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近代国家誕生前夜の歴史についての覚書

 国家の歴史について語るとき、多くは近代から話が始まり、それ以前の前近代(すなわち近世、中世)にいかにプロトタイプとしての国家が生成されていったのかということはあまり注目されてこなかった。もちろん、現在の形での「国家」が出来上がったのは紛れもなく近代以降(特に日本の場合は近代に入ってから突如として創造した)なのだが、近代国家の重要性を強調するのであれば、当然その前夜についての探求も必要だろう。そこで、今回は近代国家誕生の経緯をピエール・ブルデューの歴史社会学的分析をもとに整理していきたい。

 

国家の神秘―ブルデューと民主主義の政治 (ブルデュー・ライブラリー)

国家の神秘―ブルデューと民主主義の政治 (ブルデュー・ライブラリー)

 

 

 

国家の社会学

国家の社会学

 

 

 参照する文献は、以上の文献に収められた「国王の家から国家理性へ」(p.43-80)という短い論稿である。また、サポートのために適宜、佐藤成基「第5章 国家と正当性」『国家の社会学』(p.91-107)も参照する。

 

 具体的な分析に入る前に、ブルデューの国家の定義について確認しておこう。マックス・ウェーバーが国家を「ある一定の領域の内部でーーこの「領域」という点が特徴的なのだがーー正当な暴力行使の独占を(実効性をもって)要求する人間共同体である」(ウェーバー『職業としての政治』岩波書店 p.9)と定義したのとは反対に、ブルデューは国家をそういった固定的な「共同体」であるとはみなさない。すなわち、「国家とは、一定の領域とそこに住む住民の全体に対して物理的および象徴的な暴力の正当なる行使の独占を実効性をもって要求するX(未知数)である」(佐藤『国家の社会学』p.94)。この「X(未知数)」という表現から、ブルデューが、国家とは誰か(例えば国王や民)の固定的な所有物なのではなく、様々なアクター(政治家や部署、官僚など)の利害関心が交錯する「場(界)」なのだと考えていることを把握することができる。

 

 さて、ここから具体的な国家誕生の歴史について見ていくことにしよう。まず、最初に明確な形で「国家」と呼びうる現象が観察できたのは、中世末期から近世初期にかけてだった。すなわち、「王朝国家」(国王の家)である。王朝国家は「国王の家」という表現からも分かるように、国王を中心としてその親族が周りを固めるというヒエラルキー構造の中で、国家を完全なる自らの私有物として整備していった。ゆえに「家産制国家」とも表現できる。しかし、経済構造の複雑化や他国間との戦争などが多発したことで、しだいに国王の身内だけでは国家は運営できなくなっていく。そのため、国家を円滑に運営するための新たな行政機構が求めらえるようになっていった。すなわち「官僚」の誕生である。

 だが、だからといっていきなり現代のような官僚が整備されたわけではなかった。最初に官僚としての地位を授けられたのは、エリートではなく、むしろ宦官や聖職者、その国の住民でないよそ者、奴隷などのいわゆる「賤民」であった。これによって、初期王朝国家では、国王政治的に無能力化された王朝内の競争相手(国王の親族)政治的には強力だが、再生産の能力を剥奪された献身者(初期官僚)による支配の分業体制が作られていったのである。

 しかし、徐々に教育制度の拡充、それによる能力と業績にもとづく官僚登用制度が整備されていくにつれて、「官僚制的生産様式」と世襲や血統、家柄などにもとづいて国王の地位を継承していく「国王の再生産様式」が対立していくようになっていく。ここから、王朝国家が「官僚制国家」へと変化していくのである。

 

 官僚制の発達によって、国家は国王の所有物であるという認識から、「公共のもの」(この場合の「公共」は「官僚制的公共性」を指す)であるという認識へと変化していった。つまり、「国王の家」から国王の私的な目的から一線を画する独自の「国家理性」が整えられていくのである。

 このような「官僚制的公共性」が発達した背景には、大きく分けて3つの要因があるとブルデューは述べる。一つ目は、行政業務の複雑化である。上司から部下への連続的で錯綜したネットワークが行政内部に広がったことで、国王の手を離れ、独自に稼働する官僚の「公的秩序」が生まれていったのである。これは、例えばイングランドにおける国王の印璽に関する慣習行動の変化を見てみると明らかである。国王の意思は、はじめ「国璽」(官房全体の長である大法官による印璽)が押された公式文書、証書、開封文書によって表されていた。しかし、しだいに国王に直接かかわりのある案件に対しては「玉璽」(国王自らが大法官に国璽使用の指令を与える)を、国王の手書き文書に対しては「王璽」(国王の秘書官による印璽)をそれぞれ使用するようになっていった。このように様々な承認と否認をめぐる錯綜した関係の中で、互いが互いを縛る権力構造が出来上がっていったのである。

彼ら〔大臣たち〕は、国王の公式文書に対して説明を求められたり、それが真に国王の公式文書であると証明できないことを怖れていた。大法官は、保証としての玉璽を押された文書がないままに国璽を 用いることを怖れていた。玉璽の保持者は、国王秘書によって認可された国王自筆の署名があるかどうかを気にしていた。(中略)国王は、大臣たちの保証のもとで行動したが、同時に大臣たちの監視下で行動したのである。(ブルデュー『国家の神秘』p.77)

 「官僚制的公共性」が形成された第二の要因は、法学者による国家論の構築である。つまり、法学者が"common-wealth"などの概念を用いて、国家を「公共的」「公益的」なもの(であらねばならない)だと理念的に整備していったことで、「公共物としての国家の正当性」が構築されていったのである。しかし、注意しなければならないのは、こういった法学者による国家の法学・哲学的根拠づけは、彼らの利害の確保の一環として行われていたということである。

どう考えても、法学者たちが自らの国家観、とりわけ(法学者たちが発明した)「公共性」の概念を認めさせようとして書いた著作は、それを通じて法学者自らが密接に結びついていた「公共奉仕」の優先権を主張することにより、自分たちの優先権を認めさせようとした戦略でもあったと仮定せざるをえない。(中略)一言でいえば、理性と普遍的なるものの進歩に最も明白な貢献を行った人々は、普遍的なものの(ママ)を守ることに明白な利害をもっていた。公益が彼らの私益だったのだ、と言うことさえできよう。(ブルデュー『国家の神秘』p.73-74)

 最後に第三の要因は、種々の行政的アイテムの発明である。上記の二つの要因は、いわば官僚制の「象徴的」創出に貢献していたが、三つ目の要因はよりプラグマティックなもので、行政スタッフが使用する道具・事務的なアイディア(例えば、事務机、署名、公印、辞令、資格証書、証明書、帳簿記録、登記、通達など)の出現が業務遂行に果たした役割に着目する。つまり、これによって真に非人称的で相互交換可能な官僚制的行政の運営が可能になったのである(それまでは、例えば仕事上の机、ペン、紙などもすべて個人の私物だった)。

 

 以上で見てきたように、「国王の家」は「官僚制国家」への変貌を遂げていった。では、官僚制国家は次にどのような変化を遂げたのだろうか。ブルデューは、官僚制国家以降の分析は行っていないが、佐藤成基の分析をもとに少し掘り下げていこう。

 官僚制国家までの時代には、「市民」はほとんど顧みられることはなかった。市民は、納税や徴兵などによって国家が掲げる「公共」に奉仕するのみで、行政にかかわることは一切なかったのである。だが、近代以降その状況はがらりと変わる。つまり、ハーバーマスが『公共性の構造転換』で指摘したように、商業資本主義、活字メディアの発達、カフェやサロンでの自由な討議の出現によって、しだいに「官僚制的公共性」とは異なる独自の「市民的公共性」が形成されていくのである。これによって、今まで国王、官僚(が依拠する法)によってなされていた国家統治の正当性が、徐々に「市民」「人民」「国民」などの新たな担い手を得るようになっていった(民主主義やナショナリズムの勃興)。

 官僚制国家の正当性は、官僚エリートの「無私無欲な美徳」に依拠していたが、民主主義やナショナリズムは、「民」による一体的な政治的意思や文化的個性、参加機会の平等性にある。つまり、ここから国家は「民」全体を代表するものとして、正当性の根拠を見つけなければならなくなっていったのである。これ以降の近代国家の歩みは、ほとんど周知のとおりである。

 

 以上、ブルデューの国家論を概観してきたが、こういった近代以前の国家の様態を社会学的にモデリングする研究はもっと出てきてもいいだろうと思う。特に近代以降に生まれ、近代的な問題を解決することを使命とする社会学にとっては、自らの根本的な意義を確かめるためにもそういった研究が今後量産されていくことを期待する。