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梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』

 2019年読んで面白かった本、第二弾。

 

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

 

 

 中国の高性能監視カメラ、新疆ウイグル自治区での強制キャンプなど、日本でもその監視国家ぶりが度々報道されている中国であるが、それらの散発的に報道される現象をより包括的に、そして「功利主義」や「市民社会論」などの観点から解明した本。めちゃくちゃ面白く、かつ明快である。以前、梶谷氏の『中国経済講義』(中公新書)の評を書いたが、その続編というか、より思想的な側面で現代中国を理解することができるのではないだろうか。

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 以下、目次。

第1章 中国はユートピアか、ディストピア

第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか

第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」

第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか

第5章 現代中国における「公」と「私」

第6章 幸福な監視国家のゆくえ

第7章 道具的合理性が暴走するとき

 

 第1章では、昨今、よく中国をジョージ・オーウェルの『1984年』に例える報道を目にするが、むしろ現在の中国を表すのに適切なたとえは、おなじくディストピア小説として挙げられるオルダス・ハクスリーすばらしい新世界』ではないかという問題提起がなされる。「『1984年』が20世紀初頭の社会主義のイメージに強く影響された世界観であるのに対して、『すばらしい新世界』はすぐれて資本主義的な、ある意味ではその理想形である未来像を示している」(p.27)。

 第2章では、中国のイノベーションの立役者であるアリババ(および、当社が手掛けたEC市場)のメカニズムや、中国版ギグエコノミーの実態が描かれる(功罪両面を含めて)。続く第3章では、AI技術を用いた最新監視カメラがいかにして統治テクノロジーを実現しているのか(AI顔認証における「匿名性を前提としたセグメント化」と「顕名性に基づいた同定化」の違いはおもしろい)や、「社会信用スコア」などの技術が紹介され、それが行動経済学における「ナッジ」や「リバタリアンパターナリズム」に結びつくという話が展開される。そして第4章では、それらの動きがどのようにして中国の民主化を抑え込んでいるかが描かれる。

 

 本書の中でも特に面白かったのが、第5章と第6章である。以下では、この二つの章をやや詳細に見ていこう。

 以上の章までの記述で、中国では政府の統治テクノロジーによって民衆の声が巧みに抑え込まれていることが分かった。だが、そのような中国のあり方は、どうしても西側諸国には奇異に映る。なぜ、このような非民主主義的で権威主義的な体制が存続しているのか。これを「市民社会」や「市民的公共性」という概念で説明しようと試みているのが第5章である。

 そもそも、今では当たり前のものとなった「市民社会」という概念の意味は歴史的に変遷してきた。簡単に整理すると、そこには三つの意味が含まれている。一つ目は、「法律の前での平等」の下で人々が政治に参加する「公民社会」(英語のcivil society)。二つ目は、自由に経済活動を行う場としての「経済社会」(ドイツ語の、die bürgerliche Gesellschaft)。三つ目が、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(第2版)の中で論じた、1990年代以降に現れた国家とも営利企業とも異なる「第三の領域」としての市民社会NGONPOなど)である。欧米では、この三つの概念を明確に区分しているが、日本ではこれらをまとめて「市民社会」と呼ぶため、しばしば混乱が生じる。本書では、三つ目に限定して「市民社会(団体)」と呼んでいる。

 このような西洋を起源とする市民社会論は中国にも輸入され、2012年ごろから環境保護団体や農民工への支援をする草の根NGOを指して、このような市民社会の担い手とする議論が浮上する。しかし、このような議論に対しては多くの反論が提出されてきた。批判者は、中国におけるNGOは結局ハーバーマスが言う意味での「自由な討論によって支えられた」組織ではなく、中国共産党による官製労働組合である「工会」の隙間を埋めるだけの存在でしかないと主張した(「工会」については、上述の前エントリで紹介した)。

 このような批判に対して、中国の草の根NGOを研究する李妍●(火が三つ)は中国思想史研究者である溝口雄三の議論を援用しながら、中国の市民社会における「公共性」概念には、「天理」に代表される儒教思想が重要な役割を担っていると説明している。

 「中国の公観念には、『天』の観念が色濃く浸透しており、それは古来の『天理』、すなわち『万民の均等的生存』という絶対的原理に基づく。政府、国家も、世間や社会、共同も『天理』を外れてはならない」「公共性を担う存在として、国家も市民社会もその正当性は所与のものではなく、『天理に適う』ことによって担保される。天理に適う役割を示さなければ、公共性を担う資格(権威)が認められない」(p.149ー150)

 例えば、習近平政権期になってから大々的に行われるようになった「反腐敗キャンペーン」は、私的利益をむさぼっている役人や政治家を習近平政権が共産党の規律委員会を通じて厳しく取り締まり、それを通じて「公共性」を実現する意図があった。そこで実現される「公共性」は、あくまでも私的利益の外部にあり、さらにそれを否定するものである点に注意が必要である。これは私的利益を単に否定的な対象として見るのではなく、その基盤の上に公共的なものを立ち上げようとした西洋社会とは対照的である(p.157)。

 このように、中国社会においては、公的なものと私的なものがしばしば分裂しがちである。このような見方は中国史研究者によってすでに指摘されていた。例えば、寺田浩明は『中国法制史』の中で、中国の法概念は「公論としての法」として規定できるという。「公論としての法」は、西洋起源の「ルールとしての法」と対置される。後者が普遍的なルールが抽象化された形で存在しており、それが個別案件に強制的に適応されていくというロジックによって組み立てられているのに対して、前者はあくまでも個別案件において「公平な裁き」を実現していくことが重視される。ここで言う「公平な裁き」とは、案件ごとに異なる個別の事情や社会情勢を考慮して初めて実現されるもので、それらの事情を考慮せず機械的にルール=法を適用することはむしろ否定の対象になるため、そういった「公平な裁き」を実現できるのは教養を積んだ人格的にも優れた一部の人に限るとなる(p.158ー159)。

 さらに、寺田は西洋や日本と中国の「法」の位置づけの違いから、両地域の社会の仕組みの違いを指摘している。西洋や日本と違って、伝統中国の社会秩序はあくまでも経済利益によって支えられた個別的な契約関係の「束」として形成されるものであり、強固な団体的結びつきを欠いた「持ち寄り型の秩序」であるという。これは「法」が個別の事情や社会情勢を超越した「普遍的なルール」としての機能を持たない「公論としての法」と対応する。

 したがって、このような社会秩序の下では、公権力と社会の関係性も西洋社会のそれとは異なってくる。西洋社会では、社会の中にある規則性を市民たちが自覚的に取り出して明文化し、それを自らが従うべき規範として権力が再定位することによって権力の正当性が担保されるが、中国社会では、法秩序があくまでも「個別案件」として処理され、その公平性の拠り所も公平有徳な大人という属人的な形になるため、治者と被治者との一体性は成立しえない(p.160)。

 これは中国社会で民主化を語る際の困難さにもつながってくる問題である。中国においては、「民主」という言葉に、①政治的権利の平等、②経済的平等、という二つの意味が含まれている。すなわち、①は欧米近代思想に源流がある、政治的権利の平等と権力の分散を意味する民主化(「民主Ⅰ」)であり、②は中国の伝統思想に起源を持つ、経済的平等化とパターナリスティックな独裁権力によるその実現を意味する民主化(「民主Ⅱ」)である。中国では、「民主Ⅰ」を要求する立場を右派(リベラリスト)、「民主Ⅱ」を要求する立場を左派(ナショナリスト)とする(p.163の表参照)。

 このような政治的権利の平等化と経済的権利の平等化は、権力との関係において反対方向のベクトルを持つものである。つまり、中国社会においては、前者の「政治的権利の平等」を要求する立場(リベラリズム)が、後者の「経済的平等化」を要求する声にかき消されるか、あるいは政権によってあからさまな弾圧が加えられるという状況が生じてきた。なぜなら、経済的平等(再分配)を行うためには、国家権力の大幅な介入を必要とするため、経済面での平等の要求は国家権力の制限ではなく、むしろよりパターナリズムを容認・強化するほうに働くからである(p.165)。

 

 第6章では、「功利主義」という観点から中国の監視社会化を論じている。

  功利主義の主張のコアな部分は、①帰結主義、②幸福(厚生)主義、③集計主義という三つの部分に帰着する。①はある行為の(道徳的)「正しさ」はその行為選択の結果生じる自体の良し悪しのみによって決まるという考え方。②は道徳的な善悪は社会を構成するひとりひとりの個人が感じる主観的幸福(厚生)のみによって決まり、それ以外の要素は本質的ではないとする考え方。③は社会状態の良し悪しや行為選択の(道徳的)「正しさ」は、社会を構成する一人一人のの個人が感じる幸福の量によって決まるという考え方である(p.171)。功利主義的な考え方は監視社会化を正当化するのに非常に適合的である。なぜなら、社会的に「正しくない」行動パターンを持つ人に対して、あらかじめ行動の自由を奪うことはその社会全体の利益や幸福を増大すことにつながるからである。

 現在、中国に限らず、このような功利主義的思考がもう一度見直される傾向にある。その背景には、自己責任論の台頭以外にも、「道徳の科学的解明」が関わっていると著述家の吉川浩満はいう。「道徳の科学的解明」とは、今まで哲学や倫理学の領域で考えられてきた人々の道徳的な善悪の判断や正義感などを、認知心理学認知科学などの科学の分野で解明しようとする事態を指す。

 代表的なものとしては、「心の二重過程理論」がある。二重過程理論では、人間の脳内に「システム1(速いシステム)」と「システム2(遅いシステム)」という異なる認知システムがあるとされる。前者のシステムは演算能力をそれほど必要とせず、迅速な判断が可能、そして自動的・無意識的・非言語的に機能する。後者はより多くの演算能力を必要とし、意識的・言語的な集中を要する。これは人間の進化過程の中で順次備わってきた能力であり、システム1は種・遺伝子の利益を最大化するように作動する、脳の古い部分である一方で、システム2は種というよりも個体の利益・生存可能性を最大化するために備わった能力である。人間はこの二つのシステムを自由自在に使い分けることはできず、油断すればすぐに集中力を必要としないシステム1が作動してしまう。これが非合理的な誤りが生じる原因とされる(この「システム1・2」に関する話は、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。」の中でも出てきた。綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 - 楽楽風塵)。

 哲学者のジョシュア・グリーンによれば、この二つのシステムはそれぞれ、システム1=道徳感情、システム2=功利主義に対応するという。この異なるベクトルを持つ思考回路は、例えば「トロッコ問題」のようなジレンマに直面する。トロッコ問題には明確な答えが用意されていないが、人間はもしゆっくり考える時間があるならば、えてして批判的な吟味が可能な功利主義的思考が選ばれることになる(p.178)。このような思考に大きなエネルギーと時間を要するにもかかわらず、明確な答えがない事柄であれば、そもそも人間よりも功利主義的・合理的に思考できるAIにその役割を担ってもらおうとする考え方が出てきてもおかしくない。そして、実際そういった動きはすでに欧米で始まっているのである。

 このような状況に対して、当然異論が唱えられている。代表的な論者がキース・E・スタノヴィッチによる「道具的合理性」と「メタ合理性」という議論である。道具的合理性とは、あらかじめ決められた目的を達成しようとする場合に発揮される合理性ののことであり、かつてウェーバーは言ったアレである。しかし、この道具的合理性では、何らかの目的が本当に目的とするべきものであるかどうかを判断することはできない。そこで、道具的合理性よりも一歩高い地点から目的自体の妥当性を判断するメタ合理性が必要になる。チンパンジーでも「食べるために目の前のバナナをむく」という道具的合理性を持っていることから、このメタ合理性が働くか否かが人間とチンパンジーの境界線であるとスタノヴィッチは言う。

 では、我々人間はどのようにしてこのメタ合理性を社会に実装していけばいいのだろか。ハーバーマス的に言えば、それは自由で自律した個人が集まって討論する「市民的公共性」がメタ合理性を担保する領域である。これを加味して、現代社会の合理性と公共性の関係を筆者が整理したものがp.185の図である。ここでは、下から順に「ヒューリスティックベースの生活世界」と「メタ合理性ベースのシステム」、「道具的合理性ベースのシステム」の三つの領域が存在する。

 「ヒューリスティックベースの生活世界」では、直感的で素早いが間違いも多い、「人間臭い」やり方で人々の生活が営まれる。いわば、システム1が主に作動する場である。そして、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「メタ合理性ベースのシステム」(具体的には、議会や内閣、NGOなど)との間におけるインタラクションの在り方がいわゆる「市民的公共性」にあたる。さらに、「メタ合理性ベースのシステム」で得られた結論が、「道具的合理性ベースのシステム」を制御(法律の制定など)していく。ここまでは、ハーバーマスが「生活世界」「経済システム」「政治・行政システム」と整理したものにそれぞれ対応している(参考⇒ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義における正統化の問題』 - 楽楽風塵)。

 厄介なのは、現代では巨大IT企業(GAFAなど)の出現に代表されるように、「市民的公共性」とは異なる形で、市民と統治システムの間における独自の相互作用を生み出している点である。それを本書では「アルゴリズム的公共性」と呼んでいる。これが、「メタ合理性ベースのシステム」を飛び越えて、「ヒューリスティックベースの生活世界」と「道具的合理性ベースのシステム」をつないでいる。市民がビッグデータを提供するかわりに、巨大IT企業は功利主義的思考にもとづいて設計されたアーキテクチュアを提供しているのである。

 昨今、問題化しているのは、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化し、「道具的合理性ベースのシステム」がより露骨に生活世界の統治を行っていることである。残念ながら、これを防ぐ方法は現在のところ、「メタ合理性ベースのシステム」(議会など)を通して、「道具的合理性ベースのシステム」を制御する制度を作るぐらいしかない。それを代表するものが、2016年に欧州で制定された「GDPR(一般データ保護規則)」である。

 翻って中国はどうだろうか。中国の現状を見ると、各国以上にこの「アルゴリズム的公共性」が肥大化していると言える。そもそも歴史的に「市民的公共性」が成熟していない地域では、その代替物として「アルゴリズム的公共性」が強化される傾向にある。そして、5章で見たように、中国ではもともと国家も市民社会も必ず「天理に適う」ことによりその正当性が担保される「天理」という概念が存在した。この儒教的な「天理」による公共性の追求は、アルゴリズムによる人間行動の支配への対抗軸になるというよりも、むしろそれと一体化する、あるいはそれに倫理的なお墨付きを与える可能性が高いと筆者は述べている(p.196)。そして、この「道具的合理性ベースのシステム」が暴走した果てにあるのが、現在のウイグルの惨状である(第7章)。

 

 この本の白眉はこの5章、6章だろう。現在の中国の状況を、中国の文脈で語り、かつ「公共性」「功利主義」などの概念を媒介することによって、問題を中国だけに終わらせることなく、あらゆる地域に共通するものとして議論を活性化を促している。今年読むべき良書。