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佐藤成基「ナショナリズムの理論史」

 今回もナショナリズム論の整理のために記しておきたい。

 今回は佐藤成基著「ナショナリズムの理論史」という論文についてまとめる。これは大澤真幸氏が編集した有斐閣から出ている『ナショナリズム論・入門』という本に挿入されている短い論文である。

 

ナショナリズム論・入門 (有斐閣アルマ)

ナショナリズム論・入門 (有斐閣アルマ)

 

  ウェブサイトでも入手可能。以下、PDF。

(www.t.hosei.ac.jp/~ssbasis/nationalism_theories.pdf)

 

 冒頭は、いわゆるナショナリズムの古典(アンダーソンやゲルナー、スミスといった80年代以降に出版されるナショナリズム理論)を境にして、ナショナリズム理論がどういうふうに発展を遂げていったのかを記述している。これは前回のブログにも書いたので、ここでは省略。

 注目すべきは、終盤の理論の整理、とりわけ、いわゆる「近代主義」と「反近代主義(歴史主義)」以降のナショナリズム理論の動向である。この本自体は2009年に出版された本なので、最新の知見であるとは言えないかもしれないが、議論の足取りをつかむためには十分有効な整理だと思う。

 

 佐藤の整理によると、古典以降のナショナリズム研究には大きく分けて、「文化論的アプローチ」と「国家論的アプローチ」の二つがあるという。

 前者の「文化論的アプローチ」は、アンダーソンが提示した「想像の共同体」が具体的に当事者たちの中で「どのように想像されているのか」を解明しようとするもので、主に意味形成・意味解釈の過程を分析するものである。その点では明確に「構築主義」の立場を堅持し、ポスト構造主義の見地を取り入れ、当事者(ナショナリズムを掲げる人々)の「言説」(フーコーデリダ)やまた、理解社会学ウェーバー)などの業績を駆使して分析を行っている。

 つまり彼らは「ネーション」の意味を「語り」の産物ととらえ、それは当事者による様々な相互作用を通じてそのつど構築・再構築・再解釈されていくものだとしている。要は、分析するべきはその「解釈」の過程なのだ、ということである。

 また、言説には「生産」する側と「消費」する側が存在することを忘れてはならない。生産する側は、例えば政治家、作家、マスコミ、知識人などのナショナリズム的言説をメディアに乗せて広く市民に伝えることができる側である。その際、注目すべきは、文学的テキストや歴史書、議会における言論などである(例えば小熊英二による一連の研究を思い浮かべてもらえるとわかりやすいだろう)。反対に、消費する側は市井の一般市民などの、生産者が作り出したナショナリズム的言説を享受する側である。具体例としては、吉野耕作の『文化ナショナリズム社会学』で行われていた「日本人論」を享受するサラリーマンなどが想定できる。

 次に、「国家論的アプローチ」は、「想像の共同体」が「どのように動員されるのか」を、国家権力をめぐる政治闘争の中で分析しようとするものである。したがって、分析の視点は、より国家などの政治領域に寄ることになる。

 このアプローチでは、ネーションの概念やシンボルは、政治闘争の中で世論や住民の支持を糾合し、国家に対する要求や主張を正当化するための公共の理念として利用される。つまり、政治領域の議論の中で、世論や住民は「ネーション」の理念のもとに動員されていくことになる。

 例えば、「公共財」の配分をめぐる住民同士、または住民と国家、地方自治体などの政治的闘争などの分析を通してナショナリズムや民族的な対立などが激化したり、民主化期のポスト植民地国家においてポピュリスティックな政治家による呼びかけで人民が動員され、ナショナリズム感情が勃発したりする過程からその地域の「ネーション」概念を分析する研究などがある。

 ほかにも、以前のブログで挙げたブルーベイカーの研究のように、国籍法の制定・改正の際に議会内外で政治的論争が勃発し、「ネーションの自己理解」がどのように政治家や党派の中に用いられたかを検討する研究もある。

 「国家論的アプローチ」は、ネーション概念の内在的な意味や日常生活の中の人々のネーション理解を把握しきれないという欠点はあるものの、何らかの事件eventが起こったときに噴出する「ネーションの自己理解」を分析する際には参照されるべき研究である。

 

 佐藤も述べているように、上述の二つのアプローチは決して対立してるわけではないが、見事に分析の視点が異なっている(それはそのままミクロ-マクロ社会学の対立に対応しているようでもある)。そのため、両アプローチを折衷する理論的視座が必要になるのだが、佐藤はその手立てとして、ブルーベイカーとアンドレアス・ウィマーの二人を挙げている。ブルーベイカーは以前書いた通り、「文化論的アプローチ」を「下からのアプローチ」、「国家論的アプローチ」を「上からのアプローチ」として整理して両者を折衷しようと試みている。ウィマーに関しては、邦訳はなくこれから文献をあさらなければならないが、「文化の語用論」という概念を用いてイラクのクルド・ナショナリズムを研究したりしているそうだ(読まねば)。

 ブルーベイカーも「下からのアプローチ」をもとに研究を試みた著作の邦訳はなく、まだ確認できていないが、「認知的カテゴリー」という概念を用いてルーマニアハンガリーで実際に現地調査を行い、現地住民が実際に「民族」のカテゴリーをいかに理解し、用いているのかを検証している(これまた読まねば)。ブルーベイカーはもともとウェーバー研究で業績をスタートさせた研究者なので、こういった「理解」を分析する枠組みも持ち合わせているのだろう。

 この論文を読んで、今自分が何をすべきが少しはクリアになったと思う。①まずは、「国家論的アプローチ」、とくにブルーベイカーの視座を詰めていかなければならないだろう。で、個人的には「上からのアプローチ」による分析が必要だし、今の自分にはそれをやるので精いっぱいだとは思うが、②ブルーベイカーの「下からのアプローチ」、または手つかずであったウィマーの研究を参照するのがとりあえずのところ第二の課題だろうか。

 以上、思考の整理のために。