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メモ:台湾における戸籍制度の変遷(1945年から2000年まで)

 現在、台湾における戸籍制度の変遷について調査しているので、ここに断片的ではあるが、調べたことを整理しておきたい。

 

 台湾における戸籍制度の歴史的変遷についてまとめた論文として最も著名なものは、台湾の社会学者・王甫昌による『由「中國省籍」到「台灣族群」:戶口普查籍別類屬轉變之分析』(2005)である。王はこの中で、戦後台湾で施行された戸籍制度は「中国法統想像」という国民党によるナショナル・アイデンティティにもとづいて形成されていたが、それが1992年には「台湾主体想像」という新たなナショナル・アイデンティティの動員によって、いわゆる「出生地主義」にもとづく戸籍法の改正に至ったことを説明している。また、これは「中国(中華民国)」を統治の範囲として「省籍」によって国民を管理する体制から、「台湾(島)」を範囲として「族群外省人・閩南人・客家人・原住民)」によって国民を捉えなおす体制へと台湾社会のナショナル・アイデンティティが変化したのだとも言い換えられる。

 この論文のアプローチは、戸籍法それ自体だけでなく、戸籍法にもとづき実施された「戸口普査法」(1947年公布)にも目を向けている。台湾では戸籍法の制定とともに、戸籍調査を10年おきに実施することが義務付けられた。つまり、戸籍調査の結果、および調査手法に着目し、その中で用いられているカテゴリー分類(例えば、「外省人」or「本省人」の区別は何なのかなど)を見ることで当時の上からのカテゴリー化分類の意図が推察できるというわけである。

 

 中国には伝統的に「籍貫」というものがある。これは西洋にはない概念であり、中国独自のカテゴリーだが、あえて英訳すればnativityやbirthplace、あるいはoriginal domicileなどになる(語義としては最後のやつが最も適しているように思う)。これは要は、先祖が生まれた場所(○○省××県/市)を表す「本籍」(日本でいう本籍とは別物)のことであり、これが親から子へと受け継がれていくため「祖籍」とも称される。以前の中華民国戸籍法第5条では以下のような規定があった。

中華民国人民の籍別は、省およびその所属する県にもとづくものとする。

 また、第16条では、こうも書かれている。

中華民国の子女が初めて戸籍登記を行うときは、その父母の本籍を以て本籍とする。父母の本籍が異なる場合は、その父の本籍を本籍とする。

 これはいわゆる、「父系血統主義」にもとづく戸籍法規定であるといえる。1931年に中華民国(まだ大陸にあった時代)が初めて中華民国戸籍法を制定してから、1992年の戸籍法改正までこの規定は継承されていった。

 ちなみに、現在でも中華人民共和国では「農民戸籍」や「都市戸籍」などが問題になっているが、これもこういった伝統的な制度としての「籍貫」に由来する慣習であるといえる。

 こういった血統主義にもとづく戸籍制度は、当時ではそれほど珍しいものではなかったが、台湾の場合はそれがエスニシティの対立、つまり外省人本省人の対立と結びついてしまったことで論争的で敏感な問題になってしまった。すなわち、大陸から移転した国民政府は、国共内戦の継続・大陸反攻を理由に、中央民意代表機関(国民大会や立法院など)のポストに就く人材を外省人に限定したり、中華民国憲法の規定によって籍貫(省・県)を基準に選抜人員を決めるなど、本省人に不利な制度枠組みを作っていったのである(さらに、1954年にはその中央民意代表機関の改選すらも凍結される)。そのため、「省籍矛盾」やエスニックな不平等体制の改善を訴える本省人にとっては、戸籍制度はシンボリックなアジェンダとなっていったのである。

 

 王は、戸籍調査の中で使われる籍別分類の変遷を大きく四つの期間に区分している。すなわち、①形成期(1956~66年)②過渡期(1970~75年)③第一次変遷(1980~90年)④第二次変遷(2000年)の四つである。以下で順に見ていこう。

 まず①は、初めて台湾において戸籍調査が実施された期間である。興味深いのは、国民政府が初めて戸籍調査を実施するにあたって、日本統治時代の統計・調査資料などを参照したという点である。この論文の中ではそこについては詳述されてはいないが、日本統治時代に設計された「内地人ー本島人」、さらに「本島人」のなかにも差異(つまり「漢人」、「熟蕃」、「生蕃」など)を設けるという構図は、そのまま国民政府によって応用されていったのである(さらに日本統治時代に利用された「保甲制度」も応用された)。大雑把に言えば、日本統治時代に「種族」とされていた区分が、戦後には「籍貫」に代わったというわけである。だが、その過程で日本式の調査がどう中華民国式の戸籍制度と合併され、ハイブリッド化していったのかはさらに詳細に調べる必要があるだろう。

 56年の調査の特徴は、まず「本省籍」と「外省籍」に大きく分類したうえで(本籍地が現住地とは異なる場所である場合、その人は「外省籍」となる)、「本省籍」をさらに「祖籍」(大陸の34省12市→ほとんど福建or広東省)、「族系」(台湾原住民)に細分化して統計を取っていることである(ちなみに「外省籍」はさらに「本籍省市」、つまり大陸各省市に細分化される)。「本省籍」と「外省籍」をすでに区分しているにもかかわらず、「本省籍」をさらに「祖籍」によって分類するのは矛盾しているじゃないかとも思うのだが、要は「本or外省籍」の区別は日本統治時代から台湾に住んでいる住民(本省籍)とそれ以降に台湾に渡ってきた大陸漢人(外省籍)を分けるための大雑把な区分で、そもそも日本統治時代あるいはそれ以前から台湾に居住している本省籍漢人のルーツも結局は大陸のいずれかの省に行き着くわけで、それを強調するために本省籍の中にもさらに「祖籍」項目を設けているということだろう。

 しかし、本省人の「祖籍」を証明するには困難があった。なぜなら、日本統治、そしてその直後の国共内戦の影響によって、本省人は大陸とのつながりを絶たれて久しく、すでに自らが大陸のどの省出身であるのかを把握する術を持ち合わせていなかったのである。さらに言えば、すでに本省人には「大陸はみずからの故郷である」というような感情は消滅しており、むしろいわゆる「分類械闘」の歴史のほうが身近にあったため、彼らのなかでは「福佬人」or「客家人」という区分のほうが意識されていた。そのため、戸籍調査員も苦肉の策として、本省人の祖籍区分の基準に彼らの家庭内使用言語(つまり「閩南語」or「客家語」)にもとづいて「祖籍福建」or「祖籍広東」の区分を行っていた。つまり、祖籍によって本省人エスニック的な中華民族意識を想起させるといいつつも、血縁などの強固なエビデンスはなく、かなり大雑把に証拠付けがなされていたというわけである。

 さらに66年の調査では(一次カテゴリーは「本省籍」、「他省籍」、「外国籍」の三つ)、「本省籍」を「本籍」台湾省21県市)、「祖籍」福建省広東省、その他)、「族系」(原住民)の三つに細分化している。

 つまり、①の期間(特に56年の調査)では、外省人だけでなく、本省人に対しても「中華民族」としてのルーツを植え付けるために、祖先の大陸居住の歴史的事実を証明する「祖籍」をサブカテゴリーとして設定しているのである。(ただ、66年に「本籍」が新たにサブカテゴリーとして加わっている要因は分からない)

 

 続いて②(70年、75年)では、「本省籍」が「本籍」だけにもとづいて分類されるようになる。つまり、この時期には66年までにはあった「祖籍」と「族系」という区分が消滅したのである。王によると、この時期の戸籍調査は冷戦体制下で連合国の要請にしたがって行われたサンプル調査だったらしい(外国が他国の戸籍調査に対して介入してくることなんてあるのか?)。そのため、台湾地区住民の5%のサンプルを抽出して統計が作成されている。

 では、なぜこの時期に「祖籍」と「族系」の区分はなくなったのだろうか。王によると、この当時の政府文書の中にはその理由を明確に示すものはない。そのため、当時の社会的状況から推察していこうと彼は述べる。

 70年の調査以降、立法議員(外省人)の中から戸籍制度の改革を促すような言論が提出されるようになる。いわく、70年の調査では消去された「祖籍」の記載をもう一度復活させ、また外省人が台湾で新たに戸籍を設けるときに、一度大陸にある本籍を消去したうえで台湾に本籍を新設するというプロセスを取らなくてもよい、というような規定にしようという話が出てきたのである。ここには、大陸とのつながりを再確認させ、分断されている台湾社会を大陸反攻のためにも一致団結させようという意図があった。これは、議会内の議論を飛び越えて、例えば『聯合報』などの主要メディアの社説でも取り上げられるようになり、概ね賛同の声が寄せられた。しかし、前述したような「祖籍」を調べることの困難などの問題が浮上し、実現には至らなかった。

 こういった議論が高まる中、72年には立法院に戸籍修正草案が提出される。その当時に出された声明は、概ね以上で挙げたような内容だったが、これは外省人議長によって棄却される。なぜなら、現在外省人が持っている「本籍」は大陸時代に設けたもの(つまり「籍貫」)であり、それをもとに彼らは中央民意代表機関のポストを牛耳る根拠を得ているので、もしその本籍を抹消し、新たに台湾に本籍を設けてしまえば、彼らはもはやポストに居座る正当性を失ってしまうことになるからである。これは、いわゆる「中国法統」にもとづくレトリックであるといえる。

 こういった批判をもとに、カウンターとして「では、出生地主義を導入すれば、現在ポストにある外省人は被害を被ることなく、かつ台湾で生まれた外省人二世などは省籍矛盾に苦しむことなく生きて行けるのではないか」という議論が出てきたが、反対多数で棄却されてしまった。いずれにせよ、この時期に提出された戸籍法修正草案は「台湾における省籍対立を解消しよう」という意図から出されたものであり、また提出した者の多くは国民党籍外省人であったことから、統治者の間にもエスニック間対立を早急に解決すべきだという意識が存在していたことの証左であるといえる。

 だが、結局この時期に「血統主義」にもとづく戸籍法が改正されることはなかった。これはいったいなぜだろうか。王によると、そこにはやはり国民政府による「法統」概念が関与していたという。前述したように、当時の立法議員の多くは、大陸で選出されたものが大半で(1948年に大陸で選出され、その後来台した者が400人以上いたという[p.89])、そういった議員の処遇は「大陸反攻」という大義名分のもと庇護下にあった。だが、こういった法統にもとづく省籍不平等は、1973年の中華民国の国連脱退、及びその後の台湾の民主化勢力の勢いに押され、次第に窮地に立たされていく。

 では、なぜこの時期に「祖籍」と「族系」というカテゴリーは消えたのだろうか。王によると、それはこの時期に本省人(特にその中でもマイノリティである客家人)の学者などから、単純に「言語」によって本省人の「祖籍」を判断するずさんな統計の取り方に対して多くの異論がだされるようになったことが関係している。もともと判断が難しく、調査員の恣意性が介入しやすかった「祖籍」項目をもう一度見直そうという議論が出てきたことで、この時期の統計には採用されなかったのである。(原住民の「族系」がなぜ消えたのかの説明は不明瞭)

 

 ③(80年、90年)では、一次カテゴリーとしての「本省籍」と「他(外)省籍」の区分も用いられなくなる。そしてすべて「本籍」によって区分されるようになり、この中に大陸各省市が区分として用意されている。

 

 ④(2000年)は、92年に戸籍法が改正されてから初めての調査であるが、「本籍」は完全に消滅した(ただし、エスニック・マイノリティの権利を確保するという目的から原住民の要請にしたがって、原住民間の区分(9族)は存続している)。

 では、なぜこの時期になって戸籍法の改正は実現したのであろうか。王はその要因として第一に、中央民意代表機関(特に立法院)の改選が実現したことがあげられる。80年代までは「国会全面改選」は違憲とされたため、戸籍法改正は議論の俎上には上がらなかったが、李登輝が総統に就任し、積極的に憲政改革を推し進める中で、戸籍法をアンタッチャブルなものにしていたいわゆる「万年議員」もこれによって議席を譲ることになった。(この過程で、李登輝と他の国民党議員の間の政争が絡んだ多少の飯尾篤人妥協があった)

 第二に、国会全面改選以降、それまで政治的に優位にあったが人口上はマイノリティであった外省人(特にその第二世代)が、台湾社会における自らの処遇を心配し始めたことである。さらに、国会全面改選が宣言されて以降、各種メディアにおいても政府機関の要職の省籍比率がどうなっているのかを詳細に調査したデータを開示するようになったため、世論においても省籍矛盾がさらに問題として意識されるようになっていった。

 だが、この時になぜ国民党議員のみで戸籍法修正草案の連盟が行われ、民進党籍議員からは賛同が出なかったのか。王によると、その理由は彼らにとって戸籍の不平等は支持基盤を維持するための重要なアジェンダであり、また彼らからすると、戸籍法よりも言語や学校教育における本土化のほうが省籍対立を緩和するための有効な方法であるという認識があったからである。

 

 最後に、王はこれまでの議論の整理を行っている。

 まず、1949年の国民政府の台湾移転以降に戸籍制度が作られた背景には、①国共内戦大義名分のもと、「中国法統」を国内外にアピールする必要があったこと、②日本統治時代に「奴隷化」された台湾人の「再中華民族化」が目指されたこと、が挙げられる。これをもとに、当時の国民政府の用いた理念を、王は「中国法統想像」と名付けている。これはつまり、①国家の統治範囲を中国大陸のすべてを含んでいる、②台湾住民は異なる省出身によって構成されている、③中でも本省人は中国化を要する集団と捉える、④戸籍は憲法にもとづいて維持される、⑤中央(全中国を代表する組織)と地方の二元的な政治体制を築く、⑥台湾では中国ナショナリズムにもとづく文化教育を行う、などの意味合いが込められている。

 50年代にも「国会改選」のアジェンダを掲げる人々はいたのだが、彼らは「中国法統」に真っ向から対立するような主張を出したわけではなく、あくまでも現実主義的なものに過ぎなかった(例えば「増加定員選挙」など)。そしてそれは1970年代の民主化の流れが押し寄せた時も変わらなかった。

 だが、そういった状況を大きく揺るがせたのが、やはり1979年の美麗島事件だった。この事件に対して国民政府は依然として武力によって制圧するという手法を取ったが、これがかえって民衆の怒りと被害者に対する同情を誘発し、とうとう蒋経国立法院の増加定員選挙の実施に踏み切らざるを得なくなってしまった。これによって、民主化勢力が徐々に政治的舞台に進出するようになっていった。

 この頃から民進党を筆頭として、「中国法統想像」に代わる新たなナショナル・アイデンティティとして「台湾主体想像」が叫ばれるようになる。これは、①台湾島、澎湖、金門、媽祖を国家の統治範囲とし、②本省人外省人は文化の差異はあるが、優劣の差はない、③第二世代の台湾人はもう省籍差別を受けるべきでない、④法律上の省籍区分を撤廃する、⑤国会全面改選を実現し、台湾住民の民意を代表する政治体系を作る、⑥文化・教育面での本土化と多元化を推進する、などの意味合いを含んでいる。言い換えれば、中華民族アイデンティティを強調する「中国法統想像」から、台湾本土の文化や多文化主義にもとづく「台湾主体想像」へとナショナル・アイデンティティが変化していったことが戸籍制度変革の根底にあるという結論である。

 

 

 以上が王甫昌の分析による、台湾における戸籍制度変遷の流れと要因の説明である。これは非常に分かりやすく、台湾の学術界ではすでに通説となっているストーリー・ライン(つまり国民政府による「公定中国ナショナリズム」から、主に本省人による「台湾ナショナリズム」へという流れ)とも合致する説明である。

 だからこそ、少し気になるところもある。第一に、このストーリー・ラインから演繹的に現象を単純化している点も少なからずあるのではないだろうか。つまり、戸籍制度変革の過程で本省人なり外省人なりが抱いた葛藤や妥協の側面が、「公定中国ナショナリズム」から「台湾ナショナリズム」へという大きな物語に依拠することで捨象されてしまった側面もあるのではないか。現に、90年代に戸籍制度修正を掲げた外省人の間でも様々な政争があったが、その詳細は語られていない。私は、(特に統治者である外省人の側で)もっと複雑な葛藤が存在していたのでないかという疑問を抱いた。

 第二に、戸籍制度生成・変容過程で出てきた(主に政治家による)ナショナル・アイデンティティを用いたフレーミングの過程が、この論文だけでは詳細につかめないという点である。本論分の中でも、例えば『立法院公報』などの議事録をもとに、議員の発言に着目しているが、必ずしも体系的に徹底的に行われているわけではない。本論分の中でも挙げられているように、戸籍制度を実施・変革する過程で、多くの、そして相矛盾するナショナル・アイデンティティにもとづく語法・論法が出てきた。本来であれば、それらの言説(対抗言説を含めて)を抽出・分析・解釈を行い、帰納的にナショナル・アイデンティティの再構成、および変化の分析を行うべきだろう。

 以上の問題点がさしあたり気になるところだが、これらをもとに違った角度から分析を行うには、まずは王と同様に資料を渉猟し、それらの言説を一から分析していくという骨の折れる作業が必要になるだろう(しかもその先に答えがあるか分からないのにもかかわらず)…。ひとまずは、資料の中から何らかの突破口になる手掛かりが見つかることを願う。

近代国家誕生前夜の歴史についての覚書

 国家の歴史について語るとき、多くは近代から話が始まり、それ以前の前近代(すなわち近世、中世)にいかにプロトタイプとしての国家が生成されていったのかということはあまり注目されてこなかった。もちろん、現在の形での「国家」が出来上がったのは紛れもなく近代以降(特に日本の場合は近代に入ってから突如として創造した)なのだが、近代国家の重要性を強調するのであれば、当然その前夜についての探求も必要だろう。そこで、今回は近代国家誕生の経緯をピエール・ブルデューの歴史社会学的分析をもとに整理していきたい。

 

国家の神秘―ブルデューと民主主義の政治 (ブルデュー・ライブラリー)

国家の神秘―ブルデューと民主主義の政治 (ブルデュー・ライブラリー)

 

 

 

国家の社会学

国家の社会学

 

 

 参照する文献は、以上の文献に収められた「国王の家から国家理性へ」(p.43-80)という短い論稿である。また、サポートのために適宜、佐藤成基「第5章 国家と正当性」『国家の社会学』(p.91-107)も参照する。

 

 具体的な分析に入る前に、ブルデューの国家の定義について確認しておこう。マックス・ウェーバーが国家を「ある一定の領域の内部でーーこの「領域」という点が特徴的なのだがーー正当な暴力行使の独占を(実効性をもって)要求する人間共同体である」(ウェーバー『職業としての政治』岩波書店 p.9)と定義したのとは反対に、ブルデューは国家をそういった固定的な「共同体」であるとはみなさない。すなわち、「国家とは、一定の領域とそこに住む住民の全体に対して物理的および象徴的な暴力の正当なる行使の独占を実効性をもって要求するX(未知数)である」(佐藤『国家の社会学』p.94)。この「X(未知数)」という表現から、ブルデューが、国家とは誰か(例えば国王や民)の固定的な所有物なのではなく、様々なアクター(政治家や部署、官僚など)の利害関心が交錯する「場(界)」なのだと考えていることを把握することができる。

 

 さて、ここから具体的な国家誕生の歴史について見ていくことにしよう。まず、最初に明確な形で「国家」と呼びうる現象が観察できたのは、中世末期から近世初期にかけてだった。すなわち、「王朝国家」(国王の家)である。王朝国家は「国王の家」という表現からも分かるように、国王を中心としてその親族が周りを固めるというヒエラルキー構造の中で、国家を完全なる自らの私有物として整備していった。ゆえに「家産制国家」とも表現できる。しかし、経済構造の複雑化や他国間との戦争などが多発したことで、しだいに国王の身内だけでは国家は運営できなくなっていく。そのため、国家を円滑に運営するための新たな行政機構が求めらえるようになっていった。すなわち「官僚」の誕生である。

 だが、だからといっていきなり現代のような官僚が整備されたわけではなかった。最初に官僚としての地位を授けられたのは、エリートではなく、むしろ宦官や聖職者、その国の住民でないよそ者、奴隷などのいわゆる「賤民」であった。これによって、初期王朝国家では、国王政治的に無能力化された王朝内の競争相手(国王の親族)政治的には強力だが、再生産の能力を剥奪された献身者(初期官僚)による支配の分業体制が作られていったのである。

 しかし、徐々に教育制度の拡充、それによる能力と業績にもとづく官僚登用制度が整備されていくにつれて、「官僚制的生産様式」と世襲や血統、家柄などにもとづいて国王の地位を継承していく「国王の再生産様式」が対立していくようになっていく。ここから、王朝国家が「官僚制国家」へと変化していくのである。

 

 官僚制の発達によって、国家は国王の所有物であるという認識から、「公共のもの」(この場合の「公共」は「官僚制的公共性」を指す)であるという認識へと変化していった。つまり、「国王の家」から国王の私的な目的から一線を画する独自の「国家理性」が整えられていくのである。

 このような「官僚制的公共性」が発達した背景には、大きく分けて3つの要因があるとブルデューは述べる。一つ目は、行政業務の複雑化である。上司から部下への連続的で錯綜したネットワークが行政内部に広がったことで、国王の手を離れ、独自に稼働する官僚の「公的秩序」が生まれていったのである。これは、例えばイングランドにおける国王の印璽に関する慣習行動の変化を見てみると明らかである。国王の意思は、はじめ「国璽」(官房全体の長である大法官による印璽)が押された公式文書、証書、開封文書によって表されていた。しかし、しだいに国王に直接かかわりのある案件に対しては「玉璽」(国王自らが大法官に国璽使用の指令を与える)を、国王の手書き文書に対しては「王璽」(国王の秘書官による印璽)をそれぞれ使用するようになっていった。このように様々な承認と否認をめぐる錯綜した関係の中で、互いが互いを縛る権力構造が出来上がっていったのである。

彼ら〔大臣たち〕は、国王の公式文書に対して説明を求められたり、それが真に国王の公式文書であると証明できないことを怖れていた。大法官は、保証としての玉璽を押された文書がないままに国璽を 用いることを怖れていた。玉璽の保持者は、国王秘書によって認可された国王自筆の署名があるかどうかを気にしていた。(中略)国王は、大臣たちの保証のもとで行動したが、同時に大臣たちの監視下で行動したのである。(ブルデュー『国家の神秘』p.77)

 「官僚制的公共性」が形成された第二の要因は、法学者による国家論の構築である。つまり、法学者が"common-wealth"などの概念を用いて、国家を「公共的」「公益的」なもの(であらねばならない)だと理念的に整備していったことで、「公共物としての国家の正当性」が構築されていったのである。しかし、注意しなければならないのは、こういった法学者による国家の法学・哲学的根拠づけは、彼らの利害の確保の一環として行われていたということである。

どう考えても、法学者たちが自らの国家観、とりわけ(法学者たちが発明した)「公共性」の概念を認めさせようとして書いた著作は、それを通じて法学者自らが密接に結びついていた「公共奉仕」の優先権を主張することにより、自分たちの優先権を認めさせようとした戦略でもあったと仮定せざるをえない。(中略)一言でいえば、理性と普遍的なるものの進歩に最も明白な貢献を行った人々は、普遍的なものの(ママ)を守ることに明白な利害をもっていた。公益が彼らの私益だったのだ、と言うことさえできよう。(ブルデュー『国家の神秘』p.73-74)

 最後に第三の要因は、種々の行政的アイテムの発明である。上記の二つの要因は、いわば官僚制の「象徴的」創出に貢献していたが、三つ目の要因はよりプラグマティックなもので、行政スタッフが使用する道具・事務的なアイディア(例えば、事務机、署名、公印、辞令、資格証書、証明書、帳簿記録、登記、通達など)の出現が業務遂行に果たした役割に着目する。つまり、これによって真に非人称的で相互交換可能な官僚制的行政の運営が可能になったのである(それまでは、例えば仕事上の机、ペン、紙などもすべて個人の私物だった)。

 

 以上で見てきたように、「国王の家」は「官僚制国家」への変貌を遂げていった。では、官僚制国家は次にどのような変化を遂げたのだろうか。ブルデューは、官僚制国家以降の分析は行っていないが、佐藤成基の分析をもとに少し掘り下げていこう。

 官僚制国家までの時代には、「市民」はほとんど顧みられることはなかった。市民は、納税や徴兵などによって国家が掲げる「公共」に奉仕するのみで、行政にかかわることは一切なかったのである。だが、近代以降その状況はがらりと変わる。つまり、ハーバーマスが『公共性の構造転換』で指摘したように、商業資本主義、活字メディアの発達、カフェやサロンでの自由な討議の出現によって、しだいに「官僚制的公共性」とは異なる独自の「市民的公共性」が形成されていくのである。これによって、今まで国王、官僚(が依拠する法)によってなされていた国家統治の正当性が、徐々に「市民」「人民」「国民」などの新たな担い手を得るようになっていった(民主主義やナショナリズムの勃興)。

 官僚制国家の正当性は、官僚エリートの「無私無欲な美徳」に依拠していたが、民主主義やナショナリズムは、「民」による一体的な政治的意思や文化的個性、参加機会の平等性にある。つまり、ここから国家は「民」全体を代表するものとして、正当性の根拠を見つけなければならなくなっていったのである。これ以降の近代国家の歩みは、ほとんど周知のとおりである。

 

 以上、ブルデューの国家論を概観してきたが、こういった近代以前の国家の様態を社会学的にモデリングする研究はもっと出てきてもいいだろうと思う。特に近代以降に生まれ、近代的な問題を解決することを使命とする社会学にとっては、自らの根本的な意義を確かめるためにもそういった研究が今後量産されていくことを期待する。

Theda Skocpol "Bringing the State Back In: Strategies of Analysis in Current Research"

 今回はシーダ・スコッチポルらが編集した『国家を取り戻す』という論文集の序論(p.3-37)を簡単にまとめておきたいと思う。読み飛ばしてしまったのであまり読解できていないが、分かった箇所だけを簡単にまとめて次に読み直したときにすぐに内容を理解できるようにメモする程度にとどめておきたい。

 

Bringing the State Back In

Bringing the State Back In

  • 作者: Peter B. Evans,Dietrich Rueschemeyer,Theda Skocpol
  • 出版社/メーカー: Cambridge University Press
  • 発売日: 1985/09/13
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 この論文の主旨は、当時(1985年)社会科学においてあまり顧みられることがなかった「国家」の役割をもう一度再考しようというものである。スコッチポルいわく、1950~60年代の政治科学(political science)や社会学では、政治や政府、政策についての研究は「社会」を中心に据えるばかりで「国家」の役割を軽視してきた。つまり、国家は社会からのインプットにしたがって一定のアウトプットをする受動的な機関としてのみ考えられており、一つの重要な「アクター」と見なされてはいなかったのである(p.4)。

 だが、60年代以降にはネオマルクス主義が誕生し、国家を階級闘争の産物、また資本家階級の占有物としてみなす学問的派閥(つまり、資本主義的国家の社会経済的機能についての研究)が出てくる。さらに、70年代以降にはグローバル化が加速し、各国家が相互に絡みあうフェーズに突入し、いよいよ国家を一つのアクターとして捉え、国家間の関係を考察する研究(国際関係論)も普及していく(p.5-6)。以上の経緯から、国家の役割をもういちど経済や社会などの幅広い観点から再考する必要性が生じてきたのである。

 では、その際に注目すべき観点とは一体何だろうか。スコッチポルは国家の重要な役割として、①政策目標の達成を試みるアクターとしての国家の自律性(state autonomy)、②国家の潜在能力(capacities of states)、③内実としての国家のインパクトと政治の作用(impacts of states on the content and workings of politics)の三つに着目しなければならないと述べる(p.8)。さらに、スコッチポルは注意点として、この論文で行う提起はパーソンズ流の誇大理論を作ることではなく、あくまでも中範囲の問題提起と概念的なフレームワークを提供することであると念を押している。

 

 以上で挙げた「国家の自律性」をもう少し具体的に説明すると、それはすなわち国家が特定の社会集団に依拠することなく、アクターとして独自に稼働することを指す。また、「国家の潜在能力」とは、権力を有する社会集団や反発的な社会経済的状況に置かれてもなお、国家が公的な目標を達成する能力のことを指す(p.7)。

 以上の観点から、スコッチポルは具体的な経験的研究を引用している。しかし、ここではその具体的な内容を省略し、重要な部分を抽出すると、国家の自律性は統治システムにおける固定的・構造的特徴ではなく、流動的であるということである(p.14)。例えば、コーポラティズムによって市民の反感を上手く鎮圧した場合、国家の自律性は担保されるが、その協力体制が崩れれば逆に作用する(p.10)。また、市民的な行政(州政府など)と上手く折り合い、関連し合いながら国家の政策は作られていく(p.11)。したがって、国家が自律性を保てるかどうかは、常に不確実なアクター間の相互作用によって決定されるというわけである。

 では、国家が政策目標を達成する能力(capacities)は、いかにして説明することができるだろうか。もちろんその答えとして、統治体制や領土の軍事的管理の在り方などを真っ先に挙げることができるが、スコッチポルはそれ以外にも「国家の財源確保の方法」なども含まれると主張する。そうすることで、当該の国家の能力(国家の組織力、官僚の動員力、政治的支援の吸収力、企業への援助力、社会政策への出資力など)を把握することができるのである(p.16-7)。

 

 以上では、国家の内部にフォーカスして、その自律性と能力を分析する観点が主だったが、そのほかにも社会経済的環境と国家の関係を考察する研究も多くある(p.19-20)。つまり、国家をそのほかの非国家的アクター(例えば企業、資本家など)との「関係」の中から考察する立場である。非国家的アクターの国家への関与ではなく、世界的資本主義経済の相互依存・ネットワークを考察するアプローチもある(例えばウォーラーステイン)。つまり、「政策の実行は、国家が利用可能な政策手段だけでなく、重要な社会集団が提供する組織的な支援によっても形成される」のである(p.20)。

 また、政策や戦略を実行・形成するアクターとして国家を捉える見方以外にも、政治文化に影響を与え、政治的な集団形成や集団行動を促進し、特定の政治的イシューの提起を可能にする組織形態として国家を見るアプローチもある(スコッチポルはこれを「トクヴィル主義」とよぶ)。つまり、これは国家の活動や構造が、デモやアソシエーションなどの集団の形成や政治的能力、考え、社会の様々なセクターの需要に意図的・非意図的に影響を与える経路や方法に着目するのである。したがってこのアプローチはもっぱら社会運動などに焦点を当て、そういったプロテストがいかに国家の形態や特徴に依存して形成されるかを解明する。

 

 最後に、本稿で挙げられた主要な国家観をまとめると、一つ目の国家観は「社会的環境と関連して利用可能な国家の資源が、多かれ少なかれ効率よく国家役人に与えられていることを理解することで、役人集団が政治的目標を追求する組織として国家を捉える見方」であり、二つ目は「社会の全集団、階級が考える政治の意味や方法に影響を与える組織や行為の構造体として、よりマクロな視点で国家を捉える見方」である(p.28)。

 少々分かりにくい訳で申し訳ないが、要は前者のアプローチは国家官僚や政治的エリート、また市民の権力闘争の場として国家をとらえ、その闘争の過程と結果としていかなる政策が決定され、またそれがいかなる帰結をもたらすかを分析するものであり(国家を一つの「場」として見るという点でブルデュー的といえるだろうか?)、後者は国家の外部(国内企業や多国籍企業、市民団体など)も主要なアクターとして認め、彼らに政治的闘争の動機を与え、また彼らによって変革される可能性を秘めた組織として国家を捉え、それらの関係性をよりマクロな視点で分析するアプローチだと考えてよいだろう。

カール・マンハイム「知識社会学」

 今回はカール・マンハイムの「知識社会学」という論稿について。参照した文献は、青木書店から出版されていた『知識社会学ーー現代社会学体系8』のp.151-204である。割と昔の版だが、比較的訳は分かりやすかったと思う。

 

知識社会学 現代社会学大系8

知識社会学 現代社会学大系8

 

 

 カール・マンハイム知識社会学については、以前どこかのブログで書いた記憶があるが、もう一度簡単に整理しておこう。

 マンハイム知識社会学のキーワードは「知識の存在非拘束性」である。これは、人々の知識(イデオロギー)がその人々の社会的な存在に即した「視座構造」に拘束されていることを指している。マルクスイデオロギー論から出発したマンハイムだが、マルクスがこの社会的存在を「階級」ひとつに限定し、またブルジョア階級のイデオロギーを「虚偽」としてプロレタリアートイデオロギーがそれを「暴露」することを目指したのに対し、マンハイムの場合は階級だけでなく、そこに世代、生活圏、宗派、職業集団、学派など様々な準拠集団を想定しており(p.166)、また特定の知識を「虚偽」or「真理」とするのではなく、あくまでそれぞれの知識がそれぞれの社会的属性に依拠して形成されることを明示しているに過ぎない。そのため、自らの知識すらも拘束されていることを決して隠蔽しない、マルクスと比べると「フェア」なものであるといえる。

 また、マンハイムイデオロギーを「部分的イデオロギー」と「全体的イデオロギー」の二つに大別している。「部分的」は当事者間でもそれが「暴露」される可能性を残したイデオロギーで、「全体的」は当事者間で意識されていないイデオロギーである。マルクスが言及した「イデオロギー」はこの整理にしたがえば前者に属するものであり、マンハイムはそこにより包括的な後者を加えて、知識社会学は後者を研究の対象とすることを明示している。つまりマンハイムは、当事者の視座構造を形作るのは前者ではなく、根本的には後者だと考えているというわけである(p.153-4)。

 さらに、マンハイムはここからいくつかの例を挙げて、いかに知識が人々の社会的存在に拘束されているかを示している(p.162-6)。

 例えば、「概念」。具体的な事例を挙げれば、「自由」という概念はブルジョア的な特権を得る「自由」と解する場合と、権利と同時に付与される義務からの「自由」と解する場合とでは全く意味が異なるものになる。つまり、これは「階級」という視座構造にしたがって「自由」の捉え方が異なることを表している。ほかにもマンハイムは、「カテゴリー」や「思考モデル」などを事例に挙げている。

 

 では、知識社会学がこれまでのマルクス的な不毛なイデオロギー論争に終始することなく、そこに新たな知見を挿入するための具体的な方法とは何だろうか。マンハイムはそれを以下のプロセスで説明している。

 ①相関化(≠相対化)

 これは、特定のイデオロギーや知識をある「世界解釈の一定の仕方に関係させ、さらにその存在の前提としての一定の社会構造に関係させて論議する」(p.173)ことを意味する。マンハイムが挙げている例を引用すれば、農村の少年が出稼ぎなどで都市に出ていき、そこで新たな思考様式を取得し、それまでの思考様式(農村時代の思考様式)を相関化する、といったようなことだと想定できる。自分のそれまでの視座構造をよりメタレベルで捉えなおし、全体的な布置連関を把握することだと言い換えてもいいだろう(ゆえに「相対化」とは厳密に区別しなければならない。「相対化」は絶対的な真理というものは存在しないとすることだが、「相関化」はあくまで一定の知識が特定の視座構造に結びついている事実を確認することを指すに過ぎない)。

 ②特殊化

 これは、特定の視座構造を相関化したうえで、特定の視座構造を特権化し、コミット(「帰属化」)することを指す。これは、一度メタレベルで相関化した視座構造の中から特定のもの選択することだと言い換えてもいい。これによって、絶対的だと思われていた特定のイデオロギーや知識が限定的なものに過ぎないということを一度自覚するプロセスを経ることができるため、不毛なイデオロギー闘争を避けることができる。

 以上から、マンハイム知識社会学は、マルクス主義が陥っていた無意味なイデオロギー闘争、セクト化、自らのイデオロギーの特権化などを解消することを志向していることが分かるだろう。知識社会学は、議論のメタレベルに徹する学問であるといえる。

 

 最後に、では知識社会学の取りうる分析のプロセスとはいかなるものだろうか。マンハイムの整理によれば、知識社会学はその性質上、歴史社会学的な手法を取らざるをえないため、その分析プロセスはウェーバーが「客観性」論文の中で整理したものと相通じる部分がある。

 ①意味的な帰属化(仮説を立てる)

 それは、個々の似かよったかたちであらわれる意見の表示や思考の記録を、そこで作用している世界観の中心や生活感情にひきもどすことによって、思考様式の統一性と視座構造を再構成し、思考体系の断片のうちにかくれたかたちでふくまれている体系的全体性をあきらかにし、あるいは閉鎖的な体系を意図しない思考様式のもとに「見地の統一性」と視座構造をとりだそうとするものである。(p.199)

 つまり、これは歴史的な文献・資料であらわれた言説や記録の意味を、その著者の視座構造や社会的属性から解釈し、それを矛盾のない「理念型」へと再構成する段階である(ただ注意しなければならないのは、解釈の際に研究者自身の視座構造が関与してしてしまうため、当事者の意図を間違って捉えてしまう可能性は必ずあるという点である)。

  ②事実的な帰属化

 事実的な帰属化というのは、意味的な帰属化によって形成された理念型を、(不可欠な)研究の仮説としてうけとり、これにもとづき、そうした意味で保守主義者とか自由主義者とかが、いうたいどの程度まで現実に考え、あるいはどれほどそのときどきに事実のうえで、この理念型がかれらの思考のうちに実現されたかを問うものである。(p.199-200)

 つまり、この段階は、①で得られた理念型を実際に個々の思想家をケーススタディとして、事実に照らして検証する(間違っていれば修正する)フェーズである。

  ③社会学的帰属化

 知識社会学が「社会学」である以上、最終的には以上で得られた結果を社会に適用して検証しなければならない。このフェーズでは、②までで抽出された結果から再構成された理念型を特定の社会集団(階級、世代、宗派など)に適用して、そこに社会的諸力が働いているかを考察していく。例えば、保守主義的思考と特定の集団や社会的階層との関連を調べ、さらに特定の国家、最終的には特定の社会構造との関連から説明できないかを検証する、といったような流れである。

 

 以上のプロセスが、マンハイムが考える知識社会学の具体的な分析プロセスだが、これを見れば、知識社会学マルクス主義の衰退とともに消滅するとか(いわゆる「知識社会学オワコン論」)、結局マルクス主義イデオロギー思想を武装した似非社会科学であるといった批判は全く当たらないことが分かるはずだ。マンハイムウェーバーを参照しつつ、知識社会学をいかに「科学」にしようかと模索しており、その試みは一定程度成功していると私は思う。

 もちろん、研究者自身の視座構造をいかに処理するのかという問題は依然付きまとっているが、これは知識社会学だけの問題ではなく、あらゆる社会科学に付きまとっている問題であるため(「社会学社会学」など科学の再帰性問題)、この問題を取り上げたからといって知識社会学がオワコンになるわけで決してないと思う。この論稿は知識社会学を学ぶ者だけでなく、例えば歴史社会学を学ぶ者にとっても有益だと思うので、もう一度参照されるべきだと思う。

ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』

 最近復刊されたユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』について。

 

 

後期資本主義における正統化の問題 (岩波文庫)

後期資本主義における正統化の問題 (岩波文庫)

 

 

  ついでに、最近復刊された中岡成文『増補ハーバーマスーーコミュニケーション的行為』を参照してみたい。

  正直、何の予備知識もなくいきなりハーバーマスの、しかも『後期資本主義~』を読み始めたわけだけど、当然何を言っているのかさっぱりわかなかった…。そこでちょうど文庫化された『増補ハーバーマス』を手にとってみた、というわけである。後者は読みやすく、ハーバーマスの思考の過程を時系列に沿って把握することができるのでけっこう便利である(ただ、文庫化にあたって付け加えられた最終章は正直蛇足かなとは思ったが)。なので、まずは後者をもとに、『後期資本主義~』を理解するためのアシストになりそうなトピックを挙げて整理しておこう。

 

 中岡によると、ハーバーマスが一貫して抱いているテーゼは、「いかに人間は最終的な合意を目指して理性的にコミュニケーションを交わすことができるか」である。ハーバーマスの先輩にあたるフランフルト学派第一世代のホルクハイマーやアドルノは、理性や啓蒙に潜む「野蛮」に対して警鐘を鳴らし、理性を否定的にとらえていたことを考えれば、これは全く対照的な思想であるといえる。

 しばしば、ハーバーマスの思想は厳格で、それを現実に適用するにはあまりにも規範的すぎるのではないかと称されることがあるが、それは否めない点であろう。したがって、ハーバーマスの(特にコミュニケーション的行為の理論の)思想は、経験的な研究に落とし込むことができる理論と考えるよりも規範理論として捉えたほうが良いだろう、と個人的には考えている。

 

 70年代以降に問題視されるようになった「後期資本主義」とは一体何だろうか。以前クラウス・オッフェの思想を整理した時にも少し言及したが、ここでもう一度整理しておくと、それは自由な市場競争を原理とするリベラルな資本主義(ハーバーマスは『後期資本主義~』でこれを「自由主義的資本主義」と呼んでいる)の末に到達した新たな資本主義の形態である。そこでは、市場の競争はもはや「神の見えざる手」によって自動的に整序されることはなくなり、さまざまな「危機」の発生が常態化している。さらに、そういった経済的な危機を回避するために国家を代表とする政治・行政システムが経済システムに過度に干渉し、管理・組織化しようとする。ゆえに、後期資本主義は「組織資本主義」とも称されることがある。

 では、以上の後期資本主義の時代にはどんな問題が生じるのだろうか。ハーバーマスは、それを『コミュニケーション的行為の理論』の中で「生活世界の植民地化」という言葉で表現しているが、単純化して述べると、それは経済システムと政治・行政システムの肥大化によって、人間がコミュニケーションにもとづいて相互に理解しあう「生活世界」(『後期資本主義~』の中では「社会文化システム」と呼ばれている)が脅かされることを意味している。経済システムは「貨幣」、政治・行政システムは「権力」をそれぞれメディアとして独自に稼働しているシステムであるが、生活世界は(ハーバーマスによると)コミュニケーションを介して個人個人が社会を構成している領域である。

 例えば、生活世界の代表的な領域として挙げられる「学校」は生徒と先生、また生徒同士の相互のコミュニケーションによって成り立つ外部(政治や市場)から独立した空間であると考えられている(これ自体に異論はあるだろうが)。しかし、後期資本主義社会においては、その領域に行政(例えば文科省とか)が深く介入してきたり、経済的な要請が関与してきたりするようになる(大学法人化によって経営が教授以外の経営者によって担われることによって大学が「株式会社化」するなど)。これは学校以外にも、家族や町内会や市民社会などにも当てはまる現象だろう。

 また、「生活世界の植民地化」によってもたらされる危機はこれだけではない。そもそも、後期資本主義社会においては国家(政治・行政システム)が経済システムを管理すること自体が不可能で(これは経済危機の常態化が顕著に表れている現代を見れば明らかである)、国家は経済や生活世界の領域をいっそう管理しようと努めるが、それに失敗し、そのつど「正統性」の所在を問われるようになってくる。つまり、行政がその国家を統治していることの明確な理由が市場、および国民から問われるようになってくるのである。

 これはどういうことか。そもそも、私的利益を追求する市場の企業に、国民の税金で賄われている公的な財源を投入すること自体が矛盾をはらんでいる。しかし、国家は右肩上がりの経済成長に裏付けされた健全な財源をもとに再分配政策(米国のニューディール政策など)を通じて矛盾が露呈しないように努めてきた(正統性の証明)。こういった時代では、国民は政治・行政システムが健全に運営されているかどうかを意識的にチェックすることはほとんどない。だが、政治・行政システムの運営が不十分であると気づけば、政治権力への支持は低下し、政治システムへの要望も拡大していく。しかし、拡大する要求に対してますます国家は対処できなくなっていく、というわけである(正統化の危機)。

 これが『後期資本主義~』の中でハーバーマスが述べている議論の骨子である。さらにハーバーマスは、後期資本主義社会に突入し、政治・行政システムおよび経済システムに危機が生じれば、生活世界においても「動機付けの危機」に見舞われるという。例えば、自らの要望が政治システムに影響を及ぼさない、また市場の混乱によって努力して勉学に励んでも立身出世できないことが分かれば、国民は自らの暮らしている社会にコミットする動機を失っていくだろう。社会化によって人々に価値や規範を与えていた生活世界が枯渇化することで、人々は自らのアイデンティティを構成することもできなくなっていく(人々は社会化を通して他者を受容することで同時に自らのアイデンティティを取得していくから)。以上の結果、すべての領域(政治・行政システム、経済システム、生活世界)が機能不全に陥っていくのが後期資本主義社会なのである。

 

 以上が、『後期資本主義~』の中で指摘されている当時(1973年)の社会が陥っていた隘路である。いささかディストピアにすぎる時代診断かもしれないが、この予想は現代でも(政治・行政のアンバランスを見るにつけ)適用できると思う。では、我々はこのようなディストピアを甘んじて受け入れるしか道はないのだろうか。ハーバーマスは違うという。そこで彼は、コミュニケーションを通じてもう一度生活世界を再構成することを目指すのである。以下、簡単に『コミュニケーション的行為の理論』の議論を整理してみよう。

 ハーバーマスによると、人々がコミュニケーションを行う際に取りうる妥当請求には、「真理性」「正当性」「誠実性」の三つがあるという。「真理性」は何事かを他者に述べる際にそれが客観的な事実に合致していること、「正当性」はそれが当該の社会の規範から見て正しいこと、「誠実性」は他者に対して述べた事柄を本人が本当に考えていること(自らの本心に反したことを述べているか否か)をそれぞれを指しており、コミュニケーションを行う際は、この三つを他者に対して問い、最終的な合意に達するまで対話が続けられるのである。

 例えば、ある学校の一場面を想像してみてほしい。先生が生徒に「水を一杯汲んでくれ」と頼んだ時に、生徒は先生に対して三通りの妥当請求をすることができる。①「真理性」の請求:もし水が教室から遠い場所にある場合、生徒は「水を汲みに行ったら授業が終わってしまう」と反論することができる。②「正当性」の請求:先生という立場を利用して、より立場の弱い生徒に「命令」している(規範に反している)と反論することができる。③「誠実性」の請求:先生が本当に水を欲しているのかのどうか(もしかしたらその生徒への意地悪で欲しくもないのにわざと汲みに行かせるのか)を問いただすことができる。

 実際は、上で挙げたような三通りの方法できれいに分類することはできないし、グラデーションになっている場合も多いだろう。だが、「理念型」として整理すれば、妥当請求は以上の三つに大別され、人々はこれを何通りも繰り返す中で、皆が納得できるような最終的な合意へと達することができるとハーバーマスは述べる。

 英米の言語行為論を吸収したハーバーマスは、それをコミュニケーション的行為に応用して独自の理論を構築した。もちろん、この理論に対しては様々な異論が提出されてはいるが(例えば、言語を解さない動物や胎児、障碍者などをどうやって対話のアリーナに組み込むのか、最終的な合意には本当に達することができるのか、結局どこかで妥協することになりそこには不平等な権力構造が影響してしまうことになるのではないかなど)、神経質なまでに人間の「合理性」を追求した彼の思想には不思議と力強さがある。中岡が著書の中で指摘するように、ウェーバーが『プロ倫』において政治や経済(近代資本主義)の合理化を人間の意識の合理化(プロテスタンティズムエートス)に結び付けて解明しようとしたのとは反対に、ハーバーマスはあくまで政治や経済(システム)とは違った形での人間の合理化、つまり生活世界における人間の理性を啓蒙することを志向しているのである。

 

 さて、これでいよいよ『コミュニケーション的行為の理論』を読む手はずは整ってしまった……。いつか、都合のいいタイミングで着手しようと思います……。

Andreas Wimmer "The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"

 今回はアンドレアス・ウィマー(Andreas Wimmer)の"The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"について。下記リンク参照(ただしダウンロードはAmerican Journal of Sociologyの規定により有料)。

https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/522803

 彼については以前ブログで少し言及したが、エスニシティについて研究を行っているスイス出身の社会学者である(最近ではエスニシティに限らず、人種・ナショナリズムについても広範囲で研究を行っているようだ)。彼の問題意識はブルーベイカーとも共通している部分が多く、この論文も従来のエスニシティ研究の議論を総括し、それを統合するようなパースペクティブを提示するという目的のもとに書かれている。

 

 まず、序論でこれまでのナショナリズムエスニシティ研究の蓄積、つまり本質主義構築主義的アプローチの対立軸などが整理されている。ここは以前にも書いたので省略。

 そしてそれらを概観してみた結果、ウィマーによるとナショナリズムエスニシティ研究は確かに構築主義的アプローチの隆盛によって飛躍的に進歩したが、しかし「なぜこれほどまでに多様な形でエスニシティが創出されているのか」、また「エスニックな境界形成がなぜそのような多様な結果をもたらすのか」がいまだに説明できていないと批判し、その疑問に答えるための準備段階として本稿で包括的な理論枠組みを提示するという。

 そして、ウィマーはこれまでのエスニシティ研究において議論されてきた問題関心を、①境界の政治的創出(The Political Salience of Boundaries)、②社会的密接と「集団性」(Social Closure and "Groupness")、③文化的差異(Cultural Differentiation)、④持続性(Stability)の四つに整理している(p.976-985)。①はエスニックな境界の線引きをめぐる闘争がいかに政治化していくのかに関する研究、②はどんなエスニックな境界が社会的なネットワークの構築や資源のアクセスに有効かを理解する研究、③は(フレドリック・バルト自身も陥っていたように)エスニシティを区分する文化的な差異性に関する研究、④はエスニシティの境界がいかに持続的なものかについての研究である。

 さらにウィマーは、フレドリック・バルトが先鞭をつけた「エスニック・バウンダリー論」が、その後の経験的研究によってどのように発展したのかも整理している(p.986-989)。それによると、エスニックな境界の措定過程は、①境界を拡大する(例えば植民地化)、②境界を縮小する(例えば「米国人」から「中国系米国人」になる)、③境界線自体ではなく境界内のヒエラルキー構造の上下関係を反転させる、④ヒエラルキー構造内の位置関係を転移させる(例えば第二次大戦前後での「ユダヤ人」に対する処遇の変化など)、⑤境界線をあいまいにする(例えばEUなどのグローバル市民の理念による脱国民国家プロジェクト)、という五つに分類できるという。

 

 そして、ここからウィマーはこれらの議論を統合する独自の理論的枠組みを提示する(念のため先に言っておくと、ウィマー自身も言及しているように、これはギデンズの構造化理論の理論的道筋と酷似している)。以下、細かく見ていこう。

 まずウィマーは、社会のアクターがエスニックな境界の措定・再措定を行う土台(構造)となる前提として、制度(Institutions)権力(Power)ネットワーク(Networks)の三つを挙げている。

 制度は、公的なもの(法律など)から非公式なもの(集団内の慣習など)までを含み、主に国家、および国家を運営する政治的エリートが国民国家建設や大衆動員のために適用し、アクターの思考様式や行動を拘束する。例えば、ポスト植民地国家などは政治的な権力者が文化・言語・領域などの確定のためにオフィシャルな定義づけを行うことが多い。ここでは、こういったものが想定されている。

 次に権力は、アクターが制度による制約を受けつつ、自らの利害関心にそってエスニックな境界線を引くために利用される。通常、社会的なヒエラルキーの上位にある者ならば政治的・経済的・象徴的な権力や資金を多く要している。

 最後にネットワークだが、これはもっぱら政治的エリート、つまり国民国家建設に深く関わる人々内でのつながりのことを表している。例えば、ポスト植民地国家においては新しいネーション・ビルディングの試みが始まるが、それがどのように行われるかはしばしば議会や政党、政治的エリート内での熟議によって決まる。つまり、ネーション・ビルディングの枠組みの構築過程は政治的エリート間の交渉如何に強く規定されるのである。

 

 以上の三つの構造的制約によって、アクターがエスニックな境界線をどう引くのかが規定されるわけだが、では、その境界内部の具体的な特徴(集団の凝集力、反対勢力による異議申し立ての頻度など)を形作るものは何なのか。ウィマーによると、それは①エスニックなコンセンサスの範囲(the reach of consensus)、②権力配分の不均等の度合い(the degree of inequality)そして③境界の持続性(stability)によって決まるという。

 ウィマーはこの三つの規定要因をx(①)、y(②)、z(③)軸に配分して座標化し、それぞれの混合度合いによってエスニック集団内での閉鎖性や多様性、政治運動などによって不満が爆発するか否かが決まるとしている(p.1004)。例えば、エスニック間で権力の配分が不均等で、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が高ければ、集団内で不満が爆発する可能性が高い。また、エスニック間で権力が均等に配分されており、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が低ければ、集団の凝集力は高い、といった具合である。

 しかし、ウィマーが言うようにこういった図式化は単なる理念型であり、統計的・経験的な調査によって補完されるべきだと述べている。

 

 では、アクターは構造的な制約によって抑圧されるだけの存在なのであろうか。ウィマーは違うという。最後に、ウィマーはこれらの構造的な制約にもかかわらず、アクターが変革すること可能性を示唆している。そして硬直的な構造が変化する要因として、①外在的な要因(exogenous shift)、②内在的な要因(endogenous shift)、③外部から派生した流れ(exogenous drift)の三つに分類している。

 ①は、帝国主義的な外部国家によって植民地化されたり、反対に帝国主義から解放されて民主化したり、ほかにはEUの設立など、国外から国内に影響が派生することによって構造転換が迫られることを意味する。②は、国内の特定のエスニック集団が団結して境界の引き直しや同化政策を推進したり、少数のアクターの動きが大きな集団へと波及したり、またこれらが成功してより劇的な変革へと結びつく(また新たな変革の後には再度戦略的な境界の引き直しが始まる)ことで構造転換が起こることを意味する。③は、例えばグローバリゼーションの波が国際的に波及し、それによって転換が迫られることを意味する。

 これらの要因によって、構造はそれまでの制度を変更する可能性を秘めているのである。

 

 最後に、繰り返しになるが、ここまでの議論を簡単にまとめておく。ウィマーは、エスニックな境界の策定過程は以下の経路をたどると説明している。①制度が特定の境界策定の動機付けを与える。②これにもとづいて個人(アクター)が自らの利益や政治的権力を主張するのに都合のよいエスニックな境界策定の選択をする。また、政治的ネットワークにしたがって厳密な境界の位置づけが模索される。③次に、異なる利害関心を持つアクター間で相互に戦略的な交渉が行われる。④そして最後に、権力の配分やコンセンサスの波及具合によって境界の特徴が決定する。

 さらに、この基本的な流れに変革が加わるとすれば、上記①の「制度」に対して外生的な変化が加わったり、②に対してグローバルな変化が波及したり、③によってアクター間で交渉、またはさまざまな行為が行われることで意図的・非意図的に制度の変革が内生的に発生したりなどが考えらえるだろう。

 詳しくは実際にウィマーの結論部にある図を参照してほしい(p.1009)。

 

 と、こんな具合にウィマーは、エスニックな境界が策定・再策定される過程を以上のような流れで説明している。ウィマーはこの図式化の特徴として、比較エスニシティ論による単純な類型化を目指さない点、厳密な社会科学による「独立」「従属」変数の関係を考慮していない点、合理的選択理論や世界システム理論などのミクロ・マクロアプローチを統合しており従来の理論よりもさらに複雑である点を指摘している。

 だからウィマー自身、ここで提示されているアプローチは理論というよりも仮説、あるいは「理念型」であり、これから経験的研究をしていく中で確かめていくパースペクティブ(見方)に過ぎないと考えたほうが良い。だが、こういったそれまでの議論を整理する理論研究は、自分の立ち位置を確かめるためにも大いに助かるのでありがたい。

知識社会学に関する覚書き

 以下の本を読んだので、覚書をば。

 

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

 

 この本自体の学問的価値も計り知れないものだが、冒頭(p1-34)で「知識社会学」に関する方法論が提示されており、かなり参考になったのでここに記しておきたい。なので、この本の本論部分(これが数百ページに及ぶのだが)はここでは扱わない。

 

 本書は、「ボランティア」に関する言説を追っていくことで、そこにどのような磁場が発生しているのか、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのかを解明することを目的としている。そこで、本書で取られる分析方法は、それらの言説を「メタレベル」で観察するというものである。その際、メタレベルの言説分析とは、具体的に以下の二つのものを意味している。

 一つ目は、「言葉」と「社会」を素朴に二元対立的なものとして捉え、「ボランティア」について語ることがどういう社会・政治的文脈で行われ、どういう帰結とつながっているのかを考察するというものである。これを本書では「動員モデル」と呼んでいる。この動員モデルでは、ボランティアは国家や資本などの意図・要請にしたがって動員されていると考えられる。

 二つ目は、ボランティア言説において繰り返し現れるパターン(意味論形式)を抽出することである。これは、(a)動員モデルがボランティア言説に国家や資本の痕跡を見出していたが、ではそれがなぜそうなるのかを説明できないという批判と、また(b)動員モデルでは「ボランティア」の言葉の増殖は説明できても、その縮小は説明できないという批判から要請される手法である。

 本書では、一つ目の問題意識を引き受けつつ、それを批判的にとらえなおすために二つ目の手法を用いるという方法論を提示しているのである。

 

 では、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのだろうか。

 ボランティアをはじめとする参加型市民社会論の言説には、しばしば「善意」や「他者のため」という前提が内包されている。本書では、このように「他者のため」と外部から(当事者がそう思っていなくとも)解釈されるような行為の表象を「贈与」と呼ぶ。つまり、「他者のため」と解釈することが一般的に有意味になるような解釈図式・社会の「意味論(ゼマンティク)」の意味で「贈与」を導入する。ボランティアや市民社会概念の中には、この「贈与」が織り込まれており、ボランティア/市民社会言説の固有のメカニズムの動因となっている、というのが本書の仮説である。

 だが、当事者(特に積極的にボランティアに参加する人々)は、ボランティアは「一方的な贈与」ではないと反論するかもしれない。例えば、ボランティアは一方的に贈与するのではなく、参加者は「幸福感」や「やりがい」を感じることができる(互酬性)、といったように。しかし、そういった反論自体がボランティアに対する「贈与性」をある種認めていることを証明してしまっている。なぜなら、「贈与」と「交換」の関係は、実は後者が前者を内包するものだからである。これが「贈与のパラドックス」と著者が名付けるものである。贈与はそれが贈与だと当事者によって認識された時点で贈与ではなくなる。つまり、贈与は被贈与者、および社会からなにがしらを奪う形で反対贈与を獲得していると見られがちなのである。

 よって、本書が問題化するのは、近現代の「ボランティア」的なものの言説領域において、この「贈与のパラドックス」を解釈するための意味論形式(ボランティア言説に固有の作動形式)はどのように変化していったのか、つまり解釈ゲームの過程を考察しようというものなのだ。

 

 では具体的な方法論はいかなるものだろう。上で、その二つの手法として「動員モデル」と「意味論形式の分析」を挙げたが、著者が言うように、この方法論を掘り下げてさらに突き詰めると、「~でない」という形でしか表すことができない。どういうことか詳しく見ていこう。

 まず「動員モデル」では、上述のように「言説(コトバ)」と「実態(モノ)」を二元論的にとらえるが(社会的なイデオロギーや権力によって言説が生じる)、本書ではその考え方を否定し、また「ボランティア」とは何なのかを明確に定義することなく、ある時点に広く見出せる意味論形式/解釈枠組みに注目する点で動員モデルとは異なる。また、理念史や思想史のように言説の内容を規範的に追っていくというような研究方法ともまた違う。あくまで言説の形式それ自体を扱うスタンスを貫いている。

 また、フーコーに端を発する「言説分析」とも違う。佐藤俊樹ら(特に『言説分析の可能性』参照)が指摘するように、言説分析は言説や言表の最小単位を確定できないため、分析単位の確定可能性と全体性の実在を素朴に信じる社会学とは相いれない。また赤川学が主張するように、残存している資料をできるだけ網羅的に収集することで、言説の全体性を仮構することができるかもしれないが、本書では文書による資料以外にもインタビュー調査や広告ビラなども言説の内に含んでいるので全体性を措定することが限りなく難しい。

 さらに、社会的構築主義とも異なるスタンスを取る。社会的構築主義は「厳格派」と「コンテクスト派」の二つが存在する。前者は「実際の状態」の想定を厳密に排し、社会問題の「言語ゲーム」を記述することを目指す。後者は「実際の状態」を記述者から独立して存在することを想定して、「状態」に関する他の資料(統計など)を参照しながら、記述の妥当性について判断も行う。だが、本書は「贈与のパラドックス」を言説を整序する基準として分析枠組みの位置に置く点で構築主義ともまた異なるのである。

 そこで最後に筆者が行き着いたのが「知識社会学」という手法である。知識社会学は「マルクス主義こそが真のイデオロギーである」という理念のもとに作られた研究領域だとしばしば冷笑の対象にすらなるが、筆者によると知識社会学の祖であるマンハイム自身はそういったマルクス主義の特権化を反証するためにこの学を創設したのだという。つまり、マンハイム知識社会学に課した問題意識は、知識が存在に拘束されるあり方を、自らをも含めて没価値的に相互比較することで(相関主義)、全体性を把握することだったのである。

 筆者によると、知識社会学の要件とは①知識(言説)/社会の二重体の実在を前提にする、②社会が知識(言説)に影響を与えるという因果関係を措定・重視する、の二つである。筆者が本書の中で受け入れるのは①であり、②については立ち位置は微妙であるという。なぜなら、②を主張する動員モデルの検証も本書では行うからである。ゆえに、①を前提にしつつ、②を相対化させながらも延命させる点で、本書は知識社会学の範囲内にあると述べている(弱い知識社会学)。

 

 さらに本書ではこの流れでルーマンの「意味論」、「知識社会学」が言及されている。ルーマンは社会の意味論(ゼマンティク)の規定に関与するものを考察すること、言い換えればいくつかの意味規定が併存する状況で、ある区別が他の区別と比べて説得力を持って立ち現れる条件を考察することを「知識社会学」と呼んだ。これを「ボランティア」の事例に当てはめると、「贈与」がこの言説領域の「コード」であり、パラドックスの解決は原理的に不可能だが、何をもってそれが解決されたと「見なす」かについての基準(プログラム)が生み出されることになる。どの基準が立ち現れるかは時代ごとで異なるため、その展開過程を追うことが本書の知識社会学の課題であるといえる。

 

 以上、本書が(弱い)知識社会学へと方法論を規定していった論理的経緯、およびそれによって行き着いたルーマンの「意味論」など、なかなか興味深い考察が冒頭の30ページほどに詰まっている。個人的には「知識社会学」の手法は(オワコンといわれているが)まだまだ議論の余地のある研究分野だと思うので、こういった理論的考察はありがたい。

 知識(言説)を社会(科)学として学問的に探究するのであれば、本書が示したように「弱い知識社会学」として分析する以外に今のところ道がないように思う。その際に重要なのが、何らかの言説領域を規定している「コード」を的確に導き出すことである。本書では「ボランティア」という言説領域におけるコードとして「贈与」を置くことでその問題をクリアした。このコードを置く過程を無視したり、あるいは的確なコードを設定できなければ、ただ言説を網羅的に収集しただけで恣意的で非科学的な結果しか生まないように思われる。

 だが、やはり難しいのは言説を収集する範囲をどこまでに限定するのか、という問題が生じてしまうことである。言説はあらゆる場面で生成され、今こうやって記述していることでまた新たな言説が生成されている、というように収集しようと思えば無限に集まってしまうほど膨大なものである。そこから「何が分析の対象として望ましい言説なのか」を決めることは果たして科学的・論理的に可能であろうか、というかねてからの疑問がやはり払拭されないのである。この問題をクリアすることが、知識社会学を経験科学として社会学へと組み込むための第一条件であると考える。