田村哲樹『国家・政治・市民社会』

 今回は少し寄り道して、田村哲樹『国家・政治・市民社会ーークラウス・オッフェの政治理論』について。(おそらく絶版になっているので、アマゾンではかなり高騰している。名著なので、違う出版社からでもいいから復刊してほしい。)

 

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

 

 

 クラウス・オッフェは、ハーバーマスの弟子筋にあたるフランクフルト学派(本人はこの呼称に対して嫌悪感を示すらしいが)。問題関心は多くのフランクフルト学派の師匠たちと共有しており、おそらく最大の研究対象は「後期資本主義における国家と市民社会との関係」というところになるだろうか。本著では、そのオッフェの思想史的展開を、70年代から90年代後期ぐらいまでを追っていくという内容になっている。

 以下では、オッフェの具体的な思想や田村氏の読解の是非を吟味するということまではせず、できるだけ議論の整理までにとどめておきたい。そのため、記述もあいまいで漠然としたものにならざるを得ないが、ご了承いただきたい。

 

 まず、問題の根底にある「後期資本主義」とは一体何なのだろうか。マルクーゼやアドルノ、ホルクハイマーなどのフランクフルト学派第1代、ハーバーマスの第2世代の間では70年代以降、この「後期資本主義」というのが重要な研究テーマになってくるが、簡単に言い表すならば、それは従来の資本主義システムが瓦解し、国家(政治ー行政システム)が経済システム、および生活世界の領域に侵入してくるようになった資本主義である。ハーバーマスは、この後期資本主義の時代に入って、ます人々の日常生活の領域が政治システム、経済システムによって「植民地化」されると警鐘を鳴らしていた。

 また、本書でオッフェの政治理論を整理するための重要なワードとして「制御」と「作為」が挙げられる。ここでは「制御」とは(社会学的に言うならば)「構造」、「作為」とは「行為」のことを表すと解して問題ないだろう。つまり、オッフェの政治理論はギデンズやブルデューが試みたように、マクロとミクロの統合を目指すものだったというわけである。

 ただし、オッフェの場合は土台(下部構造!)としてマルクス主義から出発したというのが大きな思想上のバックボーンになっている。つまり、マルクス主義的国家論では、国家を資本家階級(支配階級)の占有物と見なして、それを糾弾するという理論的立場を取ることが多かったが、オッフェもその一端を継承しており(もともとフランクフルト学派マルクス主義から出発している)、国家の機能を「経済」の領域に限定して議論することが多いのである。それはのちに見ていくように、後期に至るまでオッフェの理論の限界であり、かつオリジナリティにもなっている。

 さて、以上の議論の前提から、本書はオッフェの理論展開の特徴を「国家の制御機能の社会への移行」と「社会の作為の契機の発露」の二つであると見ている。このエントリでは、その論理的帰結がどのようにもたらされたのか、以下で(断片的ではあるが)簡単に整理していこう。

 

 オッフェによると、後期資本主義社会は「政治ー行政システム」、「経済システム」、「規範(正統化)システム」の三つのサブシステムから成る。つまり、後期資本主義社会の危機はこの三つのサブシステムの相互作用によって生じると考えられる。具体的には、「財政的手段」、「行政の合理性」、「大衆忠誠」の三つの「制御リソース」の自己閉塞化が危機の現象形態として挙げられるだろう。だが、これではまだ政治ー行政システム内部での危機が見過ごされてしまうかもしれない。そこで政治ー行政システム自体の危機の見直しが図られるのである。

 オッフェは、国家による「制御」の要請は、資本によってではなく国家それ自体からなされると考える。しかし、国家による「制御」にも限界が存在する。①国家官僚制が従わなければならない複数の合理性の非統一性、②国家の政策形成における内部構造と要請される機能との不一致がそれである。よって、国家は「制御」の役割を担うことができない。国家が社会秩序を「制御」するには、社会の成員が納得できるだけの「正統的」な理由が必要である。しかし、それが崩壊し、国家による「制御」が「作為」の産物に代わるのである。

 だが、オッフェはそもそも国家は自らを正統化することはできないという。なぜなら、国家による正統化はその機能的な結果からしか根拠づけられないからである。だが、あたかも「自然」のように変化する政治や経済(市場)の動向の帰結を予想して、皆が納得のできるような何らかのアウトプットを提示するということは不可能である(残された手段があるとすれば「手続きによる正統化」[ルーマン]しかない)。したがって、国家(政治ー行政システム)から社会の領域への正統化問題の移行の必要が生じるのである。

 そしてオッフェが注目するのが、70-80年代以降に急速に台頭した「新しい社会運動」である。これらの運動は、「政治」=「国家という制度的空間の中で行われるのもの」という固定観念を打ち破り、社会の領域にも政治的空間を形成したと称賛する(政治の社会化/社会の政治化)。

 

  次に後期オッフェの理論を理解する手がかりとして、オッフェの「制度」論を確認しておきたい。

 オッフェは、制度には二つの大前提があるという。まず一つ目は①制度の「作為性」である。制度は不変的に所与のものとして存在するのではなく、(a)恣意的に誰かにデザインされ、作り変えられることもある。(b)またそれゆえにコンフリクトの当事者によるバイアスが介在せざるを得ないのである。そして二つ目が②自然のもののような長命ぶりである。上でデザインの作為性を指摘したが、かといってデザインによる制度変更は稀で、多くの場合、全体的な枠組みを保持したまま(再生産)、細部に限定して変化するのである。

 さらにオッフェは、この大前提をもとに、制度は①経路依存性、②超安定性、③負担軽減・エネルギー節約、の三つによって同一的再生産を行うという。具体的にいえば、①は、制度の存在によって行為主体の選好・規範意識を一定の方向へと「社会化」することを意味する(また、行為主体がその役割を適切に遂行している限り、その変更の必要性は喚起されない)。②は、制度が一定の柔軟性を持つことで(不具合に対応できることで)、結果として安定性を担保することができることを意味する。③は、制度の祖内によって社会の成員は過度な責任や紛争の発生から免れることができることを意味する。

 では、制度はどういった時に変化を迫られるのであろうか。それは、既存の制度が作動する原理(構造)とルールが、「自己モニタリング」によって省みられるときである。言い換えれば、それは現在の制度が数ある選択肢のうちの一つでしかないと理解されるとき(等価性機能主義)に制度変更の契機が表れるのである。そして、この制度変更を行うのが、ほかならぬ「行為主体」なのである。

 また、制度は「二重性」を有している。つまり、一方で「社会的規範志向の行為」、他方で「目的合理的ないしは戦略的行為」の両方の間に位置し、両者を結び付ける特徴である。つまり、制度は特定の社会にとって望ましいとされる規範を人々に供給する機能と、行為主体の目的合理的・戦略的行為によって変更を迫られる機能の二つを持っているというわけである。しかし、後者の戦略的行為は個人によって勝手気ままに行われるわけではなく、「認識的・道徳的リソース」つまり当該社会において流通している認識や道徳的規範やルールにある程度沿った「社会相互的」な手順を踏むことを強いられるのである。

 だが、集団の成員がそれぞれ「目的合理的・戦略的」に行動することで、集団全体で見るとかえって「非合理的」な結果が生じてしまうことが必ず起こる(合理的選択のジレンマ・フリーライダー問題)。そうなると、「集団の構成員をその集合的利益にしたがって行為するほどに、非合理的に行為させるもの」は何なのだろうか。オッフェは、その答えを「規範的意向」(信頼・相互性・共感・公正の感覚)などを生じさせる「集合的アイデンティティ」に見出す。この「集合的アイデンティティ」が、国民国家の枠組みに設定され、「国民性」を帯びることで「福祉国家」が成立するし、逆にこれがより小さな共同体(例えば、納税者、専門家集団、文化的共同体など)に限定されることで、福祉国家の支持は「非合理的」と解釈される。これによって、個人はそれぞれにとって利益となる政策を支持するが、それ以外には消極的になるために福祉国家は衰退するのである。したがって、オッフェは市民社会におけるこの「認識・道徳的リソース」を重視するのである。

 

 さらに、後期オッフェは、新自由主義的な政策の分析を行うようになる。例えば、イギリスのサッチャリズムがもたらしたものとして、もっぱらその経済的な側面(国家の介入・仕事領域を減少することで財政を健全化したいという意図)が注目されていたが、オッフェはそれだけではなく、政治的な側面を注目するべきであると主張する。例えば、サッチャー政権の住宅事業の民間化政策は、下層・中間階級の利益政治的な分極化をもたらし、社会的な連帯の希薄化につながった。これは、集合的利益を国家に請求し、妥当なものとする媒介的な公共的機能の担い手を無能化する手段である。すなわち、サッチャーに代表される新自由主義は、市民社会や社会的なアソシエーション内部の連帯の脱組織化を図るものであるといえるのだ。

 

 さらに後期オッフェは、ルーマンの社会システム理論の潮流を受けて、システム理論的国家理論をも受容していった。本書では、ルーマンの社会システム理論を国家に適用したヴィルケの理論を参照している。ヴィルケは、ヘーゲルからウェーバーに至る国家を特権化してきた見方とは決別し、国家は社会のヒエラルキーの頂点に位置しているわけではないと主張する。むしろ、近代以降の社会は「脱中心化」した独自の「機能分化」したサブシステムから成る全体的な社会システムであると捉える。そしてこの諸システムはそれぞれの内部の論理に準拠して作動しているのである(オートポイエーシス)。

 簡略化するならば、諸システムは①高度に分化しているため、自らが有していない機能を果たす他のシステムに相互依存しつつ、②自己準拠しているため、作動上の閉鎖性・独立性も増す、という矛盾した二つの特徴・問題点を持っている。よって、この二つを両立させるために新たな「制御」が必要になるのである。

 では、この制御原理、およびその変更はいかにして可能か。このような変化が自然発生的なものではないとすれば、何らかの行為主体(担い手)が必要ではないか、という疑問が生じる。ヴィルケの場合、その答えは「脱中心的な制御」だったが、オッフェの場合は、「合理的な選択をする個々の行為主体」ということになる。ここまでは前回も説明した通りだが、後期オッフェはシステム理論を経由したことで、従来とは異なる論理的帰結を導き出す。

 それぞれが合理的にふるまうことで、全体として非合理的な結果をもたらすという問題が浮上すると上でも挙げたが、オッフェは、それは未来に対しての「責任倫理に導かれた市民の公共精神」(自分の行動選択が未来にどういう結果を及ぼすかの自覚意識)と「それを可能にする自己制約」の二つによって解決できると答える。かといって、これは問題の解決を個人に帰すものではなく、「制度」によって育てられる。つまり、制度の社会化機能によって、「制御」を主体的に行うための責任倫理が養成されるのである。そして、この「制度」的条件を供給する集団とは、具体的に市民社会の諸アソシエーション(労働組合、新しい社会運動など)である。ここまでいうと、パットナムの「社会関係資本論」との区別がつきづらいが、パットナムが市民社会の紐帯を非政治的な部分に求めたのに対し、オッフェはいまだに政治的な部分に見出していた点で両者は異なるといえるだろう。

 また、オッフェは「制御」の再定義に、国家も介入すべきであると主張する。ここは、(生活世界としての)市民社会は(政治/経済システムから)「自律的」であらねばならないと規範的に主張したハーバーマスと異なる点である。しかし、オッフェが言うように国家の介入が許されるは、それが「民主的」な国家であることが前提であることは注意が必要である。つまり、後期オッフェは、「強い国家」と「強い社会」の再構築を目指したといえる(両者は対立しているわけではなく、相互依存的)。

 

 

 以上のオッフェの国家ー社会関係の変容論に対して、あえて現在の視座から反論を投げかけるとすれば、以下のようなものが想定できる。

 第一に、オッフェの理論はあまりにも市民社会、とりわけアソシエーション関係を過大評価しているのではないかという点である。本書で追っているのは90年代までのオッフェの理論であり、また本書が出版されたのは2002年である。現在の目線から見れば、「市民社会の理性」や「理性的な個人による選択」というのは、果たして本当に可能なのだろうかという疑問が湧かざるを得ない。つまり、オッフェの議論はあまりに規範的に過ぎるのではないかということである。

 第二に、国家がより新自由主義化(国家行政の役割の減退)していくことで、かえって市民社会を「活性化」させ(正確に言えば市民社会を能動的に活性化するように仕向け)、「自己責任」の理念のもと役割を放棄することもあり得るのではないか、という点である。そして、そこには初期オッフェが問題化し、後期にそれを克服した(かのように見える)、国家の「財政危機」というより経済的な問題が大きな要因として絡んでいるのではないだろうか。

 以上の点は検討に値するだろう。