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「戸籍」とは何かーーその機能と役割について

 戸籍にはいかなる機能があるのか。遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史ーー民族・血統・日本人』の第一章をもとに簡単に整理してみたい。

 

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

 

 

 戸籍とは何なのか。遠藤は戸籍を「個人の身分関係の変動について記録し、国家が管理する公文書」(p.10)と定義している。戸籍自体は東アジアに特有のものだが、西洋でも身分登録制度は存在する。古今東西を問わず共通するのは、国家が人民を管理する目的でそれらの制度が作られたということである。

 ちなみに、ここで簡単に戸籍と西洋の身分登録制度の違いについて触れておくと(p.65)、第一に後者は基本的に個人を単位として登録が行われる。第二に、出生や婚姻、死亡などのイベントごとに個別の登録簿に記載される点である(日本の戸籍はそれらを統一のペーパーにまとめて記載する)。第三に、身分登録の対象となる記載が日本と比べれらば必要最小限に絞られていることである。戸籍には個人の親族関係などを事細かに記載されるが、個人を単位とする身分登録では出生や婚姻、死亡以外の事項は基本的に記載されない。もちろん、西洋の中でもそれぞれの国家で独自の国民登録システムを作っているが、基本的に上述の三つは共通している。

 戸籍の話に戻ろう。国家が人民を管理する目的で作られたのが戸籍であったが、遠藤によると、その目的はさらに①「国内人口の静態および動態を把握するという人口調査」②「個人の身分関係を把握するという個人識別」の二つに集約できるという(p.10)。①は簡単に言えば人口統計や国勢調査に近いものとして戸籍が用いられるということを意味しており、②はそういった簡単な人の「数」や「移動」に注目するだけではなく、一人一人の出自やそれにもとづく身分を系統的に把握することを意味している。

 だが、戸籍におけるこの二つの機能は同時に発生したものではなかった。つまり、古代国家では①の目的のみで戸籍が用いられていた。というのも、「国民」という概念もなく、国家の領域も成員も明確に確定していなかった当時は、徴兵や徴税、労役といった義務を人民に賦課することがまずは念頭に置かれたからである。したがって、性別、年齢、職業、世帯数など最小限の人口構成を把握することだけで十分だったのである。また、近代以前は国家というもの自体がなかったから当然ではあるが「国籍」も存在しなかった。国籍が発明されるのは、ナポレオン期のフランスやプロイセンであるといわれるが、それが東アジアに輸入されるのは19世紀末から20世紀初頭にかけてである。したがって、近代以前は戸籍への登録がすなわち「国家が個人を『国民』として認証する意味をもったと考えられる」(p.10)。

 そして近代に入ると、状況が一変する。産業革命の影響で人々の職業も多様化し、都市化に伴って人々が移動する範囲も拡大する(特に農村部から都市部へ)。さらに、国家が労働者保護や社会保障などの各種福祉政策や治安維持などを担うようになり、「夜警国家から福祉国家へ」と変化していく。そのため、おのずと国家は単純な「人口調査」以外にも、個人の家族関係(出生・結婚・離婚・死亡、どういう家族構成かなど)や居住関係(出生地と現住地など)をより詳細に把握することが求められるようになり、戸籍に上述の②の機能が付与されたわけである。

 現在では、国勢調査などが発展・整備されたことで、戸籍における①の機能はほとんど顧みられることはなくなったかもしれないが、個人的には完全になくなったわけではないと考える。実際には、①と②の機能は時系列的に発展したが、今では二つの機能が相互補完的に用いられているように思う(特に戦後初期の台湾では中国全土の国勢調査を実施することが不可能であったため、「戸口調査」を国勢調査として援用していた。つまり①の目的で戸籍が用いられていた。と同時に、省籍が重要な区分になるため、個人の身分関係つまり出自を把握する②の機能も重視されていた)。

 

 つづいて、戸籍に何が記載されるのかをやや詳細に見ていこう。ここでは、主に日本の戸籍が議論の対象となる。現行戸籍法第6条では、戸籍は「市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子」を単位として編成されるとしている。つまり、「本籍と氏を同じくする『家族』が同一の戸籍に入るということである」(p.27)。これを「一家一籍」の原則という。さらに、戸籍法第13条では、戸籍の記載事項として、①氏名、②出生と年月日、③戸籍に入った原因及び年月日、④実父母の氏名および実父母との続柄、⑤養子である場合は、養親の氏名および養親との続柄、⑥夫婦については、夫または妻である旨、⑦他の戸籍から入った者については、その戸籍の表示、⑧その他命令で定める事項、の八つを挙げている(p.27-28)。個人の家族関係は多様なので、実際にはこの八つの中で当該個人に関係する内容が記載されることになる。

 ほとんどの場合、戸籍は人生における種々のイベントを経て、その記載内容が書き換えられる。例えば、婚姻や養子縁組などによって従前の戸籍から他の戸籍に入ったり、あるいは開設したり、子は成人すると親の戸籍から独立して新たに自分を筆頭者とする戸籍を作ったりすることができる(これを「分籍」という)。戸籍制度自体がそもそも国家が個人を管理するために作られたものであることは前述したが、では国家は戸籍を参照することによって人の異動をどのように管理しているのだろうか。

 遠藤は、「過去から現在までの身分変動というタテ軸」「現在の親族関係というヨコ軸」のベクトルを駆使することで戸籍上の人の異動が把握されると述べている(p.30)。これを戸籍の「索引的機能」という。例えば、一つの戸籍において親が死亡したり、子が婚姻や養子縁組などによって他籍に移ると、一人ずつ戸籍から除かれる。最終的にすべての家族構成員が戸籍から抜けると、その戸籍は戸籍簿から外され、「除籍簿」に移される(2010年の法務省通達によって、除籍簿の保存期間は150年とされた)。そして、新たな戸籍に入った場合、その中に以前に所属していた戸籍が記載されるようになっているため、現在の戸籍を見ただけで個人の出自を明治初年の壬申戸籍までさかのぼることもできる。これが「タテ軸」を駆使した索引である。そして、言うまでもなく戸籍には親族関係も記載されるため、現在存命の家族構成なども把握することができる。また、タテ軸の索引を使えば、本人の直接的な関係を持たないような遠戚を特定することも可能である。そして、こういった戸籍の索引的機能を補完するのが、夫婦親子同氏の原則である。同じ戸籍に記載されている者は、原則として「氏」を同じくするという前提があるからこそ、連綿と続く親族関係を検索することが容易になるというわけである(p.48-49)。

 このように、戸籍は個人単位ではなく親族団体を単位とし、かつ西洋の身分登録制度のようにイベントごとにバラバラにではなく、個人の出生から死亡までの出来事を統一的に記録しているため、個人の身分関係と親族関係を時系列的に把握することが可能になるのである(p.31)。これを戸籍の「系譜的構造」という。これが官僚をして「戸籍は世界に冠たるもの」と言わせしめる所以となっているのであるが、これはひとえに国家が個人をより効率よく管理することを念頭において作成された制度であることを忘れてはならないだろう。

 

 そのほか戸籍に関わる事項をいくつか整理してみよう。まずは「本籍」についてである。正直、この本籍は非常に奇妙で難解な概念である。本籍は「戸籍の所在地」つまり戸籍編製の基準となる場所を指すが、それは個人の住所でも出生地でもない。「つまり本籍は、登録される個人および家族の現実生活と必然的な関係をもたない観念的な場所であり、本籍を同じくする者が必ずしも共同の生活を営んでいるわけではない」(p.34)のである。本籍が行政上の意義を持ったのは、明治以降のことである。戸主の設定した本籍が家の所在地となるので、「○○町××番地の戸主△△」と検索すれば、その戸籍に記載される家族関係を把握することができる。つまり、本籍の現実的な役割は、今も昔も一貫して戸籍の「索引的機能」を補うことであった(p.34)。

 本籍の所在地は基本的に戸主(今でいえば戸籍の筆頭者)が日本の領土内であれば自由に選択することができる(例えば皇居とか尖閣諸島とか)。壬申戸籍の時代は、選択自由とはいえ、自分の出生地とか地縁にもとづく場所に定めるのが原則とされており、人の移動もそれほど流動的ではなかったため、ほとんど住所=本籍という建前が成立していた。しかし、近代化・工業化によって農村から都市への流入が加速すると、本籍と住所が一致しない人々が出てくる。だが、その際にも「本籍」は廃止されることはなく、むしろそういった事態に場当たり的に対処するために「寄留制度」が設けられるようになった。「寄留」とは本籍以外の場所に一定期間住所を有することを指す。1914年の戸籍法改正と同時に「寄留法」が公布施行され、本籍がない者、本籍が不分明な者、外国人で90日以上一定の場所に居住する者を「寄留者」として「寄留簿」に記載すると定められた(p.36)。ちなみに、台湾・朝鮮・樺太など、内地戸籍とは異なる「民籍」を定められていた植民地住民は基本的に外地ー内地間での本籍の異動が禁止されていたため、内地へと徴用・出稼ぎに来た植民地住民もこの寄留法によって処理されるものとなった。この寄留法は戦後廃止されたが、現在では形を変えて「住民登録制度」として残存し、戸籍に添付される「附票」に、戸籍に記載されている者の住所情報の変更が逐一書き込まれている(p.37)。

 また、興味深いのは1873年時点で、すでに壬申戸籍を「公式統計」として使うことに異議が唱えられていたことである。日本で初めて国勢調査が実施されるのは、20世紀に入ってからで、それまでは戸籍がすなわちセンサスの役割を担っていた。しかし、「日本近代統計学の祖」とされる杉享二は、戸籍が「父祖親族之続」の調査がメインとなっており、また本籍を基準として編製されるため、およそセンサスとしての機能を果たしてないと指摘し、これとは別の「国勢調査」の実施を要請していたのである(p.35-36)。

 ここまで各方面から批判されてきた本籍制度が、なぜ現在においてもなお存続しているのかについて納得できるだけの説明はあまりない。だが、戦後の新国籍法の起草にも関与した平賀健太の以下の言葉はその理由を最も端的に表したものの一つといえるかもしれない。

我が国の戸籍制度においては、戸籍の記載を受ける資格のある者は、日本国民に限られかつ日本国民はすべて戸籍に記載されるという建前である。しかるに他方戸籍制度の基礎をなすものは本籍である。本籍は現実の居住の事実とは必然的な関連を持たないが、それでもなおそれはわが国の国土における一定の場所である。してみれば、日本国民はすべて戸籍に記載されることによって本籍をもち、この本籍をもつことによって観念的にではあるが日本の国土との間に地縁的なつながりをもっている(丹野清人『国籍の境界を考える』p.103より印用)

  つまり、本籍は移動の自由は認められてはいるものの、その範囲は原則日本の「国土」内に限定されている。したがって、戸籍に記載される者は観念的にではあるが、日本に対して「地縁的紐帯」を持たざるを得なくなる。いいかえれば、国家としては国民を「日本という領土」につなぎ留めておくために「本籍」を廃止せずにいるのではないかということである。

 

 つづいて戸籍の届け出に関してである。日本の戸籍は原則として、戸籍上の身分変動があった場合に個人が自発的に役所に届出を行う「届出主義」を採用している。この届出には二つの種類がある(p.37)。一つ目が「報告的届出」であり、出生や死亡、氏名の変更、帰化、国籍の得喪などの既成の事実を個人が事後的に届け出ることを指す。二つ目は「創設的届出」で、婚姻や離婚、養子縁組、離縁、認知、入転籍、分籍などの届け出によってはじめて法律上の効果を生じる届出を指す。基本的に前者は義務的なものとされ、届出を怠れば過料が課される場合がある一方で、後者はあくまでも任意の者であるため強制力はない。

 また、戸籍の届け出は「属人的効力」「属地的効力」の効力を有している(p.38)。前者は、戸籍法が日本国民すべてに適用される以上、たとえ海外に住んでいる者であっても日本国籍を有する者であれば身分変動に関する事項は届出を行われなければならない(海外在住者は在外公館に)とする効力である。後者は、戸籍法の施行される日本の領土内で起こった身分の変動はすべて届出によって明らかにする必要があるとするものである。そのため、戸籍法適用外とされる外国人であっても、日本国内に居住する場合、身分変動があれば出生届や死亡届などを日本人と同様に提出しなければならない。

 届出主義は基本的に個々人の自発的行動に依存するため、国家は「届け出を行わなければ害を被る」という規範を押し付けることで国民の自発的行動(これは矛盾しているようにも思えるが)を促進しようと試みる。例えば、戸籍への記載がなければ個人の身分証明ができないとか、権利や遺産相続などをすることができないとすることで、国民は半ば強制的に届出へと駆り立てられる。ほかにも、「籍を入れる」という言葉からも分かるように、戸籍への記載をシンボリックな「結婚」と結びつける言説がこの規範の創出に寄与している面もあるかもしれない。

 

 最後に、日本の戸籍と関連して中国における「戸口登記制度」について簡単に整理してみよう。そもそも戸籍制度自体が古代中国の発明品ではあるのだが、中華人民共和国が現在用いている戸籍制度は正式には「戸口登記制度」といい、厳密には古代からの戸籍制度とは性格を異にする。戸口登記制度は1958年の「中華人民共和国戸口登記条例」にもとづいて作られたものであり、「中華人民共和国公民」はすべて戸口登記簿および戸口簿に記載され、それをもって公民たる身分が証明されるとしている(第4条)。

 だが、家族関係を詳細に記録する日本の戸籍とは違って、戸口は基本的に「居住登録」に重きを置いている。同条例第5条において、戸主のもとに同居している者を「戸」とし、これを単位として戸口登記簿が編製されると定めている。この「戸」とは「世帯」のことを指し、血のつながりを前提としたものではなく、あくまでも「同居者」であるのが日本戸籍と明確に異なる点である(p.71)。

 また、日本では登録基準地となるのは「本籍」であったが、中国では「常住地」とされ、さらに日本とは対照的にその常住地の異動は厳格に禁止されている。日本でも有名なように、戸籍移動が厳格に禁止されていることから、中国では農村戸籍都市戸籍の別による格差が横行しており、改革開放以降、都市部に都市戸籍を持たない「農民工」が増加するという事態が起きた。都市部の戸籍を持っている人はその土地で各種サービス(教育、就職、社会保障など)を受ける権利を享受できる一方で、当該地域外の戸籍しかない者は平等なシティズンシップから締め出されることになる。また、戸口登記事務は、都市においては公安機関、農村部においては人民委員会が担当しており、その点からも戸口がそもそも警察的目的から設計されていることを看守できる(p.71)。

 また、日本では夫婦親子同氏の原則があったが、中国では男系を示す「姓」を先祖から受け継ぐことで同一の血統が確認される「宗族」という観念がある。「姓」は父から受け継ぎ、終生不変のものとされるので、日本のように妻が夫の戸籍に入り、姓を変更するといった慣習はない。基本的に中国の婚姻法では、結婚後も夫婦はともに自己の姓を維持する権利を認めている(p.57)。したがって、戸口においても「姓」を同じくする者だけがそこに記載されるのではなく、異なる「姓」であっても記載される点に日本戸籍との相違点がある。

Paul Starr "the Sociology of Official Statistics"

 Paul Starr, 1987, 'The Sociology of Official Statistics' William Alonso and Paul Starr eds. "The Politics of Numbers", New York: Russell Sage, 7-57. という論文をまとめる。

 

The Politics of Numbers (Russell Sage Foundation Census)

The Politics of Numbers (Russell Sage Foundation Census)

 

 

 ポール・スターは統計や国勢調査社会学的解明を試みる研究者である。このほかにも統計や社会調査における「カテゴリー化」が人々の認識にいかなる影響を与えるのかなどを精力的に研究している。その試みはブルデューフーコー、ハッキングなどの「知による物象化」の研究とオーバーラップする部分があると思うが、彼らの議論に言及しているような部分はあまり見当たらない(詳しいことは分からないが、米国でブルデューフーコーなどの研究を参照することに対してあまりポジティブな考えが共有されていないのかもしれない)。したがって、この論稿も同書の中で展開される論文やその他の研究をもとに、経験的事実としての「公式統計(official statistics)」の歴史や機能を概説しているといった感じである。

 

 序章の「公式統計の社会学」と銘打った章の冒頭でまず彼は、これまで社会統計家が公式統計を「分析の手段(means of analysis)」として使ってきた一方で、「分析の対象(object of  analysis)」としての側面を注目してこなかったと指摘する(p.7)。いまや統計は有効な研究方法として確立することになったが、しかし公式統計の歴史、そして一見すると「客観的」「科学的」な手続きによって成り立っているように見えるその研究方法が実は社会的・政治的な過程の中で構築されることが見逃されてきた。そういった側面に社会学的に迫っていこうというのが本書の趣旨となるわけである。

 では、本書で度々出てくる「統計的システム(statistical system)」とは一体何なのだろうか。いわく、それは「数的情報の生産・分配・使用に関するシステム」(p.8)のことを指す。この統計的システムは大きく分けて二つの要素から構成される。一つ目は「社会的組織化(social organization)」である。これは、収集から分析・分配・使用に至るまでのデータ産出に関与する個々の回答者や国家のエージェンシー(従業員)、私企業、専門職、国際組織などによる社会的・経済的関係から成る。そして、二つ目は「認知的組織化(cognitive organization)」である。これは情報それ自体の構造化のことを指し、例えば研究領域の境界、社会的現実についての先入観、分類の体系、測定方法、データの解釈や表示に関する公式のルールなどを含んでいる(p.8)。

 要は、前者が公式統計なり社会調査なりが作成される際に関与する様々な人間たちの関わり合いのことを指し、後者が実際にデータを収集・分析する際に科学的知(あるいは非科学的だが研究者業界で自明となっている慣行)をもって現実の複雑性が縮減され、整序されることを指しているというわけである。この二つの要素が合わさって構成されるのが統計的システムであり、それによって産出されるのが統計である。そのため、その生産過程を問うことは十分「社会学的」な研究たりえるのだ。

 この前提をもとに、スターは本書で展開する議論を、①統計的システムの起源と発展②統計的システムの社会的組織化③統計的システムの認知的組織化④統計的システムの使用法と効果⑤現代における統計的システムの変化、の五つに分類している(p.9)。この序章で簡単に概説されているのは、この中の①~④までである。

 

 まずは①統計的システムがなぜ作られたのか、その歴史を見てみよう。古代ローマでは、censusを徴税や兵役義務、政治的身分の決定を目的とした、成人男性市民や彼らの財産の登録のために使用していた(p.10)。しかし16世紀後半ごろ、次第にcensusは徴税だけでなく、戦争や公共事業に従事できる人間の数や年齢をを決定したり、市民間での論争を解決するしたり、浮浪者や怠惰な人間、窃盗者などを取り締まったりするために使われるようになっていった。「この時期、censusは明らかに国家権力や社会的コントロールのための道具であったのである」(p.11)。

 しかし、近代に入るとcensusの役割は変化していく(p.11)。第一に、近代的censusは一つのネーションやその下位地域の全体人口をより包括的に測定するようになった。前近代までは男性、特定の年齢・階級、健康や世帯などしか聞いていなかったが、調査の項目はより拡大していった。第二に、個人レベルでデータを取るようになった。第三に、継続的に登録を行うのではなく、ある特定の時点での数値を取るようになった。つまり、累積的にデータを取るのではなく、調査時点におけるデータを取ることで時系列でデータを把握することができるようになったのである。第四に、近代の統計データは公表されるようになった。第五に、そして最も重要なものとして、徴税や警察を管轄する部署と統計を管轄する部署が分裂したことである。これによって、調査者と対象者の関係は変化し、対象者の中でcensusに対するある種の信頼性が生まれ、国家が調査を行うことに対する「正当性」が付与されるようになった。

 だが同時に前近代と近代の過渡期には、中央の国家が統計を一元的に管理することに対して、地方の有力政治家などから意義が出されるようになる。例えば、17世紀中盤のフランスでは、人口・経済の調査が主として新たな税負担が課されることを恐れた地方有力者らの反感を買い、調査の協力を拒まれるという事例がある(p.12)。統計の一元管理が必ずしも順調に進んだわけではなかったことは留意しなければならない。

 では、近代的意味での統計はいかにして誕生したのだろうか。そもそも”statistics”という言葉は、「国家(state)」と密接に結びついた概念であった。17~18世紀のドイツではHermann Conringが「国状論(Staatenlunde)」という研究領域を発展させていったが、その時点ではstatisticsとはすなわち数的なものであるかどうかにかかわらず、国家についての事実を指していた(p.12)。さらに、17世紀の英国では、ウィリアム・ペティが公共政策における量的アプローチを開発していき、「政治算術(political arithmetic)」という概念を生み出した。これは主に商業的な目的として作られたもので、確率などを駆使することで人口や農業生産、貿易、税収入などを算出し、国力の増強を企図していた(p.14)。そして、18世紀後半に英語の中にもstatisticsが輸入される。このように、stateを語源とするstatisticsは、近代において国家の発展に寄与するものとして発明されたのである。

 またチャールズ・ティリーが、国家建設は歴史的に「搾取的かつ抑圧的」であったと言うように、統計システムもその搾取と抑圧に関与してきた。つまり、ヒト、カネ、情報の三つを搾取し、徴税と徴兵を行うために統計は用いられてきたのである(p.16)。徴税において国家に属する人民の総数を把握することはもちろん大事だが、同時に税の「配分」のためにもそれは重要な意味を成す。つまり、国家が民主的になればなるほど税負担と配分を公平に行うために、正確な公式統計の技術が求められ、開発されていくのである。

 一般的に、経済・社会的生活への国家権力の管掌範囲が拡大すればするほど、統計研究の範囲や細かさ、量も増すといわれている。しかし、スターはこのテーゼはあまりにも単純化しすぎていると反論する(p.16)。第一に、国家の利害関心のみによって、自動的に人々の思考体系が構築されるわけではない。第二に、介入主義的政府は統計研究により関心を寄せるかもしれないが、それと同時に反発も引き起こし、全般的で信頼に足るだけの情報を引き出すのに失敗することはままある。先に挙げたフランスの例は、それを如実にあらわしている。総じて言えば、統計を集めるには広い範囲での協力体制とそれを行うだけの「政治的正当性」が必要になるため、社会を無視した国家による上からの絶対主義的権力だけではそれは達成できないのである(p.17)。

 したがって、censusが民主主義国家において成功を見たのは偶然ではない。世界で初めての国勢調査が行われたのは、1790年のアメリカにおいてである。これは下院の議席配分のために実施されたものだが、それは国家による徴税や監視などではもはやなく、民主的な制度を作るためのインフラとして要請されたのである。そして国勢調査は、特定の集団だけでなく、全体としてのネーションに資するためのものとして作成・公表される。19世紀のアメリカでは、国勢調査は国民的偉業とアメリカ民主主義の成功の証明としても機能していた。つまり、「国勢調査はナショナル・アイデンティティを強化するための一種の集団的自画像であった」(p.19)のである。

 

 次に②統計的システムの社会的組織化について見てみよう。統計的システムは前述したように、長い歴史をかけて様々なアクターが関与する一種の分業体制を築き上げてきた。と同時に、そのアクター間で協力、妥協、反発などの相互作用が発生するようになる。

 まずは中央統計局と支局の関係である。統計官僚があまりにも政策立案や分析に接近すると反逆者(partisan)になるリスクもある一方で、政策立案から独立しすぎると単なる「数字の工場(numbers factory)」になってしまう危険性もある(p.26-27)。その塩梅はケースバイケースだが、この関係性は重要である。

 次に、中央政府と地方政府の関係である。国勢調査員は多くの場合地方の職員であり、調査結果本体は地方に据え置かれ、その要旨だけが中央へと提出される。また、実際の分析は地方と中央で分散しているかもしれないが、情報への公的アクセスのコントロールは地方に任されている(p.27)。例えば、本書出版当時の西ドイツでは地方政治家が個人の情報やデータにアクセスできるように中央政府に訴えたといいう事例があるように、地方と中央の関係は常に問題になりやすい。

 三つ目は、公的領域と私的領域の関係である。最近では公的領域だけが統計を取るわけではなく、私的セクターが公的機関の依頼を受けて調査を行うケースが出てきている。その際に、データの収集・管理・公開はどの範囲まで許されるのかという問題が新たに浮上するのである。

 四つ目は、官僚と学問の関係である。公式統計は主に技術官僚の統率にしたがって、収集・管理されている。学問の世界でも国家が算出した公式統計を用いて論文や研究を作成することはよくあるが、問題は官僚と学問の世界での統計の概念や調査方法がいくらか異なることである。その対立は、日本でもしばしば散見される。

 と、ここまでが統計を作成する側の分業体制および相互関係の整理であったが、次に統計を作成する過程において、どのような社会的相互作用があるのかを見てみよう。

 まずはデータ収集の方法における相互作用である。調査のデータ・ソースや方法(国勢調査を行うのか、サンプル調査を行うのかなどの選択)は政治的・社会的プロセスの結果によって決定される。例えば、アメリカでは憲法によって10年ごとに国勢調査を行うことが定められている(p.31)。しかし、その具体的な調査方法も長年議論されてきた(コストがかかる全数調査を行う必要があるのかなど)。特に国家が実施する調査は税金によって賄われるため、調査の意義が厳密に問われる場合が多いだろう。

  次に回答者のコンプライアンスと情報公開における相互作用である。調査の回答は強制的なものから自発的なものまでさまざまあるが、その結果は回答者の今後の待遇に影響を与える場合がある(福祉、警察、徴税、罰則など)。したがって、それらを危惧して回答者が意図的に自らの利益に反しないような回答をすることもありうる。例えば、1980年米国で、国勢調査の前後でマイノリティの数が過小に数えられていることに反発して、「平等に数えられる権利」獲得のために法的承認を求める運動が起きた事例がある(p.33)。米国では、国勢調査が政治的代表権や税の分配などを決定するための基礎的資料とされる(マディソン大統領はFederalist Papersの中で「人口にしたがって代表者と税を割り当てる」と述べている)ため、調査結果の数値が非常に政治的にセンシティブなものになりやすいのである。

 三つ目はデータ収集における相互作用である。言うまでもないが、あらゆる調査は調査者と回答者の間の関係性の上に成り立っている。これは前述したので繰り返さないが、他にも現象学的観点から見れば、統計データのカテゴリーやエビデンスは必ず調査者による「解釈」を不可避的に伴う(p.35)。例えば、デュルケムが『自殺論』で深く取り上げなかったが、現象としての「自殺」をどのように解釈するのかはなかなか難しい問題である。首吊り死体で発見され、はたから見ればどう見ても「自殺」であったとしても、それが加害者によって巧みに仕組まれた「他殺」である可能性は否定できないし、自殺統計には「自殺未遂」の数は含まれていない。つまり、自殺者数の統計を取る場合でも自殺者が本当に「自死」を選んだのかどうかは数値からだけでは判断できないし、そもそも「自殺」の定義についての合意がないのである。

 四つ目はデータ処理における相互作用である。統計データの生産は、ルーティンの仕事を行う多数の事務職員と少数の管理者および専門職者による産業的・労働過程から成っている。彼らの相互作用も調査結果を左右する場合がある。

 最後の五つ目は、政府による改ざんや統計的紛失(国家による意図的なデータの不開示も含む)、公共的データの社会的分配である。産出された調査結果を公開するのか、公的に誰でもアクセスできるようにするのかなどは、国家と社会の間の相互関係によって決まる。

 

 つづいて、③統計的システムにおける認知的組織化である。ここでは、調査を実施し、そしてそれが公開され、それに基づいて公的資源が配分されることで人々の認知にいかなる影響を与えるのかということに注目している。例えば、質問項目の設定は、特定の質問を選択している一方で、それ以外の質問を淘汰していることにもなる。その時点で、調査のフレーミングが行われているのである。この節で個人的に興味深いのは、「分類(classification)」に関する議論である(p.43-46)。

 スターは、分類(classification)を「対象を彼らの関係性にもとづいて、何らかの集団や仲間の中に秩序付ける、あるいは配置すること」と定義している(p.43)。さらに分類の下位概念として「社会的分類」なるものを挙げている。これは、すなわち「人々それ自体、あるいは人々の活動、帰属などを分類すること」(p.43)である。国勢調査や社会調査で行っているのは、この「社会的分類」に他ならない。そして、それらの調査を駆使して、「国家がある集団の認識を受け入れるか、はたまたその他の分類を押し付けるかは文化的・階級的区分や政府の形態、公式に認められた自己定義を得ようとする集団の能力に左右される」(p.44)。

 この社会的分類のプロセスは大きく分けて四つある。一つ目は、分類カテゴリーの定義(domain definition)である。例えば、国勢調査などでよく使われる「エスニシティ」も自明のカテゴリーではない。類似の概念として「人種」や「民族(nationality)」があるし、ほかにも「祖先」や「カースト」「宗教」などとオーバーラップすることはままある(p.44)。どういったカテゴリーが望ましいものとして使用されるのかは、非常に恣意的に選択されるというわけだ。したがって、公式統計分類では、分類カテゴリー(domain)は第一に社会生活一般で使用する意味として、そして第二に(日常的に使われている意味から乖離することもある)国家が社会をマッピングするための形式的な意味として、それぞれ構成されうるのである(p.44)。

 二つ目は、グループ分け(grouping)である。公式統計によってなされるグループ分けは、単純に分析上のカテゴリーなだけでなく、自らのアイデンティティの公的承認を得ようとする政治的同盟や連携、社会運動、利害関係集団の区分でもある(p.44)。しかし、公式統計は時にはお互いに「仲間」であると認識していない人々も同じカテゴリーに分類してしまうことがある。そういったケースでは、統計上の境界線の引き直しをめぐって政治的闘争が生じることもある。

 三つ目は、ラベリング(labeling)である。これはハワード・ベッカーの有名な研究にもあるように、統計による分類が人々の認識を構築し、新たなラベル(時には偏見に満ちた)を押し付けることになるということである。例えば、「浮浪状態(vagrancy)」よりも「ホームレス状態(homelessness)」としたほうが、逸脱者に対する偏見を抑制することができる。つまり、ラベリング(カテゴリーの命名)は分類の第一歩であり、そのカテゴリー付けによって調査対象者の損益を発生させてしまう可能性もあるのだ(p.45)。

 四つ目は、秩序付け(ordering)である。社会的世界は複雑であると同時に、混乱(messy)している。そのため、調査などを行う場合はその複雑性を縮減しなければ、科学的理解へと進めない。しかし、その秩序付けを行う際にも、様々な段階が存在する(p.46)。まずは「矛盾の整合(reconciliation of inconsistencies)」である。ある時点での統計上のカテゴリーが、時間の経過とともにその意味合いが変化していことがある。そういった場合にその矛盾を整理しなければならない。次に「範囲が不明確な部分の構造化」である。例えば、当人が有するエスニシティや職業などの分類はしばしば不明瞭で流動的であるため、その整合性をしっかりと確定しなくてはならない。最後が「ヒエラルキーの推敲」である。「何を何の下に位置づける(記載する)のか」などは、調査を行う上で避けては通れない道である。以上のような秩序付けあるいは調整は結局、社会的現実を不公平に構造化する国家の概念的フレームワークを導入することを必然的に伴う(p.46)。

 以上の四つの方法によって、社会的分類が行われるわけだが、これらのプロセスによって分類がなされ、それが公開されれれば、もはや分類は国家の専売特許ではなくなる。つまり、分類は国家によって一方的に行われるわけではなく、ひとたび分類が行われれば、それにもとづいて人々は「集団化」したり、あるいはその分類に対して異議申し立てを行ったりするかもしれない。そうなった場合、結果として新たな「分類地図」へと作り変えられることもありうる。そういった事例は④統計的システムの使用法と効果の中で挙げられている。例えば、国勢調査局が一度ヒスパニックというカテゴリ―を採用すれば、アメリカ社会は認知的にそれに与することになる。フランスでは公式統計の中で「幹部(cadres)」というカテゴリーを用いているが、それによって中間レベルの技術・管理職のアイデンティティが形成されているという。さらに、ドイツでは社会保障の統計において、「賃金労働者(Arbeiter)」と「正社員(Angestellten)」を区別しているが、これが階級意識の形成を助長している(p.53-54)。こういった公式のカテゴリー化に抗して(特にエスニック的な)運動が生じるケースは少なくない。分類システムは、そういった国家と社会の相互作用によって生産・再生産されるのである。

大阪なおみ選手と「ハーフ」をめぐる言説について

 今週、大阪なおみ選手の全米オープン優勝のニュースが駆け巡った。それ自体は非常に喜ばしいニュースだが、そのニュースをめぐって様々な言説が吹き荒れている。ここでは、そのニュースについての雑感などをまとめてみたい。

 

 大阪なおみ選手優勝のニュースは、当初驚きと称賛をもって受け入れられていたが、次第に議論の水準が移行していった。「果たして彼女は何人なのか?」彼女の国籍帰属やアイデンティティなどをめぐって、(本人の意思とは全く関係なく)ネットを中心に議論が拡散していったのだ。彼女は現在20歳、国籍選択の義務を課された22歳までまだ猶予があるため、現時点ではアメリカと日本の二重国籍を有しているという状態である。じゃあ、彼女はアメリカ人なのか、日本人なのか。はたまた、父親の出身地であるハイチ人なのか。ネットではそういった○○人の定義をめぐって、(時には言及するのもはばかられるようなものも含めて)多種多様な言論が提出された。

 しまいには、メディアが記者会見の場で、彼女のアイデンティティを問うような場面まで見られた。ここでは記事は引用しないが、記者会見で投げかられた質問は、「海外で大阪さんの活躍や存在が古い日本人像を見直したり、考え直すきっかけになっているという報道があるが、ご自身のアイデンティティなどについてどういう風に考えているのでしょうか」といった内容である。

 これはグローバルスタンダードで考えればアウトな質問であることは言うまでもない。いわば、公開の場で自らの帰属を明かすことになるわけである。運よく大阪選手の回答が自らのアイデンティティを特定するようなものではなかったからよかったものの(というかあの場面ではああいう風に答えるしかない)、もし「私は○○人である」という風に答えていたら面倒な問題になりかねなかった。そこまで発展していたら、あの記者はその責任を負う覚悟はあったのか。質問する前にはたと考える時間はなかったのか。その逡巡があったにしろなかったにしろ、この質問自体に人種やエスニシティに対する日本の鈍感さが透けて見えた。

 

 と、こういった具合に、多種多様な議論が提出されたわけだが、以下の記事ではその議論の類型を大きく分けて四つに分類している。

 

www.hafutalk.com

 

大坂なおみさんは「日本人」

大坂なおみさんは「日本人ではない」「日本人としては違和感」

③ 何人(なにじん)かはどうでもよい。選手としてすごい

大坂なおみさんのインタビューや語ったアイデンティティになるべくそったような表現を心がける

 

 さらに、①は「『日本の誇り』『日本人すごい』といったように、なおみ選手の活躍と『日本のすばらしさ』を結び付けようという語り」と「『日本人』は、実際には多様である。大坂なおみ選手のように、『日本人』は多様化している。大坂なおみさんたちの存在で、『日本人』が多様化する」という二つの言説のタイプに分けられるという。つまり、大阪なおみ選手を「日本人」と名指す人の中にも、異なる「日本人論」を掲げる人々がいるというわけである。これは「△△は○○人である」というカテゴライズの言説自体は同じでも、その中にも様々な「根拠の示し方」があるということを示していて興味深い。こういった「日本人論」は普段は意識されることはないが、社会の中に通底しており、今回のようなデリケートな事件が起きた時に突如として吹き出す。どういった「根拠の示し方」が出るかはおそらくその議論のテーマに依存することも多いだろうが、ある程度、日本の主要なナショナル・アイデンティティを反映したものになっている。

 個人的にSNSを追って見ても、だいたいこの四つの言説の類型に大別できると思う。「日本人」or「日本人でない」という大筋の議論を繰り広げる①②にくわえて、そういった議論をすること自体がバカらしいという③は「何人かはどうでもよい」と述べる。そして、そういった他人によるアイデンティファイにくぎを刺し、アイデンティファイは個人の自由で当人に任せようという④も存在する。これは、おそらく大阪選手に限らず、何らかの業績を残した重国籍日本人ないしは外国籍日系人などをめぐる議論で頻繁にみられる類型だろう。

 また、記事によると、④のようなタイプはSNSやメディアを含め、日本の言論のなかにはあまり見られず、むしろ海外メディアの中で出てくる傾向にあるという。言及されているワシントンポストの記事では、見出しに「日本人、ハイチ人」と二つのカテゴリーを併置する方針を取っているという。これは多様なルーツを持つ人種が混在する米国ならではといえるかもしれない(おそらく日本の記事の中にも彼女が日本人とハイチ人のハーフであることは示されているだろうが、それを記事の見出しにまで出した者はないだろう)。

 

 このように、二重国籍の問題は国内外で(本人からではなく外野で)大きな議論を巻き起こす、非常に敏感な問題である。2年前に起こった蓮舫議員の国籍問題と比較してみても面白いだろう。今回の議論は、国籍が個人の問題であると同時に、国家の問題でもあるということをの如実にあらわしている格好の事例だった。

Rogers Brubaker "Nationalism reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe"

 

Nationalism Reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe

Nationalism Reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe

 

 

 今回は、Rogers Brubaker "Nationalism reframed: Nationhood and the National Question in the New Europe" の2~3章をまとめる。

 ロジャース・ブルーベイカーの理論的枠組みや既存のナショナリズム論に対する反論等は前回のブログ記事でも紹介したので、ここではイントロと1章は割愛。(ブルーベイカーの理論枠組みについては以下のエントリを参照)

 本書は1996年に出された本で、ブルーベイカーがその後にカテゴリー論などの導入によって精緻化していく理論のフレームワークの素描を行っている。だが、カテゴリー論以外に本書の注目すべき点は、ナショナリズムを一つの地域に限定した視点によってではなく、「民族化する国家(nationalising state)」「民族的マイノリティ(national minorities)」「祖国国家(external homeland state)」という三項関連図式(triadic nexus)の中で捉えなおそうとしたことである。これは、ヨーロッパ、特に中東欧をフィールドとして研究を行ったブルーベイカーだからこその視点の転換であるといえる。

 さらに、当時90年代の終わりごろは、ソ連の崩壊やEUの台頭などによってナショナリズム(この場合のナショナリズムとはWW2時代のいわば「過激なナショナリズム」である)に対する楽観的な論調が目立っていた。そういった論調に対してブルーベイカーは、こういう時代だからこそナショナリズムは「解決」されたのではなく、むしろ従来とは異なる形に「再形成された(reframed)」のだと警鐘を鳴らしたのである(p.3-4)。そしてそのスタンスを彼は今でも全く曲げていない。

 

 では、その三項関連図式とは何なのだろうか。以下はイントロのp.4-7の簡単な要約である。

①民族化する国家(nationalizing nationalism)
新しい独立国家(あるいは再編成された国家)に多い。
民族化するナショナリズムは「核となるネーションあるいはナショナリティ(”core nation” or nationality)」の名のもとに形成され、エスノ文化的な用語で定義され、全体としての国民(citizenry)とは区別される主張を伴っている。
核となるネーションは、その国家の正当な「所有者(owner)」とされ、その国家は核となるネーション「の(of)」、あるいは「ための(for)」の国家になる。しかし、「自らの」国家を有しているにもかかわらず、核となるネーションはその国家において文化的・経済的・人口上に脆弱な立場にある。このような脆弱な立場――独立を果たす前のそのネーションに対する差別の遺産のように見えるが――は、核となるネーションの特定の(そしてこれまでそれほど十分に与えられなかった)利益を促進するために国家の力を使う「矯正の(remedial)」または「償いの(compensatory)」計画を正当化するために用いられる。

②祖国国家(external national homeland)
民族的な祖国は、他国にいる「かれらの」エスノ民族的な同胞(kin)の状態(condition)を監視し、福祉(welfare)を促進し、活動や機関を支援し、権利を主張し、利益を守るための国家の権利――そして実際その義務――を強く主張する。そういった主張は、エスノ民族的な同胞が、彼らが居住する国家の民族化(そしてエスノ民族的な同胞からすれば脱民族的な)政策や実践によって脅かされているとみなされる場面で典型的に起こる。したがって、祖国のナショナリズムは、民族化するナショナリズムに対する反抗、そしてそれとの動態的な相互関係の中で生起する。民族的マイノリティの地位が厳密に国内の問題であるという民族化する国家に特徴的な主張に反して、「祖国」国家はエスノ民族的同胞に対応する権利や責任は領域やシティズンシップの境界を越えると主張する。この意味で、「祖国」は地域的なカテゴリーというよりも政治的なカテゴリーなのである。文化的・政治的エリートが、他国の特定の住民(residents)や市民(citizens)を同国民(co-nationals)、単一の越境的なネーションの同一成員(fellow member)と見なすときや、彼らがその共有された国民性(nationhood)によって、自らの国民(citizens)だけでなく、他国に居住し、他国のシティズンシップを有している民族的な同国民に対してもその国家の責任が生じるのだと主張するときに、国家は外部の民族的「祖国」になる。

③民族的マイノリティ(national minorities)
彼らは前二者とは異なる独自のナショナリズムを有している。彼らも自身のナショナリティの地平で主張をおこなう。実際、彼らを民族的マイノリティにしているのは、そのような主張である。「外部の民族的祖国」や「民族化する国家」と同様に、「民族的マイノリティ」は人口上の事実ではなく、政治的立場を示す。マイノリティ・ナショナリストの立場は、特徴的に単なる「エスニック的(ethnic)」というよりもむしろ特に「ナショナル(national)」な用語による自己理解や、国家に対しての独自のエスノ文化的なナショナリティの認知の要求、特定集団のナショナリティにもとづく文化的・政治的権利の主張を伴う。民族的マイノリティと祖国のナショナリズムは両者とも、そのマイノリティが居住する国家の「民族化する」ナショナリズムに対抗して自らを定義づけるが、彼らは必ずしも調和的に連携しているわけではない。違いは祖国のナショナリズムが他の進行中の非ナショナリスト的な政治的目標として戦略的に祖国国家に採用されるときに起こるであろう。この場合、例えば地政学的目標がこれを要求したときなどに、海外の民族的同胞は唐突に切り捨てられるかもしれない。

 

  ブルーベイカーはこの三項関連図式が適用できる例として、ソ連の旧統治下にあった東欧の国々(この場合、民族化する国家→東欧諸国(successor states)、民族的マイノリティ→東欧諸国に居住するロシア系住民、祖国国家→ロシアという図式になる)のほかにも、華僑なども挙げている(この場合、民族化する国家→東南アジア諸国、民族的マイノリティ→東南アジアの華僑、祖国国家→中国(あるいは中華民国)という図式になる)。

 さらに、3章で詳しくこの図式の説明が試みられている。注意すべきは、「祖国国家」が必ずしも海外に住む「民族的マイノリティ」の実質的な出身国ではあるとは限らない点である。ある国家が(時には「民族的マイノリティ」の利益や要望を無視する形で)彼らの処遇をめぐって主張を展開し、何らかの政治的アクションを行った時、その国家は「祖国国家」に”なる”のである(p.58)。したがって、両者の主張のロジックは全くの別物として捉えなくてはならない。

 この三項関連図式を「集団主義」的視点によってではなく、「関係論」的視点によって把握するために、ブルーベイカーはブルデュー政治界(political field)」の概念を導入している(p.60)。ブルデューは社会的なアクターが自らの資源や資本(=賭け金)を動員しながら、他のアクターと自らの差異化や競合していく闘争的空間としてこの「界」の概念を使った。同様に、それはナショナリズム運動(この中には政府レベルのものからより下層的なものも含む)にも適用できる。

 例えば、民族的マイノリティは静的な「集団」ではなく、「動態的・政治的立場(dynamic political stance)」、あるいは「関係しながら、時には相互に競合する立場の集合(a family of related yet mutually competing stances)」である(p.60)。したがって、民族的マイノリティは民族化する国家に対して様々な主張を展開するが、その中には教育の拡充や政治参加の要求、領域的・政治的自治権の要求など内容に大きな開きがある。さらに、それは民族的マイノリティ内部においても同様で、外部からは一枚岩に見える彼らの中にも様々なアクター間の駆け引きが存在するのである。

 〔「界」の概念を使うことによって、〕民族的マイノリティを異なる組織、政党、運動、あるいは個人的な政治的名望家によって採用された、差異的で競合的な位置(position)や立場(stance)の界として捉えることができる。それぞれが自らの名目上の成員や受入国、外部世界に対してマイノリティを「代表」していると主張し、それぞれがその集団の正統的な代表性の独占を狙っている。(p.61)

 また民族化する国家は、「民族化(nationalising)」という表現を使うことで、「国民国家(nation-state)」というブラックボックス化された静態的な集団ではなく、それがまだ「未達成の国家(unrealized nation-state)」であるというニュアンスを表現できる(p.63)。つまり、国民国家は完成された一つの到達点ではなく、常にその内部のアクター(政党、政治家、ロビー活動団体など)によって刷新される集合なのである。さらに、民族化国家の政策は外部の界にも影響を及ぼす。つまり、民族化が単なる実践レベルではなく、政策レベルで明確なプロジェクトとして採択され、はっきりと法的に正当化され、主張されると、民族化する国家の認識は、民族的マイノリティや祖国国家の政治界にも波及していくのである(p.64)。

 「界」の概念を使うことによって、一つの国家における広範囲な民族化の立場にフォーカスすることができ、関係的だが独自の、相互に反目する異なる位置づけによって採用された立場が、我々が便宜上「国家」と呼ぶ、複雑で組織間/内的なネットワークの中、あるいはその周辺で形成されることを理解できる。(p.65-6)

 最後に、祖国国家は外部の民族的マイノリティに対して統治の正当性を主張するが、その主張の仕方も多様なパターンが考えられる。例えば、道徳的な支援を当てる場合もあれば、物質的な支援を施す場合もある。さらにそれに呼応して民族的マイノリティは祖国国家に対して、様々な移住やシティズンシップの権利を要求するかもしれない。そして、それはどのような手段、手続きによって行われるのか。また、それはもしかしたら様々な国際的討論の場で推進されるかもしれない(p.67)。そして、当然「祖国国家」の政治界の中にも多様な立場、そして競合関係が存在し、祖国の政策立案者は母国政治における基礎となる前提にも異を唱えることになるため、当然内部の政治闘争も激化する(citizenshipの範囲や福祉需給の問題など)。

 このように三項の政治界はそれぞれの界に影響を及ぼし合いながら、またぞれぞれ自らの界の内部でも闘争を繰り返している。そしてその全体的な闘争のプリズムによって新たな政治的布置構造が生産・再生産されるのである。これがブルーベイカーの言う「関係論的(relational)」なナショナリズムの理解である。再度三項関連図式の骨子をまとめると以下のようになる(p.69)。

①界の「内部」そして「間」の関係の密接した相互依存関係

②界間の三項関連の呼応的(responsive)・相互作用的(interactive)特徴

③呼応的関係の媒介的特徴(呼応的・相互作用的立場取りは、外的界の立場の代表、あるいはすでに一時的に取られた立場によって形成されているかもしれない代表によって媒介される?)

 

 

 以上が三項関連図式の3章で説明される要旨である。以下では続いて、2章の内容を整理する。2章では、ソ連を事例にナショナリズムを「制度論的に説明する」ことが試みられている。ちなみに、ここでいう「制度論」とは新制度論的社会学のことを指していると考えられる。参照文献として挙げられているのは、DiMaggio and Powell eds. "The New Insutitutionalism in Organaizational Analysis"である(p.24)。非常に単純化して言えば、新制度論的社会学とは、社会的に構築された「制度」(この中にはいわゆる政府や組織が作る制度だけでなく、学校や家族、社会的な規範などのルールなども含んでいる)が、いかに人々の認識や社会的選択を形成・媒介・経路づけるのか、そしてその行動の結果がいかに既存の制度の再生産・刷新へとつながるのかを解明しようとする学問的潮流である(p.23-4)。

 ソ連の崩壊によって多くの東欧国家は独立を果たしたが、いわゆるそれらの「後続国家(successor states)」においても旧ソ連の「遺産」が尾を引いてネーション・ビルディングに影響を及ぼした(ブルーベイカーはソ連の民族的特徴を「制度化されたマルチ・ナショナリティ(institutionalized multinationality)」と表現している)。いわく、「ソ連は人工統計上(ethnodemographic)の意味においてーー国民の異常なまでのエスニック的異種混住性という意味においてーーだけでなく、より基本的に制度的(institutional)な意味においてマルチナショナルな国家であった」(p.23)のである。

 これはどう意味か。後に詳述するが、ブルーベイカーによると、ソ連による「国民性(nationhood)」と「国籍(nationality)」の制度化には、①領域的・政治的なものエスノ文化的・個人的なものとの二つがあった(nationhoodとnationalityはどちらも「国民性」と訳せるため非常に厄介である。しかし、ニュアンスとしては前者は文化を含めた国民性であるのに対して、後者はより公的・制度的な「国民性」を表していると考えられるため、ここでの訳語として「国民性」と「国籍」を当てた。だが、それも必ずしも正しいとは言えない。後者はむしろ「民族籍」「地域籍」と訳した方がよいかもしれない)。

 ソ連の領域的国民性と個人的国籍の制度は、広範囲に及ぶ社会的分類システム、体系的な社会的世界の「視覚と区分の原則」、社会的説明の標準化された図式、公的議論のための解釈的格子(grid)、境界策定のセット、公的・私的アイデンティティの正当的形態、そしてゴルバチョフ時代に政治的空間が拡大した際の、主権に対する主張の便利なテンプレートを構成した。(p.24)

  このように、ソ連時代の国民性の制度的定義付けは後続国家における政治的エリートの行為を制約する(constrain)というよりも、むしろ彼らの政治的理解の基本的カテゴリーや政治的レトリックの中心的パラメータ、政治的利害関心の型、政治的アイデンティティの基礎的形態を構成し(p.24)、後続国家はいわばソ連のレガシーのライン上で様々な民族的・政治的コンフリクトを形成していったのである。

 では、具体的にソ連による「制度化されたマルチ・ナショナリティ」とは何なのだろうか。例えば、かつてマルチ・ナショナルだった国家(帝国)の例としてハプスブルグ帝国などが挙げられるが、ソ連はいかなる点でそれらの国家と区別されるのか。ブルーベイカーはその説明として、第一に、ソ連の統治者が「ソビエト・ネーション」を作ろうしなかった点第二に、かといって彼らが「ロシア国民国家」を作ろうとしたわけでもなかった点を挙げている(p.28)。もちろんソ連は60~70年代にかけて「ソビエト人民」というカテゴリーを掲げたが、それもナショナルなものというよりも超ナショナル(supra-national)なものとして捉えられていた。さらに、ソ連においてはロシア人がやはり支配的なネーションだったが、だからといってかつてドイツ帝国がハプスブルグのオーストリア系住民に対してドイツ語を公用語として強要したような政策が取られることはなかった。

 〔ソ連が従来の国民国家モデルとは一致しない点として、〕エスノ領域的な連邦制、個人の国籍の精巧なコード化やそれに付随する広範囲の意味付け(significance)、多数の異なる民族的インテリゲンチャの醸成、ほとんどの場合「自ら」のナショナルな領域の中で居住・活動することを許された異なる民族的中核グループの醸成、1920年代~30年代初めに起こった非ロシア系ネーションの結集を画策するネーション・ビルディングの計画的な政策、多数の民族的言語の醸成と法典化、非ロシア言語による高等教育を含んだ学校化の精巧なシステムの発展が挙げられるだろう。(p.29)

 繰り返しになるが、ソ連による国民性と国籍の制度化には、①政治と行政の領域的組織化②個人の分類の二つの種類があった(p.30)。ソ連は15の連邦共和国に分かれ、それぞれの地域である程度の自治裁量が認められていた。そして、このエスノ領域的な連邦制を補完するのが、個人の国籍のシステムであった。エスニックな国籍は単なる「統計的カテゴリー」なだけでなく、社会的な説明の基礎的なユニットであり、国勢調査や他の社会調査においても援用された。そして、それは義務的・帰属的な「法的カテゴリー」であり、個人の法的地位の重要な要素であった。また、それは「国内パスポート」や「個人的書類」の中に記載され、子孫によって受け継がれ、官僚や公的処理によって記録されていった(p.31)。より高レベルの教育や特定の雇用への応募などの場面において、国籍は個人の人生のチャンスを形作っていったのである(例えば、ユダヤ人は冷遇された一方で、非ロシア系共和国に居住するロシア人は「アファーマティブ・アクション」と称して優遇を受けた)。

 だが、ここで注意しなければならないのは、個人の身分の公的証明としての「国籍」は、もともと1932年に新たな国内パスポートシステムを整備するために導入され、当初は集団化しつつあった農民や増加する都市の労働力、移民の制御が目的だった点である。つまり、それ以降に用いられるようになった国籍による国内のネーションの分断は、意図せざる帰結として起こったというわけである(p.32)。

 そして、このようなエスノ領域的な連邦制と個人の国籍はしばしば齟齬を起こす。つまり、あるネーションの法的領域と個人の国籍が一致しないことがしばしば起こりうるのである(例えば、ネーションの領域としてのウクライナと個人的国籍としてのウクライナ人の不一致、領域としてのエストニアと国籍としてのエストニア人の不一致など)。そもそも国籍は血統にもとづく分類であって、居住にもとづくものではない。そのため、国家による移民や恣意的な境界線と歴史的な混住地帯の「きれい(clean)」な線引きの不可能性は、ネーションの領域と国籍の空間的分断とのミスマッチを引き起こしたのである(p.33)。

 また、ソ連の制度化されたマルチ・ナショナリティはネーションの領域と個人の国籍の齟齬だけでなく、①領域的・政治的国民性②個人的・エスノ文化的国民性との間の齟齬をも生み出した(p.34)。ネーションは第一に領域的に境界付けられた自己統治的な集団、その領域的・政治的フレームによって形作られ「構成」された集団である(p.34)。だが、これは西欧国民国家においては適合的なモデルであるが、中東欧諸国の場合には当てはまりにくい。つまり、政治的組織体(political units)と文化的組織体(cultural units)の範囲が一致しないのである。この地域においては、ネーションは概念的にも因果的にも政治的領域に従属しているのではなく、エスノ文化的共同体(特に言語による共同体)なのである(p.35)。

  ①と②の齟齬は、例えば領域にもとづいた民族自決の論理を貫徹しようとすれば、必ず言語・宗教・文化などの側面で統治の領域から漏れてしまう人々が出てしまうし、また個人にもとづいてネーションを構築しようとすれば、必ず移民などの動態的で不安定なアクターによってネーションが変化することが不可避となる(p.39-40)。ソ連ナショナリティ政策の文脈で言うならば、コア・ネーションのロシア人による「領域的自治」とロシア人以外による「非領域・文化的自治」の間で齟齬が生じるのである(p.40)。

 

 以上がソ連時代のマルチ・ナショナリティの特徴であったが、ではソ連崩壊後の後続国家はどのようにその「遺産」を継承したのだろうか。

 ソ連解体後、それぞれの元共和国でエスノ文化的グループ(例えば非ロシア系国家で暮らすロシア人など)が自らの領域の自治など様々な主張を掲げた。彼らは、法的機関や社会的慣習、文化的態度によって民族的表現で制度的に定義されたが、制度的に組織化・強化されることはなかった(p.42-3)。だが、法的には結晶化しなかったが、のちに後続国家によって国民性のエスノ文化的定義が形成されていく。

 後続国家がまず直面したのが、「シティズンシップ」と「国民性(nationhood)」との間の問題である。問いは大き分けると以下のようなものがあった(p.43-4)。

①誰が形式的シティズンシップあるいはその他の意味や地位においてその国家に属するのか?

②どの集団がその国家の市民(citizenry)を構成する(すべき)のか?

③どの範囲までシティズンシップはエスノ文化的ナショナリティにもとづくor一致すべきなのか?

④形式的な市民の範囲外に、例えば他国のエスニック同胞のようなその国家に特別な主張を持ったり、その国家が特別な利害関心を持つ運命にあるような人々はいるのか?

⑤反対に、実質的な意味での十全な市民のメンバーではない形式的市民の内部に何か他のものが存在するのだろうか?

⑥どんなシティズンシップを国家は制度化するのか?

⑦シティズンシップは個人的にもたらされるのか、あるいは何らかの形でエスニック的あるいはナショナルな集団と成員資格に媒介されるのか?

⑧シティズンシップの権利はただ単に個人の権利から成り立つのか、それとも集団の権利もそこに含むのか?

  同様に、「国民性(nationhood)」と「国籍(nationality)」の間にも問題は存在する(p.44)。

①どういった意味で新生国家は国民国家(nation-state)あるいは民族国家(national state)になるのか?

②もし、その国家が特定のネーションの、あるいはそのための国家として理解されるのならば、いかにして主張を掲げるサブ・ネーションは定義されるのか?

③そのサブ・ネーションはシビック・ネーションとして理解されるのか、シティズンシップの法的・政治的地位によって定義・境界付けられるのか。その国家の市民の総和を構成してるのか?

④あるいは、エスノ文化的ネーションとして理解されるのか。その国家から独立して定義されるのか。その市民(citizenry)と必ずしも共生していないのか?

⑤後者(エスノ文化的)の場合、後続国家に対するその正当性の主張や民主的シティズンシップの実践との一致、あるいはそのエリートによる国民に対して同等の服従を強いるという考え方にもとづくナショナリティ民族自決の原則はどうなるのか?

  こういった問いから、冒頭で挙げた①民族化する国家②新生国家の民族的マイノリティ③法的シティズンシップではなく、エスノ民族的関係によって②の帰属を主張する外部の祖国国家という三項関連図式が登場するのである(p.44)。以下では、最後に①を後続国家、②をそこに住むロシア人マイノリティ、③ロシア国家と設定して、この関連図式を整理してみたい。

 後続国家のエリートは新たな門出として各種の民族化政策や計画(例えば言語、文化、人口統計上の支配、経済福祉の促進など)を全国民とは区別されたエスノ文化的なコア・ネーションに有利なように推進するが、それはソ連時代のナショナリティ政策の遺産を継承し、制度化された「所有権」という大義名分のもとに行われるため、政治的に有益で不可抗力なものになりやすい(p.46-7)。そういった政策が民族的マイノリティや祖国国家の政治界に影響を与えるのである。

 後続国家の民族的マイノリティは自らのことをコア・ネーションとは異なる国民性を有するネーションであると考える傾向がある。なぜなら、彼らは依然として自らのことを「ソ連体制下のネーション」と考えるからである。では、ロシア人マイノリティは自らのことを名目上の(titular)ネーションとは区別して定義したのか。ブルーベイカーによると、その答えは必ずしも定かではないという。なぜなら、「ロシア人性(Russianness)」はソ連体制下でそこまで波及しなかったからである(p.48-9)。だが一方で、後続国家がコア・ネーションを優遇する政策を推し進めるにつれて、ロシア人マイノリティ(およびその他のマイノリティ)は自らのことを民族的用語で定義するようになっていった(p.49)。ソ連体制下では、ロシア人が実質的にコア・ネーションであったため、彼らはソ連自体は「自らの」領域として捉えていたが、その幻想が崩壊し、祖国ロシアが後景化するにつれて、逆にロシア人マイノリティは後続国家の中で「自らの」領域的自治を要求するようになる。だが、当然それは民族化する後続国家からしてみれば「反逆」として映るので、さらに民族化が強化されるという悪循環に陥るのである(p.50)。

 最後に祖国ロシア国家である。ロシアは後続国家と民族的マイノリティの地理的近接性や力によってだけでなく、①ロシアの国家性(statehood)の基本的パラメータが不安定で実質的正当性を欠く、②ロシア・エリートが在外同胞の利益を守るために、時には寛容的にそして時には強制的にロシアを新たなロシア系ディアスポラの「祖国」とみなすことによって積極的にその他の二つの政治界に関与していくことになる(p.51)。

 そもそもソ連時代のロシア共和国は制度的に未発達で、他のソビエト共和国に制度的拠点を築くことができなかった。さらに、実際は非ロシア系共和国の中で特権的な地位を得ていたにもかかわらず、ロシア内部では逆説的に自らを非特権的地位にあると考えるロシア人もいた(p.51-2)。そのため、ロシア人エリートはロシア共和国を当該国民の国家性のための十分な領域的・制度的フレームワークと見なすことができず、結果としてソ連崩壊後のロシア国家の核となる制度的パラメータ(領域的境界、国家内構造、人口構成など)は、他の非ロシア系後続国家のそれと比べて非常に流動的で、論争的なものとなった(p.52)。そんな不安定な国家性と後続国家での民族的ロシア・マイノリティの迫害などの事実もあいまって、ロシアは国外からの彼らの保護を訴える。そして、時にはロシアはロシア・マイノリティに対して彼らの要求以上に極端な立場を取るように促されることすらあった(p.53)。

 

 

 以上が、本著2~3章のまとめである(少し順番が前後してしまって申し訳ないが)。概略になるので、まだ内容をかみ砕けていない部分が多いが、このガイドラインにしたがってこの図式が本書で挙げられているソ連崩壊後の中東欧以外にも適用できるかを吟味しなければならない。

メモ:Tseng Yen-Fen and Wu Jieh-Min "Reconfiguring citizenship and nationality: dual citizenship of Taiwanese migrants in China"

 今回は、Tseng Yen-Fen and Wu Jieh-Min,2011, 'Reconfiguring citizenship and nationality: dual citizenship of Taiwanese migrants in China',"Citizenship Studies"15(2): 265-282.の要約である(訳せば「シティズンシップとナショナリティを再構成する」になるだろうか)。著者の一人である呉介民は台湾で著名な社会学者で、中央研究院社会学研究所で研究を行っている。専門はシティズンシップや両岸の経済関係、およびナショナル・アイデンティティなどについてである。

 

 本稿は中台間を移動する人々がどのようなシティズンシップをめぐる政治的関係の中に置かれているのかを検討したものである。ソイサルが先鞭をつけた、いわゆるグローバル時代の「ポスト・ナショナルなメンバーシップ」は中台間にも適用しうる概念だが、この二国家間の場合難しいのは両国がいまだに内戦状態にあるということである。つまり、西洋諸国の例えばイスラムからの移民に関しては「ポスト・ナショナルなメンバーシップ」(すなわち国家ではなく「人権」にもとづく成員資格の付与)のモデルは通用するのだが、中台間ではいまだに国家間のパワーバランスゲームにもとづいて(つまりいまだにナショナルな論理で)非常に可変的にシティズンシップが決定されているというわけである。

 それを、母国国家(homeland state)受け入れ国(host state)、そしてディアスポラ(diaspora)の三項図式で捉えなおしていこうというのが本稿の趣旨である(この三項図式はブルーベイカーが"Nationalism Reflamed"の中で提示したものと似ている。接続可能だろうか)。

母国国家の側からすると、ディアスポラのシティズンシップは国民(nationals)が自らの成員資格を維持あるいは喪失する基礎的な条件を構成していることに対して問題提起を行う一方で、受け入れ国の側からすると、特定のネーションに対する忠誠(loyalty)とシティズンシップが切り離し可能かどうかについては、移民問題周辺の政治にとって論争的な領域であり続けている。(p.266)

 つまり、ディアスポラをめぐって母国国家と受け入れ国の間で、それぞれのシティズンシップの条件やその中身自体が問われるようになり始めているというわけである。この場合、母国国家=台湾、受け入れ国=中国、ディアスポラ=台湾から中国へ移動した人々のことをそれぞれ指す。中台のケースは、例えばヨプケが述べたような西洋諸国の漸進的にリベラル化する傾向とは逆行して、いまだに両国のナショナリズムにもとづいてシティズンシップが変化している。これを理解するためには①中台の国家間関係(the Taiwan-China inter-state relation)、②中国の「台胞」政策(the citizenship policy scheme in China)の二つの観点から考察しなければならない(p.267)。

 

 では、そもそもいつから中台間のシティズンシップの問題は浮上してきたのか。それは台湾の民主化と中国の市場開放の時期と関係している(70年代ごろまでは台湾海峡を直接ではなく、香港経由で大陸から台湾へ渡ってくる例外はあったが)。80年代後期に台湾政府は戒厳令を解き、大陸への移動を許可した一方で、中国政府は78年に鄧小平によって改革開放が叫ばれ、台湾にも大陸への投資や工場の移転などの規制が緩和された。そして、中国の市場規模はさらに拡大し、2000年代には台湾から中国への直接投資、輸出入、企業家や管理者、専門職の移動の割合はうなぎのぼりに上昇した(詳しくはp.268の図1参照)。

 台湾から中国へ移動・移住し、そこで労働・生活する人々が増加すると、必然的に浮上するのが彼らの法的地位や権利の問題である。おりしもこの時期、92年コンセンサスが中台間で確認され、それぞれの国家は「中国は一つ」というコンセンサスを持ちつつ、それぞれの「中国」を解釈することを暗黙のうちに認めた。そのため、本来であれば「国籍法」によって移民の法的地位や権利が処理されるが、中台間ではそれをすることができなくなった。

 そこで両国は「国籍」ではなく「戸籍(household registration system)」を用いて代替した。すなわち、建前としては中国人民であれ台湾住民であれすべて「中国国民(nationals)」なのだが、具体的な中国で暮らす地位や権利を有するか否か(つまりシティズンシップを持つ「住民/市民(citizens)」か否か)は彼らの戸籍登録にもとづいて処理することになった(p.267)。いわば、国籍(nationality)は象徴的なものでしかなく、実質的な成員資格は戸籍(citizenship)によって決められるようになったわけである(p.268)。これによって、両国はそれぞれ国家の成員のうちに「在留国民(resident nationals)」と「非在留国民(non-resident nationals)」の二つのカテゴリーを有することになり(p.267-268)、受け入れ国(中国)は非在留国民にcitizenになる権利を与えるかどうか、与えるとすればどの範囲まで与えるのかという問題に、送り出し国(台湾)は移出したcitizenの権利を剥奪するか否か、どこまで剥奪するのかという問題にそれぞれ直面することになったのである(p.268)。

 また、ここで一度中国のほうに目を転じてみると、そもそも中国には都市戸籍農村戸籍の差別による非常に不平等な国内のシティズンシップの問題がよこたわっている。これを呉は別の論文の中で「差異化されたシティズンシップ(differential citizenship)」(p.269)と呼んでいるが、呉いわくこれは「市民的権利」から「政治的権利」、「社会的権利」へと段階的にシティズンシップの権利は拡張していくと説いたマーシャルの説明には還元できないもので、市民・政治的権利が抑圧されたものとなっている。しかし、台湾のケースは中国内部の都市ー農村間の戸籍による差別からは完全に独立している。というのも、台湾から渡ってくる移民の多くは技術職やイノベーションなどに従事するホワイトカラーだからである。そのため、高度な人材の確保を是とする中国政府としても彼らが都市部に流入してくるのはまんざらでもない。

 以上の問題提起をもとに、本稿では①国家間関係は中台両国の二重シティズンシップ政策にどのような影響を与えているのか②国家への忠誠と不可分なものと考えられるシティズンシップの最も重要な側面とは何なのか、という二つの問いを検討していくと述べている(p.269)。議論を先取りすると、受け入れ国は台湾住民の「居住の権利」「雇用の権利」「社会的権利」の側面で議論が行われるのに対し、母国では「二重シティズンシップ」「国民皆保険(universal health coverage)」が議論の焦点になる。以下で詳しく見ていこう。

 

 まずはディアスポラ、つまり中国へ渡った台湾住民の観点から見ていこう。

 台湾から中国への移民の属性は、渡航が解禁された初期のころとそれ以降では異なる。まず、初期の80年代は台湾で独身の家族がいない者に対してのみ中国に居住し、市民になる権利が与えられた。彼らの多くは国共内戦の影響で大陸から台湾へ渡った外省人であり、本当の意味での「在外同胞」であったといえる。しかし、渡航した台湾住民の大半は最終的に台湾へと戻ってくる者が多かった。また、上述したように90年代には中国への海外からの投資が促進された流れで、台湾からも労働集約型産業が主に中国南部(厦門、福州など)に進出するようになった。

 第二のフェーズでは、およそ1998年ごろから台湾のハイテク産業やサービス業が今度は上海のような大型都市へと移入していくようになった。彼らは、①核家族ごと大陸へ移住するようになった点、②会社の決定ではなく、独立志向の強い人々がキャリアアップを求めてやってくるようになった点において第一フェーズとは異なっていた。第一フェーズが製造業に集中していた一方で、第二フェーズは小売り、卸売り、貿易、ビジネスサービス、デザインなどのいわゆるホワイトカラーが多かった(p.270)。また、重要なのは特徴の①である。Tsai and Chang(2006)によると、家族や親せき、友人が中国いる台湾人は、社会的なコネを使って中国へと渡る傾向が強いとされている(p.270)。つまり、これによって台湾から中国への継続的な移住の契機が生起されたわけである。

 WuとTsengは2006年から2008年にかけて台湾人移住者58人に対してインタビューを行い、①移住の選択、②将来の展望、③成員資格を維持・獲得する戦略について聞き取っている。それによると、多くのインフォーマントは中国への永住を決めているわけではなく、だいたい5年以内には台湾へ帰る見込みを持っているという(p.271)。さらに、彼らの多くはやはり仕事のチャンスを求めて渡中し、そこで人的資本や家族(子供)の将来の安定をもつかもう考えている(p.271-272)。例えば、家族とともに中国へ渡った台湾人の中には、子供を現地の中国人学校ではなく、英語を使って教育を行う国際学校(IS)に通わせる人が多く存在し、そういった家庭は父親が仕事の影響で台湾に戻っても、すでにISの教育に慣れ、台湾の学校文化に慣れていない子供のために母子はそのまま中国に残るということも珍しくないという(p.272)。

 いずれにせよ、聞き取りを行った台湾人移住者の多くは将来についてかなり不安定な展望を抱いており、最終的に中国に残るか台湾へ帰るか不透明な者が多い。さらに、Adrian Favell(2008)が述べるように、国境を越えた労働市場へのアクセス権として移動の自由が中産階級に与えられたが、最も大きな関心事はシティズンシップが付与する社会保障を含むコストとベネフィットを計算しなければならないことである(p.272-273)。つまり、中国へと移住した台湾人は、不十分な医療保険やサービス、公教育システムの欠如、さらには年金の欠如などの問題に頭を悩ますのである。

 

 次に中国政府の台胞政策の実態と推移を見ていこう。

 「台胞」とは中国側が用いる台湾住民の呼称で、上述したように戸籍を用いてその地位を決定しているが、彼らは他国からやってきた「外国人(foreigner)」とも異なる身分だが、完全な「国民(national)」とも異なる、いわばどっちつかずの存在として扱われる。

 〔「台胞」という〕政策上の線引きは人々〔=台湾住民〕を法的境界線の内側に保持し続け、政策設計者(the policy makers)は彼らを十全な市民(full citizens)と同等の地位まで近づけることもできるが、完全にその線引きが消え去ることはない。(p.273)

 以下では、台胞政策を①移民統制、②帰化、③雇用、④社会的権利、の観点から見ていこう。

 ①移民統制:過去10年間のうちに中国で採用された政策を見てみると、2011年時点で台湾人移住者は一度中国の地方政府から一時滞在許可の登録を受けたら、自動的に一年間の居住ビザが発給され、何度も出入国することができる(multiple-entry visa)。さらに、それぞれの地方政府の方針にしたがって、台湾人移住者は最大5年間有効な居住ビザを申請することができ、もし資格要件を満たせば、許可の更新をすることもできる(p.273)。

 このような政策は2005年以降に採用されたもので、中国政府の「台湾人移住者の心をつかむ(win the hearts)」という意図が見え隠れしていた。だが、これは中央政府の方針ではあったものの、広大な中国では省ごとに台湾住民の受け入れ体制に違いもあった。例えば、上海は台湾人移住者の「上陸ビザ(landing viza)」の発給を特権的に簡易化していた。その理由は、中央政府が上海を台湾人が渡ってくる最初のハブとして選んだからである。その後、上陸ビザを発給するハブは福州、厦門、Haiko、Sanyaなどに拡大されていった。

  ②帰化:台湾住民が帰化を行うこと(つまり台湾戸籍から大陸戸籍への移動)に関しては一転厳しい制約を設けていた。帰化認可が下りる用件は以下の二つである。

(1)1949年以降に台湾に渡り、現在家族がいない状態で台湾で一人暮らしをしており、かつ自らを支援できる意図と経済的な能力のある親族が中国にいる人

(2)中国のcitizenと結婚し、また3年間その婚姻関係を維持し、かつ扶養が必要な子供がいる人

 だが、もともと外国人の二重シティズンシップの付与を認めていなかった中国だったが、2006年には台湾住民に対しては台湾政府が発行するIDカードとパスポートを持つ者であれば二重シティズンシップを付与することを認める政策が打ち出された。これは台湾住民を吸収する(co-opt)中国政府の意図が介在していた(p.274)。

 ③雇用:2005年、中国政府は居住・再入国ビザが規制緩和と同時に、台湾人移住者が中国で就労ビザを取得する資格・手続きの変更を決定した。台湾人移住者が健康であることを証明でき、18歳以上60歳以内であれば、いかなる地域のいかなるセクターでも働くことができるようになり、かつ合法的に国境を越えることができるようになった。言い換えるならば、台湾人移住者は中国国民と同等の雇用の権利を受けることができるようになったのである。

  ④社会的権利:2005年、台湾出身の子供は授業料は大陸の子供と同額で学校に通えるようになった。また、中国政府は台湾人移住者にも各種社会保険に加入するように義務づけた。だが、これはかえって台湾人移住者を困惑させる結果となった。なぜなら、これによって台湾人移住者は母国台湾と受け入れ国中国の二つの社会保険料を払わなければなくなったからである(被害を被ったのは台湾人移住者本人というよりも、彼らを雇用し各種保険料をカバーしなければならない台湾企業)。しかも、台湾人移住者はたとえ中国の保険に加入したとしても、5年かそこらで帰国する人が大半だったため、フィードバックで得られる恩恵も少なかった。したがって、中には将来的に台湾の社会保険から離脱することを考える人も少なくなかった(p.276)。

 

 最後に台湾政府がカウンターとしてどのような政策を打ち出したのかを見ておこう。

 まず、呉・曽はR・C・Smith(2003)による、移民に対する母国国家政策の二つのタイプ分けを動員している。すなわち、(a)母国の政策(homeland policies)(b)グローバル国民政策(global nations policies)である。前者では移民の最終的な帰国を奨励し、かつ受け入れ国での定住を認めないような政策が取られる一方で、後者では母国との(特に経済的なつながり)を維持したまま、移民が包摂されることを許容し、外国で生活することを奨励するような政策が取られる(p.276)。

 台湾では以上の二つの論理を用いて台湾人移住者を母国に何とかつなぎとめようと政策を打ち出した。その際重要なのは①シティズンシップ取得、②国民皆保険(universal health coverage)の二つの締め付けを強めたことである。

 ①シティズンシップ選択:1990年代ごろにはもともと4年間の居住(一度も台湾への帰国なし)であれば、中国への帰化を許すという取り決めだったが、2001年に台湾政府は二重シティズンシップを容認する方向へと舵を切った。しかし、翌2002年には台湾政府はすぐに路線を変更し、二重シティズンシップはやはり禁止する方針へと逆戻りした。呉・曽いわく、単一シティズンシップ制度を取り入れることで台湾政府は移民が中国のシティズンシップを取得する気が失せるようにしたのではないかと述べている(p.277)。

 ②国民皆保険:台湾においては、国民皆保険に加入するには台湾戸籍に入っていなければならず、これが台湾住民をして台湾戸籍を保持し続けさせる要因となっている。呉・曽が行ったインタビューにおいても、多くが医療保険などの手当てを受けたいという思いから台湾でのシティズンシップを手放すことを渋っていた。さらに、国民皆保険の成員資格を維持したい場合、少なくとも二年ごとに台湾へ帰国し、月額の保険料を支払わなければならないという(p.277)。

 最近の政策では、最低でも6年間海外で暮らす場合は一時的に保険料の支払いを停止し、帰国後に再開してもよいという緩和策を打ちだしているが、かえってそれが海外移住者以外の国民の反発を招いている。Lin(2008)の調査によると、2005年から2007年の間における医療支出のおよそ60-70%は、中国へ移住した人々に対するものだったという(p.278)。海外移住者は保険負担料納付の負担を負うことなく、フルのケアを受けられることに対して批判が向けられているのである(ただ、海外移住者にも文句はあって、保険料給付の際の手続きが煩雑すぎて不満が多いようである)。

 非難ごうごうのこの国民皆保険の制度だが、呉・曽いわくその背景には政治的な根拠と経済的な根拠がある。前者は何度も述べたように、国民が中国域内に入る際に彼らが祖国との紐帯を切らないように細心の注意を払っているということである。いわば国民皆保険は「ディアスポラを統合する」役割を担っている(p.278)。そして後者は海外への移住者は重要な国家の利益と誇りを促進するアクターなので、経済的なベネフィットも多いということである。グローバルに活躍する人材は国家としても「金の成る木」として傍に置いておきたいものである。

 

 以上、これまで中台間のシティズンシップをめぐる動きを確認してきた。最後に結論をまとめよう。

 これまでの二重シティズンシップに関する議論は、自由民主主義の文脈で個人的権利にばかり焦点を当て、政策に付随する所属や忠誠の問題はないがしろにされてきたため、本稿で見たような政治的対立関係にある受け入れ国と送り出し国のシティズンシップ政策はないがしろにされてきた。シティズンシップが政治的忠誠と不可分かどうかは、関係国家(受け入れ国・送り出し国)への忠誠の見返りとして権利と義務がどれだけ配分されるかに大きく左右される(p.279)。中台の事例は、citizenshipとnationalityの関係を再構成する(reconfigure)ために格好の題材となるだろう。なぜならこういった事例は中台に限らず、例えば北朝鮮と韓国、統一前の東西ドイツ、南北ベトナムアメリカとキューバイスラエルアラブ諸国など多くの敵対国家でも通用するからである(p.280)。

 また、マーシャルによって提示されたシティズンシップの段階的進化論モデルは、中台のケースでは適用できない。なぜなら、市民の権利と国民の成員資格は継続的に変容しており、不安定な国家間関係に強く規定されるからである。ある時はシティズンシップは脱国民化(de-nationalized)・脱領域化(de-territorialized)されるが、またある時はシティズンシップとナショナリティが密接に折り重なる(p.280)。つまり、中台という特殊なケースにおいては、可変的な国際・国家間関係を注視しつつ、両国の応酬(つまり一方の攻撃に対するもう一方のレスポンス)を吟味しなければならないのである。

クリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』

 今回はクリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』のレビューを書く。

 

軽いシティズンシップ――市民、外国人、リベラリズムのゆくえ

軽いシティズンシップ――市民、外国人、リベラリズムのゆくえ

 

  現在、シティズンシップ研究にも関心の範囲を広げ、邦訳のものから手を付けているのだが、2010年に出版された本書は邦訳の中では理論的側面をカバーした割と最近の議論まで包括的にまとめているので便利ではある。しかし、ここ2,3年でシティズンシップ(特に移民)に関する議論は様変わりしてしまった感があるので、やはり現時点で読むと時代遅れな感想を少し抱く。

 

 本書におけるヨプケの主張はいたって明解である。すなわち、グローバル化が進展する現代では、シティズンシップはますますリベラル化していくということである。そして、これまで人々の地位、権利、アイデンティティを強く規定してきたシティズンシップのプライオリティはますます低下していき、「軽いシティズンシップ(citizenship light)」になる、というのが主な筋書きである(だが、ヨプケ自身が弁明しているように、これは彼が研究の対象としている欧州、北米、オーストラリアなどの主に西洋諸国に限定されることで、アジアやアフリカなどの地域ではまた状況は異なるかもしれない)。

 詳しい議論は本書の2章以降に譲るが、例えばこれまで西洋諸国で採用されていた「帰化テスト」はその国に対する「忠誠心」を測るような設問が多かったが、多文化主義や移民の統合が叫ばれて以降は、そういった排他的でナショナリスティックなテストは廃止され、むしろ「人々が持つ普遍的な権利は何ですか」などの非国家主義的な設問が作られることが多くなった。これは移民に対するグローバルな規範と連動するものであると同時に、多くの場合がイスラム圏からの移民である西洋諸国が「イスラム化」に抗するために「(イスラムに対する)普遍的人権を重んじる西洋文化」を強調する目的で採用されている。ますますグローバルな政体(EUなど)が規範的な秩序を構成し、移民の受け入れが不可避の状況が進展していく中で、西洋国家はナショナリズムではなくリベラリズムで対応していくしかなくなるというのがヨプケの展望である。

 もちろん、これはトランプやBrexitなどの昨今の動きを鑑みれば、全くの的外れのようにも思えるが、完全に外れてもいないように思える。というのも、ヨプケが言うように国籍制度を見てみても、例えば強固に「血統主義」を採用していたドイツですら、部分的に「出生地主義」を採用し、移民2世・3世の国民への統合へと路線を変更していったからである。そのほか、制限的な国籍制度を採用していたルクセンブルグも規制の緩和を行っている(p.63の表参照)。

 これをすべてひっくるめて「リベラル化」と言ってしまえば、確かに西洋諸国はリベラル化していると断定してもいいのだろうが、はっきり言ってこれは「リベラル化」をどう定義するかで全く異なる見解になるだろうと思う。また、グローバル化時代においてはすべての国家はリベラルになるという単線的なモデルはやはり注意が必要なように思う。というのも、やはり現在の状況から考えるに、リベラルになっている国もあれば逆にリベラルに逆行する国もあって、混成状態にあるというのが実際の状況のように思われるからだ。もっと言えば、一国内においてもリベラルになっている制度もあれば、逆に締め付けを強めている制度もある(例えば居住のハードルは下がっているが、参政権などの政治的権利の付与は断固認めないなど)。

 したがって、最終章の「軽いシティズンシップ」のくだりは少し現実味がないように思われる。もちろん、規範的なマニフェストとしてはその方向に世界が進めばいいのだが、現実は得てしてそう簡単にはいかないものである。

 

 以上、本書全体のレビューは雑にまとめたが、個人的に重要だったのは1章のシティズンシップ論の歴史を整理した部分だったので、ここを以下でやや詳しくまとめておこう。

 まず、「シティズンシップ」という概念自体が非常に厄介で、日本語に訳すと「国籍」「市民権」「市民的権利」など様々で定訳はない。それはもちろん英語においても同様である。

 例えば、最初にシティズンシップを学問的な議論に俎上に上げたT・H・マーシャルはそもそもシティズンシップを「階級」と結びつけて説明していた。つまり、国内で階級的に分断されたし資本家階級と労働者階級のヒエラルキーを段階的に修正していくために「市民的権利」「政治的権利」「市民的権利」という三段論法を提唱したのである。これは当時、「闘争」によって労働者階級が資本家階級を打倒するとした過激なマルクス主義に対して、資本主義を肯定しつつ不平等を是正するアンチテーゼとしての意味合いも大きかった。この場合、シティズンシップは「権利」として理解されている(p.17-23)。

 一方で、シティズンシップは「ナショナル」なものとしても議論されてきた。その代表的論者がロジャース・ブルーベイカーである。彼は『フランスとドイツの国籍とネーション』において、シティズンシップ概念を仏独の国籍制度と結びつけて比較歴史社会学的手法を用いて分析を行った。この研究は国籍研究の草分けとして高い評価を受ける一方で、「市民的」と「エスノ文化的」という二項図式に仏独のネーションの自己理解を還元してしまった点で批判を浴びたが、ヨプケによるとこの研究の最大の貢献はシティズンシップの「二元性」を指摘した点にあった。すなわち、シティズンシップは「社会内において形式上平等な成員資格の地位をひとつだけ認める『内部包摂性』という性質と、そのような平等な成員資格をもつ地位からすべての外国人を無条件に締め出す『外部排他性』という性質」(p.24)の二つを含有しているのである。つまり、内部では非常に民主的な構造を備えているシティズンシップも外部に対してはナショナルな論理で排他性を有してしまうのは不可避なのである。マーシャルまではこのうちの「内部包摂性」に関する議論しかなされていなかったが、ブルーベイカー以降「外部排他性」を見直す動きが始まった。

 また、ブルーベイカーはウェーバーの言葉を借りてシティズンシップ(国籍)を「社会的閉鎖」の道具として捉えなおした。すなわち、シティズンシップは「人々を国ごとに振り分けてゆくひとつのメカニズム」(Brubaker 1992: 31)であり、これはこれまでの領域固定的に国民国家を考える視点を克服し、国境横断的に広がる国家の力を考える視点へと転換する一助となった(p.24-25)。これはグローバル化の流れがナショナリズムを「超克」することなどありえず、グローバルな時代においては単純に国家の力の及ぶ範囲が越境的に広がっていくと、ブルーベイカーが自著の中で何度も強調しているところとも一致する。つまり、「シティズンシップによる閉鎖は、国民国家としての国家が『特殊で他と区別され境界づけられた国民の、国民のための』ものであるべきとする非実体的な必要を満たす一助ともなった」(p.25)のである。

 さらに、シティズンシップ(国籍)は社会的閉鎖の「道具」であると同時に「対象」でもある。

 閉鎖の道具としてのシティズンシップにより、国家は自国領への移動を制御することが可能になる。(中略)しかしさらに、シティズンシップは閉鎖の対象でもあり、それを取得する際には国家が定める国籍法の制限を受ける。(p.26)

 国家が定める国籍法は大きく分けて①出生による取得、②帰化を通じた取得の二つの方法でシティズンシップの付与に制限を与える。いずれの場合にせよ、選ぶ主体は個人ではなく、国家であり、本質的に国民国家とはリベラルとは程遠い仕組みなのである。そして、この閉鎖の「道具」としての側面と「対象」としての側面は循環しながら補強し合う。つまり、基本的に市民は制限抜きに領域内に入ることが可能な一方で、非市民は厳しいセキュリティに阻まれるという自明性によって国民国家はストレスなく自己存続することができ、内部で成員資格を再生産する(道具としての側面)。さらに、必要とあらば、成員資格を調整して周辺的に新規成員を外部から補充することも可能である(対象としての側面)。

 ブルーベイカーがシティズンシップのナショナルな側面を強調した論者とするならば、ヤセミン・ソイサルはその「ポスト・ナショナル(脱国民国家)」的な側面を強調した論者であるといえる。彼女はもう一度マーシャル以来の「権利」としてのシティズンシップの側面に光を当て、グローバルな時代においてはもはや人々は「ナショナル」なものではなく、より普遍的な「人権(human right)」によって権利を保障されると説いた。それを彼女は「ポスト・ナショナルな成員資格」と呼んだ。

 その際、彼女はEUなどの国境横断的な政治構造が相互依存を深めることで移民受け入れ国の移民政策の恣意性を縛る第二次世界大戦の過ち(特にホロコーストというヨーロッパ最大の過ち)への反省として高まった人権文化、の二つの国境横断的な規範がこの流れを促進するという(p.32)。もちろん、依然としてシティズンシップの政策決定権を握るのは当該国家なのだが、その決定の過程にグローバルな規範が入り込む余地が大きくなってきたというわけである。ソイサルの主張はちょうど「多文化主義」が叫ばれていた時期に広く受け入れられたが、それはスローガン的なものにとどまり、実質的には権利は依然として国民国家の論理で付与される(移民は政治的権利や社会保障を与えられず、「二級市民」の地位に据え置かれる)という現実が横たわっていたため、訴求力を失っていた(p.35)。

 そして、ソイサルの後に出現した理論的潮流がウィル・キムリッカである。多文化主義の提唱者としても有名なキムリッカの理論は一見するとソイサルと同じようにも思えるが、ヨプケによるとソイサルが「普遍主義的」であるのに対し、キムリッカは「特殊主義的」な点に相違がある。つまり、前者が普遍的な「人権」によってシティズンシップの資格が与えられると説く一方で、後者は(民族でもなんでもいいが)マイノリティの権利をマジョリティに合わせるのではなく、マイノリティに特別な権利を与えて「補う」(p.36)べきだと主張する(例えば、国民の祝日少数民族にとっては何のゆかりもないただの一日である。そういった場合、少数民族の個別の祝日を設けようとすれば「特殊主義」となる)。

 だが、もちろんキムリッカの理論にも問題が存在する。まず、キムリッカの主張の裏には少数民族は特別に文化や権利を認める一方で、当該国家の包括的な「社会構成文化」を受け入れる必要がある。だが、国家があらゆる人々に中立的な立場を取ることはできないため、この社会構成文化も特定の人々に有利なものにならざるを得ない。さらに、キムリッカが認めるのはマイノリティ文化の保護などの穏当なもので、例えば「自治」などの過激なものは拒否される。彼の念頭にあるのは完全な「自由」ではなく、あくまでもマジョリティとマイノリティの平和的な「統合」なのである。

 

 以上のように、シティズンシップは様々な文脈で議論され、錯綜し、ひどいときには議論がかみ合わずに終わってしまうことすらあった。そこで、ヨプケはシティズンシップを大きく以下の三つの意味に限定している(p.43-46)。

地位としてのシティズンシップ:公的な国家成員資格のことを指す。いわばパスポートを保持できるといった意味合いで「国籍」と同義。

権利としてのシティズンシップ:地位に付随する一定の権利。マーシャルが提唱した「市民的権利」「政治的権利」「社会的権利」はこの次元に位置する。

アイデンティティとしてのシティズンシップ:個人を政治的共同体(国家)につなぎとめる共通の信条やアイデンティティを指す。この次元を通じてシティズンシップは国民やナショナリズムと結びつき、シティズンシップに具体的な「意味」(あるいは「価値」)が付与される。

 ①はいわばシティズンシップの「下部構造」であり、これにもとづいて②、③へと議論が拡大していくというのが普通である。地位としてのシティズンシップ(国籍)は移民などの外国人に対しての議論でも適用されうるし、例えば女性や性的マイノリティなどにも適用される場合もある。さらに、権利としてのシティズンシップは国民ー移民の文脈で階層化されることもあれば、移民内で権利の階層化が行われる場合もある。アイデンティティとしてのシティズンシップは(a)一般の人々に抱かれる経験的な信条(b)国家が人々に持たせようとする規範的な信条、の二つの種類が存在する。後者は国家が標榜し、国民ないしは移民に押し付けるナショナル・アイデンティティである。シティズンシップのアイデンティティとしての側面は唯一ブルーベイカーによって分析されたが、文化論的な帰着点に行き着いてしまったため普及しなかった。

 そしてヨプケの主張は「シティズンシップは国ごとに異なるやり方で再生産されたり、世界的に衰退の途をたどったりするのではなく、むしろさらに包括的で普遍的な方向へと進化し続けているということ」(p.46-7)である。つまり、ブルーベイカーのようにシティズンシップのナショナルな側面だけを強調するのではなく、またソイサルのようにポスト・ナショナルな側面だけを強調するのでもない①、②、③がそれぞれ連関しながら全体としてリベラルな(普遍的な)方向へと移行するというものである。

 

 以上がヨプケの整理と将来の展望である。彼の展望については、私は少々悲観的な見方をしているが、彼が提示したシティズンシップの三つの側面は非常に有用な整理だと思う。ただ、ブルーベイカーが主張するように、個人的にはシティズンシップのナショナルな側面は依然強固に残っているのではないかと思う。特に(これはヨプケ自身あえて除外しているが)西洋以外の国家の文脈では(例えばアジア)。

メモ:台湾(中華民国)の国籍制度に関する覚書(日本統治から戦後にかけて)

 台湾の国籍制度に関して大まかな歴史を整理しておきたい。参考にする文献は以下の三つ。

 

 鶴園裕基,2014,「無効化する国籍ーー日華断交の衝撃と国府の日本華僑統制・保護の変容」『華僑華人研究』11: 38-55.

 ーーーー,2016,「すれ違う『国』と『民』ーー中華民国/台湾の国籍・パスポートをめぐる統制と抵抗」陳來幸・北波道子・岡野翔太編『交錯する台湾意識ーー見え隠れする「国家」と「人びと」』,35-47.

 湯煕勇,2004,「恢復國籍的爭議: 戰後旅外台灣人的腹籍問題(1945-47)」『人文及社會科學集刊』17(2): 393-437.

 

 前2稿は主に日本と中華民国との関係の中で、国籍、つまり戦後日本に取り残された華僑(台僑)がどのように両政府に翻弄されたのかということを描いており、三つ目のは1945-47年の間に日本から中華民国に移管された台湾でいかに中華民国の国籍制度の移植が行われたのかを描いている。どちらも国府の外交部档案などの史料を渉猟しながら、当時の国府高官の言説などを分析の対象としている点に共通点がある。

 (ちなみに台湾の外交部档案史料は、現在台湾にある国史館と中央研究院近代史研究所の二つの施設で閲覧が可能なようである。)

 

 台湾に初めて国籍制度が適用されたのは日本統治時代である。下関条約締結によって台湾の領有を許された日本政府は、1895年から二年以内に清国籍か日本国籍かのどちらかを選択して、清国籍を選択した者は直ちに台湾から退去するように命じられた(もちろん、この命令を無視し、居住を続けた者は強制的に日本国籍に組み入れられた)。これによって、台湾住民は大陸の中国人とは異なる身分と法的地位を有することになったのである(鶴園 2016: 36)。

 だが、彼らは法的地位こそ違えど、民族的なルーツでは大陸の中国人とはなんら変わらないため、当然日本国籍を保持しつつ中国や東南アジアの華人社会で商業活動を営む人々は多く存在した。その際、まだまだ近代的な国籍制度が整備されていなかった中国や東南アジア諸国では、そういった華人商業家などは国家の境界を越えて商業活動の範囲を広げていったが、その過程で各現地の法律に抵触して違法行為などで裁かれてしまうということも少なくなかった。そういった状況下で、現地の華僑は自らの商業活動を円滑に進めていくために、いわば道具主義的に自らを「台湾人」と偽り、日本国籍を取得する人々が続出した。これを「仮冒籍民」という。これは今の感覚で考えれば違法行為なのだが、当時、日本の影響力を海外へと波及させることを画策していた日本政府は彼らに利用価値を見出し、積極的に国籍の付与を容認していた。言い換えれば、日本の「外縁」を拡大していく先兵としてこれらの仮冒籍民が利用されたのである(詳しくは遠藤正敬『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍』、および川島真,1999,「装置としての『台湾』と日本人の外縁」『日本台湾学会報』1号)。

  さらに、国外の外縁としては国籍がツールとして利用されたが、国内では「戸籍」が重要な役割を担っていた。つまり、台湾(および朝鮮などの他の植民地)を「日本」へと包摂する役割として国籍が使われた一方で、日本国内で「内地」と「外地」を区別するための道具として使われたのが「戸籍」だったのである。詳しくは、遠藤の前掲書に譲るが、戸籍上内地の人間が認められている権利や法的地位は、外地の住民には適用されず、いわば戸籍が「民族籍」としての役割を担っていたわけである。大日本帝国下では、国籍と戸籍を使った二層構造が築かれていたのである。

 

 日本の敗戦後、台湾は中華民国に復帰した。

 中華民国の国籍制度は1929年(この国籍制度の母体となったのは、1912年に北京政府によって制定された国籍法である)の南京政府の下で制定されたものが、2000年まで改正されずに継続していたが、この国籍制度の特徴はいわゆる「血統主義」を採用していた点にある。これは1929年という当時の状況を考えれば当然の帰結である。つまり、対外戦争(日中戦争)だけでなく国内でも大きな内戦状態(北京・南京政府の対立など)にあった当時の中華民国では、物資や支援金などの徴収が死活問題であったため、グローバルに拡大している華僑を「血統」にもとづいて「国民」とすることによって、それらの負担をカバーしようとしたのである。

 したがって、敗戦後に編入された台湾にも中華民国の国籍制度をそのまま適用し、台湾住民にもれなく「中華民国国民」としての法的地位を授けることは国府としては当然のことであった。そして、台湾島内にいる住民に対して一律国籍を付与することはなんら難しいことではなかった。しかし、問題は台湾以外に居住する台湾華僑の処遇であった。 それらの中には、例えば日本統治時代に従軍させられ(中国大陸や東南アジアなど)、敗戦後に故郷に帰ることができなかった兵士や慰安婦や、日本統治下で内地(つまり日本)に居住するようになった人々、あるいはそれ以外の世界の国々に散った台湾人など様々な者を含んでいた。

 彼らの多くは中華民国が発行するパスポートや文書を持っていなかったので、在外領事館などに申請することもできなかった(湯 2004: 408)。さらに、日本統治時代に台湾人は政府が発行する「外国旅券」でもって日本籍の証明としていたが、戦争中に従軍させられた者の多くは、日本籍を証明するような書類は一切持っていなかった(ibid 410)。そのため、彼らを他の華僑と区別して新たに「中華民国国民」として証明し、国籍を付与するのは容易なことではなかったのである。そこで、民国政府は証明書を持たない場合の復籍の条件として、在外領事館に「2名の現地華僑の保証人が確認された場合、国籍を付与する」という規定を設けた(ibid 410)。しかし、中国大陸や東南アジアなどに取り残された台湾人の多くは「帝国日本の協力者」のレッテルを貼られたため、現地華僑から疎外され、保証人を見つけることは簡単なことではなかった。

 さらに、彼・彼女らの多くは敗戦後の状況下では日本人と同様に「戦犯」扱いされ、彼らに戦勝国の一つであった中華民国の国籍を付与することは許可できないと当初米国や英国、オランダなどは否定的な態度を表明していたようである(ibid 413-423)。英国の言い分は、いまだ国共内戦のさなかで台湾の主権が正式に国府の側に移転していない状態で、かつ中華民国と日本との間で正式な和平条約を結んでいない状況下では、在日台湾人への中華民国籍付与は認められないというものだった(ibid 418)。国府国共内戦中に重要なパトロンであった西側諸国に対してはあまり強気の姿勢は見せられなかったようである(ibid 421)。

 では、在外台湾人は具体的にどのような不平等な地位に置かれていたのか。湯はそれを、①差別の対象としてさげすまれる②戦後処理で「戦犯」として裁かれる③個人の財産を没収される、の大きく3つに分けている(ibid 425)。①の代表的な事件は1946年に起きた「渋谷事件」である。在日台湾人と警察との抗争だが、戦後直後の日本では台湾人が差別されていたことを表す事件となった。

 以上のように、在外台湾人の復籍をめぐって1945年から47年の間に様々な経緯があったわけだが、1947年2月25日、米国政府は在外台湾人を中華民国国民の一部として認めるという通知を下し、一応の解決を見る。だが、これ以降、国府は1949年には台湾に正式に移転、そして大陸の中共との冷戦状態に突入したことで、在外華僑をコントロールする術を完全に失ってしまうことになった。事実上の実効支配地域は台湾に限定されたものの、国是としては大陸全土を含んで統治の範囲とする国府は、(日本帝国時代の手法と同様に)国籍をやはり中華民国の「外縁」として道具主義的に利用するようになる。

 

 そこで以下では鶴園の議論に即して、戦後国府が在日華僑(台湾人と大陸中国人を含む)に対して行ってきた政策を概観していきたい。

 前述したように、戦後民国政府は、在外華僑を中華民国国民として規定するために彼らに国籍を付与することを画策したが、それを証明する書類の不在や各国の反対によって中々前進しなかった。しかし、この時点で在外華僑が最も居住していた日本には、特別に「華僑登記証」と呼ばれる公文書を発行し、これを国籍証明書の代替物として利用した(鶴園 2016: 39)。

 だが、この華僑登記証は機能としてはパスポートと変わらないものだったが、正式にパスポートと認められていたわけではなかった。そのため、1951年に「出入国管理令」が発布され、日本に在留する外国人は一律パスポートの所持を義務付けられた際には、例外として在日華僑はこの華僑登記証にスタンプを押すという措置が取られていた。

以後の日本の入国管理では、終戦前に入国した日本華僑について「無旅券状態による在留」を認めることが慣例化していくが、これは日本政府が当初から意図したものではなかった。中華民国政府がそもそも日本華僑への一律パスポート発給を拒否していたことに原因があったのである。(ibid  40)

 サンフランシスコ平和条約締結後の1952年に日本は中華民国との間で「日華平和条約」を結び、「中国の正当な代表」として中華民国を認め、ようやく日本に駐日大使館と領事館が設置された。だが、ここで大使館スタッフを悩ませたのは、日本の華僑社会が政治的なイデオロギー対立で二極化していたことであった。すなわち、中共を支持する左傾化した勢力と国民党に幻滅し台湾独立を叫ぶ勢力とに華僑が二分されていたのである(横浜中華街などが代表的)。そこで、国府の命を受けた駐日公館は彼らの活動を統制・抑圧する必要に迫られたのである。

 そして、そこに利用されたのが華僑登記証とパスポートだったのである。すなわち、在日華僑の中で中共や台湾独立を支持する者には華僑登記証やパスポートの発行更新手続きを拒否するという手段を取ることによって、彼らの海外での活動の範囲を遠隔からコントロールしたのである(ibid 40-41)。なんらかの母国の証明書を持たない外国人は、例えば帰化申請や社会保障の申請を出すこともできない。また、自らの子供が成長して母国(台湾)に帰国することもできない。ちなみに、彼らの台湾への帰国が許されたのは台湾の民主化が進んだ1992年以降になってからだという(ibid 42)。要するに、在日華僑にとって華僑登記証とパスポートは自らの法的地位と権利を保障する唯一の証明書だったのである。

 その後、国府によって移動の自由を奪われた在日華僑は、1968年の「柳文卿事件」、1970年の「劉彩品事件」など様々な国家に対する抵抗運動を展開し、さらに1971年の中華民国の国連脱退および翌年の日本との国交断絶によって、急速に国府のパスポートを利用した統制・抑圧の力は衰えていった。つまり、今までは「中国の正当な代表」として認められ、領事館なども設置されていたが、71年以降打ち消されたことによって、中華民国パスポート事態の効力が喪失してしまったのである。国府が在外国民をコントロールする術は完全になくなってしまった(しかし、国府はこの過程で在日華僑の国籍離脱の制限を撤廃する一方で、国府発行のパスポートを引き続き保持させることでどうにか在日華僑との関係を保とうと苦心していた[鶴園 2014: 47-51])。

 だが、海外の反体制派をどうにか統制したいと考えた国府は、70年代以降、彼らを「ブラックリスト」に入れて帰国を拒否することでそれを実行した。例えば、米国に亡命して台湾独立の主張を掲げていた、のちの民進党議員などがそれに該当する。しかし、彼らは米国でロビー活動やデモ行進などを行い、大々的に海外メディアなどにアピールすることによって、外側から国府に圧力をかけていった。さらに、当時1979年の美麗島事件を皮切りに台湾内でも民主化勢力の勢いが増していた。これらの「外力」と「内力」によって、国府は最終的に1992年に台独派の帰国禁止の解除を宣言したのである(鶴園 2016: 45)。

 

 以上が日本統治時代~戦後~1990年代にかけての台湾に適用された国籍制度および在外華僑統制の大まかな流れである。重要なのは、国籍などの制度は人々を縛る「手段」であると同時に、その枠組みをめぐって様々な議論を呼び起こす「対象」でもあるという点である。したがって、サブ的なものとして語られがちな「制度」は、当然それ自体が研究の対象となりうるのである。