Paul Starr "the Sociology of Official Statistics"

 Paul Starr, 1987, 'The Sociology of Official Statistics' William Alonso and Paul Starr eds. "The Politics of Numbers", New York: Russell Sage, 7-57. という論文をまとめる。

 

The Politics of Numbers (Russell Sage Foundation Census)

The Politics of Numbers (Russell Sage Foundation Census)

 

 

 ポール・スターは統計や国勢調査社会学的解明を試みる研究者である。このほかにも統計や社会調査における「カテゴリー化」が人々の認識にいかなる影響を与えるのかなどを精力的に研究している。その試みはブルデューフーコー、ハッキングなどの「知による物象化」の研究とオーバーラップする部分があると思うが、彼らの議論に言及しているような部分はあまり見当たらない(詳しいことは分からないが、米国でブルデューフーコーなどの研究を参照することに対してあまりポジティブな考えが共有されていないのかもしれない)。したがって、この論稿も同書の中で展開される論文やその他の研究をもとに、経験的事実としての「公式統計(official statistics)」の歴史や機能を概説しているといった感じである。

 

 序章の「公式統計の社会学」と銘打った章の冒頭でまず彼は、これまで社会統計家が公式統計を「分析の手段(means of analysis)」として使ってきた一方で、「分析の対象(object of  analysis)」としての側面を注目してこなかったと指摘する(p.7)。いまや統計は有効な研究方法として確立することになったが、しかし公式統計の歴史、そして一見すると「客観的」「科学的」な手続きによって成り立っているように見えるその研究方法が実は社会的・政治的な過程の中で構築されることが見逃されてきた。そういった側面に社会学的に迫っていこうというのが本書の趣旨となるわけである。

 では、本書で度々出てくる「統計的システム(statistical system)」とは一体何なのだろうか。いわく、それは「数的情報の生産・分配・使用に関するシステム」(p.8)のことを指す。この統計的システムは大きく分けて二つの要素から構成される。一つ目は「社会的組織化(social organization)」である。これは、収集から分析・分配・使用に至るまでのデータ産出に関与する個々の回答者や国家のエージェンシー(従業員)、私企業、専門職、国際組織などによる社会的・経済的関係から成る。そして、二つ目は「認知的組織化(cognitive organization)」である。これは情報それ自体の構造化のことを指し、例えば研究領域の境界、社会的現実についての先入観、分類の体系、測定方法、データの解釈や表示に関する公式のルールなどを含んでいる(p.8)。

 要は、前者が公式統計なり社会調査なりが作成される際に関与する様々な人間たちの関わり合いのことを指し、後者が実際にデータを収集・分析する際に科学的知(あるいは非科学的だが研究者業界で自明となっている慣行)をもって現実の複雑性が縮減され、整序されることを指しているというわけである。この二つの要素が合わさって構成されるのが統計的システムであり、それによって産出されるのが統計である。そのため、その生産過程を問うことは十分「社会学的」な研究たりえるのだ。

 この前提をもとに、スターは本書で展開する議論を、①統計的システムの起源と発展②統計的システムの社会的組織化③統計的システムの認知的組織化④統計的システムの使用法と効果⑤現代における統計的システムの変化、の五つに分類している(p.9)。この序章で簡単に概説されているのは、この中の①~④までである。

 

 まずは①統計的システムがなぜ作られたのか、その歴史を見てみよう。古代ローマでは、censusを徴税や兵役義務、政治的身分の決定を目的とした、成人男性市民や彼らの財産の登録のために使用していた(p.10)。しかし16世紀後半ごろ、次第にcensusは徴税だけでなく、戦争や公共事業に従事できる人間の数や年齢をを決定したり、市民間での論争を解決するしたり、浮浪者や怠惰な人間、窃盗者などを取り締まったりするために使われるようになっていった。「この時期、censusは明らかに国家権力や社会的コントロールのための道具であったのである」(p.11)。

 しかし、近代に入るとcensusの役割は変化していく(p.11)。第一に、近代的censusは一つのネーションやその下位地域の全体人口をより包括的に測定するようになった。前近代までは男性、特定の年齢・階級、健康や世帯などしか聞いていなかったが、調査の項目はより拡大していった。第二に、個人レベルでデータを取るようになった。第三に、継続的に登録を行うのではなく、ある特定の時点での数値を取るようになった。つまり、累積的にデータを取るのではなく、調査時点におけるデータを取ることで時系列でデータを把握することができるようになったのである。第四に、近代の統計データは公表されるようになった。第五に、そして最も重要なものとして、徴税や警察を管轄する部署と統計を管轄する部署が分裂したことである。これによって、調査者と対象者の関係は変化し、対象者の中でcensusに対するある種の信頼性が生まれ、国家が調査を行うことに対する「正当性」が付与されるようになった。

 だが同時に前近代と近代の過渡期には、中央の国家が統計を一元的に管理することに対して、地方の有力政治家などから意義が出されるようになる。例えば、17世紀中盤のフランスでは、人口・経済の調査が主として新たな税負担が課されることを恐れた地方有力者らの反感を買い、調査の協力を拒まれるという事例がある(p.12)。統計の一元管理が必ずしも順調に進んだわけではなかったことは留意しなければならない。

 では、近代的意味での統計はいかにして誕生したのだろうか。そもそも”statistics”という言葉は、「国家(state)」と密接に結びついた概念であった。17~18世紀のドイツではHermann Conringが「国状論(Staatenlunde)」という研究領域を発展させていったが、その時点ではstatisticsとはすなわち数的なものであるかどうかにかかわらず、国家についての事実を指していた(p.12)。さらに、17世紀の英国では、ウィリアム・ペティが公共政策における量的アプローチを開発していき、「政治算術(political arithmetic)」という概念を生み出した。これは主に商業的な目的として作られたもので、確率などを駆使することで人口や農業生産、貿易、税収入などを算出し、国力の増強を企図していた(p.14)。そして、18世紀後半に英語の中にもstatisticsが輸入される。このように、stateを語源とするstatisticsは、近代において国家の発展に寄与するものとして発明されたのである。

 またチャールズ・ティリーが、国家建設は歴史的に「搾取的かつ抑圧的」であったと言うように、統計システムもその搾取と抑圧に関与してきた。つまり、ヒト、カネ、情報の三つを搾取し、徴税と徴兵を行うために統計は用いられてきたのである(p.16)。徴税において国家に属する人民の総数を把握することはもちろん大事だが、同時に税の「配分」のためにもそれは重要な意味を成す。つまり、国家が民主的になればなるほど税負担と配分を公平に行うために、正確な公式統計の技術が求められ、開発されていくのである。

 一般的に、経済・社会的生活への国家権力の管掌範囲が拡大すればするほど、統計研究の範囲や細かさ、量も増すといわれている。しかし、スターはこのテーゼはあまりにも単純化しすぎていると反論する(p.16)。第一に、国家の利害関心のみによって、自動的に人々の思考体系が構築されるわけではない。第二に、介入主義的政府は統計研究により関心を寄せるかもしれないが、それと同時に反発も引き起こし、全般的で信頼に足るだけの情報を引き出すのに失敗することはままある。先に挙げたフランスの例は、それを如実にあらわしている。総じて言えば、統計を集めるには広い範囲での協力体制とそれを行うだけの「政治的正当性」が必要になるため、社会を無視した国家による上からの絶対主義的権力だけではそれは達成できないのである(p.17)。

 したがって、censusが民主主義国家において成功を見たのは偶然ではない。世界で初めての国勢調査が行われたのは、1790年のアメリカにおいてである。これは下院の議席配分のために実施されたものだが、それは国家による徴税や監視などではもはやなく、民主的な制度を作るためのインフラとして要請されたのである。そして国勢調査は、特定の集団だけでなく、全体としてのネーションに資するためのものとして作成・公表される。19世紀のアメリカでは、国勢調査は国民的偉業とアメリカ民主主義の成功の証明としても機能していた。つまり、「国勢調査はナショナル・アイデンティティを強化するための一種の集団的自画像であった」(p.19)のである。

 

 次に②統計的システムの社会的組織化について見てみよう。統計的システムは前述したように、長い歴史をかけて様々なアクターが関与する一種の分業体制を築き上げてきた。と同時に、そのアクター間で協力、妥協、反発などの相互作用が発生するようになる。

 まずは中央統計局と支局の関係である。統計官僚があまりにも政策立案や分析に接近すると反逆者(partisan)になるリスクもある一方で、政策立案から独立しすぎると単なる「数字の工場(numbers factory)」になってしまう危険性もある(p.26-27)。その塩梅はケースバイケースだが、この関係性は重要である。

 次に、中央政府と地方政府の関係である。国勢調査員は多くの場合地方の職員であり、調査結果本体は地方に据え置かれ、その要旨だけが中央へと提出される。また、実際の分析は地方と中央で分散しているかもしれないが、情報への公的アクセスのコントロールは地方に任されている(p.27)。例えば、本書出版当時の西ドイツでは地方政治家が個人の情報やデータにアクセスできるように中央政府に訴えたといいう事例があるように、地方と中央の関係は常に問題になりやすい。

 三つ目は、公的領域と私的領域の関係である。最近では公的領域だけが統計を取るわけではなく、私的セクターが公的機関の依頼を受けて調査を行うケースが出てきている。その際に、データの収集・管理・公開はどの範囲まで許されるのかという問題が新たに浮上するのである。

 四つ目は、官僚と学問の関係である。公式統計は主に技術官僚の統率にしたがって、収集・管理されている。学問の世界でも国家が算出した公式統計を用いて論文や研究を作成することはよくあるが、問題は官僚と学問の世界での統計の概念や調査方法がいくらか異なることである。その対立は、日本でもしばしば散見される。

 と、ここまでが統計を作成する側の分業体制および相互関係の整理であったが、次に統計を作成する過程において、どのような社会的相互作用があるのかを見てみよう。

 まずはデータ収集の方法における相互作用である。調査のデータ・ソースや方法(国勢調査を行うのか、サンプル調査を行うのかなどの選択)は政治的・社会的プロセスの結果によって決定される。例えば、アメリカでは憲法によって10年ごとに国勢調査を行うことが定められている(p.31)。しかし、その具体的な調査方法も長年議論されてきた(コストがかかる全数調査を行う必要があるのかなど)。特に国家が実施する調査は税金によって賄われるため、調査の意義が厳密に問われる場合が多いだろう。

  次に回答者のコンプライアンスと情報公開における相互作用である。調査の回答は強制的なものから自発的なものまでさまざまあるが、その結果は回答者の今後の待遇に影響を与える場合がある(福祉、警察、徴税、罰則など)。したがって、それらを危惧して回答者が意図的に自らの利益に反しないような回答をすることもありうる。例えば、1980年米国で、国勢調査の前後でマイノリティの数が過小に数えられていることに反発して、「平等に数えられる権利」獲得のために法的承認を求める運動が起きた事例がある(p.33)。米国では、国勢調査が政治的代表権や税の分配などを決定するための基礎的資料とされる(マディソン大統領はFederalist Papersの中で「人口にしたがって代表者と税を割り当てる」と述べている)ため、調査結果の数値が非常に政治的にセンシティブなものになりやすいのである。

 三つ目はデータ収集における相互作用である。言うまでもないが、あらゆる調査は調査者と回答者の間の関係性の上に成り立っている。これは前述したので繰り返さないが、他にも現象学的観点から見れば、統計データのカテゴリーやエビデンスは必ず調査者による「解釈」を不可避的に伴う(p.35)。例えば、デュルケムが『自殺論』で深く取り上げなかったが、現象としての「自殺」をどのように解釈するのかはなかなか難しい問題である。首吊り死体で発見され、はたから見ればどう見ても「自殺」であったとしても、それが加害者によって巧みに仕組まれた「他殺」である可能性は否定できないし、自殺統計には「自殺未遂」の数は含まれていない。つまり、自殺者数の統計を取る場合でも自殺者が本当に「自死」を選んだのかどうかは数値からだけでは判断できないし、そもそも「自殺」の定義についての合意がないのである。

 四つ目はデータ処理における相互作用である。統計データの生産は、ルーティンの仕事を行う多数の事務職員と少数の管理者および専門職者による産業的・労働過程から成っている。彼らの相互作用も調査結果を左右する場合がある。

 最後の五つ目は、政府による改ざんや統計的紛失(国家による意図的なデータの不開示も含む)、公共的データの社会的分配である。産出された調査結果を公開するのか、公的に誰でもアクセスできるようにするのかなどは、国家と社会の間の相互関係によって決まる。

 

 つづいて、③統計的システムにおける認知的組織化である。ここでは、調査を実施し、そしてそれが公開され、それに基づいて公的資源が配分されることで人々の認知にいかなる影響を与えるのかということに注目している。例えば、質問項目の設定は、特定の質問を選択している一方で、それ以外の質問を淘汰していることにもなる。その時点で、調査のフレーミングが行われているのである。この節で個人的に興味深いのは、「分類(classification)」に関する議論である(p.43-46)。

 スターは、分類(classification)を「対象を彼らの関係性にもとづいて、何らかの集団や仲間の中に秩序付ける、あるいは配置すること」と定義している(p.43)。さらに分類の下位概念として「社会的分類」なるものを挙げている。これは、すなわち「人々それ自体、あるいは人々の活動、帰属などを分類すること」(p.43)である。国勢調査や社会調査で行っているのは、この「社会的分類」に他ならない。そして、それらの調査を駆使して、「国家がある集団の認識を受け入れるか、はたまたその他の分類を押し付けるかは文化的・階級的区分や政府の形態、公式に認められた自己定義を得ようとする集団の能力に左右される」(p.44)。

 この社会的分類のプロセスは大きく分けて四つある。一つ目は、分類カテゴリーの定義(domain definition)である。例えば、国勢調査などでよく使われる「エスニシティ」も自明のカテゴリーではない。類似の概念として「人種」や「民族(nationality)」があるし、ほかにも「祖先」や「カースト」「宗教」などとオーバーラップすることはままある(p.44)。どういったカテゴリーが望ましいものとして使用されるのかは、非常に恣意的に選択されるというわけだ。したがって、公式統計分類では、分類カテゴリー(domain)は第一に社会生活一般で使用する意味として、そして第二に(日常的に使われている意味から乖離することもある)国家が社会をマッピングするための形式的な意味として、それぞれ構成されうるのである(p.44)。

 二つ目は、グループ分け(grouping)である。公式統計によってなされるグループ分けは、単純に分析上のカテゴリーなだけでなく、自らのアイデンティティの公的承認を得ようとする政治的同盟や連携、社会運動、利害関係集団の区分でもある(p.44)。しかし、公式統計は時にはお互いに「仲間」であると認識していない人々も同じカテゴリーに分類してしまうことがある。そういったケースでは、統計上の境界線の引き直しをめぐって政治的闘争が生じることもある。

 三つ目は、ラベリング(labeling)である。これはハワード・ベッカーの有名な研究にもあるように、統計による分類が人々の認識を構築し、新たなラベル(時には偏見に満ちた)を押し付けることになるということである。例えば、「浮浪状態(vagrancy)」よりも「ホームレス状態(homelessness)」としたほうが、逸脱者に対する偏見を抑制することができる。つまり、ラベリング(カテゴリーの命名)は分類の第一歩であり、そのカテゴリー付けによって調査対象者の損益を発生させてしまう可能性もあるのだ(p.45)。

 四つ目は、秩序付け(ordering)である。社会的世界は複雑であると同時に、混乱(messy)している。そのため、調査などを行う場合はその複雑性を縮減しなければ、科学的理解へと進めない。しかし、その秩序付けを行う際にも、様々な段階が存在する(p.46)。まずは「矛盾の整合(reconciliation of inconsistencies)」である。ある時点での統計上のカテゴリーが、時間の経過とともにその意味合いが変化していことがある。そういった場合にその矛盾を整理しなければならない。次に「範囲が不明確な部分の構造化」である。例えば、当人が有するエスニシティや職業などの分類はしばしば不明瞭で流動的であるため、その整合性をしっかりと確定しなくてはならない。最後が「ヒエラルキーの推敲」である。「何を何の下に位置づける(記載する)のか」などは、調査を行う上で避けては通れない道である。以上のような秩序付けあるいは調整は結局、社会的現実を不公平に構造化する国家の概念的フレームワークを導入することを必然的に伴う(p.46)。

 以上の四つの方法によって、社会的分類が行われるわけだが、これらのプロセスによって分類がなされ、それが公開されれれば、もはや分類は国家の専売特許ではなくなる。つまり、分類は国家によって一方的に行われるわけではなく、ひとたび分類が行われれば、それにもとづいて人々は「集団化」したり、あるいはその分類に対して異議申し立てを行ったりするかもしれない。そうなった場合、結果として新たな「分類地図」へと作り変えられることもありうる。そういった事例は④統計的システムの使用法と効果の中で挙げられている。例えば、国勢調査局が一度ヒスパニックというカテゴリ―を採用すれば、アメリカ社会は認知的にそれに与することになる。フランスでは公式統計の中で「幹部(cadres)」というカテゴリーを用いているが、それによって中間レベルの技術・管理職のアイデンティティが形成されているという。さらに、ドイツでは社会保障の統計において、「賃金労働者(Arbeiter)」と「正社員(Angestellten)」を区別しているが、これが階級意識の形成を助長している(p.53-54)。こういった公式のカテゴリー化に抗して(特にエスニック的な)運動が生じるケースは少なくない。分類システムは、そういった国家と社会の相互作用によって生産・再生産されるのである。