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友枝敏雄「言説分析と社会学」

 もう一つ、同じ『言説分析の可能性』の中に収められた友枝敏雄「言説分析と社会学」という論稿をまとめる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  「言説分析」についての言及は先のブログに詳しく書いているのでいいとして、本論稿は言説分析と特に(知識社会学ではなく)社会学との関係について述べられていて興味深かった。友枝はこの中で言説分析がいかに、従来の社会学理論から乖離しているかを考察している。特に重要なのは、第三節の「社会学における理論構成」という個所で、そのなかで社会学理論の基本構成が分かりやすかったので書き留める(最近出た『社会学の力』という入門書の中でも少し言及されている。これは社会学の入門書の中ではかなりの良本)。

 

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

 

  まず、社会学の(広義の)理論には大きく分けて二つのものがある。一つは狭義の「理論」であり、もう一つは「メタ理論」である。前者は社会事象を説明・検証する理論である。これによって仮説を検証し、経験的命題として確定することができる(例えば「市民社会」や「恥の文化」の概念など)。後者は理論の理論であり、複数の理論を統合する形での理論である。例えば、パーソンズの一般システム理論などがこれにあたる。理論が社会事象を説明するものであるのに対し、メタ理論は必ずしも社会事象を説明するものでなくともよい点に大きな違いが存在する。

 さらに狭義の理論の中には、「純粋理論」と「規範理論」の二つが含まれている。一般に社会学研究の目的は、①社会事象の「記述」、②社会事象の因果関係もしくはメカニズムの「説明」、③現実の社会に存在する規範、制度、秩序の有効性や正当性を検討し、社会事象に対する政策的判断や価値判断を下すこと(「当為」)の三つに分けられるが、①、②の目的に重点を置くのが純粋理論で、③に置くのが規範理論である。ウェーバーがいうように、あらゆる科学者は価値判断からは自由であり得ない点でこの区別は無意味にも見えるが、多くの研究者はひとまず両者を区別して研究に取り組んでいる。

 

 さて、理論の構築には、「概念構成」と「命題構成」という二つの作業を要する。前者はある事象を説明するために必要な概念を選び出し、その概念を定義することであり、その概念が複数ある場合は概念間の関係性(上位-下位)を示すことである(例えば、ウェーバーは「行為の四類型」を使って、類型間の移行として現実の社会の動きを描いた)。反対に後者は、概念間の関係がある概念(説明項)がある概念(被説明項)を説明するという関係になっているときに、両者の関係を定式化することである(デュルケムの『自殺論』における「集団の凝集力が弱いと自殺率が伸びる」など)。

 また、概念構成と命題構成からなる理論構成の作業の根底にあるのが、「領域仮説」または「大前提」と呼ばれるものである。例えば、ウェーバーは近代資本主義の発展を論じる際に、暗黙の裡に「前近代」と「近代」を区別している。また、ハーバーマスはコミュニケーション的行為を論じる際に、前提として人々はコミュニケーションによって合意に達することを規定している。これが「領域仮説」である。

 

 以上の議論を整理すれば、社会学理論の位相は以下のようになる。

1.領域仮説もしくは大前提

2.①概念構成および②命題構成からなる純粋理論

3.規範理論

(p.244)

  従来の社会学理論はその誕生の時からして、前提として自然科学により近づこうとして、研究対象もしくは分析の単位(例えば人間の「行為」など)を確定することができ、この確定された対象を分析することで純粋理論を構築できると考えてきた。しかし、言説分析はソシュール以来の「言語論的転回」に依拠しているため、その考え方を否定し、実在があってそれに意味が与えられるのではなく、意味が与えられて初めて実在が切り分けられ、存在はじめる、と考える。

 よって友枝によれば、その誕生の由来からして言説分析は構築主義と親和性が高い。それゆえ、構築主義がそうであるように、言説分析も極限的には完全な相対主義にならざるを得なくなり、科学が守るべき客観性や普遍性といったものをどうやって担保するのかという問題がやはり首をもたげてくるのである。

 極論すれば、言説分析は「言説空間こそが社会事象そのものであるから、言説空間の外にいかなる社会的事象も成立しない」というスタンスを取る。友枝は、言説分析には「ハード(厳密)なもの」と「ソフト(ゆるやか)なもの」との二つがあると述べる。前者は「言説分析においては、社会的存在についての考察は言説を通して行うべきである」とする、よりラディカルな立場であり、これはいわば「言説一元論」ともいえる。対して後者は、「言説空間とともに社会空間も存在する」として、言説と社会階層、社会集団、社会構造などとの関係の説明を試みる立場である。

 後者は厳密に言えば、もはや知識社会学のスタンスと何ら変わらないため、言説分析が独自の領域として確立するためには、原理的に「ハードなもの」の立場を取らなければならなくなる。だが、その立場を取れば途端に言説分析は(社会を探求する学としての)社会学とは根本的に相いれないものとなってしまう。友枝の考えでは、言説分析はそもそも社会学の一研究領域にはなりえないものなのである。

 

 言説分析を厳密に考えれば友枝の主張の通りになるだろうが、例えば前回のブログに挙げたように言説分析では言説の背後に「権力」の存在を認めていた。この権力をどう定義するかにもよるが、もしそれを社会的に構築されるもの、社会の何らかのアクターによって創出したものとして描くのであれば、以上の友枝が示した理論上のアポリアも解決しそうではある。だが、そうなってくると、また知識社会学との差異化が難しくなってくる。やはり、言説分析を社会学の研究領域として確立するのは難しいのだろうか。