楽楽風塵

ナショナリズム 移民 台湾 映画と読書

Rogers Brubaker "Beyond 'identity'"

 今回はロジャース・ブルーベイカーの論文、"Beyond 'identity'"についてである。下記リンクでダウンロード可能。

https://www.sscnet.ucla.edu/soc/faculty/brubaker/Publications/18_Beyond_Identity.pdf

 

 既刊翻訳である『グローバル化する世界と「帰属の政治」』の中で、ある程度ブルーベイカーの主要論文は取り上げられているが、この論文は少し言及されているだけで未翻訳だったのでとりあえず目を通してみた。大まかな主張は『グローバル化~』の中で言及されているとおりであるが、よりそれを具体的に把握するために以下で少し整理しておきたい。

 

 この論文は、タイトルにある通り「アイデンティティ」という用語を越えること、つまりすでに手垢がついたこの語に代わって新たな分析概念を提示することを目的としている。

 この新たな分析概念となるのは、以前ブログでも散々書いたように「カテゴリー」であったり、「自己理解」であったりするのだが(これについてはのちに詳述)、まずはなぜこの「アイデンティティ」を使用することをブルーベイカーが拒否するのかを簡単に説明しよう。

 ブルーベイカーによれば、「アイデンティティ」という言葉には「強い strong」意味と「弱い weak」意味、そしてその意味が「曖昧 ambiguity」に定義されたものとが存在する(p.1, 10-11)。強い意味でとらえられる場合、アイデンティティはパトス(情念)を湧きあがらせるような「自己」の根拠に用いられ、弱い意味あるいは曖昧な意味で使われる場合、それは(本質主義がしばしば用いるように)全くの有名無実化したものとして否定的にとらえられるか、ブラックボックス化した便利な言葉として用いられる。いずれの立場にせよ、「アイデンティティ」はすでにその言葉を使う研究者や当事者の立場によって、いいように解釈される概念になってしまっているのである。

 そもそも社会科学において「アイデンティティ」という言葉がここまで氾濫したのはなぜだろうか。ブルーベイカーは、その起源をフロイトエリクソンなどの心理学的な系譜に見出し、それが後にゴードン・オルポートの1954年に刊行された有名な著作『The Nature of Prejudice』によってエスニシティの研究にも流入し、社会学ではマートンやゴフマン、そしてピーター・バーガーによって援用されていったと述べている。

 そして1960年代に入って、主に米国における公民権運動やヒッピー文化の隆盛の中でこの言葉はさらに波及していくことになり、「アイデンティティ・ポリティクス」なる言葉も誕生した。そして今では多くの社会科学における文献の中で見出されるようになっている。

 

 では、現在社会科学の文献の中で「アイデンティティ」はどんな用法で使われているのだろうか。ブルーベイカーは、それを以下の五つに分類する。

1.社会的・政治的行為における非道具主義的(non-instrumental)な側面を強調する際に、「利害関心 interest」と対置するものとして用いる

2.特定の集団的な現象を扱う際に、集団の根本的な「同質性 sameness」を意味するものとして用いる

3.「自我」などの人間の根源的なものを表す際に、深く、基礎的な、不変のものとして用いる

4.社会・政治活動の生産を理解する際に、集団行動を可能にする集団的な自己理解(self-understanding)や連帯、集団性(groupness)の手続き的・相関的な発展を強調するものとして用いる

5.不安定で複合的・可変的・断片的な、現代における「自己」の本質を表すために用いる

(p.6-8)

  以上を見てみると分かるように、「アイデンティティ」の用法にはかなりの開きがある。ここから恣意的に用法を策定して分析に用いても、前提となる定義づけの時点で研究者の間で齟齬が生じるのは必至である。

 

 そこでブルーベイカーは「アイデンティティ」という用語を使う代わりに、いくつかの独自の概念を提示している。以下、それをいくつか紹介しよう。

 まず一つ目は、「同定化 identification」と「カテゴリー化 categorization」である。この二つの用語の特徴は、"identity"のように固定的なものとして人間の自己-他者認識を捉えるのではなく、より流動的な状況・文脈依存的なものとしてそれを捉えている点である。つまり、この用語を使うことで、自他を何らかのカテゴリーへと押しはめる「過程」が問題関心の中心となるのである。そのため、ブルーベイカーの認識では、人間は確固とした自己を持っているわけではなく、網の目のような関係性の中に位置する(relational)、あるいは何らかのカテゴリー的なメンバーシップに帰属を求める(categorical)、ある種の「管」のようなものなのだといえる。またその際、自らをアイデンティファイする方法は能動的に行われる場合もあれば、他者(小さな個人であったり、また国家などの大きな組織である場合もある)によって行われる場合もあることも注意しなければならない。

 二つ目は、「自己理解 self-understanding」と「社会的位置 social location」である。「自己理解」や「社会的位置」という言葉は「アイデンティティ」と比べて、社会的に変動する「主観性」を示唆している。つまり、人々は普遍的な「自己」を持っているわけではなく、上に挙げた「同定化」や「カテゴリー化」の過程において、現時点における「自分」を理解・経験することができるのである。ただし、「自己理解」という言葉を使うことの弊害もある(p.18-9)。例えば、この言葉を使うと、当事者の主観的な理解を重視しすぎて他者からの理解を扱うことができなくなる。次に、認知的な意識を特権化してしまうことにもなりかねない。最後に、「アイデンティティ」という言葉によって表されていた客観性を確保することができない。つまり、強い意味でのアイデンティティの概念を用いた研究は、「本当の true」アイデンティティと「単なる mere」自己理解を区別していたが、自己理解のみに焦点を当てるブルーベイカーの用法ではあまりにも主観的に過ぎるのではないかという懸念があるのだ。

 三つ目は、「共通性 commonality」、「結びつき connectedness」、「集団性 groupness」である。以上で挙げた二つの分析装置は、いわば個人が自己を分類する方法を分析するためのものであるが、この三つ目の分析装置はそのように自己を分類・理解した個人同士がいかに他者と結びつき、集団へと凝集していくのかを分析する際に用いられるものである。例えば、ネーションの結びつきは相互のネットワーク以上に、原初的で時には狂信的ともいえる感情的な愛着によってなされる。そのように集団への帰属感情を喚起するものは、特有の歴史的な出来事、公共のナラティブ、言説フレームなど様々考えられるが、それらを具体的に考察するためにこの概念装置が用いられるのである。

 

 そして論文の後半でブルーベイカーは、実際に以上で挙げた概念を三つのケーススタディ(ヌエル族の家族形態、東欧のナショナリズム、米国の「人種」をめぐるアイデンティティの議論)に適用して分析を行っている。

 さらに最後に、ブルーベイカーは留保として、分析概念としての「アイデンティティ」の使用を控えるべきだと言っているだけで、当事者からもそれを奪い去ろうとしているわけではないことを付け加えている。これは「分析のカテゴリー」と「実践のカテゴリー」を区別する彼のスタンスからすれば当然のことであるが、社会分析における「アイデンティティ」の使用に異議を唱えるのは、(例えば社会的マイノリティなどの)「特殊性 particularity」に目を背けるためではなく、むしろ特定の愛着や結びつきなどから生じる申し立てや可能性に光を当てるためであることを強調している(p.36)。最後の最後でこういった留保を必要とすることからも、いかに「アイデンティティ」という言葉がすでに人口に膾炙し、かつ政治性を帯びているかを痛感せざるをえない。

友枝敏雄「言説分析と社会学」

 もう一つ、同じ『言説分析の可能性』の中に収められた友枝敏雄「言説分析と社会学」という論稿をまとめる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  「言説分析」についての言及は先のブログに詳しく書いているのでいいとして、本論稿は言説分析と特に(知識社会学ではなく)社会学との関係について述べられていて興味深かった。友枝はこの中で言説分析がいかに、従来の社会学理論から乖離しているかを考察している。特に重要なのは、第三節の「社会学における理論構成」という個所で、そのなかで社会学理論の基本構成が分かりやすかったので書き留める(最近出た『社会学の力』という入門書の中でも少し言及されている。これは社会学の入門書の中ではかなりの良本)。

 

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

社会学の力 -- 最重要概念・命題集

 

  まず、社会学の(広義の)理論には大きく分けて二つのものがある。一つは狭義の「理論」であり、もう一つは「メタ理論」である。前者は社会事象を説明・検証する理論である。これによって仮説を検証し、経験的命題として確定することができる(例えば「市民社会」や「恥の文化」の概念など)。後者は理論の理論であり、複数の理論を統合する形での理論である。例えば、パーソンズの一般システム理論などがこれにあたる。理論が社会事象を説明するものであるのに対し、メタ理論は必ずしも社会事象を説明するものでなくともよい点に大きな違いが存在する。

 さらに狭義の理論の中には、「純粋理論」と「規範理論」の二つが含まれている。一般に社会学研究の目的は、①社会事象の「記述」、②社会事象の因果関係もしくはメカニズムの「説明」、③現実の社会に存在する規範、制度、秩序の有効性や正当性を検討し、社会事象に対する政策的判断や価値判断を下すこと(「当為」)の三つに分けられるが、①、②の目的に重点を置くのが純粋理論で、③に置くのが規範理論である。ウェーバーがいうように、あらゆる科学者は価値判断からは自由であり得ない点でこの区別は無意味にも見えるが、多くの研究者はひとまず両者を区別して研究に取り組んでいる。

 

 さて、理論の構築には、「概念構成」と「命題構成」という二つの作業を要する。前者はある事象を説明するために必要な概念を選び出し、その概念を定義することであり、その概念が複数ある場合は概念間の関係性(上位-下位)を示すことである(例えば、ウェーバーは「行為の四類型」を使って、類型間の移行として現実の社会の動きを描いた)。反対に後者は、概念間の関係がある概念(説明項)がある概念(被説明項)を説明するという関係になっているときに、両者の関係を定式化することである(デュルケムの『自殺論』における「集団の凝集力が弱いと自殺率が伸びる」など)。

 また、概念構成と命題構成からなる理論構成の作業の根底にあるのが、「領域仮説」または「大前提」と呼ばれるものである。例えば、ウェーバーは近代資本主義の発展を論じる際に、暗黙の裡に「前近代」と「近代」を区別している。また、ハーバーマスはコミュニケーション的行為を論じる際に、前提として人々はコミュニケーションによって合意に達することを規定している。これが「領域仮説」である。

 

 以上の議論を整理すれば、社会学理論の位相は以下のようになる。

1.領域仮説もしくは大前提

2.①概念構成および②命題構成からなる純粋理論

3.規範理論

(p.244)

  従来の社会学理論はその誕生の時からして、前提として自然科学により近づこうとして、研究対象もしくは分析の単位(例えば人間の「行為」など)を確定することができ、この確定された対象を分析することで純粋理論を構築できると考えてきた。しかし、言説分析はソシュール以来の「言語論的転回」に依拠しているため、その考え方を否定し、実在があってそれに意味が与えられるのではなく、意味が与えられて初めて実在が切り分けられ、存在はじめる、と考える。

 よって友枝によれば、その誕生の由来からして言説分析は構築主義と親和性が高い。それゆえ、構築主義がそうであるように、言説分析も極限的には完全な相対主義にならざるを得なくなり、科学が守るべき客観性や普遍性といったものをどうやって担保するのかという問題がやはり首をもたげてくるのである。

 極論すれば、言説分析は「言説空間こそが社会事象そのものであるから、言説空間の外にいかなる社会的事象も成立しない」というスタンスを取る。友枝は、言説分析には「ハード(厳密)なもの」と「ソフト(ゆるやか)なもの」との二つがあると述べる。前者は「言説分析においては、社会的存在についての考察は言説を通して行うべきである」とする、よりラディカルな立場であり、これはいわば「言説一元論」ともいえる。対して後者は、「言説空間とともに社会空間も存在する」として、言説と社会階層、社会集団、社会構造などとの関係の説明を試みる立場である。

 後者は厳密に言えば、もはや知識社会学のスタンスと何ら変わらないため、言説分析が独自の領域として確立するためには、原理的に「ハードなもの」の立場を取らなければならなくなる。だが、その立場を取れば途端に言説分析は(社会を探求する学としての)社会学とは根本的に相いれないものとなってしまう。友枝の考えでは、言説分析はそもそも社会学の一研究領域にはなりえないものなのである。

 

 言説分析を厳密に考えれば友枝の主張の通りになるだろうが、例えば前回のブログに挙げたように言説分析では言説の背後に「権力」の存在を認めていた。この権力をどう定義するかにもよるが、もしそれを社会的に構築されるもの、社会の何らかのアクターによって創出したものとして描くのであれば、以上の友枝が示した理論上のアポリアも解決しそうではある。だが、そうなってくると、また知識社会学との差異化が難しくなってくる。やはり、言説分析を社会学の研究領域として確立するのは難しいのだろうか。

橋爪大三郎「知識社会学と言説分析」

 今回は、知識社会学と言説分析の関係性についてメモしておきたい。

 参照する文献は以下のもの。なかなか凝りに凝ったレトリックまみれの難渋する論稿ばかりだが(フランス現代思想を迂回した研究者にありがちである)、その中でも比較的わかりやすく、きれいにまとまった論稿として、橋爪大三郎知識社会学と言説分析」を取り上げる。

 

言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
 

  

 この論稿は、カール・マンハイムを創始とする知識社会学ミシェル・フーコーを創始とする言説分析の共通点と相違点、そして両者が陥っている問題点を明らかにする。私自身、この二つの研究アプローチの違いがよくわからなかったし、学部の卒業論文では「言説」という言葉を何の気なしに、単なる「ある人によって語られた言葉の集積」ぐらいのニュアンスでしか捉えていなかったが、この論稿を読んでなんとなくだがその差異を認識することができた。

 マルクス主義の影響下で誕生した知識社会学のキーワードは「イデオロギー」である。イデオロギーは人それぞれで異なるが、マルクス主義においては唯一「真理」とされるイデオロギーは労働者階級のそれである。そして特に虚偽のイデオロギーとしてやり玉に挙げられるのは、労働者階級を搾取するブルジョア階級のイデオロギーである。

 また、マルクス主義においては人々のイデオロギー、および知識の体系を規定するのはその人が置かれている社会的な環境(階級や身分など)である。しかし、ブルジョア階級が優位にある社会では、そのイデオロギーが支配的であるため労働者はそれが虚偽であることを自覚できずにいる。そのため、労働者階級を「正しい」イデオロギーへと誘導するために労働者階級のリーダーによって結成される共産党の指導が不可欠なのである。

 イデオロギーには三つの特徴がある。一つ目は、それが包括的な知識、つまり知識の体系である点イデオロギーは自然科学、人文社会科学のすべてを貫く包括的な知のシステムである。二つ目は、イデオロギーは観念の在り方であって、言語そのものではない点。イデオロギーは言語を媒介とせざるを得ないが、その本質は観念そのものなのである。三つ目は、イデオロギーは他のイデオロギーと対立し、自分の方が優位であることを競う点。

 イデオロギーは、社会活動の全体を覆いつくし、人びとの認識を支配し、社会を現状のままに機能させる。どんなイデオロギーも、みずからを真理であると考える。それが虚偽だと批判されるのは、異なるイデオロギーとのイデオロギー闘争が生じた場合である。(p.188)

  

 以上がイデオロギーの性質だが、ではそんなイデオロギーを研究する知識社会学とはどんなものなのだろうか。その進むべき可能性としては以下の二つが考えられる。

 まず第一に、大前提として知識社会学マルクス主義の主張を全面的に承認すること。より厳密に言えば、マルクス主義が主張するブルジョアイデオロギーは虚偽であり、マルクス主義が唯一「真理」であるという主張を受け入れるということである。

 第二に、科学としての「社会学」の自律性を担保し、親であるマルクス主義もまたそのほかのイデオロギーと同様に批判の対象にする可能性である。厳密にこの道を区分すると、そこにはさらに三つの立場が存在する。

 一つ目は、知識社会学それ自体も他の知識同様に、単なる知識に過ぎない(つまりメタ知識でない)と認めること。そうすると知識社会学によって導き出されるテーゼも単なる非特権的なイデオロギーの一つに過ぎないことになってしまうため、完全なる相対主義に陥ってしまう。二つ目は、知識社会学がメタ知識であることに固執し、マルクス主義の優位を否認すること。そうすると知識社会学の優位は担保できるが、それが本当に知識(イデオロギー)を正しく認識できているのかが分からなくなる。三つ目は、「真理」の枠組みを放棄し、現実が意識を規定するというイデオロギーの基本テーゼすらも放棄すること。そうすると、知識は現実世界との対応を失って、どうとでも解釈されうる胡散臭いものになってしまう。

 以上のように、知識社会学はどの方向に進んでも深刻なアポリアに直面するという、いわばじり貧状態である。

知識社会学それ自身も、知識である。知識社会学が、知識を分析・研究する一般的な方法であると自己主張しようとすると、それは、知識が知識を正当化しようとする、自己言及のかたちになる。これは、解けない課題であり、正当化しがたい。(p.190) 

  マルクス主義から誕生した知識社会学は、またマルクス主義によって殺されたといっても過言ではないだろう。

 

 では、反対に言説分析はどうだろうか。

 知識社会学のキーワードが「イデオロギー」だとすれば、言説分析におけるキーワードはいわずもがな「言説」である。「言説」(discourse)は「言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である」(p.191)。言語の最も小さな単位を「言表」(エノンセ)と言い(これは社会学での最小単位である「行為」に相当する)、それらの言表が集まってできた集合体、ある時代・ある場所(社会)を満たしている言語的な活動の全体を「集蔵庫」(アーカイブ)と言う。つまり、言説はこの言表と集蔵庫の間に位置する何らかの秩序を持った言表の集合なのである。

 では、言説分析の研究アプローチの特徴はいかなるものだろうか。

 第一に、言説分析は知識社会学のように「真理」の対応説を取らない。すなわち、言語と現実世界との二元論を拒否し、むしろ現実世界の観念もまた言説によって構成されると考えるため、「真理」それ自体も言説のシステム内で構成されると考えるのである。第二に、主/客図式を取らない。言説は多数の人々によって構成される間主観的なものであり、言説の外側にそれが対応する現実世界(客観)が存在するとは考えないため、言説分析は言説の一次元的な空間の中で、言語によって言説を再編成する作業なのである。第三に、言説分析は言語でないものの作用を実証する方法論である。フーコーはこの作用のことを「権力」とあらわしたが、いわば言説分析は言説だけを扱いながら、その背後に様々な権力の効果を見出していく。そしてそこからある場所・ある地点に特有な権力の作用を具体的に実証していくのである。よって、言説分析では「主体」や「真理」すらも言説の結果として生じたものであると考える。つまり、権力が言説を編成し、その結果として主体や真理が生み出されるのである(詳しくはフーコーの一連の研究を参照)。

 

 以上が言説分析の基本的なスタンスであるが、では言説分析の問題点はどこにあるのだろうか。

 第一に、言説分析それ自体も「言説」の形で語られること。つまり、言説分析それ自体も再び言説分析の対象になりえるのである。そのため、言説分析はあらゆる言説の背後に権力が働いていると想定するが、そうすると言説分析それ自体の背後にも権力の存在を認めることになる。しかし、現に働いている権力を、言説分析は解明することはできない。これが言説分析の第一の限界である。

 第二に、言説分析は「理論」を持つことができない。つまり、どのような言説の配置・偏りが見つかり、そこからどのような作用が検出されるかは研究を進めてみるまでは分からない。また、ある言説分析がある結果を導いたとしてそれが他の言説分析に適用できるかは分からない。あくまでも言説分析は「方法」であって、(演繹的に仮説を導く)「理論」にはなりえないのである。

 第三に、言説分析は言説が「どのように」、また「なぜ」変化していくのかを規定できない。言説分析は、権力の作用によって言説の偏りが生じたことを証明できても、なぜ/どのようにして権力がそのように作用するのかを述べたり、予測することはできないのである。

 最後に、以上の点とも関連しているが、言説分析は容易に通俗化する。明確な理論を持たないということは、無制限に考察の対象が広がることを意味する。つまり、そこらへんの対象物にまつわる言説をピックアップして分析を行えば(例えば「切手」に関する言説、「紅茶」にまつわる言説などなど)、それは立派な「言説分析」であり、そこに権力の作用を見出せば、検証を終了となるのである。

 

 橋爪によれば、言説分析が1980年代以降に急速に流行したのは、冷戦以降の時宜にかなっていた。それまでの明確な知の基盤が揺らいだ中で、それを無視して研究を進めることができる言説分析が研究者の目に留まったのである。

 そして橋爪は言説分析の研究の重要性を認めつつ、それを克服する新たなパースペクティブとしてウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」を応用することを提唱している。ここでは、これについては詳述しないが、橋爪の問題意識を要約すれば、言説分析の問題点を克服するにはもう一度「言語」と「行為」を媒介する何かを見つける必要があるということだろう。

 言説分析では言説を規定するものをすべて「権力」という言葉で片づけてしまっていたため、権力それ自体がブラックボックス化、ないしは悪魔化してしまう傾向にあった。その代わりに、言説の外側には、人々の「規則」に従った行為(ふるまい)があり、歴史的な偶然・必然によって築かれた「制度」があると考えることで、その内実をも考察の対象にすることができるのである。

 橋爪はウィトゲンシュタインにその可能性を見出したが、個人的には「規則」や「制度」を提供するものであれば、かならずしも「言語」である必要はないのではないかとも思う。人々に行為のルールや資源を与えるのは、言語だけでなく、例えば人為的構築物としての「制度」(法律、慣習、文化などなど)もまた検証の対象になりうるのではないだろうか。

ロジャース・ブルーベイカーの「認知的視座」について

 以前、ブログにちょろっと書いたブルーベイカーの「認知的視座」についてのメモを今回は整理のため、より詳細に書いておきたい。

 前回のブログ(

http://blog.hatena.ne.jp/cnmthelimit/cnmthelimit.hatenablog.com/edit?entry=8599973812299186816)ではナショナリズムエスニシティ・人種研究にかかわる「本質主義vs構築主義」の対立軸を折衷する理論、という文脈で後半に少し紹介する程度だったが、今回はブルーベイカーの最近の翻訳などを読んでみて、さらに思考がクリアになったので忘れないうちにここに記しておく。また、以下はこれまでのブログ記事と重複する部分が多くあるが、あくまでも個人的な思考整理のためなのでご了承ください。

 

 ブルーベイカーの著作は、邦訳のものとしては『フランスとドイツの国籍とネーション』と『グローバル化する世界と「帰属の政治」ーー移民・シティズンシップ・国民国家』の二冊がある。以前ブログに書いた通り、前者の中で取り上げられた「文化イディオム」などのキータームが、後者の方でより精緻化されて体系化されている。

 

 

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

グローバル化する世界と「帰属の政治」――移民・シティズンシップ・国民国家

 

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

 

 

 だが、『グローバル化~』はブルーベイカーの短い論文を集めた本なので、この本を一冊読んだだけで彼の思考回路を追うのは難しいため、前回同様、ここではブルーベイカーの一連の仕事を丁寧にまとめている佐藤成基の『カテゴリーとしての人種、エスニシティ、ネーションーーロジャース・ブルーベイカーの認知的アプローチについて』という論文をもとに整理していく。(

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/13318/1/64-1sato.pdf

 

 まず、ブルーベイカーは『フランスとドイツの~』で、シーダ・スコッチポルが用いた「文化イディオム」という概念を援用していたが、それは後年「カテゴリー」という言葉で置き換えられている。これは特定のネーション(ここでは議論をネーションだけに絞る)を語る際の「型」のようなものだと理解してもらえればいいと思う。つまり、ネーションなどの集団が実際に存在しているわけではなく、ただ単にそれらの名を冠して(つまり、これらのカテゴリーを用いて)行われる社会的・政治的な実践が存在するだけだというわけである。

 ブルーベイカーは以上の定義を大前提に、研究の対象を設定している。すなわち、このようなカテゴリーが用いられる実践の場(そのカテゴリーがどのようにして用いられ、人々に受け入れられ、または拒絶されるのか)が、主としてブルーベイカーの研究対象・フィールドになる。

 だが、ここで一つ疑問が生じる。この「集団なきネーション」という考え方は、いわゆる「構築主義的アプローチ」の考え方の焼き直しにすぎないのではないか、という点である。だが、ブルーベイカーはこの反論にこう返す。80年代以降に大量に生産されたナショナリズムの古典、とりわけ画期的著作B・アンダーソンの『想像の共同体』などを起源に流行した「構築主義」的な考え方は、あまりに「正しすぎて」次なる議論に発展する余地をすっかり削いでしまった、と。つまり、「ネーションは構築されたものである」という結論を出すことに力を注いでしまい、「なぜ、あるいはどのようにネーションは構築されるのか」、「構築されたものにすぎないネーションがなぜ人々をこれほど狂信的なまでに動員するのか」といった疑問への回答の試みがいまだになされていないである。

 要は、「構築主義」的アプローチは「エリート的バイアス」でネーションを捉えてしまっており、確かに「分析者の本質主義」は乗り越えたかもしれないが、当事者の「本質主義」、「集団主義」(groupism)をすっかり無視してしまっているのである。また、「ネーションは構築されたものである」という結論を出してしまっている時点で、構築主義もネーションという集団を実体的なものとする「集団主義」に陥ってしまっていることも否めない。いわば、ブルーベイカーの問題関心は、従来のナショナリズム研究における「構築主義の氾濫」と「本質主義への軽視」という二つの問題をいかに克服し、両者を架橋するか、という点にあるといえる。

 

 では、以上の認知的視座の具体的な研究のアプローチはどういったものなのだろうか。ブルーベイカーは自らのアプローチを「上からのアプローチ」と「下からのアプローチ」の二つに整理している。

 「上からのアプローチ」は、公式のカテゴリー化(主に国家によって特定のカテゴリーがどのように喧伝され、固定化されていったのか)の過程を解明する。ブルデューは、国家ないし大規模な制度・組織が「象徴権力」(人々に世界の「視界と区分 vision and  division」を強いる権力)を用いて集団を創出すると述べたが、それをここでは援用し、制度や組織の決め事がいかに一般の人々の自己理解に影響を与えるかを解明するアプローチである。

 「下からのアプローチ」は、インフォーマルな日常生活の中での実践に着目する。その中で人々が他者との相互行為をするため、自他の行動や存在の意味を提供し、感情的連帯・価値判断の根拠としてネーションのカテゴリーがいかに用いられるのか、を解明する。エスノメソドロジーが明らかにするように、それらのカテゴリーは日々の実践の中で成し遂げられていくもので、ある場所、ある時、生活を構成する相互行為の営みとして言明/拒否、提示/無視されるものなのである。

 

 以上で挙げたのは「カテゴリー化」を研究するアプローチだが、ここまでは社会学の研究の蓄積の中で取り扱ってきたテーマとも関係するものである。だが、ブルーベイカーはその議論をさらに一歩進める。いわく、人間はカテゴリーだけで世界を認識しているわけではない(それだけでは世界は無味乾燥でつまらないものになってしまう)。すなわち、カテゴリー化にくわえ、人は「図式」(schema)という認識の道具を用いる。カテゴリーが経験や出来事を「分類」するだけのものにすぎないのに対し、図式はそれらの経験や出来事を関連づけ、世界を「筋書き」、すなわちストーリーに沿って(つまり無数の出来事を因果的に結び付けることで)解釈することを可能にするものである。

 そしてブルーベイカーはこの図式化の例として以下の二つを挙げている。一つは「人種プロファイリング」である。例えば、「黒人は黒人であるという人種的理由だけで、白人警官から尋問されるものである」という「筋書き」が存在する国で、実際は人種にかかわる理由ではなく、単純に犯罪的行為が理由であったにもかかわらず、その筋書きにしたがって黒人は嫌悪感を抱いたり、反発を起こしたりすることがある。これは、つまり経験や出来事が「人種化」されるということである。

 もう一つは、「エスニック競合の図式」である。例えば、「同一の労働市場においては人種集団、あるいはエスニック集団は互いに職を奪い合うものである」という筋書きにもとづいて、実際の失業の原因はマクロな経済状況の悪化や会社経営の問題など様々あるにもかかわらず、「奴らに職を奪われた」と理解される場面は多々存在するだろう(昨今の先進諸国における排外主義の台頭など)。

 いずれの事例も事実誤認の場合が多いが、人々はそのような理解の仕方によって(カテゴリー化→図式化)、最小の労力で最大限の情報を得ることができるのである。

 

 また、これらのカテゴリー化や図式化は意図的・道具主義的に用いられる場合もあるが、必ずしもすべてがそうであるとは限らない。むしろ、何らかの状況依存的な「暗示 cue」(例えば、テロなどの事件)によって、無意識的に作動することのほうが多い。

 さらに、ブルーベイカーの以上の議論に対して、個人主義的・心理主義還元論に陥ってしまっているのではないか(そうなると個人の「心」までは科学的に証明できないため検証のしようがない)という批判もあるが、彼はこういったネーション(およびエスニシティ・人種)のカテゴリーはある程度「社会的に共有された知識」であるため、それが使われるのも個人においてだけでなく、社会的関係の中においてであると反論している。つまり、社会的にそれらのカテゴリー・図式の筋書き(「認知のテンプレート」)がどれだけ波及・分散しているかによって、何らかの暗示が生じた時に作動する可能性が高いかどうかも変わってくるのである。要は、以上の議論は個人の問題というよりも非常に「社会的」な問題だというのである。

 

 以上の議論を踏まえると、従来、ネーション・エスニシティ研究において等閑視されてきた「原初主義」的アプローチの見直しが図られるべきであることが分かる。「原初主義」、特にギアツの議論はネーション・エスニシティの「原初的愛着」を重視するあまり客観的な研究のアプローチとはみなされず、パラダイムの外に追いやられていたが、ギアツ自身は「当事者の原初主義」を重視していただけで、これはつまりブルーベイカーの議論とも親和性が高いのである。

 また、当事者によって語られる「集団」(人種・エスニシティ・ネーション)は定数ではなく、変数として考えたほうが良いとブルーベイカーは述べる。つまり、それらの「集団性」(groupness)はルーティン的・事務的に用いられる「平凡な」状態から、「自己犠牲の愛」などの強度な連帯感を抱かせる「熱い」状態までかなりの開きがあるのだ。ゆえに、集団性をほとんど意識しない日常時と集団性が極端に高くなる内戦・戦争時とを区別しなければならない。内戦・戦争時の暴力の応酬が「民族」のカテゴリーでとらえられ、「民族」の観点から解釈されることで集団性を一時的に高めることもありうるからである(コソボにおけるアルバニア人セルビア人との内紛など)。だが、集団性の変化に関しては、体系的に理論化することはできないため、個別の事例を見ていくほうが現実的である。したがって、ひとまずは「集団性は変数であり、そこには大きな幅がある」と念頭に置くだけでも十分である。

 

  以上がブルーベイカーの「認知的視座」の概要だが、最後にこのアプローチの問題点も何点が挙げておきたい。

 まずは、分析装置がいまだ不十分な点である。以上のカテゴリー化の議論まではまだ社会学的概念装置で補えそうな雰囲気だが、図式化の議論はブルーベイカーが重視する認知人類学認知心理学の知見を応用しているため、一貫した概念ツールはいまだ乏しい。例えば、以上で挙げた「上からのアプローチ」をより発展させる方法としては、ブルデューの国家論(象徴権力)の読解、および社会学的新制度主義の見直しなどがあるだろう。また、反対に「下からのアプローチ」ではエスノメソドロジーや理解社会学の知見などを取り込むことで発展させることもできるかもしれない。いずれにしろ、少し多分野の方面に移行しつつあるブルーベイカーの議論を、どうにか社会学に軌道修正する研究が必要であると思われる(もちろんこれは社会学以外のディシプリンを軽視しているわけではない)。

 また、ブルーベイカーの議論は個人主義的・心理主義還元論に陥っているという批判はいまだに生きていると思う。ブルーベイカーの反論は上述の通りだが、かといってそれはいまだ十分ではなく、もう一度議論を「社会」に振り戻すことが必要であると考える。さらに、「上から」と「下から」のアプローチを媒介する何らかの手立ても必要である。これはそのまま社会学における「マクロ」と「ミクロ」の統合(例えばギデンズの構造化理論がそのプロジェクトを引き受けたように)という問題にもかかってくるが、両者のアプローチが統合されないと議論は平行線のままである。例えば、国籍法の議論などのマクロ視点がインフォーマルな日常生活などのミクロ視点の分析においてどう応用できるか(例えば国籍法にもとづいて移民が日常生活においてどのような支障をきたしたり、そのカテゴリーを用いるか、労働法の規定によって国境をまたいだ労働者がいかに実践においてそれらの影響を受けるか、など)を具体的に考えていく必要があるだろう。

佐藤成基「国家の檻」

 これまた佐藤成基先生の論文だが、今回は「国家の檻ーーマイケル・マンの国家論に関する若干の考察」という論文を取り上げる。以下にPDFを貼っておく。http://www.t.hosei.ac.jp/~ssbasis/53-2sato.pdf

 マイケル・マンは正直日本ではあまり知られていないが、アメリカではかなりの著名な歴史社会学者らしい。私もまだマンの邦訳すら読んだことないので、ここではそのための予備的な整理をしておきたい。

 

 マンはウェーバーやギデンズの国家論を下敷きに独自の国家論を構築し、「社会的力social power」という概念をもとに近代以前から国家の発展史を描き出している(邦訳はいまだに半分しか出ていないらしい。2,3年前にやっと最後のパート3,4が原著で出ている)。

 本論稿では、まず整理のために、ウェーバーとギデンズの国家論が述べられている。ウェーバー社会学的な立場から初めて「国家」を研究の俎上に載せた人だが、彼が考えていたのは、官僚制によって支えられた上意下達式の「命令」にもとづいて統治された組織としての国家であった。「鉄の檻」という比喩からも分かるように、それは上から下へ、そして合理的・合法的な、没人格的で強固な統治体系であった。

 一方、ギデンズは『国民国家と暴力』の中で、ウェーバーの「国家は唯一合法的な暴力を独占する組織である」というテーゼを下敷きにしつつ、新たにフーコーが『監獄の誕生』の中で表した「監視」の概念を国家に応用して独自の国家論を構築している。近代的な国家は常に上から下への命令に基づいて運営されるだけではやっていけない。むしろ、組織の成員が自己規律的に行動してくれたほうがよい。そこで、国家は「命令」ではなく、「監視」(この場合の「監視」は言わずもがなフーコーの「パノプティコン」的な監視を指す)をもとに人々の行動をルーティン的に規律化する統治体系を築いていったのである。

 (余談だが、ギデンズのフーコー理解は正しいとは言えない。フーコーは「権力」の作用は上から下へと伝わっていくものではなく、個人間で網の目のように張り巡らされ、誰が支配者で、誰が服従者なのかもはや分からないようなより複雑なものだと捉えているからである。)

 いずれの国家論も、①国家の権力の一方向性、②国家の一体性、③国家の完結性という点では一致しているが、マンの国家観は全く異なる。以下、詳しく見ていこう。

 上の二人の国家論を仮に「専制的国家論」と名付けるのならば、マンの考える国家は「多形性的polymorphous国家」である。マンは、「社会的力」を「経済的力」、「イデオロギー的力」、「軍事的力」、「政治的力」の四つの力が絡み合うことによって発揮されると捉える。この中で国家は「政治的力」(権力)に対応する領域である。

 多形性という表現からも分かるように、マンは国家をウェーバーやギデンズのように一方向的な権力(支配)の押し付けによって成り立っているとは考えない。むしろ、国家は社会の諸アクターとの相互連関によって作動するものなのである。その点で、国家は暴力や脅しのような「むき出し」の権力ではなく、マンが言う「インフラストラクチャー的権力」を駆使することで社会に存在感を示している。この「インフラストラクチャー的権力」とは、国家の諸機能を担うエリート層と社会の諸アクターとの間の関係を調整する権力のことを指す。この権力が作用する場面としては、例えば、議会、裁判所、学校、保健所、、、などの政治家や市民、または市民の代表団体が一堂に会するような場が思い浮かばれるだろう。

 そのため、「インフラストラクチャー的権力」は、ウェーバーがいう権力とは違ってしばしば諸アクターからカウンター、反発をくらうこともある。しかし、その反発も含めて、国家と市民社会が相互に浸透し合うことで、国家は市民社会を組織化(国家帰属化=自然化naturalize)するのである。

 同時に、国家の社会的な機能の増大(「民政管掌範囲」の拡大)によって、「誰がその権力を統御するのか」という権力配分をめぐる闘争も政治家間だけでなく、市民社会(この中にはNPOや企業、労働組合などが含まれる)も巻き込んで激化していく。これによってシティズンシップの議論も拡大していく(民族に限らず、労働者、性的マイノリティなども)。しかし、これらの激化する社会紛争もまた、国家の「形」を変える要因にもなる。これが「多形性的国家」たる所以である。

 

 以上が本稿の中で取り上げられていたマンの国家論であるが、ウェーバーやギデンズのそれと比べてはるかに国家の変化を規定する要因が増えていることが分かる。この中で議論されていることは正直「確かに」と首肯せざる得ないものだと思うが、国家の規定要因が増えていき、「これら全部が国家の変化に影響を与えているんだよ」と言ってしまえば、かえってその正否を検証できないというデメリットも生じるはず。マンの議論をいかに経験的検証の中に落とし込むかが課題だろう。

 また、「多形性的な国家は、その内部に紛争を内包した権力闘争・利害闘争の場」であるという記述があったが、この「場」という言葉からは、ブルデューのそれを思い出した。もしかしたらブルデューの国家論とも接続可能なのではないだろうか(最近ブルデューの晩年の国家論が英訳で出たらしい)。ここらへんは要確認である。

佐藤成基「ナショナリズムの理論史」

 今回もナショナリズム論の整理のために記しておきたい。

 今回は佐藤成基著「ナショナリズムの理論史」という論文についてまとめる。これは大澤真幸氏が編集した有斐閣から出ている『ナショナリズム論・入門』という本に挿入されている短い論文である。

 

ナショナリズム論・入門 (有斐閣アルマ)

ナショナリズム論・入門 (有斐閣アルマ)

 

  ウェブサイトでも入手可能。以下、PDF。

(www.t.hosei.ac.jp/~ssbasis/nationalism_theories.pdf)

 

 冒頭は、いわゆるナショナリズムの古典(アンダーソンやゲルナー、スミスといった80年代以降に出版されるナショナリズム理論)を境にして、ナショナリズム理論がどういうふうに発展を遂げていったのかを記述している。これは前回のブログにも書いたので、ここでは省略。

 注目すべきは、終盤の理論の整理、とりわけ、いわゆる「近代主義」と「反近代主義(歴史主義)」以降のナショナリズム理論の動向である。この本自体は2009年に出版された本なので、最新の知見であるとは言えないかもしれないが、議論の足取りをつかむためには十分有効な整理だと思う。

 

 佐藤の整理によると、古典以降のナショナリズム研究には大きく分けて、「文化論的アプローチ」と「国家論的アプローチ」の二つがあるという。

 前者の「文化論的アプローチ」は、アンダーソンが提示した「想像の共同体」が具体的に当事者たちの中で「どのように想像されているのか」を解明しようとするもので、主に意味形成・意味解釈の過程を分析するものである。その点では明確に「構築主義」の立場を堅持し、ポスト構造主義の見地を取り入れ、当事者(ナショナリズムを掲げる人々)の「言説」(フーコーデリダ)やまた、理解社会学ウェーバー)などの業績を駆使して分析を行っている。

 つまり彼らは「ネーション」の意味を「語り」の産物ととらえ、それは当事者による様々な相互作用を通じてそのつど構築・再構築・再解釈されていくものだとしている。要は、分析するべきはその「解釈」の過程なのだ、ということである。

 また、言説には「生産」する側と「消費」する側が存在することを忘れてはならない。生産する側は、例えば政治家、作家、マスコミ、知識人などのナショナリズム的言説をメディアに乗せて広く市民に伝えることができる側である。その際、注目すべきは、文学的テキストや歴史書、議会における言論などである(例えば小熊英二による一連の研究を思い浮かべてもらえるとわかりやすいだろう)。反対に、消費する側は市井の一般市民などの、生産者が作り出したナショナリズム的言説を享受する側である。具体例としては、吉野耕作の『文化ナショナリズム社会学』で行われていた「日本人論」を享受するサラリーマンなどが想定できる。

 次に、「国家論的アプローチ」は、「想像の共同体」が「どのように動員されるのか」を、国家権力をめぐる政治闘争の中で分析しようとするものである。したがって、分析の視点は、より国家などの政治領域に寄ることになる。

 このアプローチでは、ネーションの概念やシンボルは、政治闘争の中で世論や住民の支持を糾合し、国家に対する要求や主張を正当化するための公共の理念として利用される。つまり、政治領域の議論の中で、世論や住民は「ネーション」の理念のもとに動員されていくことになる。

 例えば、「公共財」の配分をめぐる住民同士、または住民と国家、地方自治体などの政治的闘争などの分析を通してナショナリズムや民族的な対立などが激化したり、民主化期のポスト植民地国家においてポピュリスティックな政治家による呼びかけで人民が動員され、ナショナリズム感情が勃発したりする過程からその地域の「ネーション」概念を分析する研究などがある。

 ほかにも、以前のブログで挙げたブルーベイカーの研究のように、国籍法の制定・改正の際に議会内外で政治的論争が勃発し、「ネーションの自己理解」がどのように政治家や党派の中に用いられたかを検討する研究もある。

 「国家論的アプローチ」は、ネーション概念の内在的な意味や日常生活の中の人々のネーション理解を把握しきれないという欠点はあるものの、何らかの事件eventが起こったときに噴出する「ネーションの自己理解」を分析する際には参照されるべき研究である。

 

 佐藤も述べているように、上述の二つのアプローチは決して対立してるわけではないが、見事に分析の視点が異なっている(それはそのままミクロ-マクロ社会学の対立に対応しているようでもある)。そのため、両アプローチを折衷する理論的視座が必要になるのだが、佐藤はその手立てとして、ブルーベイカーとアンドレアス・ウィマーの二人を挙げている。ブルーベイカーは以前書いた通り、「文化論的アプローチ」を「下からのアプローチ」、「国家論的アプローチ」を「上からのアプローチ」として整理して両者を折衷しようと試みている。ウィマーに関しては、邦訳はなくこれから文献をあさらなければならないが、「文化の語用論」という概念を用いてイラクのクルド・ナショナリズムを研究したりしているそうだ(読まねば)。

 ブルーベイカーも「下からのアプローチ」をもとに研究を試みた著作の邦訳はなく、まだ確認できていないが、「認知的カテゴリー」という概念を用いてルーマニアハンガリーで実際に現地調査を行い、現地住民が実際に「民族」のカテゴリーをいかに理解し、用いているのかを検証している(これまた読まねば)。ブルーベイカーはもともとウェーバー研究で業績をスタートさせた研究者なので、こういった「理解」を分析する枠組みも持ち合わせているのだろう。

 この論文を読んで、今自分が何をすべきが少しはクリアになったと思う。①まずは、「国家論的アプローチ」、とくにブルーベイカーの視座を詰めていかなければならないだろう。で、個人的には「上からのアプローチ」による分析が必要だし、今の自分にはそれをやるので精いっぱいだとは思うが、②ブルーベイカーの「下からのアプローチ」、または手つかずであったウィマーの研究を参照するのがとりあえずのところ第二の課題だろうか。

 以上、思考の整理のために。

ロジャース・ブルーベイカー『フランスとドイツの国籍とネーション』

 もう一冊、ブルーベイカーの『フランスとドイツの国籍とネーションーー国籍形成の比較歴史社会学』について雑感をまとめる。

 

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

フランスとドイツの国籍とネーション (明石ライブラリー)

 

  本書は、アメリカの社会学者ロジャース・ブルーベイカーが初期の論文として発表したもので、ナショナリズム、シティズンシップ研究の中でもかなり有名な本ではあるが、日本では(B・アンダーソンやE・ゲルナーなんかと比べると)あまり注目されていない。しかし、個人的に、彼が独自の路線で構築しているナショナリズム理論はこれまでのナショナリズム研究に一石を投じる(硬直した議論枠組みを破る)ものであると思うので、今回一読してみた。詳しくは以前書いたブログのエントリの後半部分を参照(http://cnmthelimit.hatenablog.com/entry/2017/09/18/183245

 

 本書の問題意識ははっきりしている。すなわち、フランスとドイツという隣接する国家間で全く異なる国籍法が形成されているのはなぜなのか、その形成過程を両国を比較しながら解明しよう、というものである。

 しばしばいわれるように、フランスは「出生地主義」を、ドイツは「血統主義」をそれぞれ国籍法の特徴としているが、ブルーベイカーは、こうした国家間で全く異なる国籍法が採用される背景には、それぞれの国家の「ネーションの自己理解」が深く関係していると捉える。つまり、国籍は政治家などのアクターを通して国民のネーションの自己理解に規定されるため、翻って言えば、国籍の形成過程を見ることでその国家のネーション観を解明することができるというわけである。

 これはネーション、ナショナリズム研究において、それまで一貫した分析方法が定まっていなかった時期に、一つの明確な分析枠組みを提供したという意味で非常に有益な功績である(個人的には、ブルーベイカーはこのように独自の新説を作るというよりも、それまでの議論の交通整理をするのが非常にうまいと思う。いわば、理論のサポーター役である。そのため理論としては退屈なところもあるのだが、理論研究にとっては重宝される存在だと思う)。

 内容自体はさほど難しくなく、上述のように議論は一貫している。フランスにおいては出生地主義が国籍法において採用された背景と、ドイツのそれとを交互に通時的に記述していく、というオーソドックスな歴史社会学的分析である。

 個人的に興味深かったのは、フランスで出生地主義が採用された背景には、世界市民的な崇高なイデオロギーがあったからというよりも、国民皆兵の必要とフランス市民による移民二、三世に対するルサンチマンにもとづいていたという指摘。つまり、移民の子供たちが、国籍として「フランス人」から除外されることで、フランス国民がみな負わなければならない皆兵義務から免除されていることに対する不満から出生地主義が採用されたというわけである。これは世界市民的なイデオロギーというよりも、全く反対にナショナリスティックなイデオロギーにもとづいている。

 このように、またブルーベイカーが指摘するように、フランスがドイツと比べて崇高な理念を掲げていたというわけではない。むしろ、フランスの中にもルペンの国民戦線を代表とするような極右勢力は一貫して存在感を放っており、彼らのナショナリスティックな言説はずっと根底に存在していた。だが、フランスの場合は、自由、平等、友愛というスローガンが深く根付いており、それが国籍法の議論においても強く影響していたのである。

 

 議論の内容に関しては、それほど異論はない(監訳者解説にあるように、またこの本の後の世界に生きている我々にとっては、このようなフランスとドイツの単純な図式化はできないことは分かってはいるが)。

 むしろ、個人的に興味をそそられたのが、「文化イディオム」という概念である。これはアメリカの歴史社会学シーダ・スコッチポルが用いた概念でブルーベイカーが援用したものだが、いまいち本書の中だけの説明では把握できなかった。というのも、本書の中では、「文化イディオム」とは、「イデオロギー」と比べてより長期的で、より匿名性が高く、より党派的でない言説であると述べられているが、果たしてそれがイデオロギーとどういった点で具体的に違うのか、はっきりとは分からない。

 また、ここで言われている「言説」とは、フーコーのいうような「言説 discourse」とは異なるものなのだろうか、もし異なるとすればどういった点で異なるのか、が個人的には引っかかる。

 さらに、本文ではこの「文化イディオム」が「イデオロギー」とは異なると述べられているが、この「イデオロギー」とはマンハイムが言うところのそれなのか、もし違うのであれば、「文化イディオム」はマンハイムが言うところの知識社会学の要領で分析することは可能なのだろうか。

 個人的には、この「文化イディオム」という概念を用いて行われている本書の分析は、一般的に行われている知識社会学の分析手法と何ら変わらない気がするので、あえて両者を区別して用いる理由はどこにあるのだろうかと疑問である。