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村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』、すべての走り屋に捧げるバイブル

 走ることが好きだ。

 最低でも一週間に一回は走らないと、身体がちぐはぐしてくる。一週間まったく走らなかった週と、1キロでも走った週とでは明らかに身体のパフォーマンスが違う。走らなかった週は、なんだか歩いていても地面と足の裏が上滑りしている感じがするのだ。

 

 4、5年前、中国に語学留学したとき、ほぼ毎日ランニングをしていた。別に誰かに「走れ」と言われたわけではない。むさぼるように中国語を脳に摂取するのに疲れたら、ほとんど機械的にランニングウェアに着替え、シューズを履き替え、宿舎があった大学構内を走っていた。

 走るのはだいたい日が落ちた午後7時ごろ。夜に用事があったときには、深夜11時くらいに無性に走りたくなったこともあったかもしれない。でもやっぱり一番気持ちがいいのは、まだ陽が残り、ちょうどひとしきり学生たちが帰ったあの時間帯だ。日本とくらべてはるかに大きい構内の道路を独り占めした気分になる。

 走っていると、学生だけでなく、明らかに外部の人であろう大人たちも見かける。(当時の)中国の大学はけっこう人の出入りが激しかった。みんな各々のペースで自由に風を切っている。私は決まって、その中で自分よりも少しばかり体力がありそうで、一人で黙々と走っている人間を見つけ、ぴったりとくっついていく。その人と抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げながら、最後になると(自分が勝手に決めたゴールに近づくと)全速力で抜き去り、ちょっとばかりの達成感(優越感?)に酔いしれる。なんだか昨日の自分に勝った気がする。たぶん後ろからハアハア言ってて気持ち悪かったと思う。この場を借りて、あの時のライバルたちに謝りたい。

 

 今でも走るのはやめていないが、あのとき以上に走ることに熱中したことはない。一体あのとき私は走りながら何を考えていたのか。おそらく当時の自分はほとんど無意識に(夢遊病者のように)走っていた。おなかがすいたらご飯を食べるように、目にゴミが入ったら涙が出るように、ほとんど無意識にそれを行っていたのではないかと思う。走り終えて宿舎に帰ると、庭で酒盛りしている韓国人の友人に「また走ってきたの?」と驚かれたが、何に驚いているのか分からなかった。それぐらい私にとって、決まった時間に走りに行くことは自然なことだったのだ。

 たまに、あの現象は一体何だったのだろうかとふと思うことがある。私が一心不乱に走ったのは一体なぜだったのだろうかと。

 

 そんな訳の分からない疑問を他にも抱いている人がいた。村上春樹だ。あの天下の村上春樹もランニングにはまっているという。さっそく彼が「走ること」について書いた本を手に取ってみた。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

 これがすこぶる面白い。本を読みながらテーブルにおでこがめり込むくらい、彼に共感した。何が一番好きかって、彼は一言も読者に「走ることはいいことだ」「走れ」とは言わないのだ。至極個人的な理由(単純に好きだから)で走り、黙々と一人で思考しているだけ。私たちはその思考のプロセスを見ながら、一緒に「走ること」について考えているだけ。本当にそれだけの本。だけど、この本を読んだら、必ず走りたくなるのは間違いない。

 本音を言えば、全ての文章を印刷して部屋の壁一面に貼りたいのだが、ここではなかでも面白かった(激しく同意した)箇所を引用しておこう。これはランニングのことというよりも「小説を書くことについて」の箇所だが、この本の中では「走ること」と「小説を書くこと」はしばしば同義である。

 

 小説を書くことについて語ろう。

 小説家としてインタビューを受けているときに、「小説家にとってもっとも重要な資質とは何ですか?」という質問をされることがある。小説家にとってもっとも重要な資質は、言うまでもなく才能である。文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。これは必要な資質というよりはむしろ前提条件だ。燃料がまったくなければ、どんな立派な自動車も走り出さない。

 しかし才能の問題点は、その量や質がほとんどの場合、持ち主にはうまくコントロールできないところにある。量が足りないからちょっと増量したいなと思っても、節約して小出しにしてできるだけ長く使おうと思っても、そう都合良くはいかない。才能というものはこちらの思惑とは関係なく、噴き出したいときに向こうから勝手に噴き出してきて、出すだけ出して枯渇したらそれで一巻の終わりである。シューベルトモーツァルトみたいに、あるいはある種の詩人やロック・シンガーのように、潤沢な才能を短期間に威勢良く使い切って、ドラマチックに若死して美しい伝説になってしまうという生き方も、たしかに魅力的ではあるけれど、我々の大半にとっては、あまり参考にならない。

 才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、一日に三時間か四時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。思うのだが、たとえ豊かな才能があったとしても、いくら頭の中に小説的アイデアが充ち満ちていたとしても、もし(たとえば)虫歯がひどく痛み続けていたら、その作家はたぶん何も書けないのではないか。集中力が、激しい痛みによって阻害されるからだ。集中力がなければ何も達成できないと言うのは、そういう意味合いにおいてである。

 集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家にはーー少なくとも長編小説を書くことを志す作家にはーー求められる。呼吸法にたとえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。その両方の呼吸のバランスがとれていないと、長年にわたってプロとして小説を書き続けることはむずかしい。呼吸を止めつつ、呼吸を続けること。

 このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚えこませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある。(p.115ー118)

 […]

 長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうだろうと。しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続けるーーそのような作業は、一般的に考えられているよりも遥かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのだ。もちろんものを考えるのは頭(マインド)だ。しかし小説家は「物語」というアウトフィットを身にまとって全身で思考するし、その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することをーー多くの場合酷使することをーー求めてくる。(p.118ー119)

 […]

 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか? どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか? どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか? どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、それくらい内部に深く集中すればいいのか? どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか? もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか? そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。(p.122)

 

 この本を読みながら、ふと冒頭の留学時代の情景がよみがえった。そして、あのときなぜ私は無性に走りたくなったのか、なぜ今でも折に触れて走り続けるのか、その答えが何となく分かってきたような気がする。

 

 

岸政彦『マンゴーと手榴弾』

 岸政彦の『マンゴーと手榴弾ーー生活史の理論』を読んだ。

 

マンゴーと手榴弾: 生活史の理論 (けいそうブックス)

マンゴーと手榴弾: 生活史の理論 (けいそうブックス)

 

 

 目次は以下の通り。

はじめに

マンゴーと手榴弾ーー語りが生まれる瞬間の長さ

鉤括弧を外すことーーポスト構築主義社会学の方法

海の小麦粉ーー語りにおける複数の時間

プリンとクワガターー実在への回路としてのディテール

沖縄の語り方を変えるーー実在への信念

調整と介入ーー社会調査の社会的な正しさ

爆音のもとで暮らすーー選択と責任について

タバコとココアーー「人間に関する理論」のために

 目次を見てみると分かるように、それぞれの章は様々な媒体で発表した論考を集めて加筆修正したものであるため、 一つの本として首尾一貫しているとは言い難いが、読み終えてみると「生活史とは何か」「実在論とは何か」が色々な側面から(かなり控えめな形で)浮かび上がってくるという感じ。

 特に面白いのは、「鉤括弧を外すこと」という章。この章で、これまでの生活史研究の流れを踏まえて、いま岸が何を目指しているのかという道筋が明示的に示されている。逆に言うと、この章で示された「第四の道」を実践する試みが一体何なのかというのが、残りの章で具体的に示されるという構成になっている。

 そこで本エントリでは、この「鉤括弧を外すこと」の論旨を簡単にまとめ、本書を読んだ後での感想や疑問点を挙げていきたい。

 

 社会学の学問としてのゴールの一つに「他者の合理性を理解すること」がある。もちろん、学問の分野としてすでに大きく拡散してしまった社会学の目標はもはやこれだけに集約されないのだが、ウェーバーの理解社会学から始まり、現象学的社会学エスノメソドロジーなど、いわゆるミクロ社会学の分野では、やはりこの「他者の合理性の理解」が一大目標となっている。

 しかし、他者を理解することはそれほど容易なことではない。なぜなら、そもそも当の本人ですら自分の心理・行動を理解しているとは言いがたいからである。さらに、合理的に説明できそうな現象ならまだしも、一見すると「合理的でないもの」「不合理なもの」、例えば外部から見て明らかに当人の不利益になるような状況にその人がすすんで入り込んでいるようなケースだってしばしば存在する。そんなケースに対峙した時に、社会学者はどのようにそれを解釈しているのだろうか。

 本書では、この議論をもう少し分かりやすくするために、「差別」の話が挙げられる。ある被差別者(とされる者)が調査者に対して「私は差別されたことはありません」と答えた際に、調査者はその言葉をどのように受け止め、どのように解釈すればよいだろうか。調査者は当初、その「差別」の実態を「社会問題」として認識し、現場に入っていった。しかし、当事者のその言葉はそういった調査者の認識を根本から揺るがしかねない一言である。さて、どうすればよいか。そのようなケースに対峙した時に社会学者が取ってきた方法は、これまで大きく分けて三つあったと岸は言う。

 

 一つ目が、「差別はなかった」と述べる当事者の言葉を否認し、そういった言葉を発してしまうこと自体が被差別的状況にいる証左であると解釈する道である。いわば、「語り手の語りを否定し、社会問題の問題性を理論のなかに維持する道を選んだ」わけである(p.71)。

 この方法を明確に取った研究として、岸は社会学者の八木晃介の『部落差別論ーー生き方の変革を求めて』(批評社,1992)を挙げる。八木は、被差別部落の社会調査に入った際に、「私は生まれてから今まで、まったく一度もこのムラから外にでたことがないので、差別された経験は全然ありません」と述べる女性に出会う。そして、八木は「せまい被差別部落から一歩もでないという極端に限定された社会的交通圏の内部にとじこめられているということ自体、差別そのものだというべきではないでしょうか」と述べ、「いわば構造的な隔離による社会的遮断をも差別としてとらえるという感性力や認識力を、まさに差別によって剥奪されてしまった存在なのではないか、と僕には思えてなりません」と続ける(岸からの引用,p.72)。

 そういった意味で、八木にとっての被差別者とは「徹底的な無能力者」(p.74)である。なぜなら、八木にとって、被差別者は差別的構造によって、「本来なら持ち得たはずの合理的な(つまり自分たちにとって利益をもたらすような)判断力や行為能力を剥奪されて」おり、無意識のレベルで常に外部からの介入によって意思や意図が捻じ曲げられ、自らの不利益になるような選択肢を「選ばされている」と想定されているからである(p.73)。これはいわば構造決定論であろう*1

 この論理によって、「差別なんかないのに、本人が好んで不利益な状況に入っていったんだから仕方ない」という外野による自己責任論から被差別者を守ることはできるのだが(つまり責任は解除されるのだが)、同時にそれはその人の主体性や能力を否定することにもなりかねない*2

 

 そこで二つ目の道が、調査対象者の言葉をそのまま字義通りに受け取ることである。つまり、「差別されたことがない」と語り手が答えるのならば、本当に差別はなかったのだと解釈する道である。

 そのような手法を取った代表的な研究として、岸は社会学者の谷富夫の一連の著作を挙げる。谷は沖縄から本土に出稼ぎに出て、後になってUターンした人々の生活史を聞き取った。そこで谷は、「なぜ彼らは沖縄にUターンしたのか」の理由として、①本土で差別にあったから、②故郷の共同体へと自発的に帰還する道を選んだから、という二つの仮説を立てた。調査の結果、Uターンの理由として「差別されたから帰った」と答えた者はほとんどおらず、故郷沖縄に対する積極的な意味付けや家族や地域社会への愛着を語る者が多かったため、谷は①の仮説は完全に棄却されないまでも、②の仮説のほうが有力であると結論付けた(p.76-77)。

 このように結論付ける谷の手法を、岸は「鉤括弧を外す」と表現している。調査対象者の言葉をそのまま信頼し、対象者を主体性を持った合理的な主体と想定することによって、彼らが語った言葉をそのまま鉤括弧をつけることなく用いることができる。語り手に対して誠実なのはどちらかと問われれば、迷わず八木よりも谷だと言えるだろう。だが、果たして社会調査者は、谷のようにここまで単純に対象者の言葉を信じ、彼らの言葉を再記述するだけでよいのだろうか。というのも、「対象者が○○であるのは、対象者が○○と語ったからだ」というのはある種のトートロジーに陥っているとも言えるからである。それは果たして彼らの合理性を理解したことになるのであろうか。

 

 そこで第三の道を示したのが、社会学者の桜井厚である。彼が提唱するのが「対話的構築主義」である。それは言いかえれば「鉤括弧を外さない」という選択である。どういうことか。

 桜井は八木の示した道を批判して、以下のように述べている。

 このような差別の構造論的な解釈を、なぜ日常生活者としての当事者が共有する必要があるのだろう。むしろ、部落住民のライフストーリーが、つねに差別ーー被差別の文脈で解釈されなければならないという調査研究者の解釈枠組みこそが問われなければならないのではないか。ともあれこの種の還元主義あるいは構造のコピーとしての人間像では、人びとのストーリーはほとんど調査研究者の解釈の裏付けをとるだけのものとなる。都合の悪いデータは捨てられるか、自己の枠組みに合うように再解釈されるだけであり、ストーリーの語り手としての生活主体の個性や創造性までは理解が及ばないだろう。(岸からの引用,p.80)

 確かに、桜井が言うように、八木のような手法を用いれば、差別の問題性は担保されるものの、調査者の恣意にしたがってあらゆる調査結果が「社会問題」と解釈されかねない。これはある種の調査者による対象者に対する「カテゴリー化」である。そこに「差別」がなかったとしても、調査者が「被差別者」というレッテルが貼られれば、社会問題は構築される。桜井にとっての「差別」はこのような調査者に対する「カテゴリー化」(=「一人ひとりの個性を持った存在に対し、その多様性や個別性を無視して、『部落』や『在日』というラベルを貼ること」(p.80))をも含む。ラベリング論やポストモダニズムフーコーやサイードなどの権力論を経由した桜井にとっては、このようなカテゴリー化を含む「理解」それ自体が暴力である。調査者に差別の意図はなかったとしても、そこには「無意識の暴力」が存在するのである*3

 では、このような暴力に陥らないために、桜井はどのような解決策を提示するのか。桜井は語り手が「何を語ったか」ではなく、「いかに語ったのか」を調査者はつぶさに観察し、記述しろと説く。つまり、桜井にとっての「インタビューの現場とは、なによりも語り手と聞き手の『相互作用』の場なのであり、語りは、その場のそのつどの相互作用の結果として『構築される』ものなのである」(p.86)。構築主義の立場をとる桜井にとって、「社会問題」はそもそも構築されるものである。それは歴史的に作られるものだし、現在においてもなお構築されている。だから、差別があったかどうかという事実は原理的には抽出しようがないし、それは問題にすべきではない(というかできない)。したがって、調査者は今まさに「社会問題」が構築されようとしている調査現場をつぶさに観察し、記述することが必要である、というのが桜井の「対話的構築主義」の主張である。

 これはいわば問題の(つまり、whatからhowへの)巧妙なずらしである。これ自体は社会学界隈ではよくある光景である(例えば、エスノメソドロジーなどで使われる)。要は、対象者の語りの「内容」の真偽には踏み込まず、鉤括弧をつけたまま、少しメタ的な視点からその語りの「形式」を問うというスタイルである(だから彼は、語りを事実ではなく物語として捉えるため、「生活史」を「ライフヒストリー」ではなく「ライフストーリー」と言う)。岸は、桜井は「対話的構築主義」を提唱することによって、「差別されたことがない」という調査対象者の声に対して、現実の社会で差別があるとも、ないとも結論をつけていないと述べる(p.88-89)。確かに、これによって研究者の立場性は確保されるし、差別問題があったかどうかという「事実」をめぐる論争にも巻き込まれずに済む。しかし、それで果たして問題は解決したと言えるのだろうか。

 

 岸は、桜井的な手法、つまり構築主義的な手法の蔓延によって、社会学者は「実際に存在する社会問題」に対してのコミットメントが弱体化したと考える。語り手の語りを否定して大きな構造決定論を持ち出す(第一の道「語り手の否定」)のでもなく、調査対象者を素朴に信頼し差別の実在を否定する(第二の道「構造の否定」)のでもなく、その両方を避けるために事実への道を閉ざす(第三の道「事実性の否定」)のでもなく、どうにかして「現実の社会問題」に対処することはできないか。そこで岸は第四の道を模索する。

 それが語り手の語りから、調査者が理論枠組みや概念に変更を加えるというものである。具体例として、岸は自らの著作『同化と他者化』(2013)を引く。その研究で、沖縄から本土へ就職し、そしてその後に沖縄へとUターンした人々に聞き取り調査を行ったところ、その多くが「本土で差別されたことはなかった」と語ったという。だが、岸は前述した三つの方法は取りたくなかった。

語り手の語りを否定したり、あるいは差別の実在を否定したりするかわりに、あるいは、その両方を避けるために事実への道を閉ざすかわりに私は、「日本と沖縄との歴史的・構造的非対称性」に関する私自身の理論に変更を加えることを選んだ。明示的な差別をされたものが、後にUターンという道を選んだのであれば、それは理解しやすい。しかしもし、差別されたことがないと語る沖縄の人びとが、それでも帰郷の道を選んだとすれば、むしろそちらのほうが本土と沖縄を隔てる壁が高く厚いということではないだろうか。このように考えれば、差別という概念は「狭すぎる」のである。(p.111)

 そして、岸は本土就職経験者たちの経験した事態を「差別」ではなく「他者化」という概念で捉え、最終的に「同化圧力が強いほど、他者化される」という仮説を導き出した。それらの手続きを経ることによって、社会学者は自らの想定していなかった事実に対峙した時に、それを否定することなく記述し、対象者の合理性の理解に一歩近づくことができるのである。

 

 

 さて、以上が岸の提示する「他者の合理性の理解」の「第四の道」なのだが、最後にこれに関する簡単な感想をまとめておこう。

 まず、岸の目指す社会学のゴールは「他者の合理性の理解」なわけだが、それはおそらく「社会学」という学問の範疇を越えた領域にまで射程を持っていると思う。岸がいう「他者の合理性の理解」には、社会学に対する提言をなす「ハード」なものと、人間や社会をもっと豊かにするための提言をなす「ソフト」なものが一緒くたになって含まれている感じがする。たぶん、本当はこの二つは明確に分けることはできないはずだが、便宜的には分けたほうが分かりやすいと思う。

 順に見ていくと、ハードな側面において、それは「新たな仮説/変数を発見していく」という目標のもとに行われる理解を指す。これは最終的に量的調査などで確かめられていくのがセットになっている。「第四の道」では、調査対象者の言葉によって、調査者は自らの語彙・概念・理論を変化させることを余儀なくされた。これはいわば、新たな変数を獲得したということである。これによって、もう一度、調査者は新たな仮説を携えて研究にまい進していくことができる。

 だが、この「第四の道」はある種当然のことというか、社会学者が暗黙の裡にやっていることの一つではある。ただ、これを完全に生活史調査、質的社会調査の中心に添えたのは大きい。そして、この提言を聞いて、生活史調査や質的社会調査は、仮説を発見/提示することはできても、仮説の検証をすることはできないということを改めて自覚することができた。言いかえれば、社会学の目標である「人間の心理や行動の因果解明」は、質的調査だけでなく量的調査を加えてやっと成立するものだということである*4。岸・稲葉・筒井・北田などのメンバーで最近、社会学を理論的・方法論的に架橋するプロジェクトが行われているので、本書が生活史調査において打ち出した「第四の道」は社会学研究の発展のための大きな功績になると思う。

 次に、ソフトな意味での「理解」とは、例えば一見不合理な、当人にとって不利益になるような行動を行っている人に対して、「なるほど、そういうことか。そういう事情なら確かにそんな行動をするのは仕方ないよね」と納得する道を示すためのものである。このソフトな側面に関しては、本書の中でも「鉤括弧を外すこと」以外の章で詳細に記述されている。中でも象徴的なのが、最後の二章「爆音のもとで暮らす」「タバコとココア」であろう。

 「爆音のもとで暮らす」は、世界一危険とされる普天間米軍飛行場の近くに暮らす人々に対する、あるベストセラー作家の「うるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰だと言いたい」という発言から「自己責任」とは何なのかを問う。確かに、宜野湾市普天間周辺に移り住んだ人は戦後になって急増した。彼らは米軍基地があるということを知ったうえでそこに移り住んだことになる。では、彼らは、なぜはたから見て自らの不利益になると思われるような状況に飛び込んでいったのだろうか。

 岸が生活史を聞き取った普天間基地の真横に住むWさんは、その理由として「親の介護に行くために都合の良い場所だったから」を挙げる。さらに、湧き水やホタル、猫のための道路条件などの理由を挙げる。普天間の轟音については知ってはいたが、住むまではそのすさまじさまでには思いが至らなかったという。そして、岸はWさんの生活史をまとめて以下のように言う。

私たちの生活は、完全な自由と完全な強制の間にある。その複雑さや微妙さは、威勢のよいキャッチフレーズや、大所高所からの「地政学」的なまなざしからは、理解することができないだろう。(中略)

個人が自分の生存条件のもとで、少しでも良きものにしようと精一杯選んだ人生に、私たちは果たして、あの巨大な普天間基地の「責任」を負わせることができるだろうか。私たちは、個人の実際の生活史から考えることで、行為、意図、選択、責任などの概念について考え直すことをせまられる。たとえ自分の意志で普天間に住んだとしても、私たちは耐え難い騒音被害に対して異議申し立てをすることができる。まして、その責任を当事者個人に負わせることはできないのである。(p.306ー307)

 普天間基地の真横に住むという選択をしたWさんは、本土の人たちが普通に家を探すのと変わりない理由でその場所を選んだ。そこに一体どのような「責任」を付与されるべきだろうか。われわれが「自己責任」という言葉でとらえている現象が、いかに多様な妥協のもとで成り立っているのかをWさんの生活史は教えてくれる。それがソフトな意味での「理解」である。岸はそのような「理解」の束のことを、「タバコとココア」の章で「人間に関する理論」と呼んでいる。

「人間に関する理論」とは何か。それは、そのような状況であればそのような行為をおこなうことも無理はない、ということの「理解」の集まりであり、あるいはまた、そのような状況でなされたそのような行為にどれほどの責任があるだろうか、ということを考えなおさせるような「理解」の集まりである。この理論は、輻輳し互いに矛盾する多数の仮説を縮減しない。むしろそれは、もっと多くの仮説を増やそうとする。互いに矛盾する仮説のどちらかを採用し他方を棄却するのではなく、まるで実物大の地図を描こうとするかのように、私たちは矛盾する仮説を最大限に増幅しようとする。この理論によって得られるのは、たとえば、過酷な状況のなかでも人びとは楽しく生きることが可能であるということ、そしてそのような生が可能だからといって、その状況の過酷さを減ずる必要はまったくないという「理解」である。(p.340)

 この相矛盾するような「人間に関する理論」を最大限まで複雑化する必要がある。この場合、科学として単純化・モデル化はある意味不必要である。そして、そのために社会学者のすべきことは、「それぞれの一回限りの歴史と構造のなかで、その状況において行為者たちはこの行為を選択したのだという事例の報告を、無限に繰り返すこと」なのである(p.341)。

 

 さらに、ハード・ソフト両面での「他者の合理性の理解」のほかにも、本書には面白い論点がたくさんあった。それは例えば、彼が立脚する「実在論」や、「歴史と構造の中に個人の人生を結び付ける」というアイデアである。

 前者の「実在論」についていえば、前述した谷のような素朴な実在論に陥るのではなく、同時に桜井のような構築主義からしっかりディフェンスできるレベルの新たな実在論を打ちたてるには、おそらく本書でも引用されたD・デイヴィドソンなどの言語哲学などの議論を掘り下げていく必要があるのだろう*5。個人的には、岸が言うように構築主義が蔓延し、「全てが構築されたものである」といえてしまうのはかなり危険であると思うし、その危機感は「ポスト・トゥルースの時代」と呼ばれる現代においてより増していると思う。だからこそ、「そうは言っても事実は存在する」と力強く述べることが必要だし、それをするためにはかなり綿密な理論的手続きを取らねばならないだろう。

 後者の「歴史と構造の中に個人の人生を結び付ける」に関して言えば、岸自身、本書のその他の章(例えば「海の小麦粉」)で若干の考察を加えている。これは前述した、「責任」や「選択」の概念の再検討にもつながる話ではあるが、「大きな物語」としての歴史と構造を喪失させるということでもなければ、それらを逆に絶対視して個人を完全なる服従者にするということでもない。ここでキーワードになるのが、岸がたびたび使っている「折りたたまれた時間/過去」という表現だろう。

語りを「いまここ」の会話や相互行為に縛りつけず、もっと長い、複雑に折り重なる複数の時間のもとで、もういちど語る必要がーーあるいは私たちにとっては「書く」必要があるのだ。

生活史とは結局のところ、時間についての物語である。私たちはみな、現在に折りたたまれた過去に生きている。敗戦直後の経験は、まだここに存在する。それはまだ生きている。語り手はいまもあの浜辺で小麦粉の箱を待っているし、あの高校野球の試合はいまでも続いている。(p.134)

 歴史と構造、特に歴史に個人の人生を結び付ける場合、生活史調査で必要になってくるのが、語り手の語りの中で流れる時間をどのように捉え、そしてそれをどのように一つの「小さな歴史」として再構成し「大きな歴史」に結びつけるのかという点である。そうなってくると、検討すべきは「時間」とは何か、そしてそれが個人の中で「折りたたまれる」とはどういうことか、生活史研究者はこの「折りたたまれた時間/過去」をどのように扱えばよいのか(折りたたまれたものをほぐせばよいのか、折りたたまれたまま記述すればよいのかなど)ということである。難しい問題だが、検討の余地の多い問題でもある。

 

 最後に、岸は本書の議論の前提として「被差別者」を念頭に置いているが、では「差別者」の合理性は理解する場合はどうなのかという疑問が湧いてくる。いまは「被差別者」とは別に、「差別者」や「加害者」「マジョリティ」とされる者たちの合理性を理解するとは一体どういうことなのか、あるいはそもそも「差別者ー被差別者」「マジョリティーマイノリティ」は一概に決めることはできるのか、という問いを真面目に議論するべきフェーズに入っていると個人的には思っている。

 そういった人々を調査対象とする際には、「被差別者」や「マイノリティ」を対象としている時とは異なる問題が浮上するはずである。「被差別者」や「マイノリティ」を対象とする場合には、「大きな歴史や構造にさらされながらも必死に生きる」という構図を想定することができるが、「差別者」や「マジョリティ」はそのような「大きな歴史や構造」を生産/再生産する側である。彼らの合理性を理解する際に取る手続きは一体どのようなものなのか、あるいはそれは規範的に正しいものなのか。

 この問題に関して、岸自身も自覚的であるのは知っている。『現代思想』2018年2月号において、荻上チキと立岩真也を交えた対談で、相模原障碍者殺傷事件を例に挙げ、岸は「理解できてしまうことの怖さ」を語っていた。以下、少し長いが引用しよう。

立岩さんは『相模原障害者殺傷事件』のなかで、「加害者本人にはあまり興味がない」と言っています。また立岩さんは、「加害者の書いたものを見ると感情的に耐えられないから見ないようにしている」とも言っています。これは私自身の仕事にすごく関係することでもあって、私たちは加害者側を理解できてしまうことの怖さがあるのです。(中略)

今回の相模原の青年もすごく満たされない青年だったと。病歴や不安定な経済状況であるということを調べていくと、彼のやったことを理解できてしまうのではないかと思ってしまう。理解する必要があると思うのと同時に、理解できてしまうのではないかという一つの躊躇がある。つまり、私たちは理解するというとき、立場を交換するのですね。例えば、差別や貧困のなかにいる人の生活史を聞くと、「俺でもこうするな」「僕もそうだったかもしれない」となる。はっきりと思うかどうかは別にして、理解というものは、そうやって原理的に立場を交換できるものにしていく作業です。ところが、加害者を理解することは必要だし、「俺も一歩間違えていたらこういうことになっていたかもしれないな」ということをマジョリティとして覚悟することはすごく大事なのですが、一方で「コイツにもいろいろな事情があったんだな」と思ってしまうのが怖い。(「事実への信仰ーーディテールで現実に介入する」『現代思想』46(2),p.191)

 理解による「責任の解除」は被差別者やマイノリティに対してはある意味では「救い」になるのだが、逆に差別者やマジョリティに対しては「免罪」になってしまう。絶対的な悪というものが本当にあるのかどうか(植松を絶対的な悪とするか)は置いておくとして、とにかく従来の善悪の基準では誰が見ても限りなく「悪」に近いと判断された場合、我々はその人の合理性を理解してしまうことはタブーなのだろうか。被害者の場合とは違って、加害者の場合にはそこには必ず「理解することの怖さ」や「理解してしまうことの正しさ」が付きまとう。

 ちなみに、上のような「迷い」を吐露した岸に対して、立岩は「何が怖いんですか?私はあまり怖くないです。」と即答している。また、荻上も以下のような回答をしている。

社会制度上あるいは法定義上、許す/許さないという話と、社会として受け入れられていくという議論は多分同時にできることなのですが、でも同時に受け止めてくれる人はあまりいないですね。だから書き方が難しい。でも、同時に受け止めないようなタイプの人が本を書くよりは、先に書いたほうがいい。間違った仕方で議題設定されて、「どうです?罰しましょう」みたいなことを言われるよりは、「確かにいろいろあって、許すべきではないところもあるが、でもこういったところも含めないといけない」と先に言っておかないと、変な議題設定をされてしまうのです。だからあまり私は躊躇している暇はないなと思います。(同上,p.193)

 私も岸の問いに対して、立岩や荻上のような立場を取りたい。「理解」と「共感」は違う。例えば、植松の合理性を完全に理解したからと言って、植松に共感し、彼の「悪」を相対化する必要はない。理解したうえで全力で彼を断罪することはできる。立岩が言うように、「どんなにわかろうと、どんなに理解できようと、文脈がつけられようと、悪いことは悪い。まずそこはキープしておいて、その上で、それと同時にいきさつやらを調べればよい」(同上,p.193)のである*6

 だが、荻上や立岩のような、「理解したうえで全力で批判する」あるいは「批判しながら全力で理解する」という姿勢は、ある意味で正しいあり方だと思う一方で、相当に強くないとできないだろうなと思う。大概は、相手の共感できなさに耐えかねて理解を放棄するものである。彼らのようにありたいと思う一方で、岸のように率直な迷いもどこかで残しておくべきだろうなとも思う。この「差別者」「加害者」「マジョリティ」の合理性を理解することの正当性という問題に関しては、もう少し考えていきたい。

 

 

 

*1:ここで個人的にブルデューの「象徴権力/暴力」論を想起した。 ブルデューの理論については以前ブログに書いた。だが、正直ブルデューの理論を単なる「構造主義」や「構造決定論」と決めつけてしまうのは拙速すぎるだろうと思う。ブルデュー理論についてはまたいずれどこかでまとめたい。

*2:ちなみに、このような「責任の解除と主体性の剥奪のジレンマ」については、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』の著者である知念渉氏もシノドスのインタビューで述べていた。おそらく、質的調査、特に差別問題などを行う研究者が共通して持つアポリアなのだろう。以下、引用。

「わたしは教育社会学者なので、できるだけ自己責任を解除しようとします。こういう構造におかれたらしかたないよね、というかたちで。でも、自己責任の余地のない存在というのは、自分の主体性を奪われている存在でもあるわけです。つまり、貧困だったからあなたの人生はこんなに厳しかったんですね、という風にいわれると、自分がいままで選択してきた意味や主体性はないといわれているようなものなのかもしれません。だとすれば、それは固有の存在であることが否定されることでもあります。たしかに、自己責任を解除するのは大事なのですが、それによってその人の主体性のようなものを奪ってしまうのはどうなんだろう、と。」

*3:ちなみに、このような「カテゴリー化」をめぐる政治性については、ナショナリズム研究などにも蓄積が存在する。私は以前、アメリカの社会学者ロジャース・ブルーベイカーの「カテゴリー論」についてブログで取り上げた。ブルーベイカーの提示する認知的視座は「構築主義の乗り越え」を志向した理論であるが、それによってある程度“客観的”に民族・人種差別の実態を描くことに成功しているが、やはり後述するように、桜井の「対話的構築主義」と同様の問題を抱えていると思う。

*4:これに関しては、稲葉振一郎『社会学入門・中級編』(2019,有斐閣)の中でも言及されていた。稲葉によると、社会学の調査方法は①質的調査、②量的調査、③質的研究の三つに大別されるという。ここでは、①と③が分けられているのがミソである。つまり、調査者と対面的にかかわる質的調査と、史料などのドキュメントを扱う質的研究とは原理的に異なるものとして見ているのである。そして、社会学の中核になるのは①であるとし、一般理論なき後の社会学で量的調査を導く概念を作ることがその役割であると述べる。つまり、量と質という雑な対比は必要なく、両者は矛盾なく共存するというのである。

*5:それを岸の代わりにやっているのは、おそらく北田暁大稲葉振一郎らなのだろう。ちなみに、前述した稲葉(2019)では、これから質的社会調査を理論的に研究していく者は、言語哲学について触れなければならないと述べられている。私は、言語哲学に限らず、最近書店でも頻繁に見かけるようになったマルクス・ガブリエルなどに代表されるような「新実在論」などの哲学的潮流も検討の対象になるだろうと思う。

*6:ちなみに、私はこの「差別者の合理性を理解してしまっていいのか」という問いに対して、明確にイエスと答えた本が、最近出た伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学ーーアンダーグラウンド平成史1990-2000年代』だと思う。過激な排外主義や差別的言説を唱えているネット右派(ネトウヨ)を「クラスタ」と「アジェンダ」という概念を用いることで細分化し、それぞれのグループでの合理性を解明した良書である。この本を読んだ読後感は、「なんだ、ネット右派が言っていることの中には理解できるものもあるし、なんなら頷ける論理もあるじゃん」だった。これは何も危険なことではなく、要は「理解できるんだったら彼らと対話のテーブルにつくこともできるよね」ということである。植松に対してもこの論理が通じるかは正直分からないが、少しは希望が抱けるのではないか。

ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』※ネタバレあり

 韓国の鬼才、ポンジュノ監督の新作『パラサイト 半地下の家族』を観た。

 

映画『パラサイト 半地下の家族』オフィシャルサイトwww.parasite-mv.jp

 

 ポン・ジュノ監督作品はそんなに観たことがなく、『グエムル』と『スノーピアサー』ぐらい。どちらも韓国特有の格差社会の問題を戯画的に描いた作品だった。当時これらの作品を見たときはあまり個人的には響かなかったと記憶しているが、今作は大傑作だった。パルムドールだけでなく、各国の映画賞をかっさらっているのも肯ける出来である。アカデミー作品賞にもノミネートされたらしい。

 すでに各所の記事で指摘されている通り、昨今話題に上がる映画は、資本主義の行き詰まりや格差社会というテーマを描いた作品が多い。例えば、ケン・ローチ『家族を想うとき』、トッド・フィリップス『ジョーカー』、そして是枝裕和万引き家族』などである。そして、今作『パラサイト』もそれらの系譜に位置づけられるのだろう。絶望的なまでに開いた格差を映画的技巧で巧みに表現しながら、それでいて階級社会のリアルを描ききっている。少し早とちりではあるが、間違いなく今年のベストに食い込むであろう傑作である。

 

 少し長いが、今作のストーリーラインを確認しておこう。

 物語は、韓国の「半地下」に暮らす四人家族が身分を偽り、丘の上に暮らす富裕層の家(パク社長一家)に勤務(パラサイト)するところから始まる。半地下の家族はそれぞれの長所(兄ギウ→英語、妹ギジョン→美術、父ギテク→ドライバー、母チョンソク→家事)を生かし、もともといた住み込みの家政婦ムングァンを追い出して、巧みに富裕層家族に取り入っていく。

 そして、ある日、パク社長一家が旅行で家を空けた隙を見て居間でくつろいでいた半地下家族のもとに、追い出したはずのムングァンが戻ってくる。「地下に忘れ物をした」と告げる彼女を仕方なく家の中に入れるが、何か様子がおかしい。ムングァンの後を追い、恐る恐る地下に降りていった家族が見たものは、その家政婦の夫と、地下に広がる生活空間だった。

 ムングァンは半地下の家族の正体を知り、それをパク社長一家に伝えようとケータイで証拠の動画を撮るが、今度はそれを阻止しようとする半地下家族ともみくちゃの喧嘩になる。さらに、そこに旅行に出かけたはずのパク社長一家が、嵐のため家に帰ってくるという電話が入る。ムングァンとその夫を地下に閉じ込め、隙を見て社長宅を脱出して家族は何とか難を逃れる。

 次の日、事情を知らないパク社長一家は、庭で友人を招いてパーティを開く。パーティに招かれた半地下家族は、彼らに悟られぬように昨夜の騒動の後始末をしようと画策するが、錯乱したムングァンの夫が地下から脱走し、キッチンの包丁をとって庭にいたギジョンの胸に刃を突き刺す。優雅なパーティは一瞬で凄惨な現場と化す。

 自分の娘の無残な姿に怒った母チョンソクはそばにあったバーベキュー用の串でムングァンの夫を刺し絶命させる。だが、それだけで騒動は終わらなかった。パク社長は長年の地下生活でハエがたかるムングァンの死体を前にして露骨に不快な表情を浮かべ、鼻をつまむ。その表情を見たギテクは、我を忘れて近くにあった包丁をパク社長に突き刺す。再度、庭に悲鳴が響き渡る。そして、我に帰ったギテクは忽然と姿を消す。

 

 冒頭にも述べたが、本作のテーマは紛れもなく「格差社会」である。それは言いかえるならば、「上下のヒエラルキー構造」である。本作はそんな「上下」や「ヒエラルキー」を表すメタファーがふんだんに盛り込まれている。

 まずは、その特徴的なカメラワークである。本作は基本的に半地下家族の家と、パク一家の豪邸の二つしか舞台が用意されていない。非常に閉じられた世界観にストーリーが集約されている。この仕掛けはかなり意図的なものと考えられる。つまり、意図的に横の広がりを排除することによって、「上」と「下」、そしてその絶望的なまでの隔たりを表現しているのだろう。そして、その隔たりの長さを表すために、かなりしつこく二つの家の移動シーンに時間を割いている。さらに、象徴的なのが洪水のシーンである。パク社長宅での水かさはせいぜいくるぶしほどだが、下へ下へと降っていくに連れてその水量は増していく。「水は低きに流れる」のと同様に、社会の負担はすべて貧困家庭に流れていくのである。

 ちなみに、このような格差社会の上と下の交わりを描いた作品としては、黒澤明の『天国と地獄』(1963)がまず想起される。だが、それと比較してみても、今作は二つの家にかなりフォーカスを絞っている。こういった点に着目すると、1963年と2019年、そして日本と韓国では、現代韓国のほうが格差の幅が途方もなく広がっていると解釈できるかもしれない。

 

 だが、ここまでであれば、「格差」を描いた映画としては、まあよくある表現である。ポン・ジュノの卓越性はその先にある。

 プロットを見て一つの疑問が浮かぶ。なぜ、家政婦の夫は、パク社長ではなく、半地下の家族を憎んだのか?彼は1、2年前に韓国で流行った台湾カステラの事業に失敗し、地下暮らしに落ちた。かたや、パク社長はIT業界で成功を収め、壁を隔てて何不自由ない生活を送っている。家政婦の夫はパク社長を呪ってもおかしくないのに、むしろ「リスペクト」すらしている。

 ここに階級社会を残酷なまでにリアルに描くポン監督の恐ろしさがある。実際、本当に階級の下にいる人々は怨嗟の声を富裕層に向けることはない。なぜなら、貧困や飢えはそういった現状を正しく認識する能力・知識をも奪うからである。しかも、自分と富裕層を較べようにも、もはやその差は歴然で比べる物差しもない。

 逆に、彼らの怒りは少し上の人々に向かう。そう、「半地下」の家族である。本作で主人公一家が「半地下」に住んでいるというのは非常に象徴的である。つまり、彼らは「地下」ではない。地上に出るか出ないか、そういった絶妙な位置にあるのが半地下の家族なのである。本当の「地下」の家族(家政婦夫婦)は半地下の家族を憎むとともに富裕層を崇拝し、半地下の家族は本当の「地下」の家族に同情しつつも富裕層に嫉妬の炎を燃やす。本作は、このような階級の複雑な利害関係を「地下」というメタファーを用いて巧みに描いた作品なのである(こういった現代社会の階級闘争、および階級の団結の困難さについては、ケン・ローチ『家族を想うとき』でも描かれていた。ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり - 楽楽風塵)。

 そう考えると、本作における富裕層(パク社長一家)の位置付けも特徴的である。彼らは一貫して「いい人」として描かれている。半地下、地下の家族にひどい仕打ちをするわけでもない。彼らに非があるとするならば、それは無邪気な差別意識である。地下、半地下の人々の「臭い」に敏感に反応し、顔を歪める。そして、それを覆い隠そうともしない姿勢が最終的にギテクの逆鱗に触れる。

 

 さらに、ギテクを最後の凶行に駆り立てた要因はもう一つ存在する。それが、パク社長の家族に対する態度である。

 パク社長専属のドライバーとして採用されたギテクは、社長との会話の中で何度も「奥さんを、家族を愛しているのですね」という言葉を投げかける。たしかに家でのパク社長の様子を見ていると、それはテレビや雑誌などで流される「理想」の家族の在り方に見える。このギテクの何気ない言葉は、パク一家を見ていれば当然出てくるセリフの一つである。だが、この問いかけに対するパク社長の回答はいずれも歯切れが悪く、それはギテクが何気なく言った「愛」という言葉を軽く嘲笑するようですらあった。

 そして、ラストの破局へ向かう直前、ギテクを凶行に駆り立てる最大の引き金になったのも、このパク社長の家族に対する「冷やかさ」であった。インディアンの格好をして一緒に息子を驚かせてやろうとギテクに持ちかける社長に対して、もう一度ギテクはあのセリフを言う。だが、今度の社長の返答はそれまで以上に冷酷なものだった。「これも仕事と割り切ってくださいね」。そう告げる社長の顔は、いまから自らの息子を喜ばせようとする親のそれではない。そう告げられたギテクの怒りとも悲しみとも取れない無表情が、画面にアップで映し出される。

 思えば、ギテクはお世辞にも有能な父親とは言い難かった。むしろ、家族の中では一番足手まといである。だが、彼はどんな時でも家族を第一に想っていた。それはギテクだけではない。半地下の家族みな劣悪な環境にありながら、家族を裏切ることは絶対なかった。しかも、ギテクは作中で社長夫人への好意を露わにするシーンが何度かあった。「金持ちなのにいい人なんだ」というギテクの言葉は、その直後に妻チョンソクの「金持ちだからいい人なのよ」という返答にかき消されるが、その気持ちはもうほとんど「恋」と呼んでもよかった。パク社長のラストのセリフは、社長夫人の気持ちだけでなく、「どんな苦境にあろうとも家族が第一」というギテクの信念すらも踏みにじったのである。

 

 そうなってくると、半地下の家族はそもそも富裕層に本当になりたかったのだろうかという疑問すら湧いてくる。彼らは様々な偽装によって社長宅にパラサイトするが、結局それによって幸せになったとは言えない。そのようなカネや見た目では乗り越えられない境界線を端的に表していたのが「臭い」であるのは間違いないが、それ以上に半地下の家族の複雑な心情を捉えていたメタファーが「石」である。ギウは社長宅で家政婦との騒動があった日から、友人からもらった「山水景石」という石を後生大事に持ち運び始める。そして、「なぜかこれが身体から離れないんだ」と言う。さらに、パーティに招待されたギウは庭でバーベキューの用意をする富裕層の友人たちの立ち居振る舞いを見ながら、「みんななんであんなに普通にできるんだ」と独りごちる。

 偽装までして富裕層にパラサイトしたギウは、この時点で自らが結局それらの生活になじむことがないということを悟ったのだろう。そして、石を胸から離さなくなる。石は下へ下へ行きたいというギウの心情を表した秀逸な表現である。空間的な境界線を越えることは容易だったが、心的な境界線を越えることは予想以上に困難だったのである。

 

 ポン監督は本作に出てくる人々の誰かを「悪人」として描くことはしなかったとインタビューで話している(ポン・ジュノ監督が傑作『パラサイト 半地下の家族』で描いた、残酷なまでの「分断」 | ハフポスト)。そして、こう続ける。

彼らは見えない線を引いていて、その線を越えた外の世界にはまったく関心を持っていません。たとえ目に見えていたとしても、線の外にいる貧しい人たちのことは、まるで見えていないかのように行動するのです。幽霊のように、いないものとして扱っているんです。この作品は、その見えない一線が越えられた時に起きてしまう悲劇を描いています

 確かに、悪役はいない。誰もが憎めない要素を持ったキャラクターである。しかし、それを「無垢」という言葉で片づけることができるのは、それぞれの階級が同じ階級だけで、あるいは同じ家族だけで過ごす瞬間に限られる。ひとたび様々な階級が同じステージに上がれば、見えない境界線は可視化され、無邪気な差別意識が表出する。

 むしろ、悪役がいないからこそ、観客は見終わった後に何とも言えない敗北感とやるせなさを抱く。このわだかまりを我々は一体どこにぶつければいいのか。資本主義という構造なのか、人間の無邪気な差別意識なのか。そんなモヤモヤが今でも頭の中を浮遊している。

 

 

2019年映画ベストテン

 2019年公開の映画でベストテンを作ってみた。

 

 振り返ってみると、今年はNetflixに加入したのが大きかったなと思う。Netflix公開の良作が量産されはじめているので、劇場に足を運ぶ機会が少なくなった私としてはかなり嬉しい時代になったなと感心する。

 けど、Netflixを使うようになってから思うようになったのは、やはり劇場で映画を見ることの大切さ。例えば、スターウォーズのファンファーレを劇場の大画面と高品質な音響で聴き、冒頭から引くぐらい涙を流すという体験は、やはり劇場に行くからこそできることだなと実感する。来年は映画を見る機会がさらに減るだろうが、映画を見ることの喜びは忘れないようにしたいなと思う。

 

・10位 グリーンブック

 オスカーを受賞した本作。1960年代の人種差別が横行していた時代に、ハイソな黒人ジャズピアニストと粗野なイタリア系白人ドライバーの心の交流を描いたロードムービー。人種という壁を超えていけるという明確なメッセージを打ち出した希望に満ちたストーリーで、これがオスカーを獲るというのは時代の要請でもあるのかなと思った。

 同じく人種差別を主題とした『ブラッククランズマン』とは対を成すストーリー展開で、意見は分かれるだろうが、個人的には『ブラッククランズマン』のほうがより複雑な人種間の葛藤を描けていたと思う。

 

・9位 スパイダーマン/スパイダーバース

 マーベルシリーズの中でも最も人気の高い「スパイダーマン」を全く異なる作風で描いた作品。スパイダーマンのどこか楽観的でポップな雰囲気を残しつつ、そこにヒップホップ的な要素も盛り込んでいて、路上アートを見ているようなライトな感覚で楽しむことができる。

 マーベル一強の映画産業で、今後このようなサイドストーリーの良作が出てくるのはファンとしては楽しみで仕方ない。

 

・8位 運び屋

 クリント・イーストウッドの最新作。御年89歳にして監督と主演を務めるという映画狂ぶりは健在。

 ただし、『ダーティハリー』から『グラン・トリノ』に至るまで、保守的な米国の男性像を描いてきたイーストウッドだが、本作ではその描かれ方にも若干の変化が見られる。家族を省みることなく、自らの道を突き進む主人公がラストで辿り着く答えは、以前のイーストウッドであれば導き出されなかったものなのではないかと思う。

 余談だが、アメリカ映画の黄金期を支えてきた監督が年を経るごとに思想の変化を経験するというのは、なにもイーストウッドに限ったことではないようだ。実際、今年公開された『アイリッシュマン』の監督マーティン・スコセッシも、本作の中でロバート・デニーロを使ってそのような傾向を体現させていた。それは『グッドフェローズ』とはまた異なるラストであった。今後これらの監督たちがどのような作品を撮るのか注目である。

 

・7位 マリッジストーリー

 Netflixで公開された作品。監督はノア・バームバック。自身の経験(あるいは、本作でヒロインを務めるスカーレット・ヨハンソン)を踏まえて、ある夫婦の別離の過程を描く。主演男優はスターウォーズでカイロ・レンを演じたアダム・ドライバー

 離婚調停ものといえば『クレイマークレイマー』が有名だが、あえてそれと対比すれば、本作はより「夫婦の愛」を突き詰めた描いた映画だった。確かに、二人を愛しあっていた。しかし、愛に段階があるとして、それが一定段階を下回れば収拾がつかなくなる。二人の口論を撮った長回しのシーンに代表されるように、法と金と見栄というフィルターを通して、愛が憎しみへと変わっていく過程を繊細なタッチで描いていた。

 

・6位 アベンジャーズ/エンドゲーム

 やはりこれを入れねばならないだろう。アベンジャーズシリーズ堂々の完結である。良くも悪くもMCUの登場によって映画産業はすっかりその形容を変えてしまった。その第一フェーズの終わりを飾るのに十分すぎる出来栄えだったと思う。今年の暮れに公開された『スターウォーズ』の完結編が本作に遠く及ばない出来だったのをみるにつけ、やはり現代映画産業を語るにはまずマーベルを語らねばならないとしみじみ思った。

 『アイアンマン』(2008年)の公開から無尽蔵にキャラクターを増やしていったマーベルシリーズだが、それらの全てを過不足なく一つの作品に収めたのが今作。まるでオーケストラを見ているようである。しかも、タイムトラベル要素を組み込み、これまでの作品にオーバーラップさせるという戦略に、ファンの脳汁はもうダダ漏れである。そして、キャップの「アッセンブル…!」まで持っていくストーリー展開も完璧すぎる。ありがとう。

 

・5位 ROMA

 これもNetflixで公開された作品。監督は『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン。だが、本作は全くSF要素はなく、監督の幼少期の記憶などをもとに1970年代のメキシコの日常を淡々と描いている。

 画面はモノクロで構成されており、物語の柔らかさに一層磨きがかかっている。人々の何気ない会話、デモ隊の喧騒、動物の鳴き声、海のさざなみなどあらゆる自然の営みが映画のBGMの役割をなしている。優しく、だが力強く生きる人間たちのドラマである。

 1970年代のメキシコが舞台だが、当時の状況がどういったものだったかは作中では明示されない。だが、端々でその世相が映し出され、確かにそれが人々の生活を縛っていることが分かる。時代状況を捨象しないまま、しかし人々の生活をつぶさに描いていく姿勢は、例えば『クーリンチェ少年殺人事件』に似ている。

 

・4位 家族を想うとき

 ケン・ローチ監督の最新作。「ギグ・エコノミー」と呼ばれる職業の過酷な現実を描く、告発型の映画である。

 前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』と比べると明らかに本作は現状への危機感や切迫感が増していることが分かる。是枝監督と同様、家族のあり方を問うてきたケン・ローチが、今作では徹底して「労働のあり方」を問題提起している。さらに、「労働者階級」という枠組み自体がいまや成り立たないということも本作から窺い知ることができる。今年見るべき良作。

ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり - 楽楽風塵

 

・3位 ブラック・クランズマン

 『マルコムX』のスパイク・リー監督最新作。トランプ大統領就任、白人至上主義の台頭に対するリーなりの回答が本作である。作品の端々に彼らへの批判、そして危機感がにじみ出ている。その批判精神はやはり見習うべきものがある。

 白人至上主義団体KKKに潜入捜査する黒人警官の実話をもとにした本作。人種差別、そして白人至上主義に加担する人々の実像をリアルに、かつ皮肉を交えて描いている。ラストの怒涛の畳み掛けといい、エンタメと社会批評を絶妙に織り交ぜた傑作。

 現代の惨状を見て作られた本作だが、当時1970年代の状況と比較してみると、やはり現代レイシズムの特異性も浮き上がってくる。当時はかなり漠然とした理由で黒人に対する差別が横行していたが、現代ではより巧みにその根拠を構成して排外を正当化している。そんな現代の特徴を明らかにするためにも本作がいま作られた意義は大きいと思う。

『ブラック・クランズマン』※ネタバレあり - 楽楽風塵

 

・2位 ジョーカー

 間違いなく、今年最大のダークホースだろう。ヒーローものとしては異色の作品で、『ダークナイト』(2008年)のヒース・レジャー版ジョーカーに次ぐ、新たなダークヒーローの誕生である。

 監督のトッド・フィリップスは『ハング・オーバー』などで知られるコメディ畑出身で、だからこそ本作の悲劇と喜劇のはざまを絶妙に攻める映像が撮れたのだろう。そして、なんと言ってもジョーカー(アーサー)役のホアキン・フェニックスの怪演である。本作を単なるオマージュを散りばめただけの作品で終わらせなかったのは、ひとえに彼のおかげといっても過言ではないだろう。

 さらに、スコセッシの『キング・オブ・コメディ』同様に、本作は現実と虚構(妄想)の境界線を曖昧にした内容になっている。本作がここまでのヒットを記録したのは、本作の時代背景とアーサーの境遇が現代の社会状況にマッチしたからだろう。このポピュリズムの時代にこそ本作は受け入れられた。各地でジョーカーのメイクを真似する人が絶えないのはその証左である。

 だが、本作はそんな状況すら嘲笑うかのようなラストで終わる。本作がポピュリズムを喚起したのは間違いないが、同時にラストでポピュリズムを殺している点にも注目すべきだろう。

 

・1位 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 堂々の1位はクエンティン・タランティーノの最新作である。見終わった時はちょっと飲み込めなかったが、徐々に味わいが増すスルメ映画である。

 ハリウッド全盛期の1960年代終わりを舞台にし、シャロン・テート殺人事件を下敷きにした本作。だが、当事件が作中で詳細に描かれているわけではない。あくまでも、落ちぶれた俳優リック・ダルトン(ディカプリオ)と専属スタントマンのクリフ・ブース(ブラピ)を媒介にして、あの日のノスタルジーと「ありえたかもしれない未来」を描く。

 『ヘイトフル・エイト』で絶妙なセリフの駆け引きと糸を張り詰めたような緊張感を演出したタランティーノだが、本作でもその技術が遺憾なく発揮されている。結末を知っているからこそ観客は緊張感を維持するのだが、だからこそ露悪的なまでのラストの展開に肩透かしを食いながらも拍手喝采を送るのである。

 ほかにも、農場に行って帰るだけのブラピをなぜあれだけカッコよく撮れるのか、とか色々と語りたいことが続出する傑作である。全ての映画ファンを魅了すること間違いなしである。

 

 

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』

 2019年読んで面白かった本、第二弾。

 

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

 

 

 中国の高性能監視カメラ、新疆ウイグル自治区での強制キャンプなど、日本でもその監視国家ぶりが度々報道されている中国であるが、それらの散発的に報道される現象をより包括的に、そして「功利主義」や「市民社会論」などの観点から解明した本。めちゃくちゃ面白く、かつ明快である。以前、梶谷氏の『中国経済講義』(中公新書)の評を書いたが、その続編というか、より思想的な側面で現代中国を理解することができるのではないだろうか。

cnmthelimit.hatenablog.com

 

 以下、目次。

第1章 中国はユートピアか、ディストピア

第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか

第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」

第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか

第5章 現代中国における「公」と「私」

第6章 幸福な監視国家のゆくえ

第7章 道具的合理性が暴走するとき

 

 第1章では、昨今、よく中国をジョージ・オーウェルの『1984年』に例える報道を目にするが、むしろ現在の中国を表すのに適切なたとえは、おなじくディストピア小説として挙げられるオルダス・ハクスリーすばらしい新世界』ではないかという問題提起がなされる。「『1984年』が20世紀初頭の社会主義のイメージに強く影響された世界観であるのに対して、『すばらしい新世界』はすぐれて資本主義的な、ある意味ではその理想形である未来像を示している」(p.27)。

 第2章では、中国のイノベーションの立役者であるアリババ(および、当社が手掛けたEC市場)のメカニズムや、中国版ギグエコノミーの実態が描かれる(功罪両面を含めて)。続く第3章では、AI技術を用いた最新監視カメラがいかにして統治テクノロジーを実現しているのか(AI顔認証における「匿名性を前提としたセグメント化」と「顕名性に基づいた同定化」の違いはおもしろい)や、「社会信用スコア」などの技術が紹介され、それが行動経済学における「ナッジ」や「リバタリアンパターナリズム」に結びつくという話が展開される。そして第4章では、それらの動きがどのようにして中国の民主化を抑え込んでいるかが描かれる。

 

 本書の中でも特に面白かったのが、第5章と第6章である。以下では、この二つの章をやや詳細に見ていこう。

 以上の章までの記述で、中国では政府の統治テクノロジーによって民衆の声が巧みに抑え込まれていることが分かった。だが、そのような中国のあり方は、どうしても西側諸国には奇異に映る。なぜ、このような非民主主義的で権威主義的な体制が存続しているのか。これを「市民社会」や「市民的公共性」という概念で説明しようと試みているのが第5章である。

 そもそも、今では当たり前のものとなった「市民社会」という概念の意味は歴史的に変遷してきた。簡単に整理すると、そこには三つの意味が含まれている。一つ目は、「法律の前での平等」の下で人々が政治に参加する「公民社会」(英語のcivil society)。二つ目は、自由に経済活動を行う場としての「経済社会」(ドイツ語の、die bürgerliche Gesellschaft)。三つ目が、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(第2版)の中で論じた、1990年代以降に現れた国家とも営利企業とも異なる「第三の領域」としての市民社会NGONPOなど)である。欧米では、この三つの概念を明確に区分しているが、日本ではこれらをまとめて「市民社会」と呼ぶため、しばしば混乱が生じる。本書では、三つ目に限定して「市民社会(団体)」と呼んでいる。

 このような西洋を起源とする市民社会論は中国にも輸入され、2012年ごろから環境保護団体や農民工への支援をする草の根NGOを指して、このような市民社会の担い手とする議論が浮上する。しかし、このような議論に対しては多くの反論が提出されてきた。批判者は、中国におけるNGOは結局ハーバーマスが言う意味での「自由な討論によって支えられた」組織ではなく、中国共産党による官製労働組合である「工会」の隙間を埋めるだけの存在でしかないと主張した(「工会」については、上述の前エントリで紹介した)。

 このような批判に対して、中国の草の根NGOを研究する李妍●(火が三つ)は中国思想史研究者である溝口雄三の議論を援用しながら、中国の市民社会における「公共性」概念には、「天理」に代表される儒教思想が重要な役割を担っていると説明している。

 「中国の公観念には、『天』の観念が色濃く浸透しており、それは古来の『天理』、すなわち『万民の均等的生存』という絶対的原理に基づく。政府、国家も、世間や社会、共同も『天理』を外れてはならない」「公共性を担う存在として、国家も市民社会もその正当性は所与のものではなく、『天理に適う』ことによって担保される。天理に適う役割を示さなければ、公共性を担う資格(権威)が認められない」(p.149ー150)

 例えば、習近平政権期になってから大々的に行われるようになった「反腐敗キャンペーン」は、私的利益をむさぼっている役人や政治家を習近平政権が共産党の規律委員会を通じて厳しく取り締まり、それを通じて「公共性」を実現する意図があった。そこで実現される「公共性」は、あくまでも私的利益の外部にあり、さらにそれを否定するものである点に注意が必要である。これは私的利益を単に否定的な対象として見るのではなく、その基盤の上に公共的なものを立ち上げようとした西洋社会とは対照的である(p.157)。

 このように、中国社会においては、公的なものと私的なものがしばしば分裂しがちである。このような見方は中国史研究者によってすでに指摘されていた。例えば、寺田浩明は『中国法制史』の中で、中国の法概念は「公論としての法」として規定できるという。「公論としての法」は、西洋起源の「ルールとしての法」と対置される。後者が普遍的なルールが抽象化された形で存在しており、それが個別案件に強制的に適応されていくというロジックによって組み立てられているのに対して、前者はあくまでも個別案件において「公平な裁き」を実現していくことが重視される。ここで言う「公平な裁き」とは、案件ごとに異なる個別の事情や社会情勢を考慮して初めて実現されるもので、それらの事情を考慮せず機械的にルール=法を適用することはむしろ否定の対象になるため、そういった「公平な裁き」を実現できるのは教養を積んだ人格的にも優れた一部の人に限るとなる(p.158ー159)。

 さらに、寺田は西洋や日本と中国の「法」の位置づけの違いから、両地域の社会の仕組みの違いを指摘している。西洋や日本と違って、伝統中国の社会秩序はあくまでも経済利益によって支えられた個別的な契約関係の「束」として形成されるものであり、強固な団体的結びつきを欠いた「持ち寄り型の秩序」であるという。これは「法」が個別の事情や社会情勢を超越した「普遍的なルール」としての機能を持たない「公論としての法」と対応する。

 したがって、このような社会秩序の下では、公権力と社会の関係性も西洋社会のそれとは異なってくる。西洋社会では、社会の中にある規則性を市民たちが自覚的に取り出して明文化し、それを自らが従うべき規範として権力が再定位することによって権力の正当性が担保されるが、中国社会では、法秩序があくまでも「個別案件」として処理され、その公平性の拠り所も公平有徳な大人という属人的な形になるため、治者と被治者との一体性は成立しえない(p.160)。

 これは中国社会で民主化を語る際の困難さにもつながってくる問題である。中国においては、「民主」という言葉に、①政治的権利の平等、②経済的平等、という二つの意味が含まれている。すなわち、①は欧米近代思想に源流がある、政治的権利の平等と権力の分散を意味する民主化(「民主Ⅰ」)であり、②は中国の伝統思想に起源を持つ、経済的平等化とパターナリスティックな独裁権力によるその実現を意味する民主化(「民主Ⅱ」)である。中国では、「民主Ⅰ」を要求する立場を右派(リベラリスト)、「民主Ⅱ」を要求する立場を左派(ナショナリスト)とする(p.163の表参照)。

 このような政治的権利の平等化と経済的権利の平等化は、権力との関係において反対方向のベクトルを持つものである。つまり、中国社会においては、前者の「政治的権利の平等」を要求する立場(リベラリズム)が、後者の「経済的平等化」を要求する声にかき消されるか、あるいは政権によってあからさまな弾圧が加えられるという状況が生じてきた。なぜなら、経済的平等(再分配)を行うためには、国家権力の大幅な介入を必要とするため、経済面での平等の要求は国家権力の制限ではなく、むしろよりパターナリズムを容認・強化するほうに働くからである(p.165)。

 

 第6章では、「功利主義」という観点から中国の監視社会化を論じている。

  功利主義の主張のコアな部分は、①帰結主義、②幸福(厚生)主義、③集計主義という三つの部分に帰着する。①はある行為の(道徳的)「正しさ」はその行為選択の結果生じる自体の良し悪しのみによって決まるという考え方。②は道徳的な善悪は社会を構成するひとりひとりの個人が感じる主観的幸福(厚生)のみによって決まり、それ以外の要素は本質的ではないとする考え方。③は社会状態の良し悪しや行為選択の(道徳的)「正しさ」は、社会を構成する一人一人のの個人が感じる幸福の量によって決まるという考え方である(p.171)。功利主義的な考え方は監視社会化を正当化するのに非常に適合的である。なぜなら、社会的に「正しくない」行動パターンを持つ人に対して、あらかじめ行動の自由を奪うことはその社会全体の利益や幸福を増大すことにつながるからである。

 現在、中国に限らず、このような功利主義的思考がもう一度見直される傾向にある。その背景には、自己責任論の台頭以外にも、「道徳の科学的解明」が関わっていると著述家の吉川浩満はいう。「道徳の科学的解明」とは、今まで哲学や倫理学の領域で考えられてきた人々の道徳的な善悪の判断や正義感などを、認知心理学認知科学などの科学の分野で解明しようとする事態を指す。

 代表的なものとしては、「心の二重過程理論」がある。二重過程理論では、人間の脳内に「システム1(速いシステム)」と「システム2(遅いシステム)」という異なる認知システムがあるとされる。前者のシステムは演算能力をそれほど必要とせず、迅速な判断が可能、そして自動的・無意識的・非言語的に機能する。後者はより多くの演算能力を必要とし、意識的・言語的な集中を要する。これは人間の進化過程の中で順次備わってきた能力であり、システム1は種・遺伝子の利益を最大化するように作動する、脳の古い部分である一方で、システム2は種というよりも個体の利益・生存可能性を最大化するために備わった能力である。人間はこの二つのシステムを自由自在に使い分けることはできず、油断すればすぐに集中力を必要としないシステム1が作動してしまう。これが非合理的な誤りが生じる原因とされる(この「システム1・2」に関する話は、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。」の中でも出てきた。綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 - 楽楽風塵)。

 哲学者のジョシュア・グリーンによれば、この二つのシステムはそれぞれ、システム1=道徳感情、システム2=功利主義に対応するという。この異なるベクトルを持つ思考回路は、例えば「トロッコ問題」のようなジレンマに直面する。トロッコ問題には明確な答えが用意されていないが、人間はもしゆっくり考える時間があるならば、えてして批判的な吟味が可能な功利主義的思考が選ばれることになる(p.178)。このような思考に大きなエネルギーと時間を要するにもかかわらず、明確な答えがない事柄であれば、そもそも人間よりも功利主義的・合理的に思考できるAIにその役割を担ってもらおうとする考え方が出てきてもおかしくない。そして、実際そういった動きはすでに欧米で始まっているのである。

 このような状況に対して、当然異論が唱えられている。代表的な論者がキース・E・スタノヴィッチによる「道具的合理性」と「メタ合理性」という議論である。道具的合理性とは、あらかじめ決められた目的を達成しようとする場合に発揮される合理性ののことであり、かつてウェーバーは言ったアレである。しかし、この道具的合理性では、何らかの目的が本当に目的とするべきものであるかどうかを判断することはできない。そこで、道具的合理性よりも一歩高い地点から目的自体の妥当性を判断するメタ合理性が必要になる。チンパンジーでも「食べるために目の前のバナナをむく」という道具的合理性を持っていることから、このメタ合理性が働くか否かが人間とチンパンジーの境界線であるとスタノヴィッチは言う。

 では、我々人間はどのようにしてこのメタ合理性を社会に実装していけばいいのだろか。ハーバーマス的に言えば、それは自由で自律した個人が集まって討論する「市民的公共性」がメタ合理性を担保する領域である。これを加味して、現代社会の合理性と公共性の関係を筆者が整理したものがp.185の図である。ここでは、下から順に「ヒューリスティックベースの生活世界」と「メタ合理性ベースのシステム」、「道具的合理性ベースのシステム」の三つの領域が存在する。

 「ヒューリスティックベースの生活世界」では、直感的で素早いが間違いも多い、「人間臭い」やり方で人々の生活が営まれる。いわば、システム1が主に作動する場である。そして、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「メタ合理性ベースのシステム」(具体的には、議会や内閣、NGOなど)との間におけるインタラクションの在り方がいわゆる「市民的公共性」にあたる。さらに、「メタ合理性ベースのシステム」で得られた結論が、「道具的合理性ベースのシステム」を制御(法律の制定など)していく。ここまでは、ハーバーマスが「生活世界」「経済システム」「政治・行政システム」と整理したものにそれぞれ対応している(参考⇒ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』 - 楽楽風塵)。

 厄介なのは、現代では巨大IT企業(GAFAなど)の出現に代表されるように、「市民的公共性」とは異なる形で、市民と統治システムの間における独自の相互作用を生み出している点である。それを本書では「アルゴリズム的公共性」と呼んでいる。これが、「メタ合理性ベースのシステム」を飛び越えて、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「道具的合理性ベースのシステム」をつないでいる。市民がビッグデータを提供するかわりに、巨大IT企業は功利主義的思考にもとづいて設計されたアーキテクチュアを提供しているのである。

 昨今、問題化しているのは、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化し、「道具的合理性ベースのシステム」がより露骨に生活世界の統治を行っていることである。残念ながら、これを防ぐ方法は現在のところ、「メタ合理性ベースのシステム」(議会など)を通して、「道具的合理性ベースのシステム」を制御する制度を作るぐらいしかない。それを代表するものが、2016年に欧州で制定された「GDPR(一般データ保護規則)」である。

 翻って中国はどうだろうか。中国の現状を見ると、各国以上にこの「アルゴリズム的公共性」が肥大化していると言える。そもそも歴史的に「市民的公共性」が成熟していない地域では、その代替物として「アルゴリズム的公共性」が強化される傾向にある。そして、5章で見たように、中国ではもともと国家も市民社会も必ず「天理に適う」ことによりその正当性が担保される「天理」という概念が存在した。この儒教的な「天理」による公共性の追求は、アルゴリズムによる人間行動の支配への対抗軸になるというよりも、むしろそれと一体化する、あるいはそれに倫理的なお墨付きを与える可能性が高いと筆者は述べている(p.196)。そして、この「道具的合理性ベースのシステム」が暴走した果てにあるのが、現在のウイグルの惨状である(第7章)。

 

 この本の白眉はこの5章、6章だろう。現在の中国の状況を、中国の文脈で語り、かつ「公共性」「功利主義」などの概念を媒介することによって、問題を中国だけに終わらせることなく、あらゆる地域に共通するものとして議論を活性化を促している。今年読むべき良書。

 

 

 

ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり

 ケン・ローチの最新作"Sorry We Missed You"を見た。

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www.youtube.com

 

 結論から言うと、本当にやるせないストーリーだった。前作『私はダニエル・ブレイク』と比べて、かなり希望を削ぎ落した仕上がりになっている。それぐらい監督の現実に対する切迫感や危機感も大きくなっているということだろうか。上映時間は100分と短いが、全編にわたって悲痛が漂っている。

 ストーリーは、元建築労働者のリッキーが「ゼロ時間契約」の配達ドライバーとして雇用される場面から始まる。最近では、「ギグエコノミー」と呼ばれる、職場と正式な雇用契約を結ばずに、自らの裁量で仕事量や時間帯を選ぶことができるとされる職業である。元の職場をクビになってから様々な職を転々とし、借金も抱えるリッキーは、「自営」で「自由に働ける」という言葉につられて、宅配に必要な車両費などは自らが負担するという条件を飲んでその職を引き受ける。

 最初は、「2週間くらい14時間休まず働けば、車両費も払い終わる」と意気込んだリッキーだったが、それがいかに難しいことかを徐々に悟っていく。それは健康に、他に何も問題が起きなければ可能な未来だったかもしれない。しかし、リッキーに様々な問題が降りかかってくる。しかも、それは子供の不祥事や暴徒による傷害事件など、現実としてギリギリ起こりうる問題なのである。

 リッキーは家族のことを第一に考える善良なる市民である。しかし、「家族が第一」「家族と一緒に幸せに暮らしたい」、そう願えば願うほどに家族が崩壊していく。終盤で「何かがおかしい」とつぶやくリッキーとアビー(妻)は、しかしそれがなぜなのかは分からない。そして、ラスト、家族の制止を振り切って、リッキーは仕事場へと車を走らせる。悲痛の涙を流しながら。

 

 本当にやるせない。家族の中の誰も悪くないのである。

 中盤に、息子のセブがけんかの腹いせに父リッキーのバンの鍵を奪ったと疑われるシーンがある。バンが使えないリッキーは当然職場に行くことができず、仕事場からさらなる罰金を追加されてしまう。家出から帰ってきてなお反抗的な態度を取るセブに対して、リッキーは思わず手をあげてしまう。妻アビーの暴力的な父を心底嫌っていたリッキーは追い詰められて、その父と同じ過ちを繰り返してしまうのである。家族のヒビはどんどん大きくなっていく。

 しかし、後になって、リッキーの鍵を取ったのはセブではなく、娘のライザであることが発覚する。なんでそんなことをしたのか。問いかける父にライザは「だってキーがなければお父さんは仕事場にいかなくてすむでしょ」と涙ぐみながら答える。娘の涙に家族はやっと誰も憎む必要がないのだと気づくのである。

 言ってしまえば、みんながどこかで間違いを犯し、だからこそ誰も責められない。それぞれの過ちがボタンの掛け間違いのように、少しずつ家族全体の絆を壊していく。あえて、その根源を求めるならば、最初にリッキーが多額の借金で配達のためのバンを買ったことだろう。そこからすべてが壊れ始めたのである。

 

 ここまでの話だけだと、本作は単なる一つの家族を描いたドラマに過ぎないように聞こえる。だが、本作は「家族問題」だけでなく、やはりどこまでも「労働問題」を描いたドラマである。それはおそらくローチを敬愛する是枝裕和監督と決定的に異なる点だろう。

 そもそも、いま言ったような家族トラブルはあらゆる家庭で起こりうる問題である(だからこそ、観客の心をひくのである)。では、世の家族はこういった危機をどのように回避しているのか。それは例えば、そもそも配達用の車両を自腹なんかで払わせずに支給したり、有給休暇で職場に仕事を休ませてもらったり、不慮の事故に対しては労災認定による保険をもらったりなどである。世の中にはあらゆるリスクに対して、労働者が保護される制度がある。それがあるからこそ、不慮のリスクを人々は乗り越えることができるのである。

 だが、本作で描かれる人々にはそのような制度が存在しない。あらゆるリスクが自分、そして家族に降りかかってくる。それはリッキーに限らず、訪問介護の仕事をする妻アビーも同様である。訪問介護の移動費は自腹である。心優しいアビーはその優しさゆえに訪問先のおじいちゃんおばあちゃんを心配して、自ら仕事を引き受けてしまう。そして貧困のスパイラルにどんどん落ちていってしまう。それも全て雇用主が被雇用者を守るという大前提を手放したからである。

 そして、本作で印象的だったのが、労働者同士の連帯の兆しが一切見られない点である。それは従来の労働者像とはかけ離れた様相である。確かに、宅配ドライバーたちが倉庫で軽く会話をする、宅配のノルマを手伝ってもらうといった従業員としてのコミュニケーションは存在する。だが、それはみなが「労働者」として雇用主の横暴に反抗するような連帯を生むようなつながりでは決してない。それを裏付けるように、劇中でドライバー同士で仕事を奪い合う、あるいは仕事を押し付け合うといった場面が描かれる。そして、しまいには雇用主の横暴をきっかけにドライバー同士のけんかが勃発する。労働者みんなでその怒りを雇用主に向けるということには帰結しないのである。それほど労働者がモナド化しているということなのだろう。これがギグエコノミーと呼ばれる職業の決定的な特徴ではないだろうか。

 

 移民問題などでも積極的に発言している望月優大氏が以下の記事でこのように述べていた。

gendai.ismedia.jp

 

ギグエコノミー時代の自営業者にとって、自由はいつも条件付きだ。だからこそそれは全くもって自由に見えない。そして、最後には必ずこう言われるのだ。わかっていると思うが、お前の代わりなどいくらでもいる。逃げ出した彼ら〔=技能実習生〕を「犯罪者」かのように見なす社会、それから貧しいリッキーを怠惰な「ルーザー(敗者)」として見なす社会、それらは本質的に同じものを共有している。つまり、ゲームの結果だけを見て、ゲームそのものに組み込まれたアンフェアさを見ない。

 「自営」や「自由」という言葉につられたリッキーは本当に自由を手に入れたのだろうか。

綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』

 2年越しの懸案事項(修論)が無事着陸態勢に入ったので、ぼちぼちブログを再開します。

 この2年間、だいぶ世情に疎くなってしまったと思う。というのも、修論執筆中はほとんどそのテーマに手いっぱいで、例えば記事やニュースを追っていても、そのテーマを中心に考えてしまうからである。「あ、このニュースはあそこに使えるな」とか「この本は自分の修論にも通じるかも」とか。もちろん、そういう軸足が一つあると、その分効率よく情報を収集することができるんだけど、逆に言うと、思考のゆとりがなくなってくる。つまり、「使えるかどうか」で情報を取捨選択していってしまう。だから、最近の世の中の流れとかにどうしても疎くなってしまうのである。

 ということで、年の瀬ということもあり、これから今年読んだ本なんかを振り返りながら、世の流れにキャッチアップしていこうかなと思う。

 

 まず第一弾は、今年読んだ本の中でも格段に面白かった、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。」について。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

  • 作者:綿野 恵太
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 帯なんかにも書いているが、本書は今みんなが思っているけれど、なんだか言いづらいことを平易な概念で整理していってくれている。新たな洞察を加えるものというよりも、これからみんなが議論を深めていく際の橋頭保になる本といってもいいかもしれない。

 目次は以下の通り。

まえがきーーみんなが差別を批判できる時代 アイデンティティからシティズンシップへ

第1章 ポリティカル・コレクトネスの由来

第2章 日本のポリコレ批判

第3章 ハラスメントの論理

第4章 道徳としての差別

第5章 合理的な差別と統治合理主義

第6章 差別は意図的なものか

第7章 天皇制の道徳について

あとがき ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび

 

 まず、まえがきでは本書を貫く図式である「アイデンティティの論理」と「シティズンシップの論理」の整理がなされている。この二つは共に反差別のロジックではあるが、差別を批判する際の論拠が異なる。これを筆者は、カール・シュミットの「自由主義」と「民主主義」の対比をもとに整理している。

 シュミットによれば、「自由主義」は「討論による統治」を信念としている。そして、討論を行うためには「公開性」は確保されていなければならない。議会の中でどのような議論が行われているかを市民は知れなければならないし、市民の声を届けられる回路がなければならない。そして、そのためには、「言論の自由」「出版の自由」「集会の自由」「討論の自由」が必要になってくる。このようなロジックで整えられたのが、現代の立法権・行政権・司法権であり、現代議会主義である。

 一方、「民主主義」は「同一性」を特徴として持つ。シュミットは以下のように言う。

治者と被治者との、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体との同一性、国民と議会における国民代表との同一性、[国家とその時々に投票する国民との同一性]、国家と法律との同一性、最後に、量的なるもの(数量的な多数、または全員一致)と質的なるもの(法律の正しさ)との同一性、である。(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』p.23)

 人々が話し合いによって何らかの合意に達するためには、ある程度の同一性が不可欠である。なぜなら、全くの利害関心の異なる他者が寄り集まっても議論の妥協点を見つけることは不可能に近いからである。だから、例えば「日本人だから」といった民族の共通項を見つけることによって人々は民主主義をやっと成立させることができる。

 このような、民主主義と自由主義の対比は、そのまま「アイデンティティの論理」と「シティズンシップの論理」に当てはめることができる。

アイデンティティ・ポリティクスとは、社会的不利益を被っているアイデンティティを持つ集団が結束して社会的地位の向上を目指す政治運動だった。たとえば、黒人という人種、女性という差別、朝鮮人という民族といったさまざまなアイデンティティに基づいた政治運動が存在するが、しかし、それらはすべてアイデンティティの「同質性」をもとにしているために、シュミットの区分にしたがえば、民主主義に属するものであるといえる。

いっぽうで、シティズンシップの論理は、あるアイデンティティを持った「集団そのものの尊厳」ではなく、「平等なシティズンシップの尊厳」を守るものであった。つまり、シティズンシップの論理では、「市民」という「個人」の権利が重視されている。そして、シュミットの区分にしたがえば、個人の権利、人権もまた自由主義的な考えであった。(p.20ー21)

 シュミットが予見した、この「アイデンティティの論理」(民主主義)と「シティズンシップの論理」(自由主義)の対立は、現在世界のあらゆるところで散見される。例を挙げるならば、ポピュリズム、排外主義、反緊縮運動、Metoo運動、性表現規制論争、ポリコレ論争、等々。これらの同時多発的な運動や論争を二つの論理の対立としてつなげた点にこの本の新規性がある。

 

 第1章では、「政治的正しさ」(ポリティカル・コレクトネス、以下「PC」)発祥の地であるアメリカで、この言葉がいかなる経緯であらわれたのか、そしてどのようにその意味内容を変質させていったのかが描かれる。

 最初に、PCが公共的な言論の場において登場したのは、1960年代以降に台頭した「新しい社会運動」の中であった。新しい左派が、1960年代以前の古い左派の教条的でセクシスト的・レイシスト的な姿勢を批判するためにこの言葉が使われていた。つまり、当初、PCは左派が自らを「アイロニカル」に批判する際の語法として用いられていたのである(p.37)。

 だが、1990年代ごろに語法の変化が生じ始める。保守派が、大学におけるリベラルな教育や積極的是正措置(アファーマティブ・アクション)を批判する際の論拠として、PCが用いられ始めたのである。1991年5月には、ブッシュ(父)大統領もミシガン大学の卒業式講演で、当時大学で導入されていた人種差別や性差別に関する「スピーチコード」に対して、「〔政治的に〕正しい行動を要求する改革者たちは、そのオーウェル的なやり方でもって、多様性の名のもとに多様性をつぶしている」と述べ、物議をかもした(p.39)。

 ブッシュの発言には、当時アメリカで吹き荒れていた「文化戦争」の波が関係している。「文化戦争(cultural war)」とは、1988年にスタンフォード大学が一般教養の必修科目である「西洋文化」を「文化・思想・価値」という科目名に変更したことに起因して起こった論争である。当時は積極的是正措置によって「多文化教育」が唱えられており、いわばそのバックラッシュとして保守派が西洋文化の必要性を訴えたのである。

 新保守主義の論者として知られるアラン・ブルームアメリカ・マインドの終焉』や、歴史家アーサー・シュレージンガーJr.『アメリカの分裂』はそのような「文化戦争」のさなかにしきりに読まれた。両者の主張は、私的領域での文化の多様性は認めつつも、公的な面では文化の統一性が必要だとする「文化多元主義」に属し、共通する特徴として、①マルクス主義と「新しい社会運動」(アイデンティティ・ポリティクス)に連続性・同一性を見ること、②国家統合の理念の擁護、③ポストモダン(ポストコロニアニズム・多文化主義)批判が挙げられる(p.53)。

 これらの一連の論争を整理すれば、1990年代に「スピーチコード」のように大学がこぞって取り入れていった多文化主義教育は、各民族の同質性を確保しようとする意味で「アイデンティティの論理」に属する。そして、ブルームやシュレージンガーの批判は、アメリ憲法のもとに「一つの人民」としてあらゆる人種や民族が「同化」することを目指している点で「シティズンシップの論理」に属する。

 したがって、1990年代のアメリカでは、ブルームやシュレージンガーはシティズンシップの立場から、アイデンティティの側にある多文化主義を批判していたと言える(シティズンシップ→アイデンティティ)。そして、その際に用いられた論拠がPCであった。しかし、ここで現代日本を見てみると、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスであるネット右翼が、反差別的な言説を攻撃する際にPCという言葉を用いている。つまり、現代日本では、PCという非難がアイデンティティ→シティズンシップに向かっているのである。言い換えるならば、PCは同じ差別を批判する語法でありながら、その基盤とする論理が時代を経て変化しているのである。

 

 以上のアメリカにおけるPC批判の変遷を日本に適用してみると、どのような展開がみられるだろうか。第2章では、日本のポリコレ批判が検討される。結論から先に述べると、日本の場合、左派による戦争責任の追及も、それに対する右派の反発も、「民族」という「同質性」に基づいた「アイデンティティの論理」でなされることが多かった。

 まずその手がかりとして、内田樹『ためらいの倫理学』が取り上げられる。内田はポストモダンの思想家たちを「ポリティカリーにコレクト」な人々と批判している。内田による主張をまとめると、以下のようになる。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」に象徴されるように、アイデンティティの論理とは差別の苦しみや不利益は被差別者にしかわからないとする考え方であったが、ポストモダンの思想家はこのようなアイデンティティの論理を尊重するあまり、被差別者=他者と「コミュニケーション」を取ることを断念してしまった。そして、被差別者を「交通不能の他者」として扱うことで、(本来は被差別者のものである)差別の告発を代行する資格を得ようとしてきた。つまり、内田のアイデンティティ・ポリティクス批判の矛先は、マイノリティにではなく、一貫して自らの改悛を介して他罰的にふるまう、代行主義的な日本の知識人に向けられているのである(p.88ー89)。言い換えるならば、内田の倫理学とは、左右のアイデンティティ・ポリティクスに「ためらい」を持ち、左翼的な弱者への同一化も、右翼的な国家への同一化も、ともに拒むことなのである(p.91)。

 このような内田によるどっちつかずの論理は、内田が高く評価する加藤典洋敗戦後論』にその原型を見つけることができる。加藤は同書の中で、戦後日本はドイツのように戦争責任を十分に反省せず、GHQによって押し付けられた平和憲法を無批判に受け入れたことから、「護憲派」と「改憲派」の二つの人格に分裂したと説いた。そして、その分裂を乗り越えるためには、現行憲法を一度国民投票で選びなおし、二千万のアジアの死者への哀悼の前に悪い戦争に駆り出されて死んだ死者を、無意味なまま深く哀悼しなければならないという。これは、アメリカ合衆国憲法における「市民」に代わるものとして、日本国憲法をそのまま今度は主体的に選びなおすことで「新しいわれわれ」=「公共性」=「シティズンシップ」を打ち立てようとする主張であった。

 そして周知のとおり、『敗戦後論』に対しては、ジャック・デリダの研究家であった高橋哲哉によって批判が寄せられた。その趣旨は、加藤の主張は偏狭なナショナリズムでしかなく、むしろ戦争の被害者や犠牲者の呼びかけに対して応答することが責任なのだと主張した。だが、両者の論争は少しかみ合わない部分が存在する。というのも、加藤を偏狭なナショナリズムと批判する高橋も、植民地支配に抵抗する被支配民族のナショナリズムには「すべての植民地支配の否定につながる普遍性の通路が含まれている」と擁護しているからである(p.101)。整理すると、加藤と高橋はそれぞれのやり方で「アイデンティティの論理」を越えることを模索していながら、議論の展開が不十分なため、双方が論争相手から「アイデンティティの論理」に陥っていると批判されていたのである(p.102)。

 そういった意味で、加藤、高橋以上にナショナリズムを超え出ようと模索していたのは、上野千鶴子であった。上野は、加藤に対して「死者に「国境」を引くことで、「日本人」の国民的主体を構築しようとしている」と批判しながら、かつ高橋に対しては「わたしには被抑圧民族のナショナリズムは正しい、と言い切ってしまうことができない」、「ナショナリズムの中では個人と民族とを同一化することで「われわれ」と「彼ら」を作り出しているが、この集団的同一化は、強者・弱者のいずれのナショナリズムの場合にも、罠としてわたしたちを待ち受けている」と批判した(p.102ー103)。そして、アイデンティティの閉鎖性が抜け出て、NGOといった「市民」の活躍に期待を寄せている。

 と、このようにアメリカと比較して、日本のアイデンティティ/シティズンシップ論争は以上のように進んできた。アメリカと比較した時に、憲法論争のなかでアイデンティティの論理が介在してしまう背景には、そもそも日本国憲法における「国民」がnationを指しており、アメリ憲法におけるpeople”(人民)が明記されていない点があると筆者は言う。加藤が言うように、「国民投票」で憲法を選びなおしたとしても、そこには「人民」、例えばサンフランシスコ平和条約日本国籍を除籍された在日朝鮮人や台湾人が含まれていないのである。

 

 日本のポリコレ批判の源流をたどると、「戦後民主主義」に関わる論争が見えてきた。しかし、これらの言説は現在の「ポリコレ」の語法からはかけ離れている。第3章で検討されるのは、現代日本におけるポリコレの語法の変化である。結論から先に言うと、いま我々が「ポリコレ」と呼んでいるシティズンシップの論理は、1章で見たアメリカの大学におけるスピーチコードが公共空間に広がったものなのである。言いかえれば、それは「ハラスメント規制の論理」である。

 日本においても、NHKが特設サイトに「キズナアイ」を起用した件や、最近だと、赤十字社献血ポスターに「宇崎ちゃん」を起用したことによって、いわゆる「萌え絵」に対してセクハラ表現にあたるのではないかという批判が寄せられた。このような性表現規制に関しては、アメリカで先んじて議論されてきた。1980年代には、弁護士のキャサリン・マッキノンと法哲学者のアンドレア・ドウォーキンがポルノグラフィ規制条例の制定を求める運動を行っている。その際、マッキノンは、「市民」としての尊厳を傷つけるがゆえにポルノグラフィを規制せよと主張した点には注意が必要だろう。つまり、マッキノンは女性によるアイデンティティの論理ではなく、シティズンシップの論理によって自らの主張を正当化したのである。

 具体的に、マッキノンは、①ポルノは出演する女性に直接危害を及ぼし、性的に搾取している、②ポルノを視聴することが女性への性暴力の原因になっている、という二つのポイントからポルノグラフィを批判した(p.135)。特に大きな論点となったのが、②のポルノ視聴と性暴力の因果関係の有無である。実際、その因果関係を証明する研究は出てきていない。結局、ポルノグラフィ規制法はアメリ憲法によって保護された表現の自由を侵害するとして認められなかったが、その代わりに「セクシャル・ハラスメント」という考えが性表現を規制する論理となった。そして、職場に性的なポスターを飾ったり卑猥な会話をしたりすることで職場環境を悪化させる「敵対的環境型ハラスメント」の適用範囲が、職場や学校を越えて公共領域全体へと広がっていった。これがアメリカにおいて「ハラスメントの論理」が流布していった大まかな流れだが、日本におおいても同様の経緯だろう。

 そして、ハラスメントにはセクハラだけでなく、人種に基づいた「レイシャル・ハラスメント」も存在する。1章で見たように、アメリカでは、1990年代ごろから徐々に大学などでのヘイトスピーチを罰する規定が出てきたが、そんなアメリカですら、州を跨いだヘイトスピーチ規制法成立は実現していない。性表現同様、ヘイトスピーチと特定の人種や民族を標的とした犯罪との因果関係が解明されていないからである。では、ヘイトスピーチはどのようにして規制すればよいのか。アメリカの法学者ジェレミー・ウォルドロンは、たとえ因果関係が証明されなくても、ヘイトスピーチやポルノは「公共の秩序」「社会の尊厳ある秩序」という観点から規制すべきだという。

 ウォルドロンが重視するのは、「秩序ある社会」という「見かけ」である。「社会の見かけは、その成員に向けて、社会が安心を伝える主要なやり方のひとつ」であるとウォルドロンは言う。彼がここで言う「安心」とは、「彼らはみな等しく人間であり、人間性に備わっている尊厳をもつこと。彼らはみな正義に対する基本的な権限をもつこと。そして彼らはみな、最もひどい形の暴力、排除、尊厳の否定、従属からの保護に値すること」に対する「安心」である。(『ヘイト・スピーチという危害』p.96ー98)。つまり、ヘイトスピーチ規制法とは、「秩序ある社会」という見かけによって、「市民」としての「尊厳」が重視されるというメッセージを伝え、人々を「安心」させるものである(p.145)。このような「安心」は、統計や社会学的調査といった客観的データではなく、きわめて主観的な感情に拠っている。果たして、このような主観的な「安心」や「快/不快」といった感情によって、表現を規制する法律を作ることはできるのだろうか。ポリコレをめぐる分断はこういった部分に起因するのである。

 

 と、以上の3章までの議論が、昨今の論争をアイデンティティの論理とシティズンシップの論理で整理した部分である。続く4章では、認知心理学などの最新の知見において、人間が「認知バイアス」によって普遍的に差別(差異化)意識をもっており、それをジョナサン・ハイトの研究からリベラリストにおいても同様であること、そして現代レイシズムがこれらの知見を動員し、エビデンス主義と結びつくことによって自らのアイデンティティ・ポリティクスを正当化していることなどが述べられる。5章では、上で挙げたシティズンシップの論理における「安心」への渇望が、いま中国に急速に実装されようとしている「統治功利主義」へと容易に共振してしまう可能性を指摘している。

 では、我々はアイデンティティの論理でもなく、シティズンシップの論理でもない、どのような論理によって差別を批判すればいいのだろうか。残念ながら、本書ではその答えは明示されていない。しかし、昨今のTwitterなどで繰り広げられる不毛な議論を交通整理するには、本書の議論はかなり有効であろう。