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映画『立候補』と東浩紀『一般意思2.0』

最近見た映画と本について書こう。

見た映画は『立候補』。以前、大学の先生に勧められて見た映画なのだが、ふと思い出してもう一度見たくなったので購入した。やはり傑作。マジおすすめ。

 

映画「立候補」 [DVD]

映画「立候補」 [DVD]

 

 
これはドキュメンタリー映画で選挙においてほとんど見向きもされない、いわゆる「泡沫候補」たちにスポットを当てている。主に2011年に行われた大阪府知事選が舞台である。選挙という、いわば椅子取りゲームの欺瞞を真正面から光を当てるのではなく、むしろ見捨てられてきた人々に光を当てることによって照射しようという試みである。そしてその試みは見事に成功している。

では簡単にあらすじを追っていこう。今作の主人公(というか主にスポットを当てている人物)はマック赤坂である。この人を知らない人はググれば一発で分かるのだが、まあなかなかの際物に映るだろう。経歴(京大農学部レアアースの貿易で財を成す、スマイル党総裁などなど)だけ見てもなかなか興味深い人物である。彼は各地の選挙に出ては負け、出ては負けを繰り返す泡沫候補の典型である。そして面白いのは彼の演説スタイル。よく街頭で目にする政策を必死に訴える政治家のイメージとはかけ離れ、ただひたすらにコミカルな音を発し、奇怪な舞を踊っているだけなのである(正確に言うと、政策を真面目に訴えることもあるのだろうが、劇中でもあるように「どうせ[演説を見に来た人は]これを見に来たんだろう」といいながら音楽をかけ出すのである)。これ以上の説明は省くが、これを見て理解できない人は彼の政見放送を見れば、一発で理解できると思う。このようにマック赤坂に負けず劣らずの際物たちが今作ではほかにも数多く登場する(羽柴秀吉外山恒一などなど)。そしてそういった普通の感覚からすると、「変人」という一言で片づけられてしまうような人々が今作では主人公なのだ。だからと言って彼らは決してアメコミ映画のように一発逆転を果たすわけではない。むしろ知事選でもマックは最下位で、いつものように大敗を喫す。

というのが主なあらすじだが、では今作によって監督が照射しようとした「欺瞞」とは何だろうか?
泡沫候補の一人、外山恒一は「選挙とは単なる椅子取りゲームであり、多数決で決めるのだから多数派が勝つに決まっている」という至極全うな主張をその政見放送の中でしている。これはよく考えれば当たり前のことである。より多くの票数を得た候補が当選する。そういったシステムの上で選挙は成り立っている。だが、このことを我々はしばしば忘れがちである。つまり、その勝負に負け、追いやられた存在(少数派)を忘れがちなのである。「少数派は選挙に負けた、だから諦めてください」というのが選挙というシステムの残酷さである。それ自体の良し悪しをこの場で議論したいわけではない。そうではなく、その残酷さに無自覚な人間があまりにも多いことが問題なのである。それこそが監督が今作で暴きたかった「欺瞞」であると考えられる。それは多数派の方から見ていては分かりにくい現実であり、少数派の視点から照射することで初めて意識化することができるのだ。
ではそういったシステムの中で少数派はただ毎回負けを喫することに我慢するだけでいいのか?否、それでは何も世界は変わらない。だからこそ、彼ら泡沫候補は真正面から戦うということを避け、いわば諧謔に徹することでこのシステムの馬鹿らしさを暴こうとしたのだ。マック赤坂の「ぶっ壊したいんだよ」というボヤキからも彼らが何も好き好んであんな変な役回りを買って出ているわけではなく、強い使命を抱いてアクションを起こしていることが分かるだろう(外山も政見放送からは想像できないほどしっかりとした物腰である)。少数派が追いやられている状況から、「選挙」というシステムの歪さが浮き彫りになっているのである。

これに対して、「何を当たり前のことを言ってやがる、少数派に意見なんか聞いてられるかよ」という反論があるだろう。しかし、最大の問題はこの多数派と少数派という図式はしばしばひっくり返ることである。それは最近のイギリスの国民投票で顕著に表れていた。従来の多数派はEUの普遍的な理念に共感し、残留を選んでいた。そして今回の国民投票もその体制を維持することだろうと楽観されていた。しかし実際は少数派と目されていた離脱派が残留派を上回り、多数派になった。そしてそこから生まれた国民内部のひずみが今、英国国内でどう尾を引いているかはもう説明の必要もないだろう。多数派と少数派の図式はすぐにひっくり返る。そしてそれはさらなる分断しかもたらさない。ならば、そういった問題が起きる前に少数派の意見に耳を傾けることは必要ではないだろうか?
さらにもう一つ、これは代議制民主主義の限界もあらわにしている。今作の舞台である2011年の大阪府知事選で勝利を収めた人物は維新の松井一郎氏である。そしてそのバックアップをしていたのが、橋本徹元市長である。彼らは多数派の支持を得て椅子取りゲームを制し、当選した。しかし、現状を見てみよう。森友学園の問題がまだ話題になっているが、彼らの政策に本当に満足している人間はどれぐらいいるだろう。むしろ、市民の声を無視している彼らに失望している人間のほうが多いのではないだろうか?代議制民主主義は多数派の声すら掬い上げることができなくなっているのではないか?
今の視点から見れば、今作で浮き彫りにされた問題提起の種は現在2017年をもって一斉に発芽しているようである。

 

 

上記のような問題点を変革しようとしている著作を偶然にも発見することができた。東浩紀著『一般意思2.0』である。

 

 
彼の著作は昔追っていたのだが、長いこと離れていた。しかし、最近彼の新著『ゲンロン0』が発売されたのでまた興味が湧いてきて、『一般意思2.0』にも手を伸ばすことができたのである(『ゲンロン0』についてはまた時間を置いてブログで扱いたい)。

この著作ではルソーの概念「一般意思」を彼の古典を読み直していくことで再解釈していこうという大胆な試みを行っている(これは体裁を大事にする学術論文ではむしろ忌避されるいわば「深読み」である。しかし、著者が言うように本著は一種の「エッセイ」であるためそういった読み替えが可能なのである。それは批評だからこそのアクロバティックさである)。なぜそんなことが必要なのか?東はルソーを見るときにそこに二つの人格を見るという。

「ルソーは、個人の社会的制約からの解放、孤独と自由の価値を訴えた思想家だった。しかし彼はまた同時に、個人と国家の絶対的融合、個人の全体への無条件の包含を主張した思想家でもあった。この二つの特徴は、常識的に考えるかぎりまったく両立しない。」(東 2015: 33)

ルソーは人間のことが大嫌いであり、引きこもりのオタクのような人間であった。それは彼が哲学者の顔を持ちながら、ロマンティックな文学者でもあった点に表れている。その点に今まで社会思想家は翻弄されてきた。この矛盾をどう解釈すればいいのかと。
ルソーは「一般意思」とは「一定数の人間がいて、そのあいだに社会契約が結ばれ共同体が生み出されてさえいれば、いかなるコミュニケーションがなくても、つまりは選挙も議会もなにもなくても、自然と数学的に存在してしまう」(東 2015 :63)ものだと考えた。それはあたかも自然物(モノ)であるかのように立ち現れるため、人間が重力(自然物)に抗うことがないように政府も一般意思に従わなくてはならないと主張したのだ。一般意思は言ってしまえば、「無意識」のようなものである。無意識を知覚することは難しい。しかも、無意識を頼りに政治を行うことは危険なことでもある(憎悪や一方的利害(無意識の突っ走り)によって人間がどれほどの間違いを犯してきたかは歴史を見れば明らかである)。ルソーの功績は一定の敬意を払われながらも完全に理解されることはなく、その後数々の哲学者(カント、ヘーゲルアーレントハーバーマス…)によって「理性による統治と熟議による理解」という点に収斂されていく。
しかし、今起こっているのはそういった理性や熟議の限界である。各地で多発するテロリストはまさにそういった理性による統治によって虐げられてきた人々であり、またヨーロッパで巻き起こるナショナリズムを掲げるのは熟議の舞台に乗ることすらできなかった人々である。だから東はこの袋小路を抜け出すためにもう一度ルソーに立ち返るべきだと述べているのである。そしてルソーが残した「夢」は現代では全く矛盾することなく、実現可能であると主張する。

ルソーは一般意思は市民の心に刻まれていると述べた。だからそれは知覚することができない。しかし、現代ではそれを知覚する方法がある。それがグーグルを代表とする情報技術である。東はこの情報技術によって知覚が可能になった一般意思を「一般意思2.0」と呼ぶ。情報技術の発達、例えばグーグルは巨大なデータベースをアルゴリズムによって秩序立てて整理することができる。多くの人間が入力した無数の情報(無意識)を蓄積し、そして析出することができる。東はここに目を付けたわけだ。
著作では例としてニコニコ動画を挙げている。ニコニコ動画は議論を交わしている人間が視聴者の入力したコメントを見ながら、議論を展開していく。また、視聴者も自分以外のコメントを見ながら、他にどういう考えがあるのかを知ることができるのだ(このシステムに東はラカンの「想像界」と「象徴界」のアップグレード版を想定している)。東はこれを政治の中に応用していってはどうだろうかと提案する。政治家は国会という閉じられたハコモノの中で議論するのではなく、モニターを設置し、データ処理システムを搭載することによって大衆に看守されながら、また彼らの声(無意識)を可視化しながら熟議を行う、という大胆な構想である。これは確かに絵空事、SFのように聞こえるかもしれない。しかし、理論的には何も間違ったことを言っていない。
これに対する反論として「大衆の意見を反映したらポピュリズム劇場型政治)に陥るのではないか」というものがあるだろう。しかし、東はこれにこう反論する。

「第一に、以上の提案は、普通の意味での「ポピュリズム」、つまり大衆の欲望の単なる肯定とは異なっている。なぜならば、そこで目的とされているのは、無意識の従属ではなく、むしろ無意識との対決だからである。(中略)第二に、もしかりに以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよいのではないか、というのが筆者の考えである。」(東 2015 :205)

無意識の「従属」は確かにポピュリズムに陥る。それは全体主義ファシズムを台頭させた歴史が裏付けしている。しかし、無意識を否定し、抑圧するとかえって後々リビドーとして吹き出し、取り返しのつかないことになりうる(これはフロイトの理論に基づいている)。ならば、残るべき方法はあらかじめ大衆の不合理な要求に曝され、真っ向から対峙することしかないのだ。また、現在を見れば分かるようにポピュリズムの台頭はもう目に見えて現実化している。そこで分断が生まれるぐらいなら最初から政策決定に組み入れることは多少なりとも有効であると考えられる。
また、東は何もこれまでの「熟議による政治」を否定しようとしているわけではない。むしろ、こういった「無意識の可視化」は熟議による権力者の横暴を阻止するために必要となるものであると主張する。無意識が熟議にとって代わられるのではなく、両者をうまく使いこなすことで「政治の危機」を乗り切ろうと言っているのだ。

「筆者が唱える無意識民主主義は、対照的に、市民ひとりひとりにはもはやなにも期待せず、ただ彼らの欲望をモノのように扱い、熟議または設計の抑制力として使うだけなのである。」(東 2015 :216)


長々と書いてきたが、『立候補』と『一般意思2.0』を接合してみよう。『立候補』は代議制民主主義の欠陥を問い直したドキュメンタリーだった。そこには多数決の論理で捨てられた少数派がいて、また選出された政治家が必ずしも市民の声に答えるとは限らない現状を描いていた。そんな現状に応答するかのように『一般意思2.0』は選挙以外の方法で少数派が声を上げることができる装置を提案している。そこでは、少数派の意見は直接採用されないまでも、政治家たちの横暴を止める抑止力になりうる。『立候補』の中で、マック赤坂が願い出たなけなしの政策提案を橋本や松井がまるでなかったかのように無視していた。現状では選挙に勝たなければ、まず声を発することすら許されないのである。さあ、どちらのほうが希望があるだろうか?

 


PS.
東は著書のラストに未来社会を予想し、その中で我々はどのように生きるのかを素描している。そのヒントとしてプラグマティズムの哲学者ローティの考えを参照しているのだが、中々面白かったのでちょっと書いておく。
ローティは哲学者からはあまり評判がよくないようである。なぜなら、彼は人間が信じる「これは正しい」という「イズム」はいずれも絶対的なものではなく、相対的でしかないと主張するからだ。つまり、そういったイデオロギーは個人として信仰するのは構わないが、それを公的な場に持ってきてはならないと主張しているのである。そのため、ローティは公的領域を、イデオロギーを対決させる場として捉えるのではなく、「いかなる正しさや美しさとも無関係な別種の原理のもとで運営されるような、価値中立的で脱理念的な」場として捉えるべきだと論じているのである(東 2015 :233)。
では、その公的原理を基礎づける新しい概念とは何か。ローティはそれを「想像力」だと主張する。「想像力」はルソーの「憐み」にも通じる、他の哲学者が人間を結びつけるにはあまりに不確かで動物的だと考える概念である。しかし、東はその動物的な概念こそが人間に残された連帯の可能性だと述べている。目の前に苦しんでいる人がいれば、その人に対して「あなたは我々と同じものを信じ欲しますか?」ではなく、単純に「苦しいのですね」と憐れむことによって連帯が生まれるというのである。少し感情的だろうか?しかし、理性による連帯がもはや不可能になったこの時代で説得力を持ちうる新たな連帯の原理はこれぐらいしかないように思われる。

憐みによる連帯の反論として「しかし憐みによって暴走してしまうことはあるのではないか」というものが想定できる。確かにそう見える例は多くある。例えば、最近シリアに空爆を命じたトランプはシリアの毒ガス兵器で苦しむ子供の動画を見て同情し、それを決断したという。しかし、これは「憐みによる暴走」ではなく、むしろしっかり想像力を働かせた(自らの立場を相対化させた)うえで憐れんでいないために起こる欺瞞である。ローティは絶対的なイデオロギーなどないと述べた。トランプの決断はいわば自らのイデオロギーを正当化するためにシリアの子供への憐みを利用したものでしかない。人間には複数の人生がある、自分がこうあるのは単なる偶然でしかない、という想像力を働かせ、相対化を経ていない憐みは決して連帯の原理になりえないのだ。

『アイアムアヒーロー』最終巻 ※ネタバレあり

久々のブログ更新。

年度初めでなかなかのデスマーチだったということもあるけど、その間いろいろ読んだ本、見た映画もあるのでそれについてもおいおい(ていうか時間さえあれば)書いていきたい。

 

今日は私が最近の漫画の中では、ずば抜けて最新刊を楽しみにしていた『アイアムアヒーロー』がついに完結したということもあってブログを書こうと思った。

 

 

新しいゾンビものということで世間的には人気があったらしいが、私自身、この作者の人となりにすごくシンパシーを感じてこの作品に触れていたという点もある(NHKの『漫勉』好きでした)。その点でラストの展開は一体どうなるのだろう(ゾンビものというのは得てしてラストの展開というものに制約があって難しいものである)と、読み進めていくうちに心配になっていた部分も実はあった。なぜなら、ラストの展開次第で作者が抱えていた闇だとかがこの作品に向き合う中でどう収着していったのかを知ることができると思ったからだ。この作品に向き合うことで作者と対話しているような感覚をマジで抱いていたのである。

結論から言うと、今作のラストは個人的には大変満足だった。というか、作者の主張はおそらく漫画を描き始めてからずっと一貫していたんだということを感じてむしろ感動すらした。以下、的外れかもしれないが、ラストの展開を考察してみる。

 

まず、作者の一貫した主張とは何なのか?それは「ヒーローなんていない」というニヒリズムである。これは今までの著作を見てみても分かる通りである。今作のタイトルにつられて「これは英雄のような醜い男でもヒーローになれることを描いているんだ」と短絡的に解釈してはならない。私はむしろそういった考えすらもあきらめて達観しているようにも見える。

しかし、そういったニヒリズムを描くために作者は今作にある皮肉な仕掛けをしている。それは作者がこうありたいと思うヒーロー像をあえて描き、それを主人公・英雄と対置しているのだ。それが中田コロリである。彼はステータス的(漫画家、ブサイク)には英雄と何ら変わらないのに登場した時から彼よりもヒエラルキーが上にあった。この男は最後まで英雄との比較のために重要な役割を果たしていた。

 

次に、今作で作者の中にあったもう一つのテーマは「日常の崩壊」である。それは作者自身が抱いてきた黒い感情とリンクしている。第一、英雄自身作者を模して造られたキャラクターであり、そういった意味でこの作品は作者の内面が多分ににじみ出ていたのだ。では、作者が壊したかった「日常」とはどんなものなのか?それは暗黙のルールにしたがってヒエラルキーが形成された世界である。その中では人間はステータス化され、それによってヒエラルキー化される。しかもそのステータスは個人の問題ではなく先天的なものであることが多い。そういう理不尽な原理に則った世界が作者が見ていた「日常」だったのだ。

おそらく花沢先生が今作を書き始めたきっかけとしてこの「日常の崩壊」があったと思う。とにかく日常を壊したかった。それが小さな始まりだったのだろう。そしてZQNというアイディアが生まれた。日常を壊すにはうってつけの手段がこのウイルスだったのである。そして日常を壊したが、次に生まれたのはこのカタルシスをどう収束させるのかという問いだったと思う。それは今作を「漫画」として成立させるために描かなくてはならないオチだからである。そして構想されたのが、ZQNたちが合体してできたあの謎の物体だったのである。

あの物体をいったい何なのであろうか?それを考えるためには作中でもたびたび引用された「2ちゃんねる」のような描写がヒントになる。先ほど私は作者が壊したかったものとしてヒエラルキー化した日常を挙げた。これはいわば階層によって分断された世界である。ならば、このディストピアを破壊し、新たにユートピアを築くならばどんな世界であるべきか?そう考えたときに浮かんだのが、あの2ちゃんのスレッド、いわばインターメットのチャットだったのだろう。インターネットは顔もない、ステータスもない、一人ひとりがフラットな個として成り立った社会である(と少なくとも今はとらえられている)。どんな人間でも自由に意見が言えるし、そこに優劣はない。それはある意味でユートピアといえるだろう。

だからこそZQNは突然合体を始めた。なぜなら、それが新たなユートピアを築く最良の策だったからだ。そこではみんなが一つの体、連帯している。思考の交差はあるものの争いはない。ゆえに彼ら(それら?)は連結した後にぴったりと動きを止めてしまったのである。なぜなら合体すること、それこそが目的であり、そのあとに地球を侵略しようとか、新しい生命を作ろうといったことを考えていなかったからだ。この時点で作者の「日常の崩壊」後の答えは出ていたのである。

そう考えると、最終話で不自然に挿入された「東日本大震災」と思われる数コマの描写の意味が理解できる。ここでは英雄しか存在しない東京で3.11地震が起こる。しかし、もちろん誰もいないし、もともと街も荒廃しているので何の被害もなく収束する。これは一見すると「また意味もなく震災ネタを入れやがって」と思われかねない描写だが、ここに作者なりの皮肉があると思った。実際の震災では多くの人が亡くなった。そして多くのものが破壊された。また、人間の黒い部分(風評被害原発問題など)が暴露された。しかし、作中ではすでにユートピアが築かれ、地震などでは壊れない強靭な「絆」が構築されていたため事なきを得た。ZQNの合体によって、地震を乗り越えることができたのだ。しかし、それを明確に言及することは避け、暗に描写している点に作者の皮肉と批評性を感じる。作者自身、このZQNの集合体を「ユートピア」として描いている一方、必ずしも「よいもの」として描いていないということだろう。

 

さて、論点が交錯してしまって申し訳ないが、最後に生き残った人間たちについて考察してみよう。最終的に生き残った人間たちは、英雄、そしてヘリに乗って東京を脱出したコロリ一派だった(ここで他の国にも生き残りがいるのでは?という反論も考えられるが、ここでは描写されたものだけに限定する)。なぜ彼らは生き残ることができたのだろう?その疑問に答えるためには作中で登場したセリフを考察しなければならない。作中でZQNに覚醒してしまったコロリの部下が言ったセリフ、「見られたいなら、生かそう。今生きてる人を…助けようよ」がなんとも示唆的だった。これはZQNに覚醒し、人間以上の力を手に入れた男が「強くなったところでもう誇れる相手もいない」といったセリフに対する返答である。ZQNウイルスによって人並み以上の力を手に入れ、ユートピアを築くことすらできた。しかし、それを誇示するためには自らよりも劣る存在が必要になる。そのために人間を生かそうというのである。そして彼らは生き残ることができたのである。ユートピアユートピアであることを誇示するための観客として。

それは地球上に残った「ヒーロー」というよりも、ユートピアに入り損ねた「罪人」のようですらある。そう、ここでやっと最初のテーゼに戻るのである。作者は今作で「ヒーロー」を描きたかったわけではないのである。しかし、ここで疑問が生じる。英雄が「罪人」という役目を担わされることに関して違和感はないが、英雄のアンチテーゼとして描かれたコロリはむしろ「ヒーロー」であり、コロリ一派が逃げおおせたあの島こそ本当のユートピアだといえるのではないか?この考えは一理ある。英雄は根っからのダメ人間で、それは最初から最後まで一貫していて、最後の最後まで変わらなかった。実際、最終局面で「ヒーロー」であるコロリを誤射している。この時点で彼を「ヒーロー」としてとらえることに限界がある。しかし、コロリたちは今作の中では唯一の「善人」である。すなわちコロリこそが世間一般のイメージとしてのヒーロー像なのだ。しかし、彼が生き残っていることで作者の「この世にヒーローはいない」というテーゼが崩れることになる。さてどうしたものか?

ここからは私の憶測であり、推論の域を出ていないため冗談半分で読んでほしいのだが、こう考えることでしかこの論理の抜け道がないのも確かである。すなわち、コロリ(一派)はあの地震の後、津波に飲み込まれ死んだのではないだろうか、ということである。それしか、作者のテーゼを完結し、「罪人」としての英雄だけを生存させる方法がないのだ。私自身、暴論なのは承知でこれを書いている。それを裏付ける証拠はないが(あるとすれば、彼らが島の沿岸部に住んでいるということぐらい)、英雄が「罪人」として生かされたということを示唆するセリフは作中に登場する。それは2ちゃんのスレのようなところに書かれた、「この男は生きている方が勝手に苦しむから生かしておいて…」というセリフである。これはヒロミちゃんのセリフとも、小田さんのセリフともとれるが、いずれにしろ、英雄は救われるために生かされたのではなく、やはり罪を背負うために生かされたのである。

 

さてここまで長々と書いてきて、最後も推論で終わってしまったが、結論をまとめると、作者は今作で「ヒーローなんていない」ということを描きたかった。そしてヒーローなきあとの世界のユートピアがインターネットを模したあのZQNの集合体だったのである。そしてそのユートピアから弾き出された英雄は一人であの世界を生きていかなければならないという罰を与えられた。

もちろん、何度も言うように、だからと言ってあのユートピアが善であるとは筆者は言及していない。むしろ、見たら分かるようにディストピアにも見える(自由にどこかに行く権利もない)。だからこそ、ラストの英雄の顔は苦しみながらも、清々しさ、凛々しさすら感じる。ただ作者を駆動させていたのはアンチヒロイズムであり、日常に潜む黒い感情を作品に投影することだった。英雄が作者の投影であるならば、ラストのあの表情を見て、私のこれまでのラストの展開に対する心配は払しょくされた。とにかく花沢先生自身、納得のラストだったのではないか、と。

『ボーイズオンザラン』から先生の仕事を見守ってきたが、『アイアムアヒーロー』という素晴らしい作品を生んでくれて本当にありがとうございました。先生の次回作を心よりお待ちしております。

 

備忘録 「ネーション」の定義について

ちょっと頭の中を整理するために書きます。

 

「ネーション」の定義について。ネーション nationって日本語で訳せば「国家」とかになるんだろうけどこれはちょっと違和感あって国家ともまた違う何かなんではないかと思ってた。

そんなときに「ああなるほど」って思える論理に出会った気がする。

 

ナショナリズムの生命力

ナショナリズムの生命力

 

 アントニー・D・スミス『ナショナリズムの生命力』。この冒頭で「ネーション」の定義について書かれていたので整理してみる。

彼の考えからすると「ネーション」っていうのは以下のように定義づけられる。

歴史上の領域、共通の神話と歴史的記憶、大衆的・公的な文化、全構成員に共通の経済、共通の法的権利・義務を共有する、特定の名前のある人間集団(Smith 1991: 40)

これだけ見ると何を言っているかわからないなとなるが、 簡単に言えば「ネーション」というのは近代化の過程で生成された概念であるということである。

前近代において人々を連帯させていた枠組みというのは主に宗教的共同体であった。前近代に生きていた人たちは自分たちが「何人なのか」「どこで生まれたのか」というようなことを気にするよりは「○○教を信仰しているか」ということであらゆる人々と連帯して共同体を作っていたのである。しかし、そういった共同体の中では理念として平等をうたっているものもそうでないものも、ほとんど先天的にヒエラルキーのようなものが構成されており、実体としてはかなり不公平なものでしかなかった。そんな中、近代化の過程でいろんな方法(それがエスニシティ(民族的出自)、神話や記憶、文化(宗教的分派も含む)etc)で分派する集団が生まれていったのだ。

そしてこれらの分派の発生(ナショナリズムの勃興)を様々な論者はエスニシティ、神話と記憶、文化、経済的階級、法と義務など多くの方法で説明しようとしてきたがそれぞれの論のどれが正しいということではなく、スミスはそれらを折衷して、すべての次元において考察されるべきであると提案しているのである。

 

またスミスは「ネーション」を「国家」とは明確に区別することも述べている。

国家の場合、もっぱら公的な諸制度に関連しており、それらは他の社会的な諸制度とは区別され、それ自体自律的であり、所与の領域内部では強制と搾取の独占権を行使しているものである。他方、ネイションとは文化的・政治的な紐帯を意味し、それが歴史的文化と故国を共有するものすべてを、単一の共同体のなかで結びつける(同 : 40)。

これはつまり、「国家」とは制度・法などでその人を自国の人間であるかどうかを決定するシステムのことであるのに対し、「ネーション」とはそういった法的な制度を飛び越えて波及しうる非常に曖昧で可変的なつながりのシステムのことを意味するのだ。これはこの前ニュースで見た在日タイ人の強制送還に関するニュースを想起してもらえればわかりやすい。

www.huffingtonpost.jp

彼は「国家」の法に基づき、「日本人ではない」という烙印を押され国家の外部にはねだされるのだが(これがあってはならないことなのは自明)、日本で生まれ日本語も流暢に話す彼は文化的には完全に「日本人」であるという見方からすれば「ネーション」(これが日本という国家と版図が被るのかどうかはわからない)の中に内包されるべきであるという論理になるのである。「国家」と「ネーション」どちらの見方をするかで完全に意見が割れてしまうのでこの両者の見方は明確に区別されるべきである。

 

回顧主義的ロマンチストと現実主義的ニヒリストの葛藤 『ラ・ラ・ランド』※ネタバレあり

『ラ・ラ・ランド』見ました。簡単に雑感をつづります。

映画『ラ・ラ・ランド』公式サイト

 

 

二年前(だったけ?)『セッション』で一躍映画界の新星として登場したデミアン・チャゼル監督の最新作。今年度アカデミーでも最多ノミネートで話題になっていたのでかなり期待してました。

結論から言うと個人的に好みの作風ではなかったし、どちらかというと前作『セッション』のほうが好きだけれど今作を見て、なんだか監督がやろうとしてること、最近のアカデミーが求めている傾向みたいなものが分かった気がする。

 

今作は簡単に言うと「夢」に関する映画。これだけいうとフロイト的な精神分析論や崇高なSFのように思うかもしれないがそんな堅いものではない。要は「夢」っていう言葉には眠りについて頭の中で見るものと「将来の夢」みたいなニュアンスのものとの二つの意味が含まれている(これは日本語にも英語にも両方ある含意である。不思議。)。今作はその二つの意味を踏まえると非常に面白くなる。

今作の主人公の二人はどちらも理想を求めて、夢見ている。例えばエマ・ストーン演じるヒロインは叔母の影響で子供のころから女優になることを夢見ているし、ライアン・ゴズリング演じるセブは本物のジャズ・ピアニストになることを夢見てくすぶっている。ある意味では「理想ばかり追い求めて現実を見ていないロマンチスト」と言われて馬鹿にされそうな感じである。しかし、いろんな経緯もありつつ最終的には結果オーライで彼らはどちらも望みの方向に進むことができる。

ここだけ聞くと「昔のアメリカ映画によくあるパターンのご都合ストーリーね」って思うだろう。確かに昔の(大体40,50年代ごろの)アメリカ映画、とくにミュージカル映画というのは底抜けに明るくて、見ていて「それはないだろ(笑)」となるようなもの少なくない(『ウェストサイド・ストーリー』や『雨に唄えば』なんかを思い出してもらえるとよい)。

だからこそ監督は今作でミュージカルという手法を採用したのではないかと思う。見たことがある人ならわかるだろうが、ミュージカル映画というのは普通の会話の途中からいきなり歌いだしたり、踊りだしたりなかなか現実離れした演出を使う(それはミュージカルというのが「映画」というよりは「劇」に近いからだが)。それは一種、劇という「ハコモノ」(つまりは夢)の中のストーリーであり現実にのっとった演出などは必要ない、むしろ現実がこんなにも残酷なんだから劇中だけでも幸せなものを見たいという昔のミュージカルの雰囲気があるからなのだろう(もちろんそれに反対してシリアスなミュージカルものちに出るが)。

今作は「そんな時代の空気を取り戻せ!」と言わんばかりに黄金時代のハリウッド・ミュージカル映画の手法をオマージュしている(ちょっと時代錯誤じゃないかと思うほど)。物語の舞台がハリウッドということもあるのだろう、昔の舞台のセットや原色カラーの衣装、二人の空へ浮遊するシーンなどまるで夢を見ているように楽しい気持ちになる。しかし、それこそが本来のミュージカルの楽しみ方であり、その楽しさに回帰してみようと監督自身が意図して作っているように思うのだ。

本作の主人公であるセブはジャズピアニストであり、彼は王道の方法でジャズのすばらしさを世間に普及しようと考えている。これはおそらく監督自身の考えにリンクしている。前作の『セッション』の時に明かしていたように、監督は自身もドラム経験者でありジャズに造詣が深いそうだ。セブはかつての友人に「ジャズは死のうとしている」と語る。そして王道ジャズで勝負するという夢をあきらめた友人に反対してやはりジャズの道を突き進もうとする。これはまさに監督自身のジャズおよび映画への態度を表している。ごちゃごちゃこねくり回したり、新しいものをミックスしたり、現実的でジャーナリスティックな意味を映画(前回のアカデミー作品賞は『スポットライト』)に付与するよりも温故知新で昔に原点回帰しようとする考え方だ。

映画を見た後の感想を見ていたら、「なんだが、主人公二人だけしかスポット当たってなくて残念」みたいなものもあったけどそれは当然。これは二人だけのサクセスストーリー、いわば二人の夢であり、ほかの第三者の視点なんかはそんな夢を妨害するものでしかないのである。夢を追いかけている人は得てして周りが見えなくて夢見心地な考えをしている人が多いが今作はそんな二人の頭の中を覗き込んでいるような感覚だった。題名の『LA・LA・LAND』ってのいうのも、いわば「国、世界」、二人だけの理想郷を作ろうっていう意味も含意しているように思える。

だからこそあのラストは何だが肩透かしを食らったというか、やはり監督のニヒリズムが抑え込めていないような印象を受けた。まあこの監督自体、前作を見る限りラストにあいまいで観客に考えさせる終わり方を持っていくことが好きな作風だが、今回も「俺が何をやりたかったか分かるかい?」的な終わり方にしてる感じ。だがとりあえず私の個人的な印象としては回顧主義的なロマンチズム(ジャズや王道ミュージカルへの回帰、ハッピーエンド)と現実主義的なニヒリズム(すべて夢みたいにうまくいくとは限らない苦々しいラスト)の間で監督自身葛藤してるんじゃないかというふうに感じた。

 

とまあ、ミュージカル映画のこの「底抜けの明るさ」「ハッピーエンド」を逆手に取った作品というのはほかにもあって、中でも『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかはそれ系の中では断トツ傑作なんだがそれに比べたら今作は見劣りする感じ。個人的にはアカデミー作品賞取るまではないだろうと思っているのだが、すでに下馬評は『ラ・ラ・ランド』に軍配が上がっているようだ。さてどうなることやら。

 

Ost: La La Land

Ost: La La Land

 

あと、内容の話はさておき劇中で使われていたサウンドトラックはどれも素晴らしい。しかも前作『セッション』でも感じたが、この監督の「音楽の良さを映像で表現する」カメラワークはかなり秀逸。縦横無尽、アップ、上下、様々な角度を駆使したカメラワークで映像表現の幅を広げようとしている感じがして、さすが音楽をやってきた監督だなと感心した。

小熊英二『単一民族神話の起源』

今更ながら小熊英二著『単一民族神話の起源』を読む。

 

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

 

 小熊さんの著作は今まで何冊か読んだことがあったし、新聞連載などのライトな批評は拝見したことがあった。けれどちゃんとした学術論文というものはこの著作が初めて。(だって量がやばいんですもの…)

 

実際読み始めてまだ4分の1程度しか進んでいないが、早くも「これは大学の一年生の時に読んでおけばよかった」と後悔しているほどである。

特に歴史社会学を学ぶ生徒なんかは今著の序章だけでも読んだほうが良いと思う。そこで小熊はM・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を例に挙げ、歴史学社会学の違いについて言及している。

 

歴史学は、対象の限定を重視する。それに対しウェーバーのこの本では、時代と場所が限定されていない。(小熊 1995: 9)

 

つまり歴史学においては人や場所などを一つ限定して分析の対象とするのに対し、『プロ倫』(社会学)においてはカルヴァン(16世紀スイス)、ベンジャミン・フランクリン(18世紀アメリカ)、問題の出発点は19世紀末ドイツ東部の労働者の意識、比較対象はインドなど分析の対象が飛び飛びで狭い範囲にこだわらないというわけである。これがもし歴史学者が書いたものだとしたら、「ベンジャミン・フランクリンにおける経済倫理の思想史的研究」なんかになるのではないかとも述べている。

さらに小熊はこう続ける。

 

マクロ的な視点とミクロ的な視点というものは、社会科学のどの分野でも対立的に、あるいは補完的に内包されている。前者はラフスケッチであり、後者は細密画である。反論を覚悟してあえていえば、概して社会学は巨視的、歴史学は微視的に向かう傾向があるようだ。(小熊 1995: 10)

 

「反論を覚悟してあえて言うならば」という枕詞の通り、これには歴史学者社会学者双方に言いたいことがある人がいるだろうが私は彼の見方におおむね同意する。

つまりどういうことかというと、歴史学は「ある時代のある人物(あるいは現象)にスポットを当て深く掘り下げていく。上に述べたベンジャミン・フランクリンの例やほかにも「レーニンの帝国主義批判に見る社会主義観念」(いい例が思いつかない)なんかもあり得るかもしれない。それは歴史学が事実の解明を何よりも重視するからである。日本を例にとれば、戦前戦後において皇国史観を基盤とする日本礼賛などを実証研究で否定していったことが挙げられる。

対して社会学は一つの事例だけに収まらず、様々な事例を場所や時間的な境界も横断し分析していく。なぜなら社会学が目指すのはそれぞれの事例の背後にある論理や構造を解き明かすことだからである。

ただ注意しなければならないのはどちらの方法が正しいということではないということである。というよりもむしろ両者の長所を取り込み、補完的に援用していくことが不可欠であると述べられている。

私は大学で社会学を専攻しているが、卒論研究発表会などを見ると、このどちらかに傾きすぎているという論文が多いように思う(特に歴史社会学的分野において)。つまり社会学の諸理論を使ってそれに見合うだけの事象を抽出して理論武装したトンデモ論文(歴史学的検証の不足)や歴史の羅列だけに終わりそこから社会の何が見えるのかわからない論文(社会学的検証の不足)などである。

個人的には簡単な疑問・問題設定(それが正しいか間違っているかはどうでもいい)から出発し、歴史文献など一次資料などをとことん洗い出していき(量的・質的調査を含む)、最後に理論を用いてそれらの事象の検討から社会の何が分かるのか、および最初の問題設定がどうなのかを分析するというのが社会学(というか歴史社会学?)の一番のオーソドックスな手法だと思う。

 

ここまでの歴史学社会学の違いに関しては本著序章の数ページに言及されているだけだが、非常に根本的なものが詰まっていると思う。できれば歴史学社会学を学ぶ学生ができるだけ早い時期に読んだほうがいいと思う。(以上。自戒を込めて)

橋口亮輔『恋人たち』 苦さ9割、甘さ1割

かなり久しぶりにTSUTAYAでレンタル映画鑑賞。

 

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橋口亮輔監督作品『恋人たち』(2015)。二年前の作品だけど当時から劇場公開を逃して、ずっと見たくて仕方なかった作品。

橋口監督は『ぐるりのこと。』が初鑑賞作品だったんだが、その時心をわしづかみにされずっと追いかけていた。彼の描く人間像がどうしても自分及び自分の周りのだめな人間たちを連想させ、これが映画であることを忘れさせるほど作品に没頭していた記憶がある。リアリズムを追及し、ドキュメンタリータッチの作風は少し是枝監督なんかにも似てるかもしれない。

 

今回の『恋人たち』もそんな橋口節は健在で、どこまでも残酷な現実を淡々と描いていく。ストーリーの9割ぐらいは胸がふさがる思いで見ているのだが、やはりこれは監督のうまいところで、1割ほどユーモアを混ぜることでそれがオアシスのように心を穏やかにしてくれる。

劇中でも言及されているように日本は来たる2020年東京オリンピックに向けて現在着々と準備を進めている。監督はおそらくそうやってみなが上を向いて未来に向かっていく時代の片隅で蟠りを抱えたままくすぶっている人間がいる現状にスポットを当てたかったのだろう。

妻を突如通り魔事件で亡くし自暴自棄になっている夫、家庭の不透明な閉塞感から抜け出したいと願う主婦、ゲイであることを告げたことにより友人とギクシャクする弁護士。彼らはそれぞれ大なり小なり悩みや憂鬱さをかかえている。それは誰しも同じことだ。ただ彼らに足りないものはその苦悩を聞いてくれる人間(恋人たち)が周りにいることに気づかないことなのかもしれない。

特に妻を殺されたアツシは犯人を殺すこと、またはせめて慰謝料を支払ってもらうことを生きがいとしている。生活は全く豊かとは言えない。死んだように生き、町中の幸せなカップルを見てその幸せさに嫉妬し、自殺しようとしても恐れから死ぬことすらできず、妻の墓前に懺悔する。

しかし、彼の周りの人間はたびたび彼のSOS信号を受け取り、助け舟を出してくれている。ただ悲しいかな、人間は追いつめられると一人になろうとしてしまうものでそれにすら気づかないのである。

 

橋口作品の中では一番見てて辛いものがあるが、こういう現実があることを再確認すべきだなと思う。幸せな時はそのことを忘れるし、作中の登場人物たちのような状況に陥った時にこの作品を見たらたぶん救われた気持ちになると思う。

ブログ開設の儀

 ブログ開設いたしました。著しく言語運用能力が低下しているような気がしたので取り上げず頭の体操という意味も込めて。本や映画の感想や旅行に行ったときの写真なんかを上げられたらいいなと思います。よろしくお願いします。

 ではでは。