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村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』、すべての走り屋に捧げるバイブル

 走ることが好きだ。

 最低でも一週間に一回は走らないと、身体がちぐはぐしてくる。一週間まったく走らなかった週と、1キロでも走った週とでは明らかに身体のパフォーマンスが違う。走らなかった週は、なんだか歩いていても地面と足の裏が上滑りしている感じがするのだ。

 

 4、5年前、中国に語学留学したとき、ほぼ毎日ランニングをしていた。別に誰かに「走れ」と言われたわけではない。むさぼるように中国語を脳に摂取するのに疲れたら、ほとんど機械的にランニングウェアに着替え、シューズを履き替え、宿舎があった大学構内を走っていた。

 走るのはだいたい日が落ちた午後7時ごろ。夜に用事があったときには、深夜11時くらいに無性に走りたくなったこともあったかもしれない。でもやっぱり一番気持ちがいいのは、まだ陽が残り、ちょうどひとしきり学生たちが帰ったあの時間帯だ。日本とくらべてはるかに大きい構内の道路を独り占めした気分になる。

 走っていると、学生だけでなく、明らかに外部の人であろう大人たちも見かける。(当時の)中国の大学はけっこう人の出入りが激しかった。みんな各々のペースで自由に風を切っている。私は決まって、その中で自分よりも少しばかり体力がありそうで、一人で黙々と走っている人間を見つけ、ぴったりとくっついていく。その人と抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げながら、最後になると(自分が勝手に決めたゴールに近づくと)全速力で抜き去り、ちょっとばかりの達成感(優越感?)に酔いしれる。なんだか昨日の自分に勝った気がする。たぶん後ろからハアハア言ってて気持ち悪かったと思う。この場を借りて、あの時のライバルたちに謝りたい。

 

 今でも走るのはやめていないが、あのとき以上に走ることに熱中したことはない。一体あのとき私は走りながら何を考えていたのか。おそらく当時の自分はほとんど無意識に(夢遊病者のように)走っていた。おなかがすいたらご飯を食べるように、目にゴミが入ったら涙が出るように、ほとんど無意識にそれを行っていたのではないかと思う。走り終えて宿舎に帰ると、庭で酒盛りしている韓国人の友人に「また走ってきたの?」と驚かれたが、何に驚いているのか分からなかった。それぐらい私にとって、決まった時間に走りに行くことは自然なことだったのだ。

 たまに、あの現象は一体何だったのだろうかとふと思うことがある。私が一心不乱に走ったのは一体なぜだったのだろうかと。

 

 そんな訳の分からない疑問を他にも抱いている人がいた。村上春樹だ。あの天下の村上春樹もランニングにはまっているという。さっそく彼が「走ること」について書いた本を手に取ってみた。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

 これがすこぶる面白い。本を読みながらテーブルにおでこがめり込むくらい、彼に共感した。何が一番好きかって、彼は一言も読者に「走ることはいいことだ」「走れ」とは言わないのだ。至極個人的な理由(単純に好きだから)で走り、黙々と一人で思考しているだけ。私たちはその思考のプロセスを見ながら、一緒に「走ること」について考えているだけ。本当にそれだけの本。だけど、この本を読んだら、必ず走りたくなるのは間違いない。

 本音を言えば、全ての文章を印刷して部屋の壁一面に貼りたいのだが、ここではなかでも面白かった(激しく同意した)箇所を引用しておこう。これはランニングのことというよりも「小説を書くことについて」の箇所だが、この本の中では「走ること」と「小説を書くこと」はしばしば同義である。

 

 小説を書くことについて語ろう。

 小説家としてインタビューを受けているときに、「小説家にとってもっとも重要な資質とは何ですか?」という質問をされることがある。小説家にとってもっとも重要な資質は、言うまでもなく才能である。文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。これは必要な資質というよりはむしろ前提条件だ。燃料がまったくなければ、どんな立派な自動車も走り出さない。

 しかし才能の問題点は、その量や質がほとんどの場合、持ち主にはうまくコントロールできないところにある。量が足りないからちょっと増量したいなと思っても、節約して小出しにしてできるだけ長く使おうと思っても、そう都合良くはいかない。才能というものはこちらの思惑とは関係なく、噴き出したいときに向こうから勝手に噴き出してきて、出すだけ出して枯渇したらそれで一巻の終わりである。シューベルトモーツァルトみたいに、あるいはある種の詩人やロック・シンガーのように、潤沢な才能を短期間に威勢良く使い切って、ドラマチックに若死して美しい伝説になってしまうという生き方も、たしかに魅力的ではあるけれど、我々の大半にとっては、あまり参考にならない。

 才能の次に、小説家にとって何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段、一日に三時間か四時間、朝のうちに集中して仕事をする。机に向かって、自分の書いているものだけに意識を傾倒する。ほかには何も考えない。ほかには何も見ない。思うのだが、たとえ豊かな才能があったとしても、いくら頭の中に小説的アイデアが充ち満ちていたとしても、もし(たとえば)虫歯がひどく痛み続けていたら、その作家はたぶん何も書けないのではないか。集中力が、激しい痛みによって阻害されるからだ。集中力がなければ何も達成できないと言うのは、そういう意味合いにおいてである。

 集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家にはーー少なくとも長編小説を書くことを志す作家にはーー求められる。呼吸法にたとえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。その両方の呼吸のバランスがとれていないと、長年にわたってプロとして小説を書き続けることはむずかしい。呼吸を止めつつ、呼吸を続けること。

 このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚えこませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある。(p.115ー118)

 […]

 長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。もちろん本を書くために、何か重いものを持ち上げたり、速く走ったり、高く飛んだりする必要はない。だから世間の多くの人々は見かけだけを見て、作家の仕事を静かな知的書斎労働だと見なしているようだ。コーヒーカップを持ち上げる程度の力があれば、小説なんて書けてしまうだろうと。しかし実際にやってみれば、小説を書くというのがそんな穏やかな仕事ではないことが、すぐにおわかりいただけるはずだ。机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生み出し、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続けるーーそのような作業は、一般的に考えられているよりも遥かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのだ。もちろんものを考えるのは頭(マインド)だ。しかし小説家は「物語」というアウトフィットを身にまとって全身で思考するし、その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することをーー多くの場合酷使することをーー求めてくる。(p.118ー119)

 […]

 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか? どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか? どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか? どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、それくらい内部に深く集中すればいいのか? どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか? もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか? そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。(p.122)

 

 この本を読みながら、ふと冒頭の留学時代の情景がよみがえった。そして、あのときなぜ私は無性に走りたくなったのか、なぜ今でも折に触れて走り続けるのか、その答えが何となく分かってきたような気がする。