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ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

 ブレイディみかこさんの新刊をようやく読んだ。

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 

 

 以前、『子どもたちの階級闘争』の書評を書いたことがあるが、本作はあの時代からの経年変化としても楽しめるかもしれない。『子どもたちの階級闘争』が政治的イシューが絡んだ少しシビアな内容だったのに対し、本作はブレイディさんの息子さんが入学した「元・底辺中学校」の中での物語が中心となるため、ややライトで、かつ子供特有の混じりけのないビビットな世界観が浮かび上がってくる。

 しかし、それは子供たちの見ている世界が大人が見ている世界よりも純粋無垢で非政治的なものだということを意味しない。ときに子供が、非常に本質を突いたポリティカルなことを教えてくれる時もある。また、大人が信じ込んでしまっている固定観念や他者との壁を、子供はひょいっと乗り越えていく。「他人を思いやる気持ち」とか「寛容」ってもしかしたら実はこんな簡単なことなのかもな、と本作で登場する子供たちを見ていて思い知らされる。

 

 中でも一番印象深かったのが、「誰かの靴を履いてみること」というエピソード。

 英国の公立学校教育では、中学校に上がると「シティズンシップ・エデュケーション」というものを行っている(日本では「公民教育」とか「シティズンシップ教育」などと訳される)。その目的は、「社会において充実した積極的な役割を果たす準備をするための知識とスキル、理解を生徒たちに提供することを助ける」ことにあり、民主主義とは何か、自由とは何か、市民活動や法の本質などを学ばせるものらしい(p.72)。

 そして、その授業の一環として、ブレイディさんの息子に出された問題が「エンパシーとは何か」というものだった。それに対する息子の答えが「誰かの靴を履いてみること」だったのである。この表現自体は、英語の一種の定型句らしい。しかし、empathyの訳語として当てられる「共感」や「感情移入」「自己移入」よりも、誰かの靴を履いてみるという表現は非常に的を射ている、とブレイディさんは述べている。

 empathyと混同されがちな言葉としては、もう一つ、sympathyがある。両者の違いをブレイディさんは以下のようにまとめている。

オックスフォード英英辞典のサイトによれば、シンパシー(sympathy)は「1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」「2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」「3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」と書かれている。一方、エンパシー(empathy)は、「他人の感情や経験などを理解する能力」とシンプルに書かれている。つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。

ケンブリッジ英英辞典のサイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力しなくとも自然に出てくる。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。(p.75)

 なるほどな、と感心した。シンパシーはルソーの言葉で言えば「憐み」である。それは動物としての人間が生来備えている感情で、いわば脊髄反射的に作動するものである。したがって、そこに特別な訓練は必要ない。だが、エンパシーは違う。エンパシーは自分とは異なる意見を持つ人、理解しがたい人に対しても想像力を働かせることである。それは「共感」とか「同情」とも異なる「能力」であり、それを身に着けるには訓練が不可欠である。さしづめ、シティズンシップ・エデュケーションはその作法を教える授業なのだろう。

 だからこそ、「靴を履いてみる」という表現は秀逸である。サイズの合わない靴を履いて歩くのは窮屈だし、ときには足を怪我することだってありうる(私がハイヒールをいきなり履かされたらたちまち転んでしまうだろう)。しかし、そうやって実際に履いてみて怪我をすることでしか、他者の立場や苦しみを理解することはできない。

 「他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、善意に近い何かではないのかな」(p.84)。善意、あるいは善意に近い何かはそこらへんに転がってはいない。時間をかけて、努力して獲得していくものなのである。