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ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』※ネタバレあり

 韓国の鬼才、ポンジュノ監督の新作『パラサイト 半地下の家族』を観た。

 

映画『パラサイト 半地下の家族』オフィシャルサイトwww.parasite-mv.jp

 

 ポン・ジュノ監督作品はそんなに観たことがなく、『グエムル』と『スノーピアサー』ぐらい。どちらも韓国特有の格差社会の問題を戯画的に描いた作品だった。当時これらの作品を見たときはあまり個人的には響かなかったと記憶しているが、今作は大傑作だった。パルムドールだけでなく、各国の映画賞をかっさらっているのも肯ける出来である。アカデミー作品賞にもノミネートされたらしい。

 すでに各所の記事で指摘されている通り、昨今話題に上がる映画は、資本主義の行き詰まりや格差社会というテーマを描いた作品が多い。例えば、ケン・ローチ『家族を想うとき』、トッド・フィリップス『ジョーカー』、そして是枝裕和万引き家族』などである。そして、今作『パラサイト』もそれらの系譜に位置づけられるのだろう。絶望的なまでに開いた格差を映画的技巧で巧みに表現しながら、それでいて階級社会のリアルを描ききっている。少し早とちりではあるが、間違いなく今年のベストに食い込むであろう傑作である。

 

 少し長いが、今作のストーリーラインを確認しておこう。

 物語は、韓国の「半地下」に暮らす四人家族が身分を偽り、丘の上に暮らす富裕層の家(パク社長一家)に勤務(パラサイト)するところから始まる。半地下の家族はそれぞれの長所(兄ギウ→英語、妹ギジョン→美術、父ギテク→ドライバー、母チョンソク→家事)を生かし、もともといた住み込みの家政婦ムングァンを追い出して、巧みに富裕層家族に取り入っていく。

 そして、ある日、パク社長一家が旅行で家を空けた隙を見て居間でくつろいでいた半地下家族のもとに、追い出したはずのムングァンが戻ってくる。「地下に忘れ物をした」と告げる彼女を仕方なく家の中に入れるが、何か様子がおかしい。ムングァンの後を追い、恐る恐る地下に降りていった家族が見たものは、その家政婦の夫と、地下に広がる生活空間だった。

 ムングァンは半地下の家族の正体を知り、それをパク社長一家に伝えようとケータイで証拠の動画を撮るが、今度はそれを阻止しようとする半地下家族ともみくちゃの喧嘩になる。さらに、そこに旅行に出かけたはずのパク社長一家が、嵐のため家に帰ってくるという電話が入る。ムングァンとその夫を地下に閉じ込め、隙を見て社長宅を脱出して家族は何とか難を逃れる。

 次の日、事情を知らないパク社長一家は、庭で友人を招いてパーティを開く。パーティに招かれた半地下家族は、彼らに悟られぬように昨夜の騒動の後始末をしようと画策するが、錯乱したムングァンの夫が地下から脱走し、キッチンの包丁をとって庭にいたギジョンの胸に刃を突き刺す。優雅なパーティは一瞬で凄惨な現場と化す。

 自分の娘の無残な姿に怒った母チョンソクはそばにあったバーベキュー用の串でムングァンの夫を刺し絶命させる。だが、それだけで騒動は終わらなかった。パク社長は長年の地下生活でハエがたかるムングァンの死体を前にして露骨に不快な表情を浮かべ、鼻をつまむ。その表情を見たギテクは、我を忘れて近くにあった包丁をパク社長に突き刺す。再度、庭に悲鳴が響き渡る。そして、我に帰ったギテクは忽然と姿を消す。

 

 冒頭にも述べたが、本作のテーマは紛れもなく「格差社会」である。それは言いかえるならば、「上下のヒエラルキー構造」である。本作はそんな「上下」や「ヒエラルキー」を表すメタファーがふんだんに盛り込まれている。

 まずは、その特徴的なカメラワークである。本作は基本的に半地下家族の家と、パク一家の豪邸の二つしか舞台が用意されていない。非常に閉じられた世界観にストーリーが集約されている。この仕掛けはかなり意図的なものと考えられる。つまり、意図的に横の広がりを排除することによって、「上」と「下」、そしてその絶望的なまでの隔たりを表現しているのだろう。そして、その隔たりの長さを表すために、かなりしつこく二つの家の移動シーンに時間を割いている。さらに、象徴的なのが洪水のシーンである。パク社長宅での水かさはせいぜいくるぶしほどだが、下へ下へと降っていくに連れてその水量は増していく。「水は低きに流れる」のと同様に、社会の負担はすべて貧困家庭に流れていくのである。

 ちなみに、このような格差社会の上と下の交わりを描いた作品としては、黒澤明の『天国と地獄』(1963)がまず想起される。だが、それと比較してみても、今作は二つの家にかなりフォーカスを絞っている。こういった点に着目すると、1963年と2019年、そして日本と韓国では、現代韓国のほうが格差の幅が途方もなく広がっていると解釈できるかもしれない。

 

 だが、ここまでであれば、「格差」を描いた映画としては、まあよくある表現である。ポン・ジュノの卓越性はその先にある。

 プロットを見て一つの疑問が浮かぶ。なぜ、家政婦の夫は、パク社長ではなく、半地下の家族を憎んだのか?彼は1、2年前に韓国で流行った台湾カステラの事業に失敗し、地下暮らしに落ちた。かたや、パク社長はIT業界で成功を収め、壁を隔てて何不自由ない生活を送っている。家政婦の夫はパク社長を呪ってもおかしくないのに、むしろ「リスペクト」すらしている。

 ここに階級社会を残酷なまでにリアルに描くポン監督の恐ろしさがある。実際、本当に階級の下にいる人々は怨嗟の声を富裕層に向けることはない。なぜなら、貧困や飢えはそういった現状を正しく認識する能力・知識をも奪うからである。しかも、自分と富裕層を較べようにも、もはやその差は歴然で比べる物差しもない。

 逆に、彼らの怒りは少し上の人々に向かう。そう、「半地下」の家族である。本作で主人公一家が「半地下」に住んでいるというのは非常に象徴的である。つまり、彼らは「地下」ではない。地上に出るか出ないか、そういった絶妙な位置にあるのが半地下の家族なのである。本当の「地下」の家族(家政婦夫婦)は半地下の家族を憎むとともに富裕層を崇拝し、半地下の家族は本当の「地下」の家族に同情しつつも富裕層に嫉妬の炎を燃やす。本作は、このような階級の複雑な利害関係を「地下」というメタファーを用いて巧みに描いた作品なのである(こういった現代社会の階級闘争、および階級の団結の困難さについては、ケン・ローチ『家族を想うとき』でも描かれていた。ケン・ローチ "Sorry We Missed You"(邦題『家族を想うとき』)※ネタバレあり - 楽楽風塵)。

 そう考えると、本作における富裕層(パク社長一家)の位置付けも特徴的である。彼らは一貫して「いい人」として描かれている。半地下、地下の家族にひどい仕打ちをするわけでもない。彼らに非があるとするならば、それは無邪気な差別意識である。地下、半地下の人々の「臭い」に敏感に反応し、顔を歪める。そして、それを覆い隠そうともしない姿勢が最終的にギテクの逆鱗に触れる。

 

 さらに、ギテクを最後の凶行に駆り立てた要因はもう一つ存在する。それが、パク社長の家族に対する態度である。

 パク社長専属のドライバーとして採用されたギテクは、社長との会話の中で何度も「奥さんを、家族を愛しているのですね」という言葉を投げかける。たしかに家でのパク社長の様子を見ていると、それはテレビや雑誌などで流される「理想」の家族の在り方に見える。このギテクの何気ない言葉は、パク一家を見ていれば当然出てくるセリフの一つである。だが、この問いかけに対するパク社長の回答はいずれも歯切れが悪く、それはギテクが何気なく言った「愛」という言葉を軽く嘲笑するようですらあった。

 そして、ラストの破局へ向かう直前、ギテクを凶行に駆り立てる最大の引き金になったのも、このパク社長の家族に対する「冷やかさ」であった。インディアンの格好をして一緒に息子を驚かせてやろうとギテクに持ちかける社長に対して、もう一度ギテクはあのセリフを言う。だが、今度の社長の返答はそれまで以上に冷酷なものだった。「これも仕事と割り切ってくださいね」。そう告げる社長の顔は、いまから自らの息子を喜ばせようとする親のそれではない。そう告げられたギテクの怒りとも悲しみとも取れない無表情が、画面にアップで映し出される。

 思えば、ギテクはお世辞にも有能な父親とは言い難かった。むしろ、家族の中では一番足手まといである。だが、彼はどんな時でも家族を第一に想っていた。それはギテクだけではない。半地下の家族みな劣悪な環境にありながら、家族を裏切ることは絶対なかった。しかも、ギテクは作中で社長夫人への好意を露わにするシーンが何度かあった。「金持ちなのにいい人なんだ」というギテクの言葉は、その直後に妻チョンソクの「金持ちだからいい人なのよ」という返答にかき消されるが、その気持ちはもうほとんど「恋」と呼んでもよかった。パク社長のラストのセリフは、社長夫人の気持ちだけでなく、「どんな苦境にあろうとも家族が第一」というギテクの信念すらも踏みにじったのである。

 

 そうなってくると、半地下の家族はそもそも富裕層に本当になりたかったのだろうかという疑問すら湧いてくる。彼らは様々な偽装によって社長宅にパラサイトするが、結局それによって幸せになったとは言えない。そのようなカネや見た目では乗り越えられない境界線を端的に表していたのが「臭い」であるのは間違いないが、それ以上に半地下の家族の複雑な心情を捉えていたメタファーが「石」である。ギウは社長宅で家政婦との騒動があった日から、友人からもらった「山水景石」という石を後生大事に持ち運び始める。そして、「なぜかこれが身体から離れないんだ」と言う。さらに、パーティに招待されたギウは庭でバーベキューの用意をする富裕層の友人たちの立ち居振る舞いを見ながら、「みんななんであんなに普通にできるんだ」と独りごちる。

 偽装までして富裕層にパラサイトしたギウは、この時点で自らが結局それらの生活になじむことがないということを悟ったのだろう。そして、石を胸から離さなくなる。石は下へ下へ行きたいというギウの心情を表した秀逸な表現である。空間的な境界線を越えることは容易だったが、心的な境界線を越えることは予想以上に困難だったのである。

 

 ポン監督は本作に出てくる人々の誰かを「悪人」として描くことはしなかったとインタビューで話している(ポン・ジュノ監督が傑作『パラサイト 半地下の家族』で描いた、残酷なまでの「分断」 | ハフポスト)。そして、こう続ける。

彼らは見えない線を引いていて、その線を越えた外の世界にはまったく関心を持っていません。たとえ目に見えていたとしても、線の外にいる貧しい人たちのことは、まるで見えていないかのように行動するのです。幽霊のように、いないものとして扱っているんです。この作品は、その見えない一線が越えられた時に起きてしまう悲劇を描いています

 確かに、悪役はいない。誰もが憎めない要素を持ったキャラクターである。しかし、それを「無垢」という言葉で片づけることができるのは、それぞれの階級が同じ階級だけで、あるいは同じ家族だけで過ごす瞬間に限られる。ひとたび様々な階級が同じステージに上がれば、見えない境界線は可視化され、無邪気な差別意識が表出する。

 むしろ、悪役がいないからこそ、観客は見終わった後に何とも言えない敗北感とやるせなさを抱く。このわだかまりを我々は一体どこにぶつければいいのか。資本主義という構造なのか、人間の無邪気な差別意識なのか。そんなモヤモヤが今でも頭の中を浮遊している。