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アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』

もう一冊、読んだ本について。

民族とナショナリズム

民族とナショナリズム

 

 ナショナリズム論を取り上げる時に、B・アンダーソンの『想像の共同体』と並んで語られる代表作。

ナショナリズム論には、大きく分けて「近代主義」と「歴史主義」という二つのアプローチが存在する。「近代主義」の代表的論者が、アンダーソンとゲルナーで、それに反論する「歴史主義」の論者は前回挙げたA・D・スミスなどである。何が彼らの主張を分けているのかというと、要は「ナショナリズムが近代の所産か、否か」という点にある。アンダーソンはナショナリズムは近代に入って、「出版資本主義」(新聞や書物の爆発的な普及)などの影響もあって増加したと分析する。対してスミスは、いやナショナリズムやネーションと思しきものは近代以前、例えば農耕時代にもコミュニティとコミュニティがぶつかるときに発生していたのではないか、と反論しているのである。

そしてゲルナーはというと、本著で近代主義の立場から、「ナショナリズムは産業社会に突入してから生まれた」と主張するのである。ゲルナーは人間社会の歴史を、大きく「前農耕社会」、「農耕社会」、「産業社会」の三つに分けている。前農耕社会というのはいわゆる中世以前、古代の世界と考えていいだろう。この世界では、もっぱら人々は採集狩猟に明け暮れており、国家のようなまとまった組織は存在しなかった。そして農耕社会というのは日本でいうところ、明治以前の時代だろう。この時代には、国家に相当するよう社会を統制するような組織が確かに存在した。だが、この時代でも例えば、年貢を中央に収めれば、あとは自分の領土で好きなようにすればいいというようなゆるいつながりの世界だった。

そして人類は近代化し、産業社会に入る。ここでいう産業社会というのは、著者がたびたびM・ウェーバーを引き合いに出しているところからも分かるように、資本主義社会と言い換えてもいいだろう。この社会では前近代のいずれの社会とも異なり、明確に人民の生活、そして領土内の経済的利益を確保することを目的とした「国家」が誕生している。国家は一定領土内の人民、安全、秩序を守るために、唯一それらを管理する暴力を許された機関である。「ナショナリズムの問題は国家が存在しない時には起らない。」(p9)国家が生まれた近代に入らなければ、ナショナリズムも生まれなかったというわけである。

では産業社会に入って、具体的に何が変わったのか。それをゲルナーデュルケームの「分業」という概念を用いて説明している。前近代の社会では、文字の読み書きや文化というのは支配階級の余暇でしかなかった。それ以外の被支配階級、農民やギルドなどは家庭やコミュニティの中で一子相伝の技術を受け継ぎ、それを生業にして生活していた。つまり、総人口の1パーセントほどの上流階級は意思疎通の手段を有していたが、下層階級は方言や文化的な隔たりによってほとんど交わることはなく、同じアイデンティティを共有することがなかったのである。(これは江戸時代に、○○屋の△△君と人間を呼称していたことを思い浮かべれば分かりやすいだろう。江戸時代などでは所属の単位はその家系が営むお店などだったのである。)この時代には人々はそれぞれ家業があり、お互いに分業し、それは固定的なものだった。

だが、近代に入ると、まず大きく教育制度が変化する。子供たちは一括近代的なマス教育を施され、基本的な読み書き能力、文化の受容、計算能力を身につける。そしてところてん式に小学、中学、高校と進学していき、国家にとって使い勝手のいい人材に育っていく。また、近代に入っての技術革新も相まって、あらゆる産業は最低限の教育を受けた者なら難なく労働者としてコミットできるものになった。そのため前近代と比べ、職業が固定化されることは少なくなり、近代では誰でも色んな職業に就けるような流動的な社会になったのである。

これは人々に大きな意識の変化を及ぼした。人々は一生の仕事を生まれる前から決定されるようなことはなくなった。それはつまり、前近代まで人々の所属の単位であった「家業」が消失したことを意味する。では、次に人々の集団的アイデンティティ欲求を埋めてくれるものは何なのか。それが「民族」なのだという。人々は社会階層を上下に自由に移動する権利と可能性(いざとなれば自分も政府の上役になれる)を手にしたことによって、自らが国家の一員であることを確認する手段を得たのである。

そして国家はそういった均質的な社会秩序の安定を望むため、文化、民族の統一を行おうとする。そのため、それまでハイカルチャーの隠れ蓑の下にあった、サブカルチャーは抑圧され、ひどいときには存続を危ぶまれるようになる。その時に、自らの権利を訴えるような運動が起こるが、これが戦後に入って世界各地で勃発したナショナリズムの原因になったのである。

アンダーソンやスミスの時と同様に、ナショナリズム論はどの立場をとるか、ナショナリズムをどう定義するかによって全く異なる結論になる。そのため、近代主義や歴史主義のどれが正しいかの是非はおそらく一生でない答えだろうと思うが、本著で提示された分析は今の世界情勢とも比較しながら、判断していく必要があるだろう。