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東日本大震災から9年後の福島を歩く いわき編

 2019年3月、思い立って福島に二泊三日の旅行に行った。

 実は東北に足を踏み入れること自体が今回初めて。思い返せば、東日本大震災が起きた2011年はまだ高校生だった。当時、部活が終わってケータイを確認すると、原発から煙が出る映像を目の当たりにし驚愕したのを覚えている。ただ、その時には事の重大さを理解するにはまだ幼すぎた。九州で高校生をやっていた私には、大人たちのうろたえる姿を横目に、一連の騒動がどこか遠い地域の出来事のように感じられたのである。

 あれから9年。震災や原発関連の書籍、映画などをつまみ食いしながら徐々にそれが他人事ではないということを実感できるようになった。ちょうど忌まわしきコロナのせいでパリに旅行に行く計画もおじゃんになった。しかもそんな折、これまで通行止めになっていた常磐線富岡ー浪江区間が今年の3月14日に開通するというニュースが飛び込んできた。善は急げということで、思い切って常磐線特急券を買ったという次第である。

 旅行の区間は当初、いわきから相馬まで常磐線でゆったり北上していくプランを立てていたが、3月20日に強風により常磐線のいわき以北区間が運休になったため、急遽プランを変更し、浪江町までの旅行となった。運行再開から一週間足らずで運休って…とは思ったが、旅にトラブルはつきものである。

 いわき編を書いた後で、富岡ー浪江間の写真が200枚ほどすべて手違いで削除されてしまったので(泣)、申し訳ないが今回はいわきまでの旅路を記録する。

 

いわき(3月19日)

  いわきを観光するにあたっては、いわき在住のライター小松理虔さんの本が非常に参考になる。 

新復興論 (ゲンロン叢書)

新復興論 (ゲンロン叢書)

  • 作者:小松理虔
  • 発売日: 2018/09/01
  • メディア: 単行本
 

 小松さんは東浩紀が主宰する「ゲンロン」でも度々寄稿しているライターで、それを一冊にまとめたのが本書である。いわきに拠点を置きながら、「復興とは何か」を考え続けた小松さんの思考の軌跡は、震災にかかわらず地域づくりを考える人にも示唆に富むものになっている。

 小松さんによれば、いわきは二度、街のアイデンティティを喪失したという。一度目は言うまでもなく震災によってである。では二度目の喪失とは何か。それは「復興」の名のもとに防潮堤が作られたり、里山が削られたりしたことによって味わった喪失である。一度目の喪失によってあれだけの悲劇を経験したのだから安心安全のためには仕方ないことだと市民が割り切ってしまった結果、いわきは自らのアイデンティティである青い海すらも捨て去ってしまった。今回の旅ではそんな現実を突きつけられると同時に、「復興」の難しさを改めて痛感させられた。

 

 12時頃、JRいわき駅に到着。驚くくらいの晴天。

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 いわきは新常磐交通というバスが運行しているのだが、沿岸部まで行くにはバスだと少し不便。ということで、事前に近くのレンタルバイク屋で、原チャリを予約しておいた(かれこれ5年くらい車を運転していないため原チャ)。

 まずは腹ごしらえをと、南下してバイク屋のおじさんから聞いた小名浜のら・ら・みゅうに行く。市場はかなり賑わっていて新鮮な魚であふれている。テレビ局がタレントを連れて取材もしていた。子供連れもたくさんいて、憩いの場になっていた。

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とびっこ入り海鮮丼。美味。


 二階のお店で海鮮丼を食べながら小名浜の海を眺める。アクアマリンふくしまの流線形の建物と青い海がマッチにしていてなかなかオシャレ。ひとまず美味しいご飯ときれいな眺めに癒された。

 ら・ら・みゅうを出ると、巨大なイオンモールがそびえたつ。きれいな海から少し内陸に行くと現れる巨大な人口施設。「漁港」というイメージからはかなり想像しづらい光景だ。地元の人からすると買い物をするのにも便利だし、モールで雇用される人も増えて街の活性化につながるのかもしれない。しかし、小松さんが言うように、こういった施設には功罪の両面があるだろう。

 イオンはいつか街を出ていくかもしれない、いわばいわき市民からすれば外資企業である。イオンを外からどかっと作るよりも、小名浜の昔ながらの良さを掘り起こしていくことだって街の活性化につながる。イオンモールに頼り切ってしまうのは果たして正しい選択だろうか。

 そういう疑念を抱くのは、単に小名浜の伝統の保護という観点からだけではない。私は熊本にいた時に地震を経験した。二度の大きな地震が立て続けに起こり、ライフラインは破壊され、食料品や生活物資などの物流はしばらく停止してしまった。幸い、熊本地震の場合すぐに日本全国からの支援物資が送られたため、熊本市民は生活に困ることにはならなかったが、あのときもっとも早く物流の復旧が進んだのが地元の商店街だった。地元の商店街は野菜なり生鮮食品なり仕入先が熊本県内の農家からだったため、個人的なルートを通じて物資を受け取ることができたのである。一方、イオンなどの大企業は全国各地から商品を仕入れるため、地震などの非常時には逆に機動力に劣っていたというわけである。日ごろの便利さと非常時の強さ、どちらを優先するかで全く意見は変わってくるだろうが、功罪の両面を把握するのは必要だろう。

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奥に見えるのが「アクアマリンふくしま」。青い海。



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岸から内陸のほうに少し進めばイオンモールが出現する。

 

 その後、浜通りを北上して久之浜方面へと向かう。その途中、原チャを運転しながら右手に今も建設が続く巨大な防潮堤が見える。海沿いを走っているにもかかわらず海が見えるのはほんの一部区間だけ。それ以外は見飽きたコンクリートと生長途中の植樹林が続くのみである。

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防潮堤。これが延々と浜通りを覆っている。

 

 道中、何やら石碑を発見したので原チャを止めてみると、東日本大震災慰霊碑だった。本当に道中、突然現れる。そこには豊間地区で亡くなった方たちの名前が記名されている。そして、ついでに近くのカフェでポーポー焼きをたべる。

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ポーポー焼き。さんまのすり身で作ったハンバーグ。ヘルシー。



 久之浜地区に到着。いわき市地域防災交流センターに行く。最近できたとあって、かなりきれいである。一階はいわき市役所の支所として使われており、二階以上が震災関連の常設展示がある。当時の様子をうかがい知ることができる。

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 センターを出て防潮堤のほうへと歩いていく。町のほうからは海を一望することはできないのだが、防潮堤を越えるときれいなオーシャンビューが広がる。砂浜では子供たちが遊ぶ光景も。こうやって見れば、鎌倉とか湘南のようなよくある海沿いの町の風景である。9年前、ここを津波が襲ったのが嘘のように思えてくる。

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久之浜地区。震災発生時はこの地区一帯が浸水した。

 

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防潮堤のすぐ横にある小さな社の横には、強い言葉であの日の教訓が書かれている。

 

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防潮堤は一番上は大きな散歩道になっている。浜で遊ぶ子供たち。

 

 最後に、いわき回廊美術館に行く。

 ここは現代美術家の蔡國強がコンセプトデザインを手がけた美術館だが、興味深いことにこの美術館は有志が勝手に創り、勝手に運営している(小松 2018: 277-283)。つまり、国や地方自治体の助成金などは一切絡んでおらず、蔡と、彼の才能を早くから見抜いていた、いわき市在住の会社経営者である志賀忠重らを中心として全て市民の手によって運営されている。だから、展示は非常にユニークで、ほとんど人の家の庭なのか、美術館なのか見分けがつかない。

 そしてだからこそ、ここでは役所の顔を伺ったりすることなくなんでもできる。小松さんが言うように、ここでは表現者がやりたいと思ったことを何でも表現することができる。「地域のために」というお題目ありきでまずはハコモノから作っていくようなアートプロジェクトではなくて、「自分たちが楽しいものを作る」という至極個人的な理由から出発して、それに賛同する人たちがゆるやかにつながっていくことで事後的に「公共性」が生まれる。

 地域アート(というかアート自体がそうかもしれないが)とは、地域の課題を提示する試みである。それはときには目をそらしたくなるようなものかもしれない。だが、アーティストはそれをあえて提示する。したがって、アーティストが「忖度」する可能性はなるべく排除しなくてはならない。蔡のようなアーティストが自由に創作し、それを市民が支えながら課題を共有して解決に向かっていく。これこそが地域アートの理想の形なのだろう。

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龍が点に上っていくイメージで、回廊はうねりながら丘のほうへと続く。

 

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まだ開花時期ではなかったが、数少ない桜をパシャリ。


 私が訪れたときにはなんの展示もしていなかったが、回廊自体は残っていた。美術館に着いたのはすでに17:00ごろだったので、美術館にいたのは私一人。大きな美術館を独り占めさせてもらった。

 丘のてっぺんには小名浜の神白海岸から掘り起こされたサケマス船を使った作品《廻光ー龍骨》が展示されている。自然の流れとともに、この展示も少しずつ朽ちていく。里山を降りて、隣の丘を登ると《墨の塔》も見える。夕日をバックにパシャリ。

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《廻光ー龍骨》



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《墨の塔》

 

 街を回りながら、何人かの方にお話しさせていただいた。どの方も東京から来たと言うと丁寧に受け答えをしてくれた。

 中でも多く話題に出されたのが防潮堤の話。みなさん、防潮堤に関しては様々な意見を持っている印象だった。タクシーの運転手は防潮堤の建設に関して否定的な反応を示していた。いわく、津波が来るときにはまず波が沖のほうに引いていき、そのあとに大きな波が岸に押し寄せる。つまり、引き潮を早めに察知すれば、急いで高台に上ることができるのである。防潮堤によって町から海が見えなくなれば、そういった昔からの知恵が通用しなくなる。海と共に暮らしてきたいわき市民からすると、海が見えないことのほうが不安になるのである。日常の安心を得るために防潮堤を作ったつもりが、かえって市民にとっては不安を増長することになったというわけである。

 しかし、これはあくまでも一人の市民の意見である。例えば、防潮堤のすぐそばに暮らす人はまったく異なる意見を持つだろう。上の写真にも挙げたように、海の近くでは子供と一緒に暮らす家族がいる。子供の安全を第一に考える親の立場になれば、防潮堤は命を守るために不可欠なものである。

 さらに、そもそも震災の記憶を残していくか否かも市民の間には意見の相違があるかもしれない。飲み屋で一緒になったおじいさんは、建設途中の防潮堤を家族と一緒に見に行った際に、奥さんと娘さんが「もういい、見たくない」と言ったためすぐに帰ったという話を聞かせてくれた。つまり、あの巨大な防潮堤自体がある人にとっては震災の記憶を呼び起こすファクターになりかねないのである。そういった人からすれば、悲しい記憶を想起させる防潮堤は必ずしも「安心」を担保してくれるものとはならない。

 福島の外から来た人であれば、震災の記憶・記録を風化させないのは当たり前という感覚があるかもしれないが、現地の人の中には震災から9年が経っても傷が癒えていない人もいるのである。上で挙げたそれぞれの主張はどちらが正しくて、どちらが間違っているということではない。それぞれがいわき市民の言葉である。すべての人々が納得・合意したうえでの「復興」とは一体何なのか、という難しい問題を突き付けられた気がした。