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深井智明『プロテスタンティズム』

最近読んだ本、深井智明著『プロテスタンティズム』について。

 

 最近ゼミの授業で「宗教共同体」から「国民共同体」に移行する過程を発表する機会があったので、この本の特に第1~3章あたりはもろ参考になった。個人的には社会学を学んでいるので「プロテスタンティズム」と言われれば、ウェーバーの『プロ倫』が真っ先に思い浮かぶのだが、この本ではそういった社会学的知識だけに限らず、神学、歴史学など多岐にわたる知識を横断的に用いているため分かりやすく、かつ幅広く、今までにない議論もカバーできている。

個人的に面白いなと思ったのは、ルターが95か条の提題を打ち出したことよって宗教改革が華々しく始まったというような従来の見方に異議を唱えている点。いわく、ルターが行ったのはあくまで腐敗した教会に対してその状況を批判し、「リフォーム」を求める運動に過ぎなかったということである。その点ではルター自身が行った運動は「カトリック的なもの」の枠をそこまで大きく逸脱していなかったのである。むしろルターが行ったことのより重要な点は、一元的なカトリック教会組織(バチカンにある教皇を主とする階序的な仕組み)以外にも神に対して信仰を表すことができるということを発見したことなのである。ルターはそれが「聖書」に帰ることによってなされると主張した。しかし、聖書の教義などははっきり言って、その人がどう読むかによって如何様にも変化するものであり、必然的に解釈をめぐって多くの分派が起こってしまったのである。そしてそれはのちに「カルヴァン派」や、より先鋭的でルターら初期改革者の不徹底さを指摘する「洗礼派」や「再洗礼派」などの派閥に分裂していき、ドイツを超えて世界に波及していった。そのため、著者は神学者トレルチの定義にしたがってルター以来のプロテスタンティズムを「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」に分けて考えるべきだと主張する。

トレルチは「宗教改革は中世に属する」と述べた。つまり、ルター派カルヴァン派らは「宗教は宮廷や一つの政治的領域の支配者のものであり、改革も政治主導で行われる」と主張する点では中世と変わっていなかったのである(p107)。トレルチはこれを「古プロテスタンティズム」と定義した。「領主と協力して領内の宗教を統一し、社会に秩序観や道徳を提供するシステム」である(p108)。そしてそれは原理的にはカトリックがやっていことの焼き直しのように見えたため、急進的な勢力は古プロテスタンティズムに真っ向から対立していった。それが洗礼主義(バプテスト)や再洗礼派(アナバプテスト)などの「新プロテスタンティズム」なのである。彼らにとっては古プロテスタンティズムは「自由な信仰」を抑圧する敵対者だったのである。

両者の決定的な違いは、「『教会』を『地域共同体としての政治的単位』との関わりで考えるのか、それとも『信仰者の自発的な共同体』として考えるのかに関係している」(p112)。前者(古プロ)は国家などの政治的共同体と宗教市場が一致していることを前提としている。つまり、神聖ローマ帝国内の人間はその中の教会に通い、そこに自分の宗教を選択するという自由はない。対して後者(新プロ)は個人が自由に宗教を選択する自由があり、また上から既存の宗教を押し付けるだけでなく、自由に宗派を作ることもできると主張するのである(宗教市場の民営化・自由化)。前者はドイツで保守勢力となって、現在でもなお息づいている。そして後者はピューリタンとしてメイフラワー号に乗って米国で新たなユートピアを築いていったのだ。

ドイツで保守勢力として生き残った古プロテスタンティズムは戦後、東欧の民主化、EUの成立、移民の増加などで一時、消極的な排外主義として伸張したこともあった。しかし公立学校の宗教科をめぐる改革ではキリスト教だけでなく、イスラムの授業なども選択肢として加えるという決断をする州も多く出てきた。しかも、これらの改革を支持しているのも他でもなくルター派なのである。ルター派は保守勢力として社会の多元化を嫌う一方で、不毛な争いを終わらせ、政治や宗教における様々な考え方が共存できるシステムを作ろうと努力してきたのである。

つまりルター派保守主義は一つの宗教的伝統に固執するのであるが、その伝統を逸脱するような極端な意見や立場に対しては「否」を言うことが自らの使命だと感じるようになった。だからこそ、宗教や宗派の多元性という現実の中での共存の努力という彼らの歴史的な体験を逸脱するような現在の排他主義には「否」なのである。(p161-162)

 ルター派保守主義はあたかも「宗教や宗派の多元性」を認めるということを一つの教示としているようである。だからこそ彼らにとって公立学校でのイスラムなど他宗教に対する排外は教示に反するのである。それは大戦中に非人道的なホロコーストを行った罪悪感というファクターも加わって、ドイツ国民の中で深く根付いている意識なのである。

一方、米国というニューフロンティアに移植された新プロテスタンティズムは「リベラルな信仰」として米国の社会設計に深く関わっていく。筆者曰く、ヨーロッパの町並みは一つの教会を取り囲むように構成されているのに対し、米国では町の中にいくつもの教会が乱立しており、人々はそれを自分の裁量で自由に選択して通うことができる。しかし、そのため米国では一つの教会が町で市場を独占してしまうことがある。すべては市場での自由な競争なので、その規模拡大には際限はないのである。米国では宗教ですら市場原理にしたがってヒエラルキー化(持つ者と持たざる者)するのである。

いやむしろ因果関係は逆かもしれない。ウェーバー的に言えば、ピューリタンらが新プロテスタンティズム的な考え方を移植したことによって現在の米国の「リベラルさ」が生まれたと考えるべきかもしれない。最初は「宗教」だったのである。そしてそれはウェーバーの『プロ倫』の議論に集約していく。「予定説」と「天職」という概念に基づいて人々は勤勉に資本の蓄積に励んでいった、という議論に。

本著はプロテスタンティズムの整理を行う上では教科書的な役割を担うだろう。