カス・ミュデ&クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズムーーデモクラシーの友と敵』

 

ポピュリズム:デモクラシーの友と敵

ポピュリズム:デモクラシーの友と敵

 

 

 本書はオックスフォードのVery Short Introductionシリーズから2017年に刊行されたポピュリズムに関する著作である。最近とみに、日本の新聞でも頻繁に「ポピュリズム」という言葉を目にする機会が多くなった。しかし多くの場合、そこにはカッコつきで「大衆迎合主義」という但し書きがついている。では、ポピュリズムは単なるエリートによる大衆迎合的なイデオロギーなのか。そういった疑問に最も分かりやすく答えてくれるのが本書である。

 

 本書のすべてをここで書き記すことはできないので、重要な要点をまとめた1章を中心にまとめていこう。

 まず、ミュデ=カルトワッセル(以下、M=K)はこれまでのポピュリズム論を体系的に分類している(p.10-12)。すなわち、①人民を行為主体とするアプローチ、②左派ポピュリズムラクラウ=ムフ)的アプローチ、③社会経済的アプローチ、④政治戦略的アプローチ、⑤指導者や政党による大衆動員アプローチである。

 ①の代表的論者はローレンス・グッドウィン『デモクラシーの約束』(19世紀後半における北米の人民党に関する研究)であり、そこでは「ポピュリズムとは(普通の)人びとを動かし、共同体主義コミュニタリアン)的なデモクラシーのモデルを創出する本質的に前向きな動力と見なされている」(p.10)。

 ②はラクラウ=ムフに連なるアプローチであり、現在では左派ポピュリズムの理論的支柱となっている。彼らはポピュリズムを単なる「暴動」として捉える視点を拒否し、政治の本質であると捉え、さらに社会で抑圧されている人々を解放する力にもなりうると説く。そして、リベラル・デモクラシーからラディカル・デモクラシーへの昇華を企図するのである。

 ③は1980~90年代のラテン・アメリカ研究の中で提出されたアプローチであり、主に経済学者によって提唱されたモデルである。彼らは、「ポピュリズムとは主として無責任な経済政策の一類型であり、その特徴としては、外債を財源として巨額の支出を行なう第一期と、それに続くハイパーインフレおよび苛酷な景気調整の実施からなる第二期とがある」(p.11)と説明する。つまりこのアプローチは、ポピュリズムを経済現象・政策のみに還元して、政府によるバラマキを批判する視座を有している。後に新自由主義的経済学に回収されていった。

 ④はポピュリズムを「信奉者たちからの支持を何者も介さずに直接受けることで統治を行なおうとする特定のタイプの政治家が用いるもの」(p.12)と定義する。したがって、このアプローチでは、ポピュリズムの背景にカリスマ的人物の台頭を想定している。

 ⑤は(④のアプローチと関連する気がするが)指導者や政党によって大衆が動員されていく過程をポピュリズムと捉える。この視座では、ポピュリズムをメディアや民衆からの支持を最大限活用する、未熟な政治行動と暗に示す傾向がある。

 

 以上の多種多様なアプローチを踏まえて(折衷して)、M=Kが提唱するのが「理念的アプローチ」である。このアプローチでは、ポピュリズムを「ある種の言説やイデオロギー、世界観」(p.14)と考える。そして、この概念を以下のように定義する。

本書ではポピュリズムを、社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般概念(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギーと定義する。(p.14) 

 これは一見すると冗長で何でもない定義に思えるが、これまでのポピュリズムに関する論点を過不足なく入れ込んだベストな定義である。以下、簡単にそのポイントを列挙していこう。

 第一に、「中心の薄弱なイデオロギーと閉められている理由は何なのか。そもそも「イデオロギー」とは、「人間と社会のあり方ならびに社会の構成や目的にかんする規範的な理念の集合」(p.14-15)であり、人々が世界はどうあるべきなのか、どう行動するのかを規定する者の考え方である。「中心の強固な」あるいは「中身の詰まった」イデオロギーとしては例えばファシズム自由主義リベラリズム)、社会主義ソーシャリズム)などが挙げられる。ポピュリズムも確かに他のイデオロギーと同様に「-ism」なのだが、やはりその主義主張を見てみると異なる部分が見えてくる。それは、ポピュリズムが「必ずといってよいほど他のイデオロギーの要素と結びついており、それらの要素は大衆により広く訴える政治的計画を進めるうえでなくてはならない」点である(p.15)。これはラクラウが再三念押ししている点でもあるのだが、つまり「ポピュリズム」自体は(社会主義自由主義のように)「○○しなければならない」とか「○○ある/すべき」といった主張の一貫性を有しているわけではないのである。これは、現在ポピュリズム的な政治家・政党が右派・左派を越えて出現していることを見てみると、明らかである。

 第二の中核概念が「人民」である。「人民」(people)は非常に多義的で、曖昧な概念である(ゆえにラクラウは「人民」を「空虚なシニフィアン」と称し、その空虚さゆえに差異を架橋して人々を動員することができると説いた。詳しくはラクラウ『ポピュリズムの理性』。今度暇があればまとめたい…)。M=Kによると、「人民」には、①近代民主主義にもとづく概念である、政治権力の源泉であり同時に「支配者」でもある「主権者」、②社会経済的な地位を特定の文化的伝統や人民の価値観と結びつけた広範な階級の概念としての「普通の人々(庶民)」、③ある特定の国・民族出身の人々はすべて含まれる「国民(ネーション)としての人民」の三つが含まれているという。

 しかし、「人民」の要素に関する定義も明確なコンセンサスがあるわけではない。試しに水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書)を見てみると、「人民」の要素の中には①政治エリートやメディア、高学歴層によって無視されたきたサイレント・マジョリティである「普通の人々」(ordinary people)、②特定の階級・団体・政党などの垣根を超えた主権者たる国民としての「一体となった人民」(united people)、③何らかの同質的な特徴を有する(したがってそこから漏れる人々を排除する)「われわれ人民」(our people)などが含まれている(p.9-10)。呼称の違いはさておき、概ね要素は一緒ではあるようだが。

 第三が「エリート」である。エリートを明確に定義するのは難しいが、M=Kは以下のように述べている。

エリートはまずなにより権力に基づいて定義される。すなわち、それには政治、経済、メディア、芸術の世界で指導的な地位にある人びとのほとんどが含まれる。(p.23)

 したがって、エリートは階級のみによって区分されるわけではない。例えば、欧州のエリートのほとんどが自国生まれ(ネイティブ)であることから、民族を境界にしてエリートが同定される場合もありうる(エスポピュリズム)。要は、「権力を持っているかどうか」がエリートを峻別する基準となるのである。

 第四が「一般意志」である。これはもちろんルソーの概念を借用している。ルソーは「人民が共同体に共に参加し、共通の利益を強いるよう立法化する能力」である「一般意志」と、「ある特定の瞬間の個別利益の単純な総和」である「全体意志」とを区別した(p.29)。多くのポピュリストは代議制民主主義を反対あるいはそれに異議を唱える。それは代議制とはエスタブリッシュメントの権力を強化し、その制度の下では市民は定期的に選挙に動員され、代表を選ぶことしかできない受動的な立場に置かれてしまうからである(p.30)。したがって、ポピュリズムは一般意志を絶対的なものとして逆にそれを阻害する制度を糾弾して、しばしば過激な直接民主主義的な手法に訴えかけるのである(英国のBrexitを見よ)。

 ゆえに、M=Kによれば、ポピュリズムの反対に位置するイデオロギーとして挙げられるのは「エリート主義」と「多元主義」である(p.16)。エリート主義は言うまでもなく、多元主義はできるだけ社会のあらゆる集団が政治に参加することを是とするため、ポピュリズムとは全く異なるベクトルを有することになる。また、似たものとしては「クライエンタリズム」(有権者が政党やパトロンへの支持を約束する見返りに、給付金や雇用・財貨・サービスの優先権などの様々な利益を得る手法)があるが(実際、左右の区別なく取りうる立場という点で両者は共通するが)、ポピュリズムと異なる点はそれが「戦略」であってイデオロギーではない点である(p.18)。

 

 以上がM=Kの理念的アプローチによるポピュリズム定義の骨子である。この定義および理念的アプローチを採用するメリットは以下の四点である(p.34-35)。

 第一に、「薄弱なイデオロギー」と考えることで、ポピュリズムが変幻自在に姿形を変え、そして歴史的・地理的にあらゆる場面で出現してきたことを理解することができる。

 第二に、何か特定の動員や指導者の在り方に限定することなく、幅広い政治の担い手たちについて言及することができる。

 第三に、ポピュリズムと切っても切れない関係であるデモクラシーについて問い直すことができる。ポピュリズムはデモクラシーにとって、プラスの影響を及ぼすか、それともマイナスの影響を及ぼすかは特によく議論されることだが、それを問うことができるのである(特にリベラル・デモクラシーとの関連において)。

 第四に、ポピュリズム政治の「デマンド・サイド」と「サプライ・サイド」の二つの局面を考慮に入れることができる。ポピュリズムを、民衆による下からの暴動や熱気によって説明する前者と、政治家などによる大衆の誘導であると説明する後者のどちらか一方を強調することなく、複合的に研究する視座を提供してくれるというわけだ。

 

 この前提を踏まえて、本書は2章以降で具体的な事例の検討と、デモクラシーとの関連、そしてポピュリズムへの対処法などについて概観していく。それぞれ非常に示唆に富む内容だが、筆者にとって重要なのはやはり本章である。というのも、この理念的アプローチはナショナリズム研究における「言論的アプローチ」とオーバーラップする部分が多いと考えるからである。あとはこの定義をもとに具体的な事例の検討に入っていく必要があるだろう。例えば、これとか。

 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

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以下、参考までに。

 

 

 

ポピュリズムの理性

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