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社会運動論の系譜

 わけあって社会運動論の系譜を整理中。

  社会運動論の分析枠組みについて、割と最近のものまで体系立ててまとめた概説書って探してみたけど、なかなかなかったので、今回は富永京子『社会運動のサブカルチャー化』の先行研究のまとめを参照したい。

 

 これまでの社会運動論の貢献を大きく分けると、運動の①「説明」②「解釈」の二つに大別される。

 ①は人々がどのように(how)運動を組織するのか、運動へと参加するのかを、②は人々がなぜ(why)運動を組織し、参加するのかの解明を行ってきた。①には、資源動員論、動員構造論、政治的機会構造論、フレーム分析、Contentious Poilitics(たたかいの政治)などの分析枠組みが含まれ、本書では「動員論的運動論」と称されている。②には、新しい社会運動論、経験運動論などが含まれ、「行為論的運動論」と称される。

 まずは①から順に見ていこう。

 社会運動を論じた先駆的論者はスメルサーである。彼は「集合行動論」を唱え、社会運動を「社会病理」「逸脱行動」として捉えた。また、社会運動を組織的現象として捉えすぎてしまった結果、個人の行動原理を無視していることを後々批判された。

 そこで、続いて出てきたのがオルソンの「集合行為論」である。オルソンは「フリーライダー問題」などを提唱した合理的選択理論の学者として有名だが、人々は何かメリットがあるからこそ運動に参加するのだと考え、集合行動論とは異なるアプローチで社会運動に迫った。

 そして集合行為論を受け継いだのが、「資源動員論」である。主な論者はMcCarthy and Zald(1977=1989)である。彼らは資源の有無こそが運動の持続・発展を規定すると捉えた(運動の理性的側面を重視する点で、集合行動論と反する)。一方で、運動の資源調達(外部支援)を要件とするためにエリートの存在を強調し、かつ「不平・不満」を軽視している点を批判されることになる。

 ここまで集合行動や社会運動の発生メカニズムを説明する「社会運動研究」(ミクロな動員)と、より大きなレベルでの政治変動・社会変動を論じる革命研究(スコッチポルみたいな)とは隔たりがあったが、それを埋める役目を担ったのが「政治過程論」(McAdam 1982)であった。彼らは、運動の持続・参加に於いて重要なのは、資源ではなく、運動以前からのネットワークであると論じ、資源動員論を批判した。また、個々人の心理的な側面も軽視したわけではなく、運動参加者が持つ「自らの運動の成功可能性・重要性に対する認識」を変数化することで、目的合理的行為をも焦点化した。

 

 90年代以降、社会運動論にも新たな潮流が生まれる。まず出てきたのは、「動員構造論」(Clemens 1993, 1996; Bernstein 1997)である。彼らは、運動組織のアイデンティティと運動の組織構成が互いに影響を及ぼし合って成立する「動員構造」によって、運動の発生・持続を説明する。つまり、社会運動が目的達成の手段であり、アイデンティティの呈示という目的にもなっていると捉えるわけである。

 続いては「フレーム分析」(Snow and Benford 1988)である。フレーム分析は運動の発生要因を人々の認知的なものに求めている。つまり、運動を組織する人々が民衆(オーディエンス)の不満と社会運動への参加を架橋するために、運動のシンボルやスローガンを用いながら「解釈のフレーム」を構築することで、運動が発展していくという視座である。したがって、「(政治)文化」をある種の資源として、運動参加者がそれを操作的に動員していくという認識である(ゆえに「文化社会学」的)。

 最後が「政治的機会構造論」(Tarrow 1998=2006)である。彼らは、人々が政治にアクセスできる回路がどれだけあり、政治体制がどの程度の開放性を持っているのかが運動の生起・変質を決めると捉える。

 

 続いて②の理論的潮流である。

 まずは「新しい社会運動論」(Habermas 1981; Touraine 1984=1988; Offe 1985; Melucci 1985)である。彼らはソ連解体による東欧革命を目の当たりにしてこの理論を導入し、「人々はなぜ運動に参加するのか?」という問題意識のもと、社会運動参加者に共通する属性(女性、先住民、マイノリティ…)や問題関心(生活環境、公害、医療…)といった集合的アイデンティティに着目した。

 その後、社会運動研究は組織化・大規模化・広範囲化していき、企業や国家、警察、市民社会などの運動内外のステークホルダーどうしにおけるコンフリクトや利害調整を扱ったもの(Van Dyke and MaCammon eds 2010; Bob 2005)や、組織間における人員資源や金銭資源をめぐる分配や管理を扱ったもの(Haug 2013; Rodgers 2010)などが量産される。日本の事例研究だと、西城戸(2008)、青木(2013)、樋口(2014)などがある。

 最後に「経験運動論」(McDonald 2002, 2004, 2006)である。彼らは、フランソワ・デュべが提唱する「経験の社会学」やアラン・トゥレーヌの議論から着想を得ている。後期のトゥレーヌは「三つの行為論理」を唱えた。すなわち、政治のゆがみやシステムの崩壊の中で、人々は自らの行為とシステムの与える弊害や恩恵を結び付け、社会的存在としての自分自身を社会の中でアイデンティファイし(統合)、他者との関係の中で戦略的に生活のための諸資源を獲得しようとし(戦略)、時にはシステムに対抗してシステムの中での競争を拒否しようとしていく(主体化)。

 さらに、デュべはこの三つの局面のどれか一つを優越化することなく同時に分析する必要性を主張した。つまり、運動参加者の中には、自己顕示や他者との競合のため活動するような戦略の論理を持つ者もいれば、運動に参加することそのものがシステムの中に順応することだと考えている者もいるかもしれない。いずれかの局面を研究者が序列化するのではなく、この三つの論理を秩序付け、接続させる作業として「経験」に焦点を当てる必要があるというのがデュべの主張である。したがって経験運動論は、運動にコミットする理由が希薄化した後期近代において何が人々を運動へと駆り立てるのかという問いに対して、例えば集会に集まって音楽を聴きながらリズムを取る身体的なコミュニケーションや、映画や演劇を観に集まるという「経験の共有」であると回答する。そして、それらの運動参加者の「経験」を分析対象とするのが、この視座である。

 

 以上が大まかな社会運動論の整理である。この中で個人的に重要になるのがフレーム分析である。フレーム分析がどのような系譜から出たかをおさえておく必要があると思ったので社会運動論をまとめたが、それ以外には思い入れがないのでここらで社会運動論とは縁を切る。次回はフレーム分析の代表的論文をまとめたい。

その他、関連文献。

 

抗いの条件―社会運動の文化的アプローチ

抗いの条件―社会運動の文化的アプローチ

 

 

 

社会運動の力―集合行為の比較社会学

社会運動の力―集合行為の比較社会学

 

 

ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直すーーアクターネットワーク理論入門』①

 今度の研究会に向けて、ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直すーーアクターネットワーク理論入門』について。

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 (叢書・ウニベルシタス)

 

 ラトゥール自体は学部の時に一度概論を読んでいたので、彼の唱える「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)がいかなる構想なのかは把握していた。しかし、あまりにも従来の社会学の考え方から離れているため、具体的なところまでは理解が及んでいなかった。今回は「入門」と銘打っているように、少しは彼の理解に追いつけるのではないかと期待してページを繰っていった。

 だが、結果から言うと、少なくとも本書だけでは「ANTが何でないか(従来の社会学とはいかに違うのか)」は分かるが、では「それが何なのか」(例えばそれがエスノメソドロジーとどう違うのか)までは十分に明らかになっていないように思う。まだ、本書の三分の一ほどしか読み終えていないが、現段階で分かっていることを記しておこう。おおよそ、本書の「第三の不確定性」までである。

 

 まず、ラトゥールは従来の社会学を「社会的なものの社会学」、ANTを「連関の社会学」という形で区別する。前者はオーギュスト・コントから始まる伝統的な社会学であり、特に本書でやり玉に挙げられるのはブルデューを筆頭とする「批判社会学」である。その批判の内容とは、第一に社会的なものの社会学者が「社会」や「社会的」といった言葉を無批判に使い続けている点である。

本書で主張し問題にしたいことは、ごく簡単に述べることができるーー社会科学者が何かしらの事象に「社会的」という形容詞を加えるとき〔「○○は社会的だ」と言う場合〕、社会科学者が指し示しているのは、安定化した物事の状態/事態であり、一つの束になった〔人や事物の〕結合であること、そして、そうした社会的なものが、後には、別の何らかの事象を説明するために持ち出されもすることだ。(p.7)

 例えば、貧困や経済的な不平等の背景には「社会構造」が関係しているといった具合に、これまで社会学は何らかの社会現象の説明のためにしばしば「社会的な力」を引き合いに出してきた。ブルデューの用語を使えば、それは社会構造(社会環境)に埋め込まれた個人が身に着けたハビトゥスによって、格差を再生産している、といった説明になるだろうか。いずれにせよ、そういった「社会」を説明要因として出す場合、念頭にあるのは「すでにひとつに組み合わさったもの」であり、ではその「社会」はいかなる性質を帯びているのか、それはどのように構成されているのかまでは注目されてこなかった(p.7)。「社会的なものを組み直す」(reassembling the social)というタイトルには、そういった「社会」のそもそもの概念を再構成するという意味合いが込められている。

 したがって、連関の社会学は「社会」をそもそも「成形された強固な事物」として扱うことを拒否する。すなわち、社会を様々なアクター(その中には人間だけでなく、事物も含まれる)が複雑に絡み合ったネットワークであると捉え、連関の社会学はその「つながりをたどること(tracing of association)」(p.15)を目指すのである。

 

 以上の前提をもとにラトゥールはANTを提唱するわけだが、その説明に入る前にANTに付きまとう論争の種を五つ提示している(p.44-45)。

●グループの性質に関する不確定性ーーアクターには、数々の相矛盾したかたちでアイデンティティが与えられている。

●行為の性質に関する不確定性ーー各々の行為が進むなかで、実に多様なエージェントが入り込み、当初の目的を置き換えるように見える。

●モノの性質に関する不確定性ーー相互作用に参与するエージェンシーの種類は、いくらでも広げられるように見える。

●事実の性質に関する不確定性ーー自然科学が社会の他の部分と結びついていることが、やむことのない論争の根源であるように見える。

●社会的なものの科学というラベルの下でなされる研究に関する不確定性ーー社会科学が厳密に経験的であると言える条件は決して明確にならない。

  第一の不確定性に関しては、ラトゥールが指摘する以前からすでに社会学の中で言われていることであるように思う(それこそブルデューも言っていたような)。つまり、これまで社会学者は「階級」や「○○人」といった社会集団を暗黙の裡に前提としてきた。しかし、それらは本当に自明なものだろうか。ラトゥールいわく、「グループではなく、グループ形成だけがある」(p.53)。つまり、一人の個人は例えば「男性」「日本人」「○○高校生」といった特定の集団にアプリオリに所属しているわけではなく、存在するのはそういったグループを形成する「過程」だけなのである。これ自体は、「社会秩序はその都度生成される」と説いたエスノメソドロジーとも通じる部分がある(p.57)。そして、社会学者は分析の段階に入って、調査対象者に何らかのカテゴリー化を行う(例えば量的なカテゴリー化・変数化)際に、実はそれ自体がその集団のグルーピングに加担していることになるのだということを自覚的にならなければならない。

 そして、第二の不確定性は「行為」に関するものである。すなわち、「行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない。むしろ、行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看守されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある」(p.84)。

 通常、「行為」(action)は何らかのアクターによって能動的になされるものと解される。ウェーバーによる有名な「社会的行為」の定義では、「単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人びとの行動と関係を持ち、その過程が他の人びとの行動に左右されるような行為」(『社会学の根本問題』、p.8)とされている。しかし、ANTでは「行為」を全く異なるものとして定義される。そもそも、ANTでは「アクター」(actor)を「行為の源」とみなすのではなく、「無数の事物が群がってくる動的な標的」と捉える(p.88)。

「アクター」という語を用いることで表されるのは、私たちが行為しているときに、誰が行為し何が作用しているかは決して明らかではないことだ。舞台上の役者(アクター)は決して独りで演じていないからだ。(p.88)

 ゴフマンが言うように、人間の行動は「行為」なのか「演技」なのかは厳密には区別できない。「そもそも、行為は決して定置されず、常に非局所的(ディスローカル)である。行為は、借用され、分散され、提案され、影響を受け、支配され、曲げられ、翻訳される」(p.89)。では、「行為」をどのように定義するのかは、ひとまずここでは置いておこう。 

 つづいて、第三の不確定性である。ANTは、人間だけが社会的なものを構成するアクターであるとはみなさない。つまり、そこに事物(モノ)をも含めるのである。これは非常に奇妙な考え方である。というのも、そもそも社会科学は自然科学との差異化を図るべく、対象を「人間」、中でも彼らが作り出す「社会」や「意味」に限定してきたからである。それをもう一度、モノにまでその範囲を拡大させるというのである。

「志向的/意図的」〔intentional〕で「意味に満ちた」人間が行うことに行為がアプリオリに限定されるならば、ハンマー、かご、ドアの鍵、猫、敷物、マグカップ、リスト、タグなどがいかに行為しうるのかを見定めるのは難しい。(中略)対照的に、アクターとエージェンシーをめぐる論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える物事はすべてアクターであるーーあるいは、まだ形象化されていなければ、アクタンである。(p.134)

 だが、モノを研究の対象に拡張するというのは生半可なことではない。なぜなら、分析の対象範囲が無限に広がるからだ(というか、先人たちは無限に広がる範囲を狭めるために対象を限定してきた)。そこでラトゥールは、社会科学者が調査対象とすべきシチュエーションをいくつか列挙している(p.151-154)。

 第一は、何らかのイノベーションが生まれる場に注目する場合である(例えば、職人の作業場、技術者の設計室、科学者の実験室、マーケティング担当者の事前調査、ユーザーの自宅など)。イノベーションが生まれる場では、モノ(例えば会議文書、設計図など)は会合、計画、見取り図、規則、試行を通して前景化する。

 第二は、外部の人間が他集団に侵入するケースである。凝り固まった集団の中に異物が入り込めば、それまで眠っていたモノにスポットが当たるというわけだ。

 第三は、何らかのアクシデントやリスクが生じた場合である。事故や故障、ストライキなどが生じた場合、モノの脅威が前景化する。例えば原発事故を想起してほしい。それまでは意識されることのなかった原発が、事故によってスポットライトが当たるようになった。そして、いつの間にか私たちの日常生活に侵入し、人々の行為を形作る一要素になっている。

 第四は、歴史家の手によって、史料あるいは博物館の収蔵品などからモノの重要性を掘り起こす場合である。後世に残された遺物を掘り起こすことで、歴史家がそのモノに意味を付与するというわけだ。

 

 と、ここまで第三の不確定性まで見てきたわけだが、とりあえず現段階ではラトゥールの言いたいことは分かるのだが、「彼の目指す社会学が具体的にどのような研究プロセスを経て、何を言明するものなのか」と問われると、いまだに判然としないという感じ。最後に、ANTで使われる専門用語を挙げておこう。

 

「連関/つながり」(association)…人間と非人間の結びつき。社会学で使われる「アソシエーション」(互助組織)ではない。分かりやすいのは人形使いの例。人形の動きは人形使いの意図に全て還元されるわけではなく、ときに人形使いが意図してなかった動きをすることがある。しかし、だからと言って人形が人形使いを操作しているのかと言われればそういうわけでもない。つまり、彼らの動き(行為)はどちらにも還元できず、言うなれば糸を通じて両者のハイブリッドによってなされる(p.498)。

「エージェンシー」(agency)…何らか(例えば構造)の影響を受けて、主体が行為を生み出す際の力。「行為主体性」とも訳される。ANTでは、アクター(主体)の内外にある様々なものをエージェンシーとしており、それらが組み合わさることで行為を行うアクターが産出されると捉える。(p.499)

「試行」(trial)…はじめはパフォーマンスのリストとして現れる存在が、具体的なアクターとして定義されるまでに行われる実験や試みを指す(p.499)。

「参与子」(participant)…行為や集合体に与するもの。人とのモノの両方が含まれる。

「翻訳」(translation)…「たとえば、フランス語の単語から英語の単語へというような、あたかも両言語が独立したものであるかのようなある語彙から別の語彙への推移ではない。翻訳という語を私は、転置〔ずらし〕、偏移〔そらし〕、考察〔こしらえ〕、仲裁〔とりなし〕など、元からある二つをある程度修正する、それまで存在しなかった連結の創造という意味で用いている」(p.502)

「報告」(account)…人やモノ、出来事を観察可能なものにして、「○○は××である」などと他者に伝達できるようにする営為。エスノメソドロジー由来の概念。社会の成員がこのような正確な報告ができることを「報告可能性」(accountability)という。(p.502)

メタ言語」(meta language)…言語を対象にして論じる言語。観察対象の言語を観察する側が用いる言語(セカンド・オーダーの言語)。

「インフラ言語」(infra-language)…観察対象による言語行為を(抑圧することなく)可能にして、その言語行為を記録する言語(ゼロ・オーダーの言語)。(p.503)

「中間項」(intermediary)…意味やエージェンシーをゆがめることなく移送するもの。そこに投入される原因が分かれば、そこから発せられる結果が分かる。

「媒介子」(mediator)…移送する意味やエージェンシーを変換(翻訳)するもの。一方向的な原因と結果の関係はもはや成り立たない。(p.504)

「アクタン」(actant)物語論でよく使われる。物語論では、物語に登場する人物はあくまでも他の登場人物や物との関係によって動いている/動かされているのであって、こうした物語(行為の進行)の展開に不可欠な構成要素を「アクタン」と総称される。ANTでは行為が一人のアクターによって形成されるわけではないため、何の警鐘も持たないアクタンが用いられる。(p.505)

 

梶谷懐著『中国経済講義ーー統計の信頼性から成長のゆくえまで』

 春の積読解消祭り第一弾。梶谷懐著『中国経済講義』について。

 

  『日本と中国経済』(ちくま新書)や『日本と中国、脱近代の誘惑』(太田出版)など、経済に限らず現代中国について全般的に語れる数少ない日本人研究者の待望の一冊。いまや中国についてなら、まずこの人の話を聞いておけば間違いない。冒頭で述べられているように、本書は新書には珍しく経済学における難解な用語あえて廃していない。それは中国経済を何の脚色もなく、真正面から語るためにはそうせざるを得なかったという側面もあるだろう。

 本書は各章で日本で話題に上がる中国経済にまつわるトピックを扱っており、しばしば誤解(曲解)されがちな中国経済への正しい理解を促すような構成になっている。序章では、しばしばその信頼性が疑われる中国の官庁統計について、1章では金融リスクについて、2章では不動産バブルについて、3章では経済格差のゆくえについてが、主にマクロ経済的な視点から説明されている。

 中でも私が個人的に興味深く読ませてもらったのが、第4章以降である。すなわち、農民工など中国の労働問題について(4章)、深センなどで発達しつつあるイノベーションについて(6章)である。以下では、この二つに議論を絞って知見をまとめてみたい。

 

 まずは中国の労働問題について。

 去年、北京で出稼ぎ労働者などを一斉に検挙・一掃する事件が起きた(例えば、「低端人口排除」を加速する火事は“失火”か?:日経ビジネス電子版)。改革開放以降、農村から都市部への出稼ぎ労働者、いわゆる「農民工」の流入が加速したことは有名な話だが、ではいったい彼らは都市部においてどのように仕事をしているのだろうか。梶谷が言うように、日本では中国の人権問題が話題になることは多いが、労働問題にまで関心を寄せるメディアは少ない。そこには中国固有の制度が深く絡んでいる。

 改革開放以来の中国の急速な経済発展を支えたのがまさに農村から都市への労働移動(他の先進国ではこれを海外からの労働者、つまり「移民」に頼っている)だったわけだが、最近の研究者の中には2010年代以降に中国政府が「新常態」という経済成長率の上昇から維持へという新方針を打ち出した背景には、農村における余剰労働力が枯渇してきたのではないかという指摘する者もいる。このような農村から都市への移動が抑制される分岐点のことを、経済学では「ルイスの転換点」という(p.136)。

 しかし、梶谷は「中国がルイスの転換点を迎えた」という結論を出すにはまだ早いという。つまり、中国にはまだ農村に十分な余剰労働力が眠っているのではないかと述べるのである。この問題提起を行ううえで参照されるのが「ハウスホールド・モデル」である。ハウスホールド・モデルでは、以下のように農家の経済行動を合理的に説明する。すなわち、「農家は、固定資本(土地)と流動資本を投入して利益最大化を図る、土地経営者あるいは企業家としての側面を持ちながら、同時に労働者/消費者として、余暇と労働時間の間でバランスをとりながら、効用最大化を図る存在でもある」(p.139)。

 このハウスホールド・モデルを取り入れると、農民が無尽蔵に都市へと流入するという説明に無理があることが分かる。通常、農家が従来の農業生活を放棄して都市へ出る場合は、それまで持っていた農地の所有権を手放したり、誰かに貸すことによって新たな収入を得る。しかし、土地が原則として公有である中国においては、農民は農地の「請負権(経営権)」を地方政府から割り当てられている。したがって、「たとえ都市部の賃金が農業の限界労働生産性(農業労働に対する「報酬」)を大きく上回っていたとしても、それが地代収入を十分にカバーできなければ、それまで耕作していた土地を手放してまで農家が出稼ぎに行くことはない」(p.140)ということが想定できるわけだ。つまり、2005年以降に顕著になった農村から都市への出稼ぎ労働者の急減は「疑似的な転換点」でしかないわけである。

 これらの問題点や農村戸籍都市戸籍の区別による制度上の不平等を解消するために、中国政府は「新型都市化政策」という方針を新たに打ち出している。これは「『農村を開発して中小規模の都市を創設する』と同時に、『農民(工)の市民化』を通じて中間層を拡大し、肥大化した国内投資に代わる、需要面での成長のエンジンを創出する」(p.144)という目的で始まったものである。つまり、これまでの農村地域を都市化し、農村戸籍保持者がその都市に移住するコストを一線都市(北・上・広・深)よりも緩く設定することによって、農村の余剰労働力のさらなる流動化を活性化させようとする試みである。しかし、実体としては農民はやはり土地を手放してまで都市へと出るインセンティブをいまだ見出していないようである(p.147)。

 

 中国における農村から都市への出稼ぎ労働者の動きをめぐる展望を概観したところで、続いて農民工が置かれている労働現場を見てみよう。

 中国にも日本と同様に労働組合(中国語で「工会」)が存在するが、その労働市場・慣行は大きく異なる。まず、都市の建設現場では「包工制」と呼ばれる慣行がある。これは、建設会社→労務会社→包工頭→労働者、と労働者の下請けを行う労働慣行システムである。「包工頭」は労働者の親分的な役回りを担い、しばしば中間搾取の温床になっている。このシステム上では、募集の過程で包工頭と労働者が労働契約を結ぶことがほとんどないため、最底辺にいる労働者が常にリスクを負う形になる(p.152)。

 しかし、だからと言ってこの慣行が直ちに是正される兆しはない。なぜなら、「包工頭は建設企業の名義により、農村における地縁・血縁に規定されたネットワーク関係を利用して労働者を募集し、中間マージンを得ることができ」、「建設業者は、労働者の募集と管理を包工頭に『丸投げ』することにより、少ないコストで安価な労働力を確保できたほか、労務管理上のトラブルの責任を包工頭に押し付けることができた」からである(p.151-2)。一見、不合理な制度が存続する背景には、現場での合理的な理由があるというわけだ。

 通常、これらの労働者の権利や処遇を是正するために何らかの働きかけを行うのが労働組合なわけだが、中国の工会は中華全国総工会の規約に「中国共産党の指導する労働者が自ら結成する労働者階級の大衆組織であり、党が労働者と連携する際の橋梁、紐帯、国家政権の重要な支柱」であると定められているようにほとんど「官製」であるため(p.154-5)、労働者の代表としては機能しなかった。そこで、その穴を埋める役割を担ったのが労働NGOだった。去年の低端人口の一掃事件の時も、労働者のサポートを行ったのは労働NGOであった。

 

 続いて、6章の中国のイノベーションに関する議論である。

 中国のイノベーションが日本でも注目されるようになって久しい。その際に特に注目されるのが、広東省にある深圳市である。香港に隣接するこの都市は、80年代に経済特区に定められたことを契機に急速な発展を遂げてきた。実は、私もここに半年間滞在したことがある。中国に対してステレオタイプ的な見方を持っている人ほど、この都市を訪れて驚愕し、そしてドはまりするだろう。

 深圳はまず電子部品の集積場として発展した。では、そんな中国によくあるような一都市がなぜここまで発展することができたのか。梶谷によれば、そこには深圳のイノベーションの三つの特徴が関わっている(p.198)。

 第一に、深圳では(知的)財産権の保護が十分発達していない点である。深圳では知的財産権の保護に関して、全く異なる考え方を持つ企業が乱立している。

 一つ目が「プレモダン層」である。この世界では知的財産権が全く無視され、例えば「山寨携帯」(海賊版携帯電話)などが切り売りされている。日本などの工業先進国では、自社(あるいは下請け機関)内で製品のすべて(例えば携帯の場合、基盤、チップ、回路設計、ソフト開発などなど)をまかなうような体制を整えるが、プレモダン層が発達した深圳では状況は異なる。つまり、もしある企業がスタートアップとして携帯を作りたければ、乱立する個々の電子部品業者から少ロットで部品を集めて販売することができるのである。こういった体制を、日本のような水平的な組み立て様式と対比して、「垂直分裂」にもとづく生産体制という(p.201)。これによって、零細業者や電子部品の知識の薄い企業家が市場に入場できるハードルが極めて低くなる。

 二つ目が「モダン層」である。ここに含まれるのは、ファーウェイやZTEのような特許によって独自の技術を囲いこむ企業である。

 三つ目が「ポストモダン層」である。この層が最も重要で、ここには独自の技術を開発するものの、それを特許で独占することなく、むしろ積極的に開放し、様々な人のネットワークを広げることでイノベーションを促進していこうという企業群が含まれている(「オープンソース・ハードウェア」)。代表的な企業がエリック・パンが創業した「Seeed」である。同社は、自社が開発した製品の回路図やデータやコードなどを外部に公開し、何か改善点があればそれをインターネットで募集する形を取っている。開かれたネットワークを駆使することで、企業内の知識循環を促進しているというわけだ。また、同社はもう一つ重要な事業として、顧客の注文に応じた少ロットの電子部品を製造している。つまり、製品開発の「先輩」として、アイディアはあるが資金が乏しい「後輩」のメイカーを手助けする事業を手掛けているのである。

 深圳のイノベーションを活性化させている第二の特徴は、法の支配が貫徹していない不確実な市場において、アリババやテンセントなどの大手IT企業が「情報の仲介者」としての役割を担っている点である。

 上述のように、深圳では極めて零細な業者であっても簡単に市場に参入することが可能である。しかし、それは粗悪な製品(「パクリ」)を掴まされる可能性もあることをも意味する。もちろん、パクリがあるからこそ経済が活性化するという側面もあるが、それでは市場が混乱することになる。そのニーズにこたえるのが「デザインハウス」と呼ばれる企業群である。彼らは、玉石混交の数ある深圳の部品製造元の中からどれを選べばいいのかを製品開発企業に指南する役割を担う(p.208-9)。

 このような情報の仲介を行うのはデザインハウスだけではない。アリババやテンセントなどのIT企業も、ECなどのプラットフォームを作ることでその機能を果たしている。アリペイによる電子決済では、「買い手」と「売り手」の間にアリババが入ることによって、買い手が粗悪な商品をつかまされることを減らし、かつ円滑な商品発送・代金支払いをアシストしている(詳しい図はp.216)。

 第三に、先駆的な企業が政府の規制を無視した行動を取ることで、なし崩し的に「制度」を変化させるという現象が起きている点である。このような状況を梶谷はハイエクの言葉を用いて、「自生的秩序」と表現している。これはすなわち、「政府が法規制を整備する前に民間企業の行動によって次々とデ・ファクト(事実上)のルールが形成され、それが社会全体のイノベーションを加速していくという一連過程」(p.219)である。だが、これは政府が全くの無力で民間の力だけで市場が回っているということを意味しているわけではない。あくまでも、政府が何らかの規制やルールを作る立場にあるわけだが、それがうまく機能しなかったり、あるいはそもそも政府が厳格に取り締まるためにそれを行っているのではなく、ある種の「なれ合い」として行っており、その杜撰さ不徹底さによって民間が自由に自らの慣習を作っていくということを意味している。このような政府と民間のいたちごっこによる「制度」の生成・再編成が、深圳におけるイノベーションの活性化に帰結したのだ。

 いずれにせよ、深圳における「エコシステム」は巷で言われている以上に複雑で、かつ独創的である。そして、面白いのはそういったシステムが誰かの意図によって生まれたわけではないということである。そこに集う政府、メイカー、起業家、製造業者などのアクターがそれぞれ自由に、自らの利益を求めて行動した結果、現在のようなシステムが構築されたのである。例えば、これをそのまま東京に移植しようとしても無理だろう。唯一、深圳から日本が学べるものがあるとすれば、それはいち早くがんじがらめの規制やルールをまず取っ払って、自由にモノづくりをできる土壌を作ることだろう。

岡本太郎記念館

 先日、岡本太郎記念館に行ってきた。

 小田実じゃないけど、「なんでも見てやろう」という意気込みで東京にいる間にできるだけ美術館や展覧会を見ておこうと思っているのだが、最近は忙しくてご無沙汰だった。

 久々に行ってみて、やっぱりアートはいいなと再実感した次第です。

 

 今回、「行きたい美術館リスト」の中でそんなに上位にあるわけではなかった岡本太郎記念館に行った理由は、ある作品を見たかったからである。

  岡本太郎と聞いて多くの人がまず連想するのは、「芸術は爆発だ」といった名言やあの奇抜でヘンテコな造形の絵画・モニュメントの数々だろう。実際、私もそれぐらいの知識しかなかった。

 現在、岡本太郎記念館では、これまで注目されてこなかった彼のもう一つの側面にスポットライトを当てた企画を行なっている。それが『太郎は戦場に行った』である。

 同企画展は、太郎が1942年から4年半戦地に赴き、そこで見たもの感じたものをまとめた手記などからインスピレーションを受けた現代芸術家の弓指寛治さんの作品を展示している。

 中でも感動したのは、「白い馬」という作品である(ちなみに作品は全て撮影OK)。

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 この作品は、戦地で実際に白い馬の死体を見たという太郎の体験談をもとに描かれたものである。以下は太郎の「白い馬」の記述である。少し長いが、情景を想起できるように引用してみたい。

 戦争中、中国の前線にいた。私の人生で、もっとも残酷に、辛かった時代である。軍隊では、私の生き、信じてきたモラルとはすべてが反対だった。なま身をひきちぎる、逆の噛み方で時空の歯車が回転していた。

(中略)

 大陸の夜は深い。信じられぬほどの静寂のなかに、一人、銃剣をかまえて歩きまわっている。すると、何処からか、ザアッと水の流れるような、異様な音が聞こえてくる。

 何だろう!

 音をたよりに、行く。ふと見ると、真白な馬。

 夜空に向かって首をあげ、前脚を突っぱってのけぞっている。悪路の行軍のはて、ついに力つきた軍馬の死骸である。

 全身から真白にウジがふき出し、月光のもとに、彫像のように冷たく光っているのだ。

 ウジのうごめく音が、ザアッと、低いすさまじい威圧感でひびいてくる。鬼気せまるイメージだ。

 生きものが、生きものを犯す。生きるために。そしてその肉をまた強者が食う。今おびただしいウジが、肉の巨塊をなめつくしているのだ。

 ザワザワと不気味な音をたてながら。

 太郎は戦地で見たその光景に、「ザワザワ」という音を聞きとり、そして繰り返される生命の営みを悟った。この体験は多分にその後の作品作りに影響を与えたことだろう。

 弓指はこの手記をもとに上の作品を手がけた。

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 近寄って見てみると、その緻密さが分かる。巨大な馬に群がるウジ。

 

 一見の価値あります。ぜひ、来訪してみてください。

 あと、もう一つ、太郎とジャズに関する企画もやっています。「芸術は爆発だ」という言葉からも分かるように、太郎は未来も過去も越えて「今この瞬間」を生きることを目指していた。そんな彼が「即興と対話」を旨とするジャズに共感を抱いていたというのは面白い。

 

 その他、撮影した作品を列挙。

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「戸籍」とは何かーーその機能と役割について

 戸籍にはいかなる機能があるのか。遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史ーー民族・血統・日本人』の第一章をもとに簡単に整理してみたい。

 

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

 

 

 戸籍とは何なのか。遠藤は戸籍を「個人の身分関係の変動について記録し、国家が管理する公文書」(p.10)と定義している。戸籍自体は東アジアに特有のものだが、西洋でも身分登録制度は存在する。古今東西を問わず共通するのは、国家が人民を管理する目的でそれらの制度が作られたということである。

 ちなみに、ここで簡単に戸籍と西洋の身分登録制度の違いについて触れておくと(p.65)、第一に後者は基本的に個人を単位として登録が行われる。第二に、出生や婚姻、死亡などのイベントごとに個別の登録簿に記載される点である(日本の戸籍はそれらを統一のペーパーにまとめて記載する)。第三に、身分登録の対象となる記載が日本と比べれらば必要最小限に絞られていることである。戸籍には個人の親族関係などを事細かに記載されるが、個人を単位とする身分登録では出生や婚姻、死亡以外の事項は基本的に記載されない。もちろん、西洋の中でもそれぞれの国家で独自の国民登録システムを作っているが、基本的に上述の三つは共通している。

 戸籍の話に戻ろう。国家が人民を管理する目的で作られたのが戸籍であったが、遠藤によると、その目的はさらに①「国内人口の静態および動態を把握するという人口調査」②「個人の身分関係を把握するという個人識別」の二つに集約できるという(p.10)。①は簡単に言えば人口統計や国勢調査に近いものとして戸籍が用いられるということを意味しており、②はそういった簡単な人の「数」や「移動」に注目するだけではなく、一人一人の出自やそれにもとづく身分を系統的に把握することを意味している。

 だが、戸籍におけるこの二つの機能は同時に発生したものではなかった。つまり、古代国家では①の目的のみで戸籍が用いられていた。というのも、「国民」という概念もなく、国家の領域も成員も明確に確定していなかった当時は、徴兵や徴税、労役といった義務を人民に賦課することがまずは念頭に置かれたからである。したがって、性別、年齢、職業、世帯数など最小限の人口構成を把握することだけで十分だったのである。また、近代以前は国家というもの自体がなかったから当然ではあるが「国籍」も存在しなかった。国籍が発明されるのは、ナポレオン期のフランスやプロイセンであるといわれるが、それが東アジアに輸入されるのは19世紀末から20世紀初頭にかけてである。したがって、近代以前は戸籍への登録がすなわち「国家が個人を『国民』として認証する意味をもったと考えられる」(p.10)。

 そして近代に入ると、状況が一変する。産業革命の影響で人々の職業も多様化し、都市化に伴って人々が移動する範囲も拡大する(特に農村部から都市部へ)。さらに、国家が労働者保護や社会保障などの各種福祉政策や治安維持などを担うようになり、「夜警国家から福祉国家へ」と変化していく。そのため、おのずと国家は単純な「人口調査」以外にも、個人の家族関係(出生・結婚・離婚・死亡、どういう家族構成かなど)や居住関係(出生地と現住地など)をより詳細に把握することが求められるようになり、戸籍に上述の②の機能が付与されたわけである。

 現在では、国勢調査などが発展・整備されたことで、戸籍における①の機能はほとんど顧みられることはなくなったかもしれないが、個人的には完全になくなったわけではないと考える。実際には、①と②の機能は時系列的に発展したが、今では二つの機能が相互補完的に用いられているように思う(特に戦後初期の台湾では中国全土の国勢調査を実施することが不可能であったため、「戸口調査」を国勢調査として援用していた。つまり①の目的で戸籍が用いられていた。と同時に、省籍が重要な区分になるため、個人の身分関係つまり出自を把握する②の機能も重視されていた)。

 

 つづいて、戸籍に何が記載されるのかをやや詳細に見ていこう。ここでは、主に日本の戸籍が議論の対象となる。現行戸籍法第6条では、戸籍は「市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子」を単位として編成されるとしている。つまり、「本籍と氏を同じくする『家族』が同一の戸籍に入るということである」(p.27)。これを「一家一籍」の原則という。さらに、戸籍法第13条では、戸籍の記載事項として、①氏名、②出生と年月日、③戸籍に入った原因及び年月日、④実父母の氏名および実父母との続柄、⑤養子である場合は、養親の氏名および養親との続柄、⑥夫婦については、夫または妻である旨、⑦他の戸籍から入った者については、その戸籍の表示、⑧その他命令で定める事項、の八つを挙げている(p.27-28)。個人の家族関係は多様なので、実際にはこの八つの中で当該個人に関係する内容が記載されることになる。

 ほとんどの場合、戸籍は人生における種々のイベントを経て、その記載内容が書き換えられる。例えば、婚姻や養子縁組などによって従前の戸籍から他の戸籍に入ったり、あるいは開設したり、子は成人すると親の戸籍から独立して新たに自分を筆頭者とする戸籍を作ったりすることができる(これを「分籍」という)。戸籍制度自体がそもそも国家が個人を管理するために作られたものであることは前述したが、では国家は戸籍を参照することによって人の異動をどのように管理しているのだろうか。

 遠藤は、「過去から現在までの身分変動というタテ軸」「現在の親族関係というヨコ軸」のベクトルを駆使することで戸籍上の人の異動が把握されると述べている(p.30)。これを戸籍の「索引的機能」という。例えば、一つの戸籍において親が死亡したり、子が婚姻や養子縁組などによって他籍に移ると、一人ずつ戸籍から除かれる。最終的にすべての家族構成員が戸籍から抜けると、その戸籍は戸籍簿から外され、「除籍簿」に移される(2010年の法務省通達によって、除籍簿の保存期間は150年とされた)。そして、新たな戸籍に入った場合、その中に以前に所属していた戸籍が記載されるようになっているため、現在の戸籍を見ただけで個人の出自を明治初年の壬申戸籍までさかのぼることもできる。これが「タテ軸」を駆使した索引である。そして、言うまでもなく戸籍には親族関係も記載されるため、現在存命の家族構成なども把握することができる。また、タテ軸の索引を使えば、本人の直接的な関係を持たないような遠戚を特定することも可能である。そして、こういった戸籍の索引的機能を補完するのが、夫婦親子同氏の原則である。同じ戸籍に記載されている者は、原則として「氏」を同じくするという前提があるからこそ、連綿と続く親族関係を検索することが容易になるというわけである(p.48-49)。

 このように、戸籍は個人単位ではなく親族団体を単位とし、かつ西洋の身分登録制度のようにイベントごとにバラバラにではなく、個人の出生から死亡までの出来事を統一的に記録しているため、個人の身分関係と親族関係を時系列的に把握することが可能になるのである(p.31)。これを戸籍の「系譜的構造」という。これが官僚をして「戸籍は世界に冠たるもの」と言わせしめる所以となっているのであるが、これはひとえに国家が個人をより効率よく管理することを念頭において作成された制度であることを忘れてはならないだろう。

 

 そのほか戸籍に関わる事項をいくつか整理してみよう。まずは「本籍」についてである。正直、この本籍は非常に奇妙で難解な概念である。本籍は「戸籍の所在地」つまり戸籍編製の基準となる場所を指すが、それは個人の住所でも出生地でもない。「つまり本籍は、登録される個人および家族の現実生活と必然的な関係をもたない観念的な場所であり、本籍を同じくする者が必ずしも共同の生活を営んでいるわけではない」(p.34)のである。本籍が行政上の意義を持ったのは、明治以降のことである。戸主の設定した本籍が家の所在地となるので、「○○町××番地の戸主△△」と検索すれば、その戸籍に記載される家族関係を把握することができる。つまり、本籍の現実的な役割は、今も昔も一貫して戸籍の「索引的機能」を補うことであった(p.34)。

 本籍の所在地は基本的に戸主(今でいえば戸籍の筆頭者)が日本の領土内であれば自由に選択することができる(例えば皇居とか尖閣諸島とか)。壬申戸籍の時代は、選択自由とはいえ、自分の出生地とか地縁にもとづく場所に定めるのが原則とされており、人の移動もそれほど流動的ではなかったため、ほとんど住所=本籍という建前が成立していた。しかし、近代化・工業化によって農村から都市への流入が加速すると、本籍と住所が一致しない人々が出てくる。だが、その際にも「本籍」は廃止されることはなく、むしろそういった事態に場当たり的に対処するために「寄留制度」が設けられるようになった。「寄留」とは本籍以外の場所に一定期間住所を有することを指す。1914年の戸籍法改正と同時に「寄留法」が公布施行され、本籍がない者、本籍が不分明な者、外国人で90日以上一定の場所に居住する者を「寄留者」として「寄留簿」に記載すると定められた(p.36)。ちなみに、台湾・朝鮮・樺太など、内地戸籍とは異なる「民籍」を定められていた植民地住民は基本的に外地ー内地間での本籍の異動が禁止されていたため、内地へと徴用・出稼ぎに来た植民地住民もこの寄留法によって処理されるものとなった。この寄留法は戦後廃止されたが、現在では形を変えて「住民登録制度」として残存し、戸籍に添付される「附票」に、戸籍に記載されている者の住所情報の変更が逐一書き込まれている(p.37)。

 また、興味深いのは1873年時点で、すでに壬申戸籍を「公式統計」として使うことに異議が唱えられていたことである。日本で初めて国勢調査が実施されるのは、20世紀に入ってからで、それまでは戸籍がすなわちセンサスの役割を担っていた。しかし、「日本近代統計学の祖」とされる杉享二は、戸籍が「父祖親族之続」の調査がメインとなっており、また本籍を基準として編製されるため、およそセンサスとしての機能を果たしてないと指摘し、これとは別の「国勢調査」の実施を要請していたのである(p.35-36)。

 ここまで各方面から批判されてきた本籍制度が、なぜ現在においてもなお存続しているのかについて納得できるだけの説明はあまりない。だが、戦後の新国籍法の起草にも関与した平賀健太の以下の言葉はその理由を最も端的に表したものの一つといえるかもしれない。

我が国の戸籍制度においては、戸籍の記載を受ける資格のある者は、日本国民に限られかつ日本国民はすべて戸籍に記載されるという建前である。しかるに他方戸籍制度の基礎をなすものは本籍である。本籍は現実の居住の事実とは必然的な関連を持たないが、それでもなおそれはわが国の国土における一定の場所である。してみれば、日本国民はすべて戸籍に記載されることによって本籍をもち、この本籍をもつことによって観念的にではあるが日本の国土との間に地縁的なつながりをもっている(丹野清人『国籍の境界を考える』p.103より印用)

  つまり、本籍は移動の自由は認められてはいるものの、その範囲は原則日本の「国土」内に限定されている。したがって、戸籍に記載される者は観念的にではあるが、日本に対して「地縁的紐帯」を持たざるを得なくなる。いいかえれば、国家としては国民を「日本という領土」につなぎ留めておくために「本籍」を廃止せずにいるのではないかということである。

 

 つづいて戸籍の届け出に関してである。日本の戸籍は原則として、戸籍上の身分変動があった場合に個人が自発的に役所に届出を行う「届出主義」を採用している。この届出には二つの種類がある(p.37)。一つ目が「報告的届出」であり、出生や死亡、氏名の変更、帰化、国籍の得喪などの既成の事実を個人が事後的に届け出ることを指す。二つ目は「創設的届出」で、婚姻や離婚、養子縁組、離縁、認知、入転籍、分籍などの届け出によってはじめて法律上の効果を生じる届出を指す。基本的に前者は義務的なものとされ、届出を怠れば過料が課される場合がある一方で、後者はあくまでも任意の者であるため強制力はない。

 また、戸籍の届け出は「属人的効力」「属地的効力」の効力を有している(p.38)。前者は、戸籍法が日本国民すべてに適用される以上、たとえ海外に住んでいる者であっても日本国籍を有する者であれば身分変動に関する事項は届出を行われなければならない(海外在住者は在外公館に)とする効力である。後者は、戸籍法の施行される日本の領土内で起こった身分の変動はすべて届出によって明らかにする必要があるとするものである。そのため、戸籍法適用外とされる外国人であっても、日本国内に居住する場合、身分変動があれば出生届や死亡届などを日本人と同様に提出しなければならない。

 届出主義は基本的に個々人の自発的行動に依存するため、国家は「届け出を行わなければ害を被る」という規範を押し付けることで国民の自発的行動(これは矛盾しているようにも思えるが)を促進しようと試みる。例えば、戸籍への記載がなければ個人の身分証明ができないとか、権利や遺産相続などをすることができないとすることで、国民は半ば強制的に届出へと駆り立てられる。ほかにも、「籍を入れる」という言葉からも分かるように、戸籍への記載をシンボリックな「結婚」と結びつける言説がこの規範の創出に寄与している面もあるかもしれない。

 

 最後に、日本の戸籍と関連して中国における「戸口登記制度」について簡単に整理してみよう。そもそも戸籍制度自体が古代中国の発明品ではあるのだが、中華人民共和国が現在用いている戸籍制度は正式には「戸口登記制度」といい、厳密には古代からの戸籍制度とは性格を異にする。戸口登記制度は1958年の「中華人民共和国戸口登記条例」にもとづいて作られたものであり、「中華人民共和国公民」はすべて戸口登記簿および戸口簿に記載され、それをもって公民たる身分が証明されるとしている(第4条)。

 だが、家族関係を詳細に記録する日本の戸籍とは違って、戸口は基本的に「居住登録」に重きを置いている。同条例第5条において、戸主のもとに同居している者を「戸」とし、これを単位として戸口登記簿が編製されると定めている。この「戸」とは「世帯」のことを指し、血のつながりを前提としたものではなく、あくまでも「同居者」であるのが日本戸籍と明確に異なる点である(p.71)。

 また、日本では登録基準地となるのは「本籍」であったが、中国では「常住地」とされ、さらに日本とは対照的にその常住地の異動は厳格に禁止されている。日本でも有名なように、戸籍移動が厳格に禁止されていることから、中国では農村戸籍都市戸籍の別による格差が横行しており、改革開放以降、都市部に都市戸籍を持たない「農民工」が増加するという事態が起きた。都市部の戸籍を持っている人はその土地で各種サービス(教育、就職、社会保障など)を受ける権利を享受できる一方で、当該地域外の戸籍しかない者は平等なシティズンシップから締め出されることになる。また、戸口登記事務は、都市においては公安機関、農村部においては人民委員会が担当しており、その点からも戸口がそもそも警察的目的から設計されていることを看守できる(p.71)。

 また、日本では夫婦親子同氏の原則があったが、中国では男系を示す「姓」を先祖から受け継ぐことで同一の血統が確認される「宗族」という観念がある。「姓」は父から受け継ぎ、終生不変のものとされるので、日本のように妻が夫の戸籍に入り、姓を変更するといった慣習はない。基本的に中国の婚姻法では、結婚後も夫婦はともに自己の姓を維持する権利を認めている(p.57)。したがって、戸口においても「姓」を同じくする者だけがそこに記載されるのではなく、異なる「姓」であっても記載される点に日本戸籍との相違点がある。

Paul Starr "the Sociology of Official Statistics"

 Paul Starr, 1987, 'The Sociology of Official Statistics' William Alonso and Paul Starr eds. "The Politics of Numbers", New York: Russell Sage, 7-57. という論文をまとめる。

 

The Politics of Numbers (Russell Sage Foundation Census)

The Politics of Numbers (Russell Sage Foundation Census)

 

 

 ポール・スターは統計や国勢調査社会学的解明を試みる研究者である。このほかにも統計や社会調査における「カテゴリー化」が人々の認識にいかなる影響を与えるのかなどを精力的に研究している。その試みはブルデューフーコー、ハッキングなどの「知による物象化」の研究とオーバーラップする部分があると思うが、彼らの議論に言及しているような部分はあまり見当たらない(詳しいことは分からないが、米国でブルデューフーコーなどの研究を参照することに対してあまりポジティブな考えが共有されていないのかもしれない)。したがって、この論稿も同書の中で展開される論文やその他の研究をもとに、経験的事実としての「公式統計(official statistics)」の歴史や機能を概説しているといった感じである。

 

 序章の「公式統計の社会学」と銘打った章の冒頭でまず彼は、これまで社会統計家が公式統計を「分析の手段(means of analysis)」として使ってきた一方で、「分析の対象(object of  analysis)」としての側面を注目してこなかったと指摘する(p.7)。いまや統計は有効な研究方法として確立することになったが、しかし公式統計の歴史、そして一見すると「客観的」「科学的」な手続きによって成り立っているように見えるその研究方法が実は社会的・政治的な過程の中で構築されることが見逃されてきた。そういった側面に社会学的に迫っていこうというのが本書の趣旨となるわけである。

 では、本書で度々出てくる「統計的システム(statistical system)」とは一体何なのだろうか。いわく、それは「数的情報の生産・分配・使用に関するシステム」(p.8)のことを指す。この統計的システムは大きく分けて二つの要素から構成される。一つ目は「社会的組織化(social organization)」である。これは、収集から分析・分配・使用に至るまでのデータ産出に関与する個々の回答者や国家のエージェンシー(従業員)、私企業、専門職、国際組織などによる社会的・経済的関係から成る。そして、二つ目は「認知的組織化(cognitive organization)」である。これは情報それ自体の構造化のことを指し、例えば研究領域の境界、社会的現実についての先入観、分類の体系、測定方法、データの解釈や表示に関する公式のルールなどを含んでいる(p.8)。

 要は、前者が公式統計なり社会調査なりが作成される際に関与する様々な人間たちの関わり合いのことを指し、後者が実際にデータを収集・分析する際に科学的知(あるいは非科学的だが研究者業界で自明となっている慣行)をもって現実の複雑性が縮減され、整序されることを指しているというわけである。この二つの要素が合わさって構成されるのが統計的システムであり、それによって産出されるのが統計である。そのため、その生産過程を問うことは十分「社会学的」な研究たりえるのだ。

 この前提をもとに、スターは本書で展開する議論を、①統計的システムの起源と発展②統計的システムの社会的組織化③統計的システムの認知的組織化④統計的システムの使用法と効果⑤現代における統計的システムの変化、の五つに分類している(p.9)。この序章で簡単に概説されているのは、この中の①~④までである。

 

 まずは①統計的システムがなぜ作られたのか、その歴史を見てみよう。古代ローマでは、censusを徴税や兵役義務、政治的身分の決定を目的とした、成人男性市民や彼らの財産の登録のために使用していた(p.10)。しかし16世紀後半ごろ、次第にcensusは徴税だけでなく、戦争や公共事業に従事できる人間の数や年齢をを決定したり、市民間での論争を解決するしたり、浮浪者や怠惰な人間、窃盗者などを取り締まったりするために使われるようになっていった。「この時期、censusは明らかに国家権力や社会的コントロールのための道具であったのである」(p.11)。

 しかし、近代に入るとcensusの役割は変化していく(p.11)。第一に、近代的censusは一つのネーションやその下位地域の全体人口をより包括的に測定するようになった。前近代までは男性、特定の年齢・階級、健康や世帯などしか聞いていなかったが、調査の項目はより拡大していった。第二に、個人レベルでデータを取るようになった。第三に、継続的に登録を行うのではなく、ある特定の時点での数値を取るようになった。つまり、累積的にデータを取るのではなく、調査時点におけるデータを取ることで時系列でデータを把握することができるようになったのである。第四に、近代の統計データは公表されるようになった。第五に、そして最も重要なものとして、徴税や警察を管轄する部署と統計を管轄する部署が分裂したことである。これによって、調査者と対象者の関係は変化し、対象者の中でcensusに対するある種の信頼性が生まれ、国家が調査を行うことに対する「正当性」が付与されるようになった。

 だが同時に前近代と近代の過渡期には、中央の国家が統計を一元的に管理することに対して、地方の有力政治家などから意義が出されるようになる。例えば、17世紀中盤のフランスでは、人口・経済の調査が主として新たな税負担が課されることを恐れた地方有力者らの反感を買い、調査の協力を拒まれるという事例がある(p.12)。統計の一元管理が必ずしも順調に進んだわけではなかったことは留意しなければならない。

 では、近代的意味での統計はいかにして誕生したのだろうか。そもそも”statistics”という言葉は、「国家(state)」と密接に結びついた概念であった。17~18世紀のドイツではHermann Conringが「国状論(Staatenlunde)」という研究領域を発展させていったが、その時点ではstatisticsとはすなわち数的なものであるかどうかにかかわらず、国家についての事実を指していた(p.12)。さらに、17世紀の英国では、ウィリアム・ペティが公共政策における量的アプローチを開発していき、「政治算術(political arithmetic)」という概念を生み出した。これは主に商業的な目的として作られたもので、確率などを駆使することで人口や農業生産、貿易、税収入などを算出し、国力の増強を企図していた(p.14)。そして、18世紀後半に英語の中にもstatisticsが輸入される。このように、stateを語源とするstatisticsは、近代において国家の発展に寄与するものとして発明されたのである。

 またチャールズ・ティリーが、国家建設は歴史的に「搾取的かつ抑圧的」であったと言うように、統計システムもその搾取と抑圧に関与してきた。つまり、ヒト、カネ、情報の三つを搾取し、徴税と徴兵を行うために統計は用いられてきたのである(p.16)。徴税において国家に属する人民の総数を把握することはもちろん大事だが、同時に税の「配分」のためにもそれは重要な意味を成す。つまり、国家が民主的になればなるほど税負担と配分を公平に行うために、正確な公式統計の技術が求められ、開発されていくのである。

 一般的に、経済・社会的生活への国家権力の管掌範囲が拡大すればするほど、統計研究の範囲や細かさ、量も増すといわれている。しかし、スターはこのテーゼはあまりにも単純化しすぎていると反論する(p.16)。第一に、国家の利害関心のみによって、自動的に人々の思考体系が構築されるわけではない。第二に、介入主義的政府は統計研究により関心を寄せるかもしれないが、それと同時に反発も引き起こし、全般的で信頼に足るだけの情報を引き出すのに失敗することはままある。先に挙げたフランスの例は、それを如実にあらわしている。総じて言えば、統計を集めるには広い範囲での協力体制とそれを行うだけの「政治的正当性」が必要になるため、社会を無視した国家による上からの絶対主義的権力だけではそれは達成できないのである(p.17)。

 したがって、censusが民主主義国家において成功を見たのは偶然ではない。世界で初めての国勢調査が行われたのは、1790年のアメリカにおいてである。これは下院の議席配分のために実施されたものだが、それは国家による徴税や監視などではもはやなく、民主的な制度を作るためのインフラとして要請されたのである。そして国勢調査は、特定の集団だけでなく、全体としてのネーションに資するためのものとして作成・公表される。19世紀のアメリカでは、国勢調査は国民的偉業とアメリカ民主主義の成功の証明としても機能していた。つまり、「国勢調査はナショナル・アイデンティティを強化するための一種の集団的自画像であった」(p.19)のである。

 

 次に②統計的システムの社会的組織化について見てみよう。統計的システムは前述したように、長い歴史をかけて様々なアクターが関与する一種の分業体制を築き上げてきた。と同時に、そのアクター間で協力、妥協、反発などの相互作用が発生するようになる。

 まずは中央統計局と支局の関係である。統計官僚があまりにも政策立案や分析に接近すると反逆者(partisan)になるリスクもある一方で、政策立案から独立しすぎると単なる「数字の工場(numbers factory)」になってしまう危険性もある(p.26-27)。その塩梅はケースバイケースだが、この関係性は重要である。

 次に、中央政府と地方政府の関係である。国勢調査員は多くの場合地方の職員であり、調査結果本体は地方に据え置かれ、その要旨だけが中央へと提出される。また、実際の分析は地方と中央で分散しているかもしれないが、情報への公的アクセスのコントロールは地方に任されている(p.27)。例えば、本書出版当時の西ドイツでは地方政治家が個人の情報やデータにアクセスできるように中央政府に訴えたといいう事例があるように、地方と中央の関係は常に問題になりやすい。

 三つ目は、公的領域と私的領域の関係である。最近では公的領域だけが統計を取るわけではなく、私的セクターが公的機関の依頼を受けて調査を行うケースが出てきている。その際に、データの収集・管理・公開はどの範囲まで許されるのかという問題が新たに浮上するのである。

 四つ目は、官僚と学問の関係である。公式統計は主に技術官僚の統率にしたがって、収集・管理されている。学問の世界でも国家が算出した公式統計を用いて論文や研究を作成することはよくあるが、問題は官僚と学問の世界での統計の概念や調査方法がいくらか異なることである。その対立は、日本でもしばしば散見される。

 と、ここまでが統計を作成する側の分業体制および相互関係の整理であったが、次に統計を作成する過程において、どのような社会的相互作用があるのかを見てみよう。

 まずはデータ収集の方法における相互作用である。調査のデータ・ソースや方法(国勢調査を行うのか、サンプル調査を行うのかなどの選択)は政治的・社会的プロセスの結果によって決定される。例えば、アメリカでは憲法によって10年ごとに国勢調査を行うことが定められている(p.31)。しかし、その具体的な調査方法も長年議論されてきた(コストがかかる全数調査を行う必要があるのかなど)。特に国家が実施する調査は税金によって賄われるため、調査の意義が厳密に問われる場合が多いだろう。

  次に回答者のコンプライアンスと情報公開における相互作用である。調査の回答は強制的なものから自発的なものまでさまざまあるが、その結果は回答者の今後の待遇に影響を与える場合がある(福祉、警察、徴税、罰則など)。したがって、それらを危惧して回答者が意図的に自らの利益に反しないような回答をすることもありうる。例えば、1980年米国で、国勢調査の前後でマイノリティの数が過小に数えられていることに反発して、「平等に数えられる権利」獲得のために法的承認を求める運動が起きた事例がある(p.33)。米国では、国勢調査が政治的代表権や税の分配などを決定するための基礎的資料とされる(マディソン大統領はFederalist Papersの中で「人口にしたがって代表者と税を割り当てる」と述べている)ため、調査結果の数値が非常に政治的にセンシティブなものになりやすいのである。

 三つ目はデータ収集における相互作用である。言うまでもないが、あらゆる調査は調査者と回答者の間の関係性の上に成り立っている。これは前述したので繰り返さないが、他にも現象学的観点から見れば、統計データのカテゴリーやエビデンスは必ず調査者による「解釈」を不可避的に伴う(p.35)。例えば、デュルケムが『自殺論』で深く取り上げなかったが、現象としての「自殺」をどのように解釈するのかはなかなか難しい問題である。首吊り死体で発見され、はたから見ればどう見ても「自殺」であったとしても、それが加害者によって巧みに仕組まれた「他殺」である可能性は否定できないし、自殺統計には「自殺未遂」の数は含まれていない。つまり、自殺者数の統計を取る場合でも自殺者が本当に「自死」を選んだのかどうかは数値からだけでは判断できないし、そもそも「自殺」の定義についての合意がないのである。

 四つ目はデータ処理における相互作用である。統計データの生産は、ルーティンの仕事を行う多数の事務職員と少数の管理者および専門職者による産業的・労働過程から成っている。彼らの相互作用も調査結果を左右する場合がある。

 最後の五つ目は、政府による改ざんや統計的紛失(国家による意図的なデータの不開示も含む)、公共的データの社会的分配である。産出された調査結果を公開するのか、公的に誰でもアクセスできるようにするのかなどは、国家と社会の間の相互関係によって決まる。

 

 つづいて、③統計的システムにおける認知的組織化である。ここでは、調査を実施し、そしてそれが公開され、それに基づいて公的資源が配分されることで人々の認知にいかなる影響を与えるのかということに注目している。例えば、質問項目の設定は、特定の質問を選択している一方で、それ以外の質問を淘汰していることにもなる。その時点で、調査のフレーミングが行われているのである。この節で個人的に興味深いのは、「分類(classification)」に関する議論である(p.43-46)。

 スターは、分類(classification)を「対象を彼らの関係性にもとづいて、何らかの集団や仲間の中に秩序付ける、あるいは配置すること」と定義している(p.43)。さらに分類の下位概念として「社会的分類」なるものを挙げている。これは、すなわち「人々それ自体、あるいは人々の活動、帰属などを分類すること」(p.43)である。国勢調査や社会調査で行っているのは、この「社会的分類」に他ならない。そして、それらの調査を駆使して、「国家がある集団の認識を受け入れるか、はたまたその他の分類を押し付けるかは文化的・階級的区分や政府の形態、公式に認められた自己定義を得ようとする集団の能力に左右される」(p.44)。

 この社会的分類のプロセスは大きく分けて四つある。一つ目は、分類カテゴリーの定義(domain definition)である。例えば、国勢調査などでよく使われる「エスニシティ」も自明のカテゴリーではない。類似の概念として「人種」や「民族(nationality)」があるし、ほかにも「祖先」や「カースト」「宗教」などとオーバーラップすることはままある(p.44)。どういったカテゴリーが望ましいものとして使用されるのかは、非常に恣意的に選択されるというわけだ。したがって、公式統計分類では、分類カテゴリー(domain)は第一に社会生活一般で使用する意味として、そして第二に(日常的に使われている意味から乖離することもある)国家が社会をマッピングするための形式的な意味として、それぞれ構成されうるのである(p.44)。

 二つ目は、グループ分け(grouping)である。公式統計によってなされるグループ分けは、単純に分析上のカテゴリーなだけでなく、自らのアイデンティティの公的承認を得ようとする政治的同盟や連携、社会運動、利害関係集団の区分でもある(p.44)。しかし、公式統計は時にはお互いに「仲間」であると認識していない人々も同じカテゴリーに分類してしまうことがある。そういったケースでは、統計上の境界線の引き直しをめぐって政治的闘争が生じることもある。

 三つ目は、ラベリング(labeling)である。これはハワード・ベッカーの有名な研究にもあるように、統計による分類が人々の認識を構築し、新たなラベル(時には偏見に満ちた)を押し付けることになるということである。例えば、「浮浪状態(vagrancy)」よりも「ホームレス状態(homelessness)」としたほうが、逸脱者に対する偏見を抑制することができる。つまり、ラベリング(カテゴリーの命名)は分類の第一歩であり、そのカテゴリー付けによって調査対象者の損益を発生させてしまう可能性もあるのだ(p.45)。

 四つ目は、秩序付け(ordering)である。社会的世界は複雑であると同時に、混乱(messy)している。そのため、調査などを行う場合はその複雑性を縮減しなければ、科学的理解へと進めない。しかし、その秩序付けを行う際にも、様々な段階が存在する(p.46)。まずは「矛盾の整合(reconciliation of inconsistencies)」である。ある時点での統計上のカテゴリーが、時間の経過とともにその意味合いが変化していことがある。そういった場合にその矛盾を整理しなければならない。次に「範囲が不明確な部分の構造化」である。例えば、当人が有するエスニシティや職業などの分類はしばしば不明瞭で流動的であるため、その整合性をしっかりと確定しなくてはならない。最後が「ヒエラルキーの推敲」である。「何を何の下に位置づける(記載する)のか」などは、調査を行う上で避けては通れない道である。以上のような秩序付けあるいは調整は結局、社会的現実を不公平に構造化する国家の概念的フレームワークを導入することを必然的に伴う(p.46)。

 以上の四つの方法によって、社会的分類が行われるわけだが、これらのプロセスによって分類がなされ、それが公開されれれば、もはや分類は国家の専売特許ではなくなる。つまり、分類は国家によって一方的に行われるわけではなく、ひとたび分類が行われれば、それにもとづいて人々は「集団化」したり、あるいはその分類に対して異議申し立てを行ったりするかもしれない。そうなった場合、結果として新たな「分類地図」へと作り変えられることもありうる。そういった事例は④統計的システムの使用法と効果の中で挙げられている。例えば、国勢調査局が一度ヒスパニックというカテゴリ―を採用すれば、アメリカ社会は認知的にそれに与することになる。フランスでは公式統計の中で「幹部(cadres)」というカテゴリーを用いているが、それによって中間レベルの技術・管理職のアイデンティティが形成されているという。さらに、ドイツでは社会保障の統計において、「賃金労働者(Arbeiter)」と「正社員(Angestellten)」を区別しているが、これが階級意識の形成を助長している(p.53-54)。こういった公式のカテゴリー化に抗して(特にエスニック的な)運動が生じるケースは少なくない。分類システムは、そういった国家と社会の相互作用によって生産・再生産されるのである。

大阪なおみ選手と「ハーフ」をめぐる言説について

 今週、大阪なおみ選手の全米オープン優勝のニュースが駆け巡った。それ自体は非常に喜ばしいニュースだが、そのニュースをめぐって様々な言説が吹き荒れている。ここでは、そのニュースについての雑感などをまとめてみたい。

 

 大阪なおみ選手優勝のニュースは、当初驚きと称賛をもって受け入れられていたが、次第に議論の水準が移行していった。「果たして彼女は何人なのか?」彼女の国籍帰属やアイデンティティなどをめぐって、(本人の意思とは全く関係なく)ネットを中心に議論が拡散していったのだ。彼女は現在20歳、国籍選択の義務を課された22歳までまだ猶予があるため、現時点ではアメリカと日本の二重国籍を有しているという状態である。じゃあ、彼女はアメリカ人なのか、日本人なのか。はたまた、父親の出身地であるハイチ人なのか。ネットではそういった○○人の定義をめぐって、(時には言及するのもはばかられるようなものも含めて)多種多様な言論が提出された。

 しまいには、メディアが記者会見の場で、彼女のアイデンティティを問うような場面まで見られた。ここでは記事は引用しないが、記者会見で投げかられた質問は、「海外で大阪さんの活躍や存在が古い日本人像を見直したり、考え直すきっかけになっているという報道があるが、ご自身のアイデンティティなどについてどういう風に考えているのでしょうか」といった内容である。

 これはグローバルスタンダードで考えればアウトな質問であることは言うまでもない。いわば、公開の場で自らの帰属を明かすことになるわけである。運よく大阪選手の回答が自らのアイデンティティを特定するようなものではなかったからよかったものの(というかあの場面ではああいう風に答えるしかない)、もし「私は○○人である」という風に答えていたら面倒な問題になりかねなかった。そこまで発展していたら、あの記者はその責任を負う覚悟はあったのか。質問する前にはたと考える時間はなかったのか。その逡巡があったにしろなかったにしろ、この質問自体に人種やエスニシティに対する日本の鈍感さが透けて見えた。

 

 と、こういった具合に、多種多様な議論が提出されたわけだが、以下の記事ではその議論の類型を大きく分けて四つに分類している。

 

www.hafutalk.com

 

大坂なおみさんは「日本人」

大坂なおみさんは「日本人ではない」「日本人としては違和感」

③ 何人(なにじん)かはどうでもよい。選手としてすごい

大坂なおみさんのインタビューや語ったアイデンティティになるべくそったような表現を心がける

 

 さらに、①は「『日本の誇り』『日本人すごい』といったように、なおみ選手の活躍と『日本のすばらしさ』を結び付けようという語り」と「『日本人』は、実際には多様である。大坂なおみ選手のように、『日本人』は多様化している。大坂なおみさんたちの存在で、『日本人』が多様化する」という二つの言説のタイプに分けられるという。つまり、大阪なおみ選手を「日本人」と名指す人の中にも、異なる「日本人論」を掲げる人々がいるというわけである。これは「△△は○○人である」というカテゴライズの言説自体は同じでも、その中にも様々な「根拠の示し方」があるということを示していて興味深い。こういった「日本人論」は普段は意識されることはないが、社会の中に通底しており、今回のようなデリケートな事件が起きた時に突如として吹き出す。どういった「根拠の示し方」が出るかはおそらくその議論のテーマに依存することも多いだろうが、ある程度、日本の主要なナショナル・アイデンティティを反映したものになっている。

 個人的にSNSを追って見ても、だいたいこの四つの言説の類型に大別できると思う。「日本人」or「日本人でない」という大筋の議論を繰り広げる①②にくわえて、そういった議論をすること自体がバカらしいという③は「何人かはどうでもよい」と述べる。そして、そういった他人によるアイデンティファイにくぎを刺し、アイデンティファイは個人の自由で当人に任せようという④も存在する。これは、おそらく大阪選手に限らず、何らかの業績を残した重国籍日本人ないしは外国籍日系人などをめぐる議論で頻繁にみられる類型だろう。

 また、記事によると、④のようなタイプはSNSやメディアを含め、日本の言論のなかにはあまり見られず、むしろ海外メディアの中で出てくる傾向にあるという。言及されているワシントンポストの記事では、見出しに「日本人、ハイチ人」と二つのカテゴリーを併置する方針を取っているという。これは多様なルーツを持つ人種が混在する米国ならではといえるかもしれない(おそらく日本の記事の中にも彼女が日本人とハイチ人のハーフであることは示されているだろうが、それを記事の見出しにまで出した者はないだろう)。

 

 このように、二重国籍の問題は国内外で(本人からではなく外野で)大きな議論を巻き起こす、非常に敏感な問題である。2年前に起こった蓮舫議員の国籍問題と比較してみても面白いだろう。今回の議論は、国籍が個人の問題であると同時に、国家の問題でもあるということをの如実にあらわしている格好の事例だった。