Rogers Brubaker "Beyond 'identity'"

 今回はロジャース・ブルーベイカーの論文、"Beyond 'identity'"についてである。下記リンクでダウンロード可能。

https://www.sscnet.ucla.edu/soc/faculty/brubaker/Publications/18_Beyond_Identity.pdf

 

 既刊翻訳である『グローバル化する世界と「帰属の政治」』の中で、ある程度ブルーベイカーの主要論文は取り上げられているが、この論文は少し言及されているだけで未翻訳だったのでとりあえず目を通してみた。大まかな主張は『グローバル化~』の中で言及されているとおりであるが、よりそれを具体的に把握するために以下で少し整理しておきたい。

 

 この論文は、タイトルにある通り「アイデンティティ」という用語を越えること、つまりすでに手垢がついたこの語に代わって新たな分析概念を提示することを目的としている。

 この新たな分析概念となるのは、以前ブログでも散々書いたように「カテゴリー」であったり、「自己理解」であったりするのだが(これについてはのちに詳述)、まずはなぜこの「アイデンティティ」を使用することをブルーベイカーが拒否するのかを簡単に説明しよう。

 ブルーベイカーによれば、「アイデンティティ」という言葉には「強い strong」意味と「弱い weak」意味、そしてその意味が「曖昧 ambiguity」に定義されたものとが存在する(p.1, 10-11)。強い意味でとらえられる場合、アイデンティティはパトス(情念)を湧きあがらせるような「自己」の根拠に用いられ、弱い意味あるいは曖昧な意味で使われる場合、それは(本質主義がしばしば用いるように)全くの有名無実化したものとして否定的にとらえられるか、ブラックボックス化した便利な言葉として用いられる。いずれの立場にせよ、「アイデンティティ」はすでにその言葉を使う研究者や当事者の立場によって、いいように解釈される概念になってしまっているのである。

 そもそも社会科学において「アイデンティティ」という言葉がここまで氾濫したのはなぜだろうか。ブルーベイカーは、その起源をフロイトエリクソンなどの心理学的な系譜に見出し、それが後にゴードン・オルポートの1954年に刊行された有名な著作『The Nature of Prejudice』によってエスニシティの研究にも流入し、社会学ではマートンやゴフマン、そしてピーター・バーガーによって援用されていったと述べている。

 そして1960年代に入って、主に米国における公民権運動やヒッピー文化の隆盛の中でこの言葉はさらに波及していくことになり、「アイデンティティ・ポリティクス」なる言葉も誕生した。そして今では多くの社会科学における文献の中で見出されるようになっている。

 

 では、現在社会科学の文献の中で「アイデンティティ」はどんな用法で使われているのだろうか。ブルーベイカーは、それを以下の五つに分類する。

1.社会的・政治的行為における非道具主義的(non-instrumental)な側面を強調する際に、「利害関心 interest」と対置するものとして用いる

2.特定の集団的な現象を扱う際に、集団の根本的な「同質性 sameness」を意味するものとして用いる

3.「自我」などの人間の根源的なものを表す際に、深く、基礎的な、不変のものとして用いる

4.社会・政治活動の生産を理解する際に、集団行動を可能にする集団的な自己理解(self-understanding)や連帯、集団性(groupness)の手続き的・相関的な発展を強調するものとして用いる

5.不安定で複合的・可変的・断片的な、現代における「自己」の本質を表すために用いる

(p.6-8)

  以上を見てみると分かるように、「アイデンティティ」の用法にはかなりの開きがある。ここから恣意的に用法を策定して分析に用いても、前提となる定義づけの時点で研究者の間で齟齬が生じるのは必至である。

 

 そこでブルーベイカーは「アイデンティティ」という用語を使う代わりに、いくつかの独自の概念を提示している。以下、それをいくつか紹介しよう。

 まず一つ目は、「同定化 identification」と「カテゴリー化 categorization」である。この二つの用語の特徴は、"identity"のように固定的なものとして人間の自己-他者認識を捉えるのではなく、より流動的な状況・文脈依存的なものとしてそれを捉えている点である。つまり、この用語を使うことで、自他を何らかのカテゴリーへと押しはめる「過程」が問題関心の中心となるのである。そのため、ブルーベイカーの認識では、人間は確固とした自己を持っているわけではなく、網の目のような関係性の中に位置する(relational)、あるいは何らかのカテゴリー的なメンバーシップに帰属を求める(categorical)、ある種の「管」のようなものなのだといえる。またその際、自らをアイデンティファイする方法は能動的に行われる場合もあれば、他者(小さな個人であったり、また国家などの大きな組織である場合もある)によって行われる場合もあることも注意しなければならない。

 二つ目は、「自己理解 self-understanding」と「社会的位置 social location」である。「自己理解」や「社会的位置」という言葉は「アイデンティティ」と比べて、社会的に変動する「主観性」を示唆している。つまり、人々は普遍的な「自己」を持っているわけではなく、上に挙げた「同定化」や「カテゴリー化」の過程において、現時点における「自分」を理解・経験することができるのである。ただし、「自己理解」という言葉を使うことの弊害もある(p.18-9)。例えば、この言葉を使うと、当事者の主観的な理解を重視しすぎて他者からの理解を扱うことができなくなる。次に、認知的な意識を特権化してしまうことにもなりかねない。最後に、「アイデンティティ」という言葉によって表されていた客観性を確保することができない。つまり、強い意味でのアイデンティティの概念を用いた研究は、「本当の true」アイデンティティと「単なる mere」自己理解を区別していたが、自己理解のみに焦点を当てるブルーベイカーの用法ではあまりにも主観的に過ぎるのではないかという懸念があるのだ。

 三つ目は、「共通性 commonality」、「結びつき connectedness」、「集団性 groupness」である。以上で挙げた二つの分析装置は、いわば個人が自己を分類する方法を分析するためのものであるが、この三つ目の分析装置はそのように自己を分類・理解した個人同士がいかに他者と結びつき、集団へと凝集していくのかを分析する際に用いられるものである。例えば、ネーションの結びつきは相互のネットワーク以上に、原初的で時には狂信的ともいえる感情的な愛着によってなされる。そのように集団への帰属感情を喚起するものは、特有の歴史的な出来事、公共のナラティブ、言説フレームなど様々考えられるが、それらを具体的に考察するためにこの概念装置が用いられるのである。

 

 そして論文の後半でブルーベイカーは、実際に以上で挙げた概念を三つのケーススタディ(ヌエル族の家族形態、東欧のナショナリズム、米国の「人種」をめぐるアイデンティティの議論)に適用して分析を行っている。

 さらに最後に、ブルーベイカーは留保として、分析概念としての「アイデンティティ」の使用を控えるべきだと言っているだけで、当事者からもそれを奪い去ろうとしているわけではないことを付け加えている。これは「分析のカテゴリー」と「実践のカテゴリー」を区別する彼のスタンスからすれば当然のことであるが、社会分析における「アイデンティティ」の使用に異議を唱えるのは、(例えば社会的マイノリティなどの)「特殊性 particularity」に目を背けるためではなく、むしろ特定の愛着や結びつきなどから生じる申し立てや可能性に光を当てるためであることを強調している(p.36)。最後の最後でこういった留保を必要とすることからも、いかに「アイデンティティ」という言葉がすでに人口に膾炙し、かつ政治性を帯びているかを痛感せざるをえない。