ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』

 最近復刊されたユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』について。

 

 

後期資本主義における正統化の問題 (岩波文庫)

後期資本主義における正統化の問題 (岩波文庫)

 

 

  ついでに、最近復刊された中岡成文『増補ハーバーマスーーコミュニケーション的行為』を参照してみたい。

  正直、何の予備知識もなくいきなりハーバーマスの、しかも『後期資本主義~』を読み始めたわけだけど、当然何を言っているのかさっぱりわかなかった…。そこでちょうど文庫化された『増補ハーバーマス』を手にとってみた、というわけである。後者は読みやすく、ハーバーマスの思考の過程を時系列に沿って把握することができるのでけっこう便利である(ただ、文庫化にあたって付け加えられた最終章は正直蛇足かなとは思ったが)。なので、まずは後者をもとに、『後期資本主義~』を理解するためのアシストになりそうなトピックを挙げて整理しておこう。

 

 中岡によると、ハーバーマスが一貫して抱いているテーゼは、「いかに人間は最終的な合意を目指して理性的にコミュニケーションを交わすことができるか」である。ハーバーマスの先輩にあたるフランフルト学派第一世代のホルクハイマーやアドルノは、理性や啓蒙に潜む「野蛮」に対して警鐘を鳴らし、理性を否定的にとらえていたことを考えれば、これは全く対照的な思想であるといえる。

 しばしば、ハーバーマスの思想は厳格で、それを現実に適用するにはあまりにも規範的すぎるのではないかと称されることがあるが、それは否めない点であろう。したがって、ハーバーマスの(特にコミュニケーション的行為の理論の)思想は、経験的な研究に落とし込むことができる理論と考えるよりも規範理論として捉えたほうが良いだろう、と個人的には考えている。

 

 70年代以降に問題視されるようになった「後期資本主義」とは一体何だろうか。以前クラウス・オッフェの思想を整理した時にも少し言及したが、ここでもう一度整理しておくと、それは自由な市場競争を原理とするリベラルな資本主義(ハーバーマスは『後期資本主義~』でこれを「自由主義的資本主義」と呼んでいる)の末に到達した新たな資本主義の形態である。そこでは、市場の競争はもはや「神の見えざる手」によって自動的に整序されることはなくなり、さまざまな「危機」の発生が常態化している。さらに、そういった経済的な危機を回避するために国家を代表とする政治・行政システムが経済システムに過度に干渉し、管理・組織化しようとする。ゆえに、後期資本主義は「組織資本主義」とも称されることがある。

 では、以上の後期資本主義の時代にはどんな問題が生じるのだろうか。ハーバーマスは、それを『コミュニケーション的行為の理論』の中で「生活世界の植民地化」という言葉で表現しているが、単純化して述べると、それは経済システムと政治・行政システムの肥大化によって、人間がコミュニケーションにもとづいて相互に理解しあう「生活世界」(『後期資本主義~』の中では「社会文化システム」と呼ばれている)が脅かされることを意味している。経済システムは「貨幣」、政治・行政システムは「権力」をそれぞれメディアとして独自に稼働しているシステムであるが、生活世界は(ハーバーマスによると)コミュニケーションを介して個人個人が社会を構成している領域である。

 例えば、生活世界の代表的な領域として挙げられる「学校」は生徒と先生、また生徒同士の相互のコミュニケーションによって成り立つ外部(政治や市場)から独立した空間であると考えられている(これ自体に異論はあるだろうが)。しかし、後期資本主義社会においては、その領域に行政(例えば文科省とか)が深く介入してきたり、経済的な要請が関与してきたりするようになる(大学法人化によって経営が教授以外の経営者によって担われることによって大学が「株式会社化」するなど)。これは学校以外にも、家族や町内会や市民社会などにも当てはまる現象だろう。

 また、「生活世界の植民地化」によってもたらされる危機はこれだけではない。そもそも、後期資本主義社会においては国家(政治・行政システム)が経済システムを管理すること自体が不可能で(これは経済危機の常態化が顕著に表れている現代を見れば明らかである)、国家は経済や生活世界の領域をいっそう管理しようと努めるが、それに失敗し、そのつど「正統性」の所在を問われるようになってくる。つまり、行政がその国家を統治していることの明確な理由が市場、および国民から問われるようになってくるのである。

 これはどういうことか。そもそも、私的利益を追求する市場の企業に、国民の税金で賄われている公的な財源を投入すること自体が矛盾をはらんでいる。しかし、国家は右肩上がりの経済成長に裏付けされた健全な財源をもとに再分配政策(米国のニューディール政策など)を通じて矛盾が露呈しないように努めてきた(正統性の証明)。こういった時代では、国民は政治・行政システムが健全に運営されているかどうかを意識的にチェックすることはほとんどない。だが、政治・行政システムの運営が不十分であると気づけば、政治権力への支持は低下し、政治システムへの要望も拡大していく。しかし、拡大する要求に対してますます国家は対処できなくなっていく、というわけである(正統化の危機)。

 これが『後期資本主義~』の中でハーバーマスが述べている議論の骨子である。さらにハーバーマスは、後期資本主義社会に突入し、政治・行政システムおよび経済システムに危機が生じれば、生活世界においても「動機付けの危機」に見舞われるという。例えば、自らの要望が政治システムに影響を及ぼさない、また市場の混乱によって努力して勉学に励んでも立身出世できないことが分かれば、国民は自らの暮らしている社会にコミットする動機を失っていくだろう。社会化によって人々に価値や規範を与えていた生活世界が枯渇化することで、人々は自らのアイデンティティを構成することもできなくなっていく(人々は社会化を通して他者を受容することで同時に自らのアイデンティティを取得していくから)。以上の結果、すべての領域(政治・行政システム、経済システム、生活世界)が機能不全に陥っていくのが後期資本主義社会なのである。

 

 以上が、『後期資本主義~』の中で指摘されている当時(1973年)の社会が陥っていた隘路である。いささかディストピアにすぎる時代診断かもしれないが、この予想は現代でも(政治・行政のアンバランスを見るにつけ)適用できると思う。では、我々はこのようなディストピアを甘んじて受け入れるしか道はないのだろうか。ハーバーマスは違うという。そこで彼は、コミュニケーションを通じてもう一度生活世界を再構成することを目指すのである。以下、簡単に『コミュニケーション的行為の理論』の議論を整理してみよう。

 ハーバーマスによると、人々がコミュニケーションを行う際に取りうる妥当請求には、「真理性」「正当性」「誠実性」の三つがあるという。「真理性」は何事かを他者に述べる際にそれが客観的な事実に合致していること、「正当性」はそれが当該の社会の規範から見て正しいこと、「誠実性」は他者に対して述べた事柄を本人が本当に考えていること(自らの本心に反したことを述べているか否か)をそれぞれを指しており、コミュニケーションを行う際は、この三つを他者に対して問い、最終的な合意に達するまで対話が続けられるのである。

 例えば、ある学校の一場面を想像してみてほしい。先生が生徒に「水を一杯汲んでくれ」と頼んだ時に、生徒は先生に対して三通りの妥当請求をすることができる。①「真理性」の請求:もし水が教室から遠い場所にある場合、生徒は「水を汲みに行ったら授業が終わってしまう」と反論することができる。②「正当性」の請求:先生という立場を利用して、より立場の弱い生徒に「命令」している(規範に反している)と反論することができる。③「誠実性」の請求:先生が本当に水を欲しているのかのどうか(もしかしたらその生徒への意地悪で欲しくもないのにわざと汲みに行かせるのか)を問いただすことができる。

 実際は、上で挙げたような三通りの方法できれいに分類することはできないし、グラデーションになっている場合も多いだろう。だが、「理念型」として整理すれば、妥当請求は以上の三つに大別され、人々はこれを何通りも繰り返す中で、皆が納得できるような最終的な合意へと達することができるとハーバーマスは述べる。

 英米の言語行為論を吸収したハーバーマスは、それをコミュニケーション的行為に応用して独自の理論を構築した。もちろん、この理論に対しては様々な異論が提出されてはいるが(例えば、言語を解さない動物や胎児、障碍者などをどうやって対話のアリーナに組み込むのか、最終的な合意には本当に達することができるのか、結局どこかで妥協することになりそこには不平等な権力構造が影響してしまうことになるのではないかなど)、神経質なまでに人間の「合理性」を追求した彼の思想には不思議と力強さがある。中岡が著書の中で指摘するように、ウェーバーが『プロ倫』において政治や経済(近代資本主義)の合理化を人間の意識の合理化(プロテスタンティズムエートス)に結び付けて解明しようとしたのとは反対に、ハーバーマスはあくまで政治や経済(システム)とは違った形での人間の合理化、つまり生活世界における人間の理性を啓蒙することを志向しているのである。

 

 さて、これでいよいよ『コミュニケーション的行為の理論』を読む手はずは整ってしまった……。いつか、都合のいいタイミングで着手しようと思います……。