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マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

 久しぶりの投稿、血沸き肉躍る。

 今回はマックス・ウェーバーの有名な論文『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(いわゆる「客観性」論文)について。

 

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

 

 言わずと知れた名著ではあるが、実は読んだことがなかった。。。

 今回、意を決して(さすがに読まんといかんだろうという焦りもありつつ)読んでみたわけだが、どうしたことかこれがなかなか面白い。ウェーバーは『プロ倫』なんかを大学2年生の時に読んで勝手に苦手意識を持っていたんだが、いやはや人間ってのは成長するもんだなぁと感慨にふけっている。

 

 さて、この「客観性」論文だが、有名な「理念型」や「価値自由」といった概念がどのように分析の中で使われるのか、ウェーバー流「文化科学」(ウェーバーが言うところの「理解社会学」)の説明とともに論じられている。また、後半にはウェーバー研究で名高い折原浩先生による丁寧な解説がついており、一冊でほとんどウェーバーの思考体系を概観することができる、実はかなりありがたい本なのである。

 今回は個人的に読んでいて重要だと思った個所を簡単に取り上げて整理しておきたい。

 

 まず、ウェーバーがこの本を『アルヒーフ』という雑誌に寄稿しようとした背景には、当時の社会科学全般が陥っていた方法論的限界が存在する。一例として本書の中で頻繁にとりあげられている「歴史学派」が挙げられるだろう。私は詳しい学説史的経緯をあまり把握できていないが、歴史学派は現実の世界にあまた存在する歴史的な事象を個別的に検証、解明していくというフェーズから抜け出し、それらの個別的検証をもとに「一般的法則」を構築して、最終的にその法則・理論から演繹的に現実世界の物事を説明する、という壮大な夢を掲げていた。

 だが、ウェーバーはこのような壮大な一般的法則から演繹的に物事を説明するという方法論に真っ向から反対する。なぜなら、現実の事象はそういった一般的な理論ではカバーできないほど多種多様で、無限だからである。それを理論を用いて説明したとしても、それは単なる科学者の欺瞞でしかない。

 さらに言えば、無限の現実群の中から研究者が必要だと思った要素を抽出し、理論を構築するという作業は、抽出する時点で研究者の恣意性が介在してしまうため、それは「客観的に妥当な」理論とは言えないのである。

 

 では、どうすれば社会科学における客観的に妥当な方法を確立することができるだろうか。ウェーバーは、その問いに「理念型」と「価値自由」という概念を用いて説明する。

 ウェーバーは「理念型」とは仮説ではなく、「手段」であると述べる。つまり、分析を行う上での「道具」でしかないのである。これはどういうことか。

 現実の世界には無限に経験的事実が存在していることは上述したが、理念型とはこれらの事象の中から「理想としての要素」、つまり分析を行ううえで重要であると判断される要素を抽出して再構成したものに過ぎない。そのため、理念型は必ずしも現実のすべてを反映したものではなく、理念型の構築をもって研究のゴール(目的)では決してないのである。よって、理念型を構築した後は、研究者は再度現実世界に立ち戻り、その理念型を分析の手段として使用しなければならない。それが、理念型≠一般的法則の所以である。

 その点で、ウェーバーマルクスとは一線を画する社会科学者である。なぜなら、マルクスが目指したのは、「唯物史観」に代表されるように、人間の歴史を物質と生産手段に還元する一般法則の構築だったのであり、それこそまさにウェーバーが戒める社会科学の態度だったからである。

 また、上記のことをもって、ウェーバーはやはり「比較(歴史)社会学」の創始者とされるべき人物である思われる。なぜなら、理念型を使った社会科学の分析方法は、絶えず「モデル」とフィールドの「経験的事実」とを比較することをその中に内在しているからである。ウェーバー社会学にとって「比較」というのは一つの重要なキーワードなのである。

 

 では、具体的に社会科学において「比較」を用いた分析方法とはいかなるものなのだろうか。本著解説を担当した折原の論稿では、まず自然科学における「実験」の方法を足がかりに論じられている。

 自然科学においては、実験室での実験は重要な分析手法の一つである。ある事象Yに一定の変化を与えるものは何なのかを検証するためには、想像されうる条件X₁、X₂、X₃、X₄、、、といくつかの条件を設定し、その中で人為的に制御を加えることでYに影響を及ぼすXを特定する。例えば、YとX₁との関係を調べたいのであれば、それ以外の条件X₂、X₃、X₄、、、以下を制御する、といった具合である。

 また、これは「比較対照実験」と呼ばれる手法でも同様である。比較対照実験では、まず諸個体を同質的な二群(実験群、対照群)に分ける。さらに、その中で実験群のX₁にのみ変化を加え、X₂以下を一定に制御したうえで、そこに生じる変化を観察して対照群と比較するのである。ここでもし、対照群にはない変化Y=1が生じれば、変化X₁=1が原因であるということが分かるのである。

 しかし、社会科学においては自然科学のように実験の対象を自由に制御したりすることはできないことがほとんどである。ここに社会科学の分析上の一種の「限界」が存在する。では、どうすればいいか。ウェーバーはこの限界を『プロ倫』の中で超えようとする。

 

 言わずもがな、『プロ倫』はプロテスタント、とくにカルヴァン派の教義が西洋において近代資本主義の発展に寄与したことを解き明かした論文であるが、この中で、上述の表記に従うならば、Y=近代的営利追求熱が、どんな条件(X)によって醸成されたのかを解き明かしているといえる。そして、ウェーバーはこの条件として、X₁=当事者の所属宗派(カトリックorプロテスタント)の社会的地位(彼らが所属集団の中で少数派か多数派か)、X₂=信仰内容の恒久的特質、をそれぞれ一方を制御し、交互に検証することで、YはX₁よりもX₂の変化に大きく影響を受けることを解明したのである。

 さらに、ウェーバーは『プロ倫』を執筆後、さらに比較対象の範囲を広げ、「西洋文化圏」以外の地域にまで分析の範囲を拡大したが、これは上述の「比較対照実験」の社会科学的応用に他ならない。つまり、実験群を「西洋文化圏」に設定し、西洋文化圏以以外(例えば「儒教文化圏」)を対照群として設定しているのである。ウェーバーの考えではプロテスタントの教義(X₂)が近代資本主義の創出に寄与したので、西洋文化圏以外の地域がX₂以外の条件が一致しているならば(または一致していると仮定して)、比較の対象となりうるのである。

 だが、多くの場合、比較をする上で異なる地域が見事に条件が一致するようなことはほとんどない。そのため、対照群は思考実験をもとに創出されることもある。そのさい、ウェーバー歴史学者エドゥアルト・マイヤーの概念を引きつつ(詳しくは『歴史は科学か』通称「マイヤー論文」を参照)、①史実的知識(史料に基づく特定の事実に関する知識)、②法則的知識(人々に流布した特定の経験則についての知識「人間はAという状況下においては通例Bという反応をするものである」)の二つを用いて対照群は反実仮想的に思考上で創作される。

 例えば、古代の国家が戦争を契機として繁栄を築いたという仮説が存在するとき、その繁栄の原因を戦争に帰属できることを証明したいのであれば、まず戦争が起きなかった場合にいかなる結果を生み出したのかを反実仮想的に想像することが必要になる。だが、その際にただ単純に夢想するのではなく、②法則的知識に基づいて(例えば、戦争が起こらない場合、民衆は一体的感情を抱くことはない、といった具合に)、さらに①史実的知識(それが実際に史実として起こりうるか)を用いて対照群を構築しなくてはならない。そしてこの対照群と実験群を比較することで、事象の因果帰属が解明するのである。

 

 さて、以上の方法がウェーバーがライフワークとした研究方法である。ウェーバーは無限の経験的事実の中から帰納的に事象を抽出し、誇大な一般理論を構築することには否定的であった(これは後年パーソンズによって試みられたが)。むしろウェーバーは、科学者は「理念型」を携えて、そのつどそのつど経験的事実の中に立ち戻っていなければならないとする。なぜなら、豊富な含意を持つ経験的事実の中から分析に必要な概念を抽出して再構成された「理念型」もやはり、その科学者が置かれている社会的環境、規範、無意識的な趣味嗜好、時代背景などによって拘束されているからである(第一、それが「社会問題」であると認識すること自体、恣意的で時代に要請された感覚にもとづいている)。

 つまり、「価値自由」という言葉でウェーバーが表したかったのは、決して科学者は自らの「価値理念」に対して自由になれるというわけではなく、それを自覚することでまやかしの「客観性」から解放されるということなのである。折原は「価値自由」という言葉には「価値からの自由」と「価値への自由」という二つの含意があると述べているが、後者の「価値への自由」、つまり無機質な事象と事象との間の因果説明を時には捨象して自らの「価値理念」に訴えることもまた科学者に許された「価値自由」なのである。

 しかし、だからといって科学者は完全に「客観性」を失っているということでも、社会政策を担う政治家などは科学者の仕事を無視して、自らの「価値理念」のみにもとづいて実践を行えばよい、というわけでもない。「理念型」と経験的事実との往還こそが時には危うく見失ってしまいがちな「客観性」を保つ、唯一の方法なのである。

 

 最後に、後年のウェーバーの結集点ともいえる「理解社会学」について少し言及しておくと、折原によれば、理解社会学とは、①社会的行為を解明しつつ理解し、②そうすることで当の行為の経過と結果がなぜそうなって別様にはなりえなかったのかを因果的に説明する科学である。つまり、ここには二つの分析の段階が含まれている。①は「解明的理解」で、これは「明証性」を基準として検証される。「明証性」とは、行為の当事者が主観的に抱いている意味が理にかなっていて明瞭に分かる度合いのことを指す。そのため明証性が高いと、誰でもその当事者の経験を追体験することができる。

 しかし、当事者の主観的な意味は経験的に妥当でない場合も存在する(というかその場合がほとんど)。例えば、有名なマートンの例を参照すれば、ある部族の雨乞いの儀式は当事者にとっては「雨を降らせる」という主観的な意味を持った行為ではあるが、違った結果(潜在機能、意図せざる結果)をもたらすこともある。そういった場合、これには当事者ではなく、科学者による「経験的妥当性」を基準とする説明を要する。これが②の「因果的説明」である。

 言い換えれば、理解社会学とは明証的に理解された意味連関(①)をまずは因果「仮説」として立て、その経験的妥当性を科学一般の論理・語彙にしたがって検証し(②)、①・②をともに満たす、つまり明証的に理解でき、かつ因果的に妥当な説明を目指す社会学的アプローチであるということができるだろう。

 折原が言うように、その際、理にかなっていて理解できる「合理的行為」を「理念型」として構成し、これを実際の経験的行為と比較するという手法を取ることになる。だが、これをもって、世界が最終的に合理的行為によって満たされるという事をウェーバーが言っているというふうに解釈してはならない。むしろ、世界は非合理的なこと、行為にあふれている。それらの非合理性を理解するのもまた、合理的に構成された「理念型」を通してしかできないのである。

 また、「理念型」は「理念(理想)の理念型」と混同してはならない。例えば、「国家」の「理念型」は、ウェーバーの定義によれば、「強制的暴力手段を保持する政治的装置」であるが、実際に国民(=当事者)が理念(理想)として心に抱いている理念型は異なるもの(例えば、「国家は人民の意志にもとづいて構築される」といった具合に)である。だが、両者はしばしば相互に関係しあいながら(多くの場合は後者が前者を参照しながら)、結びついている。そのため、科学者は当事者の「理念の理念型」をさらに分析し、必要とあらばさらにそこから「理念型´」を構築しなければならないのである(ここら辺の議論は知識社会学に接続可能な気がする)。

ナショナリズム・エスニシティ論における本質主義と構築主義

 最近、ナショナリズムエスニシティ研究について勉強しているので頭の整理のためにここに記しておきたい。

 

 まず、ナショナリズム研究には様々な主義主張の分野があり、それぞれ対立軸が存在する

 

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

 

 上の吉野(1997)によると、それは大きく分けて、「原初主義」と「境界主義」、「表出主義」と「手段主義」、「歴史主義」と「近代主義」である。

 「原初主義」は民族集団の歴史や宗教、文化といったものを媒介とした原初的絆が民族を結び付けているのだと主張する一方で、「境界主義」は民族を存続させているのはそういった絆ではなく、「境界」策定の過程にあるのだと主張する。さらに、「表出主義」は民族を単なる象徴体系の表出として扱う一方で、「手段主義」は「民族」といった概念やそれを標榜するナショナリズムは単にある集団が利害関心に基づいて利用している手段に過ぎないと主張する。そして、最後にもっとも論争的な三番目の対立では、「歴史主義」がネーション(らしきもの)は前近代にも存在していたとする一方で、「近代主義」はネーションは近代になってから創出されたと主張するのである。

 この著作が書かれたのが1997年で今より20年前の話だが、このナショナリズム論争は今でもホットなものとして続いているように思う。その中でも、上述のように「歴史主義」と「近代主義」の対立がよく取り上げられることが多いが、実はこの両者は別に対立しているわけではない。歴史主義者としてよくやり玉に挙げられるA・スミスは、近代主義の代表的論者であるB・アンダーソン、E・ゲルナー、E・ホブズボームなどの議論は一部では正しいし、参照に値すると述べている。だが、彼が強調しているのは、ナショナリズムが近代になって突然現れたという見方はあまりにも「近代」の能力を過信しているということである(そこで彼が主張するのがネーションの原型になった前近代の「エトニ」という概念である)。

 筆者としても、ナショナリズムが近代に入ってから爆発的に流行したことは認めざるを得ないが、かといってネーションが前近代に突然誕生したとするのには少し疑問がある。第一、このようにネーション、ナショナリズムの起源を探っていく作業は必然的に研究者の主義主張を反映させてしまい、「ネーション」というものをまず何と定義するかによってそこから導き出される答えも違ってくる。例えば、「ネーション」を「共通の歴史経験と愛着によって結び付けられた集団」というふうに広く定義してしまえば、それは前近代にも存在したことになるし、「共通の歴史・文化的経験を持ち、かつ同じ領域的・政治的単位に属する集団」と厳密に定義してしまえば、近代の産物であるといえてしまうのである。そのため、この対立(ネーションの起源をたどること)はいささか決着のつけようのないものだといわざるを得ない。

 

 

エスニシティを問いなおす―理論と変容

エスニシティを問いなおす―理論と変容

 

 

 次にいわゆる「原初主義」と「境界主義」の対立についても見てみたい。この対立はそもそもナショナリズム研究の中でなされたものではなく、どちらかというとエスニシティ(あるいは部族tribe)研究の中(とりわけ文化・社会人類学)で繰り広げられた議論である。人類学の中では、古くから民族という集団は自明のものとして存在するという考え方がなされてきた(これを「本質主義」という)。そのため、古くから人類学者は未開の「民族」を知るためにその民族の文化などを研究してきた。

 しかし、次第にそういった見方に一石を投じるような研究が出現する。それが、部族やエスニシティ、民族といったカテゴリーは本質的(アプリオリ)に存在するものではなく、可変的でアメーバのように変化していくものであるという主張である。これを「構築主義」という。構築主義は人類学に限らず、広い分野で採用されている考え方ではあるが、人類学においてそれを真っ先に取り入れたのがF・バルトであり、彼が提唱したのがBoundary Approach、いわゆる「境界主義」である(以下の著書に、バルトの唯一の邦訳が収められている。しかし、これを見ただけではバルトの主張は把握しづらいかもしれない)。

 

「エスニック」とは何か―エスニシティ基本論文選 (「知」の扉をひらく)

「エスニック」とは何か―エスニシティ基本論文選 (「知」の扉をひらく)

 

  「境界主義」は従来までの本質主義が「一人種=一文化=一言語、および一社会は他者を拒否し、他と区別される一単位である」というステレオタイプを見直す必要があると主張する。なぜなら、同じエスニシティを有していると目されている集団の中でも異なる人種で、異文化、多言語を操っていることは多々あるからである。さらに、同じエスニシック・グループが時間が経過するにつれて、もっと大きなグループに飲まれて変容することだってありうる。その時、そのエスニック・グループは以前の人種・文化・言語を完全に捨て去ることができるだろうか?

 そこでバルトは、民族やエスニシティを固定的なものと考えることはやめ、その集団の文化それ自体に注目するのではなく、二つ以上の集団の間にある境界に注目したのである。

エスニック集団は、ただたんにーーあるいは必ずしもーー排他的な土地の占有を基礎としているわけではない。集団が維持されていくさまざまな方法ーー一度かぎりの成員編入だけでなく、継続的な意志表明や認定によっても行なわれるーーについては、分析が必要である。(前掲書 1996: 34)

  つまり、バルトは、エスニック集団がどのように「われわれ」と「やつら」を区別し、境界を引いていくのか、その過程を分析する必要があると言っているのである。

 これは今まで民族とは所与の、本質的なものだと考えてきた「本質主義」を否定し、「民族」は時代ごとに構築されていくものだとする点で、ある意味で「歴史主義」に対する「近代主義」の立場にも少し似ている(実際は「歴史主義」は本質主義を否定するだろうが)。要するに、少々大雑把にナショナリズムエスニシティの議論を総括すれば、その大きな対立軸は「本質主義」か、「構築主義」かの二項対立になるというわけである。そして、現在ではどちらかというと「構築主義」の考え方が優勢であり、「本質主義」は軽視されている傾向にある。

 

 以上、これまでナショナリズムエスニシティの議論をまとめてきた。上述のように今では「構築主義」が優勢となっているが、「構築主義」はあまりにも語りやすく、キャッチーな立場であるため、すでにあらゆる場面に浸透しすぎてしまっている。しかも、「構築主義」はしばしば同様の結論に行き当たってしまい、問題の本質を覆い隠してしまうこともある(例えば、「民族は創られるものである」という結論を下すことで論を結んでいる論文は数多くあるが、それらはしばしば、なぜそのように創られたのか、その結論をどう実践の場で生かすのかを明確にしていないことがある)。

 そういった「構築主義」が陥ってしまった学問的な溢路を抜け出そうとしている研究者がいる。それがR・ブルーベイカーである。

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

 

 

 

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

 

 ブルーベイカーの日本語訳は以上の二冊だけ。実は私もまだ読んでいないので、今回はブルーベイカーの翻訳に携わり、ナショナリズム研究の第一人者である佐藤成基氏がまとめた論文(http://hdl.handle.net/10114/13318)をもとに、彼の分析枠組みを整理してみたい。

 ブルーベイカーは「今やだれもが構築主義者になってしまった」と述べ、その溢路を抜け出すためには構築主義者が軽視してきた「本質主義」をもう一度検討すべきであるとする。だからと言って、彼は「本質主義に帰れ」と言って時代の流れに逆行することを提唱しているわけではない。彼は構築主義が残した功績である「民族(およびネーション、エスニシティ、人種)は創られる」というテーゼは尊重したうえで、それが構築されていく過程を分析するべきであると主張しているのである。

 彼は自らが取るアプローチを「認知的視座(Cognitive Perspective)」と呼ぶ。これは「人種、エスニシティ、ネーションという概念によって理解されている現象を、実在する集団としてではなく、社会的世界を理解する際に人々が用いる認知のカテゴリーとして捉えるアプローチ」である(佐藤 2017: 21)。

 これはどういうことか。従来までのナショナリズムエスニシティ研究では、研究者の立場から「ネーション(あるいはエスニシティ)とは何か」を問い、それを客観的な視点から分析することを目指してきたため、しばしば実際にそういったナショナリズム運動などを行っている当事者の視点を置き去りにしてしまうことが多々あった。これを彼は「分析のカテゴリー」で研究を行っているという。そして「分析のカテゴリー」を用いて彼らの運動を見れば、現実とは乖離して形而上学的な机上の空論に陥ってしまい、分析がストップしてしまうことになっていた。

 そのため、彼は研究者が占有する「分析カテゴリー」から当事者の側に立った「実践カテゴリー」を用いて研究することを提唱している。つまり、「現実の社会で当事者たちがいかに「ネーション」というカテゴリーを用いて発言し、行動しているのか、それがいかにして社会過程の中で制度化され、広く共有され、あたかも実在の集団であるかのように『物象化(reification)』され、人々の行動を突き動かしているのか」を問うべきであるというのである(佐藤 2017: 22)。

 これは「何かが構築される」ということに注目してきた「構築主義」的な分析アプローチに対するアンチテーゼである。なぜなら、民族などを絶対的なものと見なす「本質主義」に対して、「そんなものは存在しない、構築されるのだ」と言い放った「構築主義」自身もいまだに対象を一つの実体的な「集団」として見なしているからである。認知的視座に立つというのは、「その何かが構築されていく過程において人々の用いる認知的カテゴリーの働きに注目していく」という点で新しいアプローチである(佐藤 2017: 26)。

 では、その具体的な分析方法はどういったものなのか。ブルーベイカーはそこには「上からのアプローチ」と「下からのアプローチ」があるという。前者のやり方としては、主として国家が公式に下すカテゴリー区分である。それは、法律、人口統計などを通して行われるため、そういった過程を分析していくことになる。さらに後者はインフォーマルな日常的実践を見るやり方である。それでは日常的な会話(エスノメソドロジー)や社会的なコンフリクトが発生した時に顕現化する言説などを分析の対象とする。

 そもそもブルーベイカーが当事者が選定する「カテゴリー」に分析の主眼を置く根拠は認知心理学認知人類学の研究業績に基づいてる。それらの研究では、人間には生来物事をカテゴライズする能力が備わっているという。さらに、単にカテゴライズするだけではなく、分類したそれぞれの事象を自らの経験や出来事と関連付け、世界を慣れ親しんだストーリー(筋書き)に沿って解釈していく能力(「図式(schema)」)があるという。人間のそういった能力は半ば無意識的になされるため、「手段主義」が主張するような当事者の狙いにそってカテゴリーが利用されることはあまりないという。

 一読するとこれはたしかに現在袋小路に入ってしまっているナショナリズムエスニシティ研究をすくい出す唯一の分析枠組みであるように見える。しかも、カテゴリーに主眼を置いているので、ナショナリズムエスニシティ研究を超えて、広い分野にまで波及しうる概念であるいえるかもしれない(例えば、ジェンダーや階級など)。しかし、佐藤もいうようにその是非はまだ定かではない。実際まだ生まれたばかりであるこの考え方は実際のエリアスタディに応用された例も少ない。さらに、社会学の枠を超えて心理学、人類学にまで架橋しているこの分析枠組みは、まだ社会学の分野内でどれほど影響を持ちうるかもわからない。だが、新たな社会学の道が開くのではないかと予感させる、ワクワクするような試みとして今後の発展を注視していきたい。

E・デュルケーム『自殺論』

 

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 

 

言わずと知れた社会学の名著、『自殺論』について。

本書を初めて読んだのは、大学2年生の頃だったと思う。当時は社会学について専門的に学び始めたばかりで、ただただ退屈で通読するのが苦痛だったことを覚えている。

そして今読み返してみると、あら不思議。ここまで単純明快で、かつ社会学の基礎が詰まった本は他の入門書なんかを読んでみてもなかったのではないかとすら思える。

本書はタイトルが示す通り、「自殺」という社会現象を論じているわけだが、これが社会学の学部生の必読書として確固とした地位を占めている理由はそれだけではない。本書の「自殺」を論じるにあたって取られている分析・実証の方法が、今でも色褪せず模範として参照できるのである。それはどういうことか、以下で見ていこう。

 

デュルケームが本書で明かしたいことはつまりこういうことである。

「自殺とは社会の性質によってその促進率や抑制率が変化する」

今となっては、これは自明のことのように思えるかもしれないが、当時ではあまりポピュラーな考え方ではなかったようである。というのも、当時は(今もそうかもしれないが)自殺は気候や個人の性格、宗教、家族、民族的な気質などに起因していると考えられていたからである。だから、自殺者に対しては、「冬だから憂鬱で」とか、「あの人はよく思い悩む質で」などの言葉で済まされていた。

しかし、デュルケームはそれに異を唱える。そういった自殺の原因や分類は、全く科学的に立証されたものではなく、個人的な肌感覚で下された判断でしかないからだ。彼は前著『社会学的方法の基準』で、「社会も科学の対象となりうる」という命題を打ち出していた。それは本著でも一貫している。

社会学者は、社会的事実にかんする形而上学的思弁に甘んじないで、はっきりとその輪郭をえがくことができ、いわば指でさししめされ、その境界がどこからどこまでであるかをいうことができるような事実群を、その研究対象とし、断固それととりくまなければならない。また歴史学民族誌統計学などの補助的分野をたんねんに参照しなければならない。(p11) 

 自殺を論じるにあたって、主観的な価値判断や、また「自殺は反道徳的な行為だ」と倫理的な判断を下すことを避け、客観的なデータを用いて「社会的事実」のみから分析しなければならないとデュルケームは言うのである。

そしてそれを実践するために、本書でデュルケームは膨大な数の統計データを利用している。当時(19世紀後半)のことを考えると、分析に耐えうるだけの統計をまず収集すること自体が難しかったはずである。しかし、デュルケームは甥のマルセル・モースや論敵であったタルドの協力を得て、フランスだけでなくヨーロッパ各国の資料をかき集めている。そこに本書が100年以上経った今でも参照され続ける理由の一端がある。

 

 さて、では本書の分析の中身を見ていこう。

デュルケームは上に挙げた仮説を立証するにあたって、まず予想されうる反論や他の主張を論破していく。これが「第1編 非社会的要因」の中で行われているわけだが、ここだけで100ページ以上も費やしている。そしてそれらも、客観的な統計資料を使うことで行われるため、非常に明快でその主張には力強さがある。

例えば、デュルケームは自殺の主要因と考えられているものとして、「有機的・心理的傾向」と「物理的環境の性質」の二種があるという。前者は、個人の性格や人種、遺伝、精神病などが自殺の原因であるとする主張で、後者は気候や季節の気温によって自殺の発生率は決まるとする主張である。しかし、ここでは詳述しないが、どちらの主張もデュルケームの提示するデータを見てみると反論に耐えうるものではないことが分かる。すなわち、「自殺を増減させる原因は生来の不変な一衝動にではなく、社会生活の漸進的な作用にある」のである(p100)。

 

第1編では、自殺の要因では「ない」ものをバッサバッサと論破していった。いわば、消去法によって、自殺は「社会的要因」によって起こるということを証明したのである。そして次なる第2編では、その自殺の社会的要因とは何なのかを具体的に説明していく。すなわち、自殺の社会的要因をタイプ分けしていくのである。

しかし、そうはいっても自殺の原因をタイプ分けなど不可能ではないか。なぜなら、その原因を唯一知っているはずの本人がすでにいないからである。しかも、もし当の本人が生きていたとしても、内から沸き起こる葛藤や不安、恐怖の中で自分が自殺という方法を取った原因は本人にも把握できているとは限らない。それはフロイトが言う意味での、深層心理に入っていくことで初めて分かることであり、カウンセラーの力を借りて初めて分かることもありうるのだ。

では、どうやって自殺を分類するのか。自殺の際に取られた手法(絞殺、毒殺か、など)で分類するのも表層だけの分類に終わり、無理がありそうだ。そして試行錯誤の末、デュルケームが取った方法は、まず「自殺の増減をうながすさまざまの社会的環境(宗派、家族、政治社会、職業集団など)の状態がどうなっているか」を見ていくことだった(p170)。

 

まずデュルケームが検討したのは、宗教の違いが自殺に与える影響である。つまり、プロテスタントの国家が他にも増して自殺者が多いのはいかなる理由かということを検討するのである。

そして、その答えとしてデュルケームは、プロテスタンティズムには「自由検討」が認められていることを挙げる。これはプロテスタント(ルター)が堕落した教会に反発して「万人司祭」を唱えたことからも分かるように、従来の教皇を頂点とするヒエラルキーが確固として存在するカトリックのシステムと比べて、一信者に裁量の自由を与えられていることを意味する。つまり、カトリックでは人間がどうしようもない困難に対峙した時に「神(教皇)の思し召し」と一様に片づけていたことを、プロテスタントは自らの行いを省みながら、批判検討しなければならないということである(詳しくはM・ウェーバー『プロ倫』を見よ)。

しかし、だからと言ってプロテスタントの信者はみな自殺に走るというわけではもちろんない。その証拠に、プロテスタント国家であるイギリスは自殺率はさほど高くない。その理由は、イギリスがプロテスタントでありながら、旧来の階級化されたヒエラルキーを温存しているからである。つまり、英国の信者(国民)には批判検討する自由はドイツなどと比べてもあまりないということである。

では、カトリックにあって、プロテスタントにない特性とは一体何なのであろうか。それはつまり「社会的凝集力の強さ」である。デュルケームは言う。

宗教が人びとを自己破壊への欲求から守ってくれるのは、宗教が一種独特の論理で人格尊重を説くからではなく、宗教がひとつの社会だからなのである。その社会を構成しているのが、すべての信者に共通の、伝統的な、またそれだけに強制的な、一定の信仰と儀礼の存在にほかならない。そのような集合的状態が多ければ多いほど、また強ければ強いほど、宗教的共同体は緊密に統合されているわけで、それだけ自殺を抑止する力もつよいことになる。(p196-7)

宗派の比較によって明らかになったのは、どの宗派が良いか悪いかではなく、「社会的凝集力の強さによって自殺率の高低は決まる」という命題である。これは宗教に限らず、いろんな共同体にも適用できそうである。

そしてデュルケームはこれを「宗教社会」だけでなく、「家族」、「政治社会」にも適用して検証していく。ここでは詳細は省くが、それによって同様に、家族(政治社会)の密度が高いところでは自殺の発生率は低くなっていることが明らかになる。「すなわち、自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」(p247-8)。

このように、社会的凝集力が弱くなることによって個人が社会のくびきから解放され、依拠するものがなくなり自殺に及んでしまうことをデュルケーム「自己本位的自殺」と呼ぶ。これが第一の自殺のタイプである。

 

さて、次にデュルケームが試みた検証の対象は自己本位的自殺と、いわば相対するものである。いわく、「人は社会から切り離されるとき自殺をしやすくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである」(p260)。このように「社会が個人をあまりにも強くその従属下においているところから起こる」この自殺をデュルケーム「集団本位的自殺」と名付ける(p265-6)。

さらに集団本位的自殺のなかにも、下部概念として「義務的集団本位的自殺」、「随意的集団本位的自殺」、「激しい集団本位的自殺」の三つが存在する。正直言って、これらの区分に明確な妥当性があるかは疑わしいが、参考程度に記述しておく(例えばデュルケームはこの三者の区分は自殺が法などによって明文化されているのか否か、自殺者が自発的か否かに基づいているというがそれを判断するのは難しい)。

いずれにせよ、集団本位的自殺を理解するのはさほど難しくないのではなかろうか。デュルケームが言うように、この自殺のタイプを理解するのに最も分かりやすい例は「軍隊」である。中でも、私が思い浮かべたのは「特攻」である。彼らは、集団、つまり国のために自らの死をいとわず敵に突っ込んで玉砕していった。これは「国家」という社会集団の中に無理やりにも埋め込まれていった者がたどる悲しき末路であり、集団本位的自殺を理解する上では最も分かりやすい事例ではなかろうか(これはまた「ナショナリズム」などの近代的な問題にも関わることである点で検証の余地がある)。

 

そして最後にデュルケームが注目したのは、ある社会的な危機に瀕した時に自殺率が大きく変動する点である。これは以上の二つの自殺の分類にも当てはまりそうもない。なぜなら、そこには社会と個人を離したり、結び付けたりする「遠心力」の効果ではなく、「個人の規制」という効果が深く作用しているからである。

これは一体どういうことか。注目すべき事例は経済危機である。経済危機が起こると自殺者の数が増えるということが統計によって明らかにされている。そして、それは経済危機によって生活に困窮し、追い詰められた人々が自殺に走るのだと解されてきた。しかし、それは違うとデュルケームは言う。なぜなら、経済が危機に陥る時だけでなく、発展に転ぶときでも同様に自殺者が増えることが統計によって明らかにされたからである。この社会的事実をどう解釈すればいいのだろう。

さらに統計は、驚くべき結果を導き出す。自殺率は、労働者階級よりも、その雇用主の階級において増加するのである。労働者は経済危機に際して、たとえ解雇されても現在の待遇が悪化する割合は少ない。対して、雇用主の場合は会社を経営する責任や裁量など、労働者以上に背負うものが多く、経済危機によって失うものも大きい。また、それは経済が好転した場合でも、責任が軽量化するわけではなく、かえって重くのしかかってくることになる。さらに競争も激しくなる。

経済が危機に転じるか、好転するかにかかわらず、従来までの安定した社会的秩序が激変した時に自殺の数は増加する。デュルケームは、これをアノミー的自殺」と名付けている。アノミー的自殺は「人の活動が規制されなくなり、それによってかれらが苦悩を負わされているところから生じる」のである(p319)。

 

以上でデュルケームが主張する自殺の3タイプが出そろった。しかし、だからと言ってすべての自殺が以上のどれか一つに分類されうるということでは決してない。これは社会学の一般化によってしばしば誤解される点だが、すべての社会的事象が「白か黒か」で区別できるわけではないのと同様に、自殺も各タイプの混合形態に分類されうることもありうるのである(例えば、「集団本位的・アノミー的自殺」や「自己本位的・アノミー的自殺」など)。

だからと言って、このタイプ分けが全て無駄になるというわけでもない。この分類がなければ、そもそも自殺を理解すること自体ができないからである。この少々大雑把な分類はたたき上げとして非常に有用なものなのである。

 

そしてデュルケームは最終章で「実践的な結論」と題して、導き出された結論から自殺問題への解決策を提示している。すなわち、自殺を増加させている主因とは、社会の凝集力が弱まり、個人が剥き出しのまま外部に投げ出されることにあった。ならば、もう一度個人を包摂するような社会を創出すればいいのである。

しかし、それは前近代的な宗教的共同体(とりわけカトリックユダヤ教的共同体)や、家父長的家族、政治的共同体ではない。近代においては、宗教のくびきから解き放たれ、「脱魔術化」しており、また家族も核家族世帯が主流となり、子供は一層都市に向かって進学・就職する傾向にある。それはもはや近代の逃げられぬ宿命であり、不可逆的な変化である。そして政治的共同体では結局利害によるゼロサムゲームを繰り返してしまい、個人を包摂するような連帯は生まれない。

では、一体どういう社会が望ましいのか。デュルケームが提示するのは、すなわち「同業組合」である。これは中世的なギルドを思い浮かべてもらえるとわかりやすいだろう。

それは、同じ労働に従事している個人によって構成されているし、彼らの利害は連帯し、一体化してさえいるので、社会的な観念や感情をはぐくむうえでこれほどうってつけの地盤はない。出自、教養、職業などが同一のため、職業活動は共同生活にとってこのうえなく豊富な素材をなしている。(p485) 

 

だが、もちろんのように、これは自殺を解決できる唯一無二の策とはいいがたい。周知のように、こういった同業組合による連帯を試みたのが、戦後の日本だったからである。「従業員は家族」という信念のもと、戦後の日本は新卒一括採用、年功序列賃金制などの安定したパイプライン・システムを構築していたが、自殺率はそれほど低下してなかったのではないか。

しかもこのような安定的なシステムは高度経済成長の時代だからこそ約束されていたものであり、それが見事に崩壊した現在ではなおいっそう同業組合による連帯は難しそうである。そして、デュルケームの時代にもそういった事態はすでに起こっていたようである。

現在の同業組合は、じつは、たがいに縁もゆかりもないような個々人、表面的でときおりのむすびつきしかないような個々人、あるいは協力者としてよりも、むしろ競争者や敵対者としてたがいを遇しあってさえいるような個々人などからなっている。(p488-9) 

要は、デュルケーム自身も自殺を解決できるようなスペシャルな策は持ち合わせていないということである。

だからと言って、本書の価値が落ちるというわけでは決してない。第一、100年以上も前の時代背景で分析されてきた自殺の問題を、いくら現代でもアクチュアルな問題として横たわっているからといって現代の文脈で批判すること自体が間違っている。しかし、逆説的に言えば、本書のすごさはそういった現代の文脈に落としてみても反論・推敲の価値がいまだにあるという点にあるのだろう。本書は、これから自殺を論じるにあたって、また社会学的方法を検討するにあたって、これからも何度も参照していくことになるのであろう。

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』

もう一冊、読んだ本について。

民族とナショナリズム

民族とナショナリズム

 

 ナショナリズム論を取り上げる時に、B・アンダーソンの『想像の共同体』と並んで語られる代表作。

ナショナリズム論には、大きく分けて「近代主義」と「歴史主義」という二つのアプローチが存在する。「近代主義」の代表的論者が、アンダーソンとゲルナーで、それに反論する「歴史主義」の論者は前回挙げたA・D・スミスなどである。何が彼らの主張を分けているのかというと、要は「ナショナリズムが近代の所産か、否か」という点にある。アンダーソンはナショナリズムは近代に入って、「出版資本主義」(新聞や書物の爆発的な普及)などの影響もあって増加したと分析する。対してスミスは、いやナショナリズムやネーションと思しきものは近代以前、例えば農耕時代にもコミュニティとコミュニティがぶつかるときに発生していたのではないか、と反論しているのである。

そしてゲルナーはというと、本著で近代主義の立場から、「ナショナリズムは産業社会に突入してから生まれた」と主張するのである。ゲルナーは人間社会の歴史を、大きく「前農耕社会」、「農耕社会」、「産業社会」の三つに分けている。前農耕社会というのはいわゆる中世以前、古代の世界と考えていいだろう。この世界では、もっぱら人々は採集狩猟に明け暮れており、国家のようなまとまった組織は存在しなかった。そして農耕社会というのは日本でいうところ、明治以前の時代だろう。この時代には、国家に相当するよう社会を統制するような組織が確かに存在した。だが、この時代でも例えば、年貢を中央に収めれば、あとは自分の領土で好きなようにすればいいというようなゆるいつながりの世界だった。

そして人類は近代化し、産業社会に入る。ここでいう産業社会というのは、著者がたびたびM・ウェーバーを引き合いに出しているところからも分かるように、資本主義社会と言い換えてもいいだろう。この社会では前近代のいずれの社会とも異なり、明確に人民の生活、そして領土内の経済的利益を確保することを目的とした「国家」が誕生している。国家は一定領土内の人民、安全、秩序を守るために、唯一それらを管理する暴力を許された機関である。「ナショナリズムの問題は国家が存在しない時には起らない。」(p9)国家が生まれた近代に入らなければ、ナショナリズムも生まれなかったというわけである。

では産業社会に入って、具体的に何が変わったのか。それをゲルナーデュルケームの「分業」という概念を用いて説明している。前近代の社会では、文字の読み書きや文化というのは支配階級の余暇でしかなかった。それ以外の被支配階級、農民やギルドなどは家庭やコミュニティの中で一子相伝の技術を受け継ぎ、それを生業にして生活していた。つまり、総人口の1パーセントほどの上流階級は意思疎通の手段を有していたが、下層階級は方言や文化的な隔たりによってほとんど交わることはなく、同じアイデンティティを共有することがなかったのである。(これは江戸時代に、○○屋の△△君と人間を呼称していたことを思い浮かべれば分かりやすいだろう。江戸時代などでは所属の単位はその家系が営むお店などだったのである。)この時代には人々はそれぞれ家業があり、お互いに分業し、それは固定的なものだった。

だが、近代に入ると、まず大きく教育制度が変化する。子供たちは一括近代的なマス教育を施され、基本的な読み書き能力、文化の受容、計算能力を身につける。そしてところてん式に小学、中学、高校と進学していき、国家にとって使い勝手のいい人材に育っていく。また、近代に入っての技術革新も相まって、あらゆる産業は最低限の教育を受けた者なら難なく労働者としてコミットできるものになった。そのため前近代と比べ、職業が固定化されることは少なくなり、近代では誰でも色んな職業に就けるような流動的な社会になったのである。

これは人々に大きな意識の変化を及ぼした。人々は一生の仕事を生まれる前から決定されるようなことはなくなった。それはつまり、前近代まで人々の所属の単位であった「家業」が消失したことを意味する。では、次に人々の集団的アイデンティティ欲求を埋めてくれるものは何なのか。それが「民族」なのだという。人々は社会階層を上下に自由に移動する権利と可能性(いざとなれば自分も政府の上役になれる)を手にしたことによって、自らが国家の一員であることを確認する手段を得たのである。

そして国家はそういった均質的な社会秩序の安定を望むため、文化、民族の統一を行おうとする。そのため、それまでハイカルチャーの隠れ蓑の下にあった、サブカルチャーは抑圧され、ひどいときには存続を危ぶまれるようになる。その時に、自らの権利を訴えるような運動が起こるが、これが戦後に入って世界各地で勃発したナショナリズムの原因になったのである。

アンダーソンやスミスの時と同様に、ナショナリズム論はどの立場をとるか、ナショナリズムをどう定義するかによって全く異なる結論になる。そのため、近代主義や歴史主義のどれが正しいかの是非はおそらく一生でない答えだろうと思うが、本著で提示された分析は今の世界情勢とも比較しながら、判断していく必要があるだろう。

ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』

めちゃくちゃ久しぶりにブログを書く。

というか、もうかなり長いこと「書く」という行為をしていなかったので明らかに文章力が低下していると思うが、ご愛嬌ということで。

 

さて、今日はブレイディみかこ著『子どもたちの階級闘争』という本について書く。

 これは出版されてから、すでに各新聞社の書評欄に登場し、巷では三か月ほど前からもう話題で持ちきりになっていた本である。

イギリスのEU離脱を受けて、日本国内でも「国民投票」、「民主主義」というものの危うさが喚起された。だが、日本でずっと暮らしていた私は、イギリス社会がなぜこんなにも分断しているのかが分からなかった。それは大部分の日本人も同じことだと思う。メディアでは分断が起こっている現在の状況を説明しているが、そこに至るまでのプロセスが詳細につかめなかった。いきなりこうなったのではないはずだ。そこに至るまでにひっそりと病理が潜んでいたはずである。

そういった経緯を「緊縮」というワードとともに、託児所の中で繰り広げられた日常をつぶさに見ていくことで活写しているのが本著である。著者曰く、「地べたにはポリティクスが転がっている」。イギリスで政権が交代し、政策がガラッと変わった時に最もラディカルに生活が変化したのが、そういった「地べた」(作中では「アンダークラス」や「移民」などの社会的階層のことを指す)で生きる人々である。つまり、「地べた」を見ることで社会の病理が見えてくるのである。

本著は大きく分けて、二部構成になっている。一部が保守党が政権を握っていた時代の2015-2016年「緊縮託児所時代」、そして二部がそれ以前の2008-2010年「底辺託児所時代」である。著者が言うように、この一部と二部では描かれる人々の雰囲気も大きく異なっている。簡単に言えば、どちらもいわば社会の底辺層が登場するのだが、二部と比べて一部では人々に「諦め」というか「悲壮感」が漂っているのである。

これはどういうことか。2010年に保守党が政権を取り、大規模な財政緊縮政策を採用する前も、すでに「ブロークン・ブリテン」という言葉が示すように、社会のアンダークラスは崩壊しつつあった。しかしそういった状況で、親のドラッグやアル中の影響により託児所に預けられた子供たちはアナキーながらも、喧嘩をしながら互いに折り合いをつけていた。

〔底辺託児所では〕レイシスト的なことを口にする白人の下層階級も、スーパーリベラルな思想を持つインテリ・ヒッピーたちも、移民の保育士や親子も、同じ場所でなんとなく共生していた。 違う信条やバックグラウンドを持つ人々は、みんなが仲良しだったわけでも、話があったわけでもないが、互いが互いを不必要なまでに憎悪し合うようなことはなかったのである。そこには、「右」も「左」も関係ない、「下側の者たち」のコミュニティが確かに存在したのである。(p182)

底辺託児所はいわば、いろんな人間が集まる坩堝である。だから当然そこに集まった子供たちは互いに衝突することは不可避である。だが、それは日本の幼稚園や保育園でも起こりうる喧嘩で、衝突の後には和解もある。彼らは心の底からお互いを憎んでいるのではなく、自分の境遇に対する不満を相手にぶつけているだけに過ぎないのだから。

そういった状況が緊縮託児所ではガラッと変わる。まず、政府からの援助金が下りなくなったので託児所自体の存続が危ぶまれる。そして、生活保護の許可も下りにくくなる。興味深いことに、託児所に集まってくる人種構成も変化した。緊縮時代には子供たちの数が減り、移民向けの「英語教室」を開催したため、移民層の子供たちが増加した。そして、移民がマジョリティになり、イギリス人アンダークラスがマイノリティになると今までの状況が一変する。

移民の人々のほうが貧しい土地から脱出し、イギリスという新しい土地で成功を夢見ている分、上昇志向の強い保護者が多い。そのため、粗野で身だしなみや言葉遣いで出身がばれてしまう英国人アンダークラスの保護者のほうが移民にさげすまれ、排除の対象になるのだという。これはよくメディアで取り上げられる「伝統的な英国人が移民排除を訴えている」という構図とは全くの逆である。そのコミュニティで誰がマジョリティなのか、そして誰がマイノリティなのかによって排除する側とされる側という構図は大きく変化することになる。エスニシティによって、絶対的に排除ー被排除の関係が決定されるわけではないのである。

底辺託児所時代も楽ではなかった。しかし、そこには緊縮時代にはなくなった「アナキズム」があった。そのアナキズムには命を削り合いながら、人間の尊厳を確認し合うような力強さがあったのだ。

最後に、著者は自分が託児所というぬかるみに足を突っ込みながら、政治を見てきて体感するようになったことを以下のように述べている。

政治は議論するものでも、思考するものでもない。それは生きることであり、暮らすことだ。(p282) 

この言葉は実際に現場を知り、そこで悪戦苦闘してきた人が言うからこそ響くものがある。

深井智明『プロテスタンティズム』

最近読んだ本、深井智明著『プロテスタンティズム』について。

 

 最近ゼミの授業で「宗教共同体」から「国民共同体」に移行する過程を発表する機会があったので、この本の特に第1~3章あたりはもろ参考になった。個人的には社会学を学んでいるので「プロテスタンティズム」と言われれば、ウェーバーの『プロ倫』が真っ先に思い浮かぶのだが、この本ではそういった社会学的知識だけに限らず、神学、歴史学など多岐にわたる知識を横断的に用いているため分かりやすく、かつ幅広く、今までにない議論もカバーできている。

個人的に面白いなと思ったのは、ルターが95か条の提題を打ち出したことよって宗教改革が華々しく始まったというような従来の見方に異議を唱えている点。いわく、ルターが行ったのはあくまで腐敗した教会に対してその状況を批判し、「リフォーム」を求める運動に過ぎなかったということである。その点ではルター自身が行った運動は「カトリック的なもの」の枠をそこまで大きく逸脱していなかったのである。むしろルターが行ったことのより重要な点は、一元的なカトリック教会組織(バチカンにある教皇を主とする階序的な仕組み)以外にも神に対して信仰を表すことができるということを発見したことなのである。ルターはそれが「聖書」に帰ることによってなされると主張した。しかし、聖書の教義などははっきり言って、その人がどう読むかによって如何様にも変化するものであり、必然的に解釈をめぐって多くの分派が起こってしまったのである。そしてそれはのちに「カルヴァン派」や、より先鋭的でルターら初期改革者の不徹底さを指摘する「洗礼派」や「再洗礼派」などの派閥に分裂していき、ドイツを超えて世界に波及していった。そのため、著者は神学者トレルチの定義にしたがってルター以来のプロテスタンティズムを「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」に分けて考えるべきだと主張する。

トレルチは「宗教改革は中世に属する」と述べた。つまり、ルター派カルヴァン派らは「宗教は宮廷や一つの政治的領域の支配者のものであり、改革も政治主導で行われる」と主張する点では中世と変わっていなかったのである(p107)。トレルチはこれを「古プロテスタンティズム」と定義した。「領主と協力して領内の宗教を統一し、社会に秩序観や道徳を提供するシステム」である(p108)。そしてそれは原理的にはカトリックがやっていことの焼き直しのように見えたため、急進的な勢力は古プロテスタンティズムに真っ向から対立していった。それが洗礼主義(バプテスト)や再洗礼派(アナバプテスト)などの「新プロテスタンティズム」なのである。彼らにとっては古プロテスタンティズムは「自由な信仰」を抑圧する敵対者だったのである。

両者の決定的な違いは、「『教会』を『地域共同体としての政治的単位』との関わりで考えるのか、それとも『信仰者の自発的な共同体』として考えるのかに関係している」(p112)。前者(古プロ)は国家などの政治的共同体と宗教市場が一致していることを前提としている。つまり、神聖ローマ帝国内の人間はその中の教会に通い、そこに自分の宗教を選択するという自由はない。対して後者(新プロ)は個人が自由に宗教を選択する自由があり、また上から既存の宗教を押し付けるだけでなく、自由に宗派を作ることもできると主張するのである(宗教市場の民営化・自由化)。前者はドイツで保守勢力となって、現在でもなお息づいている。そして後者はピューリタンとしてメイフラワー号に乗って米国で新たなユートピアを築いていったのだ。

ドイツで保守勢力として生き残った古プロテスタンティズムは戦後、東欧の民主化、EUの成立、移民の増加などで一時、消極的な排外主義として伸張したこともあった。しかし公立学校の宗教科をめぐる改革ではキリスト教だけでなく、イスラムの授業なども選択肢として加えるという決断をする州も多く出てきた。しかも、これらの改革を支持しているのも他でもなくルター派なのである。ルター派は保守勢力として社会の多元化を嫌う一方で、不毛な争いを終わらせ、政治や宗教における様々な考え方が共存できるシステムを作ろうと努力してきたのである。

つまりルター派保守主義は一つの宗教的伝統に固執するのであるが、その伝統を逸脱するような極端な意見や立場に対しては「否」を言うことが自らの使命だと感じるようになった。だからこそ、宗教や宗派の多元性という現実の中での共存の努力という彼らの歴史的な体験を逸脱するような現在の排他主義には「否」なのである。(p161-162)

 ルター派保守主義はあたかも「宗教や宗派の多元性」を認めるということを一つの教示としているようである。だからこそ彼らにとって公立学校でのイスラムなど他宗教に対する排外は教示に反するのである。それは大戦中に非人道的なホロコーストを行った罪悪感というファクターも加わって、ドイツ国民の中で深く根付いている意識なのである。

一方、米国というニューフロンティアに移植された新プロテスタンティズムは「リベラルな信仰」として米国の社会設計に深く関わっていく。筆者曰く、ヨーロッパの町並みは一つの教会を取り囲むように構成されているのに対し、米国では町の中にいくつもの教会が乱立しており、人々はそれを自分の裁量で自由に選択して通うことができる。しかし、そのため米国では一つの教会が町で市場を独占してしまうことがある。すべては市場での自由な競争なので、その規模拡大には際限はないのである。米国では宗教ですら市場原理にしたがってヒエラルキー化(持つ者と持たざる者)するのである。

いやむしろ因果関係は逆かもしれない。ウェーバー的に言えば、ピューリタンらが新プロテスタンティズム的な考え方を移植したことによって現在の米国の「リベラルさ」が生まれたと考えるべきかもしれない。最初は「宗教」だったのである。そしてそれはウェーバーの『プロ倫』の議論に集約していく。「予定説」と「天職」という概念に基づいて人々は勤勉に資本の蓄積に励んでいった、という議論に。

本著はプロテスタンティズムの整理を行う上では教科書的な役割を担うだろう。

森達也『A』

 

A [DVD]

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オウム真理教地下鉄サリン事件を起こしてしばらくした後に取られたドキュメンタリー。戦後最も世間を震撼させた事件から「オウム真理教」という組織に対していわば強固な「バイアス」を形成してしまっている時期である。それはあれほどの事件を起こしたので仕方のないことだが、マスコミも警察も社会のあらゆる人々がそういったバイアスによって残された信者をまなざしている中でほとんど唯一といっていいほど見事なバランス感覚でオウムを捉えなおそうとしていた森監督はやはりさすがと言わざるを得ない。

まず内容から、雑感を綴っていきたい。実は1995年というのは私の生まれた年で当時のあの狂乱を全く肌身に感じたことがない。だからこそ、私はあの事件を「サリン事件後世代」として客観的に片方に肩入れすることなしに見るならば、やはり大衆(今作品の中ではマスコミや警察、善良な市民)はどこか水を得た魚のように自らを正義を執行する側として思いあがっていたのではないかと思う。もちろん、何度も言うように私はオウムに肩入れするわけではないし、サリン事件によって亡くなった多くの無関係な人々を無下にするわけではない。だが、それとこれとは区別して全く関係のない人々(今作で言えば広報担当の荒木さんや残された信者たち)に権力や暴力を執行する義理は基本的には他の大衆にはないのである。

第一、臭いものにふたをする要領で残された信者たちを町から排除することで果たして問題は解決されたことになるのだろうか。否。信者たちがなぜオウム真理教に入ったのか、その裏側を考察しなければ問題は解決どころか悪化するだけである。

当時は一体どういった時代だったのか。世紀末、就職氷河期、様々な要因が考えられるが、若者をはじめとしてみな未来に生きる希望が持てなかった時代である。宮台真司の用語を使うならば、「終わりなき日常」の中をただあてもなく走り続けていた時代。出口のない人生の中を、矛盾に満ちた世の中をなぜ必死に生きなければならないのか。そういった鬱屈した思いが世間に充満していたのだ。その中で当然こぼれ落ちる人々が出てくる。世の中の欺瞞に耐えられず、「希望」や「真理」を求めて「社会」からドロップアウトする人々が。それがオウムの信者である。オウムが絶対的な悪として突如出現し、信者を吸収していったのではない。むしろ、そうならざるを得ない社会的現状がまずあり、それに呼応するかのように信者がオウムという教団に自発的に入ったのである。そう考えると、まず問題にすべきはオウムの教義の非現実さか?それとも社会の欺瞞か?

荒木さんに対して善良な市民は「こんなことしてないで社会に出ろ」と言う。なぜ社会に出られないのか、ドロップアウトしたのかを知らずに。また、彼らは「社会に謝れ」、「社会の一員としての責任を全うしろ」と言う。じゃあ「社会」とは一体何なのか。そこには誰が含まれ、誰が含まれないのか。「社会」という範囲は非常に恣意的でどんな人間にも入る権利があるが、「反社会」と見なされれば、いとも簡単に排除の対象になりうる。善良な市民の言葉はきれいごとを並べ立てるだけで全く現状を無視しているとようにしか私には見えないのである。「自分たちもそうなりえたのではないか」という偶然性を担保することを森監督はこの作品で伝えているのだ。

 

さて、このDVDの特典として監督自身の取材後記とあとがき、さらに村上春樹による論評が付いているのだが、それが短いながらもかなり示唆に富んでいたので少し扱っていきたい。

まず驚かされたのは森監督の取材者に対する配慮である。というか逆に言えば、なんで他のマスメディアはこれをできなかったのかということに驚かされるわけだが。森監督は当時働いていたテレビ局の方針を無視してまで彼らのドキュメンタリーを制作しようとする。しかし、それは彼らを「悪」と決めつけてカメラを向けたいのではなく、客観的に自分の目で見極めて真実を撮りたいからだとわざわざ手紙を送って荒木さんに告げる。そして「森さんなら信用できる」と承諾されるのである。ここにいったいどういった信頼関係があるのかは森監督ですら分からないという。しかし、他のメディアとは違い、人を説得、納得させるだけの何か凄みというか真剣さ、優しさみたいなものがあったのではないかと思う。

 

さらに、面白いのはオウム信者の一人が警察の横暴により逮捕され、証拠映像を提出してくれないかと荒木さんに頼まれたときに、あくまで「公正中立」を守りたいという意志からそれを森監督が拒絶したというエピソード。森監督自身はこの時、不意に出てしまった「公平中立」というワードに対して後悔の念を吐露しているが、そもそも「公正中立」にドキュメンタリー(ないし映像作品全般)を作るということは本当に可能なのだろうか?

この疑問の答えに関して、森監督と村上春樹はあとがきで決定的に意見が食い違っていた。興味深かったので引用してみる。まずは村上の今作に対する評価が以下のものである。

 

巨大なスケールを持つものごとに対して、我々が観察者として、また報道者・語り手として、公正であろうとつとめるのは、多くの場合簡単なことではない。それはときとしてひどく非効率的で無力に映るし、あるいは実際に非効率的であり、無力であるかもしれない。しかし我々がその無力さに耐えて、「継続する意志」を我慢強く持ち続けていれば、そこには単なる効率性を超えた「何か」が生まれてくることになるかもしれない。おそらく我々はその可能性に希望を託し、それぞれの持ち場でこつこつと仕事を継続していくしかないのだろう。

 

つまり、村上は『A』について「公正な視線を追求すること(余計な色付けを廃止、判断を留保し、そこにある現象を素直に切り取ること)」でオウムに関して世間一般が持っている固定観念を切り崩そうとしていると述べているのである。では、それに対して森監督はどう答えているのか。

 

撮影の過程で、公正さや中立性など僕の視野には欠片もなかった。事象を必死に追い続けるだけだった。しかしその結果、作品に奇妙なバランスが付与されたことは事実だ。要するに「公正で客観的、そして中立」であるかのように見えるらしい。

そんな評価をされるたびに、僕は居心地が悪くなる。「オウムを絶対悪として描く」という公正さを強制され、これを拒絶したところから始まったこの作品が、公正であるはずがない。そもそもそんな基準に僕は価値など持っていない。

  

森監督は村上が評価した作品の「公正さ、客観性、中立さ」に全く価値を見出していないというのである。なぜなら、映像というのはそもそも作為的なものだからだ。目の前の事象をどう切り取るのか、どうエフェクトをつけるのか、明るさはどうするのかなどを決めるのは論理ではなく、作り手の感覚だからだ。映像作品を「公正、客観的、中立」なものとして捉えるというのは土台無理な話なのである。第一、中立を貫こうとするならば、まずその極端を知らなければならない。もし、中立性を測る数直線があると仮定して、「完全に中立」を0として真ん中に取るならば、まず両極端(+と-)の長さ、限界を理解しなければその座標を完成させることはできないのである。しかもこの直線が一本ならばまだ分かりやすいが、得てして直線は何本も交差することがある。その中から絶対的な0、原点を素描することなど果たして可能だろうか。現実は想像以上に多元的で複雑なものなのである。

 

A』を作るまでの僕は、テレビ・ディレクターとして、「公正中立、そして不偏不党」であることを常に心がけていた。実践していたつもりだった。でもそもそも人には、そんな能力は与えられていない。それに気づいたからこそ、ドキュメンタリーの意味と作ることの楽しさを、やっと知ることができた。

だから忠告します。映像はそもそも罠です。もちろんこの作品にも、いろんな罠が仕掛けてあります。種明かしはここまで。騙されないぞと思いながら見てください。

  

村上が言うように公平中立な視点から映像を撮ることができればそれに越したことはない。しかし実際は人間にそんなことは不可能だし、そもそも本当に公正中立で作者の意図が介在していない映像を欲するならば、それはもう人間が撮る必要はない。ロボットにでも撮影させればいい。しかしそれを「面白い」と言って見てくれる人がいればの話だが。「映像は嘘をつく」ということを知ったうえで、視聴者はその罠を見抜こうとする「深読み」のリテラシーが必要だし、さらに作り手は映像を見たままで鵜吞みにする人間たちに「映像の危うさ」を示すような作品を作り続けていかなければならないのではないだろうか。