メモ:台湾における戸籍制度の変遷(1945年から2000年まで)

 現在、台湾における戸籍制度の変遷について調査しているので、ここに断片的ではあるが、調べたことを整理しておきたい。

 

 台湾における戸籍制度の歴史的変遷についてまとめた論文として最も著名なものは、台湾の社会学者・王甫昌による『由「中國省籍」到「台灣族群」:戶口普查籍別類屬轉變之分析』(2005)である。王はこの中で、戦後台湾で施行された戸籍制度は「中国法統想像」という国民党によるナショナル・アイデンティティにもとづいて形成されていたが、それが1992年には「台湾主体想像」という新たなナショナル・アイデンティティの動員によって、いわゆる「出生地主義」にもとづく戸籍法の改正に至ったことを説明している。また、これは「中国(中華民国)」を統治の範囲として「省籍」によって国民を管理する体制から、「台湾(島)」を範囲として「族群外省人・閩南人・客家人・原住民)」によって国民を捉えなおす体制へと台湾社会のナショナル・アイデンティティが変化したのだとも言い換えられる。

 この論文のアプローチは、戸籍法それ自体だけでなく、戸籍法にもとづき実施された「戸口普査法」(1947年公布)にも目を向けている。台湾では戸籍法の制定とともに、戸籍調査を10年おきに実施することが義務付けられた。つまり、戸籍調査の結果、および調査手法に着目し、その中で用いられているカテゴリー分類(例えば、「外省人」or「本省人」の区別は何なのかなど)を見ることで当時の上からのカテゴリー化分類の意図が推察できるというわけである。

 

 中国には伝統的に「籍貫」というものがある。これは西洋にはない概念であり、中国独自のカテゴリーだが、あえて英訳すればnativityやbirthplace、あるいはoriginal domicileなどになる(語義としては最後のやつが最も適しているように思う)。これは要は、先祖が生まれた場所(○○省××県/市)を表す「本籍」(日本でいう本籍とは別物)のことであり、これが親から子へと受け継がれていくため「祖籍」とも称される。以前の中華民国戸籍法第5条では以下のような規定があった。

中華民国人民の籍別は、省およびその所属する県にもとづくものとする。

 また、第16条では、こうも書かれている。

中華民国の子女が初めて戸籍登記を行うときは、その父母の本籍を以て本籍とする。父母の本籍が異なる場合は、その父の本籍を本籍とする。

 これはいわゆる、「父系血統主義」にもとづく戸籍法規定であるといえる。1931年に中華民国(まだ大陸にあった時代)が初めて中華民国戸籍法を制定してから、1992年の戸籍法改正までこの規定は継承されていった。

 ちなみに、現在でも中華人民共和国では「農民戸籍」や「都市戸籍」などが問題になっているが、これもこういった伝統的な制度としての「籍貫」に由来する慣習であるといえる。

 こういった血統主義にもとづく戸籍制度は、当時ではそれほど珍しいものではなかったが、台湾の場合はそれがエスニシティの対立、つまり外省人本省人の対立と結びついてしまったことで論争的で敏感な問題になってしまった。すなわち、大陸から移転した国民政府は、国共内戦の継続・大陸反攻を理由に、中央民意代表機関(国民大会や立法院など)のポストに就く人材を外省人に限定したり、中華民国憲法の規定によって籍貫(省・県)を基準に選抜人員を決めるなど、本省人に不利な制度枠組みを作っていったのである(さらに、1954年にはその中央民意代表機関の改選すらも凍結される)。そのため、「省籍矛盾」やエスニックな不平等体制の改善を訴える本省人にとっては、戸籍制度はシンボリックなアジェンダとなっていったのである。

 

 王は、戸籍調査の中で使われる籍別分類の変遷を大きく四つの期間に区分している。すなわち、①形成期(1956~66年)②過渡期(1970~75年)③第一次変遷(1980~90年)④第二次変遷(2000年)の四つである。以下で順に見ていこう。

 まず①は、初めて台湾において戸籍調査が実施された期間である。興味深いのは、国民政府が初めて戸籍調査を実施するにあたって、日本統治時代の統計・調査資料などを参照したという点である。この論文の中ではそこについては詳述されてはいないが、日本統治時代に設計された「内地人ー本島人」、さらに「本島人」のなかにも差異(つまり「漢人」、「熟蕃」、「生蕃」など)を設けるという構図は、そのまま国民政府によって応用されていったのである(さらに日本統治時代に利用された「保甲制度」も応用された)。大雑把に言えば、日本統治時代に「種族」とされていた区分が、戦後には「籍貫」に代わったというわけである。だが、その過程で日本式の調査がどう中華民国式の戸籍制度と合併され、ハイブリッド化していったのかはさらに詳細に調べる必要があるだろう。

 56年の調査の特徴は、まず「本省籍」と「外省籍」に大きく分類したうえで(本籍地が現住地とは異なる場所である場合、その人は「外省籍」となる)、「本省籍」をさらに「祖籍」(大陸の34省12市→ほとんど福建or広東省)、「族系」(台湾原住民)に細分化して統計を取っていることである(ちなみに「外省籍」はさらに「本籍省市」、つまり大陸各省市に細分化される)。「本省籍」と「外省籍」をすでに区分しているにもかかわらず、「本省籍」をさらに「祖籍」によって分類するのは矛盾しているじゃないかとも思うのだが、要は「本or外省籍」の区別は日本統治時代から台湾に住んでいる住民(本省籍)とそれ以降に台湾に渡ってきた大陸漢人(外省籍)を分けるための大雑把な区分で、そもそも日本統治時代あるいはそれ以前から台湾に居住している本省籍漢人のルーツも結局は大陸のいずれかの省に行き着くわけで、それを強調するために本省籍の中にもさらに「祖籍」項目を設けているということだろう。

 しかし、本省人の「祖籍」を証明するには困難があった。なぜなら、日本統治、そしてその直後の国共内戦の影響によって、本省人は大陸とのつながりを絶たれて久しく、すでに自らが大陸のどの省出身であるのかを把握する術を持ち合わせていなかったのである。さらに言えば、すでに本省人には「大陸はみずからの故郷である」というような感情は消滅しており、むしろいわゆる「分類械闘」の歴史のほうが身近にあったため、彼らのなかでは「福佬人」or「客家人」という区分のほうが意識されていた。そのため、戸籍調査員も苦肉の策として、本省人の祖籍区分の基準に彼らの家庭内使用言語(つまり「閩南語」or「客家語」)にもとづいて「祖籍福建」or「祖籍広東」の区分を行っていた。つまり、祖籍によって本省人エスニック的な中華民族意識を想起させるといいつつも、血縁などの強固なエビデンスはなく、かなり大雑把に証拠付けがなされていたというわけである。

 さらに66年の調査では(一次カテゴリーは「本省籍」、「他省籍」、「外国籍」の三つ)、「本省籍」を「本籍」台湾省21県市)、「祖籍」福建省広東省、その他)、「族系」(原住民)の三つに細分化している。

 つまり、①の期間(特に56年の調査)では、外省人だけでなく、本省人に対しても「中華民族」としてのルーツを植え付けるために、祖先の大陸居住の歴史的事実を証明する「祖籍」をサブカテゴリーとして設定しているのである。(ただ、66年に「本籍」が新たにサブカテゴリーとして加わっている要因は分からない)

 

 続いて②(70年、75年)では、「本省籍」が「本籍」だけにもとづいて分類されるようになる。つまり、この時期には66年までにはあった「祖籍」と「族系」という区分が消滅したのである。王によると、この時期の戸籍調査は冷戦体制下で連合国の要請にしたがって行われたサンプル調査だったらしい(外国が他国の戸籍調査に対して介入してくることなんてあるのか?)。そのため、台湾地区住民の5%のサンプルを抽出して統計が作成されている。

 では、なぜこの時期に「祖籍」と「族系」の区分はなくなったのだろうか。王によると、この当時の政府文書の中にはその理由を明確に示すものはない。そのため、当時の社会的状況から推察していこうと彼は述べる。

 70年の調査以降、立法議員(外省人)の中から戸籍制度の改革を促すような言論が提出されるようになる。いわく、70年の調査では消去された「祖籍」の記載をもう一度復活させ、また外省人が台湾で新たに戸籍を設けるときに、一度大陸にある本籍を消去したうえで台湾に本籍を新設するというプロセスを取らなくてもよい、というような規定にしようという話が出てきたのである。ここには、大陸とのつながりを再確認させ、分断されている台湾社会を大陸反攻のためにも一致団結させようという意図があった。これは、議会内の議論を飛び越えて、例えば『聯合報』などの主要メディアの社説でも取り上げられるようになり、概ね賛同の声が寄せられた。しかし、前述したような「祖籍」を調べることの困難などの問題が浮上し、実現には至らなかった。

 こういった議論が高まる中、72年には立法院に戸籍修正草案が提出される。その当時に出された声明は、概ね以上で挙げたような内容だったが、これは外省人議長によって棄却される。なぜなら、現在外省人が持っている「本籍」は大陸時代に設けたもの(つまり「籍貫」)であり、それをもとに彼らは中央民意代表機関のポストを牛耳る根拠を得ているので、もしその本籍を抹消し、新たに台湾に本籍を設けてしまえば、彼らはもはやポストに居座る正当性を失ってしまうことになるからである。これは、いわゆる「中国法統」にもとづくレトリックであるといえる。

 こういった批判をもとに、カウンターとして「では、出生地主義を導入すれば、現在ポストにある外省人は被害を被ることなく、かつ台湾で生まれた外省人二世などは省籍矛盾に苦しむことなく生きて行けるのではないか」という議論が出てきたが、反対多数で棄却されてしまった。いずれにせよ、この時期に提出された戸籍法修正草案は「台湾における省籍対立を解消しよう」という意図から出されたものであり、また提出した者の多くは国民党籍外省人であったことから、統治者の間にもエスニック間対立を早急に解決すべきだという意識が存在していたことの証左であるといえる。

 だが、結局この時期に「血統主義」にもとづく戸籍法が改正されることはなかった。これはいったいなぜだろうか。王によると、そこにはやはり国民政府による「法統」概念が関与していたという。前述したように、当時の立法議員の多くは、大陸で選出されたものが大半で(1948年に大陸で選出され、その後来台した者が400人以上いたという[p.89])、そういった議員の処遇は「大陸反攻」という大義名分のもと庇護下にあった。だが、こういった法統にもとづく省籍不平等は、1973年の中華民国の国連脱退、及びその後の台湾の民主化勢力の勢いに押され、次第に窮地に立たされていく。

 では、なぜこの時期に「祖籍」と「族系」というカテゴリーは消えたのだろうか。王によると、それはこの時期に本省人(特にその中でもマイノリティである客家人)の学者などから、単純に「言語」によって本省人の「祖籍」を判断するずさんな統計の取り方に対して多くの異論がだされるようになったことが関係している。もともと判断が難しく、調査員の恣意性が介入しやすかった「祖籍」項目をもう一度見直そうという議論が出てきたことで、この時期の統計には採用されなかったのである。(原住民の「族系」がなぜ消えたのかの説明は不明瞭)

 

 ③(80年、90年)では、一次カテゴリーとしての「本省籍」と「他(外)省籍」の区分も用いられなくなる。そしてすべて「本籍」によって区分されるようになり、この中に大陸各省市が区分として用意されている。

 

 ④(2000年)は、92年に戸籍法が改正されてから初めての調査であるが、「本籍」は完全に消滅した(ただし、エスニック・マイノリティの権利を確保するという目的から原住民の要請にしたがって、原住民間の区分(9族)は存続している)。

 では、なぜこの時期になって戸籍法の改正は実現したのであろうか。王はその要因として第一に、中央民意代表機関(特に立法院)の改選が実現したことがあげられる。80年代までは「国会全面改選」は違憲とされたため、戸籍法改正は議論の俎上には上がらなかったが、李登輝が総統に就任し、積極的に憲政改革を推し進める中で、戸籍法をアンタッチャブルなものにしていたいわゆる「万年議員」もこれによって議席を譲ることになった。(この過程で、李登輝と他の国民党議員の間の政争が絡んだ多少の飯尾篤人妥協があった)

 第二に、国会全面改選以降、それまで政治的に優位にあったが人口上はマイノリティであった外省人(特にその第二世代)が、台湾社会における自らの処遇を心配し始めたことである。さらに、国会全面改選が宣言されて以降、各種メディアにおいても政府機関の要職の省籍比率がどうなっているのかを詳細に調査したデータを開示するようになったため、世論においても省籍矛盾がさらに問題として意識されるようになっていった。

 だが、この時になぜ国民党議員のみで戸籍法修正草案の連盟が行われ、民進党籍議員からは賛同が出なかったのか。王によると、その理由は彼らにとって戸籍の不平等は支持基盤を維持するための重要なアジェンダであり、また彼らからすると、戸籍法よりも言語や学校教育における本土化のほうが省籍対立を緩和するための有効な方法であるという認識があったからである。

 

 最後に、王はこれまでの議論の整理を行っている。

 まず、1949年の国民政府の台湾移転以降に戸籍制度が作られた背景には、①国共内戦大義名分のもと、「中国法統」を国内外にアピールする必要があったこと、②日本統治時代に「奴隷化」された台湾人の「再中華民族化」が目指されたこと、が挙げられる。これをもとに、当時の国民政府の用いた理念を、王は「中国法統想像」と名付けている。これはつまり、①国家の統治範囲を中国大陸のすべてを含んでいる、②台湾住民は異なる省出身によって構成されている、③中でも本省人は中国化を要する集団と捉える、④戸籍は憲法にもとづいて維持される、⑤中央(全中国を代表する組織)と地方の二元的な政治体制を築く、⑥台湾では中国ナショナリズムにもとづく文化教育を行う、などの意味合いが込められている。

 50年代にも「国会改選」のアジェンダを掲げる人々はいたのだが、彼らは「中国法統」に真っ向から対立するような主張を出したわけではなく、あくまでも現実主義的なものに過ぎなかった(例えば「増加定員選挙」など)。そしてそれは1970年代の民主化の流れが押し寄せた時も変わらなかった。

 だが、そういった状況を大きく揺るがせたのが、やはり1979年の美麗島事件だった。この事件に対して国民政府は依然として武力によって制圧するという手法を取ったが、これがかえって民衆の怒りと被害者に対する同情を誘発し、とうとう蒋経国立法院の増加定員選挙の実施に踏み切らざるを得なくなってしまった。これによって、民主化勢力が徐々に政治的舞台に進出するようになっていった。

 この頃から民進党を筆頭として、「中国法統想像」に代わる新たなナショナル・アイデンティティとして「台湾主体想像」が叫ばれるようになる。これは、①台湾島、澎湖、金門、媽祖を国家の統治範囲とし、②本省人外省人は文化の差異はあるが、優劣の差はない、③第二世代の台湾人はもう省籍差別を受けるべきでない、④法律上の省籍区分を撤廃する、⑤国会全面改選を実現し、台湾住民の民意を代表する政治体系を作る、⑥文化・教育面での本土化と多元化を推進する、などの意味合いを含んでいる。言い換えれば、中華民族アイデンティティを強調する「中国法統想像」から、台湾本土の文化や多文化主義にもとづく「台湾主体想像」へとナショナル・アイデンティティが変化していったことが戸籍制度変革の根底にあるという結論である。

 

 

 以上が王甫昌の分析による、台湾における戸籍制度変遷の流れと要因の説明である。これは非常に分かりやすく、台湾の学術界ではすでに通説となっているストーリー・ライン(つまり国民政府による「公定中国ナショナリズム」から、主に本省人による「台湾ナショナリズム」へという流れ)とも合致する説明である。

 だからこそ、少し気になるところもある。第一に、このストーリー・ラインから演繹的に現象を単純化している点も少なからずあるのではないだろうか。つまり、戸籍制度変革の過程で本省人なり外省人なりが抱いた葛藤や妥協の側面が、「公定中国ナショナリズム」から「台湾ナショナリズム」へという大きな物語に依拠することで捨象されてしまった側面もあるのではないか。現に、90年代に戸籍制度修正を掲げた外省人の間でも様々な政争があったが、その詳細は語られていない。私は、(特に統治者である外省人の側で)もっと複雑な葛藤が存在していたのでないかという疑問を抱いた。

 第二に、戸籍制度生成・変容過程で出てきた(主に政治家による)ナショナル・アイデンティティを用いたフレーミングの過程が、この論文だけでは詳細につかめないという点である。本論分の中でも、例えば『立法院公報』などの議事録をもとに、議員の発言に着目しているが、必ずしも体系的に徹底的に行われているわけではない。本論分の中でも挙げられているように、戸籍制度を実施・変革する過程で、多くの、そして相矛盾するナショナル・アイデンティティにもとづく語法・論法が出てきた。本来であれば、それらの言説(対抗言説を含めて)を抽出・分析・解釈を行い、帰納的にナショナル・アイデンティティの再構成、および変化の分析を行うべきだろう。

 以上の問題点がさしあたり気になるところだが、これらをもとに違った角度から分析を行うには、まずは王と同様に資料を渉猟し、それらの言説を一から分析していくという骨の折れる作業が必要になるだろう(しかもその先に答えがあるか分からないのにもかかわらず)…。ひとまずは、資料の中から何らかの突破口になる手掛かりが見つかることを願う。