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森達也『A』

 

A [DVD]

A [DVD]

 

 


オウム真理教地下鉄サリン事件を起こしてしばらくした後に取られたドキュメンタリー。戦後最も世間を震撼させた事件から「オウム真理教」という組織に対していわば強固な「バイアス」を形成してしまっている時期である。それはあれほどの事件を起こしたので仕方のないことだが、マスコミも警察も社会のあらゆる人々がそういったバイアスによって残された信者をまなざしている中でほとんど唯一といっていいほど見事なバランス感覚でオウムを捉えなおそうとしていた森監督はやはりさすがと言わざるを得ない。

まず内容から、雑感を綴っていきたい。実は1995年というのは私の生まれた年で当時のあの狂乱を全く肌身に感じたことがない。だからこそ、私はあの事件を「サリン事件後世代」として客観的に片方に肩入れすることなしに見るならば、やはり大衆(今作品の中ではマスコミや警察、善良な市民)はどこか水を得た魚のように自らを正義を執行する側として思いあがっていたのではないかと思う。もちろん、何度も言うように私はオウムに肩入れするわけではないし、サリン事件によって亡くなった多くの無関係な人々を無下にするわけではない。だが、それとこれとは区別して全く関係のない人々(今作で言えば広報担当の荒木さんや残された信者たち)に権力や暴力を執行する義理は基本的には他の大衆にはないのである。

第一、臭いものにふたをする要領で残された信者たちを町から排除することで果たして問題は解決されたことになるのだろうか。否。信者たちがなぜオウム真理教に入ったのか、その裏側を考察しなければ問題は解決どころか悪化するだけである。

当時は一体どういった時代だったのか。世紀末、就職氷河期、様々な要因が考えられるが、若者をはじめとしてみな未来に生きる希望が持てなかった時代である。宮台真司の用語を使うならば、「終わりなき日常」の中をただあてもなく走り続けていた時代。出口のない人生の中を、矛盾に満ちた世の中をなぜ必死に生きなければならないのか。そういった鬱屈した思いが世間に充満していたのだ。その中で当然こぼれ落ちる人々が出てくる。世の中の欺瞞に耐えられず、「希望」や「真理」を求めて「社会」からドロップアウトする人々が。それがオウムの信者である。オウムが絶対的な悪として突如出現し、信者を吸収していったのではない。むしろ、そうならざるを得ない社会的現状がまずあり、それに呼応するかのように信者がオウムという教団に自発的に入ったのである。そう考えると、まず問題にすべきはオウムの教義の非現実さか?それとも社会の欺瞞か?

荒木さんに対して善良な市民は「こんなことしてないで社会に出ろ」と言う。なぜ社会に出られないのか、ドロップアウトしたのかを知らずに。また、彼らは「社会に謝れ」、「社会の一員としての責任を全うしろ」と言う。じゃあ「社会」とは一体何なのか。そこには誰が含まれ、誰が含まれないのか。「社会」という範囲は非常に恣意的でどんな人間にも入る権利があるが、「反社会」と見なされれば、いとも簡単に排除の対象になりうる。善良な市民の言葉はきれいごとを並べ立てるだけで全く現状を無視しているとようにしか私には見えないのである。「自分たちもそうなりえたのではないか」という偶然性を担保することを森監督はこの作品で伝えているのだ。

 

さて、このDVDの特典として監督自身の取材後記とあとがき、さらに村上春樹による論評が付いているのだが、それが短いながらもかなり示唆に富んでいたので少し扱っていきたい。

まず驚かされたのは森監督の取材者に対する配慮である。というか逆に言えば、なんで他のマスメディアはこれをできなかったのかということに驚かされるわけだが。森監督は当時働いていたテレビ局の方針を無視してまで彼らのドキュメンタリーを制作しようとする。しかし、それは彼らを「悪」と決めつけてカメラを向けたいのではなく、客観的に自分の目で見極めて真実を撮りたいからだとわざわざ手紙を送って荒木さんに告げる。そして「森さんなら信用できる」と承諾されるのである。ここにいったいどういった信頼関係があるのかは森監督ですら分からないという。しかし、他のメディアとは違い、人を説得、納得させるだけの何か凄みというか真剣さ、優しさみたいなものがあったのではないかと思う。

 

さらに、面白いのはオウム信者の一人が警察の横暴により逮捕され、証拠映像を提出してくれないかと荒木さんに頼まれたときに、あくまで「公正中立」を守りたいという意志からそれを森監督が拒絶したというエピソード。森監督自身はこの時、不意に出てしまった「公平中立」というワードに対して後悔の念を吐露しているが、そもそも「公正中立」にドキュメンタリー(ないし映像作品全般)を作るということは本当に可能なのだろうか?

この疑問の答えに関して、森監督と村上春樹はあとがきで決定的に意見が食い違っていた。興味深かったので引用してみる。まずは村上の今作に対する評価が以下のものである。

 

巨大なスケールを持つものごとに対して、我々が観察者として、また報道者・語り手として、公正であろうとつとめるのは、多くの場合簡単なことではない。それはときとしてひどく非効率的で無力に映るし、あるいは実際に非効率的であり、無力であるかもしれない。しかし我々がその無力さに耐えて、「継続する意志」を我慢強く持ち続けていれば、そこには単なる効率性を超えた「何か」が生まれてくることになるかもしれない。おそらく我々はその可能性に希望を託し、それぞれの持ち場でこつこつと仕事を継続していくしかないのだろう。

 

つまり、村上は『A』について「公正な視線を追求すること(余計な色付けを廃止、判断を留保し、そこにある現象を素直に切り取ること)」でオウムに関して世間一般が持っている固定観念を切り崩そうとしていると述べているのである。では、それに対して森監督はどう答えているのか。

 

撮影の過程で、公正さや中立性など僕の視野には欠片もなかった。事象を必死に追い続けるだけだった。しかしその結果、作品に奇妙なバランスが付与されたことは事実だ。要するに「公正で客観的、そして中立」であるかのように見えるらしい。

そんな評価をされるたびに、僕は居心地が悪くなる。「オウムを絶対悪として描く」という公正さを強制され、これを拒絶したところから始まったこの作品が、公正であるはずがない。そもそもそんな基準に僕は価値など持っていない。

  

森監督は村上が評価した作品の「公正さ、客観性、中立さ」に全く価値を見出していないというのである。なぜなら、映像というのはそもそも作為的なものだからだ。目の前の事象をどう切り取るのか、どうエフェクトをつけるのか、明るさはどうするのかなどを決めるのは論理ではなく、作り手の感覚だからだ。映像作品を「公正、客観的、中立」なものとして捉えるというのは土台無理な話なのである。第一、中立を貫こうとするならば、まずその極端を知らなければならない。もし、中立性を測る数直線があると仮定して、「完全に中立」を0として真ん中に取るならば、まず両極端(+と-)の長さ、限界を理解しなければその座標を完成させることはできないのである。しかもこの直線が一本ならばまだ分かりやすいが、得てして直線は何本も交差することがある。その中から絶対的な0、原点を素描することなど果たして可能だろうか。現実は想像以上に多元的で複雑なものなのである。

 

A』を作るまでの僕は、テレビ・ディレクターとして、「公正中立、そして不偏不党」であることを常に心がけていた。実践していたつもりだった。でもそもそも人には、そんな能力は与えられていない。それに気づいたからこそ、ドキュメンタリーの意味と作ることの楽しさを、やっと知ることができた。

だから忠告します。映像はそもそも罠です。もちろんこの作品にも、いろんな罠が仕掛けてあります。種明かしはここまで。騙されないぞと思いながら見てください。

  

村上が言うように公平中立な視点から映像を撮ることができればそれに越したことはない。しかし実際は人間にそんなことは不可能だし、そもそも本当に公正中立で作者の意図が介在していない映像を欲するならば、それはもう人間が撮る必要はない。ロボットにでも撮影させればいい。しかしそれを「面白い」と言って見てくれる人がいればの話だが。「映像は嘘をつく」ということを知ったうえで、視聴者はその罠を見抜こうとする「深読み」のリテラシーが必要だし、さらに作り手は映像を見たままで鵜吞みにする人間たちに「映像の危うさ」を示すような作品を作り続けていかなければならないのではないだろうか。