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Theda Skocpol "Bringing the State Back In: Strategies of Analysis in Current Research"

 今回はシーダ・スコッチポルらが編集した『国家を取り戻す』という論文集の序論(p.3-37)を簡単にまとめておきたいと思う。読み飛ばしてしまったのであまり読解できていないが、分かった箇所だけを簡単にまとめて次に読み直したときにすぐに内容を理解できるようにメモする程度にとどめておきたい。

 

Bringing the State Back In

Bringing the State Back In

  • 作者: Peter B. Evans,Dietrich Rueschemeyer,Theda Skocpol
  • 出版社/メーカー: Cambridge University Press
  • 発売日: 1985/09/13
  • メディア: ペーパーバック
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 この論文の主旨は、当時(1985年)社会科学においてあまり顧みられることがなかった「国家」の役割をもう一度再考しようというものである。スコッチポルいわく、1950~60年代の政治科学(political science)や社会学では、政治や政府、政策についての研究は「社会」を中心に据えるばかりで「国家」の役割を軽視してきた。つまり、国家は社会からのインプットにしたがって一定のアウトプットをする受動的な機関としてのみ考えられており、一つの重要な「アクター」と見なされてはいなかったのである(p.4)。

 だが、60年代以降にはネオマルクス主義が誕生し、国家を階級闘争の産物、また資本家階級の占有物としてみなす学問的派閥(つまり、資本主義的国家の社会経済的機能についての研究)が出てくる。さらに、70年代以降にはグローバル化が加速し、各国家が相互に絡みあうフェーズに突入し、いよいよ国家を一つのアクターとして捉え、国家間の関係を考察する研究(国際関係論)も普及していく(p.5-6)。以上の経緯から、国家の役割をもういちど経済や社会などの幅広い観点から再考する必要性が生じてきたのである。

 では、その際に注目すべき観点とは一体何だろうか。スコッチポルは国家の重要な役割として、①政策目標の達成を試みるアクターとしての国家の自律性(state autonomy)、②国家の潜在能力(capacities of states)、③内実としての国家のインパクトと政治の作用(impacts of states on the content and workings of politics)の三つに着目しなければならないと述べる(p.8)。さらに、スコッチポルは注意点として、この論文で行う提起はパーソンズ流の誇大理論を作ることではなく、あくまでも中範囲の問題提起と概念的なフレームワークを提供することであると念を押している。

 

 以上で挙げた「国家の自律性」をもう少し具体的に説明すると、それはすなわち国家が特定の社会集団に依拠することなく、アクターとして独自に稼働することを指す。また、「国家の潜在能力」とは、権力を有する社会集団や反発的な社会経済的状況に置かれてもなお、国家が公的な目標を達成する能力のことを指す(p.7)。

 以上の観点から、スコッチポルは具体的な経験的研究を引用している。しかし、ここではその具体的な内容を省略し、重要な部分を抽出すると、国家の自律性は統治システムにおける固定的・構造的特徴ではなく、流動的であるということである(p.14)。例えば、コーポラティズムによって市民の反感を上手く鎮圧した場合、国家の自律性は担保されるが、その協力体制が崩れれば逆に作用する(p.10)。また、市民的な行政(州政府など)と上手く折り合い、関連し合いながら国家の政策は作られていく(p.11)。したがって、国家が自律性を保てるかどうかは、常に不確実なアクター間の相互作用によって決定されるというわけである。

 では、国家が政策目標を達成する能力(capacities)は、いかにして説明することができるだろうか。もちろんその答えとして、統治体制や領土の軍事的管理の在り方などを真っ先に挙げることができるが、スコッチポルはそれ以外にも「国家の財源確保の方法」なども含まれると主張する。そうすることで、当該の国家の能力(国家の組織力、官僚の動員力、政治的支援の吸収力、企業への援助力、社会政策への出資力など)を把握することができるのである(p.16-7)。

 

 以上では、国家の内部にフォーカスして、その自律性と能力を分析する観点が主だったが、そのほかにも社会経済的環境と国家の関係を考察する研究も多くある(p.19-20)。つまり、国家をそのほかの非国家的アクター(例えば企業、資本家など)との「関係」の中から考察する立場である。非国家的アクターの国家への関与ではなく、世界的資本主義経済の相互依存・ネットワークを考察するアプローチもある(例えばウォーラーステイン)。つまり、「政策の実行は、国家が利用可能な政策手段だけでなく、重要な社会集団が提供する組織的な支援によっても形成される」のである(p.20)。

 また、政策や戦略を実行・形成するアクターとして国家を捉える見方以外にも、政治文化に影響を与え、政治的な集団形成や集団行動を促進し、特定の政治的イシューの提起を可能にする組織形態として国家を見るアプローチもある(スコッチポルはこれを「トクヴィル主義」とよぶ)。つまり、これは国家の活動や構造が、デモやアソシエーションなどの集団の形成や政治的能力、考え、社会の様々なセクターの需要に意図的・非意図的に影響を与える経路や方法に着目するのである。したがってこのアプローチはもっぱら社会運動などに焦点を当て、そういったプロテストがいかに国家の形態や特徴に依存して形成されるかを解明する。

 

 最後に、本稿で挙げられた主要な国家観をまとめると、一つ目の国家観は「社会的環境と関連して利用可能な国家の資源が、多かれ少なかれ効率よく国家役人に与えられていることを理解することで、役人集団が政治的目標を追求する組織として国家を捉える見方」であり、二つ目は「社会の全集団、階級が考える政治の意味や方法に影響を与える組織や行為の構造体として、よりマクロな視点で国家を捉える見方」である(p.28)。

 少々分かりにくい訳で申し訳ないが、要は前者のアプローチは国家官僚や政治的エリート、また市民の権力闘争の場として国家をとらえ、その闘争の過程と結果としていかなる政策が決定され、またそれがいかなる帰結をもたらすかを分析するものであり(国家を一つの「場」として見るという点でブルデュー的といえるだろうか?)、後者は国家の外部(国内企業や多国籍企業、市民団体など)も主要なアクターとして認め、彼らに政治的闘争の動機を与え、また彼らによって変革される可能性を秘めた組織として国家を捉え、それらの関係性をよりマクロな視点で分析するアプローチだと考えてよいだろう。