メモ:台湾(中華民国)の国籍制度に関する覚書(日本統治から戦後にかけて)

 台湾の国籍制度に関して大まかな歴史を整理しておきたい。参考にする文献は以下の三つ。

 

 鶴園裕基,2014,「無効化する国籍ーー日華断交の衝撃と国府の日本華僑統制・保護の変容」『華僑華人研究』11: 38-55.

 ーーーー,2016,「すれ違う『国』と『民』ーー中華民国/台湾の国籍・パスポートをめぐる統制と抵抗」陳來幸・北波道子・岡野翔太編『交錯する台湾意識ーー見え隠れする「国家」と「人びと」』,35-47.

 湯煕勇,2004,「恢復國籍的爭議: 戰後旅外台灣人的腹籍問題(1945-47)」『人文及社會科學集刊』17(2): 393-437.

 

 前2稿は主に日本と中華民国との関係の中で、国籍、つまり戦後日本に取り残された華僑(台僑)がどのように両政府に翻弄されたのかということを描いており、三つ目のは1945-47年の間に日本から中華民国に移管された台湾でいかに中華民国の国籍制度の移植が行われたのかを描いている。どちらも国府の外交部档案などの史料を渉猟しながら、当時の国府高官の言説などを分析の対象としている点に共通点がある。

 (ちなみに台湾の外交部档案史料は、現在台湾にある国史館と中央研究院近代史研究所の二つの施設で閲覧が可能なようである。)

 

 台湾に初めて国籍制度が適用されたのは日本統治時代である。下関条約締結によって台湾の領有を許された日本政府は、1895年から二年以内に清国籍か日本国籍かのどちらかを選択して、清国籍を選択した者は直ちに台湾から退去するように命じられた(もちろん、この命令を無視し、居住を続けた者は強制的に日本国籍に組み入れられた)。これによって、台湾住民は大陸の中国人とは異なる身分と法的地位を有することになったのである(鶴園 2016: 36)。

 だが、彼らは法的地位こそ違えど、民族的なルーツでは大陸の中国人とはなんら変わらないため、当然日本国籍を保持しつつ中国や東南アジアの華人社会で商業活動を営む人々は多く存在した。その際、まだまだ近代的な国籍制度が整備されていなかった中国や東南アジア諸国では、そういった華人商業家などは国家の境界を越えて商業活動の範囲を広げていったが、その過程で各現地の法律に抵触して違法行為などで裁かれてしまうということも少なくなかった。そういった状況下で、現地の華僑は自らの商業活動を円滑に進めていくために、いわば道具主義的に自らを「台湾人」と偽り、日本国籍を取得する人々が続出した。これを「仮冒籍民」という。これは今の感覚で考えれば違法行為なのだが、当時、日本の影響力を海外へと波及させることを画策していた日本政府は彼らに利用価値を見出し、積極的に国籍の付与を容認していた。言い換えれば、日本の「外縁」を拡大していく先兵としてこれらの仮冒籍民が利用されたのである(詳しくは遠藤正敬『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍』、および川島真,1999,「装置としての『台湾』と日本人の外縁」『日本台湾学会報』1号)。

  さらに、国外の外縁としては国籍がツールとして利用されたが、国内では「戸籍」が重要な役割を担っていた。つまり、台湾(および朝鮮などの他の植民地)を「日本」へと包摂する役割として国籍が使われた一方で、日本国内で「内地」と「外地」を区別するための道具として使われたのが「戸籍」だったのである。詳しくは、遠藤の前掲書に譲るが、戸籍上内地の人間が認められている権利や法的地位は、外地の住民には適用されず、いわば戸籍が「民族籍」としての役割を担っていたわけである。大日本帝国下では、国籍と戸籍を使った二層構造が築かれていたのである。

 

 日本の敗戦後、台湾は中華民国に復帰した。

 中華民国の国籍制度は1929年(この国籍制度の母体となったのは、1912年に北京政府によって制定された国籍法である)の南京政府の下で制定されたものが、2000年まで改正されずに継続していたが、この国籍制度の特徴はいわゆる「血統主義」を採用していた点にある。これは1929年という当時の状況を考えれば当然の帰結である。つまり、対外戦争(日中戦争)だけでなく国内でも大きな内戦状態(北京・南京政府の対立など)にあった当時の中華民国では、物資や支援金などの徴収が死活問題であったため、グローバルに拡大している華僑を「血統」にもとづいて「国民」とすることによって、それらの負担をカバーしようとしたのである。

 したがって、敗戦後に編入された台湾にも中華民国の国籍制度をそのまま適用し、台湾住民にもれなく「中華民国国民」としての法的地位を授けることは国府としては当然のことであった。そして、台湾島内にいる住民に対して一律国籍を付与することはなんら難しいことではなかった。しかし、問題は台湾以外に居住する台湾華僑の処遇であった。 それらの中には、例えば日本統治時代に従軍させられ(中国大陸や東南アジアなど)、敗戦後に故郷に帰ることができなかった兵士や慰安婦や、日本統治下で内地(つまり日本)に居住するようになった人々、あるいはそれ以外の世界の国々に散った台湾人など様々な者を含んでいた。

 彼らの多くは中華民国が発行するパスポートや文書を持っていなかったので、在外領事館などに申請することもできなかった(湯 2004: 408)。さらに、日本統治時代に台湾人は政府が発行する「外国旅券」でもって日本籍の証明としていたが、戦争中に従軍させられた者の多くは、日本籍を証明するような書類は一切持っていなかった(ibid 410)。そのため、彼らを他の華僑と区別して新たに「中華民国国民」として証明し、国籍を付与するのは容易なことではなかったのである。そこで、民国政府は証明書を持たない場合の復籍の条件として、在外領事館に「2名の現地華僑の保証人が確認された場合、国籍を付与する」という規定を設けた(ibid 410)。しかし、中国大陸や東南アジアなどに取り残された台湾人の多くは「帝国日本の協力者」のレッテルを貼られたため、現地華僑から疎外され、保証人を見つけることは簡単なことではなかった。

 さらに、彼・彼女らの多くは敗戦後の状況下では日本人と同様に「戦犯」扱いされ、彼らに戦勝国の一つであった中華民国の国籍を付与することは許可できないと当初米国や英国、オランダなどは否定的な態度を表明していたようである(ibid 413-423)。英国の言い分は、いまだ国共内戦のさなかで台湾の主権が正式に国府の側に移転していない状態で、かつ中華民国と日本との間で正式な和平条約を結んでいない状況下では、在日台湾人への中華民国籍付与は認められないというものだった(ibid 418)。国府国共内戦中に重要なパトロンであった西側諸国に対してはあまり強気の姿勢は見せられなかったようである(ibid 421)。

 では、在外台湾人は具体的にどのような不平等な地位に置かれていたのか。湯はそれを、①差別の対象としてさげすまれる②戦後処理で「戦犯」として裁かれる③個人の財産を没収される、の大きく3つに分けている(ibid 425)。①の代表的な事件は1946年に起きた「渋谷事件」である。在日台湾人と警察との抗争だが、戦後直後の日本では台湾人が差別されていたことを表す事件となった。

 以上のように、在外台湾人の復籍をめぐって1945年から47年の間に様々な経緯があったわけだが、1947年2月25日、米国政府は在外台湾人を中華民国国民の一部として認めるという通知を下し、一応の解決を見る。だが、これ以降、国府は1949年には台湾に正式に移転、そして大陸の中共との冷戦状態に突入したことで、在外華僑をコントロールする術を完全に失ってしまうことになった。事実上の実効支配地域は台湾に限定されたものの、国是としては大陸全土を含んで統治の範囲とする国府は、(日本帝国時代の手法と同様に)国籍をやはり中華民国の「外縁」として道具主義的に利用するようになる。

 

 そこで以下では鶴園の議論に即して、戦後国府が在日華僑(台湾人と大陸中国人を含む)に対して行ってきた政策を概観していきたい。

 前述したように、戦後民国政府は、在外華僑を中華民国国民として規定するために彼らに国籍を付与することを画策したが、それを証明する書類の不在や各国の反対によって中々前進しなかった。しかし、この時点で在外華僑が最も居住していた日本には、特別に「華僑登記証」と呼ばれる公文書を発行し、これを国籍証明書の代替物として利用した(鶴園 2016: 39)。

 だが、この華僑登記証は機能としてはパスポートと変わらないものだったが、正式にパスポートと認められていたわけではなかった。そのため、1951年に「出入国管理令」が発布され、日本に在留する外国人は一律パスポートの所持を義務付けられた際には、例外として在日華僑はこの華僑登記証にスタンプを押すという措置が取られていた。

以後の日本の入国管理では、終戦前に入国した日本華僑について「無旅券状態による在留」を認めることが慣例化していくが、これは日本政府が当初から意図したものではなかった。中華民国政府がそもそも日本華僑への一律パスポート発給を拒否していたことに原因があったのである。(ibid  40)

 サンフランシスコ平和条約締結後の1952年に日本は中華民国との間で「日華平和条約」を結び、「中国の正当な代表」として中華民国を認め、ようやく日本に駐日大使館と領事館が設置された。だが、ここで大使館スタッフを悩ませたのは、日本の華僑社会が政治的なイデオロギー対立で二極化していたことであった。すなわち、中共を支持する左傾化した勢力と国民党に幻滅し台湾独立を叫ぶ勢力とに華僑が二分されていたのである(横浜中華街などが代表的)。そこで、国府の命を受けた駐日公館は彼らの活動を統制・抑圧する必要に迫られたのである。

 そして、そこに利用されたのが華僑登記証とパスポートだったのである。すなわち、在日華僑の中で中共や台湾独立を支持する者には華僑登記証やパスポートの発行更新手続きを拒否するという手段を取ることによって、彼らの海外での活動の範囲を遠隔からコントロールしたのである(ibid 40-41)。なんらかの母国の証明書を持たない外国人は、例えば帰化申請や社会保障の申請を出すこともできない。また、自らの子供が成長して母国(台湾)に帰国することもできない。ちなみに、彼らの台湾への帰国が許されたのは台湾の民主化が進んだ1992年以降になってからだという(ibid 42)。要するに、在日華僑にとって華僑登記証とパスポートは自らの法的地位と権利を保障する唯一の証明書だったのである。

 その後、国府によって移動の自由を奪われた在日華僑は、1968年の「柳文卿事件」、1970年の「劉彩品事件」など様々な国家に対する抵抗運動を展開し、さらに1971年の中華民国の国連脱退および翌年の日本との国交断絶によって、急速に国府のパスポートを利用した統制・抑圧の力は衰えていった。つまり、今までは「中国の正当な代表」として認められ、領事館なども設置されていたが、71年以降打ち消されたことによって、中華民国パスポート事態の効力が喪失してしまったのである。国府が在外国民をコントロールする術は完全になくなってしまった(しかし、国府はこの過程で在日華僑の国籍離脱の制限を撤廃する一方で、国府発行のパスポートを引き続き保持させることでどうにか在日華僑との関係を保とうと苦心していた[鶴園 2014: 47-51])。

 だが、海外の反体制派をどうにか統制したいと考えた国府は、70年代以降、彼らを「ブラックリスト」に入れて帰国を拒否することでそれを実行した。例えば、米国に亡命して台湾独立の主張を掲げていた、のちの民進党議員などがそれに該当する。しかし、彼らは米国でロビー活動やデモ行進などを行い、大々的に海外メディアなどにアピールすることによって、外側から国府に圧力をかけていった。さらに、当時1979年の美麗島事件を皮切りに台湾内でも民主化勢力の勢いが増していた。これらの「外力」と「内力」によって、国府は最終的に1992年に台独派の帰国禁止の解除を宣言したのである(鶴園 2016: 45)。

 

 以上が日本統治時代~戦後~1990年代にかけての台湾に適用された国籍制度および在外華僑統制の大まかな流れである。重要なのは、国籍などの制度は人々を縛る「手段」であると同時に、その枠組みをめぐって様々な議論を呼び起こす「対象」でもあるという点である。したがって、サブ的なものとして語られがちな「制度」は、当然それ自体が研究の対象となりうるのである。