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M・ウェルベック『ある島の可能性』

最近フランスの大統領選のニュースが巷を賑わせているのを見て、去年買って以来書棚に積読していたウェルベックの『ある島の可能性』を手に取ってみた。毎度のことだが、彼の著作を読もうとするにはいささか根性というか、思い切りのようなものが必要で。

ウェルベックは言わずもがな2015年に起こったシャルリーエブド事件当日に、イスラム政党がフランスの大統領選に勝利するというスキャンダラスな小説『服従』を発表したことで話題になった作家だ。まるで予言者のような扱いを受け、ある種カルト宗教の創始者のように喧伝されていたのを覚えている。

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

 

 

当初このスキャンダラスな著作はイスラムに対する反抗、蔑視という意図があるのだと目されていたが、実際に読んでもらったら分かる通りむしろ西洋社会への失望からこの出発しているように感じるのである(この詳細については哲学者の浅田彰氏による論評が当時の世相も踏まえられているのでわかりやすい。

http://realkyoto.jp/review/soumission_michel-houellebecq/

。それもそのはずウェルベックがデビューからずっと西洋社会に根強く残るいわゆる「理性による統治」や資本主義の溢路を作品の題材にしてきたからだ。西洋はこの欺瞞に満ちた現状を打破しなければならない。その一つの方法がイスラムによる統治であり、そこにはアイロニーというよりも現状を正確に見据えたうえでの深い洞察があるように私は思うのだ。

 

さてさて、『服従』に関してはもう一度機会を設けて書評を書きたいと思うが(何しろ読んだのは二年前なので詳細を覚えていない)、今回は『ある島の可能性』について綴っていこう。

 

 これはいうなればSFだが、普通のSFとはまた違った趣向のものである。それはやはりウェルベック現代社会の世相をふんだんに引用した描写から導き出される感触といえるだろう。簡単にあらすじを説明する。コメディアン兼映画監督である主人公ダニエルはどこか達観したような乾いた生活をしている。金も名声もある。寄って来る女もいる。毎晩誰かとセックスをして、きわどいブラックジョークを散りばめた脚本を作るという日々を過ごしている。ここまではウェルベックの小説によくある風景だ。しかし、奇妙なのはこのダニエルに並行して異なる物語が挿入されているということである。ダニエルには何やら番号のようなものが割り振られている。そう、今作はダニエルという人間の現在と未来が交互に描写されているのである。つまり、ダニエル1というのが現在の彼、そして並行して描かれるダニエル24、25というのが未来の彼である。未来では遺伝子を使って、クローン人間(ネオ・ヒューマン)を生成する技術が確立しており、現在はその技術を開発する過渡期にあるという設定なのである。

訳者あとがきでも説明されているようにこの作品は「中間」を描いた作品である。「中間」とは何かというと、「旧人類」が「未来人」へと進化する過程での「ネオ・ヒューマン」という仲介物のことである。ネオ・ヒューマンはそれ自体「未来人」ではない。ウェルベックにとっての「未来人」とはもはや生命に感動・共感することもなく、インターメディエーション(AI、もしくは攻殻機動隊で言うところのゴーストみたいなものか?)によって他者との意思疎通はできるが、触れることも干渉することも対立することもない自律した存在として認識されている。人類は将来的にはそんな存在に昇華するのだと彼は主張するのである。そして、セックスと欲望にまみれ、自らのコミュニティを存続させるために人殺しすらいとわぬ存在として「旧人類」、つまり今の我々人間が描かれている。ネオ・ヒューマンはその中間、どちらにも触れうるし、どちらにも欲望する存在なのである。そのため、旧人類の「人生記」を読み、ネオ・ヒューマンたちは不可解に思いながらも彼らが欲望する「愛」に興味を抱いていく。

宗教という人々を時には残酷で野蛮な方向に導く行動指針が崩れ去り(脱魔術化)、それに代わって資本主義(金)という新たな行動指針が世界を席巻した。それは一時、共産主義という新しいイデオロギーの台頭によって存続の危機に追いやられたが、いまだに息の根を止めていない。現在、そんな資本主義が世界中に蔓延し、誰もが金さえあれば旅行(マスツーリズム、パッケージツアーの隆盛)に行ける、ベンツも手に入る、セックスも難なくできるという高度資本主義の時代に突入している。では、そんな高度資本主義を超えて次なる時代の到来を告げるものは何なのか?『服従』ではそれをイスラムによる「再魔術化」と仮定して世界を構築したが、『ある島の可能性』ではそれをテクノロジーに支えられた新たな宗教と仮定したわけだ。ウェルベックは決してどちらの世界が良いとか悪いとか言っているわけではない。彼はただ淡々と次なる時代の可能性を恐ろしいまでの豊かな想像力でもって描き出しているにすぎないである。