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ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直すーーアクターネットワーク理論入門』①

 今度の研究会に向けて、ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直すーーアクターネットワーク理論入門』について。

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

 

 ラトゥール自体は学部の時に一度概論を読んでいたので、彼の唱える「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)がいかなる構想なのかは把握していた。しかし、あまりにも従来の社会学の考え方から離れているため、具体的なところまでは理解が及んでいなかった。今回は「入門」と銘打っているように、少しは彼の理解に追いつけるのではないかと期待してページを繰っていった。

 だが、結果から言うと、少なくとも本書だけでは「ANTが何でないか(従来の社会学とはいかに違うのか)」は分かるが、では「それが何なのか」(例えばそれがエスノメソドロジーとどう違うのか)までは十分に明らかになっていないように思う。まだ、本書の三分の一ほどしか読み終えていないが、現段階で分かっていることを記しておこう。おおよそ、本書の「第三の不確定性」までである。

 

 まず、ラトゥールは従来の社会学を「社会的なものの社会学」、ANTを「連関の社会学」という形で区別する。前者はオーギュスト・コントから始まる伝統的な社会学であり、特に本書でやり玉に挙げられるのはブルデューを筆頭とする「批判社会学」である。その批判の内容とは、第一に社会的なものの社会学者が「社会」や「社会的」といった言葉を無批判に使い続けている点である。

本書で主張し問題にしたいことは、ごく簡単に述べることができるーー社会科学者が何かしらの事象に「社会的」という形容詞を加えるとき〔「○○は社会的だ」と言う場合〕、社会科学者が指し示しているのは、安定化した物事の状態/事態であり、一つの束になった〔人や事物の〕結合であること、そして、そうした社会的なものが、後には、別の何らかの事象を説明するために持ち出されもすることだ。(p.7)

 例えば、貧困や経済的な不平等の背景には「社会構造」が関係しているといった具合に、これまで社会学は何らかの社会現象の説明のためにしばしば「社会的な力」を引き合いに出してきた。ブルデューの用語を使えば、それは社会構造(社会環境)に埋め込まれた個人が身に着けたハビトゥスによって、格差を再生産している、といった説明になるだろうか。いずれにせよ、そういった「社会」を説明要因として出す場合、念頭にあるのは「すでにひとつに組み合わさったもの」であり、ではその「社会」はいかなる性質を帯びているのか、それはどのように構成されているのかまでは注目されてこなかった(p.7)。「社会的なものを組み直す」(reassembling the social)というタイトルには、そういった「社会」のそもそもの概念を再構成するという意味合いが込められている。

 したがって、連関の社会学は「社会」をそもそも「成形された強固な事物」として扱うことを拒否する。すなわち、社会を様々なアクター(その中には人間だけでなく、事物も含まれる)が複雑に絡み合ったネットワークであると捉え、連関の社会学はその「つながりをたどること(tracing of association)」(p.15)を目指すのである。

 

 以上の前提をもとにラトゥールはANTを提唱するわけだが、その説明に入る前にANTに付きまとう論争の種を五つ提示している(p.44-45)。

●グループの性質に関する不確定性ーーアクターには、数々の相矛盾したかたちでアイデンティティが与えられている。

●行為の性質に関する不確定性ーー各々の行為が進むなかで、実に多様なエージェントが入り込み、当初の目的を置き換えるように見える。

●モノの性質に関する不確定性ーー相互作用に参与するエージェンシーの種類は、いくらでも広げられるように見える。

●事実の性質に関する不確定性ーー自然科学が社会の他の部分と結びついていることが、やむことのない論争の根源であるように見える。

●社会的なものの科学というラベルの下でなされる研究に関する不確定性ーー社会科学が厳密に経験的であると言える条件は決して明確にならない。

  第一の不確定性に関しては、ラトゥールが指摘する以前からすでに社会学の中で言われていることであるように思う(それこそブルデューも言っていたような)。つまり、これまで社会学者は「階級」や「○○人」といった社会集団を暗黙の裡に前提としてきた。しかし、それらは本当に自明なものだろうか。ラトゥールいわく、「グループではなく、グループ形成だけがある」(p.53)。つまり、一人の個人は例えば「男性」「日本人」「○○高校生」といった特定の集団にアプリオリに所属しているわけではなく、存在するのはそういったグループを形成する「過程」だけなのである。これ自体は、「社会秩序はその都度生成される」と説いたエスノメソドロジーとも通じる部分がある(p.57)。そして、社会学者は分析の段階に入って、調査対象者に何らかのカテゴリー化を行う(例えば量的なカテゴリー化・変数化)際に、実はそれ自体がその集団のグルーピングに加担していることになるのだということを自覚的にならなければならない。

 そして、第二の不確定性は「行為」に関するものである。すなわち、「行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない。むしろ、行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看守されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある」(p.84)。

 通常、「行為」(action)は何らかのアクターによって能動的になされるものと解される。ウェーバーによる有名な「社会的行為」の定義では、「単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人びとの行動と関係を持ち、その過程が他の人びとの行動に左右されるような行為」(『社会学の根本問題』、p.8)とされている。しかし、ANTでは「行為」を全く異なるものとして定義される。そもそも、ANTでは「アクター」(actor)を「行為の源」とみなすのではなく、「無数の事物が群がってくる動的な標的」と捉える(p.88)。

「アクター」という語を用いることで表されるのは、私たちが行為しているときに、誰が行為し何が作用しているかは決して明らかではないことだ。舞台上の役者(アクター)は決して独りで演じていないからだ。(p.88)

 ゴフマンが言うように、人間の行動は「行為」なのか「演技」なのかは厳密には区別できない。「そもそも、行為は決して定置されず、常に非局所的(ディスローカル)である。行為は、借用され、分散され、提案され、影響を受け、支配され、曲げられ、翻訳される」(p.89)。では、「行為」をどのように定義するのかは、ひとまずここでは置いておこう。 

 つづいて、第三の不確定性である。ANTは、人間だけが社会的なものを構成するアクターであるとはみなさない。つまり、そこに事物(モノ)をも含めるのである。これは非常に奇妙な考え方である。というのも、そもそも社会科学は自然科学との差異化を図るべく、対象を「人間」、中でも彼らが作り出す「社会」や「意味」に限定してきたからである。それをもう一度、モノにまでその範囲を拡大させるというのである。

「志向的/意図的」〔intentional〕で「意味に満ちた」人間が行うことに行為がアプリオリに限定されるならば、ハンマー、かご、ドアの鍵、猫、敷物、マグカップ、リスト、タグなどがいかに行為しうるのかを見定めるのは難しい。(中略)対照的に、アクターとエージェンシーをめぐる論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える物事はすべてアクターであるーーあるいは、まだ形象化されていなければ、アクタンである。(p.134)

 だが、モノを研究の対象に拡張するというのは生半可なことではない。なぜなら、分析の対象範囲が無限に広がるからだ(というか、先人たちは無限に広がる範囲を狭めるために対象を限定してきた)。そこでラトゥールは、社会科学者が調査対象とすべきシチュエーションをいくつか列挙している(p.151-154)。

 第一は、何らかのイノベーションが生まれる場に注目する場合である(例えば、職人の作業場、技術者の設計室、科学者の実験室、マーケティング担当者の事前調査、ユーザーの自宅など)。イノベーションが生まれる場では、モノ(例えば会議文書、設計図など)は会合、計画、見取り図、規則、試行を通して前景化する。

 第二は、外部の人間が他集団に侵入するケースである。凝り固まった集団の中に異物が入り込めば、それまで眠っていたモノにスポットが当たるというわけだ。

 第三は、何らかのアクシデントやリスクが生じた場合である。事故や故障、ストライキなどが生じた場合、モノの脅威が前景化する。例えば原発事故を想起してほしい。それまでは意識されることのなかった原発が、事故によってスポットライトが当たるようになった。そして、いつの間にか私たちの日常生活に侵入し、人々の行為を形作る一要素になっている。

 第四は、歴史家の手によって、史料あるいは博物館の収蔵品などからモノの重要性を掘り起こす場合である。後世に残された遺物を掘り起こすことで、歴史家がそのモノに意味を付与するというわけだ。

 

 と、ここまで第三の不確定性まで見てきたわけだが、とりあえず現段階ではラトゥールの言いたいことは分かるのだが、「彼の目指す社会学が具体的にどのような研究プロセスを経て、何を言明するものなのか」と問われると、いまだに判然としないという感じ。最後に、ANTで使われる専門用語を挙げておこう。

 

「連関/つながり」(association)…人間と非人間の結びつき。社会学で使われる「アソシエーション」(互助組織)ではない。分かりやすいのは人形使いの例。人形の動きは人形使いの意図に全て還元されるわけではなく、ときに人形使いが意図してなかった動きをすることがある。しかし、だからと言って人形が人形使いを操作しているのかと言われればそういうわけでもない。つまり、彼らの動き(行為)はどちらにも還元できず、言うなれば糸を通じて両者のハイブリッドによってなされる(p.498)。

「エージェンシー」(agency)…何らか(例えば構造)の影響を受けて、主体が行為を生み出す際の力。「行為主体性」とも訳される。ANTでは、アクター(主体)の内外にある様々なものをエージェンシーとしており、それらが組み合わさることで行為を行うアクターが産出されると捉える。(p.499)

「試行」(trial)…はじめはパフォーマンスのリストとして現れる存在が、具体的なアクターとして定義されるまでに行われる実験や試みを指す(p.499)。

「参与子」(participant)…行為や集合体に与するもの。人とのモノの両方が含まれる。

「翻訳」(translation)…「たとえば、フランス語の単語から英語の単語へというような、あたかも両言語が独立したものであるかのようなある語彙から別の語彙への推移ではない。翻訳という語を私は、転置〔ずらし〕、偏移〔そらし〕、考察〔こしらえ〕、仲裁〔とりなし〕など、元からある二つをある程度修正する、それまで存在しなかった連結の創造という意味で用いている」(p.502)

「報告」(account)…人やモノ、出来事を観察可能なものにして、「○○は××である」などと他者に伝達できるようにする営為。エスノメソドロジー由来の概念。社会の成員がこのような正確な報告ができることを「報告可能性」(accountability)という。(p.502)

メタ言語」(meta language)…言語を対象にして論じる言語。観察対象の言語を観察する側が用いる言語(セカンド・オーダーの言語)。

「インフラ言語」(infra-language)…観察対象による言語行為を(抑圧することなく)可能にして、その言語行為を記録する言語(ゼロ・オーダーの言語)。(p.503)

「中間項」(intermediary)…意味やエージェンシーをゆがめることなく移送するもの。そこに投入される原因が分かれば、そこから発せられる結果が分かる。

「媒介子」(mediator)…移送する意味やエージェンシーを変換(翻訳)するもの。一方向的な原因と結果の関係はもはや成り立たない。(p.504)

「アクタン」(actant)物語論でよく使われる。物語論では、物語に登場する人物はあくまでも他の登場人物や物との関係によって動いている/動かされているのであって、こうした物語(行為の進行)の展開に不可欠な構成要素を「アクタン」と総称される。ANTでは行為が一人のアクターによって形成されるわけではないため、何の警鐘も持たないアクタンが用いられる。(p.505)