ナショナリズム・エスニシティ論における本質主義と構築主義

 最近、ナショナリズムエスニシティ研究について勉強しているので頭の整理のためにここに記しておきたい。

 

 まず、ナショナリズム研究には様々な主義主張の分野があり、それぞれ対立軸が存在する

 

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

 

 上の吉野(1997)によると、それは大きく分けて、「原初主義」と「境界主義」、「表出主義」と「手段主義」、「歴史主義」と「近代主義」である。

 「原初主義」は民族集団の歴史や宗教、文化といったものを媒介とした原初的絆が民族を結び付けているのだと主張する一方で、「境界主義」は民族を存続させているのはそういった絆ではなく、「境界」策定の過程にあるのだと主張する。さらに、「表出主義」は民族を単なる象徴体系の表出として扱う一方で、「手段主義」は「民族」といった概念やそれを標榜するナショナリズムは単にある集団が利害関心に基づいて利用している手段に過ぎないと主張する。そして、最後にもっとも論争的な三番目の対立では、「歴史主義」がネーション(らしきもの)は前近代にも存在していたとする一方で、「近代主義」はネーションは近代になってから創出されたと主張するのである。

 この著作が書かれたのが1997年で今より20年前の話だが、このナショナリズム論争は今でもホットなものとして続いているように思う。その中でも、上述のように「歴史主義」と「近代主義」の対立がよく取り上げられることが多いが、実はこの両者は別に対立しているわけではない。歴史主義者としてよくやり玉に挙げられるA・スミスは、近代主義の代表的論者であるB・アンダーソン、E・ゲルナー、E・ホブズボームなどの議論は一部では正しいし、参照に値すると述べている。だが、彼が強調しているのは、ナショナリズムが近代になって突然現れたという見方はあまりにも「近代」の能力を過信しているということである(そこで彼が主張するのがネーションの原型になった前近代の「エトニ」という概念である)。

 筆者としても、ナショナリズムが近代に入ってから爆発的に流行したことは認めざるを得ないが、かといってネーションが前近代に突然誕生したとするのには少し疑問がある。第一、このようにネーション、ナショナリズムの起源を探っていく作業は必然的に研究者の主義主張を反映させてしまい、「ネーション」というものをまず何と定義するかによってそこから導き出される答えも違ってくる。例えば、「ネーション」を「共通の歴史経験と愛着によって結び付けられた集団」というふうに広く定義してしまえば、それは前近代にも存在したことになるし、「共通の歴史・文化的経験を持ち、かつ同じ領域的・政治的単位に属する集団」と厳密に定義してしまえば、近代の産物であるといえてしまうのである。そのため、この対立(ネーションの起源をたどること)はいささか決着のつけようのないものだといわざるを得ない。

 

 

エスニシティを問いなおす―理論と変容

エスニシティを問いなおす―理論と変容

 

 

 次にいわゆる「原初主義」と「境界主義」の対立についても見てみたい。この対立はそもそもナショナリズム研究の中でなされたものではなく、どちらかというとエスニシティ(あるいは部族tribe)研究の中(とりわけ文化・社会人類学)で繰り広げられた議論である。人類学の中では、古くから民族という集団は自明のものとして存在するという考え方がなされてきた(これを「本質主義」という)。そのため、古くから人類学者は未開の「民族」を知るためにその民族の文化などを研究してきた。

 しかし、次第にそういった見方に一石を投じるような研究が出現する。それが、部族やエスニシティ、民族といったカテゴリーは本質的(アプリオリ)に存在するものではなく、可変的でアメーバのように変化していくものであるという主張である。これを「構築主義」という。構築主義は人類学に限らず、広い分野で採用されている考え方ではあるが、人類学においてそれを真っ先に取り入れたのがF・バルトであり、彼が提唱したのがBoundary Approach、いわゆる「境界主義」である(以下の著書に、バルトの唯一の邦訳が収められている。しかし、これを見ただけではバルトの主張は把握しづらいかもしれない)。

 

「エスニック」とは何か―エスニシティ基本論文選 (「知」の扉をひらく)

「エスニック」とは何か―エスニシティ基本論文選 (「知」の扉をひらく)

 

  「境界主義」は従来までの本質主義が「一人種=一文化=一言語、および一社会は他者を拒否し、他と区別される一単位である」というステレオタイプを見直す必要があると主張する。なぜなら、同じエスニシティを有していると目されている集団の中でも異なる人種で、異文化、多言語を操っていることは多々あるからである。さらに、同じエスニシック・グループが時間が経過するにつれて、もっと大きなグループに飲まれて変容することだってありうる。その時、そのエスニック・グループは以前の人種・文化・言語を完全に捨て去ることができるだろうか?

 そこでバルトは、民族やエスニシティを固定的なものと考えることはやめ、その集団の文化それ自体に注目するのではなく、二つ以上の集団の間にある境界に注目したのである。

エスニック集団は、ただたんにーーあるいは必ずしもーー排他的な土地の占有を基礎としているわけではない。集団が維持されていくさまざまな方法ーー一度かぎりの成員編入だけでなく、継続的な意志表明や認定によっても行なわれるーーについては、分析が必要である。(前掲書 1996: 34)

  つまり、バルトは、エスニック集団がどのように「われわれ」と「やつら」を区別し、境界を引いていくのか、その過程を分析する必要があると言っているのである。

 これは今まで民族とは所与の、本質的なものだと考えてきた「本質主義」を否定し、「民族」は時代ごとに構築されていくものだとする点で、ある意味で「歴史主義」に対する「近代主義」の立場にも少し似ている(実際は「歴史主義」は本質主義を否定するだろうが)。要するに、少々大雑把にナショナリズムエスニシティの議論を総括すれば、その大きな対立軸は「本質主義」か、「構築主義」かの二項対立になるというわけである。そして、現在ではどちらかというと「構築主義」の考え方が優勢であり、「本質主義」は軽視されている傾向にある。

 

 以上、これまでナショナリズムエスニシティの議論をまとめてきた。上述のように今では「構築主義」が優勢となっているが、「構築主義」はあまりにも語りやすく、キャッチーな立場であるため、すでにあらゆる場面に浸透しすぎてしまっている。しかも、「構築主義」はしばしば同様の結論に行き当たってしまい、問題の本質を覆い隠してしまうこともある(例えば、「民族は創られるものである」という結論を下すことで論を結んでいる論文は数多くあるが、それらはしばしば、なぜそのように創られたのか、その結論をどう実践の場で生かすのかを明確にしていないことがある)。

 そういった「構築主義」が陥ってしまった学問的な溢路を抜け出そうとしている研究者がいる。それがR・ブルーベイカーである。

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

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グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

 

 ブルーベイカーの日本語訳は以上の二冊だけ。実は私もまだ読んでいないので、今回はブルーベイカーの翻訳に携わり、ナショナリズム研究の第一人者である佐藤成基氏がまとめた論文(http://hdl.handle.net/10114/13318)をもとに、彼の分析枠組みを整理してみたい。

 ブルーベイカーは「今やだれもが構築主義者になってしまった」と述べ、その溢路を抜け出すためには構築主義者が軽視してきた「本質主義」をもう一度検討すべきであるとする。だからと言って、彼は「本質主義に帰れ」と言って時代の流れに逆行することを提唱しているわけではない。彼は構築主義が残した功績である「民族(およびネーション、エスニシティ、人種)は創られる」というテーゼは尊重したうえで、それが構築されていく過程を分析するべきであると主張しているのである。

 彼は自らが取るアプローチを「認知的視座(Cognitive Perspective)」と呼ぶ。これは「人種、エスニシティ、ネーションという概念によって理解されている現象を、実在する集団としてではなく、社会的世界を理解する際に人々が用いる認知のカテゴリーとして捉えるアプローチ」である(佐藤 2017: 21)。

 これはどういうことか。従来までのナショナリズムエスニシティ研究では、研究者の立場から「ネーション(あるいはエスニシティ)とは何か」を問い、それを客観的な視点から分析することを目指してきたため、しばしば実際にそういったナショナリズム運動などを行っている当事者の視点を置き去りにしてしまうことが多々あった。これを彼は「分析のカテゴリー」で研究を行っているという。そして「分析のカテゴリー」を用いて彼らの運動を見れば、現実とは乖離して形而上学的な机上の空論に陥ってしまい、分析がストップしてしまうことになっていた。

 そのため、彼は研究者が占有する「分析カテゴリー」から当事者の側に立った「実践カテゴリー」を用いて研究することを提唱している。つまり、「現実の社会で当事者たちがいかに「ネーション」というカテゴリーを用いて発言し、行動しているのか、それがいかにして社会過程の中で制度化され、広く共有され、あたかも実在の集団であるかのように『物象化(reification)』され、人々の行動を突き動かしているのか」を問うべきであるというのである(佐藤 2017: 22)。

 これは「何かが構築される」ということに注目してきた「構築主義」的な分析アプローチに対するアンチテーゼである。なぜなら、民族などを絶対的なものと見なす「本質主義」に対して、「そんなものは存在しない、構築されるのだ」と言い放った「構築主義」自身もいまだに対象を一つの実体的な「集団」として見なしているからである。認知的視座に立つというのは、「その何かが構築されていく過程において人々の用いる認知的カテゴリーの働きに注目していく」という点で新しいアプローチである(佐藤 2017: 26)。

 では、その具体的な分析方法はどういったものなのか。ブルーベイカーはそこには「上からのアプローチ」と「下からのアプローチ」があるという。前者のやり方としては、主として国家が公式に下すカテゴリー区分である。それは、法律、人口統計などを通して行われるため、そういった過程を分析していくことになる。さらに後者はインフォーマルな日常的実践を見るやり方である。それでは日常的な会話(エスノメソドロジー)や社会的なコンフリクトが発生した時に顕現化する言説などを分析の対象とする。

 そもそもブルーベイカーが当事者が選定する「カテゴリー」に分析の主眼を置く根拠は認知心理学認知人類学の研究業績に基づいてる。それらの研究では、人間には生来物事をカテゴライズする能力が備わっているという。さらに、単にカテゴライズするだけではなく、分類したそれぞれの事象を自らの経験や出来事と関連付け、世界を慣れ親しんだストーリー(筋書き)に沿って解釈していく能力(「図式(schema)」)があるという。人間のそういった能力は半ば無意識的になされるため、「手段主義」が主張するような当事者の狙いにそってカテゴリーが利用されることはあまりないという。

 一読するとこれはたしかに現在袋小路に入ってしまっているナショナリズムエスニシティ研究をすくい出す唯一の分析枠組みであるように見える。しかも、カテゴリーに主眼を置いているので、ナショナリズムエスニシティ研究を超えて、広い分野にまで波及しうる概念であるいえるかもしれない(例えば、ジェンダーや階級など)。しかし、佐藤もいうようにその是非はまだ定かではない。実際まだ生まれたばかりであるこの考え方は実際のエリアスタディに応用された例も少ない。さらに、社会学の枠を超えて心理学、人類学にまで架橋しているこの分析枠組みは、まだ社会学の分野内でどれほど影響を持ちうるかもわからない。だが、新たな社会学の道が開くのではないかと予感させる、ワクワクするような試みとして今後の発展を注視していきたい。