知識社会学に関する覚書き

 以下の本を読んだので、覚書をば。

 

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

 

 この本自体の学問的価値も計り知れないものだが、冒頭(p1-34)で「知識社会学」に関する方法論が提示されており、かなり参考になったのでここに記しておきたい。なので、この本の本論部分(これが数百ページに及ぶのだが)はここでは扱わない。

 

 本書は、「ボランティア」に関する言説を追っていくことで、そこにどのような磁場が発生しているのか、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのかを解明することを目的としている。そこで、本書で取られる分析方法は、それらの言説を「メタレベル」で観察するというものである。その際、メタレベルの言説分析とは、具体的に以下の二つのものを意味している。

 一つ目は、「言葉」と「社会」を素朴に二元対立的なものとして捉え、「ボランティア」について語ることがどういう社会・政治的文脈で行われ、どういう帰結とつながっているのかを考察するというものである。これを本書では「動員モデル」と呼んでいる。この動員モデルでは、ボランティアは国家や資本などの意図・要請にしたがって動員されていると考えられる。

 二つ目は、ボランティア言説において繰り返し現れるパターン(意味論形式)を抽出することである。これは、(a)動員モデルがボランティア言説に国家や資本の痕跡を見出していたが、ではそれがなぜそうなるのかを説明できないという批判と、また(b)動員モデルでは「ボランティア」の言葉の増殖は説明できても、その縮小は説明できないという批判から要請される手法である。

 本書では、一つ目の問題意識を引き受けつつ、それを批判的にとらえなおすために二つ目の手法を用いるという方法論を提示しているのである。

 

 では、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのだろうか。

 ボランティアをはじめとする参加型市民社会論の言説には、しばしば「善意」や「他者のため」という前提が内包されている。本書では、このように「他者のため」と外部から(当事者がそう思っていなくとも)解釈されるような行為の表象を「贈与」と呼ぶ。つまり、「他者のため」と解釈することが一般的に有意味になるような解釈図式・社会の「意味論(ゼマンティク)」の意味で「贈与」を導入する。ボランティアや市民社会概念の中には、この「贈与」が織り込まれており、ボランティア/市民社会言説の固有のメカニズムの動因となっている、というのが本書の仮説である。

 だが、当事者(特に積極的にボランティアに参加する人々)は、ボランティアは「一方的な贈与」ではないと反論するかもしれない。例えば、ボランティアは一方的に贈与するのではなく、参加者は「幸福感」や「やりがい」を感じることができる(互酬性)、といったように。しかし、そういった反論自体がボランティアに対する「贈与性」をある種認めていることを証明してしまっている。なぜなら、「贈与」と「交換」の関係は、実は後者が前者を内包するものだからである。これが「贈与のパラドックス」と著者が名付けるものである。贈与はそれが贈与だと当事者によって認識された時点で贈与ではなくなる。つまり、贈与は被贈与者、および社会からなにがしらを奪う形で反対贈与を獲得していると見られがちなのである。

 よって、本書が問題化するのは、近現代の「ボランティア」的なものの言説領域において、この「贈与のパラドックス」を解釈するための意味論形式(ボランティア言説に固有の作動形式)はどのように変化していったのか、つまり解釈ゲームの過程を考察しようというものなのだ。

 

 では具体的な方法論はいかなるものだろう。上で、その二つの手法として「動員モデル」と「意味論形式の分析」を挙げたが、著者が言うように、この方法論を掘り下げてさらに突き詰めると、「~でない」という形でしか表すことができない。どういうことか詳しく見ていこう。

 まず「動員モデル」では、上述のように「言説(コトバ)」と「実態(モノ)」を二元論的にとらえるが(社会的なイデオロギーや権力によって言説が生じる)、本書ではその考え方を否定し、また「ボランティア」とは何なのかを明確に定義することなく、ある時点に広く見出せる意味論形式/解釈枠組みに注目する点で動員モデルとは異なる。また、理念史や思想史のように言説の内容を規範的に追っていくというような研究方法ともまた違う。あくまで言説の形式それ自体を扱うスタンスを貫いている。

 また、フーコーに端を発する「言説分析」とも違う。佐藤俊樹ら(特に『言説分析の可能性』参照)が指摘するように、言説分析は言説や言表の最小単位を確定できないため、分析単位の確定可能性と全体性の実在を素朴に信じる社会学とは相いれない。また赤川学が主張するように、残存している資料をできるだけ網羅的に収集することで、言説の全体性を仮構することができるかもしれないが、本書では文書による資料以外にもインタビュー調査や広告ビラなども言説の内に含んでいるので全体性を措定することが限りなく難しい。

 さらに、社会的構築主義とも異なるスタンスを取る。社会的構築主義は「厳格派」と「コンテクスト派」の二つが存在する。前者は「実際の状態」の想定を厳密に排し、社会問題の「言語ゲーム」を記述することを目指す。後者は「実際の状態」を記述者から独立して存在することを想定して、「状態」に関する他の資料(統計など)を参照しながら、記述の妥当性について判断も行う。だが、本書は「贈与のパラドックス」を言説を整序する基準として分析枠組みの位置に置く点で構築主義ともまた異なるのである。

 そこで最後に筆者が行き着いたのが「知識社会学」という手法である。知識社会学は「マルクス主義こそが真のイデオロギーである」という理念のもとに作られた研究領域だとしばしば冷笑の対象にすらなるが、筆者によると知識社会学の祖であるマンハイム自身はそういったマルクス主義の特権化を反証するためにこの学を創設したのだという。つまり、マンハイム知識社会学に課した問題意識は、知識が存在に拘束されるあり方を、自らをも含めて没価値的に相互比較することで(相関主義)、全体性を把握することだったのである。

 筆者によると、知識社会学の要件とは①知識(言説)/社会の二重体の実在を前提にする、②社会が知識(言説)に影響を与えるという因果関係を措定・重視する、の二つである。筆者が本書の中で受け入れるのは①であり、②については立ち位置は微妙であるという。なぜなら、②を主張する動員モデルの検証も本書では行うからである。ゆえに、①を前提にしつつ、②を相対化させながらも延命させる点で、本書は知識社会学の範囲内にあると述べている(弱い知識社会学)。

 

 さらに本書ではこの流れでルーマンの「意味論」、「知識社会学」が言及されている。ルーマンは社会の意味論(ゼマンティク)の規定に関与するものを考察すること、言い換えればいくつかの意味規定が併存する状況で、ある区別が他の区別と比べて説得力を持って立ち現れる条件を考察することを「知識社会学」と呼んだ。これを「ボランティア」の事例に当てはめると、「贈与」がこの言説領域の「コード」であり、パラドックスの解決は原理的に不可能だが、何をもってそれが解決されたと「見なす」かについての基準(プログラム)が生み出されることになる。どの基準が立ち現れるかは時代ごとで異なるため、その展開過程を追うことが本書の知識社会学の課題であるといえる。

 

 以上、本書が(弱い)知識社会学へと方法論を規定していった論理的経緯、およびそれによって行き着いたルーマンの「意味論」など、なかなか興味深い考察が冒頭の30ページほどに詰まっている。個人的には「知識社会学」の手法は(オワコンといわれているが)まだまだ議論の余地のある研究分野だと思うので、こういった理論的考察はありがたい。

 知識(言説)を社会(科)学として学問的に探究するのであれば、本書が示したように「弱い知識社会学」として分析する以外に今のところ道がないように思う。その際に重要なのが、何らかの言説領域を規定している「コード」を的確に導き出すことである。本書では「ボランティア」という言説領域におけるコードとして「贈与」を置くことでその問題をクリアした。このコードを置く過程を無視したり、あるいは的確なコードを設定できなければ、ただ言説を網羅的に収集しただけで恣意的で非科学的な結果しか生まないように思われる。

 だが、やはり難しいのは言説を収集する範囲をどこまでに限定するのか、という問題が生じてしまうことである。言説はあらゆる場面で生成され、今こうやって記述していることでまた新たな言説が生成されている、というように収集しようと思えば無限に集まってしまうほど膨大なものである。そこから「何が分析の対象として望ましい言説なのか」を決めることは果たして科学的・論理的に可能であろうか、というかねてからの疑問がやはり払拭されないのである。この問題をクリアすることが、知識社会学を経験科学として社会学へと組み込むための第一条件であると考える。