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クリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』

 今回はクリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』のレビューを書く。

 

軽いシティズンシップ――市民、外国人、リベラリズムのゆくえ

軽いシティズンシップ――市民、外国人、リベラリズムのゆくえ

 

  現在、シティズンシップ研究にも関心の範囲を広げ、邦訳のものから手を付けているのだが、2010年に出版された本書は邦訳の中では理論的側面をカバーした割と最近の議論まで包括的にまとめているので便利ではある。しかし、ここ2,3年でシティズンシップ(特に移民)に関する議論は様変わりしてしまった感があるので、やはり現時点で読むと時代遅れな感想を少し抱く。

 

 本書におけるヨプケの主張はいたって明解である。すなわち、グローバル化が進展する現代では、シティズンシップはますますリベラル化していくということである。そして、これまで人々の地位、権利、アイデンティティを強く規定してきたシティズンシップのプライオリティはますます低下していき、「軽いシティズンシップ(citizenship light)」になる、というのが主な筋書きである(だが、ヨプケ自身が弁明しているように、これは彼が研究の対象としている欧州、北米、オーストラリアなどの主に西洋諸国に限定されることで、アジアやアフリカなどの地域ではまた状況は異なるかもしれない)。

 詳しい議論は本書の2章以降に譲るが、例えばこれまで西洋諸国で採用されていた「帰化テスト」はその国に対する「忠誠心」を測るような設問が多かったが、多文化主義や移民の統合が叫ばれて以降は、そういった排他的でナショナリスティックなテストは廃止され、むしろ「人々が持つ普遍的な権利は何ですか」などの非国家主義的な設問が作られることが多くなった。これは移民に対するグローバルな規範と連動するものであると同時に、多くの場合がイスラム圏からの移民である西洋諸国が「イスラム化」に抗するために「(イスラムに対する)普遍的人権を重んじる西洋文化」を強調する目的で採用されている。ますますグローバルな政体(EUなど)が規範的な秩序を構成し、移民の受け入れが不可避の状況が進展していく中で、西洋国家はナショナリズムではなくリベラリズムで対応していくしかなくなるというのがヨプケの展望である。

 もちろん、これはトランプやBrexitなどの昨今の動きを鑑みれば、全くの的外れのようにも思えるが、完全に外れてもいないように思える。というのも、ヨプケが言うように国籍制度を見てみても、例えば強固に「血統主義」を採用していたドイツですら、部分的に「出生地主義」を採用し、移民2世・3世の国民への統合へと路線を変更していったからである。そのほか、制限的な国籍制度を採用していたルクセンブルグも規制の緩和を行っている(p.63の表参照)。

 これをすべてひっくるめて「リベラル化」と言ってしまえば、確かに西洋諸国はリベラル化していると断定してもいいのだろうが、はっきり言ってこれは「リベラル化」をどう定義するかで全く異なる見解になるだろうと思う。また、グローバル化時代においてはすべての国家はリベラルになるという単線的なモデルはやはり注意が必要なように思う。というのも、やはり現在の状況から考えるに、リベラルになっている国もあれば逆にリベラルに逆行する国もあって、混成状態にあるというのが実際の状況のように思われるからだ。もっと言えば、一国内においてもリベラルになっている制度もあれば、逆に締め付けを強めている制度もある(例えば居住のハードルは下がっているが、参政権などの政治的権利の付与は断固認めないなど)。

 したがって、最終章の「軽いシティズンシップ」のくだりは少し現実味がないように思われる。もちろん、規範的なマニフェストとしてはその方向に世界が進めばいいのだが、現実は得てしてそう簡単にはいかないものである。

 

 以上、本書全体のレビューは雑にまとめたが、個人的に重要だったのは1章のシティズンシップ論の歴史を整理した部分だったので、ここを以下でやや詳しくまとめておこう。

 まず、「シティズンシップ」という概念自体が非常に厄介で、日本語に訳すと「国籍」「市民権」「市民的権利」など様々で定訳はない。それはもちろん英語においても同様である。

 例えば、最初にシティズンシップを学問的な議論に俎上に上げたT・H・マーシャルはそもそもシティズンシップを「階級」と結びつけて説明していた。つまり、国内で階級的に分断されたし資本家階級と労働者階級のヒエラルキーを段階的に修正していくために「市民的権利」「政治的権利」「市民的権利」という三段論法を提唱したのである。これは当時、「闘争」によって労働者階級が資本家階級を打倒するとした過激なマルクス主義に対して、資本主義を肯定しつつ不平等を是正するアンチテーゼとしての意味合いも大きかった。この場合、シティズンシップは「権利」として理解されている(p.17-23)。

 一方で、シティズンシップは「ナショナル」なものとしても議論されてきた。その代表的論者がロジャース・ブルーベイカーである。彼は『フランスとドイツの国籍とネーション』において、シティズンシップ概念を仏独の国籍制度と結びつけて比較歴史社会学的手法を用いて分析を行った。この研究は国籍研究の草分けとして高い評価を受ける一方で、「市民的」と「エスノ文化的」という二項図式に仏独のネーションの自己理解を還元してしまった点で批判を浴びたが、ヨプケによるとこの研究の最大の貢献はシティズンシップの「二元性」を指摘した点にあった。すなわち、シティズンシップは「社会内において形式上平等な成員資格の地位をひとつだけ認める『内部包摂性』という性質と、そのような平等な成員資格をもつ地位からすべての外国人を無条件に締め出す『外部排他性』という性質」(p.24)の二つを含有しているのである。つまり、内部では非常に民主的な構造を備えているシティズンシップも外部に対してはナショナルな論理で排他性を有してしまうのは不可避なのである。マーシャルまではこのうちの「内部包摂性」に関する議論しかなされていなかったが、ブルーベイカー以降「外部排他性」を見直す動きが始まった。

 また、ブルーベイカーはウェーバーの言葉を借りてシティズンシップ(国籍)を「社会的閉鎖」の道具として捉えなおした。すなわち、シティズンシップは「人々を国ごとに振り分けてゆくひとつのメカニズム」(Brubaker 1992: 31)であり、これはこれまでの領域固定的に国民国家を考える視点を克服し、国境横断的に広がる国家の力を考える視点へと転換する一助となった(p.24-25)。これはグローバル化の流れがナショナリズムを「超克」することなどありえず、グローバルな時代においては単純に国家の力の及ぶ範囲が越境的に広がっていくと、ブルーベイカーが自著の中で何度も強調しているところとも一致する。つまり、「シティズンシップによる閉鎖は、国民国家としての国家が『特殊で他と区別され境界づけられた国民の、国民のための』ものであるべきとする非実体的な必要を満たす一助ともなった」(p.25)のである。

 さらに、シティズンシップ(国籍)は社会的閉鎖の「道具」であると同時に「対象」でもある。

 閉鎖の道具としてのシティズンシップにより、国家は自国領への移動を制御することが可能になる。(中略)しかしさらに、シティズンシップは閉鎖の対象でもあり、それを取得する際には国家が定める国籍法の制限を受ける。(p.26)

 国家が定める国籍法は大きく分けて①出生による取得、②帰化を通じた取得の二つの方法でシティズンシップの付与に制限を与える。いずれの場合にせよ、選ぶ主体は個人ではなく、国家であり、本質的に国民国家とはリベラルとは程遠い仕組みなのである。そして、この閉鎖の「道具」としての側面と「対象」としての側面は循環しながら補強し合う。つまり、基本的に市民は制限抜きに領域内に入ることが可能な一方で、非市民は厳しいセキュリティに阻まれるという自明性によって国民国家はストレスなく自己存続することができ、内部で成員資格を再生産する(道具としての側面)。さらに、必要とあらば、成員資格を調整して周辺的に新規成員を外部から補充することも可能である(対象としての側面)。

 ブルーベイカーがシティズンシップのナショナルな側面を強調した論者とするならば、ヤセミン・ソイサルはその「ポスト・ナショナル(脱国民国家)」的な側面を強調した論者であるといえる。彼女はもう一度マーシャル以来の「権利」としてのシティズンシップの側面に光を当て、グローバルな時代においてはもはや人々は「ナショナル」なものではなく、より普遍的な「人権(human right)」によって権利を保障されると説いた。それを彼女は「ポスト・ナショナルな成員資格」と呼んだ。

 その際、彼女はEUなどの国境横断的な政治構造が相互依存を深めることで移民受け入れ国の移民政策の恣意性を縛る第二次世界大戦の過ち(特にホロコーストというヨーロッパ最大の過ち)への反省として高まった人権文化、の二つの国境横断的な規範がこの流れを促進するという(p.32)。もちろん、依然としてシティズンシップの政策決定権を握るのは当該国家なのだが、その決定の過程にグローバルな規範が入り込む余地が大きくなってきたというわけである。ソイサルの主張はちょうど「多文化主義」が叫ばれていた時期に広く受け入れられたが、それはスローガン的なものにとどまり、実質的には権利は依然として国民国家の論理で付与される(移民は政治的権利や社会保障を与えられず、「二級市民」の地位に据え置かれる)という現実が横たわっていたため、訴求力を失っていた(p.35)。

 そして、ソイサルの後に出現した理論的潮流がウィル・キムリッカである。多文化主義の提唱者としても有名なキムリッカの理論は一見するとソイサルと同じようにも思えるが、ヨプケによるとソイサルが「普遍主義的」であるのに対し、キムリッカは「特殊主義的」な点に相違がある。つまり、前者が普遍的な「人権」によってシティズンシップの資格が与えられると説く一方で、後者は(民族でもなんでもいいが)マイノリティの権利をマジョリティに合わせるのではなく、マイノリティに特別な権利を与えて「補う」(p.36)べきだと主張する(例えば、国民の祝日少数民族にとっては何のゆかりもないただの一日である。そういった場合、少数民族の個別の祝日を設けようとすれば「特殊主義」となる)。

 だが、もちろんキムリッカの理論にも問題が存在する。まず、キムリッカの主張の裏には少数民族は特別に文化や権利を認める一方で、当該国家の包括的な「社会構成文化」を受け入れる必要がある。だが、国家があらゆる人々に中立的な立場を取ることはできないため、この社会構成文化も特定の人々に有利なものにならざるを得ない。さらに、キムリッカが認めるのはマイノリティ文化の保護などの穏当なもので、例えば「自治」などの過激なものは拒否される。彼の念頭にあるのは完全な「自由」ではなく、あくまでもマジョリティとマイノリティの平和的な「統合」なのである。

 

 以上のように、シティズンシップは様々な文脈で議論され、錯綜し、ひどいときには議論がかみ合わずに終わってしまうことすらあった。そこで、ヨプケはシティズンシップを大きく以下の三つの意味に限定している(p.43-46)。

地位としてのシティズンシップ:公的な国家成員資格のことを指す。いわばパスポートを保持できるといった意味合いで「国籍」と同義。

権利としてのシティズンシップ:地位に付随する一定の権利。マーシャルが提唱した「市民的権利」「政治的権利」「社会的権利」はこの次元に位置する。

アイデンティティとしてのシティズンシップ:個人を政治的共同体(国家)につなぎとめる共通の信条やアイデンティティを指す。この次元を通じてシティズンシップは国民やナショナリズムと結びつき、シティズンシップに具体的な「意味」(あるいは「価値」)が付与される。

 ①はいわばシティズンシップの「下部構造」であり、これにもとづいて②、③へと議論が拡大していくというのが普通である。地位としてのシティズンシップ(国籍)は移民などの外国人に対しての議論でも適用されうるし、例えば女性や性的マイノリティなどにも適用される場合もある。さらに、権利としてのシティズンシップは国民ー移民の文脈で階層化されることもあれば、移民内で権利の階層化が行われる場合もある。アイデンティティとしてのシティズンシップは(a)一般の人々に抱かれる経験的な信条(b)国家が人々に持たせようとする規範的な信条、の二つの種類が存在する。後者は国家が標榜し、国民ないしは移民に押し付けるナショナル・アイデンティティである。シティズンシップのアイデンティティとしての側面は唯一ブルーベイカーによって分析されたが、文化論的な帰着点に行き着いてしまったため普及しなかった。

 そしてヨプケの主張は「シティズンシップは国ごとに異なるやり方で再生産されたり、世界的に衰退の途をたどったりするのではなく、むしろさらに包括的で普遍的な方向へと進化し続けているということ」(p.46-7)である。つまり、ブルーベイカーのようにシティズンシップのナショナルな側面だけを強調するのではなく、またソイサルのようにポスト・ナショナルな側面だけを強調するのでもない①、②、③がそれぞれ連関しながら全体としてリベラルな(普遍的な)方向へと移行するというものである。

 

 以上がヨプケの整理と将来の展望である。彼の展望については、私は少々悲観的な見方をしているが、彼が提示したシティズンシップの三つの側面は非常に有用な整理だと思う。ただ、ブルーベイカーが主張するように、個人的にはシティズンシップのナショナルな側面は依然強固に残っているのではないかと思う。特に(これはヨプケ自身あえて除外しているが)西洋以外の国家の文脈では(例えばアジア)。

メモ:台湾(中華民国)の国籍制度に関する覚書(日本統治から戦後にかけて)

 台湾の国籍制度に関して大まかな歴史を整理しておきたい。参考にする文献は以下の三つ。

 

 鶴園裕基,2014,「無効化する国籍ーー日華断交の衝撃と国府の日本華僑統制・保護の変容」『華僑華人研究』11: 38-55.

 ーーーー,2016,「すれ違う『国』と『民』ーー中華民国/台湾の国籍・パスポートをめぐる統制と抵抗」陳來幸・北波道子・岡野翔太編『交錯する台湾意識ーー見え隠れする「国家」と「人びと」』,35-47.

 湯煕勇,2004,「恢復國籍的爭議: 戰後旅外台灣人的腹籍問題(1945-47)」『人文及社會科學集刊』17(2): 393-437.

 

 前2稿は主に日本と中華民国との関係の中で、国籍、つまり戦後日本に取り残された華僑(台僑)がどのように両政府に翻弄されたのかということを描いており、三つ目のは1945-47年の間に日本から中華民国に移管された台湾でいかに中華民国の国籍制度の移植が行われたのかを描いている。どちらも国府の外交部档案などの史料を渉猟しながら、当時の国府高官の言説などを分析の対象としている点に共通点がある。

 (ちなみに台湾の外交部档案史料は、現在台湾にある国史館と中央研究院近代史研究所の二つの施設で閲覧が可能なようである。)

 

 台湾に初めて国籍制度が適用されたのは日本統治時代である。下関条約締結によって台湾の領有を許された日本政府は、1895年から二年以内に清国籍か日本国籍かのどちらかを選択して、清国籍を選択した者は直ちに台湾から退去するように命じられた(もちろん、この命令を無視し、居住を続けた者は強制的に日本国籍に組み入れられた)。これによって、台湾住民は大陸の中国人とは異なる身分と法的地位を有することになったのである(鶴園 2016: 36)。

 だが、彼らは法的地位こそ違えど、民族的なルーツでは大陸の中国人とはなんら変わらないため、当然日本国籍を保持しつつ中国や東南アジアの華人社会で商業活動を営む人々は多く存在した。その際、まだまだ近代的な国籍制度が整備されていなかった中国や東南アジア諸国では、そういった華人商業家などは国家の境界を越えて商業活動の範囲を広げていったが、その過程で各現地の法律に抵触して違法行為などで裁かれてしまうということも少なくなかった。そういった状況下で、現地の華僑は自らの商業活動を円滑に進めていくために、いわば道具主義的に自らを「台湾人」と偽り、日本国籍を取得する人々が続出した。これを「仮冒籍民」という。これは今の感覚で考えれば違法行為なのだが、当時、日本の影響力を海外へと波及させることを画策していた日本政府は彼らに利用価値を見出し、積極的に国籍の付与を容認していた。言い換えれば、日本の「外縁」を拡大していく先兵としてこれらの仮冒籍民が利用されたのである(詳しくは遠藤正敬『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍』、および川島真,1999,「装置としての『台湾』と日本人の外縁」『日本台湾学会報』1号)。

  さらに、国外の外縁としては国籍がツールとして利用されたが、国内では「戸籍」が重要な役割を担っていた。つまり、台湾(および朝鮮などの他の植民地)を「日本」へと包摂する役割として国籍が使われた一方で、日本国内で「内地」と「外地」を区別するための道具として使われたのが「戸籍」だったのである。詳しくは、遠藤の前掲書に譲るが、戸籍上内地の人間が認められている権利や法的地位は、外地の住民には適用されず、いわば戸籍が「民族籍」としての役割を担っていたわけである。大日本帝国下では、国籍と戸籍を使った二層構造が築かれていたのである。

 

 日本の敗戦後、台湾は中華民国に復帰した。

 中華民国の国籍制度は1929年(この国籍制度の母体となったのは、1912年に北京政府によって制定された国籍法である)の南京政府の下で制定されたものが、2000年まで改正されずに継続していたが、この国籍制度の特徴はいわゆる「血統主義」を採用していた点にある。これは1929年という当時の状況を考えれば当然の帰結である。つまり、対外戦争(日中戦争)だけでなく国内でも大きな内戦状態(北京・南京政府の対立など)にあった当時の中華民国では、物資や支援金などの徴収が死活問題であったため、グローバルに拡大している華僑を「血統」にもとづいて「国民」とすることによって、それらの負担をカバーしようとしたのである。

 したがって、敗戦後に編入された台湾にも中華民国の国籍制度をそのまま適用し、台湾住民にもれなく「中華民国国民」としての法的地位を授けることは国府としては当然のことであった。そして、台湾島内にいる住民に対して一律国籍を付与することはなんら難しいことではなかった。しかし、問題は台湾以外に居住する台湾華僑の処遇であった。 それらの中には、例えば日本統治時代に従軍させられ(中国大陸や東南アジアなど)、敗戦後に故郷に帰ることができなかった兵士や慰安婦や、日本統治下で内地(つまり日本)に居住するようになった人々、あるいはそれ以外の世界の国々に散った台湾人など様々な者を含んでいた。

 彼らの多くは中華民国が発行するパスポートや文書を持っていなかったので、在外領事館などに申請することもできなかった(湯 2004: 408)。さらに、日本統治時代に台湾人は政府が発行する「外国旅券」でもって日本籍の証明としていたが、戦争中に従軍させられた者の多くは、日本籍を証明するような書類は一切持っていなかった(ibid 410)。そのため、彼らを他の華僑と区別して新たに「中華民国国民」として証明し、国籍を付与するのは容易なことではなかったのである。そこで、民国政府は証明書を持たない場合の復籍の条件として、在外領事館に「2名の現地華僑の保証人が確認された場合、国籍を付与する」という規定を設けた(ibid 410)。しかし、中国大陸や東南アジアなどに取り残された台湾人の多くは「帝国日本の協力者」のレッテルを貼られたため、現地華僑から疎外され、保証人を見つけることは簡単なことではなかった。

 さらに、彼・彼女らの多くは敗戦後の状況下では日本人と同様に「戦犯」扱いされ、彼らに戦勝国の一つであった中華民国の国籍を付与することは許可できないと当初米国や英国、オランダなどは否定的な態度を表明していたようである(ibid 413-423)。英国の言い分は、いまだ国共内戦のさなかで台湾の主権が正式に国府の側に移転していない状態で、かつ中華民国と日本との間で正式な和平条約を結んでいない状況下では、在日台湾人への中華民国籍付与は認められないというものだった(ibid 418)。国府国共内戦中に重要なパトロンであった西側諸国に対してはあまり強気の姿勢は見せられなかったようである(ibid 421)。

 では、在外台湾人は具体的にどのような不平等な地位に置かれていたのか。湯はそれを、①差別の対象としてさげすまれる②戦後処理で「戦犯」として裁かれる③個人の財産を没収される、の大きく3つに分けている(ibid 425)。①の代表的な事件は1946年に起きた「渋谷事件」である。在日台湾人と警察との抗争だが、戦後直後の日本では台湾人が差別されていたことを表す事件となった。

 以上のように、在外台湾人の復籍をめぐって1945年から47年の間に様々な経緯があったわけだが、1947年2月25日、米国政府は在外台湾人を中華民国国民の一部として認めるという通知を下し、一応の解決を見る。だが、これ以降、国府は1949年には台湾に正式に移転、そして大陸の中共との冷戦状態に突入したことで、在外華僑をコントロールする術を完全に失ってしまうことになった。事実上の実効支配地域は台湾に限定されたものの、国是としては大陸全土を含んで統治の範囲とする国府は、(日本帝国時代の手法と同様に)国籍をやはり中華民国の「外縁」として道具主義的に利用するようになる。

 

 そこで以下では鶴園の議論に即して、戦後国府が在日華僑(台湾人と大陸中国人を含む)に対して行ってきた政策を概観していきたい。

 前述したように、戦後民国政府は、在外華僑を中華民国国民として規定するために彼らに国籍を付与することを画策したが、それを証明する書類の不在や各国の反対によって中々前進しなかった。しかし、この時点で在外華僑が最も居住していた日本には、特別に「華僑登記証」と呼ばれる公文書を発行し、これを国籍証明書の代替物として利用した(鶴園 2016: 39)。

 だが、この華僑登記証は機能としてはパスポートと変わらないものだったが、正式にパスポートと認められていたわけではなかった。そのため、1951年に「出入国管理令」が発布され、日本に在留する外国人は一律パスポートの所持を義務付けられた際には、例外として在日華僑はこの華僑登記証にスタンプを押すという措置が取られていた。

以後の日本の入国管理では、終戦前に入国した日本華僑について「無旅券状態による在留」を認めることが慣例化していくが、これは日本政府が当初から意図したものではなかった。中華民国政府がそもそも日本華僑への一律パスポート発給を拒否していたことに原因があったのである。(ibid  40)

 サンフランシスコ平和条約締結後の1952年に日本は中華民国との間で「日華平和条約」を結び、「中国の正当な代表」として中華民国を認め、ようやく日本に駐日大使館と領事館が設置された。だが、ここで大使館スタッフを悩ませたのは、日本の華僑社会が政治的なイデオロギー対立で二極化していたことであった。すなわち、中共を支持する左傾化した勢力と国民党に幻滅し台湾独立を叫ぶ勢力とに華僑が二分されていたのである(横浜中華街などが代表的)。そこで、国府の命を受けた駐日公館は彼らの活動を統制・抑圧する必要に迫られたのである。

 そして、そこに利用されたのが華僑登記証とパスポートだったのである。すなわち、在日華僑の中で中共や台湾独立を支持する者には華僑登記証やパスポートの発行更新手続きを拒否するという手段を取ることによって、彼らの海外での活動の範囲を遠隔からコントロールしたのである(ibid 40-41)。なんらかの母国の証明書を持たない外国人は、例えば帰化申請や社会保障の申請を出すこともできない。また、自らの子供が成長して母国(台湾)に帰国することもできない。ちなみに、彼らの台湾への帰国が許されたのは台湾の民主化が進んだ1992年以降になってからだという(ibid 42)。要するに、在日華僑にとって華僑登記証とパスポートは自らの法的地位と権利を保障する唯一の証明書だったのである。

 その後、国府によって移動の自由を奪われた在日華僑は、1968年の「柳文卿事件」、1970年の「劉彩品事件」など様々な国家に対する抵抗運動を展開し、さらに1971年の中華民国の国連脱退および翌年の日本との国交断絶によって、急速に国府のパスポートを利用した統制・抑圧の力は衰えていった。つまり、今までは「中国の正当な代表」として認められ、領事館なども設置されていたが、71年以降打ち消されたことによって、中華民国パスポート事態の効力が喪失してしまったのである。国府が在外国民をコントロールする術は完全になくなってしまった(しかし、国府はこの過程で在日華僑の国籍離脱の制限を撤廃する一方で、国府発行のパスポートを引き続き保持させることでどうにか在日華僑との関係を保とうと苦心していた[鶴園 2014: 47-51])。

 だが、海外の反体制派をどうにか統制したいと考えた国府は、70年代以降、彼らを「ブラックリスト」に入れて帰国を拒否することでそれを実行した。例えば、米国に亡命して台湾独立の主張を掲げていた、のちの民進党議員などがそれに該当する。しかし、彼らは米国でロビー活動やデモ行進などを行い、大々的に海外メディアなどにアピールすることによって、外側から国府に圧力をかけていった。さらに、当時1979年の美麗島事件を皮切りに台湾内でも民主化勢力の勢いが増していた。これらの「外力」と「内力」によって、国府は最終的に1992年に台独派の帰国禁止の解除を宣言したのである(鶴園 2016: 45)。

 

 以上が日本統治時代~戦後~1990年代にかけての台湾に適用された国籍制度および在外華僑統制の大まかな流れである。重要なのは、国籍などの制度は人々を縛る「手段」であると同時に、その枠組みをめぐって様々な議論を呼び起こす「対象」でもあるという点である。したがって、サブ的なものとして語られがちな「制度」は、当然それ自体が研究の対象となりうるのである。

メモ:台湾(中華民国)における国籍制度の歴史

 台湾(中華民国)における国籍制度の歴史についての備忘録。参照したのは以下の本の特に5章。

移民政策の形成と言語教育―日本と台湾の事例から考える

移民政策の形成と言語教育―日本と台湾の事例から考える

 

 

 台湾は周知の通り、いまだに中華人民共和国との内戦状態にあり、国際的には正当な「主権国家」として認知されていない。そのため、「国籍」もまた複雑な制度設計になっており、そこには台湾政府の複雑な思惑が見え隠れしている。

 

 そもそも、中国に初めて近代的な意味での「国籍制度」らしきものが作られたのは、清朝末期(1909年)の「大清国籍条例」である。その後、1912年に建国した中華民国政府(北京政府)の下で、大清国籍条例は「中華民国国籍法」へと刷新された。さらに、1929年には北京政府を破った蒋介石率いる南京政府によって、「(新)中華民国国籍法」が作られる。

 大清国籍条例および中華民国国籍法の両方とも、いわゆる「父系血統主義」にもとづく制度枠組みであった。これは当時の政府が「中華民族の一体化」を狙っていたことを考えれば、それほど不思議なことではない。つまり、当時の中国はいまだに「国民」としてすべての版図の住民を掌握できるだけの能力を有していなかったため、法文という名目だけでも「血統」によってそれらの版図の住民を中国という国家に包摂しようと試みたのである。(これはもう少し詳しく見る必要がある)

 

 その後、中華民国政府は国共内戦に敗れ、1949年に台湾へと正式に移転したが、体裁上はまだ内戦は続いており、「法統」を維持するために在大陸時代に制定された憲法・法律のほとんどはノータッチのままであった。したがって、国籍法も戦後も手を加えられることはなく、国民政府来台後初めて法改正が実現した2000年まで、中国大陸のすべての住民を「中華民国の国民」と定義する法体制が維持された。そのため、実質的な政治的統治範囲である台湾では国籍の代わりに「戸籍(省籍)」でもって、台湾住民の管理と差別構造が構築された。

 中華民国国籍法では、新疆・チベットだけでなく、モンゴルをも「自国領」として定義している。もともと冷戦構造下でソ連の後ろ盾を得て社会主義を掲げていたモンゴルは中華民国からの独立を宣言したが、中華民国はそれを公式では認めていない(中華民国憲法に抵触する恐れがあるから)。

 

 1950年代から戒厳令が解除される1987年までは、「大陸反攻」および「動員戡乱時期」というスローガンのもと、台湾住民の中国大陸を含む海外への渡航や移住は完全に遮断されていた。だが、国民政府としては劣勢におかれた状況を打破すべく、また国際的にも「国民政府こそが正当な中国政府である」ということを示すべく、国外の華僑に身分証明書を付与することで、遠隔的に彼らを「祖国」に包摂する政策が行われていた。

 ただし、その条件は①中華民国国籍を有している(血統主義であるため両親のどちらかが中華民国国国籍を持っていれば自動的に得られる)、②中国や香港・マカオでの国籍や永住権を得ていない華僑(つまり1949年以前に中国大陸から台湾以外の海外地域に移住した人々)に限定されていた。

 

 1987年には戒厳令が解除され、台湾政府は国境管理の制限を緩和し、それまで禁止されていた台湾住民の中国への肉親訪問を解禁した。この時代に、いわゆる「歸根」(ルーツ探し)が流行する。また、これによって同時に中国大陸住民の台湾への訪問・滞在・定住も促進された(台湾への移住を望む大陸住民は女性が多く、いわゆる「大陸配偶」と呼ばれる)。

 しかし、依然として事実上の内戦状態にあるため、中台間の人の移動を何らかの形で管理する法整備が急がれた。そこで、1992年に「台湾地区與大陸地区人民関係条例」、いわゆる両岸人民関係条例が制定された。この法律は、台湾住民が大陸へ、大陸住民が台湾へ行く際に適用される法律をまとめたもので、「条例」とはなっているもののほとんど「国籍法」に近い制度枠組みになっている(例えば、「台湾住民が大陸へ移住する場合はいずれかの戸籍を選択しなければならない」などの帰化に関する法律もこの中に明記されている)。

 先ほど、台湾政府が国策として中国人や香港・マカオ住民、「華僑」に国籍を付与することを進めていると述べたが、やはり政府としてもそれは現実的に厳しいということを重々承知である。そのため、両岸人関係条例に代表されるように、様々な法律を駆使して彼らを「国民」とは別カテゴリーとして区分して管理している。それを整理すれば以下のようになる。

 第一は、台湾に居住する(実質的に「国民」)「台湾地区住民」(定義は「台湾戸籍を有している者」)である。第二は「華僑」および海外に移住した台湾人にあたる「無戸籍国民」、第三は中国人にあたる「大陸地区住民」(定義は「大陸戸籍を有している者」)、第四は香港・マカオ住民にあたる「香港・マカオ地区人民」である。彼らを完全に「国民」として包摂してしまっては国境管理などの点で問題がある一方で、「外国人」として定義してしまうとそれはそれで中華民国憲法に抵触してしまう恐れがあるため、このような奇妙なカテゴリーが生まれたのである。

 少々分かりにくい「無戸籍国民」には、外国で生まれ、台湾戸籍を取得したことのない台湾人の実子や、帰化によって台湾国籍を取得したものの台湾で戸籍登録をしていない者、1949年以前の中国大陸や香港・マカオから海外に移住した中国系移民の後裔が含まれている。1992年の戸籍法改正によって、台湾では戸籍登記に「出生地主義」が導入されたため、海外で出生した台湾華僑は基本的に戸籍に「台湾省」とは記載されなくなった。「無戸籍国民」とは、そういった戸籍法改正の中で生じたカテゴリーである。

 さらに、「香港・マカオ地区住民」を詳細に説明すると、香港は1997年に、マカオは1999年にそれぞれ英国・ポルトガルから中華人民共和国へと返還されたが、中華人民共和国自体を認めていない中華民国はこの事実を当然承認していない。そのため、中華民国憲法上は、両地域はいまだに「列強によって割譲させられた中華民国の版図の一部」であるため、当然これらも「特殊地域」として別カテゴライズする必要があるというわけである。

 

 と、このように台湾(中華民国)における国籍制度の流れをざっとまとめてみたが、国の形が明瞭でないこの地域では、国境・国民管理がなかなか複雑に整備されていてわかりにくい。さらに、特に両岸人民関係条例は制定から現在まで何度も改正が行われており、その過程には中国政府による「台湾同胞政策」の影響が深く絡んでくるため、台湾内部での議論だけを見ていてはやはり実態を把握することは難しいだろう。

メモ:日本統治時代の台湾に関する研究

 日本統治時代の台湾に関する研究として参照必須の文献を列挙する。(今後拡大予定)

 

・台湾全体にかかわるもの

若林正丈『台湾抗日運動史研究』→台湾人エリートの言説など

駒込武『植民地帝国日本の文化統合』→教育や文化政策など

小熊英二『〈日本人〉の境界』→知識人や政治家による植民地に関する言説分析(知識社会学

 

・植民地体制下における法制度

浅野豊美『帝国日本の植民地法制』→法学的観点から植民地における法制度全体を分析

遠藤正敬『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍』→特に国籍・戸籍制度に着目して植民地における差別構造を分析

 

メモ:台湾における戸籍制度の変遷(1945年から2000年まで)

 現在、台湾における戸籍制度の変遷について調査しているので、ここに断片的ではあるが、調べたことを整理しておきたい。

 

 台湾における戸籍制度の歴史的変遷についてまとめた論文として最も著名なものは、台湾の社会学者・王甫昌による『由「中國省籍」到「台灣族群」:戶口普查籍別類屬轉變之分析』(2005)である。王はこの中で、戦後台湾で施行された戸籍制度は「中国法統想像」という国民党によるナショナル・アイデンティティにもとづいて形成されていたが、それが1992年には「台湾主体想像」という新たなナショナル・アイデンティティの動員によって、いわゆる「出生地主義」にもとづく戸籍法の改正に至ったことを説明している。また、これは「中国(中華民国)」を統治の範囲として「省籍」によって国民を管理する体制から、「台湾(島)」を範囲として「族群外省人・閩南人・客家人・原住民)」によって国民を捉えなおす体制へと台湾社会のナショナル・アイデンティティが変化したのだとも言い換えられる。

 この論文のアプローチは、戸籍法それ自体だけでなく、戸籍法にもとづき実施された「戸口普査法」(1947年公布)にも目を向けている。台湾では戸籍法の制定とともに、戸籍調査を10年おきに実施することが義務付けられた。つまり、戸籍調査の結果、および調査手法に着目し、その中で用いられているカテゴリー分類(例えば、「外省人」or「本省人」の区別は何なのかなど)を見ることで当時の上からのカテゴリー化分類の意図が推察できるというわけである。

 

 中国には伝統的に「籍貫」というものがある。これは西洋にはない概念であり、中国独自のカテゴリーだが、あえて英訳すればnativityやbirthplace、あるいはoriginal domicileなどになる(語義としては最後のやつが最も適しているように思う)。これは要は、先祖が生まれた場所(○○省××県/市)を表す「本籍」(日本でいう本籍とは別物)のことであり、これが親から子へと受け継がれていくため「祖籍」とも称される。以前の中華民国戸籍法第5条では以下のような規定があった。

中華民国人民の籍別は、省およびその所属する県にもとづくものとする。

 また、第16条では、こうも書かれている。

中華民国の子女が初めて戸籍登記を行うときは、その父母の本籍を以て本籍とする。父母の本籍が異なる場合は、その父の本籍を本籍とする。

 これはいわゆる、「父系血統主義」にもとづく戸籍法規定であるといえる。1931年に中華民国(まだ大陸にあった時代)が初めて中華民国戸籍法を制定してから、1992年の戸籍法改正までこの規定は継承されていった。

 ちなみに、現在でも中華人民共和国では「農民戸籍」や「都市戸籍」などが問題になっているが、これもこういった伝統的な制度としての「籍貫」に由来する慣習であるといえる。

 こういった血統主義にもとづく戸籍制度は、当時ではそれほど珍しいものではなかったが、台湾の場合はそれがエスニシティの対立、つまり外省人本省人の対立と結びついてしまったことで論争的で敏感な問題になってしまった。すなわち、大陸から移転した国民政府は、国共内戦の継続・大陸反攻を理由に、中央民意代表機関(国民大会や立法院など)のポストに就く人材を外省人に限定したり、中華民国憲法の規定によって籍貫(省・県)を基準に選抜人員を決めるなど、本省人に不利な制度枠組みを作っていったのである(さらに、1954年にはその中央民意代表機関の改選すらも凍結される)。そのため、「省籍矛盾」やエスニックな不平等体制の改善を訴える本省人にとっては、戸籍制度はシンボリックなアジェンダとなっていったのである。

 

 王は、戸籍調査の中で使われる籍別分類の変遷を大きく四つの期間に区分している。すなわち、①形成期(1956~66年)②過渡期(1970~75年)③第一次変遷(1980~90年)④第二次変遷(2000年)の四つである。以下で順に見ていこう。

 まず①は、初めて台湾において戸籍調査が実施された期間である。興味深いのは、国民政府が初めて戸籍調査を実施するにあたって、日本統治時代の統計・調査資料などを参照したという点である。この論文の中ではそこについては詳述されてはいないが、日本統治時代に設計された「内地人ー本島人」、さらに「本島人」のなかにも差異(つまり「漢人」、「熟蕃」、「生蕃」など)を設けるという構図は、そのまま国民政府によって応用されていったのである(さらに日本統治時代に利用された「保甲制度」も応用された)。大雑把に言えば、日本統治時代に「種族」とされていた区分が、戦後には「籍貫」に代わったというわけである。だが、その過程で日本式の調査がどう中華民国式の戸籍制度と合併され、ハイブリッド化していったのかはさらに詳細に調べる必要があるだろう。

 56年の調査の特徴は、まず「本省籍」と「外省籍」に大きく分類したうえで(本籍地が現住地とは異なる場所である場合、その人は「外省籍」となる)、「本省籍」をさらに「祖籍」(大陸の34省12市→ほとんど福建or広東省)、「族系」(台湾原住民)に細分化して統計を取っていることである(ちなみに「外省籍」はさらに「本籍省市」、つまり大陸各省市に細分化される)。「本省籍」と「外省籍」をすでに区分しているにもかかわらず、「本省籍」をさらに「祖籍」によって分類するのは矛盾しているじゃないかとも思うのだが、要は「本or外省籍」の区別は日本統治時代から台湾に住んでいる住民(本省籍)とそれ以降に台湾に渡ってきた大陸漢人(外省籍)を分けるための大雑把な区分で、そもそも日本統治時代あるいはそれ以前から台湾に居住している本省籍漢人のルーツも結局は大陸のいずれかの省に行き着くわけで、それを強調するために本省籍の中にもさらに「祖籍」項目を設けているということだろう。

 しかし、本省人の「祖籍」を証明するには困難があった。なぜなら、日本統治、そしてその直後の国共内戦の影響によって、本省人は大陸とのつながりを絶たれて久しく、すでに自らが大陸のどの省出身であるのかを把握する術を持ち合わせていなかったのである。さらに言えば、すでに本省人には「大陸はみずからの故郷である」というような感情は消滅しており、むしろいわゆる「分類械闘」の歴史のほうが身近にあったため、彼らのなかでは「福佬人」or「客家人」という区分のほうが意識されていた。そのため、戸籍調査員も苦肉の策として、本省人の祖籍区分の基準に彼らの家庭内使用言語(つまり「閩南語」or「客家語」)にもとづいて「祖籍福建」or「祖籍広東」の区分を行っていた。つまり、祖籍によって本省人エスニック的な中華民族意識を想起させるといいつつも、血縁などの強固なエビデンスはなく、かなり大雑把に証拠付けがなされていたというわけである。

 さらに66年の調査では(一次カテゴリーは「本省籍」、「他省籍」、「外国籍」の三つ)、「本省籍」を「本籍」台湾省21県市)、「祖籍」福建省広東省、その他)、「族系」(原住民)の三つに細分化している。

 つまり、①の期間(特に56年の調査)では、外省人だけでなく、本省人に対しても「中華民族」としてのルーツを植え付けるために、祖先の大陸居住の歴史的事実を証明する「祖籍」をサブカテゴリーとして設定しているのである。(ただ、66年に「本籍」が新たにサブカテゴリーとして加わっている要因は分からない)

 

 続いて②(70年、75年)では、「本省籍」が「本籍」だけにもとづいて分類されるようになる。つまり、この時期には66年までにはあった「祖籍」と「族系」という区分が消滅したのである。王によると、この時期の戸籍調査は冷戦体制下で連合国の要請にしたがって行われたサンプル調査だったらしい(外国が他国の戸籍調査に対して介入してくることなんてあるのか?)。そのため、台湾地区住民の5%のサンプルを抽出して統計が作成されている。

 では、なぜこの時期に「祖籍」と「族系」の区分はなくなったのだろうか。王によると、この当時の政府文書の中にはその理由を明確に示すものはない。そのため、当時の社会的状況から推察していこうと彼は述べる。

 70年の調査以降、立法議員(外省人)の中から戸籍制度の改革を促すような言論が提出されるようになる。いわく、70年の調査では消去された「祖籍」の記載をもう一度復活させ、また外省人が台湾で新たに戸籍を設けるときに、一度大陸にある本籍を消去したうえで台湾に本籍を新設するというプロセスを取らなくてもよい、というような規定にしようという話が出てきたのである。ここには、大陸とのつながりを再確認させ、分断されている台湾社会を大陸反攻のためにも一致団結させようという意図があった。これは、議会内の議論を飛び越えて、例えば『聯合報』などの主要メディアの社説でも取り上げられるようになり、概ね賛同の声が寄せられた。しかし、前述したような「祖籍」を調べることの困難などの問題が浮上し、実現には至らなかった。

 こういった議論が高まる中、72年には立法院に戸籍修正草案が提出される。その当時に出された声明は、概ね以上で挙げたような内容だったが、これは外省人議長によって棄却される。なぜなら、現在外省人が持っている「本籍」は大陸時代に設けたもの(つまり「籍貫」)であり、それをもとに彼らは中央民意代表機関のポストを牛耳る根拠を得ているので、もしその本籍を抹消し、新たに台湾に本籍を設けてしまえば、彼らはもはやポストに居座る正当性を失ってしまうことになるからである。これは、いわゆる「中国法統」にもとづくレトリックであるといえる。

 こういった批判をもとに、カウンターとして「では、出生地主義を導入すれば、現在ポストにある外省人は被害を被ることなく、かつ台湾で生まれた外省人二世などは省籍矛盾に苦しむことなく生きて行けるのではないか」という議論が出てきたが、反対多数で棄却されてしまった。いずれにせよ、この時期に提出された戸籍法修正草案は「台湾における省籍対立を解消しよう」という意図から出されたものであり、また提出した者の多くは国民党籍外省人であったことから、統治者の間にもエスニック間対立を早急に解決すべきだという意識が存在していたことの証左であるといえる。

 だが、結局この時期に「血統主義」にもとづく戸籍法が改正されることはなかった。これはいったいなぜだろうか。王によると、そこにはやはり国民政府による「法統」概念が関与していたという。前述したように、当時の立法議員の多くは、大陸で選出されたものが大半で(1948年に大陸で選出され、その後来台した者が400人以上いたという[p.89])、そういった議員の処遇は「大陸反攻」という大義名分のもと庇護下にあった。だが、こういった法統にもとづく省籍不平等は、1973年の中華民国の国連脱退、及びその後の台湾の民主化勢力の勢いに押され、次第に窮地に立たされていく。

 では、なぜこの時期に「祖籍」と「族系」というカテゴリーは消えたのだろうか。王によると、それはこの時期に本省人(特にその中でもマイノリティである客家人)の学者などから、単純に「言語」によって本省人の「祖籍」を判断するずさんな統計の取り方に対して多くの異論がだされるようになったことが関係している。もともと判断が難しく、調査員の恣意性が介入しやすかった「祖籍」項目をもう一度見直そうという議論が出てきたことで、この時期の統計には採用されなかったのである。(原住民の「族系」がなぜ消えたのかの説明は不明瞭)

 

 ③(80年、90年)では、一次カテゴリーとしての「本省籍」と「他(外)省籍」の区分も用いられなくなる。そしてすべて「本籍」によって区分されるようになり、この中に大陸各省市が区分として用意されている。

 

 ④(2000年)は、92年に戸籍法が改正されてから初めての調査であるが、「本籍」は完全に消滅した(ただし、エスニック・マイノリティの権利を確保するという目的から原住民の要請にしたがって、原住民間の区分(9族)は存続している)。

 では、なぜこの時期になって戸籍法の改正は実現したのであろうか。王はその要因として第一に、中央民意代表機関(特に立法院)の改選が実現したことがあげられる。80年代までは「国会全面改選」は違憲とされたため、戸籍法改正は議論の俎上には上がらなかったが、李登輝が総統に就任し、積極的に憲政改革を推し進める中で、戸籍法をアンタッチャブルなものにしていたいわゆる「万年議員」もこれによって議席を譲ることになった。(この過程で、李登輝と他の国民党議員の間の政争が絡んだ多少の飯尾篤人妥協があった)

 第二に、国会全面改選以降、それまで政治的に優位にあったが人口上はマイノリティであった外省人(特にその第二世代)が、台湾社会における自らの処遇を心配し始めたことである。さらに、国会全面改選が宣言されて以降、各種メディアにおいても政府機関の要職の省籍比率がどうなっているのかを詳細に調査したデータを開示するようになったため、世論においても省籍矛盾がさらに問題として意識されるようになっていった。

 だが、この時になぜ国民党議員のみで戸籍法修正草案の連盟が行われ、民進党籍議員からは賛同が出なかったのか。王によると、その理由は彼らにとって戸籍の不平等は支持基盤を維持するための重要なアジェンダであり、また彼らからすると、戸籍法よりも言語や学校教育における本土化のほうが省籍対立を緩和するための有効な方法であるという認識があったからである。

 

 最後に、王はこれまでの議論の整理を行っている。

 まず、1949年の国民政府の台湾移転以降に戸籍制度が作られた背景には、①国共内戦大義名分のもと、「中国法統」を国内外にアピールする必要があったこと、②日本統治時代に「奴隷化」された台湾人の「再中華民族化」が目指されたこと、が挙げられる。これをもとに、当時の国民政府の用いた理念を、王は「中国法統想像」と名付けている。これはつまり、①国家の統治範囲を中国大陸のすべてを含んでいる、②台湾住民は異なる省出身によって構成されている、③中でも本省人は中国化を要する集団と捉える、④戸籍は憲法にもとづいて維持される、⑤中央(全中国を代表する組織)と地方の二元的な政治体制を築く、⑥台湾では中国ナショナリズムにもとづく文化教育を行う、などの意味合いが込められている。

 50年代にも「国会改選」のアジェンダを掲げる人々はいたのだが、彼らは「中国法統」に真っ向から対立するような主張を出したわけではなく、あくまでも現実主義的なものに過ぎなかった(例えば「増加定員選挙」など)。そしてそれは1970年代の民主化の流れが押し寄せた時も変わらなかった。

 だが、そういった状況を大きく揺るがせたのが、やはり1979年の美麗島事件だった。この事件に対して国民政府は依然として武力によって制圧するという手法を取ったが、これがかえって民衆の怒りと被害者に対する同情を誘発し、とうとう蒋経国立法院の増加定員選挙の実施に踏み切らざるを得なくなってしまった。これによって、民主化勢力が徐々に政治的舞台に進出するようになっていった。

 この頃から民進党を筆頭として、「中国法統想像」に代わる新たなナショナル・アイデンティティとして「台湾主体想像」が叫ばれるようになる。これは、①台湾島、澎湖、金門、媽祖を国家の統治範囲とし、②本省人外省人は文化の差異はあるが、優劣の差はない、③第二世代の台湾人はもう省籍差別を受けるべきでない、④法律上の省籍区分を撤廃する、⑤国会全面改選を実現し、台湾住民の民意を代表する政治体系を作る、⑥文化・教育面での本土化と多元化を推進する、などの意味合いを含んでいる。言い換えれば、中華民族アイデンティティを強調する「中国法統想像」から、台湾本土の文化や多文化主義にもとづく「台湾主体想像」へとナショナル・アイデンティティが変化していったことが戸籍制度変革の根底にあるという結論である。

 

 

 以上が王甫昌の分析による、台湾における戸籍制度変遷の流れと要因の説明である。これは非常に分かりやすく、台湾の学術界ではすでに通説となっているストーリー・ライン(つまり国民政府による「公定中国ナショナリズム」から、主に本省人による「台湾ナショナリズム」へという流れ)とも合致する説明である。

 だからこそ、少し気になるところもある。第一に、このストーリー・ラインから演繹的に現象を単純化している点も少なからずあるのではないだろうか。つまり、戸籍制度変革の過程で本省人なり外省人なりが抱いた葛藤や妥協の側面が、「公定中国ナショナリズム」から「台湾ナショナリズム」へという大きな物語に依拠することで捨象されてしまった側面もあるのではないか。現に、90年代に戸籍制度修正を掲げた外省人の間でも様々な政争があったが、その詳細は語られていない。私は、(特に統治者である外省人の側で)もっと複雑な葛藤が存在していたのでないかという疑問を抱いた。

 第二に、戸籍制度生成・変容過程で出てきた(主に政治家による)ナショナル・アイデンティティを用いたフレーミングの過程が、この論文だけでは詳細につかめないという点である。本論分の中でも、例えば『立法院公報』などの議事録をもとに、議員の発言に着目しているが、必ずしも体系的に徹底的に行われているわけではない。本論分の中でも挙げられているように、戸籍制度を実施・変革する過程で、多くの、そして相矛盾するナショナル・アイデンティティにもとづく語法・論法が出てきた。本来であれば、それらの言説(対抗言説を含めて)を抽出・分析・解釈を行い、帰納的にナショナル・アイデンティティの再構成、および変化の分析を行うべきだろう。

 以上の問題点がさしあたり気になるところだが、これらをもとに違った角度から分析を行うには、まずは王と同様に資料を渉猟し、それらの言説を一から分析していくという骨の折れる作業が必要になるだろう(しかもその先に答えがあるか分からないのにもかかわらず)…。ひとまずは、資料の中から何らかの突破口になる手掛かりが見つかることを願う。

近代国家誕生前夜の歴史についての覚書

 国家の歴史について語るとき、多くは近代から話が始まり、それ以前の前近代(すなわち近世、中世)にいかにプロトタイプとしての国家が生成されていったのかということはあまり注目されてこなかった。もちろん、現在の形での「国家」が出来上がったのは紛れもなく近代以降(特に日本の場合は近代に入ってから突如として創造した)なのだが、近代国家の重要性を強調するのであれば、当然その前夜についての探求も必要だろう。そこで、今回は近代国家誕生の経緯をピエール・ブルデューの歴史社会学的分析をもとに整理していきたい。

 

国家の神秘―ブルデューと民主主義の政治 (ブルデュー・ライブラリー)

国家の神秘―ブルデューと民主主義の政治 (ブルデュー・ライブラリー)

 

 

 

国家の社会学

国家の社会学

 

 

 参照する文献は、以上の文献に収められた「国王の家から国家理性へ」(p.43-80)という短い論稿である。また、サポートのために適宜、佐藤成基「第5章 国家と正当性」『国家の社会学』(p.91-107)も参照する。

 

 具体的な分析に入る前に、ブルデューの国家の定義について確認しておこう。マックス・ウェーバーが国家を「ある一定の領域の内部でーーこの「領域」という点が特徴的なのだがーー正当な暴力行使の独占を(実効性をもって)要求する人間共同体である」(ウェーバー『職業としての政治』岩波書店 p.9)と定義したのとは反対に、ブルデューは国家をそういった固定的な「共同体」であるとはみなさない。すなわち、「国家とは、一定の領域とそこに住む住民の全体に対して物理的および象徴的な暴力の正当なる行使の独占を実効性をもって要求するX(未知数)である」(佐藤『国家の社会学』p.94)。この「X(未知数)」という表現から、ブルデューが、国家とは誰か(例えば国王や民)の固定的な所有物なのではなく、様々なアクター(政治家や部署、官僚など)の利害関心が交錯する「場(界)」なのだと考えていることを把握することができる。

 

 さて、ここから具体的な国家誕生の歴史について見ていくことにしよう。まず、最初に明確な形で「国家」と呼びうる現象が観察できたのは、中世末期から近世初期にかけてだった。すなわち、「王朝国家」(国王の家)である。王朝国家は「国王の家」という表現からも分かるように、国王を中心としてその親族が周りを固めるというヒエラルキー構造の中で、国家を完全なる自らの私有物として整備していった。ゆえに「家産制国家」とも表現できる。しかし、経済構造の複雑化や他国間との戦争などが多発したことで、しだいに国王の身内だけでは国家は運営できなくなっていく。そのため、国家を円滑に運営するための新たな行政機構が求めらえるようになっていった。すなわち「官僚」の誕生である。

 だが、だからといっていきなり現代のような官僚が整備されたわけではなかった。最初に官僚としての地位を授けられたのは、エリートではなく、むしろ宦官や聖職者、その国の住民でないよそ者、奴隷などのいわゆる「賤民」であった。これによって、初期王朝国家では、国王政治的に無能力化された王朝内の競争相手(国王の親族)政治的には強力だが、再生産の能力を剥奪された献身者(初期官僚)による支配の分業体制が作られていったのである。

 しかし、徐々に教育制度の拡充、それによる能力と業績にもとづく官僚登用制度が整備されていくにつれて、「官僚制的生産様式」と世襲や血統、家柄などにもとづいて国王の地位を継承していく「国王の再生産様式」が対立していくようになっていく。ここから、王朝国家が「官僚制国家」へと変化していくのである。

 

 官僚制の発達によって、国家は国王の所有物であるという認識から、「公共のもの」(この場合の「公共」は「官僚制的公共性」を指す)であるという認識へと変化していった。つまり、「国王の家」から国王の私的な目的から一線を画する独自の「国家理性」が整えられていくのである。

 このような「官僚制的公共性」が発達した背景には、大きく分けて3つの要因があるとブルデューは述べる。一つ目は、行政業務の複雑化である。上司から部下への連続的で錯綜したネットワークが行政内部に広がったことで、国王の手を離れ、独自に稼働する官僚の「公的秩序」が生まれていったのである。これは、例えばイングランドにおける国王の印璽に関する慣習行動の変化を見てみると明らかである。国王の意思は、はじめ「国璽」(官房全体の長である大法官による印璽)が押された公式文書、証書、開封文書によって表されていた。しかし、しだいに国王に直接かかわりのある案件に対しては「玉璽」(国王自らが大法官に国璽使用の指令を与える)を、国王の手書き文書に対しては「王璽」(国王の秘書官による印璽)をそれぞれ使用するようになっていった。このように様々な承認と否認をめぐる錯綜した関係の中で、互いが互いを縛る権力構造が出来上がっていったのである。

彼ら〔大臣たち〕は、国王の公式文書に対して説明を求められたり、それが真に国王の公式文書であると証明できないことを怖れていた。大法官は、保証としての玉璽を押された文書がないままに国璽を 用いることを怖れていた。玉璽の保持者は、国王秘書によって認可された国王自筆の署名があるかどうかを気にしていた。(中略)国王は、大臣たちの保証のもとで行動したが、同時に大臣たちの監視下で行動したのである。(ブルデュー『国家の神秘』p.77)

 「官僚制的公共性」が形成された第二の要因は、法学者による国家論の構築である。つまり、法学者が"common-wealth"などの概念を用いて、国家を「公共的」「公益的」なもの(であらねばならない)だと理念的に整備していったことで、「公共物としての国家の正当性」が構築されていったのである。しかし、注意しなければならないのは、こういった法学者による国家の法学・哲学的根拠づけは、彼らの利害の確保の一環として行われていたということである。

どう考えても、法学者たちが自らの国家観、とりわけ(法学者たちが発明した)「公共性」の概念を認めさせようとして書いた著作は、それを通じて法学者自らが密接に結びついていた「公共奉仕」の優先権を主張することにより、自分たちの優先権を認めさせようとした戦略でもあったと仮定せざるをえない。(中略)一言でいえば、理性と普遍的なるものの進歩に最も明白な貢献を行った人々は、普遍的なものの(ママ)を守ることに明白な利害をもっていた。公益が彼らの私益だったのだ、と言うことさえできよう。(ブルデュー『国家の神秘』p.73-74)

 最後に第三の要因は、種々の行政的アイテムの発明である。上記の二つの要因は、いわば官僚制の「象徴的」創出に貢献していたが、三つ目の要因はよりプラグマティックなもので、行政スタッフが使用する道具・事務的なアイディア(例えば、事務机、署名、公印、辞令、資格証書、証明書、帳簿記録、登記、通達など)の出現が業務遂行に果たした役割に着目する。つまり、これによって真に非人称的で相互交換可能な官僚制的行政の運営が可能になったのである(それまでは、例えば仕事上の机、ペン、紙などもすべて個人の私物だった)。

 

 以上で見てきたように、「国王の家」は「官僚制国家」への変貌を遂げていった。では、官僚制国家は次にどのような変化を遂げたのだろうか。ブルデューは、官僚制国家以降の分析は行っていないが、佐藤成基の分析をもとに少し掘り下げていこう。

 官僚制国家までの時代には、「市民」はほとんど顧みられることはなかった。市民は、納税や徴兵などによって国家が掲げる「公共」に奉仕するのみで、行政にかかわることは一切なかったのである。だが、近代以降その状況はがらりと変わる。つまり、ハーバーマスが『公共性の構造転換』で指摘したように、商業資本主義、活字メディアの発達、カフェやサロンでの自由な討議の出現によって、しだいに「官僚制的公共性」とは異なる独自の「市民的公共性」が形成されていくのである。これによって、今まで国王、官僚(が依拠する法)によってなされていた国家統治の正当性が、徐々に「市民」「人民」「国民」などの新たな担い手を得るようになっていった(民主主義やナショナリズムの勃興)。

 官僚制国家の正当性は、官僚エリートの「無私無欲な美徳」に依拠していたが、民主主義やナショナリズムは、「民」による一体的な政治的意思や文化的個性、参加機会の平等性にある。つまり、ここから国家は「民」全体を代表するものとして、正当性の根拠を見つけなければならなくなっていったのである。これ以降の近代国家の歩みは、ほとんど周知のとおりである。

 

 以上、ブルデューの国家論を概観してきたが、こういった近代以前の国家の様態を社会学的にモデリングする研究はもっと出てきてもいいだろうと思う。特に近代以降に生まれ、近代的な問題を解決することを使命とする社会学にとっては、自らの根本的な意義を確かめるためにもそういった研究が今後量産されていくことを期待する。

Theda Skocpol "Bringing the State Back In: Strategies of Analysis in Current Research"

 今回はシーダ・スコッチポルらが編集した『国家を取り戻す』という論文集の序論(p.3-37)を簡単にまとめておきたいと思う。読み飛ばしてしまったのであまり読解できていないが、分かった箇所だけを簡単にまとめて次に読み直したときにすぐに内容を理解できるようにメモする程度にとどめておきたい。

 

Bringing the State Back In

Bringing the State Back In

  • 作者: Peter B. Evans,Dietrich Rueschemeyer,Theda Skocpol
  • 出版社/メーカー: Cambridge University Press
  • 発売日: 1985/09/13
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 この論文の主旨は、当時(1985年)社会科学においてあまり顧みられることがなかった「国家」の役割をもう一度再考しようというものである。スコッチポルいわく、1950~60年代の政治科学(political science)や社会学では、政治や政府、政策についての研究は「社会」を中心に据えるばかりで「国家」の役割を軽視してきた。つまり、国家は社会からのインプットにしたがって一定のアウトプットをする受動的な機関としてのみ考えられており、一つの重要な「アクター」と見なされてはいなかったのである(p.4)。

 だが、60年代以降にはネオマルクス主義が誕生し、国家を階級闘争の産物、また資本家階級の占有物としてみなす学問的派閥(つまり、資本主義的国家の社会経済的機能についての研究)が出てくる。さらに、70年代以降にはグローバル化が加速し、各国家が相互に絡みあうフェーズに突入し、いよいよ国家を一つのアクターとして捉え、国家間の関係を考察する研究(国際関係論)も普及していく(p.5-6)。以上の経緯から、国家の役割をもういちど経済や社会などの幅広い観点から再考する必要性が生じてきたのである。

 では、その際に注目すべき観点とは一体何だろうか。スコッチポルは国家の重要な役割として、①政策目標の達成を試みるアクターとしての国家の自律性(state autonomy)、②国家の潜在能力(capacities of states)、③内実としての国家のインパクトと政治の作用(impacts of states on the content and workings of politics)の三つに着目しなければならないと述べる(p.8)。さらに、スコッチポルは注意点として、この論文で行う提起はパーソンズ流の誇大理論を作ることではなく、あくまでも中範囲の問題提起と概念的なフレームワークを提供することであると念を押している。

 

 以上で挙げた「国家の自律性」をもう少し具体的に説明すると、それはすなわち国家が特定の社会集団に依拠することなく、アクターとして独自に稼働することを指す。また、「国家の潜在能力」とは、権力を有する社会集団や反発的な社会経済的状況に置かれてもなお、国家が公的な目標を達成する能力のことを指す(p.7)。

 以上の観点から、スコッチポルは具体的な経験的研究を引用している。しかし、ここではその具体的な内容を省略し、重要な部分を抽出すると、国家の自律性は統治システムにおける固定的・構造的特徴ではなく、流動的であるということである(p.14)。例えば、コーポラティズムによって市民の反感を上手く鎮圧した場合、国家の自律性は担保されるが、その協力体制が崩れれば逆に作用する(p.10)。また、市民的な行政(州政府など)と上手く折り合い、関連し合いながら国家の政策は作られていく(p.11)。したがって、国家が自律性を保てるかどうかは、常に不確実なアクター間の相互作用によって決定されるというわけである。

 では、国家が政策目標を達成する能力(capacities)は、いかにして説明することができるだろうか。もちろんその答えとして、統治体制や領土の軍事的管理の在り方などを真っ先に挙げることができるが、スコッチポルはそれ以外にも「国家の財源確保の方法」なども含まれると主張する。そうすることで、当該の国家の能力(国家の組織力、官僚の動員力、政治的支援の吸収力、企業への援助力、社会政策への出資力など)を把握することができるのである(p.16-7)。

 

 以上では、国家の内部にフォーカスして、その自律性と能力を分析する観点が主だったが、そのほかにも社会経済的環境と国家の関係を考察する研究も多くある(p.19-20)。つまり、国家をそのほかの非国家的アクター(例えば企業、資本家など)との「関係」の中から考察する立場である。非国家的アクターの国家への関与ではなく、世界的資本主義経済の相互依存・ネットワークを考察するアプローチもある(例えばウォーラーステイン)。つまり、「政策の実行は、国家が利用可能な政策手段だけでなく、重要な社会集団が提供する組織的な支援によっても形成される」のである(p.20)。

 また、政策や戦略を実行・形成するアクターとして国家を捉える見方以外にも、政治文化に影響を与え、政治的な集団形成や集団行動を促進し、特定の政治的イシューの提起を可能にする組織形態として国家を見るアプローチもある(スコッチポルはこれを「トクヴィル主義」とよぶ)。つまり、これは国家の活動や構造が、デモやアソシエーションなどの集団の形成や政治的能力、考え、社会の様々なセクターの需要に意図的・非意図的に影響を与える経路や方法に着目するのである。したがってこのアプローチはもっぱら社会運動などに焦点を当て、そういったプロテストがいかに国家の形態や特徴に依存して形成されるかを解明する。

 

 最後に、本稿で挙げられた主要な国家観をまとめると、一つ目の国家観は「社会的環境と関連して利用可能な国家の資源が、多かれ少なかれ効率よく国家役人に与えられていることを理解することで、役人集団が政治的目標を追求する組織として国家を捉える見方」であり、二つ目は「社会の全集団、階級が考える政治の意味や方法に影響を与える組織や行為の構造体として、よりマクロな視点で国家を捉える見方」である(p.28)。

 少々分かりにくい訳で申し訳ないが、要は前者のアプローチは国家官僚や政治的エリート、また市民の権力闘争の場として国家をとらえ、その闘争の過程と結果としていかなる政策が決定され、またそれがいかなる帰結をもたらすかを分析するものであり(国家を一つの「場」として見るという点でブルデュー的といえるだろうか?)、後者は国家の外部(国内企業や多国籍企業、市民団体など)も主要なアクターとして認め、彼らに政治的闘争の動機を与え、また彼らによって変革される可能性を秘めた組織として国家を捉え、それらの関係性をよりマクロな視点で分析するアプローチだと考えてよいだろう。