梶谷懐著『中国経済講義ーー統計の信頼性から成長のゆくえまで』

 春の積読解消祭り第一弾。梶谷懐著『中国経済講義』について。

 

  『日本と中国経済』(ちくま新書)や『日本と中国、脱近代の誘惑』(太田出版)など、経済に限らず現代中国について全般的に語れる数少ない日本人研究者の待望の一冊。いまや中国についてなら、まずこの人の話を聞いておけば間違いない。冒頭で述べられているように、本書は新書には珍しく経済学における難解な用語あえて廃していない。それは中国経済を何の脚色もなく、真正面から語るためにはそうせざるを得なかったという側面もあるだろう。

 本書は各章で日本で話題に上がる中国経済にまつわるトピックを扱っており、しばしば誤解(曲解)されがちな中国経済への正しい理解を促すような構成になっている。序章では、しばしばその信頼性が疑われる中国の官庁統計について、1章では金融リスクについて、2章では不動産バブルについて、3章では経済格差のゆくえについてが、主にマクロ経済的な視点から説明されている。

 中でも私が個人的に興味深く読ませてもらったのが、第4章以降である。すなわち、農民工など中国の労働問題について(4章)、深センなどで発達しつつあるイノベーションについて(6章)である。以下では、この二つに議論を絞って知見をまとめてみたい。

 

 まずは中国の労働問題について。

 去年、北京で出稼ぎ労働者などを一斉に検挙・一掃する事件が起きた(例えば、「低端人口排除」を加速する火事は“失火”か?:日経ビジネス電子版)。改革開放以降、農村から都市部への出稼ぎ労働者、いわゆる「農民工」の流入が加速したことは有名な話だが、ではいったい彼らは都市部においてどのように仕事をしているのだろうか。梶谷が言うように、日本では中国の人権問題が話題になることは多いが、労働問題にまで関心を寄せるメディアは少ない。そこには中国固有の制度が深く絡んでいる。

 改革開放以来の中国の急速な経済発展を支えたのがまさに農村から都市への労働移動(他の先進国ではこれを海外からの労働者、つまり「移民」に頼っている)だったわけだが、最近の研究者の中には2010年代以降に中国政府が「新常態」という経済成長率の上昇から維持へという新方針を打ち出した背景には、農村における余剰労働力が枯渇してきたのではないかという指摘する者もいる。このような農村から都市への移動が抑制される分岐点のことを、経済学では「ルイスの転換点」という(p.136)。

 しかし、梶谷は「中国がルイスの転換点を迎えた」という結論を出すにはまだ早いという。つまり、中国にはまだ農村に十分な余剰労働力が眠っているのではないかと述べるのである。この問題提起を行ううえで参照されるのが「ハウスホールド・モデル」である。ハウスホールド・モデルでは、以下のように農家の経済行動を合理的に説明する。すなわち、「農家は、固定資本(土地)と流動資本を投入して利益最大化を図る、土地経営者あるいは企業家としての側面を持ちながら、同時に労働者/消費者として、余暇と労働時間の間でバランスをとりながら、効用最大化を図る存在でもある」(p.139)。

 このハウスホールド・モデルを取り入れると、農民が無尽蔵に都市へと流入するという説明に無理があることが分かる。通常、農家が従来の農業生活を放棄して都市へ出る場合は、それまで持っていた農地の所有権を手放したり、誰かに貸すことによって新たな収入を得る。しかし、土地が原則として公有である中国においては、農民は農地の「請負権(経営権)」を地方政府から割り当てられている。したがって、「たとえ都市部の賃金が農業の限界労働生産性(農業労働に対する「報酬」)を大きく上回っていたとしても、それが地代収入を十分にカバーできなければ、それまで耕作していた土地を手放してまで農家が出稼ぎに行くことはない」(p.140)ということが想定できるわけだ。つまり、2005年以降に顕著になった農村から都市への出稼ぎ労働者の急減は「疑似的な転換点」でしかないわけである。

 これらの問題点や農村戸籍都市戸籍の区別による制度上の不平等を解消するために、中国政府は「新型都市化政策」という方針を新たに打ち出している。これは「『農村を開発して中小規模の都市を創設する』と同時に、『農民(工)の市民化』を通じて中間層を拡大し、肥大化した国内投資に代わる、需要面での成長のエンジンを創出する」(p.144)という目的で始まったものである。つまり、これまでの農村地域を都市化し、農村戸籍保持者がその都市に移住するコストを一線都市(北・上・広・深)よりも緩く設定することによって、農村の余剰労働力のさらなる流動化を活性化させようとする試みである。しかし、実体としては農民はやはり土地を手放してまで都市へと出るインセンティブをいまだ見出していないようである(p.147)。

 

 中国における農村から都市への出稼ぎ労働者の動きをめぐる展望を概観したところで、続いて農民工が置かれている労働現場を見てみよう。

 中国にも日本と同様に労働組合(中国語で「工会」)が存在するが、その労働市場・慣行は大きく異なる。まず、都市の建設現場では「包工制」と呼ばれる慣行がある。これは、建設会社→労務会社→包工頭→労働者、と労働者の下請けを行う労働慣行システムである。「包工頭」は労働者の親分的な役回りを担い、しばしば中間搾取の温床になっている。このシステム上では、募集の過程で包工頭と労働者が労働契約を結ぶことがほとんどないため、最底辺にいる労働者が常にリスクを負う形になる(p.152)。

 しかし、だからと言ってこの慣行が直ちに是正される兆しはない。なぜなら、「包工頭は建設企業の名義により、農村における地縁・血縁に規定されたネットワーク関係を利用して労働者を募集し、中間マージンを得ることができ」、「建設業者は、労働者の募集と管理を包工頭に『丸投げ』することにより、少ないコストで安価な労働力を確保できたほか、労務管理上のトラブルの責任を包工頭に押し付けることができた」からである(p.151-2)。一見、不合理な制度が存続する背景には、現場での合理的な理由があるというわけだ。

 通常、これらの労働者の権利や処遇を是正するために何らかの働きかけを行うのが労働組合なわけだが、中国の工会は中華全国総工会の規約に「中国共産党の指導する労働者が自ら結成する労働者階級の大衆組織であり、党が労働者と連携する際の橋梁、紐帯、国家政権の重要な支柱」であると定められているようにほとんど「官製」であるため(p.154-5)、労働者の代表としては機能しなかった。そこで、その穴を埋める役割を担ったのが労働NGOだった。去年の低端人口の一掃事件の時も、労働者のサポートを行ったのは労働NGOであった。

 

 続いて、6章の中国のイノベーションに関する議論である。

 中国のイノベーションが日本でも注目されるようになって久しい。その際に特に注目されるのが、広東省にある深圳市である。香港に隣接するこの都市は、80年代に経済特区に定められたことを契機に急速な発展を遂げてきた。実は、私もここに半年間滞在したことがある。中国に対してステレオタイプ的な見方を持っている人ほど、この都市を訪れて驚愕し、そしてドはまりするだろう。

 深圳はまず電子部品の集積場として発展した。では、そんな中国によくあるような一都市がなぜここまで発展することができたのか。梶谷によれば、そこには深圳のイノベーションの三つの特徴が関わっている(p.198)。

 第一に、深圳では(知的)財産権の保護が十分発達していない点である。深圳では知的財産権の保護に関して、全く異なる考え方を持つ企業が乱立している。

 一つ目が「プレモダン層」である。この世界では知的財産権が全く無視され、例えば「山寨携帯」(海賊版携帯電話)などが切り売りされている。日本などの工業先進国では、自社(あるいは下請け機関)内で製品のすべて(例えば携帯の場合、基盤、チップ、回路設計、ソフト開発などなど)をまかなうような体制を整えるが、プレモダン層が発達した深圳では状況は異なる。つまり、もしある企業がスタートアップとして携帯を作りたければ、乱立する個々の電子部品業者から少ロットで部品を集めて販売することができるのである。こういった体制を、日本のような水平的な組み立て様式と対比して、「垂直分裂」にもとづく生産体制という(p.201)。これによって、零細業者や電子部品の知識の薄い企業家が市場に入場できるハードルが極めて低くなる。

 二つ目が「モダン層」である。ここに含まれるのは、ファーウェイやZTEのような特許によって独自の技術を囲いこむ企業である。

 三つ目が「ポストモダン層」である。この層が最も重要で、ここには独自の技術を開発するものの、それを特許で独占することなく、むしろ積極的に開放し、様々な人のネットワークを広げることでイノベーションを促進していこうという企業群が含まれている(「オープンソース・ハードウェア」)。代表的な企業がエリック・パンが創業した「Seeed」である。同社は、自社が開発した製品の回路図やデータやコードなどを外部に公開し、何か改善点があればそれをインターネットで募集する形を取っている。開かれたネットワークを駆使することで、企業内の知識循環を促進しているというわけだ。また、同社はもう一つ重要な事業として、顧客の注文に応じた少ロットの電子部品を製造している。つまり、製品開発の「先輩」として、アイディアはあるが資金が乏しい「後輩」のメイカーを手助けする事業を手掛けているのである。

 深圳のイノベーションを活性化させている第二の特徴は、法の支配が貫徹していない不確実な市場において、アリババやテンセントなどの大手IT企業が「情報の仲介者」としての役割を担っている点である。

 上述のように、深圳では極めて零細な業者であっても簡単に市場に参入することが可能である。しかし、それは粗悪な製品(「パクリ」)を掴まされる可能性もあることをも意味する。もちろん、パクリがあるからこそ経済が活性化するという側面もあるが、それでは市場が混乱することになる。そのニーズにこたえるのが「デザインハウス」と呼ばれる企業群である。彼らは、玉石混交の数ある深圳の部品製造元の中からどれを選べばいいのかを製品開発企業に指南する役割を担う(p.208-9)。

 このような情報の仲介を行うのはデザインハウスだけではない。アリババやテンセントなどのIT企業も、ECなどのプラットフォームを作ることでその機能を果たしている。アリペイによる電子決済では、「買い手」と「売り手」の間にアリババが入ることによって、買い手が粗悪な商品をつかまされることを減らし、かつ円滑な商品発送・代金支払いをアシストしている(詳しい図はp.216)。

 第三に、先駆的な企業が政府の規制を無視した行動を取ることで、なし崩し的に「制度」を変化させるという現象が起きている点である。このような状況を梶谷はハイエクの言葉を用いて、「自生的秩序」と表現している。これはすなわち、「政府が法規制を整備する前に民間企業の行動によって次々とデ・ファクト(事実上)のルールが形成され、それが社会全体のイノベーションを加速していくという一連過程」(p.219)である。だが、これは政府が全くの無力で民間の力だけで市場が回っているということを意味しているわけではない。あくまでも、政府が何らかの規制やルールを作る立場にあるわけだが、それがうまく機能しなかったり、あるいはそもそも政府が厳格に取り締まるためにそれを行っているのではなく、ある種の「なれ合い」として行っており、その杜撰さ不徹底さによって民間が自由に自らの慣習を作っていくということを意味している。このような政府と民間のいたちごっこによる「制度」の生成・再編成が、深圳におけるイノベーションの活性化に帰結したのだ。

 いずれにせよ、深圳における「エコシステム」は巷で言われている以上に複雑で、かつ独創的である。そして、面白いのはそういったシステムが誰かの意図によって生まれたわけではないということである。そこに集う政府、メイカー、起業家、製造業者などのアクターがそれぞれ自由に、自らの利益を求めて行動した結果、現在のようなシステムが構築されたのである。例えば、これをそのまま東京に移植しようとしても無理だろう。唯一、深圳から日本が学べるものがあるとすれば、それはいち早くがんじがらめの規制やルールをまず取っ払って、自由にモノづくりをできる土壌を作ることだろう。