ロジャース・ブルーベイカー『フランスとドイツの国籍とネーション』

 もう一冊、ブルーベイカーの『フランスとドイツの国籍とネーションーー国籍形成の比較歴史社会学』について雑感をまとめる。

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

 

  本書は、アメリカの社会学者ロジャース・ブルーベイカーが初期の論文として発表したもので、ナショナリズム、シティズンシップ研究の中でもかなり有名な本ではあるが、日本では(B・アンダーソンやE・ゲルナーなんかと比べると)あまり注目されていない。しかし、個人的に、彼が独自の路線で構築しているナショナリズム理論はこれまでのナショナリズム研究に一石を投じる(硬直した議論枠組みを破る)ものであると思うので、今回一読してみた。詳しくは以前書いたブログのエントリの後半部分を参照(http://cnmthelimit.hatenablog.com/entry/2017/09/18/183245

 

 本書の問題意識ははっきりしている。すなわち、フランスとドイツという隣接する国家間で全く異なる国籍法が形成されているのはなぜなのか、その形成過程を両国を比較しながら解明しよう、というものである。

 しばしばいわれるように、フランスは「出生地主義」を、ドイツは「血統主義」をそれぞれ国籍法の特徴としているが、ブルーベイカーは、こうした国家間で全く異なる国籍法が採用される背景には、それぞれの国家の「ネーションの自己理解」が深く関係していると捉える。つまり、国籍は政治家などのアクターを通して国民のネーションの自己理解に規定されるため、翻って言えば、国籍の形成過程を見ることでその国家のネーション観を解明することができるというわけである。

 これはネーション、ナショナリズム研究において、それまで一貫した分析方法が定まっていなかった時期に、一つの明確な分析枠組みを提供したという意味で非常に有益な功績である(個人的には、ブルーベイカーはこのように独自の新説を作るというよりも、それまでの議論の交通整理をするのが非常にうまいと思う。いわば、理論のサポーター役である。そのため理論としては退屈なところもあるのだが、理論研究にとっては重宝される存在だと思う)。

 内容自体はさほど難しくなく、上述のように議論は一貫している。フランスにおいては出生地主義が国籍法において採用された背景と、ドイツのそれとを交互に通時的に記述していく、というオーソドックスな歴史社会学的分析である。

 個人的に興味深かったのは、フランスで出生地主義が採用された背景には、世界市民的な崇高なイデオロギーがあったからというよりも、国民皆兵の必要とフランス市民による移民二、三世に対するルサンチマンにもとづいていたという指摘。つまり、移民の子供たちが、国籍として「フランス人」から除外されることで、フランス国民がみな負わなければならない皆兵義務から免除されていることに対する不満から出生地主義が採用されたというわけである。これは世界市民的なイデオロギーというよりも、全く反対にナショナリスティックなイデオロギーにもとづいている。

 このように、またブルーベイカーが指摘するように、フランスがドイツと比べて崇高な理念を掲げていたというわけではない。むしろ、フランスの中にもルペンの国民戦線を代表とするような極右勢力は一貫して存在感を放っており、彼らのナショナリスティックな言説はずっと根底に存在していた。だが、フランスの場合は、自由、平等、友愛というスローガンが深く根付いており、それが国籍法の議論においても強く影響していたのである。

 

 議論の内容に関しては、それほど異論はない(監訳者解説にあるように、またこの本の後の世界に生きている我々にとっては、このようなフランスとドイツの単純な図式化はできないことは分かってはいるが)。

 むしろ、個人的に興味をそそられたのが、「文化イディオム」という概念である。これはアメリカの歴史社会学シーダ・スコッチポルが用いた概念でブルーベイカーが援用したものだが、いまいち本書の中だけの説明では把握できなかった。というのも、本書の中では、「文化イディオム」とは、「イデオロギー」と比べてより長期的で、より匿名性が高く、より党派的でない言説であると述べられているが、果たしてそれがイデオロギーとどういった点で具体的に違うのか、はっきりとは分からない。

 また、ここで言われている「言説」とは、フーコーのいうような「言説 discourse」とは異なるものなのだろうか、もし異なるとすればどういった点で異なるのか、が個人的には引っかかる。

 さらに、本文ではこの「文化イディオム」が「イデオロギー」とは異なると述べられているが、この「イデオロギー」とはマンハイムが言うところのそれなのか、もし違うのであれば、「文化イディオム」はマンハイムが言うところの知識社会学の要領で分析することは可能なのだろうか。

 個人的には、この「文化イディオム」という概念を用いて行われている本書の分析は、一般的に行われている知識社会学の分析手法と何ら変わらない気がするので、あえて両者を区別して用いる理由はどこにあるのだろうかと疑問である。