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クリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』

 今回はクリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』のレビューを書く。

 

軽いシティズンシップ――市民、外国人、リベラリズムのゆくえ

軽いシティズンシップ――市民、外国人、リベラリズムのゆくえ

 

  現在、シティズンシップ研究にも関心の範囲を広げ、邦訳のものから手を付けているのだが、2010年に出版された本書は邦訳の中では理論的側面をカバーした割と最近の議論まで包括的にまとめているので便利ではある。しかし、ここ2,3年でシティズンシップ(特に移民)に関する議論は様変わりしてしまった感があるので、やはり現時点で読むと時代遅れな感想を少し抱く。

 

 本書におけるヨプケの主張はいたって明解である。すなわち、グローバル化が進展する現代では、シティズンシップはますますリベラル化していくということである。そして、これまで人々の地位、権利、アイデンティティを強く規定してきたシティズンシップのプライオリティはますます低下していき、「軽いシティズンシップ(citizenship light)」になる、というのが主な筋書きである(だが、ヨプケ自身が弁明しているように、これは彼が研究の対象としている欧州、北米、オーストラリアなどの主に西洋諸国に限定されることで、アジアやアフリカなどの地域ではまた状況は異なるかもしれない)。

 詳しい議論は本書の2章以降に譲るが、例えばこれまで西洋諸国で採用されていた「帰化テスト」はその国に対する「忠誠心」を測るような設問が多かったが、多文化主義や移民の統合が叫ばれて以降は、そういった排他的でナショナリスティックなテストは廃止され、むしろ「人々が持つ普遍的な権利は何ですか」などの非国家主義的な設問が作られることが多くなった。これは移民に対するグローバルな規範と連動するものであると同時に、多くの場合がイスラム圏からの移民である西洋諸国が「イスラム化」に抗するために「(イスラムに対する)普遍的人権を重んじる西洋文化」を強調する目的で採用されている。ますますグローバルな政体(EUなど)が規範的な秩序を構成し、移民の受け入れが不可避の状況が進展していく中で、西洋国家はナショナリズムではなくリベラリズムで対応していくしかなくなるというのがヨプケの展望である。

 もちろん、これはトランプやBrexitなどの昨今の動きを鑑みれば、全くの的外れのようにも思えるが、完全に外れてもいないように思える。というのも、ヨプケが言うように国籍制度を見てみても、例えば強固に「血統主義」を採用していたドイツですら、部分的に「出生地主義」を採用し、移民2世・3世の国民への統合へと路線を変更していったからである。そのほか、制限的な国籍制度を採用していたルクセンブルグも規制の緩和を行っている(p.63の表参照)。

 これをすべてひっくるめて「リベラル化」と言ってしまえば、確かに西洋諸国はリベラル化していると断定してもいいのだろうが、はっきり言ってこれは「リベラル化」をどう定義するかで全く異なる見解になるだろうと思う。また、グローバル化時代においてはすべての国家はリベラルになるという単線的なモデルはやはり注意が必要なように思う。というのも、やはり現在の状況から考えるに、リベラルになっている国もあれば逆にリベラルに逆行する国もあって、混成状態にあるというのが実際の状況のように思われるからだ。もっと言えば、一国内においてもリベラルになっている制度もあれば、逆に締め付けを強めている制度もある(例えば居住のハードルは下がっているが、参政権などの政治的権利の付与は断固認めないなど)。

 したがって、最終章の「軽いシティズンシップ」のくだりは少し現実味がないように思われる。もちろん、規範的なマニフェストとしてはその方向に世界が進めばいいのだが、現実は得てしてそう簡単にはいかないものである。

 

 以上、本書全体のレビューは雑にまとめたが、個人的に重要だったのは1章のシティズンシップ論の歴史を整理した部分だったので、ここを以下でやや詳しくまとめておこう。

 まず、「シティズンシップ」という概念自体が非常に厄介で、日本語に訳すと「国籍」「市民権」「市民的権利」など様々で定訳はない。それはもちろん英語においても同様である。

 例えば、最初にシティズンシップを学問的な議論に俎上に上げたT・H・マーシャルはそもそもシティズンシップを「階級」と結びつけて説明していた。つまり、国内で階級的に分断されたし資本家階級と労働者階級のヒエラルキーを段階的に修正していくために「市民的権利」「政治的権利」「市民的権利」という三段論法を提唱したのである。これは当時、「闘争」によって労働者階級が資本家階級を打倒するとした過激なマルクス主義に対して、資本主義を肯定しつつ不平等を是正するアンチテーゼとしての意味合いも大きかった。この場合、シティズンシップは「権利」として理解されている(p.17-23)。

 一方で、シティズンシップは「ナショナル」なものとしても議論されてきた。その代表的論者がロジャース・ブルーベイカーである。彼は『フランスとドイツの国籍とネーション』において、シティズンシップ概念を仏独の国籍制度と結びつけて比較歴史社会学的手法を用いて分析を行った。この研究は国籍研究の草分けとして高い評価を受ける一方で、「市民的」と「エスノ文化的」という二項図式に仏独のネーションの自己理解を還元してしまった点で批判を浴びたが、ヨプケによるとこの研究の最大の貢献はシティズンシップの「二元性」を指摘した点にあった。すなわち、シティズンシップは「社会内において形式上平等な成員資格の地位をひとつだけ認める『内部包摂性』という性質と、そのような平等な成員資格をもつ地位からすべての外国人を無条件に締め出す『外部排他性』という性質」(p.24)の二つを含有しているのである。つまり、内部では非常に民主的な構造を備えているシティズンシップも外部に対してはナショナルな論理で排他性を有してしまうのは不可避なのである。マーシャルまではこのうちの「内部包摂性」に関する議論しかなされていなかったが、ブルーベイカー以降「外部排他性」を見直す動きが始まった。

 また、ブルーベイカーはウェーバーの言葉を借りてシティズンシップ(国籍)を「社会的閉鎖」の道具として捉えなおした。すなわち、シティズンシップは「人々を国ごとに振り分けてゆくひとつのメカニズム」(Brubaker 1992: 31)であり、これはこれまでの領域固定的に国民国家を考える視点を克服し、国境横断的に広がる国家の力を考える視点へと転換する一助となった(p.24-25)。これはグローバル化の流れがナショナリズムを「超克」することなどありえず、グローバルな時代においては単純に国家の力の及ぶ範囲が越境的に広がっていくと、ブルーベイカーが自著の中で何度も強調しているところとも一致する。つまり、「シティズンシップによる閉鎖は、国民国家としての国家が『特殊で他と区別され境界づけられた国民の、国民のための』ものであるべきとする非実体的な必要を満たす一助ともなった」(p.25)のである。

 さらに、シティズンシップ(国籍)は社会的閉鎖の「道具」であると同時に「対象」でもある。

 閉鎖の道具としてのシティズンシップにより、国家は自国領への移動を制御することが可能になる。(中略)しかしさらに、シティズンシップは閉鎖の対象でもあり、それを取得する際には国家が定める国籍法の制限を受ける。(p.26)

 国家が定める国籍法は大きく分けて①出生による取得、②帰化を通じた取得の二つの方法でシティズンシップの付与に制限を与える。いずれの場合にせよ、選ぶ主体は個人ではなく、国家であり、本質的に国民国家とはリベラルとは程遠い仕組みなのである。そして、この閉鎖の「道具」としての側面と「対象」としての側面は循環しながら補強し合う。つまり、基本的に市民は制限抜きに領域内に入ることが可能な一方で、非市民は厳しいセキュリティに阻まれるという自明性によって国民国家はストレスなく自己存続することができ、内部で成員資格を再生産する(道具としての側面)。さらに、必要とあらば、成員資格を調整して周辺的に新規成員を外部から補充することも可能である(対象としての側面)。

 ブルーベイカーがシティズンシップのナショナルな側面を強調した論者とするならば、ヤセミン・ソイサルはその「ポスト・ナショナル(脱国民国家)」的な側面を強調した論者であるといえる。彼女はもう一度マーシャル以来の「権利」としてのシティズンシップの側面に光を当て、グローバルな時代においてはもはや人々は「ナショナル」なものではなく、より普遍的な「人権(human right)」によって権利を保障されると説いた。それを彼女は「ポスト・ナショナルな成員資格」と呼んだ。

 その際、彼女はEUなどの国境横断的な政治構造が相互依存を深めることで移民受け入れ国の移民政策の恣意性を縛る第二次世界大戦の過ち(特にホロコーストというヨーロッパ最大の過ち)への反省として高まった人権文化、の二つの国境横断的な規範がこの流れを促進するという(p.32)。もちろん、依然としてシティズンシップの政策決定権を握るのは当該国家なのだが、その決定の過程にグローバルな規範が入り込む余地が大きくなってきたというわけである。ソイサルの主張はちょうど「多文化主義」が叫ばれていた時期に広く受け入れられたが、それはスローガン的なものにとどまり、実質的には権利は依然として国民国家の論理で付与される(移民は政治的権利や社会保障を与えられず、「二級市民」の地位に据え置かれる)という現実が横たわっていたため、訴求力を失っていた(p.35)。

 そして、ソイサルの後に出現した理論的潮流がウィル・キムリッカである。多文化主義の提唱者としても有名なキムリッカの理論は一見するとソイサルと同じようにも思えるが、ヨプケによるとソイサルが「普遍主義的」であるのに対し、キムリッカは「特殊主義的」な点に相違がある。つまり、前者が普遍的な「人権」によってシティズンシップの資格が与えられると説く一方で、後者は(民族でもなんでもいいが)マイノリティの権利をマジョリティに合わせるのではなく、マイノリティに特別な権利を与えて「補う」(p.36)べきだと主張する(例えば、国民の祝日少数民族にとっては何のゆかりもないただの一日である。そういった場合、少数民族の個別の祝日を設けようとすれば「特殊主義」となる)。

 だが、もちろんキムリッカの理論にも問題が存在する。まず、キムリッカの主張の裏には少数民族は特別に文化や権利を認める一方で、当該国家の包括的な「社会構成文化」を受け入れる必要がある。だが、国家があらゆる人々に中立的な立場を取ることはできないため、この社会構成文化も特定の人々に有利なものにならざるを得ない。さらに、キムリッカが認めるのはマイノリティ文化の保護などの穏当なもので、例えば「自治」などの過激なものは拒否される。彼の念頭にあるのは完全な「自由」ではなく、あくまでもマジョリティとマイノリティの平和的な「統合」なのである。

 

 以上のように、シティズンシップは様々な文脈で議論され、錯綜し、ひどいときには議論がかみ合わずに終わってしまうことすらあった。そこで、ヨプケはシティズンシップを大きく以下の三つの意味に限定している(p.43-46)。

地位としてのシティズンシップ:公的な国家成員資格のことを指す。いわばパスポートを保持できるといった意味合いで「国籍」と同義。

権利としてのシティズンシップ:地位に付随する一定の権利。マーシャルが提唱した「市民的権利」「政治的権利」「社会的権利」はこの次元に位置する。

アイデンティティとしてのシティズンシップ:個人を政治的共同体(国家)につなぎとめる共通の信条やアイデンティティを指す。この次元を通じてシティズンシップは国民やナショナリズムと結びつき、シティズンシップに具体的な「意味」(あるいは「価値」)が付与される。

 ①はいわばシティズンシップの「下部構造」であり、これにもとづいて②、③へと議論が拡大していくというのが普通である。地位としてのシティズンシップ(国籍)は移民などの外国人に対しての議論でも適用されうるし、例えば女性や性的マイノリティなどにも適用される場合もある。さらに、権利としてのシティズンシップは国民ー移民の文脈で階層化されることもあれば、移民内で権利の階層化が行われる場合もある。アイデンティティとしてのシティズンシップは(a)一般の人々に抱かれる経験的な信条(b)国家が人々に持たせようとする規範的な信条、の二つの種類が存在する。後者は国家が標榜し、国民ないしは移民に押し付けるナショナル・アイデンティティである。シティズンシップのアイデンティティとしての側面は唯一ブルーベイカーによって分析されたが、文化論的な帰着点に行き着いてしまったため普及しなかった。

 そしてヨプケの主張は「シティズンシップは国ごとに異なるやり方で再生産されたり、世界的に衰退の途をたどったりするのではなく、むしろさらに包括的で普遍的な方向へと進化し続けているということ」(p.46-7)である。つまり、ブルーベイカーのようにシティズンシップのナショナルな側面だけを強調するのではなく、またソイサルのようにポスト・ナショナルな側面だけを強調するのでもない①、②、③がそれぞれ連関しながら全体としてリベラルな(普遍的な)方向へと移行するというものである。

 

 以上がヨプケの整理と将来の展望である。彼の展望については、私は少々悲観的な見方をしているが、彼が提示したシティズンシップの三つの側面は非常に有用な整理だと思う。ただ、ブルーベイカーが主張するように、個人的にはシティズンシップのナショナルな側面は依然強固に残っているのではないかと思う。特に(これはヨプケ自身あえて除外しているが)西洋以外の国家の文脈では(例えばアジア)。