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ブルデュー・ライール読書会まとめ

 P・ブルデューディスタンクシオン』、B・ライール『複数的人間』『複数的世界』、T・ベネット他『文化・階級・卓越化』の読書会をしたので、その中での論点をまとめる。私なりに解釈したこの研究会の趣旨は、まずは①ブルデュー理論を理解すること、②ブルデュー理論の欠点を理解すること、③ブルデュー以降の文化社会学ブルデュー式の)の展開を把握すること、だったと思う。この流れで簡単に論点を列挙していこう。

 

 

 

複数的人間: 行為のさまざまな原動力 (叢書・ウニベルシタス)

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複数的世界: 社会諸科学の統一性に関する考察 (ソシオロジー選書)

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文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

  • 作者: トニーベネット,マイクサヴィジ,エリザベスシルヴァ,アランワード,モデストガヨ=カル,Tony Bennett,Mike Savage,Elizabeth Silva,Alan Warde,Modesto Gayo‐Cal,磯直樹,香川めい,森田次朗,知念渉,相澤真一
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2017/10/26
  • メディア: 単行本
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1.ブルデュー理論の前提

・関係論的社会学

 ブルデュー理論を理解する際に、まず把握しなければならないのはそれが「関係論的社会学」という土台の上に立っているということである。関係論的社会学を簡単に説明するのは難しいが、すごく平たく言うと「社会的存在が実体として(リキッドなものとして)存在するという考え方を否定し、個人は他者との関係の中で認識・行為を行う」という前提を採用する社会学の方法論的立場と説明することができるだろう。

 ブルデューはたびたびノルベルト・エリアスの議論を参照しているが、この関係論的社会学の考え方を採用すれば、例えば上流階級・中産階級・下層階級といったヒエラルキーがあり、彼らが集団として対立しているといった(ある種マルクス主義的な)社会像を抱くことは困難になる。それよりも、「階級」とはあくまでも分析者が複雑な現実を理解するために構築した概念道具でしかなく、実際に実践を行っている人々は階級内・階級間の関係の中で自らの認識を構成し、卓越化を行うという説明が可能になる。つまり、問わなければならないのは、その「関係」と「メカニズム」ということになる。 

 

 ・ミクロ・マクロリンク

 さらに、ブルデュー理論はいわゆるミクロ・マクロリンクを試みている。ミクロ・マクロリンクというと真っ先に思い浮かぶのはアンソニー・ギデンズであるが、ブルデューはギデンズが唱えるようなそれとは若干異なる。ギデンズは社会学の文脈の中でミクロ社会学(理解社会学現象学的社会学エスノメソドロジーなどのいわゆる方法論的個人主義)とマクロ社会学(方法論的集団主義)を接合することを目指したが、ブルデューの場合はフランスの人文学的文脈がそこに侵入する。すなわち、サルトル実存主義(ミクロ)とレヴィ=ストロース構造主義(マクロ)の接合である。ブルデュー理論は両者のいわばいいとこどりを試みようとしている(その結果、きわめて曖昧は認識論的立場になっているが)。

 補足しておくと、ギデンズがいう「再帰性」(reflexivity)とブルデューがいうそれにも大きな違いがある。ギデンズの場合はそれは近代論の文脈の中で提起されたもので、人間が行為する際にもはや社会的環境や行為を絶えず反省することを余儀なくされていることを説明したもので、ブルデューの場合は研究者(特に社会学者)の研究手法に対しての言及である。つまり、研究者は自らの分析・研究が対象者にフィードバックされたり、研究者が作り上げた概念(階級とか)がかえって現実を作り上げてしまう可能性を把握しなければならないという提言である。

 

・カント『判断力批判』批判

 『ディスタンクシオン』を全くの初見で読むと、何を明らかにしようとしているのかを把握するのは難しい。この本の副題「社会的判断力批判」から分かる通り、ブルデューがここで批判の対象としているのはカントである。カントは「形式」を重視する見方こそが「美学」であると主張した(これも雑な説明で申し訳ないが)。例えば映画ポケモンを見に行ったとしよう。「内容」を重視する人は単純に「ピカチュウかわいかったねー」で終わるだろうが、「形式」を重んじる見方をする人はその作品の背景を監督の経歴やスタッフから考察し、画角がどうだとかここには○○事件のメタファーが入っているだとかをあーだこーだ言うだろう。こういったメタ的な芸術鑑賞の仕方をカントは「美学」だと述べたのである。そして、ブルデューはこの見方は社会的に作られる、つまりその人が置かれた社会的位置によって作られるのだと主張することによってカントに反論しているというわけである。それを理解するためには、『ディスタンクシオンI』のp.69やp.72の写真のエピソードなどが分かりやすいだろう。

 

・(ハビトゥス)(資本)+場=実践

 ということで上の有名な公式が出てくる。もっと分かりやすく説明するならば「場」が右辺の最初に来るだろうが、要は社会的アクター(ブルデューは「アクター」という言葉よりも「エージェント」という言葉を使うが)は種々の社会的位置(場)に配置され、その中で自らに配分された資本や身体化・客体化されたハビトゥスをもとに実践を行う。したがって、上でブルデューはミクロ・マクロリンクを試みていると述べたが、どちらかというと構造主義的立場に近い。しかし、場に配置されたアクターがハビトゥスをもとに位置を移動する可能性を必ずしも否定していない点に彼の理論の複雑さとずる賢さがある。

 この場を特定すること、そして人々の立ち位置(position)を経験的に特定することは言葉で言うよりずっと難しい。それを(成功しているかはともかく)経験的に示そうとしている点に『ディスタンクシオン』の最大の面白さがあると言ってもいい。それが上巻p.192-193のあの有名な対応分析の図である。その図では、Y軸に資本量の多寡、X軸に経済資本と文化資本の多寡をそれぞれ設定し、社会的位置空間(階級や職業のプロット)と生活様式空間(趣味のプロット)をそれぞれ配置することで描かれる空間である。既存の回帰分析的な手法ではなく、このような対応分析の手法を用いている点にも上述した関係論的社会学の考え方が通底している。つまり、回帰分析では分析者があらかじめ仮説として設定した独立変数と従属変数がどれだけ有意な関係にあるかを調べることしかできないため、いわば社会の静的な状態しか把握することができない。しかし、対応分析では階級・職業間の位置関係やそれらと趣味との関係や距離が分析者の想定していない形であらわれるため、諸変数の関係性を発見的に取り出すことができる。そして、そこから場が設定されるという仕組みである。

2.ブルデュー理論への反論

・場をいかにして措定するのか?

 ブルデュー理論は勉強すればするほどよくできた理論であることが分かる。これを否定するのはかなり難しい。なぜなら、人間の認識や戦略は彼らがおかれた社会的位置によって決まるとしており、場のゲームにあらゆるアクターが半強制的に参加していると前提されているからである。『ディスタンクシオン』の中では、支配階級がどんな趣味が正統であるかを決定し、中産階級はその正統性をひっくり返そう、あるいは支配階級の仲間入りをしようともがき、労働者階級はゲームに参加しているとも知らずに既存の正統性を追認していると想定されている。つまり、労働者階級はゲームに参入していることすら気づいていないのである。しかし、彼らは本当にゲームに参加しているといえるのか?ブルデューはイエスという。ゲームのルールすら知らず、ピッチの中でぼーっと突っ立っているだけでも彼はゲームの参加者であるといえるのである(少なくとも理論的・論理的には)。そして、「こんなゲームばかばかしい」と言っている人もある意味ではゲームの存在を認めている点でゲームに参加しているといえる。そして、自らの立場(ゲームの前提自体を否定する)を表明することで卓越化をしているのである。いわば最強の理論である。ここらへんのブルデュー理論の、特に「場」の概念の理論負荷性の強さという議論は北田暁大が以下の本の中でも指摘している。

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

 

 だがやっぱり腑に落ちないのは「場」をいかにして措定するのかということである。それは研究者が理論的に設定するだけで、経験的に(例えば統計的に)境界を措定することはできないのでないだろうか(上述の北田論文はそれを経験的に措定しようと試みた研究である)。ここらへんの理論的な穴がやはりどうしてもブルデュー理論には付きまとう。ということで、ここでもう一度「場」とはどのような特性を持っているのかをライールをもとに整理してみよう(ライール『複数的世界』p.144-147)。

①場は全体的(国家的、国際的)社会空間が構成するマクロコスモスのなかのミクロコスモスである。

②それぞれの場は、そのほかの場のゲーム規則と賭け金に還元できない、特殊なゲームの規則と賭け金を有している。

③場は「システム」ないし、場の様々な行為者(agents)によって占められる諸位置の構造化された「空間」である。

④この空間は闘争の空間である。つまり、様々な位置を占める行為者(agents)同士で競合や競争がなされる闘技場(arena)である。

⑤闘争は場に特殊な資本の領有(特殊な資本の正統的独占)および/あるいはその資本の再定義を賭け金としている。

⑥資本は場の内部で不平等に配分されている。したがって、支配者と被支配者がいる。

⑦しかしながら、相互に闘争している場の行為者たちはみな、場が存在することに対して利害を持っているがゆえに、彼らを対立させる様々な闘争を越えたところで「客観的共犯関係」を維持している。

⑧それぞれの場に対して、場に固有のハビトゥス(身体化された性向のシステム)が対応する。場に固有のハビトゥスを身体化した者だけがゲームを行い、そのゲーム(の重要性)を信じること(=イリューシオ)ができる。

⑨場は相対的な自律性を有している。場の外部の闘争の結果が、内的な力関係の結末に強く影響を及ぼすとしても、そこで展開される闘争は独自の論理を持っている。

 と、このように「場」の概念が内包する特性を列挙すれば、果たしてこれだけの特性を全て兼ね備えた事例があるのかどうか疑わしくなる。したがって、「場」の概念を使うときはこの中のどのような特性を有しているかを明示したうえで、限定的に使うくらいしか今のところ使い道がないのではないかと思う。例えば、「場」と「資本」「ハビトゥス」を全てセットで使わなくとも、「場」だけの概念を使用する場合はそうする理由を明示するみたいな(例えば、分析対象が確かに外部の空間とは異なる論理で動いているといえる場合など)。今はそれぐらいしか言えない気がする。

 

 ・ハビトゥス概念の理論的乏しさ

 ブルデューは度々「ハビトゥス」について述べているが、この概念を詳しく事例研究の中で展開したことはない。ブルデューの初期の研究である『資本主義のハビトゥス』などでは少し言及されているが、それも短いエッセイ的なものにとどまる。ブルデューはそれぞれの場の固有の社会的位置に配置された者が、そこで有効に作用するハビトゥスによって実践を行うと主張する。言いかえれば、その人がそのような実践を行っているのは「そのようなハビトゥスを持っているから」と説明するのである。しかし、これは裏を返せば、何かを言っているようで構造決定論というかハビトゥス決定論に陥りかねない。問わなければならないのは「そのハビトゥスとは何なのか」「どのようにハビトゥスが有効に活用されるのか」といったことである。後年、ブルデューハビトゥス概念よりも場や構造の分析に終始するようになり、ミクロな動態を分析する視座が薄まっていったのはやや残念である。

3.ブルデュー以降の文化社会学

・性向+文脈=実践

 ということで、以上でブルデューの欠点などをあげつらってきたが、当然これらの欠点を埋めるような研究も多数提出されてきている。代表的な人物がB・ライールである。ライールはブルデューがマクロな構造の分析に埋没していったとは反対に、よりミクロな分析を行っている。そこで彼が提起したのが、上述の公式である。これはもちろんブルデューの公式を下敷きにしている。ブルデューが「ハビトゥス」や「資本」という概念に固執したのとは裏腹に、ライールは一貫して「性向」(disposition)という言葉を使っている。これはハビトゥスとは全く別物で、言い換えるならば「身体化された過去」とでもなるだろうか。性向は個人の中に一つというわけではない。個人の身体の中に多数ストックされている(それらの身体化された性向のシステムのことを「ハビトゥス」という)。そして、個人が個々の文脈の中に埋め込まれた時に、それらの埋め込まれたストックが生起される(プルースト失われた時を求めて』の紅茶のシーンさながら)。その発露が実践というわけである。ここでライールが「場」ではなく「文脈」を使っている理由は、上述したように場の概念を使ってしまうとすべての行為者が闘争のゲームの中に参入してしまうことになるという一面的な人間理解を避けるためである。「文脈」は別に闘争のアリーナを想定しているわけではないし、その中でみなが卓越化のゲームをしているわけではない。まあブルデューよりかなり穏当な主張である。

 

・文化的オムニボア

 また、ブルデュー以降の文化社会学では人々の趣味に関するより詳細な研究がなされている。その一つが「文化的オムニボア」に関する研究である。これは簡単に言うと、ブルデューが言うように階級ごとに人々の趣味がくっきり分かれているわけではなく、特に中産階級においては趣味の幅広い摂取傾向が見られるというものである。

 まあこれは言われてみれば普通の主張である。普段生活していても多趣味で、とにかくせわしなくどんなものもとりあえずかじってみるみたいな人は多く見る。そして、こういった傾向を持つ人は肌感覚としても中産階級が多い気がする。というのも、中産階級は労働者階級のように機能性や用途を重視して趣味を選ぶわけではないし、かといって上流階級ほど選択できる趣味の幅が狭くないからである(下品なテレビばっか見たらだめよとは言われない)。さらに、『ディスタンクシオン』の時代に比べて現代ではメディアの影響でどんな人々も均等に同一文化を摂取できる土壌が整っている。現代では文化の中身だけでなく、「どれだけ多くの趣味を持っているか」が卓越化の根拠になっているというわけである。そう考えれば確かに、文化的オムニボアは現在の状況を説明するのに有効な概念である。

 

 と、こんな具合にとりあえずのまとめを行ったが、まだまだブルデュー理論は理解できていない部分も多々ある(例えば、「相同性」の話とか。どの場においても支配ー被支配の原理は変わらないとはどういうことか、ハビトゥスは場を移動しても置き換え可能なのか?)。ここを足がかりに分からないところを埋めていければいいかなと思う。