界にしかないのではないかと私は思うのである。それは文学であり、映画であり、絵画であり、彫刻であり、いわゆる「アート」なのではないだろうか(ナイーブすぎるか?)。

 

 余談だが、東氏は抽象化と数値化の暴力は固有名を奪う一方で、固有名を回復させることもあるという。スターリンは銃殺対象者から人生を奪うために(すなわち固有名を剥奪するために)、彼らの詳細をまとめたリストを作成していた。しかし、のちに犠牲者の家族が記念碑を作成する際に利用したのもまたそのリストなのである。「ぼくたちは死者の名を、リストでしか記憶できない」。

 同じことは科学あるいは学問の世界にも言えるのではないだろうか。確かに、科学あるいは学問は対象者を抽象化し、数値化し、均質化する。そうすることでしか、実験・分析ができないからである。そして、それはときに残酷な結果をもたらす。だが、それによって作成された論文あるいは分析結果は、さらなる人間の理解へとつながる。そこには厄介な逆説がある。科学あるいは学問でできることは想像以上に限られているが、同時に想像よりもずっと開かれているともいえるのである。

 

 

 

ゆるく考える

ゆるく考える

 

 

『ブラック・クランズマン』※ネタバレあり

 週末、スパイク・リー監督の新作『ブラック・クランズマン』(原題:BlacKkKlansman、ちなみに本作は実在の人物であるロン・ストールワースの著作『Black Kransman』をもとに作られた。Kの間に小さな「k」を入れるというのはリーのアイデアだろうが、けっこう好きである)を見てきた。

youtu.be

 

 結論から言うと、素晴らしい映画だった。比べる必要はないが(けど比べてしまうのが人間の性)、同じく黒人差別を扱い、今年のアカデミー作品賞を取った『グリーンブック』とは打って変わって、現実的な問いとして「黒人差別」を取り扱っている。『グリーンブック』を見て、どこか物足りなさを感じた人は本作を見ることをオススメする。ちなみにリーは『グリーンブック』の受賞に際して難色を示したらしいが、それもおそらく両作品のそういった雰囲気の違いに起因しているようである。

headlines.yahoo.co.jp

 

 『マルコムX』などで60年代の黒人差別を題材にしてきたリーだが、今作は1970年代という時代設定でありながら、現在の米国の状況を踏まえて(皮肉って)つくられているのが、作中の端々で感じられる。おそらく、時代的な要請としてこれを作ったということだろう。

 例えば、作中に登場するKKKのメンバーたちは口々に「アメリカ・ファースト」や「もう一度アメリカ(白人の住むアメリカ)を偉大に」と叫ぶが、これはトランプおよび彼の支持者が集会で掲げるスローガンと一致する。リーからすれば、彼らと70年代のKKKの思想は同根であると映るのであろう。ラストで、2017年のシャーロッツビルにおける白人至上主義者とデモ隊衝突の凄惨な映像と、「米国の死」を連想させる逆さづりになったモノクロの米国国旗を挿入してくるあたり、監督の現代アメリカに対する逼迫した危機感と抗議の念を看守できる。

 だからだろうか、作中で描かれるKKKメンバーの人物像はどれも辛らつである。アル中、手紙を読めない(つまり識字能力の低い)といったある種ステレオタイプ的な白人労働者階層の特徴を前面に押し出し、彼らに対して手厳しい批判を加える。そこには「KKKのメンバーなんてしょせんこんなもん」というリーの皮肉が透けて見える。だが、その中でも異彩を放つ、実際に黒人男性に妻をレイプされた過去を持つ理知的なリーダーが描かれることで、KKKが単なる「思想なき烏合の衆」ではないということを暗示される(だからこそ問題は根深い)。このバランスは見事だと思う。

 

 今作が『グリーンブック』と比べて優れている点をあえて挙げるとすれば、それは「レイシズム」や「人種」というカテゴリーがいかに相対的で、だからこそ解決が難しい問題なのかを見事に描き出している点にある。

 しばしば「人種」は本質的なものとして扱われる。代表的なものとしては「優生学」や「骨相学」があるだろう。「白人は黒人よりも遺伝子的に優れている」といった言説である。今ではそういった似非科学まことしやかに信じられることは少なくなったが、やはりあらゆる生活の場面で「人種」カテゴリーは顕現してくる。それはポリティカル・コレクトネスやきれいごとでは乗り越えられない壁のように思える。『グリーンブック』にはそういった困難をヒョイっと乗り越えてしまうような、物語だからこその軽快さがあった。しかし、今作はそういった物語としての「分かりやすさ」を観客には提供してくれない(そこにリー監督の意地悪さを感じる)。

 例を挙げよう。今作は人種的なマジョリティとマイノリティを多角的な視点から描き出している。主人公のロン・ストールワース(黒人)は白人が大半を占める警察署に就職する。当然、社内では黒人に対する蔑視が待っていた(白人警官の多くが黒人を「カエル」と呼称する)。この場合、マイノリティ→黒人、マジョリティ→白人である。

 しかし、黒人学生の社会運動団体に潜入調査することになったロンは、その中で居心地の悪さを感じるようになる。それは自らが警官であるという事から来るものでもあるが(彼らは警官を「ピッグ」と揶揄するが、それに対してロンは「カップ(cop)だ」と何度も訂正する)、それと同時に黒人のアクティビストたちのように全面的に白人を非難することができない自分がいるからだ。

 言いかえれば、ロンは「警察」という準拠集団と「黒人」という準拠集団の間で板挟みになっているというわけだ。黒人だからといって必ずしもみなが運動に賛同したわけではないという事実は、しばしば物語の中では捨象されてしまう。最終的に、ロンはKKKの犯行を未然に防ぎ、警察という集団の中で一目置かれる存在となる。しかし、ラストでは結局黒人アクティビストの彼女に「やっぱり敵である警察と一緒には寝れないわ」といわれ、決別する形になった(少し曖昧な描き方だったが)。つまり、警察の中では「人種」というカテゴリーを越えて認められたわけだが、人種集団の中ではかえって「黒人」というカテゴリーの紐帯の強さが邪魔になってしまったのである。

 ここに人種問題の難しさがある。「人種」というカテゴリーは、一方で他愛もなく乗り越えられるものになりながら(人種カテゴリーがいかに他愛もないかはKKK理事とロンとの電話や「純正英語」や「黒人英語」などの描写の中にも見て取れる)、他方でどうしようもなく強い「原初的愛着」を引き起こし、人々の認知を縛ることもあるのである。そういった現実の複雑さを簡略化することなく、複雑なまま描いている点が今作の優れている点である。

 

 冒頭で、リーが今作をトランプ以降の現代アメリカを想定して作ったことを述べた。だが、やはり70年代と現在ではレイシズムの潮流にもいくつか相違があるようにも思われる。作中のKKKメンバーのセリフの中に「黒人は最近でかい顔をしている」といったものが多くあった。作中でもいくつか言及があるが、当時はちょうど黒人が主演を務めるような映画やドラマ、音楽などが出てきていた時期だった。それらを通して白人のネイティヴィズムが刺激されたというのが当時の大枠の文脈であるだろう。

 では現在はどうか。もちろん、今でも原理的な白人至上主義者は相変わらずそういった類の主張を掲げているが、最近のフレームはむしろ「黒人に仕事が奪われている」といった「エスニックな競合図式」に取って代わられているように思える(それは以前はユダヤ人だったわけだが)。

 ならば、問題はレイシズムだけにあるのだろうか。そこにはレイシズムの問題と同時に新自由主義的な問題が横たわっている(最近、人種主義と新自由主義の関係を問い直す見方が提出されつつある。例えば、小井土彰宏,2019,「新自由主義的移民政策の潮流の中でーー日本の入管法改正を問う」『現代思想』47(5):47-58.)。そこに今日的な人種問題の難しさがある。

現代思想 2019年4月号 特集=新移民時代 ―入管法改正・技能実習生・外国人差別―

現代思想 2019年4月号 特集=新移民時代 ―入管法改正・技能実習生・外国人差別―

 

 

 いずれにしろ、本作はアメリカのアポリアである人種問題を真っ向から描き、かつ物語としての面白さを担保した優れた作品である。願わくばオスカーを取ってほしかったが、これが受賞を逃し『グリーンブック』が取った背景には何らかのハリウッドのポリティクスが働いてしまったのではないかと邪推してしまう。

 トランプ誕生以降、歩みを止めて歴史を振り返り、アメリカを見つめなおすような映画が多く世に出されるようになった(例えば、マイケル・ムーアの『華氏119』。これも傑作だった。これはトランプからナチズムや民主主義を問いなおす内容である)。今度は一体どんな名作が生まれるか、楽しみである。

メモ:社会運動論におけるフレーム分析

 社会運動論におけるフレーム分析について。

 主に、Benford, Robert D. and David A. Snow, 2000, "Framing Processes and Social Movements: An Overview and Assessment," Annual Review of Sociology, 26: 611-39. および、樋口直人『日本型排外主義ーー在特会外国人参政権・東アジア地政学』(名古屋大学出版会)の第4章をもとにまとめたい。

 

日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―

日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―

 

 

 以前、社会運動論の系譜を紹介した際( 社会運動論の系譜 - 楽楽風塵)、少しフレーム分析にも触れたが、あまり詳細には述べられなかったのでもう一度その理論的前提をおさえておこう。フレーム分析は、社会運動における資源動員論などが民衆の不満と運動参加をアプリオリに結びつけることに反対する形で提唱された。つまり、不満は確かに運動発生の必要条件ではあるが、十分条件ではない(つまり、不満を持っているからといって必ずしもその人が運動にコミットするわけではない)というのがフレーム分析の提唱者の趣旨である。

 フレーム分析は、人々(潜在的支持層)が運動にコミットする際の「認知的過程」を分析することを志向する。そこで同分析手法が導入したのが、ゴフマンが提唱する「フレーム」の概念である。ゴフマンは人々が行為をいかに行うのかを解明するライフワークの中で、「演技」や「ドラマツルギー」などの概念を発明したが、それは敷衍すれば人々は何らかの予め要因されたフォーマットとしての「フレーム」を用いて行為を行い、そして他者の行為を解釈するということである。ここからフレーム概念は社会運動論へと輸入されることになる。

 

Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience

Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience

 

 

 では、社会運動論における「フレーム」とは何なのか。ベンフォードとスノーは以下のように定義している。

集合行為フレームは、潜在的支持者や有権者の動員、傍観者の支援の収集、敵対者の撤退を意図する方法によって、「外の世界」のあらゆる側面を単純化・濃縮化することによる解釈機能を有する。したがって、集合行為フレームは、社会運動組織(SMO)の活動やキャンペーンを鼓舞・正当化するための、行為を方向付ける一連の信頼や意味のセットである。(p.614)

 ちなみに、フレームは社会心理学における「スキーマ」(schema)と混同されることがあるが、フレームはスキーマと違って単なる個人の態度や知覚の集合ではなく、共有された意味の交渉の結果である点が異なる。また、イデオロギーもフレームと混同されうるが、両者は明確に区別されうる。イデオロギーが各個人によって信奉される主義・理念であるとすれば、フレームはそれらを下敷きにしつつ個々のアクターが構築していく「新たなビジョン」である。

 したがって、フレームには①行為を方向づける機能(core framing tasks)②双方向的・言論的過程の二つの特徴を有している。

 ①は大きく分けて三つのフレーミング方法に分けられる。一つ目が「診断的フレーミング」(diagnostic framing)である。社会運動は原理的に何らかの異議申し立てを行うものなので、前提として一般に広く認識された「問題」が存在していなければならない。そこで問題を同定し、その原因を誰か(国家や機関など幅広く)に帰属させるのがこのフレーミングの作業である(p.615-616)。その中には、被抑圧者たちがみずからの置かれている立場が不正であると言及する「不正フレーム」(injustice frame)や「境界フレーム」(boundary frame)、「敵対フレーム」(adversarial frame)などがある。

 二つ目が「予言的フレーミング」(prognostic framing)である。これは問題の解決のために何がなされるべきなのか、プランの詳細や戦略を言明するフレームである。これには問題に対する合理的な処方箋としての解決策を提示するだけでなく、敵対者の支持する策の論理や効果を論破することによって支持を得ようとする場合もある。そうすることで「対抗フレーミング」(counterframing)を提供するのである(例えば、天安門事件では政府が学生運動に対して「反革命的」「暴動」といったカウンターフレームを提示したことで鎮圧の正当化を行った)。

 三つ目が「動機付けフレーミング」(motivational framing)である。これは運動に参加するための合理的な動機付けを提供するためのフレームを提供するものである。

 このように、問題の「診断」、その解決に向けた「予言」、そのために必要な行動への「動機付け」のフレームが提供されることによって、人々は社会運動に参画していくのである。

 

 また、そういったフレームがいかにして効率よく、そして広い範囲で人々を動員できるかは、①問題の同定および帰属の場②柔軟性と固執性/包括性と排除性③解釈範囲と影響のバリエーション④共鳴度などに依存している。当然、フレーミングの範囲が広ければ多くの社会集団を招集することができるが、その分熱烈なコミットを得ることができないかもしれない。各フレームを統合する「マスターフレーム」を構築できれば、より広い層に訴えかけることができるかもしれない(マスターフレームの例としてはp.619にいくつか列挙されているので参照)。

 余談だが、樋口は上述の日本における排外主義に関する研究のなかで、潜在的支持層が在特会などの排外主義運動に加担するようになっていく背景には、「在日特権」フレームへの共鳴だけでなく、「自虐」や「反日」といった右派社会運動全般を束ねるマスターフレームによる動員もあると指摘している(樋口 2014: 114-115)。

 また、人々がフレームに共鳴する度合い(degree of resonance)は①フレームの一貫性②経験的信ぴょう性③フレーム生成者自体の信頼性によって決まる(p.619)。フレームがころころと変わるのではなく一貫しており、それが経験的な事実に合致し(例えば実際に在日特権が認知される場合)、そしてフレームを作り喧伝する人自体が受容者に対して信頼に足る人であった時に、フレームの共鳴度は最大になる。

 

 最後に具体的なフレームの生成・発展の過程について見ていこう。ベンフォードとスノーによれば、フレームが生成・発展していく過程には言論的過程と戦略的過程の二つが存在する。

 言論的過程では①「フレーム接合」(frame articulation)②「フレーム増幅・中断」(frame amplification or punctuation)の二つが存在する。①は何らかの出来事や経験の連関や調整を通じて、二つ以上のフレームが接合して新たなビジョンや解釈を作り上げていくことである。②は他の事象よりもこの事象が重要であると強調することである。

 また、言論的過程と戦略的過程は重なる部分がある。戦略的過程では①「フレーム架橋」②「フレーム増幅」③「フレーム拡張」④「フレーム転換」の四つが存在する。①は特定の争点に関してイデオロギーとして親和的だが構造的に結びついていなかった二つ以上のフレームを結びつけることを指す。これはフレーム同士の連結であると同時に、フレームと潜在的支持者の連結でもある。つまり、潜在的支持層が運動に参加しやすいようにフレームをくっつけていくのである。②も同様に、これまでフレームに無関心であった潜在的支持層がコミットしやすいように特定の争点、問題、一連の出来事に関わる解釈フレームの明確化や活性化を行うことを指す。③は正直②とどう違うのか分からないので割愛。④は既存のフレームと親和性が低い人々を取り込むために古い価値観を変え、または新しい理解や価値を生み出すことを指す。(さらに樋口はここに全くの無関心層を取り込むためのフレーミングとして「フレーム邂逅」(frame encounter)という概念も導入している。)

 

 以上が、社会運動論におけるフレーム分析の概念道具である。だが、これをナショナリズムの概念図式に取り込む場合、いくつか問題点がある。第一に、これはあくまでも社会運動の分析のために用意されたものであり、これまでの資源動員論や政治的機会構造論などを補完する形で提出されたものであるため、それ独自で機能しうるものではないかもしれない点である。つまり、フレームの過程だけを見たところで、社会運動の認知過程および動員過程は分かるだろうが、例えば社会運動がなぜ起きたのかといったことまでは理解できない。ナショナリズムに敷衍すれば、なぜナショナリズム現象が発生したのかの解明(因果の説明)には適さないのである。

 第二に、フレーム分析はフレーム生成者同士の闘争に焦点を当てたものというよりも、フレーム生成者とフレーム受容者(つまり潜在的支持層)との関連を解明しようとするものである。しかし、私はナショナリズムをある種の解釈図式と捉え、それをもとにいかに政治的アクターが自らの利害に基づきナショナル・アイデンティティをフレームするかに関心があるため、若干その関心の範囲が異なる。自らの正当性を競うためにフレーミングを行う者同士の闘争的な過程を分析するためには、上述の議論だけでなくもう少し詳細な概念道具が必要な気がする。

カス・ミュデ&クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズムーーデモクラシーの友と敵』

 

ポピュリズム:デモクラシーの友と敵

ポピュリズム:デモクラシーの友と敵

 

 

 本書はオックスフォードのVery Short Introductionシリーズから2017年に刊行されたポピュリズムに関する著作である。最近とみに、日本の新聞でも頻繁に「ポピュリズム」という言葉を目にする機会が多くなった。しかし多くの場合、そこにはカッコつきで「大衆迎合主義」という但し書きがついている。では、ポピュリズムは単なるエリートによる大衆迎合的なイデオロギーなのか。そういった疑問に最も分かりやすく答えてくれるのが本書である。

 

 本書のすべてをここで書き記すことはできないので、重要な要点をまとめた1章を中心にまとめていこう。

 まず、ミュデ=カルトワッセル(以下、M=K)はこれまでのポピュリズム論を体系的に分類している(p.10-12)。すなわち、①人民を行為主体とするアプローチ、②左派ポピュリズムラクラウ=ムフ)的アプローチ、③社会経済的アプローチ、④政治戦略的アプローチ、⑤指導者や政党による大衆動員アプローチである。

 ①の代表的論者はローレンス・グッドウィン『デモクラシーの約束』(19世紀後半における北米の人民党に関する研究)であり、そこでは「ポピュリズムとは(普通の)人びとを動かし、共同体主義コミュニタリアン)的なデモクラシーのモデルを創出する本質的に前向きな動力と見なされている」(p.10)。

 ②はラクラウ=ムフに連なるアプローチであり、現在では左派ポピュリズムの理論的支柱となっている。彼らはポピュリズムを単なる「暴動」として捉える視点を拒否し、政治の本質であると捉え、さらに社会で抑圧されている人々を解放する力にもなりうると説く。そして、リベラル・デモクラシーからラディカル・デモクラシーへの昇華を企図するのである。

 ③は1980~90年代のラテン・アメリカ研究の中で提出されたアプローチであり、主に経済学者によって提唱されたモデルである。彼らは、「ポピュリズムとは主として無責任な経済政策の一類型であり、その特徴としては、外債を財源として巨額の支出を行なう第一期と、それに続くハイパーインフレおよび苛酷な景気調整の実施からなる第二期とがある」(p.11)と説明する。つまりこのアプローチは、ポピュリズムを経済現象・政策のみに還元して、政府によるバラマキを批判する視座を有している。後に新自由主義的経済学に回収されていった。

 ④はポピュリズムを「信奉者たちからの支持を何者も介さずに直接受けることで統治を行なおうとする特定のタイプの政治家が用いるもの」(p.12)と定義する。したがって、このアプローチでは、ポピュリズムの背景にカリスマ的人物の台頭を想定している。

 ⑤は(④のアプローチと関連する気がするが)指導者や政党によって大衆が動員されていく過程をポピュリズムと捉える。この視座では、ポピュリズムをメディアや民衆からの支持を最大限活用する、未熟な政治行動と暗に示す傾向がある。

 

 以上の多種多様なアプローチを踏まえて(折衷して)、M=Kが提唱するのが「理念的アプローチ」である。このアプローチでは、ポピュリズムを「ある種の言説やイデオロギー、世界観」(p.14)と考える。そして、この概念を以下のように定義する。

本書ではポピュリズムを、社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般概念(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギーと定義する。(p.14) 

 これは一見すると冗長で何でもない定義に思えるが、これまでのポピュリズムに関する論点を過不足なく入れ込んだベストな定義である。以下、簡単にそのポイントを列挙していこう。

 第一に、「中心の薄弱なイデオロギーと閉められている理由は何なのか。そもそも「イデオロギー」とは、「人間と社会のあり方ならびに社会の構成や目的にかんする規範的な理念の集合」(p.14-15)であり、人々が世界はどうあるべきなのか、どう行動するのかを規定する者の考え方である。「中心の強固な」あるいは「中身の詰まった」イデオロギーとしては例えばファシズム自由主義リベラリズム)、社会主義ソーシャリズム)などが挙げられる。ポピュリズムも確かに他のイデオロギーと同様に「-ism」なのだが、やはりその主義主張を見てみると異なる部分が見えてくる。それは、ポピュリズムが「必ずといってよいほど他のイデオロギーの要素と結びついており、それらの要素は大衆により広く訴える政治的計画を進めるうえでなくてはならない」点である(p.15)。これはラクラウが再三念押ししている点でもあるのだが、つまり「ポピュリズム」自体は(社会主義自由主義のように)「○○しなければならない」とか「○○ある/すべき」といった主張の一貫性を有しているわけではないのである。これは、現在ポピュリズム的な政治家・政党が右派・左派を越えて出現していることを見てみると、明らかである。

 第二の中核概念が「人民」である。「人民」(people)は非常に多義的で、曖昧な概念である(ゆえにラクラウは「人民」を「空虚なシニフィアン」と称し、その空虚さゆえに差異を架橋して人々を動員することができると説いた。詳しくはラクラウ『ポピュリズムの理性』。今度暇があればまとめたい…)。M=Kによると、「人民」には、①近代民主主義にもとづく概念である、政治権力の源泉であり同時に「支配者」でもある「主権者」、②社会経済的な地位を特定の文化的伝統や人民の価値観と結びつけた広範な階級の概念としての「普通の人々(庶民)」、③ある特定の国・民族出身の人々はすべて含まれる「国民(ネーション)としての人民」の三つが含まれているという。

 しかし、「人民」の要素に関する定義も明確なコンセンサスがあるわけではない。試しに水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書)を見てみると、「人民」の要素の中には①政治エリートやメディア、高学歴層によって無視されたきたサイレント・マジョリティである「普通の人々」(ordinary people)、②特定の階級・団体・政党などの垣根を超えた主権者たる国民としての「一体となった人民」(united people)、③何らかの同質的な特徴を有する(したがってそこから漏れる人々を排除する)「われわれ人民」(our people)などが含まれている(p.9-10)。呼称の違いはさておき、概ね要素は一緒ではあるようだが。

 第三が「エリート」である。エリートを明確に定義するのは難しいが、M=Kは以下のように述べている。

エリートはまずなにより権力に基づいて定義される。すなわち、それには政治、経済、メディア、芸術の世界で指導的な地位にある人びとのほとんどが含まれる。(p.23)

 したがって、エリートは階級のみによって区分されるわけではない。例えば、欧州のエリートのほとんどが自国生まれ(ネイティブ)であることから、民族を境界にしてエリートが同定される場合もありうる(エスポピュリズム)。要は、「権力を持っているかどうか」がエリートを峻別する基準となるのである。

 第四が「一般意志」である。これはもちろんルソーの概念を借用している。ルソーは「人民が共同体に共に参加し、共通の利益を強いるよう立法化する能力」である「一般意志」と、「ある特定の瞬間の個別利益の単純な総和」である「全体意志」とを区別した(p.29)。多くのポピュリストは代議制民主主義を反対あるいはそれに異議を唱える。それは代議制とはエスタブリッシュメントの権力を強化し、その制度の下では市民は定期的に選挙に動員され、代表を選ぶことしかできない受動的な立場に置かれてしまうからである(p.30)。したがって、ポピュリズムは一般意志を絶対的なものとして逆にそれを阻害する制度を糾弾して、しばしば過激な直接民主主義的な手法に訴えかけるのである(英国のBrexitを見よ)。

 ゆえに、M=Kによれば、ポピュリズムの反対に位置するイデオロギーとして挙げられるのは「エリート主義」と「多元主義」である(p.16)。エリート主義は言うまでもなく、多元主義はできるだけ社会のあらゆる集団が政治に参加することを是とするため、ポピュリズムとは全く異なるベクトルを有することになる。また、似たものとしては「クライエンタリズム」(有権者が政党やパトロンへの支持を約束する見返りに、給付金や雇用・財貨・サービスの優先権などの様々な利益を得る手法)があるが(実際、左右の区別なく取りうる立場という点で両者は共通するが)、ポピュリズムと異なる点はそれが「戦略」であってイデオロギーではない点である(p.18)。

 

 以上がM=Kの理念的アプローチによるポピュリズム定義の骨子である。この定義および理念的アプローチを採用するメリットは以下の四点である(p.34-35)。

 第一に、「薄弱なイデオロギー」と考えることで、ポピュリズムが変幻自在に姿形を変え、そして歴史的・地理的にあらゆる場面で出現してきたことを理解することができる。

 第二に、何か特定の動員や指導者の在り方に限定することなく、幅広い政治の担い手たちについて言及することができる。

 第三に、ポピュリズムと切っても切れない関係であるデモクラシーについて問い直すことができる。ポピュリズムはデモクラシーにとって、プラスの影響を及ぼすか、それともマイナスの影響を及ぼすかは特によく議論されることだが、それを問うことができるのである(特にリベラル・デモクラシーとの関連において)。

 第四に、ポピュリズム政治の「デマンド・サイド」と「サプライ・サイド」の二つの局面を考慮に入れることができる。ポピュリズムを、民衆による下からの暴動や熱気によって説明する前者と、政治家などによる大衆の誘導であると説明する後者のどちらか一方を強調することなく、複合的に研究する視座を提供してくれるというわけだ。

 

 この前提を踏まえて、本書は2章以降で具体的な事例の検討と、デモクラシーとの関連、そしてポピュリズムへの対処法などについて概観していく。それぞれ非常に示唆に富む内容だが、筆者にとって重要なのはやはり本章である。というのも、この理念的アプローチはナショナリズム研究における「言論的アプローチ」とオーバーラップする部分が多いと考えるからである。あとはこの定義をもとに具体的な事例の検討に入っていく必要があるだろう。例えば、これとか。

 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

 

 

以下、参考までに。

 

 

 

ポピュリズムの理性

ポピュリズムの理性

 

 

社会運動論の系譜

 わけあって社会運動論の系譜を整理中。

  社会運動論の分析枠組みについて、割と最近のものまで体系立ててまとめた概説書って探してみたけど、なかなかなかったので、今回は富永京子『社会運動のサブカルチャー化』の先行研究のまとめを参照したい。

 

 これまでの社会運動論の貢献を大きく分けると、運動の①「説明」②「解釈」の二つに大別される。

 ①は人々がどのように(how)運動を組織するのか、運動へと参加するのかを、②は人々がなぜ(why)運動を組織し、参加するのかの解明を行ってきた。①には、資源動員論、動員構造論、政治的機会構造論、フレーム分析、Contentious Poilitics(たたかいの政治)などの分析枠組みが含まれ、本書では「動員論的運動論」と称されている。②には、新しい社会運動論、経験運動論などが含まれ、「行為論的運動論」と称される。

 まずは①から順に見ていこう。

 社会運動を論じた先駆的論者はスメルサーである。彼は「集合行動論」を唱え、社会運動を「社会病理」「逸脱行動」として捉えた。また、社会運動を組織的現象として捉えすぎてしまった結果、個人の行動原理を無視していることを後々批判された。

 そこで、続いて出てきたのがオルソンの「集合行為論」である。オルソンは「フリーライダー問題」などを提唱した合理的選択理論の学者として有名だが、人々は何かメリットがあるからこそ運動に参加するのだと考え、集合行動論とは異なるアプローチで社会運動に迫った。

 そして集合行為論を受け継いだのが、「資源動員論」である。主な論者はMcCarthy and Zald(1977=1989)である。彼らは資源の有無こそが運動の持続・発展を規定すると捉えた(運動の理性的側面を重視する点で、集合行動論と反する)。一方で、運動の資源調達(外部支援)を要件とするためにエリートの存在を強調し、かつ「不平・不満」を軽視している点を批判されることになる。

 ここまで集合行動や社会運動の発生メカニズムを説明する「社会運動研究」(ミクロな動員)と、より大きなレベルでの政治変動・社会変動を論じる革命研究(スコッチポルみたいな)とは隔たりがあったが、それを埋める役目を担ったのが「政治過程論」(McAdam 1982)であった。彼らは、運動の持続・参加に於いて重要なのは、資源ではなく、運動以前からのネットワークであると論じ、資源動員論を批判した。また、個々人の心理的な側面も軽視したわけではなく、運動参加者が持つ「自らの運動の成功可能性・重要性に対する認識」を変数化することで、目的合理的行為をも焦点化した。

 

 90年代以降、社会運動論にも新たな潮流が生まれる。まず出てきたのは、「動員構造論」(Clemens 1993, 1996; Bernstein 1997)である。彼らは、運動組織のアイデンティティと運動の組織構成が互いに影響を及ぼし合って成立する「動員構造」によって、運動の発生・持続を説明する。つまり、社会運動が目的達成の手段であり、アイデンティティの呈示という目的にもなっていると捉えるわけである。

 続いては「フレーム分析」(Snow and Benford 1988)である。フレーム分析は運動の発生要因を人々の認知的なものに求めている。つまり、運動を組織する人々が民衆(オーディエンス)の不満と社会運動への参加を架橋するために、運動のシンボルやスローガンを用いながら「解釈のフレーム」を構築することで、運動が発展していくという視座である。したがって、「(政治)文化」をある種の資源として、運動参加者がそれを操作的に動員していくという認識である(ゆえに「文化社会学」的)。

 最後が「政治的機会構造論」(Tarrow 1998=2006)である。彼らは、人々が政治にアクセスできる回路がどれだけあり、政治体制がどの程度の開放性を持っているのかが運動の生起・変質を決めると捉える。

 

 続いて②の理論的潮流である。

 まずは「新しい社会運動論」(Habermas 1981; Touraine 1984=1988; Offe 1985; Melucci 1985)である。彼らはソ連解体による東欧革命を目の当たりにしてこの理論を導入し、「人々はなぜ運動に参加するのか?」という問題意識のもと、社会運動参加者に共通する属性(女性、先住民、マイノリティ…)や問題関心(生活環境、公害、医療…)といった集合的アイデンティティに着目した。

 その後、社会運動研究は組織化・大規模化・広範囲化していき、企業や国家、警察、市民社会などの運動内外のステークホルダーどうしにおけるコンフリクトや利害調整を扱ったもの(Van Dyke and MaCammon eds 2010; Bob 2005)や、組織間における人員資源や金銭資源をめぐる分配や管理を扱ったもの(Haug 2013; Rodgers 2010)などが量産される。日本の事例研究だと、西城戸(2008)、青木(2013)、樋口(2014)などがある。

 最後に「経験運動論」(McDonald 2002, 2004, 2006)である。彼らは、フランソワ・デュべが提唱する「経験の社会学」やアラン・トゥレーヌの議論から着想を得ている。後期のトゥレーヌは「三つの行為論理」を唱えた。すなわち、政治のゆがみやシステムの崩壊の中で、人々は自らの行為とシステムの与える弊害や恩恵を結び付け、社会的存在としての自分自身を社会の中でアイデンティファイし(統合)、他者との関係の中で戦略的に生活のための諸資源を獲得しようとし(戦略)、時にはシステムに対抗してシステムの中での競争を拒否しようとしていく(主体化)。

 さらに、デュべはこの三つの局面のどれか一つを優越化することなく同時に分析する必要性を主張した。つまり、運動参加者の中には、自己顕示や他者との競合のため活動するような戦略の論理を持つ者もいれば、運動に参加することそのものがシステムの中に順応することだと考えている者もいるかもしれない。いずれかの局面を研究者が序列化するのではなく、この三つの論理を秩序付け、接続させる作業として「経験」に焦点を当てる必要があるというのがデュべの主張である。したがって経験運動論は、運動にコミットする理由が希薄化した後期近代において何が人々を運動へと駆り立てるのかという問いに対して、例えば集会に集まって音楽を聴きながらリズムを取る身体的なコミュニケーションや、映画や演劇を観に集まるという「経験の共有」であると回答する。そして、それらの運動参加者の「経験」を分析対象とするのが、この視座である。

 

 以上が大まかな社会運動論の整理である。この中で個人的に重要になるのがフレーム分析である。フレーム分析がどのような系譜から出たかをおさえておく必要があると思ったので社会運動論をまとめたが、それ以外には思い入れがないのでここらで社会運動論とは縁を切る。次回はフレーム分析の代表的論文をまとめたい。

その他、関連文献。

 

抗いの条件―社会運動の文化的アプローチ

抗いの条件―社会運動の文化的アプローチ

 

 

 

社会運動の力―集合行為の比較社会学

社会運動の力―集合行為の比較社会学

 

 

ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直すーーアクターネットワーク理論入門』①

 今度の研究会に向けて、ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直すーーアクターネットワーク理論入門』について。

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

 

 ラトゥール自体は学部の時に一度概論を読んでいたので、彼の唱える「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)がいかなる構想なのかは把握していた。しかし、あまりにも従来の社会学の考え方から離れているため、具体的なところまでは理解が及んでいなかった。今回は「入門」と銘打っているように、少しは彼の理解に追いつけるのではないかと期待してページを繰っていった。

 だが、結果から言うと、少なくとも本書だけでは「ANTが何でないか(従来の社会学とはいかに違うのか)」は分かるが、では「それが何なのか」(例えばそれがエスノメソドロジーとどう違うのか)までは十分に明らかになっていないように思う。まだ、本書の三分の一ほどしか読み終えていないが、現段階で分かっていることを記しておこう。おおよそ、本書の「第三の不確定性」までである。

 

 まず、ラトゥールは従来の社会学を「社会的なものの社会学」、ANTを「連関の社会学」という形で区別する。前者はオーギュスト・コントから始まる伝統的な社会学であり、特に本書でやり玉に挙げられるのはブルデューを筆頭とする「批判社会学」である。その批判の内容とは、第一に社会的なものの社会学者が「社会」や「社会的」といった言葉を無批判に使い続けている点である。

本書で主張し問題にしたいことは、ごく簡単に述べることができるーー社会科学者が何かしらの事象に「社会的」という形容詞を加えるとき〔「○○は社会的だ」と言う場合〕、社会科学者が指し示しているのは、安定化した物事の状態/事態であり、一つの束になった〔人や事物の〕結合であること、そして、そうした社会的なものが、後には、別の何らかの事象を説明するために持ち出されもすることだ。(p.7)

 例えば、貧困や経済的な不平等の背景には「社会構造」が関係しているといった具合に、これまで社会学は何らかの社会現象の説明のためにしばしば「社会的な力」を引き合いに出してきた。ブルデューの用語を使えば、それは社会構造(社会環境)に埋め込まれた個人が身に着けたハビトゥスによって、格差を再生産している、といった説明になるだろうか。いずれにせよ、そういった「社会」を説明要因として出す場合、念頭にあるのは「すでにひとつに組み合わさったもの」であり、ではその「社会」はいかなる性質を帯びているのか、それはどのように構成されているのかまでは注目されてこなかった(p.7)。「社会的なものを組み直す」(reassembling the social)というタイトルには、そういった「社会」のそもそもの概念を再構成するという意味合いが込められている。

 したがって、連関の社会学は「社会」をそもそも「成形された強固な事物」として扱うことを拒否する。すなわち、社会を様々なアクター(その中には人間だけでなく、事物も含まれる)が複雑に絡み合ったネットワークであると捉え、連関の社会学はその「つながりをたどること(tracing of association)」(p.15)を目指すのである。

 

 以上の前提をもとにラトゥールはANTを提唱するわけだが、その説明に入る前にANTに付きまとう論争の種を五つ提示している(p.44-45)。

●グループの性質に関する不確定性ーーアクターには、数々の相矛盾したかたちでアイデンティティが与えられている。

●行為の性質に関する不確定性ーー各々の行為が進むなかで、実に多様なエージェントが入り込み、当初の目的を置き換えるように見える。

●モノの性質に関する不確定性ーー相互作用に参与するエージェンシーの種類は、いくらでも広げられるように見える。

●事実の性質に関する不確定性ーー自然科学が社会の他の部分と結びついていることが、やむことのない論争の根源であるように見える。

●社会的なものの科学というラベルの下でなされる研究に関する不確定性ーー社会科学が厳密に経験的であると言える条件は決して明確にならない。

  第一の不確定性に関しては、ラトゥールが指摘する以前からすでに社会学の中で言われていることであるように思う(それこそブルデューも言っていたような)。つまり、これまで社会学者は「階級」や「○○人」といった社会集団を暗黙の裡に前提としてきた。しかし、それらは本当に自明なものだろうか。ラトゥールいわく、「グループではなく、グループ形成だけがある」(p.53)。つまり、一人の個人は例えば「男性」「日本人」「○○高校生」といった特定の集団にアプリオリに所属しているわけではなく、存在するのはそういったグループを形成する「過程」だけなのである。これ自体は、「社会秩序はその都度生成される」と説いたエスノメソドロジーとも通じる部分がある(p.57)。そして、社会学者は分析の段階に入って、調査対象者に何らかのカテゴリー化を行う(例えば量的なカテゴリー化・変数化)際に、実はそれ自体がその集団のグルーピングに加担していることになるのだということを自覚的にならなければならない。

 そして、第二の不確定性は「行為」に関するものである。すなわち、「行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない。むしろ、行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看守されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある」(p.84)。

 通常、「行為」(action)は何らかのアクターによって能動的になされるものと解される。ウェーバーによる有名な「社会的行為」の定義では、「単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人びとの行動と関係を持ち、その過程が他の人びとの行動に左右されるような行為」(『社会学の根本問題』、p.8)とされている。しかし、ANTでは「行為」を全く異なるものとして定義される。そもそも、ANTでは「アクター」(actor)を「行為の源」とみなすのではなく、「無数の事物が群がってくる動的な標的」と捉える(p.88)。

「アクター」という語を用いることで表されるのは、私たちが行為しているときに、誰が行為し何が作用しているかは決して明らかではないことだ。舞台上の役者(アクター)は決して独りで演じていないからだ。(p.88)

 ゴフマンが言うように、人間の行動は「行為」なのか「演技」なのかは厳密には区別できない。「そもそも、行為は決して定置されず、常に非局所的(ディスローカル)である。行為は、借用され、分散され、提案され、影響を受け、支配され、曲げられ、翻訳される」(p.89)。では、「行為」をどのように定義するのかは、ひとまずここでは置いておこう。 

 つづいて、第三の不確定性である。ANTは、人間だけが社会的なものを構成するアクターであるとはみなさない。つまり、そこに事物(モノ)をも含めるのである。これは非常に奇妙な考え方である。というのも、そもそも社会科学は自然科学との差異化を図るべく、対象を「人間」、中でも彼らが作り出す「社会」や「意味」に限定してきたからである。それをもう一度、モノにまでその範囲を拡大させるというのである。

「志向的/意図的」〔intentional〕で「意味に満ちた」人間が行うことに行為がアプリオリに限定されるならば、ハンマー、かご、ドアの鍵、猫、敷物、マグカップ、リスト、タグなどがいかに行為しうるのかを見定めるのは難しい。(中略)対照的に、アクターとエージェンシーをめぐる論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える物事はすべてアクターであるーーあるいは、まだ形象化されていなければ、アクタンである。(p.134)

 だが、モノを研究の対象に拡張するというのは生半可なことではない。なぜなら、分析の対象範囲が無限に広がるからだ(というか、先人たちは無限に広がる範囲を狭めるために対象を限定してきた)。そこでラトゥールは、社会科学者が調査対象とすべきシチュエーションをいくつか列挙している(p.151-154)。

 第一は、何らかのイノベーションが生まれる場に注目する場合である(例えば、職人の作業場、技術者の設計室、科学者の実験室、マーケティング担当者の事前調査、ユーザーの自宅など)。イノベーションが生まれる場では、モノ(例えば会議文書、設計図など)は会合、計画、見取り図、規則、試行を通して前景化する。

 第二は、外部の人間が他集団に侵入するケースである。凝り固まった集団の中に異物が入り込めば、それまで眠っていたモノにスポットが当たるというわけだ。

 第三は、何らかのアクシデントやリスクが生じた場合である。事故や故障、ストライキなどが生じた場合、モノの脅威が前景化する。例えば原発事故を想起してほしい。それまでは意識されることのなかった原発が、事故によってスポットライトが当たるようになった。そして、いつの間にか私たちの日常生活に侵入し、人々の行為を形作る一要素になっている。

 第四は、歴史家の手によって、史料あるいは博物館の収蔵品などからモノの重要性を掘り起こす場合である。後世に残された遺物を掘り起こすことで、歴史家がそのモノに意味を付与するというわけだ。

 

 と、ここまで第三の不確定性まで見てきたわけだが、とりあえず現段階ではラトゥールの言いたいことは分かるのだが、「彼の目指す社会学が具体的にどのような研究プロセスを経て、何を言明するものなのか」と問われると、いまだに判然としないという感じ。最後に、ANTで使われる専門用語を挙げておこう。

 

「連関/つながり」(association)…人間と非人間の結びつき。社会学で使われる「アソシエーション」(互助組織)ではない。分かりやすいのは人形使いの例。人形の動きは人形使いの意図に全て還元されるわけではなく、ときに人形使いが意図してなかった動きをすることがある。しかし、だからと言って人形が人形使いを操作しているのかと言われればそういうわけでもない。つまり、彼らの動き(行為)はどちらにも還元できず、言うなれば糸を通じて両者のハイブリッドによってなされる(p.498)。

「エージェンシー」(agency)…何らか(例えば構造)の影響を受けて、主体が行為を生み出す際の力。「行為主体性」とも訳される。ANTでは、アクター(主体)の内外にある様々なものをエージェンシーとしており、それらが組み合わさることで行為を行うアクターが産出されると捉える。(p.499)

「試行」(trial)…はじめはパフォーマンスのリストとして現れる存在が、具体的なアクターとして定義されるまでに行われる実験や試みを指す(p.499)。

「参与子」(participant)…行為や集合体に与するもの。人とのモノの両方が含まれる。

「翻訳」(translation)…「たとえば、フランス語の単語から英語の単語へというような、あたかも両言語が独立したものであるかのようなある語彙から別の語彙への推移ではない。翻訳という語を私は、転置〔ずらし〕、偏移〔そらし〕、考察〔こしらえ〕、仲裁〔とりなし〕など、元からある二つをある程度修正する、それまで存在しなかった連結の創造という意味で用いている」(p.502)

「報告」(account)…人やモノ、出来事を観察可能なものにして、「○○は××である」などと他者に伝達できるようにする営為。エスノメソドロジー由来の概念。社会の成員がこのような正確な報告ができることを「報告可能性」(accountability)という。(p.502)

メタ言語」(meta language)…言語を対象にして論じる言語。観察対象の言語を観察する側が用いる言語(セカンド・オーダーの言語)。

「インフラ言語」(infra-language)…観察対象による言語行為を(抑圧することなく)可能にして、その言語行為を記録する言語(ゼロ・オーダーの言語)。(p.503)

「中間項」(intermediary)…意味やエージェンシーをゆがめることなく移送するもの。そこに投入される原因が分かれば、そこから発せられる結果が分かる。

「媒介子」(mediator)…移送する意味やエージェンシーを変換(翻訳)するもの。一方向的な原因と結果の関係はもはや成り立たない。(p.504)

「アクタン」(actant)物語論でよく使われる。物語論では、物語に登場する人物はあくまでも他の登場人物や物との関係によって動いている/動かされているのであって、こうした物語(行為の進行)の展開に不可欠な構成要素を「アクタン」と総称される。ANTでは行為が一人のアクターによって形成されるわけではないため、何の警鐘も持たないアクタンが用いられる。(p.505)