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Andreas Wimmer "The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"

 今回はアンドレアス・ウィマー(Andreas Wimmer)の"The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries: A Multilevel Process Theory"について。下記リンク参照(ただしダウンロードはAmerican Journal of Sociologyの規定により有料)。

https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/522803

 彼については以前ブログで少し言及したが、エスニシティについて研究を行っているスイス出身の社会学者である(最近ではエスニシティに限らず、人種・ナショナリズムについても広範囲で研究を行っているようだ)。彼の問題意識はブルーベイカーとも共通している部分が多く、この論文も従来のエスニシティ研究の議論を総括し、それを統合するようなパースペクティブを提示するという目的のもとに書かれている。

 

 まず、序論でこれまでのナショナリズムエスニシティ研究の蓄積、つまり本質主義構築主義的アプローチの対立軸などが整理されている。ここは以前にも書いたので省略。

 そしてそれらを概観してみた結果、ウィマーによるとナショナリズムエスニシティ研究は確かに構築主義的アプローチの隆盛によって飛躍的に進歩したが、しかし「なぜこれほどまでに多様な形でエスニシティが創出されているのか」、また「エスニックな境界形成がなぜそのような多様な結果をもたらすのか」がいまだに説明できていないと批判し、その疑問に答えるための準備段階として本稿で包括的な理論枠組みを提示するという。

 そして、ウィマーはこれまでのエスニシティ研究において議論されてきた問題関心を、①境界の政治的創出(The Political Salience of Boundaries)、②社会的密接と「集団性」(Social Closure and "Groupness")、③文化的差異(Cultural Differentiation)、④持続性(Stability)の四つに整理している(p.976-985)。①はエスニックな境界の線引きをめぐる闘争がいかに政治化していくのかに関する研究、②はどんなエスニックな境界が社会的なネットワークの構築や資源のアクセスに有効かを理解する研究、③は(フレドリック・バルト自身も陥っていたように)エスニシティを区分する文化的な差異性に関する研究、④はエスニシティの境界がいかに持続的なものかについての研究である。

 さらにウィマーは、フレドリック・バルトが先鞭をつけた「エスニック・バウンダリー論」が、その後の経験的研究によってどのように発展したのかも整理している(p.986-989)。それによると、エスニックな境界の措定過程は、①境界を拡大する(例えば植民地化)、②境界を縮小する(例えば「米国人」から「中国系米国人」になる)、③境界線自体ではなく境界内のヒエラルキー構造の上下関係を反転させる、④ヒエラルキー構造内の位置関係を転移させる(例えば第二次大戦前後での「ユダヤ人」に対する処遇の変化など)、⑤境界線をあいまいにする(例えばEUなどのグローバル市民の理念による脱国民国家プロジェクト)、という五つに分類できるという。

 

 そして、ここからウィマーはこれらの議論を統合する独自の理論的枠組みを提示する(念のため先に言っておくと、ウィマー自身も言及しているように、これはギデンズの構造化理論の理論的道筋と酷似している)。以下、細かく見ていこう。

 まずウィマーは、社会のアクターがエスニックな境界の措定・再措定を行う土台(構造)となる前提として、制度(Institutions)権力(Power)ネットワーク(Networks)の三つを挙げている。

 制度は、公的なもの(法律など)から非公式なもの(集団内の慣習など)までを含み、主に国家、および国家を運営する政治的エリートが国民国家建設や大衆動員のために適用し、アクターの思考様式や行動を拘束する。例えば、ポスト植民地国家などは政治的な権力者が文化・言語・領域などの確定のためにオフィシャルな定義づけを行うことが多い。ここでは、こういったものが想定されている。

 次に権力は、アクターが制度による制約を受けつつ、自らの利害関心にそってエスニックな境界線を引くために利用される。通常、社会的なヒエラルキーの上位にある者ならば政治的・経済的・象徴的な権力や資金を多く要している。

 最後にネットワークだが、これはもっぱら政治的エリート、つまり国民国家建設に深く関わる人々内でのつながりのことを表している。例えば、ポスト植民地国家においては新しいネーション・ビルディングの試みが始まるが、それがどのように行われるかはしばしば議会や政党、政治的エリート内での熟議によって決まる。つまり、ネーション・ビルディングの枠組みの構築過程は政治的エリート間の交渉如何に強く規定されるのである。

 

 以上の三つの構造的制約によって、アクターがエスニックな境界線をどう引くのかが規定されるわけだが、では、その境界内部の具体的な特徴(集団の凝集力、反対勢力による異議申し立ての頻度など)を形作るものは何なのか。ウィマーによると、それは①エスニックなコンセンサスの範囲(the reach of consensus)、②権力配分の不均等の度合い(the degree of inequality)そして③境界の持続性(stability)によって決まるという。

 ウィマーはこの三つの規定要因をx(①)、y(②)、z(③)軸に配分して座標化し、それぞれの混合度合いによってエスニック集団内での閉鎖性や多様性、政治運動などによって不満が爆発するか否かが決まるとしている(p.1004)。例えば、エスニック間で権力の配分が不均等で、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が高ければ、集団内で不満が爆発する可能性が高い。また、エスニック間で権力が均等に配分されており、かつコンセンサスが取れておらず、境界の持続性が低ければ、集団の凝集力は高い、といった具合である。

 しかし、ウィマーが言うようにこういった図式化は単なる理念型であり、統計的・経験的な調査によって補完されるべきだと述べている。

 

 では、アクターは構造的な制約によって抑圧されるだけの存在なのであろうか。ウィマーは違うという。最後に、ウィマーはこれらの構造的な制約にもかかわらず、アクターが変革すること可能性を示唆している。そして硬直的な構造が変化する要因として、①外在的な要因(exogenous shift)、②内在的な要因(endogenous shift)、③外部から派生した流れ(exogenous drift)の三つに分類している。

 ①は、帝国主義的な外部国家によって植民地化されたり、反対に帝国主義から解放されて民主化したり、ほかにはEUの設立など、国外から国内に影響が派生することによって構造転換が迫られることを意味する。②は、国内の特定のエスニック集団が団結して境界の引き直しや同化政策を推進したり、少数のアクターの動きが大きな集団へと波及したり、またこれらが成功してより劇的な変革へと結びつく(また新たな変革の後には再度戦略的な境界の引き直しが始まる)ことで構造転換が起こることを意味する。③は、例えばグローバリゼーションの波が国際的に波及し、それによって転換が迫られることを意味する。

 これらの要因によって、構造はそれまでの制度を変更する可能性を秘めているのである。

 

 最後に、繰り返しになるが、ここまでの議論を簡単にまとめておく。ウィマーは、エスニックな境界の策定過程は以下の経路をたどると説明している。①制度が特定の境界策定の動機付けを与える。②これにもとづいて個人(アクター)が自らの利益や政治的権力を主張するのに都合のよいエスニックな境界策定の選択をする。また、政治的ネットワークにしたがって厳密な境界の位置づけが模索される。③次に、異なる利害関心を持つアクター間で相互に戦略的な交渉が行われる。④そして最後に、権力の配分やコンセンサスの波及具合によって境界の特徴が決定する。

 さらに、この基本的な流れに変革が加わるとすれば、上記①の「制度」に対して外生的な変化が加わったり、②に対してグローバルな変化が波及したり、③によってアクター間で交渉、またはさまざまな行為が行われることで意図的・非意図的に制度の変革が内生的に発生したりなどが考えらえるだろう。

 詳しくは実際にウィマーの結論部にある図を参照してほしい(p.1009)。

 

 と、こんな具合にウィマーは、エスニックな境界が策定・再策定される過程を以上のような流れで説明している。ウィマーはこの図式化の特徴として、比較エスニシティ論による単純な類型化を目指さない点、厳密な社会科学による「独立」「従属」変数の関係を考慮していない点、合理的選択理論や世界システム理論などのミクロ・マクロアプローチを統合しており従来の理論よりもさらに複雑である点を指摘している。

 だからウィマー自身、ここで提示されているアプローチは理論というよりも仮説、あるいは「理念型」であり、これから経験的研究をしていく中で確かめていくパースペクティブ(見方)に過ぎないと考えたほうが良い。だが、こういったそれまでの議論を整理する理論研究は、自分の立ち位置を確かめるためにも大いに助かるのでありがたい。

知識社会学に関する覚書き

 以下の本を読んだので、覚書をば。

 

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

「ボランティア」の誕生と終焉 ?〈贈与のパラドックス〉の知識社会学?

 

 この本自体の学問的価値も計り知れないものだが、冒頭(p1-34)で「知識社会学」に関する方法論が提示されており、かなり参考になったのでここに記しておきたい。なので、この本の本論部分(これが数百ページに及ぶのだが)はここでは扱わない。

 

 本書は、「ボランティア」に関する言説を追っていくことで、そこにどのような磁場が発生しているのか、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのかを解明することを目的としている。そこで、本書で取られる分析方法は、それらの言説を「メタレベル」で観察するというものである。その際、メタレベルの言説分析とは、具体的に以下の二つのものを意味している。

 一つ目は、「言葉」と「社会」を素朴に二元対立的なものとして捉え、「ボランティア」について語ることがどういう社会・政治的文脈で行われ、どういう帰結とつながっているのかを考察するというものである。これを本書では「動員モデル」と呼んでいる。この動員モデルでは、ボランティアは国家や資本などの意図・要請にしたがって動員されていると考えられる。

 二つ目は、ボランティア言説において繰り返し現れるパターン(意味論形式)を抽出することである。これは、(a)動員モデルがボランティア言説に国家や資本の痕跡を見出していたが、ではそれがなぜそうなるのかを説明できないという批判と、また(b)動員モデルでは「ボランティア」の言葉の増殖は説明できても、その縮小は説明できないという批判から要請される手法である。

 本書では、一つ目の問題意識を引き受けつつ、それを批判的にとらえなおすために二つ目の手法を用いるという方法論を提示しているのである。

 

 では、「ボランティア言説に固有の作動形式」とは何なのだろうか。

 ボランティアをはじめとする参加型市民社会論の言説には、しばしば「善意」や「他者のため」という前提が内包されている。本書では、このように「他者のため」と外部から(当事者がそう思っていなくとも)解釈されるような行為の表象を「贈与」と呼ぶ。つまり、「他者のため」と解釈することが一般的に有意味になるような解釈図式・社会の「意味論(ゼマンティク)」の意味で「贈与」を導入する。ボランティアや市民社会概念の中には、この「贈与」が織り込まれており、ボランティア/市民社会言説の固有のメカニズムの動因となっている、というのが本書の仮説である。

 だが、当事者(特に積極的にボランティアに参加する人々)は、ボランティアは「一方的な贈与」ではないと反論するかもしれない。例えば、ボランティアは一方的に贈与するのではなく、参加者は「幸福感」や「やりがい」を感じることができる(互酬性)、といったように。しかし、そういった反論自体がボランティアに対する「贈与性」をある種認めていることを証明してしまっている。なぜなら、「贈与」と「交換」の関係は、実は後者が前者を内包するものだからである。これが「贈与のパラドックス」と著者が名付けるものである。贈与はそれが贈与だと当事者によって認識された時点で贈与ではなくなる。つまり、贈与は被贈与者、および社会からなにがしらを奪う形で反対贈与を獲得していると見られがちなのである。

 よって、本書が問題化するのは、近現代の「ボランティア」的なものの言説領域において、この「贈与のパラドックス」を解釈するための意味論形式(ボランティア言説に固有の作動形式)はどのように変化していったのか、つまり解釈ゲームの過程を考察しようというものなのだ。

 

 では具体的な方法論はいかなるものだろう。上で、その二つの手法として「動員モデル」と「意味論形式の分析」を挙げたが、著者が言うように、この方法論を掘り下げてさらに突き詰めると、「~でない」という形でしか表すことができない。どういうことか詳しく見ていこう。

 まず「動員モデル」では、上述のように「言説(コトバ)」と「実態(モノ)」を二元論的にとらえるが(社会的なイデオロギーや権力によって言説が生じる)、本書ではその考え方を否定し、また「ボランティア」とは何なのかを明確に定義することなく、ある時点に広く見出せる意味論形式/解釈枠組みに注目する点で動員モデルとは異なる。また、理念史や思想史のように言説の内容を規範的に追っていくというような研究方法ともまた違う。あくまで言説の形式それ自体を扱うスタンスを貫いている。

 また、フーコーに端を発する「言説分析」とも違う。佐藤俊樹ら(特に『言説分析の可能性』参照)が指摘するように、言説分析は言説や言表の最小単位を確定できないため、分析単位の確定可能性と全体性の実在を素朴に信じる社会学とは相いれない。また赤川学が主張するように、残存している資料をできるだけ網羅的に収集することで、言説の全体性を仮構することができるかもしれないが、本書では文書による資料以外にもインタビュー調査や広告ビラなども言説の内に含んでいるので全体性を措定することが限りなく難しい。

 さらに、社会的構築主義とも異なるスタンスを取る。社会的構築主義は「厳格派」と「コンテクスト派」の二つが存在する。前者は「実際の状態」の想定を厳密に排し、社会問題の「言語ゲーム」を記述することを目指す。後者は「実際の状態」を記述者から独立して存在することを想定して、「状態」に関する他の資料(統計など)を参照しながら、記述の妥当性について判断も行う。だが、本書は「贈与のパラドックス」を言説を整序する基準として分析枠組みの位置に置く点で構築主義ともまた異なるのである。

 そこで最後に筆者が行き着いたのが「知識社会学」という手法である。知識社会学は「マルクス主義こそが真のイデオロギーである」という理念のもとに作られた研究領域だとしばしば冷笑の対象にすらなるが、筆者によると知識社会学の祖であるマンハイム自身はそういったマルクス主義の特権化を反証するためにこの学を創設したのだという。つまり、マンハイム知識社会学に課した問題意識は、知識が存在に拘束されるあり方を、自らをも含めて没価値的に相互比較することで(相関主義)、全体性を把握することだったのである。

 筆者によると、知識社会学の要件とは①知識(言説)/社会の二重体の実在を前提にする、②社会が知識(言説)に影響を与えるという因果関係を措定・重視する、の二つである。筆者が本書の中で受け入れるのは①であり、②については立ち位置は微妙であるという。なぜなら、②を主張する動員モデルの検証も本書では行うからである。ゆえに、①を前提にしつつ、②を相対化させながらも延命させる点で、本書は知識社会学の範囲内にあると述べている(弱い知識社会学)。

 

 さらに本書ではこの流れでルーマンの「意味論」、「知識社会学」が言及されている。ルーマンは社会の意味論(ゼマンティク)の規定に関与するものを考察すること、言い換えればいくつかの意味規定が併存する状況で、ある区別が他の区別と比べて説得力を持って立ち現れる条件を考察することを「知識社会学」と呼んだ。これを「ボランティア」の事例に当てはめると、「贈与」がこの言説領域の「コード」であり、パラドックスの解決は原理的に不可能だが、何をもってそれが解決されたと「見なす」かについての基準(プログラム)が生み出されることになる。どの基準が立ち現れるかは時代ごとで異なるため、その展開過程を追うことが本書の知識社会学の課題であるといえる。

 

 以上、本書が(弱い)知識社会学へと方法論を規定していった論理的経緯、およびそれによって行き着いたルーマンの「意味論」など、なかなか興味深い考察が冒頭の30ページほどに詰まっている。個人的には「知識社会学」の手法は(オワコンといわれているが)まだまだ議論の余地のある研究分野だと思うので、こういった理論的考察はありがたい。

 知識(言説)を社会(科)学として学問的に探究するのであれば、本書が示したように「弱い知識社会学」として分析する以外に今のところ道がないように思う。その際に重要なのが、何らかの言説領域を規定している「コード」を的確に導き出すことである。本書では「ボランティア」という言説領域におけるコードとして「贈与」を置くことでその問題をクリアした。このコードを置く過程を無視したり、あるいは的確なコードを設定できなければ、ただ言説を網羅的に収集しただけで恣意的で非科学的な結果しか生まないように思われる。

 だが、やはり難しいのは言説を収集する範囲をどこまでに限定するのか、という問題が生じてしまうことである。言説はあらゆる場面で生成され、今こうやって記述していることでまた新たな言説が生成されている、というように収集しようと思えば無限に集まってしまうほど膨大なものである。そこから「何が分析の対象として望ましい言説なのか」を決めることは果たして科学的・論理的に可能であろうか、というかねてからの疑問がやはり払拭されないのである。この問題をクリアすることが、知識社会学を経験科学として社会学へと組み込むための第一条件であると考える。

田村哲樹『国家・政治・市民社会』

 今回は少し寄り道して、田村哲樹『国家・政治・市民社会ーークラウス・オッフェの政治理論』について。(おそらく絶版になっているので、アマゾンではかなり高騰している。名著なので、違う出版社からでもいいから復刊してほしい。)

 

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

国家・政治・市民社会―クラウスオッフェの政治理論

 

 

 クラウス・オッフェは、ハーバーマスの弟子筋にあたるフランクフルト学派(本人はこの呼称に対して嫌悪感を示すらしいが)。問題関心は多くのフランクフルト学派の師匠たちと共有しており、おそらく最大の研究対象は「後期資本主義における国家と市民社会との関係」というところになるだろうか。本著では、そのオッフェの思想史的展開を、70年代から90年代後期ぐらいまでを追っていくという内容になっている。

 以下では、オッフェの具体的な思想や田村氏の読解の是非を吟味するということまではせず、できるだけ議論の整理までにとどめておきたい。そのため、記述もあいまいで漠然としたものにならざるを得ないが、ご了承いただきたい。

 

 まず、問題の根底にある「後期資本主義」とは一体何なのだろうか。マルクーゼやアドルノ、ホルクハイマーなどのフランクフルト学派第1代、ハーバーマスの第2世代の間では70年代以降、この「後期資本主義」というのが重要な研究テーマになってくるが、簡単に言い表すならば、それは従来の資本主義システムが瓦解し、国家(政治ー行政システム)が経済システム、および生活世界の領域に侵入してくるようになった資本主義である。ハーバーマスは、この後期資本主義の時代に入って、ます人々の日常生活の領域が政治システム、経済システムによって「植民地化」されると警鐘を鳴らしていた。

 また、本書でオッフェの政治理論を整理するための重要なワードとして「制御」と「作為」が挙げられる。ここでは「制御」とは(社会学的に言うならば)「構造」、「作為」とは「行為」のことを表すと解して問題ないだろう。つまり、オッフェの政治理論はギデンズやブルデューが試みたように、マクロとミクロの統合を目指すものだったというわけである。

 ただし、オッフェの場合は土台(下部構造!)としてマルクス主義から出発したというのが大きな思想上のバックボーンになっている。つまり、マルクス主義的国家論では、国家を資本家階級(支配階級)の占有物と見なして、それを糾弾するという理論的立場を取ることが多かったが、オッフェもその一端を継承しており(もともとフランクフルト学派マルクス主義から出発している)、国家の機能を「経済」の領域に限定して議論することが多いのである。それはのちに見ていくように、後期に至るまでオッフェの理論の限界であり、かつオリジナリティにもなっている。

 さて、以上の議論の前提から、本書はオッフェの理論展開の特徴を「国家の制御機能の社会への移行」と「社会の作為の契機の発露」の二つであると見ている。このエントリでは、その論理的帰結がどのようにもたらされたのか、以下で(断片的ではあるが)簡単に整理していこう。

 

 オッフェによると、後期資本主義社会は「政治ー行政システム」、「経済システム」、「規範(正統化)システム」の三つのサブシステムから成る。つまり、後期資本主義社会の危機はこの三つのサブシステムの相互作用によって生じると考えられる。具体的には、「財政的手段」、「行政の合理性」、「大衆忠誠」の三つの「制御リソース」の自己閉塞化が危機の現象形態として挙げられるだろう。だが、これではまだ政治ー行政システム内部での危機が見過ごされてしまうかもしれない。そこで政治ー行政システム自体の危機の見直しが図られるのである。

 オッフェは、国家による「制御」の要請は、資本によってではなく国家それ自体からなされると考える。しかし、国家による「制御」にも限界が存在する。①国家官僚制が従わなければならない複数の合理性の非統一性、②国家の政策形成における内部構造と要請される機能との不一致がそれである。よって、国家は「制御」の役割を担うことができない。国家が社会秩序を「制御」するには、社会の成員が納得できるだけの「正統的」な理由が必要である。しかし、それが崩壊し、国家による「制御」が「作為」の産物に代わるのである。

 だが、オッフェはそもそも国家は自らを正統化することはできないという。なぜなら、国家による正統化はその機能的な結果からしか根拠づけられないからである。だが、あたかも「自然」のように変化する政治や経済(市場)の動向の帰結を予想して、皆が納得のできるような何らかのアウトプットを提示するということは不可能である(残された手段があるとすれば「手続きによる正統化」[ルーマン]しかない)。したがって、国家(政治ー行政システム)から社会の領域への正統化問題の移行の必要が生じるのである。

 そしてオッフェが注目するのが、70-80年代以降に急速に台頭した「新しい社会運動」である。これらの運動は、「政治」=「国家という制度的空間の中で行われるのもの」という固定観念を打ち破り、社会の領域にも政治的空間を形成したと称賛する(政治の社会化/社会の政治化)。

 

  次に後期オッフェの理論を理解する手がかりとして、オッフェの「制度」論を確認しておきたい。

 オッフェは、制度には二つの大前提があるという。まず一つ目は①制度の「作為性」である。制度は不変的に所与のものとして存在するのではなく、(a)恣意的に誰かにデザインされ、作り変えられることもある。(b)またそれゆえにコンフリクトの当事者によるバイアスが介在せざるを得ないのである。そして二つ目が②自然のもののような長命ぶりである。上でデザインの作為性を指摘したが、かといってデザインによる制度変更は稀で、多くの場合、全体的な枠組みを保持したまま(再生産)、細部に限定して変化するのである。

 さらにオッフェは、この大前提をもとに、制度は①経路依存性、②超安定性、③負担軽減・エネルギー節約、の三つによって同一的再生産を行うという。具体的にいえば、①は、制度の存在によって行為主体の選好・規範意識を一定の方向へと「社会化」することを意味する(また、行為主体がその役割を適切に遂行している限り、その変更の必要性は喚起されない)。②は、制度が一定の柔軟性を持つことで(不具合に対応できることで)、結果として安定性を担保することができることを意味する。③は、制度の祖内によって社会の成員は過度な責任や紛争の発生から免れることができることを意味する。

 では、制度はどういった時に変化を迫られるのであろうか。それは、既存の制度が作動する原理(構造)とルールが、「自己モニタリング」によって省みられるときである。言い換えれば、それは現在の制度が数ある選択肢のうちの一つでしかないと理解されるとき(等価性機能主義)に制度変更の契機が表れるのである。そして、この制度変更を行うのが、ほかならぬ「行為主体」なのである。

 また、制度は「二重性」を有している。つまり、一方で「社会的規範志向の行為」、他方で「目的合理的ないしは戦略的行為」の両方の間に位置し、両者を結び付ける特徴である。つまり、制度は特定の社会にとって望ましいとされる規範を人々に供給する機能と、行為主体の目的合理的・戦略的行為によって変更を迫られる機能の二つを持っているというわけである。しかし、後者の戦略的行為は個人によって勝手気ままに行われるわけではなく、「認識的・道徳的リソース」つまり当該社会において流通している認識や道徳的規範やルールにある程度沿った「社会相互的」な手順を踏むことを強いられるのである。

 だが、集団の成員がそれぞれ「目的合理的・戦略的」に行動することで、集団全体で見るとかえって「非合理的」な結果が生じてしまうことが必ず起こる(合理的選択のジレンマ・フリーライダー問題)。そうなると、「集団の構成員をその集合的利益にしたがって行為するほどに、非合理的に行為させるもの」は何なのだろうか。オッフェは、その答えを「規範的意向」(信頼・相互性・共感・公正の感覚)などを生じさせる「集合的アイデンティティ」に見出す。この「集合的アイデンティティ」が、国民国家の枠組みに設定され、「国民性」を帯びることで「福祉国家」が成立するし、逆にこれがより小さな共同体(例えば、納税者、専門家集団、文化的共同体など)に限定されることで、福祉国家の支持は「非合理的」と解釈される。これによって、個人はそれぞれにとって利益となる政策を支持するが、それ以外には消極的になるために福祉国家は衰退するのである。したがって、オッフェは市民社会におけるこの「認識・道徳的リソース」を重視するのである。

 

 さらに、後期オッフェは、新自由主義的な政策の分析を行うようになる。例えば、イギリスのサッチャリズムがもたらしたものとして、もっぱらその経済的な側面(国家の介入・仕事領域を減少することで財政を健全化したいという意図)が注目されていたが、オッフェはそれだけではなく、政治的な側面を注目するべきであると主張する。例えば、サッチャー政権の住宅事業の民間化政策は、下層・中間階級の利益政治的な分極化をもたらし、社会的な連帯の希薄化につながった。これは、集合的利益を国家に請求し、妥当なものとする媒介的な公共的機能の担い手を無能化する手段である。すなわち、サッチャーに代表される新自由主義は、市民社会や社会的なアソシエーション内部の連帯の脱組織化を図るものであるといえるのだ。

 

 さらに後期オッフェは、ルーマンの社会システム理論の潮流を受けて、システム理論的国家理論をも受容していった。本書では、ルーマンの社会システム理論を国家に適用したヴィルケの理論を参照している。ヴィルケは、ヘーゲルからウェーバーに至る国家を特権化してきた見方とは決別し、国家は社会のヒエラルキーの頂点に位置しているわけではないと主張する。むしろ、近代以降の社会は「脱中心化」した独自の「機能分化」したサブシステムから成る全体的な社会システムであると捉える。そしてこの諸システムはそれぞれの内部の論理に準拠して作動しているのである(オートポイエーシス)。

 簡略化するならば、諸システムは①高度に分化しているため、自らが有していない機能を果たす他のシステムに相互依存しつつ、②自己準拠しているため、作動上の閉鎖性・独立性も増す、という矛盾した二つの特徴・問題点を持っている。よって、この二つを両立させるために新たな「制御」が必要になるのである。

 では、この制御原理、およびその変更はいかにして可能か。このような変化が自然発生的なものではないとすれば、何らかの行為主体(担い手)が必要ではないか、という疑問が生じる。ヴィルケの場合、その答えは「脱中心的な制御」だったが、オッフェの場合は、「合理的な選択をする個々の行為主体」ということになる。ここまでは前回も説明した通りだが、後期オッフェはシステム理論を経由したことで、従来とは異なる論理的帰結を導き出す。

 それぞれが合理的にふるまうことで、全体として非合理的な結果をもたらすという問題が浮上すると上でも挙げたが、オッフェは、それは未来に対しての「責任倫理に導かれた市民の公共精神」(自分の行動選択が未来にどういう結果を及ぼすかの自覚意識)と「それを可能にする自己制約」の二つによって解決できると答える。かといって、これは問題の解決を個人に帰すものではなく、「制度」によって育てられる。つまり、制度の社会化機能によって、「制御」を主体的に行うための責任倫理が養成されるのである。そして、この「制度」的条件を供給する集団とは、具体的に市民社会の諸アソシエーション(労働組合、新しい社会運動など)である。ここまでいうと、パットナムの「社会関係資本論」との区別がつきづらいが、パットナムが市民社会の紐帯を非政治的な部分に求めたのに対し、オッフェはいまだに政治的な部分に見出していた点で両者は異なるといえるだろう。

 また、オッフェは「制御」の再定義に、国家も介入すべきであると主張する。ここは、(生活世界としての)市民社会は(政治/経済システムから)「自律的」であらねばならないと規範的に主張したハーバーマスと異なる点である。しかし、オッフェが言うように国家の介入が許されるは、それが「民主的」な国家であることが前提であることは注意が必要である。つまり、後期オッフェは、「強い国家」と「強い社会」の再構築を目指したといえる(両者は対立しているわけではなく、相互依存的)。

 

 

 以上のオッフェの国家ー社会関係の変容論に対して、あえて現在の視座から反論を投げかけるとすれば、以下のようなものが想定できる。

 第一に、オッフェの理論はあまりにも市民社会、とりわけアソシエーション関係を過大評価しているのではないかという点である。本書で追っているのは90年代までのオッフェの理論であり、また本書が出版されたのは2002年である。現在の目線から見れば、「市民社会の理性」や「理性的な個人による選択」というのは、果たして本当に可能なのだろうかという疑問が湧かざるを得ない。つまり、オッフェの議論はあまりに規範的に過ぎるのではないかということである。

 第二に、国家がより新自由主義化(国家行政の役割の減退)していくことで、かえって市民社会を「活性化」させ(正確に言えば市民社会を能動的に活性化するように仕向け)、「自己責任」の理念のもと役割を放棄することもあり得るのではないか、という点である。そして、そこには初期オッフェが問題化し、後期にそれを克服した(かのように見える)、国家の「財政危機」というより経済的な問題が大きな要因として絡んでいるのではないだろうか。

 以上の点は検討に値するだろう。

Rogers Brubaker "Beyond 'identity'"

 今回はロジャース・ブルーベイカーの論文、"Beyond 'identity'"についてである。下記リンクでダウンロード可能。

https://www.sscnet.ucla.edu/soc/faculty/brubaker/Publications/18_Beyond_Identity.pdf

 

 既刊翻訳である『グローバル化する世界と「帰属の政治」』の中で、ある程度ブルーベイカーの主要論文は取り上げられているが、この論文は少し言及されているだけで未翻訳だったのでとりあえず目を通してみた。大まかな主張は『グローバル化~』の中で言及されているとおりであるが、よりそれを具体的に把握するために以下で少し整理しておきたい。

 

 この論文は、タイトルにある通り「アイデンティティ」という用語を越えること、つまりすでに手垢がついたこの語に代わって新たな分析概念を提示することを目的としている。

 この新たな分析概念となるのは、以前ブログでも散々書いたように「カテゴリー」であったり、「自己理解」であったりするのだが(これについてはのちに詳述)、まずはなぜこの「アイデンティティ」を使用することをブルーベイカーが拒否するのかを簡単に説明しよう。

 ブルーベイカーによれば、「アイデンティティ」という言葉には「強い strong」意味と「弱い weak」意味、そしてその意味が「曖昧 ambiguity」に定義されたものとが存在する(p.1, 10-11)。強い意味でとらえられる場合、アイデンティティはパトス(情念)を湧きあがらせるような「自己」の根拠に用いられ、弱い意味あるいは曖昧な意味で使われる場合、それは(本質主義がしばしば用いるように)全くの有名無実化したものとして否定的にとらえられるか、ブラックボックス化した便利な言葉として用いられる。いずれの立場にせよ、「アイデンティティ」はすでにその言葉を使う研究者や当事者の立場によって、いいように解釈される概念になってしまっているのである。

 そもそも社会科学において「アイデンティティ」という言葉がここまで氾濫したのはなぜだろうか。ブルーベイカーは、その起源をフロイトエリクソンなどの心理学的な系譜に見出し、それが後にゴードン・オルポートの1954年に刊行された有名な著作『The Nature of Prejudice』によってエスニシティの研究にも流入し、社会学ではマートンやゴフマン、そしてピーター・バーガーによって援用されていったと述べている。

 そして1960年代に入って、主に米国における公民権運動やヒッピー文化の隆盛の中でこの言葉はさらに波及していくことになり、「アイデンティティ・ポリティクス」なる言葉も誕生した。そして今では多くの社会科学における文献の中で見出されるようになっている。

 

 では、現在社会科学の文献の中で「アイデンティティ」はどんな用法で使われているのだろうか。ブルーベイカーは、それを以下の五つに分類する。

1.社会的・政治的行為における非道具主義的(non-instrumental)な側面を強調する際に、「利害関心 interest」と対置するものとして用いる

2.特定の集団的な現象を扱う際に、集団の根本的な「同質性 sameness」を意味するものとして用いる

3.「自我」などの人間の根源的なものを表す際に、深く、基礎的な、不変のものとして用いる

4.社会・政治活動の生産を理解する際に、集団行動を可能にする集団的な自己理解(self-understanding)や連帯、集団性(groupness)の手続き的・相関的な発展を強調するものとして用いる

5.不安定で複合的・可変的・断片的な、現代における「自己」の本質を表すために用いる

(p.6-8)

  以上を見てみると分かるように、「アイデンティティ」の用法にはかなりの開きがある。ここから恣意的に用法を策定して分析に用いても、前提となる定義づけの時点で研究者の間で齟齬が生じるのは必至である。

 

 そこでブルーベイカーは「アイデンティティ」という用語を使う代わりに、いくつかの独自の概念を提示している。以下、それをいくつか紹介しよう。

 まず一つ目は、「同定化 identification」と「カテゴリー化 categorization」である。この二つの用語の特徴は、"identity"のように固定的なものとして人間の自己-他者認識を捉えるのではなく、より流動的な状況・文脈依存的なものとしてそれを捉えている点である。つまり、この用語を使うことで、自他を何らかのカテゴリーへと押しはめる「過程」が問題関心の中心となるのである。そのため、ブルーベイカーの認識では、人間は確固とした自己を持っているわけではなく、網の目のような関係性の中に位置する(relational)、あるいは何らかのカテゴリー的なメンバーシップに帰属を求める(categorical)、ある種の「管」のようなものなのだといえる。またその際、自らをアイデンティファイする方法は能動的に行われる場合もあれば、他者(小さな個人であったり、また国家などの大きな組織である場合もある)によって行われる場合もあることも注意しなければならない。

 二つ目は、「自己理解 self-understanding」と「社会的位置 social location」である。「自己理解」や「社会的位置」という言葉は「アイデンティティ」と比べて、社会的に変動する「主観性」を示唆している。つまり、人々は普遍的な「自己」を持っているわけではなく、上に挙げた「同定化」や「カテゴリー化」の過程において、現時点における「自分」を理解・経験することができるのである。ただし、「自己理解」という言葉を使うことの弊害もある(p.18-9)。例えば、この言葉を使うと、当事者の主観的な理解を重視しすぎて他者からの理解を扱うことができなくなる。次に、認知的な意識を特権化してしまうことにもなりかねない。最後に、「アイデンティティ」という言葉によって表されていた客観性を確保することができない。つまり、強い意味でのアイデンティティの概念を用いた研究は、「本当の true」アイデンティティと「単なる mere」自己理解を区別していたが、自己理解のみに焦点を当てるブルーベイカーの用法ではあまりにも主観的に過ぎるのではないかという懸念があるのだ。

 三つ目は、「共通性 commonality」、「結びつき connectedness」、「集団性 groupness」である。以上で挙げた二つの分析装置は、いわば個人が自己を分類する方法を分析するためのものであるが、この三つ目の分析装置はそのように自己を分類・理解した個人同士がいかに他者と結びつき、集団へと凝集していくのかを分析する際に用いられるものである。例えば、ネーションの結びつきは相互のネットワーク以上に、原初的で時には狂信的ともいえる感情的な愛着によってなされる。そのように集団への帰属感情を喚起するものは、特有の歴史的な出来事、公共のナラティブ、言説フレームなど様々考えられるが、それらを具体的に考察するためにこの概念装置が用いられるのである。

 

 そして論文の後半でブルーベイカーは、実際に以上で挙げた概念を三つのケーススタディ(ヌエル族の家族形態、東欧のナショナリズム、米国の「人種」をめぐるアイデンティティの議論)に適用して分析を行っている。

 さらに最後に、ブルーベイカーは留保として、分析概念としての「アイデンティティ」の使用を控えるべきだと言っているだけで、当事者からもそれを奪い去ろうとしているわけではないことを付け加えている。これは「分析のカテゴリー」と「実践のカテゴリー」を区別する彼のスタンスからすれば当然のことであるが、社会分析における「アイデンティティ」の使用に異議を唱えるのは、(例えば社会的マイノリティなどの)「特殊性 particularity」に目を背けるためではなく、むしろ特定の愛着や結びつきなどから生じる申し立てや可能性に光を当てるためであることを強調している(p.36)。最後の最後でこういった留保を必要とすることからも、いかに「アイデンティティ」という言葉がすでに人口に膾炙し、かつ政治性を帯びているかを痛感せざるをえない。

友枝敏雄「言説分析と社会学」

 もう一つ、同じ『言説分析の可能性』の中に収められた友枝敏雄「言説分析と社会学」という論稿をまとめる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  「言説分析」についての言及は先のブログに詳しく書いているのでいいとして、本論稿は言説分析と特に(知識社会学ではなく)社会学との関係について述べられていて興味深かった。友枝はこの中で言説分析がいかに、従来の社会学理論から乖離しているかを考察している。特に重要なのは、第三節の「社会学における理論構成」という個所で、そのなかで社会学理論の基本構成が分かりやすかったので書き留める(最近出た『社会学の力』という入門書の中でも少し言及されている。これは社会学の入門書の中ではかなりの良本)。

 

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

 

  まず、社会学の(広義の)理論には大きく分けて二つのものがある。一つは狭義の「理論」であり、もう一つは「メタ理論」である。前者は社会事象を説明・検証する理論である。これによって仮説を検証し、経験的命題として確定することができる(例えば「市民社会」や「恥の文化」の概念など)。後者は理論の理論であり、複数の理論を統合する形での理論である。例えば、パーソンズの一般システム理論などがこれにあたる。理論が社会事象を説明するものであるのに対し、メタ理論は必ずしも社会事象を説明するものでなくともよい点に大きな違いが存在する。

 さらに狭義の理論の中には、「純粋理論」と「規範理論」の二つが含まれている。一般に社会学研究の目的は、①社会事象の「記述」、②社会事象の因果関係もしくはメカニズムの「説明」、③現実の社会に存在する規範、制度、秩序の有効性や正当性を検討し、社会事象に対する政策的判断や価値判断を下すこと(「当為」)の三つに分けられるが、①、②の目的に重点を置くのが純粋理論で、③に置くのが規範理論である。ウェーバーがいうように、あらゆる科学者は価値判断からは自由であり得ない点でこの区別は無意味にも見えるが、多くの研究者はひとまず両者を区別して研究に取り組んでいる。

 

 さて、理論の構築には、「概念構成」と「命題構成」という二つの作業を要する。前者はある事象を説明するために必要な概念を選び出し、その概念を定義することであり、その概念が複数ある場合は概念間の関係性(上位-下位)を示すことである(例えば、ウェーバーは「行為の四類型」を使って、類型間の移行として現実の社会の動きを描いた)。反対に後者は、概念間の関係がある概念(説明項)がある概念(被説明項)を説明するという関係になっているときに、両者の関係を定式化することである(デュルケムの『自殺論』における「集団の凝集力が弱いと自殺率が伸びる」など)。

 また、概念構成と命題構成からなる理論構成の作業の根底にあるのが、「領域仮説」または「大前提」と呼ばれるものである。例えば、ウェーバーは近代資本主義の発展を論じる際に、暗黙の裡に「前近代」と「近代」を区別している。また、ハーバーマスはコミュニケーション的行為を論じる際に、前提として人々はコミュニケーションによって合意に達することを規定している。これが「領域仮説」である。

 

 以上の議論を整理すれば、社会学理論の位相は以下のようになる。

1.領域仮説もしくは大前提

2.①概念構成および②命題構成からなる純粋理論

3.規範理論

(p.244)

  従来の社会学理論はその誕生の時からして、前提として自然科学により近づこうとして、研究対象もしくは分析の単位(例えば人間の「行為」など)を確定することができ、この確定された対象を分析することで純粋理論を構築できると考えてきた。しかし、言説分析はソシュール以来の「言語論的転回」に依拠しているため、その考え方を否定し、実在があってそれに意味が与えられるのではなく、意味が与えられて初めて実在が切り分けられ、存在はじめる、と考える。

 よって友枝によれば、その誕生の由来からして言説分析は構築主義と親和性が高い。それゆえ、構築主義がそうであるように、言説分析も極限的には完全な相対主義にならざるを得なくなり、科学が守るべき客観性や普遍性といったものをどうやって担保するのかという問題がやはり首をもたげてくるのである。

 極論すれば、言説分析は「言説空間こそが社会事象そのものであるから、言説空間の外にいかなる社会的事象も成立しない」というスタンスを取る。友枝は、言説分析には「ハード(厳密)なもの」と「ソフト(ゆるやか)なもの」との二つがあると述べる。前者は「言説分析においては、社会的存在についての考察は言説を通して行うべきである」とする、よりラディカルな立場であり、これはいわば「言説一元論」ともいえる。対して後者は、「言説空間とともに社会空間も存在する」として、言説と社会階層、社会集団、社会構造などとの関係の説明を試みる立場である。

 後者は厳密に言えば、もはや知識社会学のスタンスと何ら変わらないため、言説分析が独自の領域として確立するためには、原理的に「ハードなもの」の立場を取らなければならなくなる。だが、その立場を取れば途端に言説分析は(社会を探求する学としての)社会学とは根本的に相いれないものとなってしまう。友枝の考えでは、言説分析はそもそも社会学の一研究領域にはなりえないものなのである。

 

 言説分析を厳密に考えれば友枝の主張の通りになるだろうが、例えば前回のブログに挙げたように言説分析では言説の背後に「権力」の存在を認めていた。この権力をどう定義するかにもよるが、もしそれを社会的に構築されるもの、社会の何らかのアクターによって創出したものとして描くのであれば、以上の友枝が示した理論上のアポリアも解決しそうではある。だが、そうなってくると、また知識社会学との差異化が難しくなってくる。やはり、言説分析を社会学の研究領域として確立するのは難しいのだろうか。

橋爪大三郎「知識社会学と言説分析」

 今回は、知識社会学と言説分析の関係性についてメモしておきたい。

 参照する文献は以下のもの。なかなか凝りに凝ったレトリックまみれの難渋する論稿ばかりだが(フランス現代思想を迂回した研究者にありがちである)、その中でも比較的わかりやすく、きれいにまとまった論稿として、橋爪大三郎知識社会学と言説分析」を取り上げる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  

 この論稿は、カール・マンハイムを創始とする知識社会学ミシェル・フーコーを創始とする言説分析の共通点と相違点、そして両者が陥っている問題点を明らかにする。私自身、この二つの研究アプローチの違いがよくわからなかったし、学部の卒業論文では「言説」という言葉を何の気なしに、単なる「ある人によって語られた言葉の集積」ぐらいのニュアンスでしか捉えていなかったが、この論稿を読んでなんとなくだがその差異を認識することができた。

 マルクス主義の影響下で誕生した知識社会学のキーワードは「イデオロギー」である。イデオロギーは人それぞれで異なるが、マルクス主義においては唯一「真理」とされるイデオロギーは労働者階級のそれである。そして特に虚偽のイデオロギーとしてやり玉に挙げられるのは、労働者階級を搾取するブルジョア階級のイデオロギーである。

 また、マルクス主義においては人々のイデオロギー、および知識の体系を規定するのはその人が置かれている社会的な環境(階級や身分など)である。しかし、ブルジョア階級が優位にある社会では、そのイデオロギーが支配的であるため労働者はそれが虚偽であることを自覚できずにいる。そのため、労働者階級を「正しい」イデオロギーへと誘導するために労働者階級のリーダーによって結成される共産党の指導が不可欠なのである。

 イデオロギーには三つの特徴がある。一つ目は、それが包括的な知識、つまり知識の体系である点イデオロギーは自然科学、人文社会科学のすべてを貫く包括的な知のシステムである。二つ目は、イデオロギーは観念の在り方であって、言語そのものではない点。イデオロギーは言語を媒介とせざるを得ないが、その本質は観念そのものなのである。三つ目は、イデオロギーは他のイデオロギーと対立し、自分の方が優位であることを競う点。

 イデオロギーは、社会活動の全体を覆いつくし、人びとの認識を支配し、社会を現状のままに機能させる。どんなイデオロギーも、みずからを真理であると考える。それが虚偽だと批判されるのは、異なるイデオロギーとのイデオロギー闘争が生じた場合である。(p.188)

  

 以上がイデオロギーの性質だが、ではそんなイデオロギーを研究する知識社会学とはどんなものなのだろうか。その進むべき可能性としては以下の二つが考えられる。

 まず第一に、大前提として知識社会学マルクス主義の主張を全面的に承認すること。より厳密に言えば、マルクス主義が主張するブルジョアイデオロギーは虚偽であり、マルクス主義が唯一「真理」であるという主張を受け入れるということである。

 第二に、科学としての「社会学」の自律性を担保し、親であるマルクス主義もまたそのほかのイデオロギーと同様に批判の対象にする可能性である。厳密にこの道を区分すると、そこにはさらに三つの立場が存在する。

 一つ目は、知識社会学それ自体も他の知識同様に、単なる知識に過ぎない(つまりメタ知識でない)と認めること。そうすると知識社会学によって導き出されるテーゼも単なる非特権的なイデオロギーの一つに過ぎないことになってしまうため、完全なる相対主義に陥ってしまう。二つ目は、知識社会学がメタ知識であることに固執し、マルクス主義の優位を否認すること。そうすると知識社会学の優位は担保できるが、それが本当に知識(イデオロギー)を正しく認識できているのかが分からなくなる。三つ目は、「真理」の枠組みを放棄し、現実が意識を規定するというイデオロギーの基本テーゼすらも放棄すること。そうすると、知識は現実世界との対応を失って、どうとでも解釈されうる胡散臭いものになってしまう。

 以上のように、知識社会学はどの方向に進んでも深刻なアポリアに直面するという、いわばじり貧状態である。

知識社会学それ自身も、知識である。知識社会学が、知識を分析・研究する一般的な方法であると自己主張しようとすると、それは、知識が知識を正当化しようとする、自己言及のかたちになる。これは、解けない課題であり、正当化しがたい。(p.190) 

  マルクス主義から誕生した知識社会学は、またマルクス主義によって殺されたといっても過言ではないだろう。

 

 では、反対に言説分析はどうだろうか。

 知識社会学のキーワードが「イデオロギー」だとすれば、言説分析におけるキーワードはいわずもがな「言説」である。「言説」(discourse)は「言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である」(p.191)。言語の最も小さな単位を「言表」(エノンセ)と言い(これは社会学での最小単位である「行為」に相当する)、それらの言表が集まってできた集合体、ある時代・ある場所(社会)を満たしている言語的な活動の全体を「集蔵庫」(アーカイブ)と言う。つまり、言説はこの言表と集蔵庫の間に位置する何らかの秩序を持った言表の集合なのである。

 では、言説分析の研究アプローチの特徴はいかなるものだろうか。

 第一に、言説分析は知識社会学のように「真理」の対応説を取らない。すなわち、言語と現実世界との二元論を拒否し、むしろ現実世界の観念もまた言説によって構成されると考えるため、「真理」それ自体も言説のシステム内で構成されると考えるのである。第二に、主/客図式を取らない。言説は多数の人々によって構成される間主観的なものであり、言説の外側にそれが対応する現実世界(客観)が存在するとは考えないため、言説分析は言説の一次元的な空間の中で、言語によって言説を再編成する作業なのである。第三に、言説分析は言語でないものの作用を実証する方法論である。フーコーはこの作用のことを「権力」とあらわしたが、いわば言説分析は言説だけを扱いながら、その背後に様々な権力の効果を見出していく。そしてそこからある場所・ある地点に特有な権力の作用を具体的に実証していくのである。よって、言説分析では「主体」や「真理」すらも言説の結果として生じたものであると考える。つまり、権力が言説を編成し、その結果として主体や真理が生み出されるのである(詳しくはフーコーの一連の研究を参照)。

 

 以上が言説分析の基本的なスタンスであるが、では言説分析の問題点はどこにあるのだろうか。

 第一に、言説分析それ自体も「言説」の形で語られること。つまり、言説分析それ自体も再び言説分析の対象になりえるのである。そのため、言説分析はあらゆる言説の背後に権力が働いていると想定するが、そうすると言説分析それ自体の背後にも権力の存在を認めることになる。しかし、現に働いている権力を、言説分析は解明することはできない。これが言説分析の第一の限界である。

 第二に、言説分析は「理論」を持つことができない。つまり、どのような言説の配置・偏りが見つかり、そこからどのような作用が検出されるかは研究を進めてみるまでは分からない。また、ある言説分析がある結果を導いたとしてそれが他の言説分析に適用できるかは分からない。あくまでも言説分析は「方法」であって、(演繹的に仮説を導く)「理論」にはなりえないのである。

 第三に、言説分析は言説が「どのように」、また「なぜ」変化していくのかを規定できない。言説分析は、権力の作用によって言説の偏りが生じたことを証明できても、なぜ/どのようにして権力がそのように作用するのかを述べたり、予測することはできないのである。

 最後に、以上の点とも関連しているが、言説分析は容易に通俗化する。明確な理論を持たないということは、無制限に考察の対象が広がることを意味する。つまり、そこらへんの対象物にまつわる言説をピックアップして分析を行えば(例えば「切手」に関する言説、「紅茶」にまつわる言説などなど)、それは立派な「言説分析」であり、そこに権力の作用を見出せば、検証を終了となるのである。

 

 橋爪によれば、言説分析が1980年代以降に急速に流行したのは、冷戦以降の時宜にかなっていた。それまでの明確な知の基盤が揺らいだ中で、それを無視して研究を進めることができる言説分析が研究者の目に留まったのである。

 そして橋爪は言説分析の研究の重要性を認めつつ、それを克服する新たなパースペクティブとしてウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」を応用することを提唱している。ここでは、これについては詳述しないが、橋爪の問題意識を要約すれば、言説分析の問題点を克服するにはもう一度「言語」と「行為」を媒介する何かを見つける必要があるということだろう。

 言説分析では言説を規定するものをすべて「権力」という言葉で片づけてしまっていたため、権力それ自体がブラックボックス化、ないしは悪魔化してしまう傾向にあった。その代わりに、言説の外側には、人々の「規則」に従った行為(ふるまい)があり、歴史的な偶然・必然によって築かれた「制度」があると考えることで、その内実をも考察の対象にすることができるのである。

 橋爪はウィトゲンシュタインにその可能性を見出したが、個人的には「規則」や「制度」を提供するものであれば、かならずしも「言語」である必要はないのではないかとも思う。人々に行為のルールや資源を与えるのは、言語だけでなく、例えば人為的構築物としての「制度」(法律、慣習、文化などなど)もまた検証の対象になりうるのではないだろうか。

ロジャース・ブルーベイカーの「認知的視座」について

 以前、ブログにちょろっと書いたブルーベイカーの「認知的視座」についてのメモを今回は整理のため、より詳細に書いておきたい。

 前回のブログ(

http://blog.hatena.ne.jp/cnmthelimit/cnmthelimit.hatenablog.com/edit?entry=8599973812299186816)ではナショナリズムエスニシティ・人種研究にかかわる「本質主義vs構築主義」の対立軸を折衷する理論、という文脈で後半に少し紹介する程度だったが、今回はブルーベイカーの最近の翻訳などを読んでみて、さらに思考がクリアになったので忘れないうちにここに記しておく。また、以下はこれまでのブログ記事と重複する部分が多くあるが、あくまでも個人的な思考整理のためなのでご了承ください。

 

 ブルーベイカーの著作は、邦訳のものとしては『フランスとドイツの国籍とネーション』と『グローバル化する世界と「帰属の政治」ーー移民・シティズンシップ・国民国家』の二冊がある。以前ブログに書いた通り、前者の中で取り上げられた「文化イディオム」などのキータームが、後者の方でより精緻化されて体系化されている。

 

 

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

 

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

 

 

 だが、『グローバル化~』はブルーベイカーの短い論文を集めた本なので、この本を一冊読んだだけで彼の思考回路を追うのは難しいため、前回同様、ここではブルーベイカーの一連の仕事を丁寧にまとめている佐藤成基の『カテゴリーとしての人種、エスニシティ、ネーションーーロジャース・ブルーベイカーの認知的アプローチについて』という論文をもとに整理していく。(

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/13318/1/64-1sato.pdf

 

 まず、ブルーベイカーは『フランスとドイツの~』で、シーダ・スコッチポルが用いた「文化イディオム」という概念を援用していたが、それは後年「カテゴリー」という言葉で置き換えられている。これは特定のネーション(ここでは議論をネーションだけに絞る)を語る際の「型」のようなものだと理解してもらえればいいと思う。つまり、ネーションなどの集団が実際に存在しているわけではなく、ただ単にそれらの名を冠して(つまり、これらのカテゴリーを用いて)行われる社会的・政治的な実践が存在するだけだというわけである。

 ブルーベイカーは以上の定義を大前提に、研究の対象を設定している。すなわち、このようなカテゴリーが用いられる実践の場(そのカテゴリーがどのようにして用いられ、人々に受け入れられ、または拒絶されるのか)が、主としてブルーベイカーの研究対象・フィールドになる。

 だが、ここで一つ疑問が生じる。この「集団なきネーション」という考え方は、いわゆる「構築主義的アプローチ」の考え方の焼き直しにすぎないのではないか、という点である。だが、ブルーベイカーはこの反論にこう返す。80年代以降に大量に生産されたナショナリズムの古典、とりわけ画期的著作B・アンダーソンの『想像の共同体』などを起源に流行した「構築主義」的な考え方は、あまりに「正しすぎて」次なる議論に発展する余地をすっかり削いでしまった、と。つまり、「ネーションは構築されたものである」という結論を出すことに力を注いでしまい、「なぜ、あるいはどのようにネーションは構築されるのか」、「構築されたものにすぎないネーションがなぜ人々をこれほど狂信的なまでに動員するのか」といった疑問への回答の試みがいまだになされていないである。

 要は、「構築主義」的アプローチは「エリート的バイアス」でネーションを捉えてしまっており、確かに「分析者の本質主義」は乗り越えたかもしれないが、当事者の「本質主義」、「集団主義」(groupism)をすっかり無視してしまっているのである。また、「ネーションは構築されたものである」という結論を出してしまっている時点で、構築主義もネーションという集団を実体的なものとする「集団主義」に陥ってしまっていることも否めない。いわば、ブルーベイカーの問題関心は、従来のナショナリズム研究における「構築主義の氾濫」と「本質主義への軽視」という二つの問題をいかに克服し、両者を架橋するか、という点にあるといえる。

 

 では、以上の認知的視座の具体的な研究のアプローチはどういったものなのだろうか。ブルーベイカーは自らのアプローチを「上からのアプローチ」と「下からのアプローチ」の二つに整理している。

 「上からのアプローチ」は、公式のカテゴリー化(主に国家によって特定のカテゴリーがどのように喧伝され、固定化されていったのか)の過程を解明する。ブルデューは、国家ないし大規模な制度・組織が「象徴権力」(人々に世界の「視界と区分 vision and  division」を強いる権力)を用いて集団を創出すると述べたが、それをここでは援用し、制度や組織の決め事がいかに一般の人々の自己理解に影響を与えるかを解明するアプローチである。

 「下からのアプローチ」は、インフォーマルな日常生活の中での実践に着目する。その中で人々が他者との相互行為をするため、自他の行動や存在の意味を提供し、感情的連帯・価値判断の根拠としてネーションのカテゴリーがいかに用いられるのか、を解明する。エスノメソドロジーが明らかにするように、それらのカテゴリーは日々の実践の中で成し遂げられていくもので、ある場所、ある時、生活を構成する相互行為の営みとして言明/拒否、提示/無視されるものなのである。

 

 以上で挙げたのは「カテゴリー化」を研究するアプローチだが、ここまでは社会学の研究の蓄積の中で取り扱ってきたテーマとも関係するものである。だが、ブルーベイカーはその議論をさらに一歩進める。いわく、人間はカテゴリーだけで世界を認識しているわけではない(それだけでは世界は無味乾燥でつまらないものになってしまう)。すなわち、カテゴリー化にくわえ、人は「図式」(schema)という認識の道具を用いる。カテゴリーが経験や出来事を「分類」するだけのものにすぎないのに対し、図式はそれらの経験や出来事を関連づけ、世界を「筋書き」、すなわちストーリーに沿って(つまり無数の出来事を因果的に結び付けることで)解釈することを可能にするものである。

 そしてブルーベイカーはこの図式化の例として以下の二つを挙げている。一つは「人種プロファイリング」である。例えば、「黒人は黒人であるという人種的理由だけで、白人警官から尋問されるものである」という「筋書き」が存在する国で、実際は人種にかかわる理由ではなく、単純に犯罪的行為が理由であったにもかかわらず、その筋書きにしたがって黒人は嫌悪感を抱いたり、反発を起こしたりすることがある。これは、つまり経験や出来事が「人種化」されるということである。

 もう一つは、「エスニック競合の図式」である。例えば、「同一の労働市場においては人種集団、あるいはエスニック集団は互いに職を奪い合うものである」という筋書きにもとづいて、実際の失業の原因はマクロな経済状況の悪化や会社経営の問題など様々あるにもかかわらず、「奴らに職を奪われた」と理解される場面は多々存在するだろう(昨今の先進諸国における排外主義の台頭など)。

 いずれの事例も事実誤認の場合が多いが、人々はそのような理解の仕方によって(カテゴリー化→図式化)、最小の労力で最大限の情報を得ることができるのである。

 

 また、これらのカテゴリー化や図式化は意図的・道具主義的に用いられる場合もあるが、必ずしもすべてがそうであるとは限らない。むしろ、何らかの状況依存的な「暗示 cue」(例えば、テロなどの事件)によって、無意識的に作動することのほうが多い。

 さらに、ブルーベイカーの以上の議論に対して、個人主義的・心理主義還元論に陥ってしまっているのではないか(そうなると個人の「心」までは科学的に証明できないため検証のしようがない)という批判もあるが、彼はこういったネーション(およびエスニシティ・人種)のカテゴリーはある程度「社会的に共有された知識」であるため、それが使われるのも個人においてだけでなく、社会的関係の中においてであると反論している。つまり、社会的にそれらのカテゴリー・図式の筋書き(「認知のテンプレート」)がどれだけ波及・分散しているかによって、何らかの暗示が生じた時に作動する可能性が高いかどうかも変わってくるのである。要は、以上の議論は個人の問題というよりも非常に「社会的」な問題だというのである。

 

 以上の議論を踏まえると、従来、ネーション・エスニシティ研究において等閑視されてきた「原初主義」的アプローチの見直しが図られるべきであることが分かる。「原初主義」、特にギアツの議論はネーション・エスニシティの「原初的愛着」を重視するあまり客観的な研究のアプローチとはみなされず、パラダイムの外に追いやられていたが、ギアツ自身は「当事者の原初主義」を重視していただけで、これはつまりブルーベイカーの議論とも親和性が高いのである。

 また、当事者によって語られる「集団」(人種・エスニシティ・ネーション)は定数ではなく、変数として考えたほうが良いとブルーベイカーは述べる。つまり、それらの「集団性」(groupness)はルーティン的・事務的に用いられる「平凡な」状態から、「自己犠牲の愛」などの強度な連帯感を抱かせる「熱い」状態までかなりの開きがあるのだ。ゆえに、集団性をほとんど意識しない日常時と集団性が極端に高くなる内戦・戦争時とを区別しなければならない。内戦・戦争時の暴力の応酬が「民族」のカテゴリーでとらえられ、「民族」の観点から解釈されることで集団性を一時的に高めることもありうるからである(コソボにおけるアルバニア人セルビア人との内紛など)。だが、集団性の変化に関しては、体系的に理論化することはできないため、個別の事例を見ていくほうが現実的である。したがって、ひとまずは「集団性は変数であり、そこには大きな幅がある」と念頭に置くだけでも十分である。

 

  以上がブルーベイカーの「認知的視座」の概要だが、最後にこのアプローチの問題点も何点が挙げておきたい。

 まずは、分析装置がいまだ不十分な点である。以上のカテゴリー化の議論まではまだ社会学的概念装置で補えそうな雰囲気だが、図式化の議論はブルーベイカーが重視する認知人類学認知心理学の知見を応用しているため、一貫した概念ツールはいまだ乏しい。例えば、以上で挙げた「上からのアプローチ」をより発展させる方法としては、ブルデューの国家論(象徴権力)の読解、および社会学的新制度主義の見直しなどがあるだろう。また、反対に「下からのアプローチ」ではエスノメソドロジーや理解社会学の知見などを取り込むことで発展させることもできるかもしれない。いずれにしろ、少し多分野の方面に移行しつつあるブルーベイカーの議論を、どうにか社会学に軌道修正する研究が必要であると思われる(もちろんこれは社会学以外のディシプリンを軽視しているわけではない)。

 また、ブルーベイカーの議論は個人主義的・心理主義還元論に陥っているという批判はいまだに生きていると思う。ブルーベイカーの反論は上述の通りだが、かといってそれはいまだ十分ではなく、もう一度議論を「社会」に振り戻すことが必要であると考える。さらに、「上から」と「下から」のアプローチを媒介する何らかの手立ても必要である。これはそのまま社会学における「マクロ」と「ミクロ」の統合(例えばギデンズの構造化理論がそのプロジェクトを引き受けたように)という問題にもかかってくるが、両者のアプローチが統合されないと議論は平行線のままである。例えば、国籍法の議論などのマクロ視点がインフォーマルな日常生活などのミクロ視点の分析においてどう応用できるか(例えば国籍法にもとづいて移民が日常生活においてどのような支障をきたしたり、そのカテゴリーを用いるか、労働法の規定によって国境をまたいだ労働者がいかに実践においてそれらの影響を受けるか、など)を具体的に考えていく必要があるだろう。