佐藤成基「国家の檻」

 これまた佐藤成基先生の論文だが、今回は「国家の檻ーーマイケル・マンの国家論に関する若干の考察」という論文を取り上げる。以下にPDFを貼っておく。http://www.t.hosei.ac.jp/~ssbasis/53-2sato.pdf

 マイケル・マンは正直日本ではあまり知られていないが、アメリカではかなりの著名な歴史社会学者らしい。私もまだマンの邦訳すら読んだことないので、ここではそのための予備的な整理をしておきたい。

 

 マンはウェーバーやギデンズの国家論を下敷きに独自の国家論を構築し、「社会的力social power」という概念をもとに近代以前から国家の発展史を描き出している(邦訳はいまだに半分しか出ていないらしい。2,3年前にやっと最後のパート3,4が原著で出ている)。

 本論稿では、まず整理のために、ウェーバーとギデンズの国家論が述べられている。ウェーバー社会学的な立場から初めて「国家」を研究の俎上に載せた人だが、彼が考えていたのは、官僚制によって支えられた上意下達式の「命令」にもとづいて統治された組織としての国家であった。「鉄の檻」という比喩からも分かるように、それは上から下へ、そして合理的・合法的な、没人格的で強固な統治体系であった。

 一方、ギデンズは『国民国家と暴力』の中で、ウェーバーの「国家は唯一合法的な暴力を独占する組織である」というテーゼを下敷きにしつつ、新たにフーコーが『監獄の誕生』の中で表した「監視」の概念を国家に応用して独自の国家論を構築している。近代的な国家は常に上から下への命令に基づいて運営されるだけではやっていけない。むしろ、組織の成員が自己規律的に行動してくれたほうがよい。そこで、国家は「命令」ではなく、「監視」(この場合の「監視」は言わずもがなフーコーの「パノプティコン」的な監視を指す)をもとに人々の行動をルーティン的に規律化する統治体系を築いていったのである。

 (余談だが、ギデンズのフーコー理解は正しいとは言えない。フーコーは「権力」の作用は上から下へと伝わっていくものではなく、個人間で網の目のように張り巡らされ、誰が支配者で、誰が服従者なのかもはや分からないようなより複雑なものだと捉えているからである。)

 いずれの国家論も、①国家の権力の一方向性、②国家の一体性、③国家の完結性という点では一致しているが、マンの国家観は全く異なる。以下、詳しく見ていこう。

 上の二人の国家論を仮に「専制的国家論」と名付けるのならば、マンの考える国家は「多形性的polymorphous国家」である。マンは、「社会的力」を「経済的力」、「イデオロギー的力」、「軍事的力」、「政治的力」の四つの力が絡み合うことによって発揮されると捉える。この中で国家は「政治的力」(権力)に対応する領域である。

 多形性という表現からも分かるように、マンは国家をウェーバーやギデンズのように一方向的な権力(支配)の押し付けによって成り立っているとは考えない。むしろ、国家は社会の諸アクターとの相互連関によって作動するものなのである。その点で、国家は暴力や脅しのような「むき出し」の権力ではなく、マンが言う「インフラストラクチャー的権力」を駆使することで社会に存在感を示している。この「インフラストラクチャー的権力」とは、国家の諸機能を担うエリート層と社会の諸アクターとの間の関係を調整する権力のことを指す。この権力が作用する場面としては、例えば、議会、裁判所、学校、保健所、、、などの政治家や市民、または市民の代表団体が一堂に会するような場が思い浮かばれるだろう。

 そのため、「インフラストラクチャー的権力」は、ウェーバーがいう権力とは違ってしばしば諸アクターからカウンター、反発をくらうこともある。しかし、その反発も含めて、国家と市民社会が相互に浸透し合うことで、国家は市民社会を組織化(国家帰属化=自然化naturalize)するのである。

 同時に、国家の社会的な機能の増大(「民政管掌範囲」の拡大)によって、「誰がその権力を統御するのか」という権力配分をめぐる闘争も政治家間だけでなく、市民社会(この中にはNPOや企業、労働組合などが含まれる)も巻き込んで激化していく。これによってシティズンシップの議論も拡大していく(民族に限らず、労働者、性的マイノリティなども)。しかし、これらの激化する社会紛争もまた、国家の「形」を変える要因にもなる。これが「多形性的国家」たる所以である。

 

 以上が本稿の中で取り上げられていたマンの国家論であるが、ウェーバーやギデンズのそれと比べてはるかに国家の変化を規定する要因が増えていることが分かる。この中で議論されていることは正直「確かに」と首肯せざる得ないものだと思うが、国家の規定要因が増えていき、「これら全部が国家の変化に影響を与えているんだよ」と言ってしまえば、かえってその正否を検証できないというデメリットも生じるはず。マンの議論をいかに経験的検証の中に落とし込むかが課題だろう。

 また、「多形性的な国家は、その内部に紛争を内包した権力闘争・利害闘争の場」であるという記述があったが、この「場」という言葉からは、ブルデューのそれを思い出した。もしかしたらブルデューの国家論とも接続可能なのではないだろうか(最近ブルデューの晩年の国家論が英訳で出たらしい)。ここらへんは要確認である。