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映画『立候補』と東浩紀『一般意思2.0』

最近見た映画と本について書こう。

見た映画は『立候補』。以前、大学の先生に勧められて見た映画なのだが、ふと思い出してもう一度見たくなったので購入した。やはり傑作。マジおすすめ。

 

映画「立候補」 [DVD]

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これはドキュメンタリー映画で選挙においてほとんど見向きもされない、いわゆる「泡沫候補」たちにスポットを当てている。主に2011年に行われた大阪府知事選が舞台である。選挙という、いわば椅子取りゲームの欺瞞を真正面から光を当てるのではなく、むしろ見捨てられてきた人々に光を当てることによって照射しようという試みである。そしてその試みは見事に成功している。

では簡単にあらすじを追っていこう。今作の主人公(というか主にスポットを当てている人物)はマック赤坂である。この人を知らない人はググれば一発で分かるのだが、まあなかなかの際物に映るだろう。経歴(京大農学部レアアースの貿易で財を成す、スマイル党総裁などなど)だけ見てもなかなか興味深い人物である。彼は各地の選挙に出ては負け、出ては負けを繰り返す泡沫候補の典型である。そして面白いのは彼の演説スタイル。よく街頭で目にする政策を必死に訴える政治家のイメージとはかけ離れ、ただひたすらにコミカルな音を発し、奇怪な舞を踊っているだけなのである(正確に言うと、政策を真面目に訴えることもあるのだろうが、劇中でもあるように「どうせ[演説を見に来た人は]これを見に来たんだろう」といいながら音楽をかけ出すのである)。これ以上の説明は省くが、これを見て理解できない人は彼の政見放送を見れば、一発で理解できると思う。このようにマック赤坂に負けず劣らずの際物たちが今作ではほかにも数多く登場する(羽柴秀吉外山恒一などなど)。そしてそういった普通の感覚からすると、「変人」という一言で片づけられてしまうような人々が今作では主人公なのだ。だからと言って彼らは決してアメコミ映画のように一発逆転を果たすわけではない。むしろ知事選でもマックは最下位で、いつものように大敗を喫す。

というのが主なあらすじだが、では今作によって監督が照射しようとした「欺瞞」とは何だろうか?
泡沫候補の一人、外山恒一は「選挙とは単なる椅子取りゲームであり、多数決で決めるのだから多数派が勝つに決まっている」という至極全うな主張をその政見放送の中でしている。これはよく考えれば当たり前のことである。より多くの票数を得た候補が当選する。そういったシステムの上で選挙は成り立っている。だが、このことを我々はしばしば忘れがちである。つまり、その勝負に負け、追いやられた存在(少数派)を忘れがちなのである。「少数派は選挙に負けた、だから諦めてください」というのが選挙というシステムの残酷さである。それ自体の良し悪しをこの場で議論したいわけではない。そうではなく、その残酷さに無自覚な人間があまりにも多いことが問題なのである。それこそが監督が今作で暴きたかった「欺瞞」であると考えられる。それは多数派の方から見ていては分かりにくい現実であり、少数派の視点から照射することで初めて意識化することができるのだ。
ではそういったシステムの中で少数派はただ毎回負けを喫することに我慢するだけでいいのか?否、それでは何も世界は変わらない。だからこそ、彼ら泡沫候補は真正面から戦うということを避け、いわば諧謔に徹することでこのシステムの馬鹿らしさを暴こうとしたのだ。マック赤坂の「ぶっ壊したいんだよ」というボヤキからも彼らが何も好き好んであんな変な役回りを買って出ているわけではなく、強い使命を抱いてアクションを起こしていることが分かるだろう(外山も政見放送からは想像できないほどしっかりとした物腰である)。少数派が追いやられている状況から、「選挙」というシステムの歪さが浮き彫りになっているのである。

これに対して、「何を当たり前のことを言ってやがる、少数派に意見なんか聞いてられるかよ」という反論があるだろう。しかし、最大の問題はこの多数派と少数派という図式はしばしばひっくり返ることである。それは最近のイギリスの国民投票で顕著に表れていた。従来の多数派はEUの普遍的な理念に共感し、残留を選んでいた。そして今回の国民投票もその体制を維持することだろうと楽観されていた。しかし実際は少数派と目されていた離脱派が残留派を上回り、多数派になった。そしてそこから生まれた国民内部のひずみが今、英国国内でどう尾を引いているかはもう説明の必要もないだろう。多数派と少数派の図式はすぐにひっくり返る。そしてそれはさらなる分断しかもたらさない。ならば、そういった問題が起きる前に少数派の意見に耳を傾けることは必要ではないだろうか?
さらにもう一つ、これは代議制民主主義の限界もあらわにしている。今作の舞台である2011年の大阪府知事選で勝利を収めた人物は維新の松井一郎氏である。そしてそのバックアップをしていたのが、橋本徹元市長である。彼らは多数派の支持を得て椅子取りゲームを制し、当選した。しかし、現状を見てみよう。森友学園の問題がまだ話題になっているが、彼らの政策に本当に満足している人間はどれぐらいいるだろう。むしろ、市民の声を無視している彼らに失望している人間のほうが多いのではないだろうか?代議制民主主義は多数派の声すら掬い上げることができなくなっているのではないか?
今の視点から見れば、今作で浮き彫りにされた問題提起の種は現在2017年をもって一斉に発芽しているようである。

 

 

上記のような問題点を変革しようとしている著作を偶然にも発見することができた。東浩紀著『一般意思2.0』である。

 

 
彼の著作は昔追っていたのだが、長いこと離れていた。しかし、最近彼の新著『ゲンロン0』が発売されたのでまた興味が湧いてきて、『一般意思2.0』にも手を伸ばすことができたのである(『ゲンロン0』についてはまた時間を置いてブログで扱いたい)。

この著作ではルソーの概念「一般意思」を彼の古典を読み直していくことで再解釈していこうという大胆な試みを行っている(これは体裁を大事にする学術論文ではむしろ忌避されるいわば「深読み」である。しかし、著者が言うように本著は一種の「エッセイ」であるためそういった読み替えが可能なのである。それは批評だからこそのアクロバティックさである)。なぜそんなことが必要なのか?東はルソーを見るときにそこに二つの人格を見るという。

「ルソーは、個人の社会的制約からの解放、孤独と自由の価値を訴えた思想家だった。しかし彼はまた同時に、個人と国家の絶対的融合、個人の全体への無条件の包含を主張した思想家でもあった。この二つの特徴は、常識的に考えるかぎりまったく両立しない。」(東 2015: 33)

ルソーは人間のことが大嫌いであり、引きこもりのオタクのような人間であった。それは彼が哲学者の顔を持ちながら、ロマンティックな文学者でもあった点に表れている。その点に今まで社会思想家は翻弄されてきた。この矛盾をどう解釈すればいいのかと。
ルソーは「一般意思」とは「一定数の人間がいて、そのあいだに社会契約が結ばれ共同体が生み出されてさえいれば、いかなるコミュニケーションがなくても、つまりは選挙も議会もなにもなくても、自然と数学的に存在してしまう」(東 2015 :63)ものだと考えた。それはあたかも自然物(モノ)であるかのように立ち現れるため、人間が重力(自然物)に抗うことがないように政府も一般意思に従わなくてはならないと主張したのだ。一般意思は言ってしまえば、「無意識」のようなものである。無意識を知覚することは難しい。しかも、無意識を頼りに政治を行うことは危険なことでもある(憎悪や一方的利害(無意識の突っ走り)によって人間がどれほどの間違いを犯してきたかは歴史を見れば明らかである)。ルソーの功績は一定の敬意を払われながらも完全に理解されることはなく、その後数々の哲学者(カント、ヘーゲルアーレントハーバーマス…)によって「理性による統治と熟議による理解」という点に収斂されていく。
しかし、今起こっているのはそういった理性や熟議の限界である。各地で多発するテロリストはまさにそういった理性による統治によって虐げられてきた人々であり、またヨーロッパで巻き起こるナショナリズムを掲げるのは熟議の舞台に乗ることすらできなかった人々である。だから東はこの袋小路を抜け出すためにもう一度ルソーに立ち返るべきだと述べているのである。そしてルソーが残した「夢」は現代では全く矛盾することなく、実現可能であると主張する。

ルソーは一般意思は市民の心に刻まれていると述べた。だからそれは知覚することができない。しかし、現代ではそれを知覚する方法がある。それがグーグルを代表とする情報技術である。東はこの情報技術によって知覚が可能になった一般意思を「一般意思2.0」と呼ぶ。情報技術の発達、例えばグーグルは巨大なデータベースをアルゴリズムによって秩序立てて整理することができる。多くの人間が入力した無数の情報(無意識)を蓄積し、そして析出することができる。東はここに目を付けたわけだ。
著作では例としてニコニコ動画を挙げている。ニコニコ動画は議論を交わしている人間が視聴者の入力したコメントを見ながら、議論を展開していく。また、視聴者も自分以外のコメントを見ながら、他にどういう考えがあるのかを知ることができるのだ(このシステムに東はラカンの「想像界」と「象徴界」のアップグレード版を想定している)。東はこれを政治の中に応用していってはどうだろうかと提案する。政治家は国会という閉じられたハコモノの中で議論するのではなく、モニターを設置し、データ処理システムを搭載することによって大衆に看守されながら、また彼らの声(無意識)を可視化しながら熟議を行う、という大胆な構想である。これは確かに絵空事、SFのように聞こえるかもしれない。しかし、理論的には何も間違ったことを言っていない。
これに対する反論として「大衆の意見を反映したらポピュリズム劇場型政治)に陥るのではないか」というものがあるだろう。しかし、東はこれにこう反論する。

「第一に、以上の提案は、普通の意味での「ポピュリズム」、つまり大衆の欲望の単なる肯定とは異なっている。なぜならば、そこで目的とされているのは、無意識の従属ではなく、むしろ無意識との対決だからである。(中略)第二に、もしかりに以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよいのではないか、というのが筆者の考えである。」(東 2015 :205)

無意識の「従属」は確かにポピュリズムに陥る。それは全体主義ファシズムを台頭させた歴史が裏付けしている。しかし、無意識を否定し、抑圧するとかえって後々リビドーとして吹き出し、取り返しのつかないことになりうる(これはフロイトの理論に基づいている)。ならば、残るべき方法はあらかじめ大衆の不合理な要求に曝され、真っ向から対峙することしかないのだ。また、現在を見れば分かるようにポピュリズムの台頭はもう目に見えて現実化している。そこで分断が生まれるぐらいなら最初から政策決定に組み入れることは多少なりとも有効であると考えられる。
また、東は何もこれまでの「熟議による政治」を否定しようとしているわけではない。むしろ、こういった「無意識の可視化」は熟議による権力者の横暴を阻止するために必要となるものであると主張する。無意識が熟議にとって代わられるのではなく、両者をうまく使いこなすことで「政治の危機」を乗り切ろうと言っているのだ。

「筆者が唱える無意識民主主義は、対照的に、市民ひとりひとりにはもはやなにも期待せず、ただ彼らの欲望をモノのように扱い、熟議または設計の抑制力として使うだけなのである。」(東 2015 :216)


長々と書いてきたが、『立候補』と『一般意思2.0』を接合してみよう。『立候補』は代議制民主主義の欠陥を問い直したドキュメンタリーだった。そこには多数決の論理で捨てられた少数派がいて、また選出された政治家が必ずしも市民の声に答えるとは限らない現状を描いていた。そんな現状に応答するかのように『一般意思2.0』は選挙以外の方法で少数派が声を上げることができる装置を提案している。そこでは、少数派の意見は直接採用されないまでも、政治家たちの横暴を止める抑止力になりうる。『立候補』の中で、マック赤坂が願い出たなけなしの政策提案を橋本や松井がまるでなかったかのように無視していた。現状では選挙に勝たなければ、まず声を発することすら許されないのである。さあ、どちらのほうが希望があるだろうか?

 


PS.
東は著書のラストに未来社会を予想し、その中で我々はどのように生きるのかを素描している。そのヒントとしてプラグマティズムの哲学者ローティの考えを参照しているのだが、中々面白かったのでちょっと書いておく。
ローティは哲学者からはあまり評判がよくないようである。なぜなら、彼は人間が信じる「これは正しい」という「イズム」はいずれも絶対的なものではなく、相対的でしかないと主張するからだ。つまり、そういったイデオロギーは個人として信仰するのは構わないが、それを公的な場に持ってきてはならないと主張しているのである。そのため、ローティは公的領域を、イデオロギーを対決させる場として捉えるのではなく、「いかなる正しさや美しさとも無関係な別種の原理のもとで運営されるような、価値中立的で脱理念的な」場として捉えるべきだと論じているのである(東 2015 :233)。
では、その公的原理を基礎づける新しい概念とは何か。ローティはそれを「想像力」だと主張する。「想像力」はルソーの「憐み」にも通じる、他の哲学者が人間を結びつけるにはあまりに不確かで動物的だと考える概念である。しかし、東はその動物的な概念こそが人間に残された連帯の可能性だと述べている。目の前に苦しんでいる人がいれば、その人に対して「あなたは我々と同じものを信じ欲しますか?」ではなく、単純に「苦しいのですね」と憐れむことによって連帯が生まれるというのである。少し感情的だろうか?しかし、理性による連帯がもはや不可能になったこの時代で説得力を持ちうる新たな連帯の原理はこれぐらいしかないように思われる。

憐みによる連帯の反論として「しかし憐みによって暴走してしまうことはあるのではないか」というものが想定できる。確かにそう見える例は多くある。例えば、最近シリアに空爆を命じたトランプはシリアの毒ガス兵器で苦しむ子供の動画を見て同情し、それを決断したという。しかし、これは「憐みによる暴走」ではなく、むしろしっかり想像力を働かせた(自らの立場を相対化させた)うえで憐れんでいないために起こる欺瞞である。ローティは絶対的なイデオロギーなどないと述べた。トランプの決断はいわば自らのイデオロギーを正当化するためにシリアの子供への憐みを利用したものでしかない。人間には複数の人生がある、自分がこうあるのは単なる偶然でしかない、という想像力を働かせ、相対化を経ていない憐みは決して連帯の原理になりえないのだ。