E・デュルケーム『自殺論』

 

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 

 

言わずと知れた社会学の名著、『自殺論』について。

本書を初めて読んだのは、大学2年生の頃だったと思う。当時は社会学について専門的に学び始めたばかりで、ただただ退屈で通読するのが苦痛だったことを覚えている。

そして今読み返してみると、あら不思議。ここまで単純明快で、かつ社会学の基礎が詰まった本は他の入門書なんかを読んでみてもなかったのではないかとすら思える。

本書はタイトルが示す通り、「自殺」という社会現象を論じているわけだが、これが社会学の学部生の必読書として確固とした地位を占めている理由はそれだけではない。本書の「自殺」を論じるにあたって取られている分析・実証の方法が、今でも色褪せず模範として参照できるのである。それはどういうことか、以下で見ていこう。

 

デュルケームが本書で明かしたいことはつまりこういうことである。

「自殺とは社会の性質によってその促進率や抑制率が変化する」

今となっては、これは自明のことのように思えるかもしれないが、当時ではあまりポピュラーな考え方ではなかったようである。というのも、当時は(今もそうかもしれないが)自殺は気候や個人の性格、宗教、家族、民族的な気質などに起因していると考えられていたからである。だから、自殺者に対しては、「冬だから憂鬱で」とか、「あの人はよく思い悩む質で」などの言葉で済まされていた。

しかし、デュルケームはそれに異を唱える。そういった自殺の原因や分類は、全く科学的に立証されたものではなく、個人的な肌感覚で下された判断でしかないからだ。彼は前著『社会学的方法の基準』で、「社会も科学の対象となりうる」という命題を打ち出していた。それは本著でも一貫している。

社会学者は、社会的事実にかんする形而上学的思弁に甘んじないで、はっきりとその輪郭をえがくことができ、いわば指でさししめされ、その境界がどこからどこまでであるかをいうことができるような事実群を、その研究対象とし、断固それととりくまなければならない。また歴史学民族誌統計学などの補助的分野をたんねんに参照しなければならない。(p11) 

 自殺を論じるにあたって、主観的な価値判断や、また「自殺は反道徳的な行為だ」と倫理的な判断を下すことを避け、客観的なデータを用いて「社会的事実」のみから分析しなければならないとデュルケームは言うのである。

そしてそれを実践するために、本書でデュルケームは膨大な数の統計データを利用している。当時(19世紀後半)のことを考えると、分析に耐えうるだけの統計をまず収集すること自体が難しかったはずである。しかし、デュルケームは甥のマルセル・モースや論敵であったタルドの協力を得て、フランスだけでなくヨーロッパ各国の資料をかき集めている。そこに本書が100年以上経った今でも参照され続ける理由の一端がある。

 

 さて、では本書の分析の中身を見ていこう。

デュルケームは上に挙げた仮説を立証するにあたって、まず予想されうる反論や他の主張を論破していく。これが「第1編 非社会的要因」の中で行われているわけだが、ここだけで100ページ以上も費やしている。そしてそれらも、客観的な統計資料を使うことで行われるため、非常に明快でその主張には力強さがある。

例えば、デュルケームは自殺の主要因と考えられているものとして、「有機的・心理的傾向」と「物理的環境の性質」の二種があるという。前者は、個人の性格や人種、遺伝、精神病などが自殺の原因であるとする主張で、後者は気候や季節の気温によって自殺の発生率は決まるとする主張である。しかし、ここでは詳述しないが、どちらの主張もデュルケームの提示するデータを見てみると反論に耐えうるものではないことが分かる。すなわち、「自殺を増減させる原因は生来の不変な一衝動にではなく、社会生活の漸進的な作用にある」のである(p100)。

 

第1編では、自殺の要因では「ない」ものをバッサバッサと論破していった。いわば、消去法によって、自殺は「社会的要因」によって起こるということを証明したのである。そして次なる第2編では、その自殺の社会的要因とは何なのかを具体的に説明していく。すなわち、自殺の社会的要因をタイプ分けしていくのである。

しかし、そうはいっても自殺の原因をタイプ分けなど不可能ではないか。なぜなら、その原因を唯一知っているはずの本人がすでにいないからである。しかも、もし当の本人が生きていたとしても、内から沸き起こる葛藤や不安、恐怖の中で自分が自殺という方法を取った原因は本人にも把握できているとは限らない。それはフロイトが言う意味での、深層心理に入っていくことで初めて分かることであり、カウンセラーの力を借りて初めて分かることもありうるのだ。

では、どうやって自殺を分類するのか。自殺の際に取られた手法(絞殺、毒殺か、など)で分類するのも表層だけの分類に終わり、無理がありそうだ。そして試行錯誤の末、デュルケームが取った方法は、まず「自殺の増減をうながすさまざまの社会的環境(宗派、家族、政治社会、職業集団など)の状態がどうなっているか」を見ていくことだった(p170)。

 

まずデュルケームが検討したのは、宗教の違いが自殺に与える影響である。つまり、プロテスタントの国家が他にも増して自殺者が多いのはいかなる理由かということを検討するのである。

そして、その答えとしてデュルケームは、プロテスタンティズムには「自由検討」が認められていることを挙げる。これはプロテスタント(ルター)が堕落した教会に反発して「万人司祭」を唱えたことからも分かるように、従来の教皇を頂点とするヒエラルキーが確固として存在するカトリックのシステムと比べて、一信者に裁量の自由を与えられていることを意味する。つまり、カトリックでは人間がどうしようもない困難に対峙した時に「神(教皇)の思し召し」と一様に片づけていたことを、プロテスタントは自らの行いを省みながら、批判検討しなければならないということである(詳しくはM・ウェーバー『プロ倫』を見よ)。

しかし、だからと言ってプロテスタントの信者はみな自殺に走るというわけではもちろんない。その証拠に、プロテスタント国家であるイギリスは自殺率はさほど高くない。その理由は、イギリスがプロテスタントでありながら、旧来の階級化されたヒエラルキーを温存しているからである。つまり、英国の信者(国民)には批判検討する自由はドイツなどと比べてもあまりないということである。

では、カトリックにあって、プロテスタントにない特性とは一体何なのであろうか。それはつまり「社会的凝集力の強さ」である。デュルケームは言う。

宗教が人びとを自己破壊への欲求から守ってくれるのは、宗教が一種独特の論理で人格尊重を説くからではなく、宗教がひとつの社会だからなのである。その社会を構成しているのが、すべての信者に共通の、伝統的な、またそれだけに強制的な、一定の信仰と儀礼の存在にほかならない。そのような集合的状態が多ければ多いほど、また強ければ強いほど、宗教的共同体は緊密に統合されているわけで、それだけ自殺を抑止する力もつよいことになる。(p196-7)

宗派の比較によって明らかになったのは、どの宗派が良いか悪いかではなく、「社会的凝集力の強さによって自殺率の高低は決まる」という命題である。これは宗教に限らず、いろんな共同体にも適用できそうである。

そしてデュルケームはこれを「宗教社会」だけでなく、「家族」、「政治社会」にも適用して検証していく。ここでは詳細は省くが、それによって同様に、家族(政治社会)の密度が高いところでは自殺の発生率は低くなっていることが明らかになる。「すなわち、自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」(p247-8)。

このように、社会的凝集力が弱くなることによって個人が社会のくびきから解放され、依拠するものがなくなり自殺に及んでしまうことをデュルケーム「自己本位的自殺」と呼ぶ。これが第一の自殺のタイプである。

 

さて、次にデュルケームが試みた検証の対象は自己本位的自殺と、いわば相対するものである。いわく、「人は社会から切り離されるとき自殺をしやすくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである」(p260)。このように「社会が個人をあまりにも強くその従属下においているところから起こる」この自殺をデュルケーム「集団本位的自殺」と名付ける(p265-6)。

さらに集団本位的自殺のなかにも、下部概念として「義務的集団本位的自殺」、「随意的集団本位的自殺」、「激しい集団本位的自殺」の三つが存在する。正直言って、これらの区分に明確な妥当性があるかは疑わしいが、参考程度に記述しておく(例えばデュルケームはこの三者の区分は自殺が法などによって明文化されているのか否か、自殺者が自発的か否かに基づいているというがそれを判断するのは難しい)。

いずれにせよ、集団本位的自殺を理解するのはさほど難しくないのではなかろうか。デュルケームが言うように、この自殺のタイプを理解するのに最も分かりやすい例は「軍隊」である。中でも、私が思い浮かべたのは「特攻」である。彼らは、集団、つまり国のために自らの死をいとわず敵に突っ込んで玉砕していった。これは「国家」という社会集団の中に無理やりにも埋め込まれていった者がたどる悲しき末路であり、集団本位的自殺を理解する上では最も分かりやすい事例ではなかろうか(これはまた「ナショナリズム」などの近代的な問題にも関わることである点で検証の余地がある)。

 

そして最後にデュルケームが注目したのは、ある社会的な危機に瀕した時に自殺率が大きく変動する点である。これは以上の二つの自殺の分類にも当てはまりそうもない。なぜなら、そこには社会と個人を離したり、結び付けたりする「遠心力」の効果ではなく、「個人の規制」という効果が深く作用しているからである。

これは一体どういうことか。注目すべき事例は経済危機である。経済危機が起こると自殺者の数が増えるということが統計によって明らかにされている。そして、それは経済危機によって生活に困窮し、追い詰められた人々が自殺に走るのだと解されてきた。しかし、それは違うとデュルケームは言う。なぜなら、経済が危機に陥る時だけでなく、発展に転ぶときでも同様に自殺者が増えることが統計によって明らかにされたからである。この社会的事実をどう解釈すればいいのだろう。

さらに統計は、驚くべき結果を導き出す。自殺率は、労働者階級よりも、その雇用主の階級において増加するのである。労働者は経済危機に際して、たとえ解雇されても現在の待遇が悪化する割合は少ない。対して、雇用主の場合は会社を経営する責任や裁量など、労働者以上に背負うものが多く、経済危機によって失うものも大きい。また、それは経済が好転した場合でも、責任が軽量化するわけではなく、かえって重くのしかかってくることになる。さらに競争も激しくなる。

経済が危機に転じるか、好転するかにかかわらず、従来までの安定した社会的秩序が激変した時に自殺の数は増加する。デュルケームは、これをアノミー的自殺」と名付けている。アノミー的自殺は「人の活動が規制されなくなり、それによってかれらが苦悩を負わされているところから生じる」のである(p319)。

 

以上でデュルケームが主張する自殺の3タイプが出そろった。しかし、だからと言ってすべての自殺が以上のどれか一つに分類されうるということでは決してない。これは社会学の一般化によってしばしば誤解される点だが、すべての社会的事象が「白か黒か」で区別できるわけではないのと同様に、自殺も各タイプの混合形態に分類されうることもありうるのである(例えば、「集団本位的・アノミー的自殺」や「自己本位的・アノミー的自殺」など)。

だからと言って、このタイプ分けが全て無駄になるというわけでもない。この分類がなければ、そもそも自殺を理解すること自体ができないからである。この少々大雑把な分類はたたき上げとして非常に有用なものなのである。

 

そしてデュルケームは最終章で「実践的な結論」と題して、導き出された結論から自殺問題への解決策を提示している。すなわち、自殺を増加させている主因とは、社会の凝集力が弱まり、個人が剥き出しのまま外部に投げ出されることにあった。ならば、もう一度個人を包摂するような社会を創出すればいいのである。

しかし、それは前近代的な宗教的共同体(とりわけカトリックユダヤ教的共同体)や、家父長的家族、政治的共同体ではない。近代においては、宗教のくびきから解き放たれ、「脱魔術化」しており、また家族も核家族世帯が主流となり、子供は一層都市に向かって進学・就職する傾向にある。それはもはや近代の逃げられぬ宿命であり、不可逆的な変化である。そして政治的共同体では結局利害によるゼロサムゲームを繰り返してしまい、個人を包摂するような連帯は生まれない。

では、一体どういう社会が望ましいのか。デュルケームが提示するのは、すなわち「同業組合」である。これは中世的なギルドを思い浮かべてもらえるとわかりやすいだろう。

それは、同じ労働に従事している個人によって構成されているし、彼らの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情をはぐくむうえでこれほどうってつけの地盤はない。出自、教養、職業などが同一のため、職業活動は共同生活にとってこのうえなく豊富な素材をなしている。(p485) 

 

だが、もちろんのように、これは自殺を解決できる唯一無二の策とはいいがたい。周知のように、こういった同業組合による連帯を試みたのが、戦後の日本だったからである。「従業員は家族」という信念のもと、戦後の日本は新卒一括採用、年功序列賃金制などの安定したパイプライン・システムを構築していたが、自殺率はそれほど低下してなかったのではないか。

しかもこのような安定的なシステムは高度経済成長の時代だからこそ約束されていたものであり、それが見事に崩壊した現在ではなおいっそう同業組合による連帯は難しそうである。そして、デュルケームの時代にもそういった事態はすでに起こっていたようである。

現在の同業組合は、じつは、たがいに縁もゆかりもないような個々人、表面的でときおりのむすびつきしかないような個々人、あるいは協力者としてよりも、むしろ競争者や敵対者としてたがいを遇しあってさえいるような個々人などからなっている。(p488-9) 

要は、デュルケーム自身も自殺を解決できるようなスペシャルな策は持ち合わせていないということである。

だからと言って、本書の価値が落ちるというわけでは決してない。第一、100年以上も前の時代背景で分析されてきた自殺の問題を、いくら現代でもアクチュアルな問題として横たわっているからといって現代の文脈で批判すること自体が間違っている。しかし、逆説的に言えば、本書のすごさはそういった現代の文脈に落としてみても反論・推敲の価値がいまだにあるという点にあるのだろう。本書は、これから自殺を論じるにあたって、また社会学的方法を検討するにあたって、これからも何度も参照していくことになるのであろう。