ロジャース・ブルーベイカーの「認知的視座」について

 以前、ブログにちょろっと書いたブルーベイカーの「認知的視座」についてのメモを今回は整理のため、より詳細に書いておきたい。

 前回のブログ(

http://blog.hatena.ne.jp/cnmthelimit/cnmthelimit.hatenablog.com/edit?entry=8599973812299186816)ではナショナリズムエスニシティ・人種研究にかかわる「本質主義vs構築主義」の対立軸を折衷する理論、という文脈で後半に少し紹介する程度だったが、今回はブルーベイカーの最近の翻訳などを読んでみて、さらに思考がクリアになったので忘れないうちにここに記しておく。また、以下はこれまでのブログ記事と重複する部分が多くあるが、あくまでも個人的な思考整理のためなのでご了承ください。

 

 ブルーベイカーの著作は、邦訳のものとしては『フランスとドイツの国籍とネーション』と『グローバル化する世界と「帰属の政治」ーー移民・シティズンシップ・国民国家』の二冊がある。以前ブログに書いた通り、前者の中で取り上げられた「文化イディオム」などのキータームが、後者の方でより精緻化されて体系化されている。

 

 

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

 

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

 

 

 だが、『グローバル化~』はブルーベイカーの短い論文を集めた本なので、この本を一冊読んだだけで彼の思考回路を追うのは難しいため、前回同様、ここではブルーベイカーの一連の仕事を丁寧にまとめている佐藤成基の『カテゴリーとしての人種、エスニシティ、ネーションーーロジャース・ブルーベイカーの認知的アプローチについて』という論文をもとに整理していく。(

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/13318/1/64-1sato.pdf

 

 まず、ブルーベイカーは『フランスとドイツの~』で、シーダ・スコッチポルが用いた「文化イディオム」という概念を援用していたが、それは後年「カテゴリー」という言葉で置き換えられている。これは特定のネーション(ここでは議論をネーションだけに絞る)を語る際の「型」のようなものだと理解してもらえればいいと思う。つまり、ネーションなどの集団が実際に存在しているわけではなく、ただ単にそれらの名を冠して(つまり、これらのカテゴリーを用いて)行われる社会的・政治的な実践が存在するだけだというわけである。

 ブルーベイカーは以上の定義を大前提に、研究の対象を設定している。すなわち、このようなカテゴリーが用いられる実践の場(そのカテゴリーがどのようにして用いられ、人々に受け入れられ、または拒絶されるのか)が、主としてブルーベイカーの研究対象・フィールドになる。

 だが、ここで一つ疑問が生じる。この「集団なきネーション」という考え方は、いわゆる「構築主義的アプローチ」の考え方の焼き直しにすぎないのではないか、という点である。だが、ブルーベイカーはこの反論にこう返す。80年代以降に大量に生産されたナショナリズムの古典、とりわけ画期的著作B・アンダーソンの『想像の共同体』などを起源に流行した「構築主義」的な考え方は、あまりに「正しすぎて」次なる議論に発展する余地をすっかり削いでしまった、と。つまり、「ネーションは構築されたものである」という結論を出すことに力を注いでしまい、「なぜ、あるいはどのようにネーションは構築されるのか」、「構築されたものにすぎないネーションがなぜ人々をこれほど狂信的なまでに動員するのか」といった疑問への回答の試みがいまだになされていないである。

 要は、「構築主義」的アプローチは「エリート的バイアス」でネーションを捉えてしまっており、確かに「分析者の本質主義」は乗り越えたかもしれないが、当事者の「本質主義」、「集団主義」(groupism)をすっかり無視してしまっているのである。また、「ネーションは構築されたものである」という結論を出してしまっている時点で、構築主義もネーションという集団を実体的なものとする「集団主義」に陥ってしまっていることも否めない。いわば、ブルーベイカーの問題関心は、従来のナショナリズム研究における「構築主義の氾濫」と「本質主義への軽視」という二つの問題をいかに克服し、両者を架橋するか、という点にあるといえる。

 

 では、以上の認知的視座の具体的な研究のアプローチはどういったものなのだろうか。ブルーベイカーは自らのアプローチを「上からのアプローチ」と「下からのアプローチ」の二つに整理している。

 「上からのアプローチ」は、公式のカテゴリー化(主に国家によって特定のカテゴリーがどのように喧伝され、固定化されていったのか)の過程を解明する。ブルデューは、国家ないし大規模な制度・組織が「象徴権力」(人々に世界の「視界と区分 vision and  division」を強いる権力)を用いて集団を創出すると述べたが、それをここでは援用し、制度や組織の決め事がいかに一般の人々の自己理解に影響を与えるかを解明するアプローチである。

 「下からのアプローチ」は、インフォーマルな日常生活の中での実践に着目する。その中で人々が他者との相互行為をするため、自他の行動や存在の意味を提供し、感情的連帯・価値判断の根拠としてネーションのカテゴリーがいかに用いられるのか、を解明する。エスノメソドロジーが明らかにするように、それらのカテゴリーは日々の実践の中で成し遂げられていくもので、ある場所、ある時、生活を構成する相互行為の営みとして言明/拒否、提示/無視されるものなのである。

 

 以上で挙げたのは「カテゴリー化」を研究するアプローチだが、ここまでは社会学の研究の蓄積の中で取り扱ってきたテーマとも関係するものである。だが、ブルーベイカーはその議論をさらに一歩進める。いわく、人間はカテゴリーだけで世界を認識しているわけではない(それだけでは世界は無味乾燥でつまらないものになってしまう)。すなわち、カテゴリー化にくわえ、人は「図式」(schema)という認識の道具を用いる。カテゴリーが経験や出来事を「分類」するだけのものにすぎないのに対し、図式はそれらの経験や出来事を関連づけ、世界を「筋書き」、すなわちストーリーに沿って(つまり無数の出来事を因果的に結び付けることで)解釈することを可能にするものである。

 そしてブルーベイカーはこの図式化の例として以下の二つを挙げている。一つは「人種プロファイリング」である。例えば、「黒人は黒人であるという人種的理由だけで、白人警官から尋問されるものである」という「筋書き」が存在する国で、実際は人種にかかわる理由ではなく、単純に犯罪的行為が理由であったにもかかわらず、その筋書きにしたがって黒人は嫌悪感を抱いたり、反発を起こしたりすることがある。これは、つまり経験や出来事が「人種化」されるということである。

 もう一つは、「エスニック競合の図式」である。例えば、「同一の労働市場においては人種集団、あるいはエスニック集団は互いに職を奪い合うものである」という筋書きにもとづいて、実際の失業の原因はマクロな経済状況の悪化や会社経営の問題など様々あるにもかかわらず、「奴らに職を奪われた」と理解される場面は多々存在するだろう(昨今の先進諸国における排外主義の台頭など)。

 いずれの事例も事実誤認の場合が多いが、人々はそのような理解の仕方によって(カテゴリー化→図式化)、最小の労力で最大限の情報を得ることができるのである。

 

 また、これらのカテゴリー化や図式化は意図的・道具主義的に用いられる場合もあるが、必ずしもすべてがそうであるとは限らない。むしろ、何らかの状況依存的な「暗示 cue」(例えば、テロなどの事件)によって、無意識的に作動することのほうが多い。

 さらに、ブルーベイカーの以上の議論に対して、個人主義的・心理主義還元論に陥ってしまっているのではないか(そうなると個人の「心」までは科学的に証明できないため検証のしようがない)という批判もあるが、彼はこういったネーション(およびエスニシティ・人種)のカテゴリーはある程度「社会的に共有された知識」であるため、それが使われるのも個人においてだけでなく、社会的関係の中においてであると反論している。つまり、社会的にそれらのカテゴリー・図式の筋書き(「認知のテンプレート」)がどれだけ波及・分散しているかによって、何らかの暗示が生じた時に作動する可能性が高いかどうかも変わってくるのである。要は、以上の議論は個人の問題というよりも非常に「社会的」な問題だというのである。

 

 以上の議論を踏まえると、従来、ネーション・エスニシティ研究において等閑視されてきた「原初主義」的アプローチの見直しが図られるべきであることが分かる。「原初主義」、特にギアツの議論はネーション・エスニシティの「原初的愛着」を重視するあまり客観的な研究のアプローチとはみなされず、パラダイムの外に追いやられていたが、ギアツ自身は「当事者の原初主義」を重視していただけで、これはつまりブルーベイカーの議論とも親和性が高いのである。

 また、当事者によって語られる「集団」(人種・エスニシティ・ネーション)は定数ではなく、変数として考えたほうが良いとブルーベイカーは述べる。つまり、それらの「集団性」(groupness)はルーティン的・事務的に用いられる「平凡な」状態から、「自己犠牲の愛」などの強度な連帯感を抱かせる「熱い」状態までかなりの開きがあるのだ。ゆえに、集団性をほとんど意識しない日常時と集団性が極端に高くなる内戦・戦争時とを区別しなければならない。内戦・戦争時の暴力の応酬が「民族」のカテゴリーでとらえられ、「民族」の観点から解釈されることで集団性を一時的に高めることもありうるからである(コソボにおけるアルバニア人セルビア人との内紛など)。だが、集団性の変化に関しては、体系的に理論化することはできないため、個別の事例を見ていくほうが現実的である。したがって、ひとまずは「集団性は変数であり、そこには大きな幅がある」と念頭に置くだけでも十分である。

 

  以上がブルーベイカーの「認知的視座」の概要だが、最後にこのアプローチの問題点も何点が挙げておきたい。

 まずは、分析装置がいまだ不十分な点である。以上のカテゴリー化の議論まではまだ社会学的概念装置で補えそうな雰囲気だが、図式化の議論はブルーベイカーが重視する認知人類学認知心理学の知見を応用しているため、一貫した概念ツールはいまだ乏しい。例えば、以上で挙げた「上からのアプローチ」をより発展させる方法としては、ブルデューの国家論(象徴権力)の読解、および社会学的新制度主義の見直しなどがあるだろう。また、反対に「下からのアプローチ」ではエスノメソドロジーや理解社会学の知見などを取り込むことで発展させることもできるかもしれない。いずれにしろ、少し多分野の方面に移行しつつあるブルーベイカーの議論を、どうにか社会学に軌道修正する研究が必要であると思われる(もちろんこれは社会学以外のディシプリンを軽視しているわけではない)。

 また、ブルーベイカーの議論は個人主義的・心理主義還元論に陥っているという批判はいまだに生きていると思う。ブルーベイカーの反論は上述の通りだが、かといってそれはいまだ十分ではなく、もう一度議論を「社会」に振り戻すことが必要であると考える。さらに、「上から」と「下から」のアプローチを媒介する何らかの手立ても必要である。これはそのまま社会学における「マクロ」と「ミクロ」の統合(例えばギデンズの構造化理論がそのプロジェクトを引き受けたように)という問題にもかかってくるが、両者のアプローチが統合されないと議論は平行線のままである。例えば、国籍法の議論などのマクロ視点がインフォーマルな日常生活などのミクロ視点の分析においてどう応用できるか(例えば国籍法にもとづいて移民が日常生活においてどのような支障をきたしたり、そのカテゴリーを用いるか、労働法の規定によって国境をまたいだ労働者がいかに実践においてそれらの影響を受けるか、など)を具体的に考えていく必要があるだろう。