楽楽風塵

ナショナリズム 移民 台湾 映画と読書

橋爪大三郎「知識社会学と言説分析」

 今回は、知識社会学と言説分析の関係性についてメモしておきたい。

 参照する文献は以下のもの。なかなか凝りに凝ったレトリックまみれの難渋する論稿ばかりだが(フランス現代思想を迂回した研究者にありがちである)、その中でも比較的わかりやすく、きれいにまとまった論稿として、橋爪大三郎知識社会学と言説分析」を取り上げる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  

 この論稿は、カール・マンハイムを創始とする知識社会学ミシェル・フーコーを創始とする言説分析の共通点と相違点、そして両者が陥っている問題点を明らかにする。私自身、この二つの研究アプローチの違いがよくわからなかったし、学部の卒業論文では「言説」という言葉を何の気なしに、単なる「ある人によって語られた言葉の集積」ぐらいのニュアンスでしか捉えていなかったが、この論稿を読んでなんとなくだがその差異を認識することができた。

 マルクス主義の影響下で誕生した知識社会学のキーワードは「イデオロギー」である。イデオロギーは人それぞれで異なるが、マルクス主義においては唯一「真理」とされるイデオロギーは労働者階級のそれである。そして特に虚偽のイデオロギーとしてやり玉に挙げられるのは、労働者階級を搾取するブルジョア階級のイデオロギーである。

 また、マルクス主義においては人々のイデオロギー、および知識の体系を規定するのはその人が置かれている社会的な環境(階級や身分など)である。しかし、ブルジョア階級が優位にある社会では、そのイデオロギーが支配的であるため労働者はそれが虚偽であることを自覚できずにいる。そのため、労働者階級を「正しい」イデオロギーへと誘導するために労働者階級のリーダーによって結成される共産党の指導が不可欠なのである。

 イデオロギーには三つの特徴がある。一つ目は、それが包括的な知識、つまり知識の体系である点イデオロギーは自然科学、人文社会科学のすべてを貫く包括的な知のシステムである。二つ目は、イデオロギーは観念の在り方であって、言語そのものではない点。イデオロギーは言語を媒介とせざるを得ないが、その本質は観念そのものなのである。三つ目は、イデオロギーは他のイデオロギーと対立し、自分の方が優位であることを競う点。

 イデオロギーは、社会活動の全体を覆いつくし、人びとの認識を支配し、社会を現状のままに機能させる。どんなイデオロギーも、みずからを真理であると考える。それが虚偽だと批判されるのは、異なるイデオロギーとのイデオロギー闘争が生じた場合である。(p.188)

  

 以上がイデオロギーの性質だが、ではそんなイデオロギーを研究する知識社会学とはどんなものなのだろうか。その進むべき可能性としては以下の二つが考えられる。

 まず第一に、大前提として知識社会学マルクス主義の主張を全面的に承認すること。より厳密に言えば、マルクス主義が主張するブルジョアイデオロギーは虚偽であり、マルクス主義が唯一「真理」であるという主張を受け入れるということである。

 第二に、科学としての「社会学」の自律性を担保し、親であるマルクス主義もまたそのほかのイデオロギーと同様に批判の対象にする可能性である。厳密にこの道を区分すると、そこにはさらに三つの立場が存在する。

 一つ目は、知識社会学それ自体も他の知識同様に、単なる知識に過ぎない(つまりメタ知識でない)と認めること。そうすると知識社会学によって導き出されるテーゼも単なる非特権的なイデオロギーの一つに過ぎないことになってしまうため、完全なる相対主義に陥ってしまう。二つ目は、知識社会学がメタ知識であることに固執し、マルクス主義の優位を否認すること。そうすると知識社会学の優位は担保できるが、それが本当に知識(イデオロギー)を正しく認識できているのかが分からなくなる。三つ目は、「真理」の枠組みを放棄し、現実が意識を規定するというイデオロギーの基本テーゼすらも放棄すること。そうすると、知識は現実世界との対応を失って、どうとでも解釈されうる胡散臭いものになってしまう。

 以上のように、知識社会学はどの方向に進んでも深刻なアポリアに直面するという、いわばじり貧状態である。

知識社会学それ自身も、知識である。知識社会学が、知識を分析・研究する一般的な方法であると自己主張しようとすると、それは、知識が知識を正当化しようとする、自己言及のかたちになる。これは、解けない課題であり、正当化しがたい。(p.190) 

  マルクス主義から誕生した知識社会学は、またマルクス主義によって殺されたといっても過言ではないだろう。

 

 では、反対に言説分析はどうだろうか。

 知識社会学のキーワードが「イデオロギー」だとすれば、言説分析におけるキーワードはいわずもがな「言説」である。「言説」(discourse)は「言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である」(p.191)。言語の最も小さな単位を「言表」(エノンセ)と言い(これは社会学での最小単位である「行為」に相当する)、それらの言表が集まってできた集合体、ある時代・ある場所(社会)を満たしている言語的な活動の全体を「集蔵庫」(アーカイブ)と言う。つまり、言説はこの言表と集蔵庫の間に位置する何らかの秩序を持った言表の集合なのである。

 では、言説分析の研究アプローチの特徴はいかなるものだろうか。

 第一に、言説分析は知識社会学のように「真理」の対応説を取らない。すなわち、言語と現実世界との二元論を拒否し、むしろ現実世界の観念もまた言説によって構成されると考えるため、「真理」それ自体も言説のシステム内で構成されると考えるのである。第二に、主/客図式を取らない。言説は多数の人々によって構成される間主観的なものであり、言説の外側にそれが対応する現実世界(客観)が存在するとは考えないため、言説分析は言説の一次元的な空間の中で、言語によって言説を再編成する作業なのである。第三に、言説分析は言語でないものの作用を実証する方法論である。フーコーはこの作用のことを「権力」とあらわしたが、いわば言説分析は言説だけを扱いながら、その背後に様々な権力の効果を見出していく。そしてそこからある場所・ある地点に特有な権力の作用を具体的に実証していくのである。よって、言説分析では「主体」や「真理」すらも言説の結果として生じたものであると考える。つまり、権力が言説を編成し、その結果として主体や真理が生み出されるのである(詳しくはフーコーの一連の研究を参照)。

 

 以上が言説分析の基本的なスタンスであるが、では言説分析の問題点はどこにあるのだろうか。

 第一に、言説分析それ自体も「言説」の形で語られること。つまり、言説分析それ自体も再び言説分析の対象になりえるのである。そのため、言説分析はあらゆる言説の背後に権力が働いていると想定するが、そうすると言説分析それ自体の背後にも権力の存在を認めることになる。しかし、現に働いている権力を、言説分析は解明することはできない。これが言説分析の第一の限界である。

 第二に、言説分析は「理論」を持つことができない。つまり、どのような言説の配置・偏りが見つかり、そこからどのような作用が検出されるかは研究を進めてみるまでは分からない。また、ある言説分析がある結果を導いたとしてそれが他の言説分析に適用できるかは分からない。あくまでも言説分析は「方法」であって、(演繹的に仮説を導く)「理論」にはなりえないのである。

 第三に、言説分析は言説が「どのように」、また「なぜ」変化していくのかを規定できない。言説分析は、権力の作用によって言説の偏りが生じたことを証明できても、なぜ/どのようにして権力がそのように作用するのかを述べたり、予測することはできないのである。

 最後に、以上の点とも関連しているが、言説分析は容易に通俗化する。明確な理論を持たないということは、無制限に考察の対象が広がることを意味する。つまり、そこらへんの対象物にまつわる言説をピックアップして分析を行えば(例えば「切手」に関する言説、「紅茶」にまつわる言説などなど)、それは立派な「言説分析」であり、そこに権力の作用を見出せば、検証を終了となるのである。

 

 橋爪によれば、言説分析が1980年代以降に急速に流行したのは、冷戦以降の時宜にかなっていた。それまでの明確な知の基盤が揺らいだ中で、それを無視して研究を進めることができる言説分析が研究者の目に留まったのである。

 そして橋爪は言説分析の研究の重要性を認めつつ、それを克服する新たなパースペクティブとしてウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」を応用することを提唱している。ここでは、これについては詳述しないが、橋爪の問題意識を要約すれば、言説分析の問題点を克服するにはもう一度「言語」と「行為」を媒介する何かを見つける必要があるということだろう。

 言説分析では言説を規定するものをすべて「権力」という言葉で片づけてしまっていたため、権力それ自体がブラックボックス化、ないしは悪魔化してしまう傾向にあった。その代わりに、言説の外側には、人々の「規則」に従った行為(ふるまい)があり、歴史的な偶然・必然によって築かれた「制度」があると考えることで、その内実をも考察の対象にすることができるのである。

 橋爪はウィトゲンシュタインにその可能性を見出したが、個人的には「規則」や「制度」を提供するものであれば、かならずしも「言語」である必要はないのではないかとも思う。人々に行為のルールや資源を与えるのは、言語だけでなく、例えば人為的構築物としての「制度」(法律、慣習、文化などなど)もまた検証の対象になりうるのではないだろうか。